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畏日の籠鳥

走り出してから数時間も経たず、車は木立の間の幅の狭い道に差し掛かる。

帝都に降っていた雨はこの場所でも途切れず降り続いている事も含め、東暁(とうきょう)からそう離れた場所ではないだろう。


車内の男達は誰一人として口をきく者もなく、車は静かに夜の底をひた走る。


道の果てには、瓦屋根を載せた重厚な門が巨大な鬼の口の如く開かれており、車は飲み込まれる様にしてその門を潜る。

果たして、自分は生きて再びこの門を抜けられるのだろうか―――


不吉な想像に、美夜自身ぞくりと体が震えた。


「着いたぞ。降ろせ」


刑場へと引き出される罪人の様に車から降ろされると、雨の香りに混じって、何やら独特な(しょ)っぱい匂いが鼻を突く。

泣くのを我慢する時の、鼻の奥を満たす涙の香りにも似ている。


(海が近いのかしら?)


美夜は自分の目で海を見た事は無いけれど、怜子が前に、海辺の駅で汽車を降りると潮の香りがするのだと教えてくれたのを思い出した。


目の前には、御殿と呼んでも差し支えないであろう立派な屋敷が堂々と(そび)えている。

だが、それも今の美夜の目には、現世(うつしよ)を遠く離れた幽世(かくりよ)に建つ魔の棲む(やかた)とも映る。


男達は美夜を連れ、灯火の気配も無い玄関を抜けて、長い板張りの廊下を幾つも曲がる。


彼らからは、絶対に間違いの許されない儀式を執り行う最中の様に、一種異様な程張り詰めた緊張が伝わってくる。

彼らの口にした()()()()が、この先に待ち受けているのだろうか。


鬼と出るか蛇と出るか、それは美夜にも伺い知る事はできない。


美夜は、自分が人身御供(ひとみごくう)の生贄にでもなった気がした。


そして、辿り着いた先は、四方を金箔押しの襖で仕切られた座敷だった。

どうやら、この奥に広がるさらに大きな空間の次の間であるらしい。


美夜をい草の香る畳の上に座らせると、男達は敷居の間際に手を突いて並ぶ。


「御命令通り、娘を連れて参りました」


一番年嵩(としかさ)の男がそう言って頭を低くし、他の男達も息の合った動きでひれ伏す。


「ああ、ご苦労であったな」


襖の奥から響く声―――低く成熟してはいるものの、若々しい張りのある婦人の声を、美夜はどこかで聞いた事がある。

まさか、この声は。


「恐れながら、襖を開けさせていただきます」


男の中から二人が膝立ちで前に出て、襖は両側から舞台の幕が上がる如く、徐々に開かれる。


事の成り行きを固唾を飲んで見守っていた美夜だが、その人物の姿を認め得た時、美夜の喉を恐怖の叫びが突き上げた。

しかし、口の猿轡によって悲鳴は声無き戦慄となり、美夜の全身を総毛立たせる。


「よく来てくれたな、美夜」


燭台の絵蝋燭の炎の揺らめきに、畏日の君―――野々宮焔侯爵の姿は一際勇ましく、一際禍々しく照らし出された。


「お前達はもう良い。下がれ」


自分の足元の男達にそう命ずる焔の声は、支配者たる日輪としての威圧を持って場を震わせる。

男達は平身低頭とした姿勢のまま続々と退出し、座敷には美夜と焔のみが残される。


「手荒な真似をして悪かったな。今、外してやるからな」


そうして焔の手で猿轡と手枷を取り去られても、美夜は悄然(しょうぜん)としたまま、立ち上がる気も起きない。


「どうした?」


焔は悪びれる様子も無く、美夜の方へ手を伸ばして触れようとする。

だが、美夜は咄嗟にその手を避け、焔の気迫に飲み込まれないように彼女を見上げる。


歯の根が合わなくなりそうになるのを必死に堪えて、美夜は言葉を絞り出した。


「全部、侯爵様のご指示なんですか?何故こんな事を?何故わたしなんです?」


それまで押し止められていた分、一度動き出した舌は止まらず、疑問が次々と口をついて出る。


「何故、か。愚問だな」


焔の瞳の奥に、いつかのパーティーで見た炎が再び燃え上がる。

夜の闇の中で、その炎は地獄の窯の底を覗いた如く、ぞっとする程に爛々(らんらん)と熱を湛えていた。


強過ぎる光は闇すら生むのだと、美夜は初めて知った。


「それはな。お前こそが、私の対の月影だからだ」


「対の、月影?」


予想だにしない語句に虚を突かれて、美夜はその言葉をただ繰り返す他なかった。


「私は今まで、ずっと探し続けてきたのだ。この世界に存在するという、私だけの運命の月影を。その為に色街にまで出入りする羽目になって、体裁を気にする父がどこからか月影を買って私に与えようとした事もあるらしいがな」


呆気に取られた美夜はまるで対岸の火事でも見る様に、恍惚として語る焔を黙って眺めていた。


「伯爵家のパーティーでひと目見て、お前こそが私の運命たる月影だとすぐに分かった。その時の私の驚愕と歓喜と言ったら……!」


体の奥底から湧き起こる愉悦に支配された焔は、その勢いのまま美夜の両手首を折らんばかりの腕っ節でがっちりと捉える。


ひっと小さく悲鳴を上げて振りほどこうとしても、手は固まった様にびくとも動かせない。

日輪とはいえ、これが本当に女人の力だろうか。


「わ、わたしには分かりません。急にそんな事を仰られても」


やっとの思いで、美夜はそれだけを言い得た。


「侯爵様には、わたしでなくても相応しい月影が幾らでもいらっしゃるでしょう。お願いですから、どうかわたしを伯爵家に帰してください。伯爵様に頼まれたお使いの品も、皆落としてきてしまいましたけど……」


「伯爵だって?」


焔は体をくの字に曲げると、笑い過ぎて苦しさのあまり死にはしないかと思うほどに呵呵大笑(かかたいしょう)する。


「いやいや、笑って悪かった。ただ、お前があまりに哀れでな。自分を(たばか)った相手に頼まれた物事を、まだ気に掛けていられるのかと。それも奴の策略の内だというのに」


「謀ったって、どういう事です?策略って……」


まあ、待てと焔は軍服の懐からごそごそと何やら折り畳まれた半紙を取り出す。


「読めるか?」


手燭の灯火の元にその紙が開かれると、どうやら焔のものらしい、太く濃い毛筆の字が紙を埋め尽くす様に踊っている。


しかし、どことなく癖のある筆遣いであると共に、難解な漢語混じりの候文(そうろうぶん)で、文字を追う美夜の目を疲れさせた。


「掻い(つま)んで説明するとだな。伯爵はお前の事を私に差し出す代わりに、私は妹の珠緒、あの子を伯爵の娘の嫁にやる契約を結ぶと。そう書いてある」


日付は大宵××年漆月(しちがつ)××日と、今日のものだ。


止め、跳ね、払いに寸分の迷いも見られない、清小路尊子伯爵という文章の末尾の署名と、その下に押された血判の赤さが生々しく目に飛び込む。


侯爵との話し合いとは、伯爵のあの指の傷は―――


全てがカチリと音を立てて、頭の中で繋がった。


「伯爵の奴、最初はこちらに何か裏があるのかとあまり乗り気ではなかったな。だが、持参金も付けてやると言ったら、御丁寧に自分で指まで切る始末だ。あの女、余程お前を厄介払いしたかったと見ゆる」


我が神、我が神、何ぞ我を見捨て(たも)うや―――


本当の絶望というのは、人から憤怒や悲嘆といった一切の感情を奪い去ってしまうのだろう。

処刑を待つ者の如く、(こうべ)を垂れて閉口する美夜を、焔は涙を流しているのだと解釈したらしい。


()い奴め。だが、そんなに悲観するな。伯爵家の使用人など目でも無い、将軍の御台所(みだいどころ)にさえ劣らぬ暮らしを私が送らせてやろう」


よくもいけしゃあしゃあとそんな事を、と焔に向かって激高する気力も湧かなかった。


「怜子さまは、知っていらっしゃるのでしょうか」


今際(いまわ)の際の息の様にか細く吐き出されたにも関わらず、その名前は焔の目の色を明らかに変えさせる力を持っていた。

狼狽した怒りに突き動かされて立ち上がると、焔はその手で美夜の首輪を掴み、ギリギリと引き上げていく。


「おい、人を舐めるのも大概にしろよ。私の前であいつの名を口にしやがって……!」


首に食い込む革の感触に美夜がえずいて咳き込むと、焔はようやく手を離し、美夜の体はどさりと畳の上へ投げ出された。


「言っておくが、私は清小路怜子がこの世で一番嫌いだ。あのお上品ぶった顔を見るだけで反吐(へど)が出る。私の傍にいる限り、あいつの名を口にする事は断じて(まか)りならんぞ。分かったか」


口の中に溢れる唾液と共に吐き気を飲み込み、美夜が呼吸を整えながら頷くと、焔はどこか嗜虐心(しぎゃくしん)を帯びた満足げな笑みを浮かべる。


「あいつは何も知るまいよ。伯爵だってわざわざ言いはしまい。うちの珠緒だって何も知らずに、あいつの妻になれるのを喜んでいたのだから。全くお目出度いな」


一しきり冷笑した後で焔は美夜の上体を起こさせ、その腕に絡め()る如く抱き締める。


「あまり私を怒らせるな。これから先、幾久しい仲になるのだから」


なまめかしい余韻を持って焔から薫るのは、軍服の上着に焚きしめられた伽羅であろうか―――さても妖しき幻惑の馨香(けいこう)である。


たった一対の腕は、巨大な蜘蛛の八本の足の如く美夜を縛り付け、逃れる事を許さない。


美夜は、鋼鉄の籠の中に押し込められた鳥の如く、自分の命は生かすも殺すもこの畏日の思いのままであると悟った。




車軸を流す様な雨は、岩も砕けよという勢いで窓ガラスを叩く。

清小路怜子は窓際に据えられた机の前で頬杖を突きつつ、その雨粒の流跡一つ一つを眺めていた。


毎夜の如く、一度はバルコニーへとその足を運んだものの、降り始めた雨にやむなく引き返してきたのだった。


露台で小夜風に髪を揺らす間も、こうして自室でやるせない感傷に浸っている時も―――待てど暮らせど、美夜の姿は現れない。

(おとな)う筈無き人に胸を焦がす、待宵(まつよい)のさても切なさよ。


美夜の姿が見られない宵は、月の無い夜空を眺めるようにどうしようもなく寂しくて、寂しくて。

こんなに美夜が恋しくてならなくなったのは、一体いつからだろう。


怜子自身、はっきりとこの時だとは言えない。

でも―――その想いを自覚すると、明けても暮れてもあの子の事しか考えられなくなってしまう。


日輪としての(さが)のみがそうさせるとは、怜子にはとても思えないのだ。




母に言われるがまま、侯爵令妹に庭を案内する間も、野々宮家の女中と残った美夜はどうしているだろうと、そればかりが気に掛かってしまった。


「本当に素晴らしいお庭ですこと。どこを見ても、飽きる事がありませんわ」


綾錦(あやにしき)の袂を咲き誇る花々に触れさせながら、雲の切れ目から降り注ぐ日差しをその見事な黒髪に浴びて、そぞろ歩く珠緒の姿。


(まるで、欠ける事を知らない天満月(あまみつつき)のよう)


されど、怜子が惹かれるのは煌々と夜空の(きさき)として輝ける天満月よりも、穏やかにも確かに光る淡月であるものを―――


「怜様、あちらにはどんな花が咲いていますの?」


そうして更に庭園の奥へと踏み出そうとした侯爵令妹の紅緒の草履の足元が、玉響(たまゆら)にぐらついて、その体は花々の(しとね)に投げ出されようとした。


「危ない!」


咄嗟に怜子の伸ばした手を、珠緒は確かに掴み、何とか彼女は倒れずに済んだ。


そうして自らの指に重ねられた珠緒の手を、怜子はしげしげと眺めて、よく見慣れた美夜のそれと比べないではいられなかった。

まだそこかしこが少女らしい丸みを帯びて、もっちりと心地よい美夜の手とは異なり、珠緒の手は陶器の人形の様に全体がすべすべとしていて、しっとりと怜子の肌に吸い付いてくるような瑞々しさがある。


けれど、美夜の手を握る時、怜子の胸の奥に一本ぴんと張られた魂の緒に確かに触れるようなあの感覚は、紅玉(ルビー)の指輪眩きその手からは欠片も得られない。


「まあ、怜様。そんなにご覧になって……あたくしの爪、汚れておりますこと?」


嬌羞(きょうしゅう)を帯びた声音でそう問いつつも、桜貝を螺鈿(らでん)した如きその爪に塵一つ付いていない事を、珠緒は知り抜いているだろう。


「私ったら、結婚前のお嬢様に対してとんだ御無礼を。お気に(さわ)って?」


慌てて手を離した怜子だったが、実のところは他の人間、特に美夜がこんな場面を見てやしないかとの不安に駆られての事だった。


「いいえ。あたくし、怜様がなさる事なら少しも(いや)だとは思いませんことよ」


いつしか雲の切れ目は再び塞がれて、鈍色のうら寂しさがそこらの葉に陰となって宿る。


「今夜の月は、どうなるのかしら」


身勝手な気まずさを振り払いたくて、怜子は自分でもあまりに出し抜けだと思う事を口にしていた。


「あら、それは太陽によりけりだと思いますわ。太陽が無ければ、月も輝けませんもの」


玉の(かんばせ)を紅真珠のように打ち赤め、怜子を見上げた珠緒の目は、物言いたげに潤んで、名伏しがたい婉然(えんぜん)さに満ちていた。


「日輪あってこその月影ですわ。そしてあたくしは、怜様のような方こそ、あたくしを更に輝かせてくださるだろうと信じておりますの。もう(せん)から、ずっと……」


口に()めば蜜の霧の如く甘露であろう吐息を纏ったその言葉、見果てぬ夢に酔いしれるかのような瞳―――


感じられる全てを持ってして、この令嬢は心底自分を想っているのだと、そう怜子は思い()いて差し支えなかっただろう。

しかし怜子は、想わぬ人から想われる事に対する戸惑いを覚えるよりも先に、人の世の因果の不思議さをしみじみとあわれに感じずにはいられなかった。


(この子の姉にとって、私は不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であるのに)


野々宮侯爵家の嫡嗣(ちゃくし)である焔とは、華族學院の初等科から同級であった。


言葉を交わす事もまれだったけれど、廊下ですれ違う時など、何気なく目が合う時―――きりりと引き締まった双の眉の下から怜子に投げつけられる、燃えるが如き厭悪(えんお)の眼差し。

それはどんな恨み言よりも雄弁に、彼女の怜子に対する臓腑(ぞうふ)を焼くような憎しみを言い立てた。


怜子にしてみれば、誰かにこれほどまでの敵意を向けられるのは焔が初めてだった。

通じ合えない相手と出会わなければならぬのも世の常ゆえ、これも仕方の無い事だと、怜子も幼いながらに理解できた。


けれど、生い立った家柄のみを至上のものとして捉え、自分よりも家格が低かったり、多く財産を持ち合わせない家の子をあからさまに蔑む焔の姿勢は分かりかねた。

最も、上流社会においては焔の持つ考えこそ常道とされ、万民は(すべか)らく平等たるべしと思う怜子の方がむしろ異端であるのだろう。


そしてそれは、二人が中等科を卒業して、怜子が學院の高等科、焔が父の勧めのまま士官学校に進み、道を違えても変わる事はなかった。


この様な姉を持つのだから、妹である珠緒も同じであると、穿(うが)った見方はしたくないけれど―――それを差し引いたとて、目の前の娘を自分は愛せはしまい。


「失礼いたします。あの、侯爵様が伯爵様との話し合いがお済みになったそうでして、お帰りになるのでお嬢様にお戻りになるようにと―――」


かしこまってそう告げにやってきたメイドの言葉に、珠緒はまだまだ遊び足りない子供の様に紅のつやめく唇を尖らせてみせた。


「お名残り惜しゅうございますけれど、また今度お伺いいたしますわ。今度はあたくしだけで……」


女中を迎えに行く珠緒に付き添って応接室のドアを叩いても、出てきたのは野々宮家の使用人のみだった。

美夜はどうしたのか、という怜子の僅かな表情の変化を、あの如才無さそうな女中は即座に見抜いたのだろう。


(おそ)れながら、今はお会いにならない方がよろしいかと」


自分の仕える姫君には聞き取れぬ低声で、怜子にそう耳打ちした。


何事かとドアの隙間から室内の様子を伺うと、窓際にぽつねんと立ち尽くした美夜の横顔の、身を切られるほどにいたわしいこと―――

きっとそこの窓から、故意ではなかったとはいえ、自分が珠緒の手を取っていたのを嫌と言う程見せつけられていたのに相違ない。


(なんて浅ましいのかしら、私は)


自分の思いだけぶつけて美夜を困らせたかと思えば、こうして美夜を惑わして。


初めて出会ってからというもの、美夜の幸せを怜子は誰よりも願っていた筈だ。

自分が与えられる限り、幾百の幸せを彼女に捧げたいと―――

ただただ、彼女を幸福にする事を望みとして生きてきた。


「幸せにしてあげたい、ですって?御大層なお為ごかしを言っておいて、本当はあの子を手放したくないだけでしょう」


自分自身の声に、耳元で(あざけ)り笑われた気がした。


(違うわ、私は―――!)


「お前のそんな思いが、美夜を一番に苦しめているんじゃなくって?それであの子を幸せにしたいだなんて、笑わせるわね。とんだ利己主義者(エゴイスト)じゃないの」


しかし、怜子にはその声に反論する(すべ)は無かった。


結局、自分は臆病な小心者に過ぎないのだ。


自分の息の根が止まる瞬間を想像するより、彼女がいなくなる事を思い浮かべる方がずっとおぞましい。

怜子にとって、美夜を失う事は夜空の月の(おもて)を永遠に仰ぐのも叶わないのに等しい、否、それよりもなお辛い光なき無限の夜を彷徨う責め苦であった。


(あの子無しで、どう生きていける私かしら)


無邪気な美夜はとても知りはしないだろうけど、怜子がここまで彼女を思い詰めるのも、怜子の胸にのみ秘められし複雑怪奇な所以(ゆえん)あってこそだった。


部屋の前に規則正しい足音が近づき、正確な間隔を置いてドアを叩く。

普段の怜子なら、足音の主が美夜でないとはっきり聞き分けられたろうけど―――半ば平常心を失いかけた彼女は、自分のメイドがドアを叩いたと思ってすぐさま走り寄った。


「美夜……!」


しかし、手を後ろで組み、落ち着き払った貫禄で立っているのは他でも無い父の尊子である。


「悪いな、美夜でなくて」


尊子の呆れた様な咳払いで、怜子は慌てて姿勢を正す。


「おもうさま。どうかなさいましたの、こんな時間に」


目上たる相手への礼儀を失わず、しかし薄氷を踏む心持ちで怜子は父と向き合う。

怜子が子供の時から貴族院の壇上に立っていて、厳格を体現した様なこの父と打ち解けて和やかな会話ができた事は一度も無い。


面と向かって言われこそしないものの、父の背中が語っている気がするのだ。

日輪と生まれたからには、自分と同じくその規律を忠実に守る人間であれ、と。


「美夜の事なのだがな。あの娘はもう、この屋敷にはいない。他所へ奉公に出した」


貴族院での答弁の如く、尊子はすらすらと淀みなく述べ立てる。

その言葉は怜子の耳に、極刑の宣告よりもなお深い衝撃を持って伝えられた。


「どういう事です、おもうさま?何故、何故おもうさまがそんな事を……!」


食って掛からん勢いで矢継早に質問を投げる娘を、尊子は肩に手を掛けて制止する。


「落ち着け、怜子」


「これが落ち着いていられるものですか!どうしよう、美夜が……!」


我を忘れて断髪を掻きみだす怜子は、まさしく半狂乱の(てい)であった。

伯爵令嬢として特権を持って生まれた以上、それに見合った振る舞いをせねばならぬと、己を律して心がけてきた淑女(レディ)らしい振る舞いも何もかも取り落として―――


「怜子!」


強い口調と共に肩を揺すぶられて、阿片(あへん)の中毒患者の如く血走り焦点の合わない怜子の目は、形ばかり父へと向けられた。


「あの娘の事に関するお前の不安定ぶりが、私は心(もと)なくてならない。まるで、雲の(はざま)から(せわ)しなく見え隠れする太陽の様ではないか。そんな事で、この伯爵家を背負っていけると思うのか」


苦虫を噛み潰した様な父の表情が、その言葉以上に彼女の抱く懸念を物語っていた。

しかし、そう言われたとて、誰が受け入れられようか。


体が中心から熱を失っていき、その冷たさは喉をも震わせ、今まで自分でも聞いた事がないような声が出た。


「美夜の身に何かあれば……おもうさま、私は貴女を」




―――絶対に、許しはいたしません。


凄みのある目で尊子を睨みつけた怜子の表情には、我が子ながら一種鬼気迫るものがあった。

狂気じみた、と言っても良い。


お陰で、野々宮侯爵令妹との婚約を取り決めたと、怜子には言いそびれてしまった。


だが、それで良い。

憎め、お前の父を。


日輪に生まれたからといって、守りたいものを守れるとは限らない。

いや、日輪だからこそか。


いずれこの伯爵家を背負って立つ以上、怜子にはそれを学んでもらわねばならない。

自分は伯爵として、父としてやるべき事を忠実に果たしただけではないか。

どこに責められる(いわ)れがあろうか。


しかし、繰り返し自分にそう言い聞かせようとも、あの娘が手当てした指の切り傷からは、(うず)く様な痛みが退いてくれない。


「ええと、その―――お体、お大事になさってください」


小さな体で精一杯背伸びをして、言葉に詰まりながらもどうにか振り絞ってみせたのだろう。

まだどこか純真さを残しながら、雨の響きにも負けない明瞭さをも持ち合わせた芯のある声音だった。


指の痛みと共に、美夜の最後の言葉は尊子の心を重く(むしば)み続けている。


(……優しい娘だったな)


今日に限った事ではなく、親が病に倒れた友人の為に、パーティーでの仕事をさせて欲しいと自分に懇願したくらいだ。

そんな娘を(あざむ)いて、罪の意識が一片たりとも無いと言えば嘘になる。


(私の知った事か。あの娘が怜子に何をもたらしてくれる?)


それどころか、いつか美夜の存在が怜子に恐るべき災厄を招く事になるのではないか。

怜子が初めてあの娘を連れて来てからというもの、尊子は妻以上に、ずっとその事を危惧し続けていた。


無垢な風を装っていたって、腹の中では何を考えているのか分かったものでは無い。

善人の皮を被った腹黒い人間を、尊子は政治の世界で腐る程見てきた。


あの娘が悪人だという保証は無いが、かと言って善人であるとどうして言い切れよう?


それに引き換え、珠緒との結婚は怜子に利益しか生まないだろう。


野々宮侯爵家は先代当主の勝之助(しょうのすけ)も軍人として名を馳せており、軍部との結び付きも大層深い。

貴族院では、尊子の様な伯爵やそれ以下の華族は同じ爵位の議員達の互選によって議員に選ばれるが、公爵や侯爵は二十五歳に達すると無条件で議員の資格を得る。


怜子と同い年の野々宮侯爵は来年二十五を迎え、現役の軍人は議会に出席しないのが慣例となっているが、侯爵の妹との結婚によって得られる繋がりは、怜子の将来にとって大きな恩恵となる筈だ。


それも全て、野々宮侯爵家の名があってこそ。

あの侯爵に持ち掛けられた取引は、尊子にとってまさに千載一遇の好機だった。




「いやはや、伯爵殿におかれましてはご機嫌よろしゅう。ご壮健そうで何よりですな」


曇天の午後、尊子の書斎に通されるなり、野々宮焔は溢れ出る驕慢(きょうまん)を隠そうともしない傲岸不遜(ごうがんふそん)な笑みを浮かべた。


「何の話かね。急に訪ねてきて」


均整の取れた体躯で軍服をさらりと着こなし、図々しい程の無遠慮さで尊子の向かいのソファにもたれる姿は少女歌劇に出てくる男装の麗人顔負けである。

年頃の月影の娘達の間では、人気が引きも切らないらしい。


だが、我が子と同い年のこの侯爵は尊子にとって信用から程遠い人間であった。

焔の父親が尊子の華族學院の先輩に当たる縁から、世話をした事も一度や二度ではないが、彼女の父親譲りの気性はどうしても受け入れ(がた)かった。


横柄、権高、豪然―――尊子が嫌う日輪の要素を余す事無く詰め込んだ人間である。


しかし、親子ほどの年の差があると言えど、爵位による家格は侯爵家の方が上だ。

その為、こうした出し抜けな訪問にも門前払いをせずに応じねばならなかった。


「今日伺ったのは、他でもない私の大事な妹の件でして」


こちらの様子を伺う様な上目遣いにも、勿体ぶった口調にも、何かしらの媚が仄見える。


一体何を言い出すのだろうかと、尊子の警戒心は(にわか)に張り詰めた。


「単刀直入に申し上げますとね。妹の珠緒―――あの子を怜子殿の妻として差し上げようかと。聞いた所によると、伯爵夫人が珠緒を大層気に入ってくださったとか。それに、珠緒もどうやら怜子殿を好いている様子。悪いお話では無いと思いますがな」


悪いどころか、願ってもない申し出である。


「それは、本当か」


底冷えするような緊張が混ざった興奮を押し留めようと、尊子は目の前の侯爵に問うた。


「ええ、武士に二言は御座いません。私は不実そうに見えますが、約束は決して(たが)えぬ人間ですから。―――ただ、何かを手に入れる為には、代価が付き物でありましょう?」


食い付いたなと言わんばかりの焔の勝ち誇った表情を掠めた、そこはかとない気味の悪さを孕む薄笑い。

とてもこの世の物とは思われず、一目見るなり口の中の水分が干上がっていくようだった。


落ち着けと尊子は必死に自分を律する。

油断したが最後、魂さえも此奴(こやつ)に永遠に奪い去られてしまうのではないか。


「何なのかね、その代価とは」


「大した事ではありません。美夜という名前のメイド、あれを私に下さいませ。そうすれば、持参金も少なくない額をお付けしましょう」


驚倒のあまり我知らず目を剥いた尊子に対し、焔はそんな彼女をかったるそうに(すが)めた目で見返す。


「……あの月影の娘をか」


「それ以外に誰がいます?」


無邪気な子供が玩具を欲しがるように、清々しいくらいに後ろめたさを感じさせず侯爵は言ってのけた。


「新しい女中が欲しいのか?それならば、わざわざあの娘でなくとも」


「聞こえませんでしたか、伯爵殿。私は美夜が欲しいと申し上げたのです」


その声音から普段の生意気な軽薄さはすっかり姿を消して、物狂おしいまでの執着を秘し隠そうともしない。

最早、目の前に座っているのは血の通った人間とは思われなかった。


「しかし、あれは怜子のメイドだ。それにあの娘が承知するかどうか……」


「あの二人の関係が、既に主従の垣根を越えかけていると知っても、そんな悠長な事を仰っていられるのですか」


焔の半ば呆れた嗤笑(ししょう)は、尊子に対する愚弄(ぐろう)をありありと示していた。


「そんな、馬鹿な」


一笑に付そうとしても、顔が強張って唇の端さえ自分の思うままにはならない。


「第三者の目から見ても、怜子殿は美夜に対して少々度が過ぎた思い入れをしておられる。生真面目な人間ほど、追い詰められた時にとんでもない凶行に走る事がありますからな。血迷った末に、あの娘と共に情死する道を選ぶやも……」


嗚呼、と千々に乱るる尊子の胸の内をそのままに口からまろび出た哀調帯びし溜息よ。

死すれども永久(とこしえ)に離れはせぬとて、身も魂も溶け合う程に抱き合い覚悟の微笑を唇に刻んで、二人どこまでも()ちていく怜子と美夜の姿―――その悪夢の如き幻燈(げんとう)は尊子を身も世も無く悶え苦しませた。


焔は音も立てず立ち上がったかと思うと、双手(もろて)で顔を覆うた尊子の打ち震える肩へ、ぬたりと蛇の如くその腕が(まと)わりつく。


「伯爵殿も薄々感づいておられたのでしょう。今まで黙認してきたのは、『氷の清小路』といえど人の子ゆえの娘可愛さからか。―――ですが、道を誤ろうとする我が子を救えるのは、父親である貴殿のみなのですよ」


まさに、悪魔の囁きではなかったか。


その囁きは(くす)しくも甘美な響きを持って尊子の心をしかと掴むのだった。

最早、一度唇を付けた「誘惑」という名の(さかずき)を離すことさえ出来ず―――その中になみなみと満たされた毒酒を一滴残らず胃の腑に納める心持ちで、尊子は侯爵の要求を諾了(だくりょう)する他は無かった。




後になってあれほど痛んだのが不思議な程、鋭利な光を反射するナイフの刃を親指の腹に滑らせても何の感覚も無かった。

生き生きと湧き出す鮮血を見て、まだ自分にもこれほど赤い血が流れていたのかと他人事の様に思ったのを覚えている。


しかし、その(くれない)が尊子の決意をさらに揺るがぬものにした。


「血判か。古風でよろしいですな」


年寄りが酔狂な真似を、と焔は小癪(こしゃく)に筋の通った鼻梁(びりょう)の先を動かしていたが、契約さえ結べば満足だったのだろう、それ以上は何も言わなかった。


「一体―――」


あの娘をどうするつもりなのかと、尊子は指を押さえたハンカチーフから顔を上げて訊こうとした。


しかし、手に入れるものを手に入れたと言うべき焔の炯々(けいけい)とぎらつく眼が、そんな浅はかな好奇心を一瞬で消し去った。




あの娘の末路が、窓の外の暗澹(あんたん)たる曇天の如く、決して安寧にはなり得ないと感じたのは尊子の心做(こころな)しではないだろう。

安寧でないどころか、美夜が辿るのは見るも無惨な破滅への地獄道ではないか。


そして、あの娘の背中を押した尊子も遅かれ早かれ同じ(てつ)を踏む事になるのだろう。


(悪魔と契約を交わした人間は、死後に地獄に落ちるのだったか)


だが、それが何だろう。

清小路家を守る為には、果つる事無き無限地獄の責め苦をも喜んで受けようと決心した自分ではないか。


それに、湿っぽいセンチメンタルに酔う時間なぞ今の尊子には一秒だって残されていない。




そのドアの前に立つのも、実に数年越しの事だった。


今の尊子には、何人の侵入をも(はば)む堅牢な茨の壁とも、触れらるるを(いと)う蚕を幾重にも守る(まゆ)とも思われる。

気の短い伯爵夫人を苛立たせぬようにと、メイド達もここを通る時には足音を忍ばせるのだという。


深い息を一つ()いてからドアをノックすると、妻はこちらを召使いの誰かとでも思ったらしく、


「お入り」と落ち着き払った返事がする。


室内に足を踏み入れると、妻はお召の着物からサテンのドレスに着替え、久方振りに結った丸髷を()いてブラシを掛けているところだった。

初音がそうして髪を下ろしているのを見るのも、いつ以来だろうか。


「まあ、貴女でしたの」


ドレッサーの鏡越しに尊子の姿を認めた妻の表情には、明らかな嫌悪が(にじ)んでいた。

そして、背後の尊子には振り向きもせずまた鏡の中の自分に向き合う。


「何の御用ですの?日輪の方が無闇に月影の閨房(けいぼう)なぞにお入りになるものではありませんわ」


「夜分遅くにすまないな」


怜子に話した内容を、そのまま初音に伝えれば良いとは分かっている。


けれど何故だか、話の(いとぐち)を見つけられない。

掌中に納めた娘と、その代償となった娘。

どちらを先に話したものか。


言い出しかねて立ち(すく)む尊子を、初音はじろりと睨む。


「一体いつまでそうしていらっしゃるの?」


用が無いならとっとと出ていってほしいものを、とアイラインで強調された秋波(しゅうは)が物語っていた。


これ以上初音の機嫌を損ねまいと、尊子は突き動かされるようにして口火を切った。

野々宮珠緒を怜子の妻として迎える事が決まった、と告げられた初音は尊子の予想に反し、取り立てて驚きもしなかった。


「あら、良う御座いましたわ。野々宮侯爵はそのお話で昼間いらっしゃったのね」


ブラシを動かす手を止める事もなく、形の良い糸切り歯を紅の匂う唇から仄かに覗かせるのみだ。


「ああ、そなたが珠緒姫を気に入っている事を向こうが聞きつけたそうでな。持参金も付けるから、是非にと」


「そう……お話はこれでお(しま)いかしら」


(うと)ましげな吐息で締め(くく)られたその言葉は、早急に部屋から(まか)り出るようにと尊子へ暗に促すものだった。


「いや、わざわざそなたの耳に入れるまでも無いと思ったのだがな。怜子の婚約も決まった事だから、この機会に美夜は他所へ奉公に出した。先程迎えが来てな。私だけで見送った」


罪業の毒に冒された舌先は、嘘を吐き出して微かに痺れるようだった。

ブラシを手にした初音の手が、ねじ巻きの切れた自動人形オートマタの様にぴたりと空中で固まる。


そして、貴婦人としての気取りも何も感じさせない率直さで尊子の方を振り向き―――普段は薄情に細められている初音の目は、予期せぬ驚きで大きく見開かれていた。


「……本当ですの、それは」


「こんな嘘、つく筈もなかろう」


妙だな、と尊子は目を洗われる思いだった。


華族の中でも、侯爵家以上は他とは比べ物にならぬ格上の家柄として特別視されている。

そんな侯爵家の末の姫君として生まれた珠緒は、あの類まれなる美貌も手伝って、嫁ぎ先も引く手あまたに違いない。


尊子でさえ、こんな良縁が自分の娘に舞い込んできた事が未だに信じられないくらいだ。

それにはついぞ驚きの声一つ立てなかった初音が、どうしてメイドの娘一人にここまで心慌意乱(しんこういらん)するのか、尊子には及びもつかなかった。


(しお)れた花の如く、差しうつ向いて(あら)わになった初音のなよらかな首筋ーーー身繕いの邪魔にならぬようにと、月影のチョーカーは外されていた。

そのうなじに刻印されしは、遠い昔、日輪たる自分が(つがい)となる月影の彼女を生涯を掛けて守り抜こうと―――尊子の若くも熱き誓いを込めた噛み跡ではなかったか。


婚礼の儀を挙げて(のち)に初めて共にした夜床で、首輪を外す初音の指先は、玻璃に似た青さを持つ月明かりに消え入りそうに覚束(おぼつか)なかった。


怖くはないかと尋ねると、


「いいえ。だって、尊子様ですから……」


気丈に顔を上げてみせ、尊子に微笑み掛けた初音の健気な面影―――


その時、胸を突く様に湧き上がったどうしようもない愛惜(あいせき)の念を、この噛み跡を目にする度に思い出さなかった事は無い尊子である。


「初音……」


尊子のそっと伸ばした手は、機敏な動作で払いのけられた。


「お手を触れないで下さいまし」


一度はかち合った視線は、どちらともなく再び逸らされる。


「こう言っては何だが……あの娘がいなくなる事を一番に望んでいたのは、そなたではなかったか」


口に出してみて、あまりに険のある言い方ではないかと自戒する。


(私は、いつもそうだ)


何かを仕出かして、後になって取り返しが付かなくなってから、悔やんでも悔やみ切れない悔悟の念に襲われる。


一秒、二秒……鏡の中の貴婦人は、物言わぬセレナイトの像の如く(もく)していたが、やがてその顔に棘に満ちた美しい(あざけ)り笑いの薔薇を咲かせる。


「ええ、その通りですわ。あんな娘がもうこの屋敷にはいないだなんて、実に清々いたしますこと」


「なあ、初音。本当に正しかったのだろうか、私のした事は」


答えは、極めて単純で明快な筈だ。

だが、尊子自身、どうしてもその答えに確信を持てずに苦慮し続けている。


「日輪の貴女がなさる事に、月影のわたくし風情が口を挟むなんて、おこがましゅうございますわ。貴女はこの清小路家の家長なのですから、何事も貴女のお考えのままになされば良いのです。今度こそ、お話は終わりでしょうか」


「ああ、今夜は冷えるな。風邪を引かないよう気をつけてくれ。……おやすみ」


娘が愛おしむ少女に掛けたのと同じいたわりの言葉を、自分も口にしたとは伯爵はつゆと知らないだろう。

夫が離れ去ったドアの方を、初音は一度だけ(かえり)みた。


「……良かったのだわ、これで」


独り()ちてから、伯爵夫人はその呟きを唇の紅と共に拭った。




「今日は色々あって、美夜も疲れてしまっただろうな。もう時間も遅いし、ゆるりと休むと良い」


おい、と焔が奥の間に呼び掛けると、襖の陰からそろそろと現れたお女中の姿―――


ほの暗い灯影(ほかげ)に浮かび上がったその相手こそ、昼間見合ったばかりの野々宮家の女中、志津ではなかったか。


目を白黒させる美夜の姿をその三白眼の端に捉えようと、あいも変わらず平然とした仏頂面を崩さない。

例え目の前で誰かが死のうと、この人は眉一つ動かさないのではないか。


「美夜に湯浴(ゆあ)みをさせて、休ませてやれ」


「かしこまりました。御館様(おやかたさま)


慣れた動きで主君に(ぬか)づく志津は、封建の仕組みの元に生まれ育った人間の姿を(さや)に示していた。


「お前の身の回りの世話は、この志津にさせる。何かあれば遠慮せず此奴(こやつ)に言いつけろ」


そして、使用人なぞ同じ人間と思わぬと言わんばかりの眼差しで女中を見下ろす焔は、その封建の頂点に立つ絶対的な王者だった。




「お湯殿へ案内させていただきます。さあ、どうぞこちらに」


志津の手にする提灯の心許(こころもと)ない明かりだけを頼りに、それすら失われれば無明の闇の中を手探りで歩く他無い廊下を進んでいく。


薄気味悪い空気は濁った(おり)の様にそこかしこに溜まり、恐る恐る一歩を踏み出す度に美夜の袂や裾に(まつわ)ってくる。

だが、右も左も分からないこの屋敷の中では、そんな不気味さを物ともせず歩む志津の背中を追うしか出来ない。


「志津さんは、ご存知だったんですか」


こんな非道な計画を知っていながら、何食わぬ顔して昼間、あの応接室で美夜と向かい合っていたのだろうか。

しかし、こちらに付け入る隙を見せまいと青竹の如く背を伸ばしたまま、志津は決して歩調を緩める事はない。


「妾は御館様のお言いつけに従うのみですので」


肯定とも、否定ともつかない、何とも張り合いの無い答えである。


「でしたら、ここは一体何処(どこ)なんでしょう」


せめて、具体的な場所だけでも知りたい。

自分の指先さえ分からない濃霧の中に放り出されているようで、とてもじっとしていられないもの。


此方(こちら)孤月ヶ浜(こげつがはま)に御座います、侯爵家の別邸です。先代の侯爵御夫妻の御存命中は、このお屋敷にて御家族お揃いで夏をお過ごしでした」


孤月ヶ浜、といえば有名な海辺の避暑地である。

帝都からもそう遠からず、外国からの客人が訪れるホテルもあり、夏には海水浴にやって来る人々で賑わうのだとか。


しかし、どこからともなく聞こえる寄せては返す波の音は、今の美夜にはうら悲しいばかりだった。


湯殿は侯爵家の別邸だけあり、床には滑らかな石が使われ、湯船はほっこりする香りの(ひのき)を削って作られた風情のある作りだった。


滾々(こんこん)と焼き物の筒から湧き出すのも、どうやら本物の温泉であるらしい。


しかし、熱を失って冷え切った体を温かな出湯(いでゆ)に浸からせようと、湯上がりに片袖を通しただけで上等な布地と分かる寝巻きを着せられようと―――美夜の気分は晴れないままだ。


今晩からここで過ごすのだと申し渡されたのは、浴室のある母屋から渡り廊下を渡った離れにある座敷だった。

御丁寧に取り替えたらしい畳のい草の新鮮な感触が足に心地よく、床の間には名のある絵師の筆に違いない掛け軸が吊るされ、その下には目にも爽やかな夏の花々が生けられている。

座敷の中央には、未踏の処女雪の如き夜具が蒔絵(まきえ)の箱枕と共に延べられていた。


皮肉な事に、これほどの下にも置かれぬ扱いは伯爵家でも味わえぬものだった。


夕餉(ゆうげ)がお済みでなければ、何かお持ちいたしましょうか」


志津の申し出に、美夜は黙ってかぶりを振った。

こんな時に、どうして食事が喉を通ろうものか。


「でしたら、妾は隣で休ませて頂きますので、何か御座いましたらすぐにお呼び下さい」


御休みなさいませ、と襖は牢獄(ひとや)の岩戸の如く閉じられた。



薄い夏の羽布団が、伸し掛かってくる様に重い。

殻に閉じ籠もった(さなぎ)の様にじっと布団の中にうずくまっていても、到底寝られっこなかったし、元より眠るつもりもなかった。


僅かに開いた襖の隙間から漏れる明かりの中には、自分も布団を敷いたり寝巻きに着替えたりするらしい志津の影がちらちら映っていたが、明かりが消されると共に、それも途絶えた。


美夜は闇の中でじっと目を開き、隣室の女中の気配や寝返りの音に耳をそばだて続けた。


どれほどの時間そうしていたのだろうか、ほんの数分の気もすれば、数時間に渡った気もする。

美夜はやおら闇の中に半身を起こし、そろそろ布団から這い出た。


そして、音一つ立てぬよう細心の注意を払って廊下に面した障子を開くと、ゆらりと()ける。


雨戸を締め切った丑三つ時の廻廊には、一筋の雨明かりさえ射し込む事はなく、あやめも分からぬ純粋な闇のみが広がっている。

身に迫る闇のあまりの濃さに、思わず()せ返りそうになる。


しかし、そんな闇ごときを恐れる美夜ではなかった。


霧を通して灯台の様に見えていた自由の為に飛び出した、かつての冬の夜と違い、今の美夜はただただ自らに迫る激情の火の手から逃れたい一心だった。


(今まで出会ったどの人より、わたしはあの人が怖い)


こんな大掛かりな真似をしてまで美夜を我が物にしようとする焔は、とても正気の沙汰とは思われない。

火の粉を散らしてあの瞳の奥に燃え盛るのは、まさしく狂気じみた執念の炎だった。


今思い出しても吐きそうな程、心臓が不規則に乱れ打つ。

死屍累々とした血みどろの道を歩くとて、これほど気味悪くはあるまい。


志津に連れられてつい先程通ったとはいえ、途方も無い暗闇の中を辿るのは夜目を持ってしても一苦労だった。

そして、闇の突き当りに、母屋へと繋がる木戸を見つけた時―――美夜は飢えと渇きに苦しみながら長らく彷徨い続けた岩窟(がんくつ)の中で、ついに地上へと繋がる抜け穴を見つけた人と同じ心持ちだった。


しかし、扉には鉄の錠前が掛けられ、紅の紐で結び付けられた幾つもの鈴が情知らずに闇の中に輪郭をさらけ出している。

此畜生(こんちくしょう)、忌々しい―――美夜は口汚くこう罵って、眼前に立ち塞がる扉を力の限り殴りつけてやりたかった。


されど、扉はぴたりと閉じたまま、鈴のみが軽やかに鳴り渡って美夜の逃亡を知らせるだけだろうて、それさえ許されない。


思えば、美夜の歩んできた人生にはいつだってこうした扉が幾多も閉ざされていたのだ。

人買いに結ばれた麻縄の手枷をも噛み千切って逃げおおせた自分だが、いずくんぞこの錠前に食いつけようか。


文字通り、全く歯が立たなかった。


すると、力こそ込められていないものの、何者かの手が確かに闇の中から美夜の肩を捉えた。

全身を流れる血液は瞬時に氷点下に達し、全く生きた空も無い。


此方(こちら)にいらしたのですか」


こんな時でも一切の動揺を見せない志津の凝然(ぎょうぜん)とした立ち姿は、それまで何の気配も背後に感じさせなかっただけに、尚更美夜の肝を潰させた。


「どうして」


眠っていた筈のあなたが―――という美夜の問いを、志津はその怯えきった表情の中にすぐさま読み取ったに違いない。


「妾は一間挟んでいようと、御姫様が寝返りを打たれるのが分かりますから」


隣の部屋で、抜け出そうとする美夜の気配を感じ取るのも志津には容易い事だったろう。


「御館様がお知りになれば大変な事になります。早くお床に戻られませんと」


「後生ですから、ここを開けてください。わたし、帰らなくちゃ……!」


美夜は(すが)るが如く、そう志津に懇願した。

扉を開く鍵を手に入れる為ならば、どの様な禁忌にだって手を染めただろうに。


「こんな真夜中に、着の身着のままで帰るおつもりですか。それに―――今更伯爵家に戻ったところで、あなたの居場所なぞありはしないでしょう」


志津の言い方は意地悪でもなんでもなく、ただ事実を率直に美夜へ示しただけだった。

されど、有るがままの事実の持つ残酷な響きはどんな罵詈雑言よりも深く美夜を打ちのめした。

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