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可惜夜の波乱

(良かった。もう腫れも無くなったみたい)


氷で冷やした事で、打たれた頬もどうにか赤みが引いて元の白さを取り戻す。


美夜の顔を見た千登勢が、大慌てで美夜の手を掴んで鏡の前に連れて行くので、見ると左頬は雪に紅葉の葉を一枚落とした様にすっかり腫れ上がっていた。


「一体、こんなに赤くなるなんて何があったの?」


「何でも無いの。さっき蚊が止まった時に叩いたら、腫れてしまったみたい」


本当に、今晩何度目の嘘だろうか。

とはいえ、こんな顔で怜子の前に出る訳にもいかないので、千登勢に持ってきてもらった氷で頬を冷やす事に専念した。


今一度、改めて鏡の中の自分の顔を見ると、普段から下がり気味の眉が一層しょぼしょぼとうなだれていく気がする。


あの時、湧き上がる怒りを露わにして美夜の頬を力の限り打った珠緒の剣幕―――嫉妬に狂える般若の如き凄烈な表情でありながら、彼女の(おもて)からその美しさが損なわれる事はなかった。

激昂の為に、椿の花弁を貼り付けた様に上気した瞼や、吊り上がった柳眉(りゅうび)が、却って彼女の顔にまたとなく不思議な魅力を加えていた。


美夜の顔はといえば、太陽の光を殆ど浴びてこなかったせいか、色だけは抜ける様に白い。

だが、下がり気味の眉や丸っこくて低い鼻も相まって、全体的にどこかひ弱で頼りないと自分では思う。

髪だって、漆黒の艶を帯びて見事に丈なす珠緒のそれに比べれば、色素も薄い猫っ毛だし……とおさげを持ち上げた時、


「この髪も、肌も、瞳も月の光を溶かし込んだのではないかと思う程に色素が薄くあえかで―――月明かりの下ひそやかに咲く月見草の様だ」


美夜の髪を指先で弄びながら耳元で甘くそう囁いた侯爵の言葉が蘇ると共に、再びその熱い吐息を首筋に浴びせ掛けられた気がして、ぱっと手を離してしまった。


(分かってるわ。わたしが怜子さまに相応しく無い事くらい)


美しさばかりでない。

家柄も財産も、何もかも自分が持ち得ない物を珠緒は持っている。


何も持たない自分は伯爵夫人の言う通り、全く取るに足らない存在なのだ。

行かない方が良いのだろうかと、最初、バルコニーに向かう美夜の足はたゆたいがちだった。


それでも―――怜子が美夜の事を待ってくれていると思うと、次第に足取りも軽やかに、自分でも気づかない内に息を弾ませてその場所を目指していた。




パーティーの後では怜子もドレスを脱ぎ普段の装いで、白絹のブラウスに黒天鵞絨(ビロード)のタイ、ダークネイビーのスカートが夜風を含んでふわりと膨らむ。


「お疲れ様。ほら、私の隣にいらっしゃい」


夜空には雲一つ無く、星は真珠を撒いた様にきらめき、明月はバルコニーに並ぶ美夜達を見守る如く柔らかに月光の(とばり)を降ろしている。


明けてしまうのが惜しい夜―――可惜夜あたらよとは、こういう晩を言うのだろう。


傍らに()き人の御座(おわ)すればこそ、尚の事そう感ぜられるのではあるまいか。


「夜の素晴らしいこと―――」


怜子はしみじみと感じ入る如く、ほうと息をついては月を見上げる。

その姿は、天人の迎えによって月へと舞い戻ったかぐや姫に心奪われたまま、届きもしない月宮殿の彼方を眺めずにはいられない帝を思わせた。


「あの、怜子さま」


どこか触れがたい気高さを宿す怜子に声を掛ける事は、少し躊躇われたが―――この言葉だけは、どうしても言わねばならない。


「二十四歳のお誕生日、おめでとうございます……心より、お祝い申し上げます」


朝からパーティーの様々な準備に追われてすっかり言いそびれてしまったけれども、大切な人がこの世に生を受けた記念すべき日なのだから、自分の口から怜子に祝福の言葉を贈りたかった。

すると怜子は溢れる思いを抑えきれないといった様子で、感情の迸るに任せて美夜の手を取る。


「ありがとう。美夜からのお祝いの言葉、しっかりと受け取ってよ」


「いいえ。わたしに出来るのなんて、こうしてお祝いを申し上げる事だけですもの。今年も、何の贈り物も怜子さまに差し上げられませんで……」


毎年この日になると、伯爵家には匂いやかなブーケだの、眩い宝石を散りばめたブレスレットだの、金に糸目をつけない贈り物が怜子の為にひっきりなしに届くのだった。


だが、美夜にそのような贈り物を買うお金があるはずもない。


本当は美夜だって、自分の為にあれやこれやと世話を焼いてくれる怜子への感謝の気持ちを、贈り物に込めて捧げたいのに。

言葉より他に贈る物を持たない自分が、何だか情けない。


「美夜が自分の口でこうしておめでとうを言ってくれるのが、私にとっては一番嬉しいの。どんなに高価な贈り物も、最後には形が無くなって失われてしまうけれど……美夜が私の誕生日を祝ってくれたという思い出は、ずっと私の心に残るもの」


美夜の小さな手を握りつつ、胸の轟くままに声を震わせる怜子の言葉には、単なる気休めやお世辞とも思えぬ真情が込もっていた。


怜子は彼方の夜空を見上げ、深い理知の宿る眼差しを可惜夜の月に向ける。


「この頃ね、よく考えるのよ。自分の将来について」


「将来……ですか?怜子さまは、伯爵様と同じように貴族院にお入りになるのでは?」


怜子の父である伯爵は、華族によって構成されている貴族院の議員を長年勤め、議会の中でもかなりの力を持つ存在として知られている。

一切表情を変える事無く、粛々と自分の意見を述べるその姿から「氷の清小路」と呼ばれ、周囲から畏怖の目で見られているのだとか。


彼女の望みは、娘である怜子も貴族院の議員にする事。

怜子が将来貴族院入りする時の為、今から地盤を固めようと動き回っているらしい。


パーティーなどがある度、政界の有力者、特に父と親しい貴族院の議員には積極的に挨拶をさせられるのだと怜子がぼやいているのもよく聞いている。


「ええ。おもうさまはご自分と同じ道を私にも歩ませたがっておられるわ。確かに、(まつりごと)に関わるというのも立派な仕事には違いないけれど……それとは別に、夢があるの」


「夢、ですか?」


怜子は美夜と目を合わせたまま、ゆっくりと頷く。 

その真摯な眼差しに、ほんの小さな言葉さえ出てこない。


「今の社会は、日輪を中心として全てが回っているわ。そして、月影は日輪の子を生むのが役割として、この世に生を受けた時からその人生が決まってしまっているのが現状よ。でも、私は日輪であろうと、尋常種であろうと、そして月影であろうと―――誰もが自分で自分の生きていく道を見定めていける世の中にしていきたい。その為に、華族として、日輪として生まれ持った力を使いたいの」


怜子の胸の内を一言たりとも聞き漏らさじとしていた美夜は、そこで初めて感嘆の息をつく。

そして、自分の主人を見上げた美夜の瞳は、憧憬に潤み切っていた。


生まれ持った性別に関係無く、誰もが自分で自分の生きていく道を見定めていける世の中にしていきたいとは―――何という偉大な夢だろう。

そのような夢を怜子が抱いていた事に驚きはしたもの、それはすぐに彼女への尊敬へと変わっていった。


み空の月を背にして立つ怜子はその月明かりに()らずとも、彼女の内にある高潔な信念によって、十二分に神々しく光り輝いている―――美夜は胸震え、温かいものが込み上げる心地だった。

欺瞞(ぎまん)と空虚さに満ちた上流社会をあれほど気疎(けうと)く思っておられたこの方が、他の誰かの為に自ら華族としての生き方を選ぼうとしている。


それを怜子が自分に打ち明けてくれた事こそ、美夜にとっては無上の喜びだった。


「どんなに素晴らしいでしょう。ほんとうに、世の中がそうなれば」


月影としての出産の務めに追われるまま、とうとうその命を落とした母。

自分の意志を持つ事も許されず、強いられるままに嫁がされた兄や姉達。

そして、この世に生を受けた瞬間から金と引き換えにするべく、自由を何もかも奪われて育った自分。


深く底知れぬ辛い運命を辿らされる月影が、自分で人生を選べる事によって一人でも減れば―――


それは、美夜自身の心からの切なる願いでもあった。


「長い時を経て根付いた人々の意識を変えるのは、容易な事ではないでしょうね。世間知らずの小娘の戯言(ざれごと)だと嘲笑う人もいるかもしれない」


怜子は束の間憂う如く伏せていた目を凛と上げ、昂ぶる気持ちを解き放っていく。


「けれど、私はどんなに(くら)い闇が待ち受けていようとも、必ずこの望みを実現させてみせるわ」


誓うが如く宣言した怜子の気高さに、美夜は息をするのも忘れそうだった。

なんと高潔で、偉大な御方だろう。


「怜子さまなら、きっとおできになります」


美夜は目を輝かせ、高鳴る心をそのままに声を弾ませて言った。


「立派な伯爵様におなりになって、そして―――お美しい奥方様をお迎えになって」


その言葉を口にする時、美夜の胸は少しく痛んだ。

近い将来、清小路家にやって来るであろう花嫁の姿を、美夜は容易に想像できる。

美夜とは天と地ほどの差がある境遇に生まれ落ちた、華族の姫君。

血筋も申し分なく、晴れやかな光の中で育まれた月影。


今宵のパーティーにやって来た娘達の誰かが、怜子の未来の妻となるかもしれないのだ。

もしくは、あの世にも稀なる美しさを持つ野々宮侯爵令妹か。


娘の妻を決めるのは、他ならぬ父の清小路伯爵である。

メイドの美夜なぞには、初めから無縁の話だ。

だから、強いて笑顔を作り、わざとらしく明るい声を出す。


「一体、どんなお綺麗なお嫁様がいらっしゃるのでしょうね。怜子さまの奥様にお仕えするのが、わたしも今から楽しみです」


けれど、怜子は笑ってはいない。

切れ長の(まなじり)をすっと細め、美夜を見下ろす。


「一体いつ、私が結婚するなんて話をして?」


何の感情も宿さない低声に、美夜はびくりと肩を震わせる。


「私が美夜に黙って、妻を娶る様な人間に見えるの?」


一歩一歩、怜子は着実に美夜との距離を詰める。


「も、申し訳ありま……」


一体、何が怜子の忌諱(きき)に触れたのか。

自分が何をしでかしたのか分からずとも、ただ謝るしかない。


しかし、怜子はお下げの頭を下げようとする美夜の頬を両手で包み、瞳を覗き込む。

曇天を切り裂く一筋の陽光の如く、どこまでも真っ直ぐに美夜の胸の奥まで射し込んでくる怜子の眼差し。

その目は清らな水の様に澄んでいながらも、底知れぬ深淵の如く見通せない。


常ならば慈悲の光に満ちた愛日の瞳に、何故だか背筋がぞくりと波打つ。

こんな目をした怜子を、美夜は知らない。


「私が美夜を(あざむ)いたり、隠し立てをした事はないでしょう」


「ええ。それは、重ね重ね承知しております」


おずおずと言葉を絞り出す美夜をまじろぎもせずに見つめ、怜子は続ける。


「だから、美夜も私に嘘をついたりしないで頂戴。あなたは私のメイドよ。私に黙って他の日輪のものになるだなんて、絶対に許さないわ」


主として、支配者としての日輪の威光を(みなぎ)らせ、怜子は決然と言い放つ。

怜子の口から発せられれば、それは美夜にとって絶対的な命令となる。


こわばる喉を、苦い唾が下り落ちていく。


「勿論、です」


美夜がようよう返事をすると、怜子の顔にはいつも通りの淑女の微笑みが戻った。


「安心したわ。やっぱり、美夜は良い子だものね」


そして、母が我が子にする様な慈しみの手つきで、美夜のお下げ髪に触れる。


「何があっても、私が美夜を守るわ」


可惜夜のそよ風の様に、怜子の囁きが優しく美夜の耳朶(じだ)を撫でる。

うなじに冷たいものが走ったのは、涼やかな夜気のせいばかりではないだろう。



時を同じくして、人影一つ無く静まり返った夜道を、二台の丹塗の人力車が砂煙を上げながら走る。

(ほろ)を上げたその車上の人々こそ、今まさに清小路伯爵家での夜会からの帰路に着く野々宮侯爵姉妹であった。


「どうした、珠緒?そんな顔をしては、折角の花の美貌が台無しではないか」


伯爵家を出た時からずっと腕組みをして膨れ面をしている珠緒が気にかかったのか、姉の焔は隣を走る(くるま)からおだてるように妹に声を掛ける。


珠緒は普段から、この勇猛果敢な日輪の姉を自分の美貌と同じくらいの誇りとしている。

この珠の如き美しさゆえ、パーティーなどに顔を出せば男女問わず大勢の日輪が彼女の元へ馳せ参じるものだが、怜子に勝てる見込みがある日輪など姉の他には存在しないのではと思われた。


しかし、自慢の姉にいたわりの言葉を掛けられようと、珠緒の機嫌はそう簡単には直らなかった。


「姉上にはお分かりになりませんわ!さっきのパーティーで、あたくしの味わった屈辱なんか」


そう言って、普段から甘やかされ切ったわがまま娘らしい態度でそっぽを向いてしまう。


「帰ったら話を聞こう。案ずるな、この姉が可愛い妹のお前の為に叶えてやれない望みなど、何一つとして無いのだから」


焔は事も無げに鼻で笑って見せると、俥を引く車夫に向かって「おい、いつもの場所にやってくれ」と命じる。


「珠緒、お前は先に家に戻っていろ。私はまだ寄る所があるのでな」


そして、ある辻に差し掛かり、二台の俥は各々別の道へと分かれゆくのだった。




煌治(こうじ)町の野々宮侯爵邸は、彗応(けいおう)の時代に建てられた宏大な武家屋敷で、その豪壮な佇まいを今となっても残している。


野々宮家は元々大名の家柄であり、御一新の後に侯爵の位を賜った。


その風格のある門構えを目にする度、通りがかる人々は「これが野々宮のお殿様のお屋敷なのだよ」と囁き合うのだった。

俥がその門を潜って玄関に横付けされるなり、珠緒は長い袂を花房のように振り乱して、さっさと飛び降りてしまった。


数寄を凝らした広々とした玄関先には、御殿女中といった風情の使用人達が(うやうや)しく三指を突いて、珠緒を出迎える。


「お帰りなさいませ、御姫様(おひいさま)


けれど、珠緒はそれらの女達には見向きもしないで、一番隅で微動だにせず礼の姿勢を保つ一人の女中の前で足をぴたりと止める。


「お志津(しづ)


姫君直々のお声掛りによって、志津と呼ばれた女中は初めて顔を上げた。


「はい、御姫様」


尋常種ながら、すっと立ち上がると背丈のみは日輪並みに高い。

その体を沈んだ地味な色彩の着物に包み、大股の急ぎ足で廊下を渡る珠緒に足音一つさせず付き従う姿はさながら影であった。


箱入り娘という言葉通り、屋敷の奥深くにある珠緒の自室に戻ると、志津は姫君の為に帯を解いたり、化粧を落としたりと甲斐甲斐しく立ち働く。

その金襴緞子(きんらんどんす)の帯を結んだのも、玉肌に白粉を塗り込み花唇に紅を差してやったのも、元はと言えば全て彼女の仕事だった。


口を一文字に結び、ぎゅっと拳を握りしめてされるがままになっている珠緒の姿が、黙々と手を動かす志津と共に、部屋の片隅の薄黄な行灯によって障子に影絵のように映し出される。

部屋の中はひっそりと静まり返り、聞こえるのは衣擦れの微かな音のみだった。


社交界において絶世の美女として知られ、珠緒の美しさの揺籃(ようらん)ともなった月影の母は、姉の焔がまだ学生の頃に事故で儚く世を去っていた。

数年前に父も病により没し、姉が侯爵の位を受け継いで以来、二人の姉妹と使用人のみの屋敷はいつも閑寂(かんじゃく)としていた。


「怜子様には、お会いになれましたか」


室内の沈黙を破った、志津の抑揚の無い無機質な声。


だが、神経の昂ぶった今の珠緒にとってはそれすらも堪えられない。

やり場の無い怒りを持て余すように体をわなわなと震わせ、紅を付けずとも撫子色の唇を噛み締める姫君の立腹は誰の目にも明らかだった。


珠緒はくるりと振り返るやいなや、志津の着物の襟元に縋り付き、今まで姉や他の女中達の前でどうにか抑えてきた涙をわあわあ流す。

仄暗い行灯の元で化粧を落とした彼女の泣き顔は、伯爵家の(きら)めくシャンデリアの下で盛粧(せいそう)を施した時より数歳は幼く見える。   


「お志津、許せませんわ!どうしてあたくしがこんな辱めを……」


志津は何も言わずに珠緒が落ち着くまで、震える薄い長襦袢の背中をそっと撫で続ける。


「御姫様、清小路様のお宅で何があったのか、(わたし)にもお話いただけませんか?」


「うん、聞いて頂戴お志津。あのね……」


母は自分の美貌をそっくりそのまま受け継いだ珠緒を猫可愛がりしたものの、芝居見物や何やらで家に寄り付かず、子育てには殆ど関わる事が無かった。

そんな珠緒を育てたのが、野々宮家に仕える家令の妻で、彼女自身も姉の乳母として屋敷に奉公していた志津の母だ。


志津の母が亡くなった後には、焔の乳姉妹で、珠緒が幼い頃から近くにいた彼女に面倒を見てもらったようなものである。

この志津になら、誰にも打ち明けられない憤懣(ふんまん)遣る方無い思いも話せる気がした。




「本当に、お嬢様のように大層美しく雅やかな月影の方を、怜子の妻としてこの伯爵家にお迎えする事が叶えばどんなに喜ばしいでしょう」


子供の頃からずっと憧れ続けてきた怜子の、母である伯爵夫人からの言葉―――

これこそを珠緒はどんなに待ち望んでいた事だろう。


「まあ。あたくしの様な小娘が怜様の妻だなんて、恐れ多いですわ」


伯爵夫人の手前そう謙遜(けんそん)してみせたものの、内心ではほくそ笑む気持ちが抑えられなかった。


(当然ですわ。今まで、一体あたくしがどれほど骨を折ってきたと思っていますの?)


どんなに眩い輝きを放つ天然の珠も、磨きを掛けてやらねばすぐに曇ってしまう。

珠緒は自分の美しさを保つ努力も、良家の娘として恥ずかしくない教養を身に付ける稽古も怠った事は決して無い。


それもこれも全て、怜子の妻として相応しい月影になる為。

目的を実現させるには、どんな労苦も(いと)わない。


「お嬢様には、是非とも怜子に会って頂きとうございますわ。それにしても、あの子もどこに行ってしまったのかしら……」


夫人は一刻も早く珠緒を自分の娘に引き合わせたくてならないらしく、そわそわとした様子でパーティー会場を見渡すのだった。


対面の瞬間を想像すると、さすがの珠緒も緊張で動悸が早まる気がしたが、それよりも怜子と会って言葉を交わせる事への期待が高まっていった。

彼女の高貴な美しさと聡明さには、二十四歳の誕生日を迎えて一層の深みが増している筈だ。


あの方は自分をご覧になって、何と思し召すだろうか。


「ああ、いましたわ。もう、あの子ったらあんな所に……」


愛娘をパーティーの片隅に見つけ、嬉々として歩み寄ろうとした夫人の足が、見えない壁に当たりでもしたかのようにぴたりと止まった。


「どうなさいましたの、奥様?」


夫人の視線の先を追うと、ロイヤルブルーのドレスを纏った伯爵令嬢はワイングラスを上品な仕草で傾け、傍らに立つメイドと談笑している様子だった。


だが、珠緒は久方振りに目にする意中の人の麗しい姿に見惚れる事も無かった。

大口を開けるのははしたないからと笑う時も袂で口元を隠す程なのに、それさえ忘れて開いた口が塞がらなかった。


メイドがしているのは装飾性も何もあったものではないが、それでも役割こそ自分と全く同じ―――月影の首輪だ。


(何ですの、あの娘は……?)


華族の中でも名門として音に聞こえる清小路家が、月影をメイドとして雇っているというだけでも驚きなのに。


怜子と、彼女に寄り添うメイドとの間を満たす、何とも言い知れぬ雰囲気。

日影(ひのひかり)の様な目を引く存在感がありながら、月影(つきのひかり)の様に、互いを心の底から思い遣る柔和なやさしさまでもが二人から滲み出ていたのではあるまいか。


まるで、あれでは―――


頭に浮かび掛けた言葉を、珠緒は激しく首を揺さぶって打ち消した。

例え頭の中でも言えば最後、まともではいられなくなってしまうと本能が告げる。


(絶対に、有り得ませんわ!そんな事って……)


美しい月影である自分は、完璧な日輪と対の日月として結ばれる事こそが、一番の幸せ。


何度もそう教えられてきたのだから、珠緒は天の道理と信じて疑いもしなかった。

そして、それは怜子にとっても同じ筈だ。


天理に背く事は、何人たりとも許されない。

いや、許されて良い訳が無い。


年若い女性、特に自分と同じ月影と相対する時の習慣として、珠緒はすぐさまメイドと自分の容姿を比較してみた。


その顔には可愛らしさというものが全く無い訳ではなかったが、かといって咲き誇る美しさにはほど遠い。

月足らずで生まれてきた子の様な弱々しい感じのする、どこにでもいそうな小柄な娘。


この娘が自分の対等な競争相手たり得ないのは、考えてみるのが馬鹿らしいくらい、火を見るより明らかな筈だった。


だが、そう何度も自分に言い聞かせても、胸の奥底から湧き上がる得体の知れない黒雲が和らぐ事は無い。

まるで、それまで何の憂いも知らず満ち足りていた天満月(あまみつつき)が、刻一刻と削られてゆく様な―――


まさか。自分ともあろう者が、嫉妬しているのか?こんな娘なぞに?

欲しい物は願えばすぐに周囲が与えてくれるのだから、嫉妬なんて言葉は珠緒の辞書に存在しなかったのである。


そもそも、珠緒が持ち得ない物など何一つ無い。


これが生まれて初めて感じる()()だというのは、珠緒にとってにわかに信じがたかった。


「怜子さん、今夜はあなたの為に月影のお嬢様が大勢お越しになっているけど、その中でも特にご紹介したい方があるのよ」


伯爵夫人の言葉に、一気に(うつつ)へと引き戻される。


(落ち着きなさい、野々宮珠緒!) 


嫉妬の気というのは、劣った者が優れている者に対して起こすのではないか。

自分がこんな使用人如きに劣っているなど、冗談ではない。


珠緒は着物の上前が(めく)れぬよう、ゆっくりと怜子達の前に歩みを進め―――自分が一番魅惑的に見えると、彼女自身よく知っている微笑みを見せつけてやる。


メイドは珠緒に対して恨みがましい白眼を向けるでも無く、息を呑み、彼女の美しさから目が離せない様子。

その反応に珠緒はいささか物足りなさを感じたものの、彼女の自尊心は十分に満たされた。


「どうして、月影のメイドなぞを雇っていらっしゃいますの?清小路伯爵家ともあろう名門が」


意地の悪い当て(こす)りを、それと気取られぬ様に言ってのける余裕さえ出てきたのだった。

だが、こんな娘を珠緒が気に掛ける事はない、と自分に気を使っているのがありありと分かる伯爵夫人の言葉に対する、怜子の反応がひどく(かん)に障った。


「おたあさま、美夜に向かって何て言い方を……!」


(怜様、庇い立てなさいますの?その娘を)


苛立ちは怜子本人では無く、美夜という名前のメイドへと向けられる。

美夜、と呼び捨てにしつつ、飛べない雛をそっといたわってやるような、どこか親しい仁愛の響きが彼女の澄んだ声音に含まれている事がまた頭に来る。


だからこそ、伯爵夫人に珠緒へ飲み物を持ってくるようにと言いつけられた美夜が、そそくさと礼をして立ち去った時は本当に溜飲が下がった。

そのすぐ後に伯爵夫人も他所の夫人方の所へ行き、怜子と二人きりになれると、もうさっきまでの心苦しさも焦慮(しょうりょ)もどこかに吹き飛んでしまった。


怜子はほんの数秒、どうすれば良いか思案している様子だったが―――やがて、和顔愛語そのものの振る舞いで珠緒に向き合う。


「ご機嫌よう―――珠緒さん。お家では、皆さんお変わりありませんか?」


清らかに透き通った美しさに、洗練された知的な口調に表される頭脳の明晰さ。

どれ一つ取っても、怜子に欠けているものなど無いのではと思われた。


この方より素敵な日輪様が、他にいるものか。


まだ父が壮健で、珠緒がほんの十二の子供だった六年前。

侯爵家の庭園で開かれた十五夜の月見の催しにやってきた怜子を目にしたのが、珠緒の初恋となったのだ。


(怜様こそがあたくしの対の日輪に違いないと、あの時確信しましたのよ。怜様は、どうお思いになりますこと?)


一目惚れというものがあるとすれば、まさしくそうだったのだろう。


怜子の誕生日の贈り物として選んだのは、深い海の色をした大振りのサファイアと、金の土台の(ふち)に施された細かい彫刻が目を見張る、舶来品のイヤリング。


「まあ、私にくださるの?こんなに高価な物を貰ってしまって、恐縮だわ。でも、お気遣いいただいてありがとう」


怜子は伯爵令嬢らしく丁重に礼を述べ、百貨店でお志津をあっちこっちと連れ回して選んだ甲斐があるものだと珠緒は一人得意になった。


「大した品ではありませんけれど、是非とも身につけていただきとう存じますわ。ハイカラな怜様にはさぞお似合い遊ばすと思いましたから」


「ええ。大切に使わせていただくわ」


怜子はそう言いつつ、どこか気の晴れなさをその整った面差しに浮かべていたが―――ちらりと横目で柱時計を見やると、彼女の(もや)の様な不安は、はっきりと実体を伴って顔に現れた。


「美夜が、まだ戻って来ないわ」


「え?」


あんなメイドの事なぞ、珠緒は今の今まですっかり忘れ去っていたのである。

怜子との楽しい一時に水を差されたようで、ひどく忌々しかった。


(本当に、どこまで人を不快にさせれば気が済むんですの!)


もしかしたら、こうして怜子の気を引こうとわざと戻るのを遅らせて、心の中では舌でも出しているのではあるまいか。


「どうしましょう。美夜に何かあったら……私、少し失礼させていただきますわ」


「怜様!」


行かないでくださいまし、と引き留める間も無かった。


自分より、あの娘が怜子に選ばれるだなんて。


風の様に遠ざかるドレスの背中を見送りながら、取り残された珠緒は袂の陰でぎりりと爪を噛むしか無かった。




「よし、よし。お(つろ)うございましたね」


穏やかな拍を付けて、幼子をあやすかのように珠緒の背を打つ志津の手。


その手は亡き月影の母の如くしなしなと美しくも、日輪の姉の如く鍛え抜かれた頼もしさを持つものでも無かった。

だが、悪い夢を怖がって泣いても、この手で撫でられるとすぐさま眠りに着く事ができた子供の頃のように―――珠緒にとっては、何よりも安心をもたらしてくれる存在だった。


「ご心配は要りませんよ。御姫様」


志津は手を止め、ぽつりと呟く。


「御姫様に危害を加える不逞の(やから)は、この志津が断じて許しはいたしません」




一方その頃。


年若き侯爵を乗せた人力車が通るのは、千尋の水底深い竜宮城で別世界の夢を見せる乙姫の姿を象った―――美原(よしわら)遊郭という、一夜限りの泡沫(うたかた)の色恋を売る場所の本質を現している大門である。


鬼灯にも似た灯籠が軒先に吊るされ、紅殻(べんがら)塗りの格子の奥で着飾った女達がずらりと居並ぶ光景はまさしく百花繚乱。

伯爵家の夜会にも負けず劣らずの絢爛さと賑わいがある。


しかし、夜風に漂うどこか妖しい淫靡(いんび)な空気は、焔の通い慣れた花街でしか感じられない物だ。


「ここだ。降ろせ」


俥は、一軒の妓楼の前で立ち止まった。

その店は周囲の女郎屋に比べれば、風格も活気も目に見えて異なる。


だが、それもその筈。


尋常種の男の為に女達が春を売る他の店に対し、富も権力も有り余る日輪を客としたその店では彼らを歓待するべく、容姿や芸事も格別に秀でた月影を男女問わず取り揃えている。


「美原に女郎でもない女がいやがるじゃねえか。一体誰だい、あいつは」


「おめえ知らねえのか?野々宮の若侯爵の日輪様だよ。女ながら、この界隈での遊び振りは有名な話だぜ」


(精々ほざいていろ、尋常種どもめ)


酔った男達の辺りを(はばか)らぬ悪たれ口も、今の焔には愚にもつかない事だった。


焔が暖簾(のれん)を潜ると、帽子を取らずとも彼女の姿を目ざとく見つけた番頭が、丁重にこの常連客を出迎える。


「これはこれは、侯爵様!いやあ、ようこそお越し下さいました」


紅藤(べにふじ)はいるか」


呉服屋で反物の在庫を確認する如く、焔は何でも無いという口調でこの大店(おおだな)でも一、二を争う馴染みの花魁の名を尋ねる。


「ええ、おりますとも。先程から侯爵様をお待ちかねで。ささ、どうぞこちらに」


いそいそと店の奥へと案内しようとする男を、焔は片手で制した。


「いや、必要無い。もう、ここには来ないのだから」


「へ……」


金壺眼(かなつぼまなこ)をさらに丸くしてあんぐりと口を開く番頭に対し、間抜け面めが、と胸の中で吐き捨てるほど焔は極めて冷静だった。


「そっ、そ、それは、い、一体どうしてです?」


「二度も言わせるな。私が来ないと言えば来ないのだ。紅藤にもそう伝えておけ、いいな」


(きびす)を返して立ち去ろうとする焔に、番頭はなおも追いすがる。


「困ります、侯爵様!今まで散々ご贔屓いただいたではありませんか。何故急に……」


焔は番頭の理解力の乏しさに呆れ返って天を仰ぎ、他の客や月影達も何事かと彼らに注目する。


「野々宮様!」


広々と左右で組まれた中央の階段の上から、横兵庫に挿した髪飾りや幾枚も重ねた着物の質も他の月影より段違いの、(くだん)の紅藤花魁が姿を現す。


遊女三千と呼ばれる美原の中でも、花魁は女郎達の頂点に立つべき最上級の存在。

会うのも簡単な事ではなく、焔の様な特別な馴染み客を別にすれば、お目見えする為には大金を注ぎ込む宴を開かねばならず、その宴でも客が上座に座る事は許されない。


こうして花魁自ら客の前に出てくるのも有り得ない事だが、番頭と焔のやり取りを見ていた自分の禿(かむろ)の少女に教えられ、とてもじっとして居られずにやって来たのだ。


「野々宮様、訳をご説明なさいまし!理由が分からねば、わっちも納得がゆきませぬ」


未練がましく焔の腕を掴む紅藤の手を、上体を(ひね)りながら振り払うと―――焔はその指をサーベルの柄に掛けてシャキリと抜き、彼女と番頭へと突き付けた。

研ぎ澄まされた(しろがね)(やいば)に二人ともへなへなと腰を抜かし、甲高い悲鳴が女達の間で起こる。


だが、抜けば玉散る氷の刃と相反して、焔の双眸は燃えたぎる憎悪をその中に覗かせた。


「これ以上私に触れるな。私とて、お前の肉叢(ししむら)などをたたっ()ってこの剣を汚したくは無い」


かつての寵姫(ちょうき)に対する(ねんご)ろの情なぞというものは、その片鱗さえ消え果てていた。


さる富豪に、幾戸の豪邸が建つ程の千金を積まれて身請けを乞われようと、頑として首を縦には振らなかったという噂もまことしやかに囁かるる、稀代の傾城(けいせい)と呼ばれた花魁だが―――

白粉が落ちるのも憚らずに滂沱(ぼうだ)と涙を垂れ流して、がちがちと歯を鳴らす彼女の惨めな姿に、誰がそれを信じようか。


「理由か?」


その反応に満足した焔は、サーベルを元通り(さや)へと収めざま、高らかに周囲へ宣言する。


「見つけたのだ、やっと……我が運命の(つがい)、対の月影を!」

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