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雨月の別れ

急病に倒れた父を見舞う為に郷里へ帰っていた花が戻ったのは、パーティーから三日後の事だった。

一時は油断のならない状態が続いていた花の父だが、どうにかその危機を脱し、今ではすっかり快復に向かっているらしい。


「父さんと母さんにね、仲間のメイドの子が仕事を代わってくれたのって言ったら、二人ともすっかり感激しちゃって。よくその方にお礼を申し上げてくれ、だって」


特に、花の母の感謝は並々でないらしく、美夜に渡すようにと、お手製の真心込もった饅頭をお土産として娘に持たせていた。

しかし、お茶の時間に饅頭の素朴な甘さに舌鼓を打ちながら、千登勢と共に花からふるさとの家族の話を聞かされた時も、美夜は心あらずの状態だった。


一体どうしてしまったのだろうかと怪訝そうに囁き合う二人の声も、美夜の耳には入らなかった。




怜子の傍で仕事をしている時でも自室にいる時でも、思い出すのはあの夜の出来事のみだった。

月が二人を見守っていた可惜夜の、いつになく冷然とした怜子の言葉。


「あなたは私のメイドよ。私に黙って他の日輪のものになるだなんて、絶対に許さないわ」


次の日からの怜子は、美夜がよく見慣れたお優しい怜子さまに相違なかった。


あの夜の事を再び持ち出す訳でも無く、いつも通りのゆったりと落ち着いた眼差しで美夜のする仕事を眺め、以前と変わらず接してくれた。

だが、怜子が普段通りに振る舞ってくれるからこそ―――あの夜の、別人の様な怜子の変貌振りに背筋が寒くなる。


それまでは毎晩楽しみにしていた筈の、怜子とのバルコニーでの語らいも、自然と足が遠のきがちになってしまった。

そんな美夜を責めるでもない怜子の寛容さが、却って空恐ろしい。


怯えなどという感情を、美夜を守り育んでくれた怜子に対して抱くのは間違っている。

怜子の事が嫌いなのかと問われれば、答えはもちろん「否」である。


皆同じ眼鏡を掛けたように、月影に対して決めつけた見方をする他の日輪とは違い、初めて美夜を一人の人間として見て接してくれた怜子。

美夜の自我を守り、意志を尊重してくれる怜子に憧れという気持ちを抱き()めたのは、いつの事だろうか。


しかし、彼女の知らない一面を見てしまってからは、以前の様に彼女と向き合う事ができない。


(怜子さまは何故、あんな事をおっしゃったのかしら)


彼女に大恩のある身とはいえ、所詮美夜は幾らでも替えの効く、メイドの一人に過ぎない。


果てしが無い懊悩(おうのう)の迷宮に迷い込んだ人間の様に、美夜はただ一人で悩み(もだ)えるしかなかった。

そんな日が幾度も繰り返され―――とうとう、美夜にとって運命の分かれ道ともなる日がやって来たのだった。



その日は夜明け前から鉛色の雲が厚く空を覆い、本格的な夏の到来に向けて上がり始めたここ数日の気温が嘘の様に、どこかくしゃみの出そうな肌寒さが漂った。


「午後は雨になるのではないかしら。月が隠れなければ良いのだけれど」


ゴブラン織りのカーテン揺れる出窓に手を突き、怜子は水増雲(みずまさぐも)の垂れ込める空の彼方を見やる。


「最近は気温の変化が激しいから、美夜も風邪をひかないように気をつけて……美夜?」


「……あっ、はい!すみません」


一人でいる時だけでなく、怜子と過ごす間でさえも上の空になってしまい、こうして怜子に自分の名前を呼ばれて我に帰るのが今日だけで何度目か分からない。


「申し訳ありません。仕事中だというのに」


「いいのよ。この間のパーティーの手伝いもしてくれたし、美夜もいろいろあって疲れたでしょう。また、どこかに出掛けましょうか。もうすぐ夏だし、公園の池でボートを漕ぐのも良いわね。美夜は、どこに行きたい?」


「わたし、わたしは―――」


突然起こったノックのけたたましい音で、二人とも思わずドアの方を振り向いた。


「まあ、どうしたのかしら」


美夜がドアに駆け寄り、ドアノブに手を掛けようとする前に、扉は向こうから開かれた。

目が合った途端、相手も美夜も互いに「あ」と声を漏らした。


「あら、また会いましたわね」


野々宮侯爵令妹の珠緒は、苛立たしげにそう呟いて、ぬばたまの黒髪を掻き上げるのだった。

そんな珠緒も、窓辺に佇む怜子の姿を目にすれば水を得た魚さながらの快活ぶりである。


「ご機嫌よう、怜様!」


ぴょんぴょんと手毬にも似た弾む足取りで怜子の傍にやってくる珠緒だが、当の怜子は困惑の様子を隠せない。


「珠緒さんが、どうしてここに?」


「姉上が怜様のお宅に伺う予定だと聞きましたから、あたくしもお供いたしましたの」


「―――野々宮侯爵が?」


怜子の眉がぴくりと動き、美夜もその名を聞いた途端思わず身構えていた。

何故侯爵がという疑問は、怜子の警戒した表情が物語っている。


珠緒の代わりに、開いたままのドアから姿を現した伯爵夫人がそれに答える。


「お父様とお話をなさりたいそうですよ。何のお話かは、わたくしも伺ってはおりませんけれど」


夫に関する事なぞはどうでもいいという風に、皮肉めいた笑いをそのふっくらとした唇に込める。


普段は舶来の裾長きドレスに束髪のハイカラ貴婦人らしい風情をこよなく好む奥方も、今日は重厚な色合いの最高級のお召の単衣に、丸髷(まるまげ)を結って本鼈甲と血赤珊瑚の(かんざし)を挿した純和風の装いである。


日の射し込まぬ室内でも生き生きと咲く、姫蓮の花を橙色の地に浮かべた着物の、可憐な大和撫子である珠緒と並んだ姿は、本当の母娘と呼んでも差し支え無いだろう。


(お話?侯爵様と伯爵様が?)


得体の知れない嫌な予感に、ぞわりと体が震える。


地平線の彼方で不穏に唸る遠雷を、丘の上で耳にした様な胸騒ぎ。

そんな美夜を、伯爵夫人は横目できっと睨むと邪慳(じゃけん)に吐き捨てる。


「辛気臭い顔はおやめ。ただでさえ、お前の顔を見ていると気分が悪くなるのに」


夫人はホホホと気を取り直すかの様な高笑いの後、ああ、そうだわと芝居がかった口調で娘に提案する。


「せっかくお嬢様に我が家へいらしていただいたのだから、怜子さん、お庭を案内して差し上げたら?今の時期はクレマチスやアルストロメリアが見頃ですもの」


「まあ、お花ってあたくし大好きですのよ。是非拝見したいですわ。ねえ、よろしいでしょう、怜様?」


この状況で嫌と言える人間がいたら、お目に掛かりたいものである。


「すぐに戻ってくるから、待っていて頂戴ね」


こっそりと美夜に耳打ちする怜子だけでなく、珠緒もドアの外で待たせていた自分の女中に何やら言いつけている様子だ。


「あたくし一人でも行けるから、お志津は来なくてもいいことよ」


「かしこまりました」


口調こそつんけんとしているものの、珠緒の声は命令するというよりも、どこか慣れ親しんだ甘えを感じさせる。


「じゃあ、あの女中さんを応接間にお通しして、お茶を出しておいてくれる?」


「はい、お任せください!」


珠緒に連れられて部屋を出る怜子を、志津は深々と頭を下げて見送った。

美夜も彼女の隣で、廊下の角に二人の姿が見えなくなるまでそうする。

彼女のお辞儀は、思わず見惚れてしまうくらい一切の無駄が無かった。


「どうぞ。こちらが応接室です」


晴れた日であれば、陽光溢れるイングリッシュガーデンを遥かに見渡す一階の南東に応接室は面していた。


座り心地の良さそうな革張りのソファや大理石の彫刻など、室内の調度は品よく(しつら)えられ、飴色に磨き上げられた柱時計の振り子が静かに時を刻む。

志津はそれらにも一切目を配る事は無く、ただじっと壁際に控えている。


歳の頃は美夜や珠緒よりも少し上、怜子や焔と同い年くらいだろう。

髪をきちんと首元でまとめて結い、帯揚げをあまり見せずに結んでいるのも大人の女性らしさがある。

しかし、それよりもずっと年上だと言われても納得してしまいそうな、不自然なくらいの落ち着きをにこりともしない顔に宿していた。


どう接したものかと困った美夜だが、怜子に言われた通り、自分の仕事をしようと意気込む。


「お茶をお持ちしましょうか。お紅茶だけでなく日本茶もご用意できますが、お好みがあれば何でもおっしゃってください」


一言も発さず、身じろぎさえする事なく佇んでいた志津は


「いいえ、結構」とだけ呟いて再び沈黙を貫く。


その無愛想な返事に、さすがの美夜も当惑する。


「で、でしたら、せめてソファにお掛けになってください」


「いいえ、ご遠慮させていただきます」


茶も飲まない、座る事さえしないとは、と美夜は狐につままれた思いがした。


「でも、ずっと立ったままでは、お疲れに―――」


(わたし)は客人としてこちらのお宅に伺ったのでは御座いません。あくまでも、(あるじ)の訪問に使用人として同行したまでです。その様な歓待を受ける(いわ)れはありません」


まさに、使用人としての模範と呼ぶべき答えだった。

その忠実さに、美夜は一種の敬服の念を抱かないではいられなかった。


下僕(しもべ)には下僕の分というものがあります。使用人は主人とは別の世界に、それを肝に銘じて生きねばならぬのですから」


「……ご立派なお考えだと思います」


美夜はお愛想ではなく、感じたままにそう口にした。


「それはあなたもご同様でしょう」


「え?」


志津はつかつかと美夜の元へ歩み寄ると、頭一つ分高い位置からじっと見下ろす。

地の底を覗くように、三方を白目に囲まれた彼女の瞳からは感情というものを読み取れない。


「単刀直入に言わせて頂きましょう。あなたは、自分の主である怜子様に対して、不徳義な恋慕をしておられるのではありませんか」


「不徳義な、恋慕?」


初対面の相手の口から飛び出した、思いがけない言葉にたじろぐ。

得体の知れない幽霊を目の前にした時の様に、美夜は逃げ出したくなるのを必死に我慢して立ちすくんだ。


一瞬、可惜夜の出来事さえも志津に知られているのではないかと疑心暗鬼になる美夜だったが、そんな筈がないとどうにか気持ちを落ち着ける。


志津のその言葉は、彼女が仕える侯爵家の姫君によって吹き込まれたのに相違無かった。


馬鹿馬鹿しい―――美夜がもう少し傲慢な娘であったら、そうふてぶてしく笑い飛ばしていただろう。

だが、指に刺さったまま抜けずにしぶとく痛む棘の様な罪悪感が、全くの出鱈目だといきり立って反駁(はんばく)する事を許さない。


「不徳義だなんて、そんな……」


追い詰められた人間の常として、不安を押し隠すかのようにおさげの先を弄ぶ美夜の僅かな指の動きさえ、志津は見逃しはせぬと言わんばかりだった。


「尋常種の妾の目から見ても、怜子様は才色兼備で完璧な日輪様でいらっしゃいます。月影の性を持つあなたがあの方に惹かれるのも無理は無いと思いますが……我々使用人が主人を恋い慕うのは、何よりも咎められるべき罪悪ではありませんか」


罪悪という言葉は、鋭い刃の切っ先の様に美夜の胸を刺し貫いた。

だが、その痛みに負けないように、何とか志津を見上げる。


黙り込めば、志津の言う通り怜子へのこの思いが罪悪だと認めてしまう気がする。


「わたしは日輪であるという以前に、人として怜子さまを心から尊敬しています。確かに、先日のパーティーでは、野々宮様のお嬢様には誤解を与えてしまったかもしれません。それはわたしの至らない点です。けれど―――わたしが怜子さまを大切に思う気持ちは、罪悪と呼ぶべき(やま)しいものではないはずです」


一切動じなかった志津の表情が、その時つと揺らいだ気がした。


「……ええ、大切でしょうね。妾も御姫様の事はこの命に代えてもお守りするつもりです」


言い切る志津の目に迷いは微塵も無かった。


「主人を大切だと思うのなら、尚更わきまえなさいませ」


伯爵夫人や珠緒に感情的に(まく)し立てられるより、志津の泰然自若とした忠告は(こた)えた。


耳を塞ぐ事もできない美夜は、レースのカーテンから漏れる細やかな模様の透影(すきかげ)を感じて、窓の外に目を移す。

軽はずみな自分の行動を悔いるとも知らないで。


夏の盛りを迎えて一面に咲き渡る花々の間で、頬を赤らめる珠緒の手を取る怜子の後ろ姿。

雲の切れ目から降り注ぐ柔光の(とばり)に包まれた麗人達の姿は、さながら一枚の名画だった。


「ああして雲の間から地上に漏れてくる光はね。angel's ladder、天使の梯子というのよ」


そう怜子が教えてくれた事さえ、今は遠い昔のように感じる。


「あなたは愚かな人ではないと思います。ですから、使用人としてどうすべきか、考えずともお分かりになるでしょう」


背後から淡々と告げる志津の言葉にも(いら)える気力を失って、美夜は悄然として窓際へと身をもたせた。




柱時計が六時を告げる寂寥(せきりょう)に満ちた響きが、美夜の意識を現に引き戻した。


応接室の中にいるのは美夜一人だけだった。

では、妾はこれで―――そう志津が頭を下げて立ち去ったような気もするけど、定かではない。


灯点(ひとも)し頃の憂鬱が流れ込んできたように、応接室の壁も床も何もかもが瞑色(めいしょく)に染められていた。


「あっ、いけない……」


と我に帰ったは良いものの、普段なら仕事を終わらせて、怜子と共にあのバルコニーで心安らぐ一刻を送っている時間である。


だが、今の美夜にそこへ向かう度胸がある筈もなかった。

台所へ行って、夕食の準備をしている千登勢達の手伝いでもしようか。


そんな事を考えて、火の気の無い暖炉の上のマントルピースに重苦しい目を向けると、そこには写真立てに入れられた写真の数々が並んでいた。


その一つを見てみると、今の怜子と見紛うばかりの若い頃の伯爵と、その横に切り下げた前髪と結ったマガレイトもあどけない少女の夫人が並んで写っている。

傍目から見ても敵同士のように冷え切った仲の今の二人が信じられないくらい、初々しく互いに微笑みあっていた。


きっと、結婚して間も無い頃の写真だろう。


写真達はどれもこれも、在りし日の清小路家の歴史を物語っていた。


セーラーの子供服姿も愛らしい幼い頃の怜子を写した写真に頬を綻ばせる美夜だったが、ある事がフラッシュの閃光のように(またた)く。


「そうだわ、写真」


ついこの間怜子と街に出掛けた時に、写真館で撮ってもらった写真が、もう出来ている頃だ。


今日はもう暗いし、明日取りに行こうか。

いや、生まれて初めて、それも怜子と写した写真ならば今すぐにでも見てみたいと気が()く。


もうじき写真館も閉まってしまうだろうから、行くなら早くしなければ。


(バルコニーへは、行けないわね)


罪滅ぼしというのではないが、何もしないでいるより、怜子のお使いをする事によって仄暗い自責の念も少しだけ和らぐ。




急いで部屋に戻って普段着に着替え、草履を突っ掛けて表に出ようとすると、もう大粒の雨が地面を叩き始めていた。


「まあ、雨」


ふわりと雨特有の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

何かが起こるのを感じさせる匂い。

それが、吉になるか凶になるか美夜には分からないけれど。


「美夜」


一瞬、怜子に名を呼ばれたのではないかと思った。

それほどまでに、優しい声だった。


振り向けば、雨の降る中蝙蝠傘を広げてやってくるのは、尊子であった。


「伯爵様!」


こわごわとお辞儀をする美夜の上に、尊子はそっと傘をかざす。


「出掛ける所か。今から」


「はい。怜子さまの御用で……」


「そうか」


普段の癖で怜子の名前を軽く出してしまい、尊子が気を悪くするのではないかと美夜は内心焦ったが、尊子は別段不愉快そうな様子も無い。

それどころか、いつもは険しく引き締められている唇や目元を(ほころ)ばせ、温和な微笑みさえ浮かべている。


(笑っていらっしゃる?あの伯爵様が)


本当に、この人が「氷の清小路」と呼ばれているのと同じ人物だろうか。


淋しい表情も怜子によく似ているが、それよりもこうして笑っている方がずっと怜子と瓜二つだ。


「実は、今し方怜子に頼まれてな。お前に会ったら、青海(あおみ)屋のインクが切れたから、買ってくるように伝えてくれと」


「青海屋のインク、ですか?」


品質の良い舶来の文房具を商っている青海屋の万年筆用のインクは、書き心地も滑らかで滲みにくいと、怜子が普段から気に入って愛用しているものだ。


青海屋のインクだったら少し前にまとめて買っておいた筈なのに、もう無くなってしまったのだろうか。

わざわざ父である尊子に頼むくらいなのだから、よっぽどすぐにでも必要なのかもしれない。


「分かりました。買って参ります」


仕事帰りの人々も多く訪れる青海屋は、夜遅くまで営業しているから写真館の帰りに寄っても十分間に合うだろう。


「ああ、頼んだぞ。すまないが、傘を持っていてくれるか?」


長身のこの人が濡れないように、美夜が爪先立ちになって必死に腕を伸ばしている間、尊子は懐から革の財布を取り出す。


「これで―――」


抜いた紙幣を美夜に渡そうと腕を伸ばしかけた時、その手は力を失ったように垂れ下がり、反対の手が胃の辺りを抑える。

月さえ雨雲に隠れた暗がりの中、血の気を失った顔はなお蒼白に見える。


「うっ……」


くぐもった呻きを噛み締めた歯の間から漏らしながら、苦痛に顔を(しか)める尊子の様子は只事では無い。

美夜はすぐさま、よろめく尊子の体を支えて近くの東屋まで歩かせ、長椅子に腰掛けるのを手伝う。


「大丈夫ですか?伯爵様」


普段あれほど恐れおののいている相手だというのも忘れて、美夜は尊子の丸められた背を撫で擦っていた。

肉を削がれた体は板の様に薄く、想像より骨張った硬さが伝わってくる。

そういえば、頬も以前より()けたのではないだろうか。


「ああ、歳には勝てないな。たまにこうして痛むのだが、何て事は無い」


荒い呼吸の間から喘ぎ喘ぎそう言う尊子は、日輪として弱さを美夜に見せまいとしているかのようだった。


下腹部を抑える尊子の手元を見ると、親指に小さく包帯が巻かれていた。

結び目が緩んで、今にもほどけそうだ。


「伯爵様、包帯が……」


「ああ、これか。ナイフを使っている時に誤って切ってしまってな」


「手当ていたしましょう。ちょうど道具を持っていますから」


外出先で怜子が怪我をした時に備えて、いつも使う巾着の中には包帯やガーゼ、小さな(はさみ)の入った信玄袋を忍ばせている。


余程力が入っていたのか、指の腹には真一文字に深い傷が走り、乾いた褐色の血液がこびり付いているのが何とも痛々しい。

その上に新しい清潔なガーゼを宛てがい、包帯を結び直す。


「はい。できました」


「すまないな。自分で手当てしたのだが、本当に不器用でいけない」


私は指先を使う事はどうも苦手でな、と二人で傘を差しながら尊子を屋敷へ送っていく途中、彼女がぽつぽつと傘を打つ雨粒の様に語る。


「手芸も駄目だし、ピアノもからきしだ。怜子はな。あれは私に似ず、ピアノを弾かせてみるとなかなか上手い」


「怜子さま、ピアノをお弾きになるんですか?」


「ああ、最近は殆ど弾いていないらしいがな」


大広間には、冥治の頃にわざわざ西洋から運ばせたという、その木目も重厚な歴史あるグランドピアノが据えられている。

だが、怜子が改まって楽器など弾く様子を目にした事も無かったから、少々意外だった。


(怜子さまの弾くピアノなら、わたしも聞いてみたい)


象牙の鍵盤(キー)よりもなお滑らかな双手がその上に差し伸べられる時、かのピアノはどのような音色を生ずるのだろうか。


「きっと母親に似たのだろう。初音は夫である私の贔屓目を抜きにしても、指先が器用という事に加えて、音楽の才能があるのではないかと思う腕前でな」


尊子は普段の寡黙さが信じられない饒舌ぶりで、妻について語れるのが嬉しくてならないのだろう。


「ピアノの他にも、ダンスを踊らせると小鳥のように軽やかに踊る。私はダンスも初音には全く敵わなくてな。いつだったか、最後に二人で踊ったのは」


過ぎ去った、でも確かに幸福だった日々を尊子はしっかりと(おぼ)えているのだろう。


(愛していらっしゃるんだわ、奥方様を)


何処(いずこ)かへ向けられる、慈愛のこもった眼差しは、応接室の写真に少しも(たが)わず―――

そして何より、怜子が美夜を見つめる時のそれと全く同じだった。




「もう、ここまでで良い」


玄関のポーチまでやってくると、尊子はするりと傘を抜け出る。


「さっき渡しそびれてしまったが、これで買ってきてやってくれ。余ったらお前の小遣いにでもするんだな」


手渡された紙幣の額に、声が上擦(うわず)った。


「い、いただけません!こんなに」


「足りなくて、この雨の中を引き返してきたら二度手間だろう。取っておきなさい」


伯爵の温情を無下にする訳にもいかず、重ね重ねお礼を述べて、紙幣は丁寧に折り畳んでがま口に仕舞い込む。


「この傘をお使い。返さなくても構わないから。もう暗いし、雨も降っているのだから、気をつけて行くのだぞ」


「お……」


去り行く背中に言いかけて、美夜は慌てて口を閉じる。


「何か、言ったか?」


「ええと、その―――お体、お大事になさってください」


「ああ、ありがとう」


またも、尊子の(いかめ)しい表情が綻ぶ。


顔がはしたない程に紅潮したのは、雨の飛沫(しぶき)の中だから見られなかったと願いたい。


呼んでしまいそうだった。

()()()、と。


(お父様って、こんな感じかな)


美夜のおとっつぁんは、とてもではないが父親らしい父親とは言えなかった。


その事に未練は無いけれど、もし今父と呼べる人を得られるのなら、尊子のような人がいいな、と思う。

篠突く雨からも、尊子のくれた傘は美夜を守ってくれる気がした。




降りしきる雨に濡れそぼった都の通りは、店々の明かりを鏡の様に映す。

足元をぱちゃぱちゃと跳ねる泥水で怜子の仕立ててくれた着物の裾を汚さぬようにしながら、彼女と前に歩いた道を早足で辿る。


店の閉店時刻は午後七時。


先程通りがかった時計屋の店先の時計は、午後六時五十五分を指していた。

気の短い店主なら、もう店を閉める準備をし始めているかもしれない。


どうか間に合ってほしい、と美夜は半ば祈る心地だった。


幸いにも、赤い地に町本寫眞館(まちもとしゃしんかん)と白く店の名前を抜き出した日よけを掲げる建物には、ランプのものらしい蜂蜜色の明かりがついている。


「こんばんは。写真を受け取りに来ました」


店の中では、豊かな福耳に恰幅の良い体型の、恵比寿様のように見える初老の男性がパイプをふかしている。

あの日、写真を撮ってくれたここの主人には美夜も見覚えがある。


「受け取りね。お宅、何さんだい?」


「はい。清小路でございます」


写真の代金を払ったのは怜子なのだし、受け取り人の名前も彼女にしてあるのだから、美夜がそう言っても何の問題も無い筈だ。

なのに、まるで怜子と同じ姓を自分が名乗りでもしたかのような、この照れくささは何だろう。


「清小路さんのは……ええと、これだ。悪いが、中身が合ってるか確認してもらえるかね」


店の名前が印刷された封筒を開くと、中には薄紙に包まれた手のひらの大きさ程の写真が納められている。

贈り物のリボンをほどくような性急さで、でも中身を傷つけないように丁寧に薄紙をめくって―――美夜は思わず感嘆の声を上げた。


生まれて初めてカメラの前に立った自分が、果たしてうまく笑えているか気がかりだったが、写真の中の少女はごく自然な笑みをこちらに向けている。


手前で上品に椅子に腰掛けた怜子は、いつも通りの淑女らしい気高い微笑を湛えている。


二人の手は、写真の中央で確かに結ばれていた。


美夜の子供の様な驚きと興奮を間近に見ていた店主は、人の良さそうな丸顔をなお丸くしてからからと豪快な笑い声を立てる。


「よく撮れてるだろ、あんた方二人とも」


「ええ、とっても!怜子さま、写真の中でもお綺麗だわ」


「俺ぁこの仕事を始めて長いが、なかなか自分の商売を気に入っているんだよ。人間の長い生涯の幸福な一瞬を、こうして写真に残す手伝いができるんだから」


人が生きていく上で、永遠と呼べるものが存在しないのは自明の理だ。

出会いに別れは付き物だし、死は何人にも平等に訪れる。


伯爵夫妻の関係も、きっと本人達にしか分からないすれ違いによって変化せざるを得なかったのだろう。

だが、あの二人が一時でも幸福であった事を応接室の写真は証明していた。


そして今、自分も怜子との幸福な思い出の(あかし)をこうして手にする事ができたのだ。


「素敵なお写真を撮っていただき、本当にありがとうございます」


「なあに、良いって事よ。しかしお嬢ちゃん、あんた月影だが、よっぽどこの姉さんにお熱らしいな。怜子様とか言ったか、日輪だとしたらあんたの婚約者(フィアンセ)かね?」


「ふ、ふぃあんせ……」


美夜の呂律の回らなさを、店主は初心(うぶ)な娘の羞恥と捉えたらしく、またからからと笑って二枚ある写真のもう一枚を取り上げる。


「若いが、真面目で誠実そうじゃないか。結婚式はいつ挙げるのかね?」


「け、結婚式は、その……いつかは分かりませんけれど。でも、怜子さまはとても素晴らしい方なんです。いつも私の事を思いやってくださって……」


人柄と共に彼女の事がしみじみと思い出されて、気さくな写真館の主人の思い違いを訂正する事もできない程、どうしようもなく怜子がなつかしい。


「そう思える相手と添えば、間違いは無いだろうさ。結婚式の時はまたうちの写真館を呼んでくれ。幸せな人生の始まりを、ばっちりフィルムに焼き付けてやるから」




軽やかなドアベルを鳴らして青海屋を出ると、辺りは人気も無く、こうして歩いているのも美夜くらいなものだった。


片腕に青海屋の紙袋と巾着を抱え、もう片方で傘を差して勢いを増す雨から荷物を守っていても、(ふところ)の写真の事を考えれば自然と足が急いでしまう。


(早く帰って、怜子さまにもお見せしたい)


ここ数日の煩悶も忘れて、ただただ怜子のいるあの伯爵家に戻りたい。

怜子も、美夜が待つ我が家に帰る宵ごとに、こんな思いを胸に宿して家路を辿っていたのだろうか。


角を曲がった先の街灯さえ無い路傍(ろぼう)に、何やら自動車が一台、雨に濡れて沈んだように止まっている。

美夜が脇を通り抜けようとすると、やにわに自動車の後部座席のドアが勢いよく開き、間髪入れずに屈強な男達が飛び出して周りを取り囲まれた。


「な、何です?」


後ずさる美夜の腕を男達は両側から掴み、猛烈な力で車内に引きずり込もうとする。

伯爵がくれた傘も、紙袋も巾着も何もかも地面に投げ出され、小瓶の割れる甲高い音がしたかと思うと、水浸しになった袋からインクが血の様にどんどん流れる。


「嫌っ、離して……!」


降りしきる雨に濡れ鼠になりながら、美夜は腕をねじり、小さな体で必死の抵抗を続ける。


「お前を連れてくるようにとあの御方からのご命令だ。ガタガタ抜かすな!」


耳元に浴びせられる男の罵声に、喉がひゅっと(かす)れた音を立てる。

大人の男の怒鳴り声を聞くと、父や人買いの男達の記憶が否応無しに(よみがえ)り、身がすくみ上がって動けなくなってしまう。


その隙に男達は、美夜を自動車の後部座席に押し入れて自分達も両脇に座り、美夜は声を出す間も無く猿轡(さるぐつわ)を噛まされて両手を後ろで縛り上げられる。


騒々しいエンジンの音と共に、車は何処(どこ)へやら走り出す。

この悪夢の様な出来事の唯一の救いを挙げるとすれば、懐に入れておいた写真の封筒だけは無事だったくらいだろうか。


(怜子さま……)


しかし、胸元の写真はカサリと乾いた音をさせるのみで、美夜の心の声に答える事はなかった。

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