番外編 お志津のお見合い
「だって、こんなに良いお天気の日ですのよ」
そう珠緒が声高に訴えるのは、朝から何度目だろう。
彼女の言う通り、春を迎えて間もない空は、抜ける様な好晴だった。
「おまけに稽古の予定も入っていなくて。桃の花も見頃だというのに。家で何もせず臥せっているなんて、あたくしにはできませんわ」
蝶よ花よと育てられた箱入り娘のわがままは、今に始まった事ではない。
珠緒が幼い頃からの性質を知り抜いている志津は、それに頭を悩ませるでもなかった。
だが、当の珠緒の健康に関わる事であれば話は別である。
誉れも高き侯爵家の姫君から平民の身分となった珠緒と、彼女に仕える女中の志津。
二人が野々宮家の豪奢な別邸から、下町の質素な平屋へと居を移してしてからひと月が経つ。
歴史ある侯爵家の本邸が灰と化し、珠緒の姉である侯爵、焔が大怪我を負ったあの火事の夜から。
珠緒は自ら進んで姉の身の回りの世話をし、昼も夜も無く懸命に立ち働いていた。
自由に動く事の叶わなくなった姉に代わって使用人達を取りまとめ、屋敷を切り盛りした。
この家に移ってからは生計を立てる為に、彼女お得意の琴の師匠を始め、生徒の数も順調に増えている。
かつての深窓の令嬢であった彼女からは、想像もできない成長ぶりを志津も喜ばしく思った。
けれど、慣れない事のし通しで無理が祟ったのだろうか―――つい七日ほど前に、珠緒は風邪を引いて寝込んでしまったのである。
しばらくすると熱は下がったものの、彼女の体調が万全でない事なぞ、看病していた志津には手に取る様に分かる。
珠緒と思い思われの仲でありながら、それくらい見抜けなくてどうする。
しかし、病み上がりの身にも関わらず、珠緒は志津と一緒に桃の花見に出掛けたいと言うのである。
「私は御姫様の為を思って申し上げているのです」
もう華族の姫君でないのだから、珠緒からは変えて欲しいと言われる子供の頃からの呼び名がつい口を出る。
「病後の身で方々を歩き回って、またお風邪がぶり返したらどうなさいます」
十八の娘に対して、少々過保護が過ぎるのではないのかという自覚はあった。
しかし、珠緒が九つの時に母を喪ってからというもの、志津は彼女の親代わりも同然に面倒を見てきたのだ。
染みついた癖が、姫君と使用人という身分の差を取り払われた今となっても抜けない。
「ただの風邪なのに、お志津は大袈裟ですわ」
治りかけの風邪特有の鼻声で、珠緒は非難する様に言う。
「うかうかしていれば、花が散ってしまいますわ。こんな素晴らしい日に何もせず寝ているだなんて、それこそ退屈で病気になってしまう―――とにかく、あたくしが行くと言ったら行くのよ」
姉の庇護を離れて自立を果たしたは良いものの、ふとした時に乳母日傘の御姫様気質が顔を出す。
一度言い出せば絶対に退かない珠緒であると、志津はよく知っていたのである。
志津はとうとう根負けして、溜息をついた。
「風が冷える夕暮れ時までに帰ると、お約束してくださいますね」
「ええ、勿論ですわ。やっぱり、お志津は誰よりもあたくしの事を分かってくれますのね。大好きよ、お志津!」
先ほどまでのふくれっ面が嘘の様に、珠緒はあっけらかんとはしゃいで志津の首に腕を回す。
恋い慕う珠緒にそうされれば、志津もつい口元が緩んでしまう。
まったく、いつまで経っても困った御姫様である。
うら若い春の陽射しを浴びて縁側で昼寝をしていた猫の御萩丸は、睦み合う二人に我関せずと大きく欠伸をした。
念の為に体を温める生姜湯を珠緒に飲ませ、防寒に優れた天鵞絨の羽織を着せてから家を出る。
暦の上では春と呼ばれる折だが、足元をすり抜けていく風にはまだまだ冬の寒さが残る。
それでも、珠緒は久方振りの外出に機嫌良く鼻歌なぞ歌っている。
志津の目元にも、自然と笑みが浮かぶ。
けれど、道の向こうからやって来る相手に、思わず表情が強ばるのを感じた。
「まあまあ、お師匠さん。もう、お加減は良いんですか?女中さんも一緒に、どちらかへ行かれるので?」
人当たりの良い笑顔で話しかけてきたのは、近所に住む顔見知りの中年のおかみさんである。
志津も買い物へ行く時など、よく顔を合わせる事がある。
決して悪い人ではないのだが、必要以上に探りを入れてこようとしたり、噂好きなこの人の性格がどうにも好きになれない。
ついこの間、他の家の主婦達と彼女のお喋りを偶然立ち聞きしてしまってからは、尚更だった。
「あの月影の琴のお師匠さんも、風変わりな御方だねえ。あんな別嬪なら、嫁の貰い手も引く手数多だろうに。何が悲しくて、徒花の様に暮らしてるんだか」
彼女と夫婦になれない尋常種の女の身であろうとも、志津は珠緒を一生守り抜くと誓った。
けれど、世間からは若き女主人と女中という関係でしか見られない。
月影は、日輪の元へと嫁いで子を為してこそと言われる。
殊に並外れた美貌を備えておきながら独り身のまま日々を送る珠緒の様な月影は、この社会のはみ出し者なのだ。
何があろうと志津の覚悟は変わらないが、突きつけられる世間の目に時おりやるせないものを感じる。
志津がぎこちなく頭を下げる一方、珠緒は見本の様にいかにも快活な口上を述べる。
「ええ、もうすっかり落ち着きましたわ。これから、お志津を連れて桃の花を見に参りますの。それでは、また今度」
しばらく歩いた先で、珠緒が大仰に肩をすくめる。
「まったく、他人なんていい気なものですわね。陰で色々言われている事を、あたくしが知らないとでも思っているのかしら」
彼女の数歩後ろにいた志津は、思わず足を止めた。
「⋯⋯御存知でいらしたのですか」
珠緒にいらぬ気を揉ませるまいと、近所の噂に関しては徹底して口をつぐんでいた。
しかし、人の口に戸は立てられないもの。
家の中で過ごす事の多い珠緒の耳にも、彼女にまつわる外聞は届いてしまうのだろう。
「何も知らない人達には言わせておけばよろしいのよ。そんな事で、あたくし達の気持ちが変わる筈が無いでしょう?」
振り返った珠緒は、母譲りの玉の顔で勝ち気に笑う。
「はい」
微笑みと共に、志津は答えた。
例え実を結ばぬ徒花であろうとも、志津の思い人は誰よりも美しく、強く咲き誇る花である。
二人が足を運んだのは、かつてはさる大名の土地であり、今は東暁府の所有となっている庭園だった。
大名は桃子の方という正室をこよなく愛おしむあまり、そこかしこに彼女の名前にちなんだ桃の木を植えさせたという。
風流に富んだ庭園の趣も相まって、帝都でも有数の桃の名所として知られている。
鮮やかな紅に燃ゆる緋桃の花。
はにかむ乙女の頬の様に、淡く色づく花桃。
つつましく枝垂れるものや、天に向かって華々しく伸びゆくもの。
ありとあらゆる桃の花が咲き乱れる光景は、この世ならざる桃源郷の様である。
今しも花盛りを迎えた春の園の美しさに、志津も感嘆の息をついた。
「まあ、綺麗だこと!」
歓喜の声を上げて、珠緒が特に目を引く八重咲きの木の下へ駆け寄る。
花でも何でも、美しいものがあればそちらへ行かずにいられない彼女である。
百貨店の宝飾品売り場なぞへ行けば、片時も目が離せないくらいだ。
「見て、お志津!とっても素敵よ」
あちらの木からこちらの木へと目移りする間にも、ひっきりなしに志津を手招きする。
「はい、はい。今参ります」
子供じみたはしゃぎ様に苦笑しながら、志津は彼女に付き従う。
艶やかな黒髪を惜しげもなく揺らし、白磁の頬を桃色に染めて。
宝玉の瞳を生き生きと輝かせる珠緒を、桃の花以上に好ましく眺めた。
しかし、いくら珠緒に着いていこうと思っても、足の方が追いつかない。
何しろ、珠緒は病み上がりとは思えない身軽さで木々の間をすり抜けていくのだ。
寒戻りの折にも関わらず、額は薄く汗を帯びる。
近くの木の幹に手を突き、須臾の間呼吸を整える。
微かに甘い香りが鼻孔を通り抜ける。
花々の艶やかさとは裏腹に、桃の香りは楚々として控えめなものである。
青雲に翻る舞姫の髪飾りの様な桃花を仰ぐ。
こうしてゆっくり花などを見るのは、いつ以来だろうか。
美しい花々に心躍らせるごく普通の女達の様に、ありふれた幸せを終ぞ噛みしめてこなかった志津であるから。
真昼の静けさに口を閉ざして桃ヶ枝を見上げる志津の背後に、ふと足音が近づく。
「お志津さん?」
自分の名を呼ぶ若い男の声に、思わず心臓が跳ねる。
咄嗟に振り返れば、そこには洒落た三つ揃いの背広に中折れ帽を被った男がいた。
驚きに目を見開く志津を前に、男は帽子を取って歩み寄ってくる。
春の陽射しに浮かび上がる笑顔。
「ああ、やはりお志津さんだ」
誰の心をも温かくする様な笑みや、安らぎをもたらす低い声音が―――かつての少女の時代から、彼の記憶を呼び起こした。
今から七年前、志津が十七の時。
たった一度だけ、最初で最後の見合いをした相手であった。
女学校に通っていたあの頃は、志津の人生の中でも数少ない市井の少女の様に過ごせた時期であった。
志津が尋常小学校を卒業して上の学校に進むにあたり、母はあからさまに異を唱えた。
尋常種の女である志津に、これ以上の学問をさせて何になる。
これから侯爵家に奉公するにあたり、そんなものは妨げにしかならないと。
野々宮の家に代々仕える家の出で、侯爵家の家令と姉姫の乳母である父と母。
その両親の血を引く志津の将来など、生まれる前から明らかであった。
しかし、ひとまず御館様にお伺いを立てねばと、父は主君である侯爵へ話を通してくれた。
他家の主人と使用人の関係以上に、野々宮侯爵家における主従の差には絶対的なものがあった。
風岡家に生まれた尋常種は、その命果てようとも野々宮の為だけに尽くす責がある。
仮に主君が一言死ねと命じれば、即座に命を絶つ。
我が子を殺めろと言われれば、迷う間も無く従う。
それを当然とし、疑問を呈す事すら大罪とする一族であった。
野々宮侯爵家における権力を一手に握る当主、勝之助が否と言えば誰であろうと覆す事は叶わない。
しかし、侯爵は志津の進学をあっさりと認め、卒業までの学費を出すとさえ宣たのである。
曰く、志津が女としての教養を身に付ける事は、これから珠緒が育つにあたって良い見本となるだろうと。
だが、学ぶからには常に珠緒に恥じぬ振る舞いを心掛けよ、との仰せであった。
最愛の奥方に瓜二つの末娘を掌中の珠とする、侯爵らしい言葉だった。
ともあれ、志津は野々宮家の屋敷からも遠からぬ女学校の門を潜るのを許された。
そこで教わる事は何もかもが新鮮で、元より学ぶのが好きであった志津は日ごと勉学に勤しんだ。
与えられた数少ない自由を、志津は志津なりに享受していた。
華美を好む下町の大店の娘達が多い学校では、そんな志津は少し浮き気味だったが。
それでも、幾人かの気の良い友には恵まれた。
女学校を卒業間近の初春の日も、志津は彼女らと共に下校する途中であった。
友人達に付き合わされる形で立ち寄った、あんみつ屋での出来事である。
甘ったるいあんみつや砂糖菓子を次々と口に運びながら、賑々しいお喋りに興じていた少女達の視線が、突如として店の片隅へと向けられた。
「ねえ、御覧になって。あそこの殿方、素敵じゃなくって?」
志津の隣の少女が、浮ついた声音でひそひそと耳打ちした。
言われるがままにそちらを見やれば、いかにも大家の若様らしい身なりの良い青年が人待ち顔で一人座っている。
男らしい眉や懐中時計に落とされるすっきりとした眼差しなど、端正な容貌と言えなくも無い。
しかし、そうした話題に元来興味を持たない志津は、きゃあきゃあと盛り上がる友人達の会話にも乗り気になれなかった。
「きっと、日輪様ね」
と誰かが言い出した。
裕福な呉服屋や小間物問屋の娘である彼女らは、店のお得意様である日輪とも面識がある。
志津もそれには同意した。
侯爵や焔といった、身近な日輪達がそうである様に―――その青年も、ただ存在するだけで周囲の目を引きつける威光を意図せず発していたからだ。
もしかすると、華族の血を引く高貴な公達であるかもしれない。
「素敵ねえ、どこの御曹司かしら」
恋に憧れる年頃の少女達が、ほれぼれと囁き交わしていた時である。
これまた上流の令嬢といった風情の絢爛な振り袖姿の娘が、店に入るなり青年の席へしずしずと向かう。
「御免なさいね。お待たせして?」
いかにも大切に育てられた箱入り娘らしく、おっとりと微笑む彼女の首には月影の首輪があった。
それを見るなり、志津を除く全員が大げさに呆れかえった。
「ああ、やっぱりねえ」
「尋常種のあたし達には、とてもチャンスなんか無いんだわ」
「日輪様は月影と、って決まっているのだものね」
少女達の落胆など知る由も無く、若君と令嬢は睦まじく語り合っている。
門地の高い家の日輪と月影の間では、自由恋愛で結ばれる者はまれである。
親の決めた許婚同士であろうとも、二人は傍目にも落花流水の仲と見えた。
まるで、対の日月の様に。
「仕方がないわ。あたし達には、あたし達に相応の幸せっていうものがあるのよ。それで我慢しなければ」
志津の真向かいの多実というふくよかな少女が、茶化す様な口調で言った。
そして、餡子をのせた餅を口いっぱいに頬張った滑稽な仕草に、みな一斉に笑い転げた。
「ええ、そうよねえ。お多実さんの言う通りだわ」
「尋常種の女には、尋常種の女の幸せがあるんだから」
その幸せというのが同じ尋常種の男の元へと嫁ぎ、子を産み育てる事だというのは誰にも明らかだった。
尋常種の少女が女学校で学ぶのは、全て家庭を守るべき良妻賢母になる為だとされているのだから。
それを裏付ける様に、彼女らのほとんどは女学校を卒業して間もなく親に勧められるままに結婚して母となった。
数少ない例外は、画家になると画学校に進んだお多実と志津くらいだろう。
野々宮侯爵邸の敷地内にある自宅に戻った志津は、通学時の袴姿から普段着の着物へ着替えた。
いつもの様に、人気のない平屋建ての家はしんと静まり返っている。
使用人達を取り仕切る立場にあり、侯爵の右腕たる家令の父がこの時間に屋敷から戻っている筈もなかった。
母は二年前に、侯爵夫人と共に自動車事故で世を去った。
主の奥方と同じ自動車の後部座席に乗っていて、他の車に追突されたのが災いした。
夫の名も娘の志津の名も呼ばず、ただただ侯爵夫人の無事だけを祈って命を落とした母―――
虚しいばかりの静けさに身を置いていると、そんな救いの無い最期を迎えた母を否が応にも思い出してしまう。
だから、志津は普段通りに女中達の手伝いをするべく、屋敷の方へと向かった。
侯爵一家の暮らす母屋に足を踏み入れると、この家の末娘が目ざとく志津を見つける。
「お志津、やっと帰ってきましたのね!今日は一緒に遊ぼうって、あたくし言ったじゃないの」
誰からも甘やかされている御年十一の姫君は、いかにも腹立たしげに志津を睨める。
しかし、それすら父や母に猫可愛がりされて育った珠緒らしく、どこか愛らしさを感じさせるものだった。
「御姫様ったら、学校からお帰りになる時からお志津さんが戻るのを待ちかねておりましてねえ。どうぞ、存分に遊んで差し上げてくださいまし」
珠緒付きの女中の一人が、そう言って姫君を志津に託した。
事故で母を亡くして以来、珠緒は自動車に乗るのを真から怖がる様になった。
その為、華族學院初等科への登下校を、行きは志津、帰りは別の女中が徒歩で付き添う事になっている。
「遅くなりまして、申し訳御座いません。御姫様のお好きな事をいたしましょう」
早くも虹色に光る玉の様な美しさを醸し出していながら、まだまだ幼さの残る顔にぱっと笑みが咲く。
母を亡くして嘆き悲しむ時も、無邪気な喜びを見せる時も、志津は稚いこの姫君がいじらしくてならなかった。
梅の香りが匂い初むる庭先に緋色の毛氈を敷いて、志津が珠緒のままごと遊びの相手をしている時だった。
思いもかけない相手が、二人の前へ現われた。
「おい、志津。父上が貴様を呼んでいるぞ」
珠緒の実の姉であり、野々宮侯爵家の正当な長子である焔。
彼女の顔には、何故自分がこの様な使い走りの真似をしなければならないのか、という苛立ちがありありと燻っていた。
定めし、彼女も華族學院の中等科から帰宅して間もないのだろう。
燃ゆる様な紅の袴姿のままで、草履の底で執拗に地面を叩いていた。
「姉上!」
と珠緒は大好きな姉に飛びついたが、すぐに不服そうに唇を尖らせた。
「ほんとうに、お志津を行かせないといけませんの?今、お志津とおままごとをしていましたのに」
「侯爵である父上のお呼びとあらば、志津もすぐに行かねばなるまいよ。珠緒は良い子なのだから、それくらい分かるだろう?」
使用人の身分である志津には無慈悲なばかりの横暴さで、手を上げる事も厭わない焔だが、可愛い妹に対しては良き姉としてのいたわりを見せる。
珠緒も、そんな姉の言う事ならば素直に聞くのだった。
「早く戻ってきてね、お志津」
他の女中の元へ珠緒が行ってしまうと、焔は茜色のリボンで一つに束ねられた黒髪を鞭の様にしならせ、志津に向き直る。
そして、燃え盛る炎の様な非情さを露わにする。
「貴様、一体何をやらかしたんだ?愚図な貴様の事だから、きっとあの男の不興を買ったんだろう」
焔は父によく似た精悍な顔を嘲笑に歪め、小馬鹿にする様に言った。
「御館様が、妾を―――」
主君の逆鱗に触れた心当たりなどは無い。
しかし、焔の言う通り、知らず知らず侯爵のお気に障る事を仕出かしてしまったのかもしれない。
風岡家の人間として、人前で感情を見せるなと両親からは教えられてきた。
顔色こそ青ざめる事は無かったものの―――志津の胸の内は、芯から冷えていく様だった。
しかし、焔は常からの無表情を崩さない志津をつまらなそうに見やって、踵を返した。
「あんな奴、怯えるだけ無駄だ。たかだか月影一人死んだくらいで、打ちのめされる腑抜けなのだからな」
「面を上げろ」
頭上から降る重みのある声に、志津は深々と畳の上に伏せていた顔を上げた。
お声掛かりが無い限り、こちらから礼の姿勢を解いたり物言う事は禁忌である。
広々とした和室の最奥に御座す、野々宮侯爵家当主―――野々宮勝之助を前にすれば、特に。
「よく参ったな。志津」
野々宮という家の頂点に立つ日輪である彼は、まさしく王の如き貫禄で志津を正面から見据えた。
帝國軍人の証である勇ましき軍服を纏わずとも、その風格は他を圧するに十分なものだろう。
子供の頃から慣れ親しんだ三つ指のまま、志津は横目で辺りを具に眺めた。
二間続きになっている部屋は、開け放された襖の敷居によって明確な境界線が引かれている。
踏み入る事を許されない彼我の境は、永久に越えられない主従の尊卑そのものであった。
そんなものは、この家に忠義を尽すべき尋常種として生を享けた者には当然の摂理である。
しかし、境目のこちら側に自身の父がいるのを、志津は訝しく思った。
侯爵家の忠実なる家令である父の大義は、神妙な面持ちで部屋の片隅に座したまま、微動だにしなかった。
やはり、志津は良からぬ不始末の為に招ぜられたのだろうか。
志津の胸の内を知ってか知らずか、勝之助はにわかに相好を崩した。
「そう、固くならずとも構わん。何も取って食おうという訳ではない」
仁王の様に凄みのある表情を緩め、鷹揚にあぐらの脚を組み替えた。
それでも、志津は息苦しさに居すくまったままであった。
自分と同じ軍人とし、侯爵家の跡目を継がせる娘の焔には一切の容赦を許さぬ父の勝之助。
焔の体に、苛烈な教育の証である傷が所狭しと刻まれているのを志津は知っていた。
幼い頃から自分を虐げ続けた父を、焔は心の底から憎んでいる。
厭悪という言葉では言い尽くせぬ昏い炎が、彼女の魂を燃やし続けている。
勝之助の酷しさは、実の娘に留まらない。
尋常種である使用人達にも情けをかけず、厳然と罰を下す。
少しの不手際によって屋敷を追われた女中や下男は数え切れない。
日輪にあらざれば人にあらず、というのが彼の信条であった。
勝之助という日輪に対して畏怖の念こそ覚えれば、親しみなぞ感じられる筈もなかった。
「今日お前をここへ呼び寄せたのは、他でもない。もう間も無く、女学校も卒業であろう。これからの暮らしについて、考えた事があるか」
「……御座いません」
消え入る様な声で、しかし明瞭に志津は答えた。
この命は志津のものではない。
野々宮の為に使われ、いずれは尽きる蝋燭の様なもの。
そんな自分が、どうして未来なぞを思い描けよう。
何故、勝之助がこのような問いを投げ掛けるのか、志津は甚だ疑問であった。
「そうであろうな。そこでだ、志津」
射すくめるかの様な炯々たる眼光を向け、勝之助は言う。
「私はお前の為に、他家との見合いを用意しようと思うのだ」
自分が何を言われたのか、即座に理解する事はできなかった。
呆気に取られる志津をよそに、勝之助は独り続ける。
「お前も十七。嫁ぐのに、早すぎるという事はあるまい」
女学校の同級生には、卒業を待たずして結婚した少女も少なくは無い。
この歳になれば、志津とて自分もいずれは誰かと添う事くらい想像がつく。
しかし、それは風岡の血を絶えさせぬ為の結婚。
従兄妹同士で娶された父と母の様に、決められた親族の男と夫婦になるものだとばかり思っていた。
自分と同じ役目を負う子を生み、野々宮家に仕えるだけの人生を送るのだと思っていた。
しかし、勝之助は他家との縁組みを用意する、と言った。
志津がよその尋常種の元へ嫁ぐ事。それはすなわち、野々宮を離れる事を意味する。
絶えず志津を縛り続けた野々宮という頸木は、他ならぬ勝之助の手によって外されようとしているのだ。
「志津の結婚に関してはお前も賛成だろう、大義」
畏まる父は、侯爵の呼び掛けに初めて口を開いた。
「御館様の仰せになる事でしたら」
「お前は、本当によく私に仕えてくれたな」
他の使用人にはついぞ与えないお褒めの言葉とともに、勝之助はしみじみと目を伏せる。
「今まで、お前には散々助けられてきた。幼い時も、姉上や兄上が身罷られて私が当主の座に就いた時も、文緒が逝った時も―――お前とて、貞を亡くして辛かっただろうに」
「勿体無い、御言葉に御座います」
志津のそれとよく似た父の三白眼は感慨に染まり、声は震えさえ帯びていた。
母の貞や志津の前では、そんな表情を見せた事は決して無い。
父は侯爵の手駒の様である。
何をするにもまず彼の意向を伺い、命じられるまま無心に侍する。
しかし、ただ一族の義務として盲目に仕えているという訳ではない。
乳兄弟である勝之助に、父はどこまでも傾倒しているかの様だった。
父にとって一番大切なものは、妻でも娘の志津でもなかった。
ただただ勝之助の安寧の為に、父は己が身を捧げているのだ。
それは恋にも似た忠義であった。
尋常種を蔑む勝之助も、父やその家族だけは見下げる事はしない。
「だからこそ―――大義の娘であるお前には、ごく普通の尋常種の女の幸せを掴ませてやりたいと思った」
実の娘にそうする如く、勝之助は志津を顧みる。
尋常種の女の幸せ。
つい先ほどの、友の言葉を思い出す。
尋常種の女には、尋常種の女の幸せがあるのだから。
自分がそれを手にできるかどうかさえ、考えもしなかった。
「お前に異存さえなければ、早速適当な話を持ってこさせるが。どうだ、志津」
そう問われて、はっとする。
「御館様の有り難いお申し出だ。よもやお断りはすまいね、お志津」
だが、父のその言葉が無くとも、志津にはただ一つの答えしか許されていない。
「謹んで、お受けいたします」
恭しく頭を垂れる志津を見やり、侯爵は我が意を得たりと頷く。
「お前が無事に嫁けば、ひとまず安心できる。―――私も、いつまでも達者でいるとは限らないからな」
その瞳には、屈強な武人に似合わぬ悩ましい影があった。
対の月影と呼んで憚らぬ妻の文緒を亡くしてから、侯爵は鬱々と沈み込む事が増えた。
勇猛な帝國軍人として振る舞っていても、ふとした時に隠しきれない憂いが顔を出す。
焔に怒声を浴びせたり、躾と称して痛めつける回数もめっきり減った。
以前とは様変わりした父親を、焔は腰抜けだと冷笑していたが。
姉とは違い、憂愁に閉ざされた大好きな父に胸を痛める珠緒が、志津には不憫に思えてならなかった。
志津が見合いをするという話は、瞬く間に屋敷中へと広まっていった。
余計なお喋りで侯爵を苛立たせる事を恐れ、使用人達は大ぴらに語り合う事こそしなかったが、それでも影で集まるとその話題で持ちきりだった。
特に志津と歳の近い若い女中達は、興味津々と志津の見合いについて知りたがった。
「良いわねえ、お志津さん。御館様の御紹介ならば、きっとどれも素晴らしい良縁でしょう」
「羨ましいこと。私達では、到底縁の無い玉の輿だわ」
「お志津さんは幸せね」
一挙手一投足にも気が抜けない、息の詰まる様な奉公生活から逃れたいと思っている女中達は、心底羨ましそうに嘆息していた。
代わる代わる寄せられる羨望や称賛にも、志津は取るに足らない返事をするだけだった。
志津には幸せというものがよく分からない。
心を殺し続け、ただ命じられるままに過ごしてきた志津は、自分の感情の機微にさえ鈍いところがあった。
人並みの心を持ったままでは、野々宮家での生活はあまりに耐えがたい。
主君の娘からの手酷いいたぶり。それを見て見ぬ振りしてきた母。その瞳に家族を映さない父。
どれだけ泣こうが、叫ぼうが、救われる事は無いのだと知った。
いつしか、志津は心を閉ざして生きる事を学んだ。
しかし、傷つかない様にと身につけた術は、志津の心をすっかり麻痺させてしまった。
だが、周りは皆志津を幸せだと言う。この上ない僥倖に恵まれていると言う。
ならば、妾は幸福なのだろう。
志津はそう自分に言い聞かせたが―――何もかもが他人事の様に味気なく、彼岸の光景を眺めている気がした。
しかし、女中達の良縁や玉の輿という言葉もあながち間違いではなかった。
侯爵の伝手で集められた見合い話の相手は、誰も彼も立派なものであった。
由緒ある大店の若旦那。帝都でも名高い医院の跡取り。御一新の前は旗本であったという家の息子。
社会においては日輪より下の立場に置かれる尋常種の男達の中でも、高い地位と将来を約束された希有な人々だった。
侯爵家の家令とは言えど、使用人の娘に過ぎない志津にとっては十分過ぎるほどに恵まれた縁であった。
しかし、侯爵や父から意気揚々と彼らの話を聞かされようと、釣書の写真を見せられようと、志津の心が浮き立つ事はなかった。
そうこうしているうちに、彼らの内の一人との見合いが取り決められた。
帝都から隔たった地方で代々続く、さる老舗旅館の跡取り息子だという。
向こうの家からの是非にという要望もあり、顔合わせの日取りまでとんとん拍子に纏まった。
侯爵は志津の為にと、早速晴れ着の振り袖を誂えさせた。
百貨店から藤紫色の振り袖と緞子の帯の包みが届いた時、わざわざ他の女中達まで見にやって来た。
志津の手で畳紙の紐が解かれると、女中達は一斉に息を呑んだ。
「まあ、美しい!」
「やはり光越のものは品が良いわ。これなら、どんな名家とのお見合いにも着ていけるでしょう」
女中達が衣裳談義に花を咲かせているところに、白足袋のお侠な足音が駆け込んできた。
「皆、何をしていますの?」
珠緒の不思議そうな物言いに、志津は綸子の絹地に注いでいた虚ろな眼差しを慌てて上げた。
「お志津?」
無言のままの志津に、珠緒はあどけなく小首を傾げる。
すると、着物を取り囲んでいた女達は、姫君の為に気を利かせて脇に退いた。
「御姫様もお喜びくださいませ。お志津さんが、お見合いをなさるのですよ。御館様も、こうしてお志津さんの為に見事な振り袖まで仕立ててくださって」
まるで彼女自身が縁談を受けるかの様に、年若い女中が嬉々として語った。
目の前にさらけ出された華麗な綾絹を、珠緒は毒気を抜かれた如く見下ろす。
見合いをする事を、この時まで珠緒に話してはいなかったのだ。
侯爵の手配りによって、大人達の噂話が珠緒の耳に入る事はほとんど無い。
何と声を掛けたら良いものか、志津は戸惑いを憶えた。
次の瞬間、珠緒は真珠の粒の様に真白い頬を真っ赤に染めるや、一目散に部屋を飛び出してしまった。
「御姫様」
こぼれ落ちた呼び名も、黒髪を振り乱して走り去る後ろ姿を引き止める事は叶わない。
志津が途方に暮れる一方、女中達は平然と笑いさざめいている。
「この頃、亡き奥方様に似てますますお美しくおなりだけれど、まだまだお子様でいらっしゃる」
「遊び相手のお志津さんがいなくなるのがお寂しいのでしょう。お可愛らしいこと」
それを聞くと、志津の胸にはぽっかりと穴が空いた様だった。
淑やかな紫の絹地が、触れた端から色を失っていく気がした。
ぎゅっと唇を引き結んで背を向けた―――痛みをこらえる様な珠緒の表情が、重苦しく志津の中に残った。
それからというもの、珠緒は見るからに志津に対してよそよそしくなった。
学校へ行く時、普段ならば休む間もなく志津を相手にお喋りに興じるのだった。
しかし、志津の見合いを知ってからは、口を真一文字に結んで早足で先へ行ってしまう。
女学校から帰った志津に、一も二もなく飛びついて来る事もしなくなった。
他の女中に遊びの相手をさせる事もせず、自分の部屋に閉じこもって琴を弾いてばかりだった。
その頃から、珠緒の琴の腕前には目覚ましいものがあった。
白い胡蝶がひらりひらりと舞飛ぶ様に、小さな手は自由自在に弦の上を跳ね回る。
紡がれる音色は、聞く者の胸を明るくする麗らかさに満ちているのが常だった。
珠緒が琴を奏でる傍に端座し、その曲に耳を澄ませるのが志津の日課でもあった。
だが、閉ざされた襖の奥から漏れ聞こえる琴の音は、名伏しがたい寂しさを漂わせていた。
それを聞いていると、志津の胸も物悲しい響きに染まっていく。
けれど、閉め切られた襖を開く事はできなかった。
珠緒が生まれたその日から、志津は小さな姫君が育つ様を見守ってきた。
しかし、所詮は侯爵家の令嬢と家令の娘という間柄に過ぎない。
血の繋がった姉の様に、こちらから歩み寄る事は許されない。
見えざる主従の境界線は、どこまでも明確に二人を別っていた。
とうとう、見合いの当日がやって来た。
女学校の卒業式も、間近という頃であった。
重苦しいままの志津の胸の内とは裏腹に、如月の終わりの空は見事な冬晴れであった。
幾人かの女中達の手も借りて侯爵から賜った振り袖に身を包み、髪を結って薄く化粧を施される。
いよいよ屋敷を出ようという時、偶然焔とすれ違った。
これから素振りの稽古をするものか、紺の道着姿で木刀を手にしていた。
焔は盛装した志津をじろじろと眺め回すと、ふんと鼻を鳴らす。
「馬子にも衣裳だな。野暮ったい貴様も、普通の女程度には見られる。精々、野々宮家の名に泥を塗る事の無いように励め」
皮肉めいた口調ではあったが、いつもの焔の言い様と比べれば手ぬるくさえあった。
志津が黙って頭を下げると、焔は足音も高らかに去って行った。
結局、珠緒の姿を見る事はできなかった。
後ろ髪を引かれる思いではあったが、志津は父に連れられて野々宮侯爵邸を後にした。
帝都でも一流として知られる料亭が、見合いの場所となっていた。
父と志津が到着した時には、既に相手が待っているとの事だった。
磨き抜かれた物腰の仲居が案内するままに渡り廊下を過ぎ、閑静な離れ座敷へ赴く。
着慣れない振り袖の長い袂が、いやに重かった。
父に続いて志津がその座敷へ足を踏み入れた途端、頓狂な声が起こる。
「これはこれは、随分背の高いお嬢さんでいらっしゃる」
見合い相手の父らしき中年の男は、そう言って感心した様に白いものの混ざった口髭を撫でていた。
尋常種の女にしては、志津の身の丈は普通より高い方であった。
日輪であれば、大柄な女もそう珍しくは無い。
けれど、何の因果か志津の背は女学校に入学した頃から春の筍の様に伸び続け、十七の今では焔とも大差は無い。
纏うもの憂げな雰囲気のお陰で、日輪に間違われる事は殆ど無いけれど。
それでも、あからさまに驚きをあらわにしたこの男の様に、無遠慮な反応をされている事には慣れている。
だから、志津は特に何も思わず座卓の前に腰を下ろした。
互いの父親同士が挨拶を交わす間、真向かいの青年へと志津の目が引き寄せられる。
まず飛び込んできたのは瞳だった。
強すぎるとも思われる雄々しい双の目は、瞬きもせず正面を見据えている。
しっかりと筋の通った鼻や引き締まった口元も、一つ一つが若い逞しさの象徴の様であった。
短く刈り込まれた黒髪も相まって、渋茶色の着物の代わりに制服さえ着せれば陸軍の士官候補生に見えるだろう。
しかし、そのまっすぐな視線は志津を通り抜け、背後の虚空を見つめている様であった。
「いやはや、しかし驚いた。うちの倅の妹達より、頭一つ分は高いでしょうな」
「この子の母は、並の背丈だったのですがね」
あたかも娘の欠点を庇うかの如く、志津の父が気まずそうに苦笑いする。
なおも飽き足らず、見合い相手の父は珍しい動物の如く仔細に志津を眺めた。
悪気は一切なく、純粋に興味を引かれた如く。
すると、隣に座る息子は横目で睨む様に父親を見やった。
さながら、無礼な振る舞いを咎める様に。
しかし、それは短い間の出来事であった。
次の瞬間には志津から視線をそらすかの如く目を伏せ、父親が話すままにさせていた。
「紹介いたそう。儂の倅で、真澄と云う」
両の膝に拳を置いたまま、真澄は深々と頭を下げる。
武芸者の如く、長く悠々とした無言の礼であった。
まるで樹の様な方だ、と志津は思った。
吹き荒ぶ風や灼熱の暑さにも負けず、丘の上に立つ一本の大樹。
けれど、孤高とも言えるその姿に惹かれるほど、志津の心は普通の少女の様にできていなかった。
「お前も御挨拶おし」
父に促された志津は、からくり人形の様に正確な動作で礼をする。
「風岡、志津と申します」
志津はその場に座を占めていたものの、口を開く機会は殆ど無かった。
やり取りは両家の父親達のみによって行われ、若い男女は押し黙ったままだ。
真澄は山懐に抱かれた歴史ある土地でも、格別の伝統を誇る旅館の長男であった。
歴史は古く、八代将軍の御代にまで遡るという。
「いずれは女将として倅を支えられる、如才の無い相手を探しておりましてな。働き者で跡継ぎを産める健康な体でさえあれば、器量なぞは二の次ですわい」
真澄の父が勿体をつけて言えば、志津の父がいそいそと応じる。
「でしたら、お志津は適任でしょう。女学校の成績も優秀なものですし、真面目でよく働きますから。そちらのお宅にも、誠心誠意お仕えするでしょう」
ああ、と志津は妙に白けた気持ちでその会話を聞いていた。
そして、悟ってしまった。
何も、志津でなくても構わないのだ。
ただ従順で、義理の両親に仕え、夫に身を捧げて無心に働く嫁でさえあれば。
大して美しくも愛らしくもない、志津の様な尋常種の女に求められるのはそのくらいだ。
結局、野々宮家にいた頃と何一つ変わりはしないのだ。
平身低頭奉仕する相手が、侯爵から夫とその家族になるだけのこと。
それは志津が尋常種で、女であるから。
女三界に家なし、とはよく言ったものだ。
尋常種の女の幸せなぞ、泡沫よりも儚いまやかしではないか。
「うちの真澄も、なかなか末頼もしい奴でしてな。高商(高等商業学校)も優等で卒業していて、儂もこいつには期待しております。やや朴念仁なのが玉に瑕ですがな」
成る程、いかにも謹厳実直を体現した寡黙さである。
定めし彼も志津と同じく、父親や周囲の人々に言われるがまま、この見合いの場に臨んでいるのだろう。
そもそも、見合いというのはそういうものなのだ。
一番大切なのは家を繋ぎ、長らえさせる事。
当人達の意思など、無きに等しい。
だから、彼が自分に対して関心を持とうが持つまいが、さしたる問題ではない。
どんな時もそうしてきた様に、志津はただ与えられる指示に従えば良い。
無味乾燥とした現実に落胆するには、あまりに多くの諦めを志津は知り過ぎていた。
志津にとっては無為そのものの時間は、流れる雲の様に淡々と過ぎていった。
家業や家族構成など粗方の事は話し終えたと見えて、両家の父親は一仕事終えたと息をつく。
「しかし、良い縁談を頂いたものだ。華族様との縁もある家のお嬢さんを嫁に貰えれば、こちらとしても言うことなしですわい。風岡さんさえよろしければ、すぐにも祝言の日取りを決めたいものですな」
上機嫌に茶を啜る満悦ぶりを見るにつけても、志津は先方のお眼鏡に叶ったらしい。
元より自分のものでなかった人生が、もはや手の届かない存在へと成り果てたのを志津は感じた。
ほっと胸を撫で下ろしこそしなかったが、父の安堵の気配は志津にも伝わった。
父はちらと志津を一瞥すると、出し抜けにこう言った。
「折角ですから、後は若い二人だけで話してもらっては如何でしょうか」
志津は勿論、真澄でさえ思いも寄らない発言に瞠目する。
しかし、真澄の父にもその提案は喜んで受け入れられた。
「そりゃあ結構だ。今日は何とも麗らかな日和ですからな。若い者同士、親睦を深めるには良い折でしょうな」
かくして、志津は見合い相手と庭をそぞろ歩く事になった。
格式高い料亭だけあり、純和風の庭園はどこもかしこも雅に富んでいるものであった。
寒さの中に咲く蝋梅や早咲きの河津桜が、春の先触れの様に匂っている。
白と黄色の水仙が、神楽の鈴の様に揺れている。
昼食時を過ぎている事もあって、庭には人影もまばらであった。
計算され尽した自然の美の中を、志津は見合い相手の後を着いていく。
何処へ行こうという目的も無さそうに、真澄はただ足任せに歩いているらしかった。
一対一の状況になろうとも、相変わらず二人の間に会話らしい会話が交わされる事は無い。
物心ついて以来、歳の近い異性と二人きりになるのはこれが初めてである。
しかし、もじもじとわざとらしく恥じらう事もせず、志津はどこまでも落ち着き払っていた。
三歩前を進む青年が、これから何十年も人生を共にする夫となるべき相手だという実感は、どうにも希薄である。
けれども、それをおくびにも出さずに貞淑な歩き方を心がける。
渡り鳥の影を映す池に渡された太鼓橋の中ほどで、ふと真澄が足を止めた。
「先ほどは、父が失礼をいたしました」
その時、志津は初めて見合い相手の声らしい声を聞いた。
凜とした見た目に違わぬ、底力のある低い声音。
しかし、それは微かに上ずっていた。
失礼とは、と志津は思い当たる節が無かった。
「ご婦人の背丈について、あれこれと無配慮な事を申し上げるなぞ言語道断です。父は昔から、思った事をすぐに口に出す癖があるのです。父に代わって、お詫び申し上げます」
ようやく真澄の言う事が腑に落ちた。
志津を大女呼ばわりした父の非礼を、彼は今になって謝ろうというのだ。
「謝罪などなさらなくて構いません。背が高いのは本当の事ですから。妾も、気にしてなどおりません」
お座なりの気休めなどを口にしたつもりはない。
自尊心など、元より持ち得ない志津である。
それよりも、真澄がわざわざ父親の無礼を詫びた事に驚かされた。
彼が、自分をそこまで気に掛けていた事に。
「けれど、それでは貴女への申し訳が―――」
真澄が聞き分けの無い子供の様に振り返り、勢いよく志津の方へ一歩を踏み出した。
すると、ぶつりと何とも小気味の良い音が彼の足元で起こる。
二人揃って見れば、草履は前坪の部分が切れて、鼻緒が宙ぶらりんになっている。
「ああ、参ったな」
真澄は当惑して、片足を持ち上げるばかりである。
だが、志津は小腰を屈めてしげしげと草履を眺め下ろす。
「妾に、任せてはいただけませんか」
考えるよりも先に、言葉が出ていた。
手巾を裂いたきれで手早く草履をすげ直す志津を、真澄は縁台に座ったまま奇術師の如く眺める。
学校へ行く折などに珠緒の草履の鼻緒が切れる事があるので、志津もこの類の作業はお手の物だった。
「さあ、どうぞ」
応急処置を終えた草履を志津に差し出されて、真澄はぺこりと頭を下げる。
しかし、先ほどの様に黙したまま、遠くを見晴るかす。
庭の片隅の縁台に並んで腰掛けた二人を、沈黙が包む。
けれど、それは重苦しいものではなかった。
ややあって、真澄が決まり悪げにうなだれて口火を切る。
「……お手間をかけさせて、申し訳ありません」
「お気になさらず。妾にできる事をしたまでですので」
相手が誰であろうと志津には同じ事だ。
この青年に対して、特別な感情があったから為した行いではない。
面目ありません、と真澄は山紅葉の様に頬を染める。
「身支度には細心の注意を払っていたつもりなのですが、見合いの事を思うと気もそぞろになってしまって。うっかり古い草履を履いてきてしまいました」
父の前での律儀を絵に描いた様な振る舞いからは、想像もできない失敗だった。
漸く、志津は納得した。
他を寄せつけない、真澄の冷淡な態度。
それも全て、不安と緊張の裏返しだったのだ。
他にも、志津は心当たりがあった。
「お見合いの席でも、お気が張りつめていらしたのではないでしょうか。お茶もお菓子も、召し上がってはいらっしゃらなかったので」
離れでは各々に玉露の茶と羊羹が出されていたものの、真澄は一口だに手を付けてはいなかった。
甘いものを好まないのかとも考えたが、ただの茶までも捨て置くのは妙である。
緊張のあまり、どちらも手をつける余裕が無かったのではないかと思い至る。
だが、志津の言葉にぽかんと口を開けた真澄の表情に、ふと我に返る。
「失礼いたしました。女の身で、出過ぎた事を申しまして。どうぞ、お許しください」
しくじった、とほぞを噛む。
女が自分の考えを述べる事を、生意気だと好まない男は多い。
烏滸がましく彼の胸の内を推し量る真似など、女だてらにと罵られても仕方無い。
過ぎた振る舞いは災いしか招かないと、野々宮家であれほど学んだではないか。
けれど、真澄は志津が頭を下げようとするのを慌てて遮る。
「顔を上げてください。出過ぎた事だなんて、そんな」
固い蕾の様な目元が少しずつ綻んで、優しい微笑みとなる。
気難しそうな面差しが破顔一笑した途端、穏やかであたたかいものになっていく。
「ただ、嬉しかったのです。その様に、細やかなお心遣いを頂けて。周りの事に気を配るというのは、誰にでもできる事ではありませんから」
それと知れぬ様に周囲を仔細に眺める癖がついたのは、子供の頃からであった。
自分の置かれている状況を常に理解しておかなければ、いつどんな失態を犯すか分からない。
我が身を守る為に会得した術は、珠緒の些細な変化を感じ取るのに役立ったが。
「僕は、お志津さんのそういう所は素晴らしい美徳であると思います」
面はゆげに、ぽつりぽつりと紡がれる素直な言葉は、お世辞やおべっかとは聞こえない。
生まれて、初めてだった。
自分の内面を見てくれる誰かに出逢えたのは。
しかし、誰にも見向きもされなかった気だてを褒めたたえられた事に、志津は惑った。
普通の娘であったならば、将来の夫を迷いもなく好ましく感じただろう。
彼に対する淡い慕情さえ生まれたかもしれない。
けれど、志津にはそれができなかった。
錆びついた心が、うまく動かない。
「ありがとう存じます。―――けれど、妾にその様な気遣いは不要です」
突き放すでもなく、志津は抑揚の無い声で述べた。
膝の上に手を揃え、冷然と続ける。
「妾がそちらに嫁ぎましたら、遠慮無く何なりとお命じください。真澄さんの思うがままに。妾は、その為に参るのですから」
唯々諾々と従う事が尋常種の―――女の務めであるという教えは、志津の奥深くに根を下ろしていた。
それが正しいか間違っているかなど、志津には関わりない事。
何も考えずに自分の義務を果たすのみである。
差し伸べた手を振り払われた子供の様に、真澄の目が呆然と見開かれる。
そして、志津が直した草履の鼻緒に目を落とす。
そのまま、彼は長らく黙していた。
不意に、その眼差しを上げる。
「それでは、まるで傀儡の様だ」
傀儡。
志津の思考が止まった一瞬の間に、真澄は見るも素早く立ち上がった。
鋭く質す様な眼差しが、志津へと突きつけられる。
「僕に物の様に扱われて、それで貴女は平気なのか。お志津さんの気持ちはどうなるのです!」
語気も荒らかにぶつけられる問いに、志津はたじろぐより訝しく思った。
どうしてこの男は、女一人の為にここまで自分の怒りを露わにできるのだろう。
女なんて、所詮は家の所有物であるのに。
人の言いなりになる以外に、尋常種の女に生きる道なぞないではないか。
燃える様に強い意志の宿った目が、まっすぐに志津を見つめる。
「お志津さんの心は、お志津さんだけのものである筈だ」
―――あなただって尋常種だろうと、一人の人間なのだもの。忘れてはいけなくてよ。
子供の頃、怜子に掛けられた言葉と同じくらい、真澄のそれは信じがたいものであった。
けれども、幼い魂に刻まれたあの夏の思い出と同じくらいの鮮やかさで、志津の胸に焼き付いた。
うつむく志津に、真澄の声が落ち着きを取り戻す。
「怒鳴る様な真似をして、申し訳ない。……けれど、自分の感情を殺さなければならない事ほど、悲しい生き方がありますか」
そんなの、考えた事もなかった。
悲しいのだろうか、妾の生き方は。
「……分からないのです。自分でも」
ようやく絞り出せた言葉は、自分でも情けない。
悲しいのか苦しいのか、それさえ分からない。
「誰かに追従して生きるのが、当たり前だと思っておりました。父や母にも、その様に教えられて参りましたので。だから―――それが、正しい生き方だと」
我を殺してこその忠義である、と信じて疑わなかった。
それが、尋常種の在るべき姿であると。
両親からは、自分の心情を他人に話してはならぬとも教わっていた。
なのに―――この青年を前にすると、そんな掟も朧気に薄れてしまう。
「僕に貴女の気持ちが理解できると言えば、傲慢かもしれない」
遠くを眺める真澄の眼差しには、躊躇いの色が濃い。
「お志津さんに偉そうな事を色々と言っておきながら、僕も似た様なものです。幼い頃から、家を継ぐ唯一の跡取りとして教育されてきました。家の名を貶めぬように、と誰からも言われてきた。だから、自分の行動がどう見えるかをいつも気にして、思う様に振る舞えなくなってしまう」
初めて明かされる彼の胸の内に、志津は息をつめて聞き入った。
謹厳な人間だとばかり思っていた真澄の心に秘められた、一人の青年としての心情を。
「きょうだいの中でただ一人の男として生まれた時から、それからは逃れられぬものだと諦めています。だけど、時折、のし掛かる責任に身が潰れそうな思いがしてしまう」
生まれながらの役割に縛られる重圧を、志津も身を以て知っている。
だからこそ、己に課せられた義務を受け止め、精一杯自分を律する真澄の忠実さを近しく感じた。
「けれど、こんな僕だからこそ、お志津さんとならば支え合っていけるのではないかと思います」
淀みなく発せられた言葉は、凜と冬空に上っていく。
志津を振り返った彼の顔に、迷いは見られなかった。
「父が言う様に、僕は貴女を単なる働き手としてこき使いたい訳ではない。僕自身も、貴女の支えとなりたいのです。口下手で、夫としては退屈な人間かもしれませんが―――お志津さんさえよろしければ、僕は貴女と夫婦になりたい」
真摯という言葉がよく似合う人だ、と思う。
志津の様に、ただ誰かの言いなりになるだけではなく、内に秘めた意思を強く持っている。
彼とならば、幸福になれるのではないかと感じた。
まがい物ではない、本物の尋常種の女の幸せを手に入れられる気がする。
志津と向き合い、率直な優しさを見せてくれるこの人とならば。
広がる想いが、志津の胸を高鳴らせる。
それが恋と呼ばれるものであるのか、志津は知らない。
けれど、春を待つ花の様に、感じた事のない仄かなぬくもりが心に芽吹く。
自分の人生を生きても、良いのだろうか。
志津は草履の足を揃え、ついと立ち上がる。
そのまま彼に向き直り、溶け入る様な滑らかさで礼をする。
「ふつつか者ではありますが、よろしくお願いいたします」
小さく微笑んだ志津を見て、真澄の顔に無邪気な笑みが広がる。
「ああ、ようやくお志津さんの笑った顔が見られた」
二人の頭上では、番の小鳥が円を描く様に飛び回っていた。
それから、真澄の提案で再び庭を歩き回る事になった。
今し方の他人行儀な道行きとは違い、打ち解けた気さくな雰囲気の漂う散策だった。
その間に、喋々喃々とした会話を交わす事さえあった。
真澄は自分の故郷や、生まれ育った旅館の話をしてくれた。
「山の傾斜に沿って建てられている旅館なので、なにぶん階段が多いんです。百段もある階段の両側にそれそれ宴会用の座敷があって。下から見上げるのは壮観ですよ。ああ、早くお志津さんをご案内したいな」
「ええ、妾も見てみたいです」
一度胸襟を開くと、真澄は思いのほか饒舌になる。
志津もその都度、にこやかに相づちを打つ。
「帝都から遠く離れた片田舎の事で、東暁育ちのお志津さんには慣れない事も多いかもしれません。けれど、のどかな良い土地である事は保証します」
ふと、思う。
自分がその土地へ嫁げば、珠緒はどうなるのだろう。
志津が見合いをすると知った時の、悄然とした姫君の姿が脳裏に浮かぶ。
珠緒こそは、志津の唯一の生きる意味だった。
思い出すのは、まだ心が残っていた子供の頃。
大切にしていた玩具を焔に取られた志津は、縁側で一人べそをかいていた。
すると、やって来たのはよちよち歩きの珠緒だった。
物心ついたばかりの姫君は、志津がどうして泣いているのかも知らないまま、懸命に志津を慰めた。
「おしづ、なかないで。おしづがないていると、たまおもかなしいわ」
大粒の真珠の瞳には、玉なす涙がいくつも浮かぶ。
千代紙の様に美しい着物の袖口で目元を拭われて、いつの間にか涙は止まっていた。
どれほど辛い思いをした時も、絶望しかけた時も、珠緒がいたから乗り越えられた。
珠緒の為に生きる事が、志津にとっては誇りそのものであった。
あの笑顔が、朗らかな声が。
夢も希望も無い人生の中で、志津に残された喜びであった。
彼女が母を亡くして悲しみに泣き暮れていた時、志津だけは彼女の元を離れるまいと心に決めた。
毎夜母を恋しがって泣きじゃくる珠緒の為に、志津は一つ布団で彼女と眠ったものだ。
夜中に目を覚ますと、珠緒は必ず隣の志津を呼んでしがみつく。
「お志津だけは、どこへも行かないでね」
珠緒の切なる願いに、胸を打たれない事はなかった。
それなのに―――志津はあの姫君を見捨てようというのか。
野々宮の家ごと珠緒を忘れ、自分だけが幸福になろうというのか。
志津は、つと足を止めた。
「真澄さん」
思い詰めた表情の志津に、彼が心配げに眉を寄せる。
「どうしました?具合でも悪いのですか」
自分を心から慮ってくれる彼を見ていると、申し訳なさが苦く込み上げる。
だが、志津は黙っている訳にはいかない。
「妾の身勝手で、この様な事を申し上げるのを御容赦ください。⋯⋯妾は、貴方と結婚する事はできません」
安穏そのものであった二人の間に、静寂が落ちた。
何を言うでもない空白が、志津を居たたまれなくさせる。
「……理由をお聞きしても、構いませんか」
真澄は腹を立ててはいなかった。
ごく冷静に問いを投げ掛けていたものの、震える指先は動揺を隠せていない。
「やらねばならない、事があるのです」
これは、志津が果たさなければならない責務だ。
その思いだけが、志津を突き動かす。
か細い喉を振り絞り、一言一言をはっきりと声にする。
「我が家は、代々野々宮家に臣下として仕えて参りました。風岡家に生まれた人間として、妾もその責務を全うしなければなりません。母君を亡くされ、妾を慕い、頼りにしてくださる妹姫様の為に、妾は、自分の能う限りあの方にお尽ししたいのです」
それでも、志津の言う事が解せぬと真澄は問いを重ねる。
「その御姫様は、お志津さんのこれからの人生よりも―――僕と生きるこれからよりも、大切な方なのですか」
瞬時、志津はたゆたった。
けれど、彼に嘘をつく訳にはいかない。
「はい。妾の命よりも、大切な方で御座います」
生まれ持った忠義をも捨てようとしたのに、珠緒だけは捨てられなかった。
他の何を犠牲にしても、あの子だけは失いたくないのだ。
その為ならば、罵りでも何でも受けよう。
志津は腰が折れそうになるほど頭を下げ、真澄の次の言葉を待った。
しかし、ややあって頭上から降ってきたのは、穏やかな声だった。
「分かりました」
思いも掛けない展開に、志津は弾かれる様に頭を上げた。
真澄は情けに満ちた、しかし寂しげな微笑を浮かべていた。
「お志津さんがお決めになった事ならば、僕に止める事はできません。僕の方から、見合いは破談にする様に父に申し上げましょう。ああ見えて父は頑固なところがあるから一筋縄ではいかないかもしれないが、できる限りの事はしてみせます」
女である志津の方から、見合いを断るのは極めて難しい。
だからこそ、志津の為に汚れ役を買って出ようという真澄の心遣いが、この上なく有り難かった。
どこまでも優しい人であった。
「ありがとうございます。この御恩は、決して忘れはいたしません」
言い尽くせぬ感謝を込めて、長い礼をする。
その時、彼と生きる筈だった歳月が通り過ぎていくのが分かった。
真澄は最後まで微笑を崩さず、いたわりに満ちた口調で言った。
「どうか、お幸せに」
咲き初めぬ蕾の桃の花が、風に揺れていた。
大空を一羽で渡ろうとする鳥の影が、二人の間を横切っていった。
座敷に戻ってからも、お互い両家の父親達の前では何事も無かった様に振る舞った。
見合いを終えて野々宮侯爵邸に戻ると、志津は着替える間も惜しんで、珠緒を探し回った。
だが、自室はおろか、屋敷のどこにも珠緒の姿は無かった。
志津に珠緒の行方を尋ねられた使用人達も、不安げに右往左往していた。
そんな中、まだ探していない場所がある事に志津は気がついた。
野々宮侯爵邸は自然の美を極めた広大な日本庭園に囲まれており、そこは珠緒の遊び場でもあったのだ。
早速、志津は庭へと向かった。
暮色迫る辺りには、既に黄昏の薄暗さが帳を下ろしている。
日が落ちた事もあり、外気はひんやりと頬を撫でる。
しかし、肌を刺すほどではなく、かえって意識を研ぎ澄ませる。
もうすぐ春がやって来る事を、薄茜の空に滲む夕月のあえかな色で知る。
庭にはそこかしこに植え込みや木があり、珠緒を見つけるのは容易ではないと思われた。
しかし、志津はどこからともなく聞こえる少女の泣き声を耳にした。
声の主を見ずとも、確かにあの子と分かるすすり泣きであった。
草を踏みしめ、枝の下を潜り、夕まぐれの庭を進む。
既に花の散った寒牡丹の木の下に、志津が探し求めていた姿はあった。
きらびやかな振り袖の袂が地面に触れるのも構わず、しゃがみ込む珠緒の後ろ姿が。
志津はほっとして、彼女の背後に歩み寄る。
「この様な場所にいらしたのですか、御姫様」
安堵の滲んだ声音に、珠緒が素早く志津の方を振り返る。
月明かりの様に真白い肌は、目の縁だけが擦った様に赤い。
夕映えに輝く湖の様に、泣き濡れた瞳が美しかった。
「お志津」
しゃくり上げる様に、志津の名を呼んだのも束の間―――あどけない顔は、見る見る悲しみに歪んで、とめどなく涙が溢れる。
辺りも憚らずに大声で泣きしきる姫君に、志津はいじらしいものを感じた。
堰が切れた如く、わあわあと嗚咽する珠緒の涙を袖口で拭きつつ、志津は尋ねた。
「どうして、その様にお泣き遊ばしていらっしゃるのですか」
姉が妹にする如く、努めて静かに。
珠緒は泣き声に喉を詰まらせそうになりながら、それでも懸命に、志津へと訴えかける。
「だって、お志津がいなくなってしまうのが悲しいのだもの」
ああ、やはりそうだったのか。
志津が見合いをすると知ってから、今日までの珠緒の孤独を思うと胸が張り裂けそうになる。
ありのままの気持ちを口にする間にも、珠緒の涙は止まらない。
「お志津はお嫁に行って、あたくしの事なんて忘れてしまうんだわ。でも、そんなの嫌。お願いだから、ずっとあたくしの側にいて。お嫁になんか、行かないで」
後はもう、慟哭ばかりで言葉にはならない。
志津は微笑んで、珠緒の手を取った。
「お志津は何処へも参りません。お見合いは、お断りしてきてしまいましたから」
「え……?」
きょとんとする珠緒に、志津はさらに続ける。
「御姫様が幸いでいらしてくださるのが、志津にとっては何よりの幸いで御座いますから。御姫様が対の日輪様と出会って幸せにしていただくのを見届けるまでは、何があろうともお側を離れる事は致しません」
我が身の幸福など、二度と夢見るまい。
いつか、珠緒が月影として運命の日輪と出逢うその日まで―――
この姫君が美しく育つのを守り、力となるのが志津の使命である。
「御姫様が望まれるのであれば、お志津はずっと御姫様のお側におります」
一度は驚きに止められた玉の涙が、ぶわりと湧き上がる。
「お志津、お志津!」
良かった、と首っ玉にかじりつく珠緒の背中を、志津は優しく撫でさする。
珠緒のうれし涙が止まるまで、志津はいつまでもそうしていた。
それから暫くが経ち、女学校の卒業式も済んだある日の事。
再び志津の元へ、侯爵からのお呼び出しが掛かった。
それが、見合いの件についてであるのは明らかだった。
見合いを告げられた日の如く、座敷には父の姿もあった。
あの日と違うのは、侯爵と父の顔に漂う沈鬱な空気である。
「気を落とすな、と言うのも無理な話だとは思うが」
と侯爵は遠回りする様に口火を切った。
案の定、それは先の見合いが破談になったという話であった。
「先方の息子が、どうしても嫌だと言い張ったらしくてな。全く、近頃の若い連中ときたら」
真澄は志津との約束を見事に果たしてみせたのだ。
三つ指をついたまま、志津は心の中で彼に感謝した。
志津の無表情を何と思ってか、侯爵は強いて明るい声を張り上げる。
「まあ、そう落ち込むな。相手など、他にいくらでもいる。また、新しい話を持ってこさせよう」
「御館様の御恩には、お礼のしようも御座いません」
見合いを破談になった志津よりも、父の方が恭しく謝辞を述べる。
しかし、志津はその恩恵に甘んじる訳にはいかない。
伏せていた顔を上げ、座敷に声を響かせる。
「畏れながら」
侯爵と父、二人の視線が志津へと寄せられる。
許されない事に臨んでいるという恐れを噛み殺し、絶対的な主を見据える。
「妾に、見合いの話は不要で御座います。例え他の殿方であろうと、嫁ぐ気は毛頭ありません。ですから―――」
「志津!」
耳をつんざいたのは、父の怒声だった。
主の御前で感情を剥き出しにするなぞ、臣下にあるまじき行い。
しかし、父はそれさえも忘れ、娘に対する怒りをぶつける。
「お前の幸福の為に、お心を尽くしてくださる御館様の温情が分からないのか。それでも、お前は私の娘か!私は、そんな不心得者にお前を育てた覚えは無い―――!」
「よせ、大義」
志津に食って掛かろうとする父を、唯一止められる声が制した。
勝之助の命令に、父はやむなく膝を屈する。
そして、侯爵は厳然たる面持ちで志津に相対する。
「お前は私の用意した話では不満と申すか、志津」
日輪の威厳を漲らせ、侯爵は志津を睨み据える。
彼らから見れば、志津は主君の情けに背く不埒者だ。
日輪の主に逆らうという、尋常種としてあってはならぬ大罪。
けれども、断じて引けない理由が志津にはあるのだ。
「いいえ。御館様のお心を、妾とて有難く思っております。しかし、風岡家に生まれた尋常種として、一人の女としての幸福を求める事はあってはならぬと存じます」
臆せず発せられた言葉に、主従の二人は呆然と聞き入っている。
「この野々宮という家に仕え、生を全うする事―――それこそが風岡の人間の責務であり、それ以外の生き方など御座いません。妾は御館様や焔様、そして御姫様のご盛栄の為に、我が身を捧げたいのです」
何かを伝えようとするかの様に、勝之助と父は黙って顔を見合わせていた。
須臾の後、口を開いたのは侯爵だった。
常ならば烈しい気性に赫々と燃ゆる瞳は、静かな情けに満ちていた。
「やはり、お前は大義の子だ、志津。これほどまでに、この家を思うてくれるのだから。お前の幸福が、長きに渡る大義の恩へ報いる方法だと思っていたが―――もう、お前に縁談を持ってくる事はするまい」
勝之助は泰然と立ち上がると、志津の方へと歩みを進める。
主従を隔てる境界線である襖の敷居を、彼は初めて踏み越えた。
そして、軍服の膝を曲げ、志津の前にかがみ込む。
「それほどの覚悟を持って、お前が此処に残るというならば。焔や珠緒の行く末を頼むぞ」
「畏まりました、御館様」
それから、と勝之助はやや口ごもった。
「もう一つ、お前に頼まれて欲しい役目がある」
「何なりと仰せを」
「来年、焔が士官学校に進むのは知っておろう。そこで、お前に彼奴の添い臥し役を務めてもらいたい」
野々宮家の当主となるべき日輪は、代々添い臥しの儀を受ける慣わしがある。
家を継ぐに足る日輪となった事を証し立てる為に、選ばれた尋常種と一夜を共にするのである。
その添い臥しの相手として白羽の矢を立てられるという事は―――ただ一人の夫に与える筈だった女の操を焔に捧げる事を意味する。
「お前が嫁に行くのならば、他の者を代わりに立てるつもりだった。しかし、この家に残るというのならば、焔の乳姉妹であるお前こそが適任であろう」
数十年前、自分も乳兄弟である志津の父を添い臥し役として契りを結んだのだ、と侯爵は語った。
その話がされた時、父の頬は少しく赤らんだ。
「時代遅れの儀式だ。しかし、これは跡取りが妻を娶れる体となった事を示すだけでなく、主従の繋がりを一層強める意義あるものだ。これから先、終生焔に仕えるお前にこそ、この役を務めて貰いたい」
できるな、と念を押されずとも、志津の答えは決まっている。
「誉れあるお役目、謹んで相務めさせて頂きます」
今の自分に、何ら恐るに足るものは無いと志津は確信していた。
侯爵の御前を退き、共に廊下を歩く間も父は無言のままだった。
全ては勝之助の命のままに終わり、父が口を挟む間だに無かった。
けれども、父が何も思わずにいる訳がないと志津にも分かっていた。
「お父さん」
背後から呼び掛けると、うつむいて先を歩いていた父がぴたりと足を止める。
「先ほどは、申し訳無い事をしました。仮にも風岡の人間である私が御館様の思し召しに背き、お父さんや風岡家の名を貶める様な真似をして」
「もう、終わった事だ。それに、御館様にもお許しは頂けた。お前が謝る必要はないよ」
家令としての立場であれば、父は侯爵の決定に異を唱える事はできまい。
しかし、一人の人間として父がどう思っているのかを、志津は知りたいと思った。
「……お父さんは妾の事を、親不孝者だとお思いになりますか」
おずおずと発せられた娘の言葉に何と答えて良いか、父は考えている様子だった。
そして、重い口を開く。
「本当の事を言うと、お前は野々宮の家を離れた方が良いのではないかと思っていた」
日暮れる庭に目を向け、独りごちる様に父は言った。
その顔には、夕闇と紛うばかりの仄暗い影がある。
「お前が知らずにいた方が良い事や、知ってはならない事がこの家には数え切れないほどある。そんな因業にお前を関わらせるのが、父親として正しい事であるかとずっと考えていた。……それが、風岡の者として間違っている事であっても」
我が身よりも野々宮家への忠義を重んじる風岡家では、親子の繋がりなど名ばかりのものである。
志津と両親の間でも、それは例外ではなかった。
だが、父の言葉は侯爵家の家令としてではなく、紛れもなく実の父親としてのものだった。
「お父さん」
堪らず、志津は父の名を呼んだ。
「けれど、お前が自分の意思でこの家に残ると決めたのならば、私が口を挟むべきではない」
父はそっと志津の肩に手を置き、祈る様に言った。
「私がいなくなっても、野々宮の家を守ってくれるね」
「……はい、お父さん」
それから五年後、父は服毒した侯爵の後を追って自害した。
あの日の夕暮れの中で見た父の眼差しは、自らの最期を覚悟する様に凪いでいた。
後にも先にも、父と親子として言葉を交わせた一度きりの日を忘れた事はない志津である。
明くる日、志津は珠緒に呼び出された。
三月三日の雛祭りの日。
春らしい萌黄に淡紅の真新しい晴れ着を着せられた珠緒は、せっかちに志津の手を引いて廊下を駆けていく。
「お志津、早く早く!」
志津がこれからも野々宮家に残り続けると知ってからというもの、珠緒は持ち前の快活さを取り戻し、いつものこの子となっていた。
明るい春の真昼にはしゃぐ珠緒に、志津も安堵する。
珠緒に連れられるがまま足を踏み入れた座敷では、見るも華麗な雛飾りが施されていた。
侯爵家の末娘の雛人形だけであり、その豪壮さはとても他家のそれに引けを取らない。
七段重ねの巨大な雛壇を埋め尽くすかの様に、一対の内裏雛を始めとした十五体の人形達がずらりと並び、小さな黒漆塗りの貝桶や箪笥といった精巧な嫁入り道具までも揃えられていた。
雪洞の薄明かりに、十二単で着飾った女雛の顔がほんのり浮かび上がる。
まだ瑞々しさを保った桃の切り枝も、至る所に飾られている。
貴族の娘の健やかな成長と幸せを願う上巳の節句を起源とする雛祭りだが、これほど盛大にこの日を祝うのは野々宮侯爵家くらいのものだろう。
「今日は、お志津があたくしのお客様よ。だから、あたくしがお志津をもてなしますわ」
珠緒はそう言って、雛あられと甘酒を厨へ貰いに行くべく座敷を後にした。
残された志津は、眼前に聳える雛飾りに目を奪われずにはいられなかった。
一つ一つの繊細な細工に見入る志津の背後に、堂々とした足音が近づく。
「ごてごてと金の掛かった人形で飾り立てて、馬鹿げた祭りだ」
妹の雛人形を前に、焔が呆れた様に鼻で笑う。
野々宮家での桃の節句は、珠緒が生まれてから祝われる様になったものである。
女なれども、日輪として勇ましい軍人となるべき焔にこの様な祝い事は不要だと、侯爵は長女の為に雛人形を作ったり、雛祭りの宴を催そうとはしなかった。
この雛飾りもあくまで珠緒の為に用意されたものであり、焔のものではなかった。
「雛祭りは将来の良縁を願うもの、だったか。こんな事をせずとも、珠緒は死んだ母上に似て器量だけは良い。嫁入り先など、腐るほどあるだろうに」
妹の前では決して見せない本音を吐く焔に、志津はただ口をつぐんでいた。
ひとしきり蔑んだ後、焔はその嘲笑を真横の志津へと向ける。
「まったく、貴様はとんだ愚か者だな。志津。せっかく嫁に行ける好機をみすみす棒に振る様な真似をして。珠緒と引き換え、お前の様に不器量でつまらない女を嫁に貰ってくれる相手など、そうそういなかろう」
焔の様子からして、まだ志津が自分の添い臥し役になったとは知らないのだろう。
普段通りの彼女の心無い言葉にも、志津は何を思うでもなかった。
志津は着物の裾を畳に敷き、焔に向かって三つ指を作る。
「これからは、幾久しく野々宮家に―――焔様の為に、お仕えさせて頂きます」
愚かで構わない。
誰に何と言われようと、志津は志津の役目を果たすのみだ。
焔の傀儡としての人生も、喜んで受け入れてみせる。
いきなり頭を垂れた志津に、焔は鼻白んだ素振りをみせた。
「なんだ、薄気味悪い。相変わらず、奇矯な奴だな」
それ以上、志津に何を言う気も無くなったのか、焔は早々と座敷を出て行ってしまった。
入れ違いに、珠緒が雛あられの盛られた高坏と、甘酒の注がれた盃を載せた膳を手に戻ってくる。
「お待たせ、お志津。早速、雛祭りのお祝いをしましょう」
翳る事を知らない満月の様な珠緒の笑顔に、志津は思う。
珠緒を末永く幸福の輝きで包む日輪が、一日でも早く現われる事を。
「こんな所でお志津さんに会えるなんて、夢にも思わなかったな」
天蓋の様に頭上で咲き匂う満開の桃の花を仰ぎながら、真澄は嬉しい贈り物を貰った様に言う。
「私もです。桃を見に来て、真澄さんとお会いできるとは」
二人は行き交う人の流れを避ける様に、庭園の片隅に設えられた茶屋で一息つく事にした。
思いも掛けない再会に驚きはしたものの、それも込み上げる懐かしさに薄れてゆく。
「あれから、七年か。長い様で、短かったな」
七年という歳月は、真澄を若々しい青年から大人の男性へと変えていた。
目元に刻まれた細かな笑い皺や、使い込まれて滑らかになった手の皮膚も彼の上に流れた日々を思わせる。
けれども、その表情や仕草のそこかしこに昔の面影を感じる。
「その節は、真澄さんにも御迷惑をおかけしました。妾の為に見合いを破談にすべく、動いてくださって」
「いいえ。僕のすべき事をしただけです。父には馬鹿息子と怒鳴られましたが、どうという事はありません」
気さくに笑い、真澄は庭園名物の桃色団子を頬張る。
何でも無い、と言いたげなその仕草から目が離せなかった。
しかし、彼はともすると食べ終わった串にじっと視線を落とす。
「本当の事を言えば、残念に感じていたのは確かです。お志津さんとならば、きっと良い家庭を築けると思っていましたから」
恨み言をぶつけられるより、真澄の言葉は志津の良心に堪えた。
そして、ふと考えずにはいられなかった。
あの時、珠緒ではなく彼の方を選んでいたら。
夫婦として生きる未来を望んでいたら、志津は今頃、どうしていたのだろう。
閉口する志津に、真澄が明るい笑顔を見せる。
「けれど、過去は過去です。あれから色々な事があって、僕もすっかり忙しい日々に慣れてしまいました」
変わらない彼の優しさに、口元が緩む。
何度考えても、答えは同じ事。
自分の選択を悔いた事など一度も無い。
いつだって、志津は珠緒を選ぶのだろう。
「ええ、本当に色々な事がありました」
月見の会での怜子との再会。
侯爵と父の死。
焔の野々宮家当主就任。
珠緒の清小路家への縁談と、それにまつわる一連の出来事。
悲喜交々の末に、こうして珠緒と生きる道を得られようとは想像もしなかった。
真澄との見合いも、振り返れば懐かしい思い出だ。
「恥ずかしながら、私もすっかり行き遅れと呼ばれる歳になってしまいました」
ふふふと笑う志津に、真澄が目を瞬かせる。
「それでは、まだ御結婚は」
「……はい。今までも、これからも、独り身のままです」
そう言う真澄さんは、と訊いてみたい様な気がした。
だが、それは何となく憚られる。
「でも、お志津さんがお幸せそうでよかった」
昔と同じ思いやりに満ちた微笑みが、シガレットの残り香の様に志津を包んだ。
「あの頃よりも、自然にお笑いになる。時々、お志津さんがどうしておられるか気になってしまって。けれど、お達者なお志津さんを見られて安心しました。良い意味で、お変わりになった」
恋をすると人は変わるのかしら、とは怜子にも言われた言葉だ。
心を殺していた傀儡の様な女は、もういない。
「そう仰る真澄さんも、何だか変わられた様な気がいたします」
かつての不器用な無骨さは影を潜め、晴れやかな快活さを身に纏っている。
それを嬉しく思うも、自分の知っていた彼はもういないのだとどこかやるせなかった。
「よく、人にも言われます。あの朴念仁が、随分様変わりしたものだと。変わったきっかけがあるとすれば―――」
彼が志津から目を逸らしかけた時、草履の軽やかな小走りの音が背後でした。
「ああ、良かった。ここにいらしたのね、貴方」
振り返れば、そこには五つほどの男の子の手を引いた、志津とさほど歳も変わらぬ尋常種の女性がいた。
「本当に、困ってしまいましたわ。人混みで貴方とはぐれてしまった上に、坊やまで少し目を離した隙にいなくなってしまったのですもの」
「お前にばかり大変な思いをさせて、すまないね」
志津がはたと目を見張っていると、真澄が立ち上がって女性の隣に寄り添う。
「ご紹介いたしましょう。妻と息子です」
やはり、という思いがあった。
家の跡取りたるべき彼が、いつまでも嫁取りをせずにいる筈がない。
彼の上にも、時は流れたのだ。
夫といた女性に、真澄の妻はビー玉の様に丸く透き通った目をぱちくりさせる。
そんな妻に、彼は志津を手際よく紹介する。
「こちらは、以前お世話になった家の方でね。お前と坊やを探していた時に偶然会って、つい昔話に花が咲いてしまった」
「まあ、そうでしたの」
頭を下げた志津に、真澄の妻は晴れやかに微笑みかけた。
「その節は、主人がお世話になりましたそうで。わたくしからも、お礼を申し上げます」
愛嬌のある丸顔とえくぼを兼ね備えた、誰からも好かれそうな女性である。
夫である真澄から一途に愛情を注がれているのが、一目で見て取れる。
お礼をしなければならないのは私の方です、と言いたかった。
愛する人と生きる未来を与えてくれたのは、他ならぬ真澄である。
真澄は慣れた手つきで息子を抱き上げ、母親譲りの丸い目を覗き込む。
「駄目じゃないか、母さんから離れたりしたら」
口調こそ叱責する様でありながら、真澄の口元は息子可愛さにすっかり緩んでいる。
「ぼく、おとうさん探してたんだもん」
「そうか、そうか」
愛しく息子を見つめる眼差しは、紛れもなく父親のそれだった。
我が子を前に、夫婦は思いの通じ合った笑みを交わす。
絵に描いた様に幸せな家族の情景である。
胸の中が、あたたかな気持ちで満たされていく。
掛け替えのない家族を得た幸せこそが、真澄を変えた何よりのものだろう。
志津の幸せを願ってくれた優しい彼は、幸福になって然るべき人だ。
「息子も大きくなったものだから、妻も連れて東暁旅行をと思いましてね。これから郷里へ戻るのですが、最後にお志津さんとお話ができて良かった」
「貴方、そろそろ参りませんと汽車の時間に遅れてしまいます」
懐中時計を取り出した真澄の妻が、慌てた声を出す。
「ああ、もうそんな時間か」
息子を抱いたまま、彼は志津に向き直る。
「それでは、お志津さんもお元気で。またいつか、どこかでお会いできれば幸いです」
「真澄さんも、お体をお大事に。奥様や息子さんも、御健康をお祈りいたします」
一度離れた二人の人生は春の昼下がりに再び交わり、そしてまたそれぞれの道へ帰っていく。
その別れの挨拶に、かつての様な寂寥はなかった。
人生を共にする伴侶を持つ二人は、ただただ互いの幸せを願って袂を分かつ。
ありがとう。そして、さようなら。
肩を並べて去りゆく睦まじい夫妻に、志津はほんの一瞬、無意識に自分の姿を重ねてしまった。
選ばなかった未来が、幻となって志津の前に現われる。
けれど、志津は微笑んでその儚い幻影に背を向けた。
自分の幸せは、自分で見つけられるから。
しばらくの間一人にしてしまったのでお怒りかもしれない、と志津は先案じしながら珠緒を探す。
小言でも何でも受けようと心を決めた矢先に、人気もまばらな庭園の外れに珠緒の姿を見つけた。
「申し訳ありません、御姫様。知己の方にお会いしたもので―――」
叱責を覚悟する志津の予想とは裏腹に、珠緒は嬉々として目の前に広がる満開の桃の林を指さす。
「何て美しいんでしょう。まるで、春の精の舞衣みたいですわ」
たわわに花開いた枝と枝が重なり合う光景は、薄紅の瑞雲の様である。
恋する乙女の如く、珠緒はうっとりと明媚な風景に酔いしれる。
それも束の間、臙脂色の羽織を脱ぎ捨てて志津に預けるや、桃の木の下に駆け出していく。
胡蝶の翅の様に鮮やかな袂をはためかせ、天衣無縫に笑い興じながらくるくる跳ね回る。
「この桃を、お志津と見に来たかったのですわ!」
のどけき春の陽射しを浴びて、志津の愛しき人は爛漫と舞い踊る。
志津は千本の桃の木よりも、木の下の珠緒を美しいと思った。
春の園 くれないにほふ桃の花 下照る道にいでたつをとめ
先人の詠んだ歌にある様に、志津は思い人の姿を胸に焼き付ける。
心のままに自由を謳歌する珠緒を前にすれば、どんな選択も間違っていなかったと思える。
これで良かったのだ、と信ずる笑みが口元に浮かぶ。
志津の幸せは、そこにあった。
というのが、数時間前の出来事である。
病み上がりの身で散々はしゃぎ回ったせいもあってか、家に帰るなり珠緒は熱を出してしまった。
「だから、お風邪がぶり返しはしまいかと申し上げたのです」
床に臥せった珠緒の額に氷嚢を載せながら、志津はぼやく様に言った。
けれども、懐かしい相手と会うきっかけを作ってくれた珠緒に、内心感謝していた。
「あたくし、もう子供ではありませんわ。こんな風邪くらい、すぐに……」
言い終わらぬ内に、くしゅんと可愛らしいくしゃみが飛び出す。
「何もなさらず、大人しくお眠り遊ばせ」
喉元まで布団を引き上げられると、珠緒は渋々鼻を鳴らす。
「言う通りに寝ているから、いつもの葛湯が飲みたいわ」
「はい。只今、お作りいたします」
志津特製の、蜂蜜を沢山入れた甘い葛湯が珠緒のお気に入りである。
珠緒の看病など、志津には手慣れたものである。
こんな風に幼い珠緒が熱を出した時、夜通し氷を砕いたり汗を拭いていたのを思い出す。
愛娘が病気になると侯爵夫人はひどくうろたえたが、看病は志津や母任せだった。
だからこそ、少しでも早く珠緒が良くなる様にと願ってやまなかった。
温かな湯気を立てる葛湯を持ってくると、珠緒はお志津に飲ませてほしいと駄々をこねる。
風邪の時は特に我がままになる珠緒なので、言われるがままに匙で一口ずつ飲ませてやる。
こうした幼さも含めて、志津は珠緒がかわゆくてならなかった。
体が温まると気分も良くなったのか、珠緒はうつらうつらと微睡む。
彼女の枕元に侍ったまま、志津は美しい寝顔を微笑んで見守る。
一眠りして目を覚ますと、珠緒は枕元に飾られた一輪挿しに驚いて首を浮かせた。
「まあ、桃の花!」
それは庭園を後にする時、地面に落ちていた小さな枝を懐に仕舞ってこっそりと持って帰ったものだ。
「枕辺にお花があれば、御気分も晴れましょう」
何もせずに寝ている退屈を厭う珠緒ゆえ、彼女の心やりになればという思いだった。
それから、と千代紙で折られた紙雛を取り出す。
「雛祭りには少し遅いですが、今年はお祝いをしていなかったと思いまして」
桃の一輪挿しの前に、一対の紙雛をちょこんと座らせる。
父君が作らせた雛人形は、置く場所が無いと侯爵家を出る時に手放してしまった。
その上引越しの慌ただしさも相まって、桃の節句も祝えずじまいだった。
「雛祭りは、紙で折られた人形を病や災いの身代わりとして川に流した形代流しが起源と言われています。この人形に御姫様のお風邪を託して、早くお元気におなり遊ばしますように。そして、また御一緒にどこかへ参りましょう」
すると、珠緒は氷嚢が落ちるのも構わず布団から身を起こすや、志津のうなじをかき抱く。
余すことなく自身を包んだ肌のあまりの熱さに、心臓が高鳴る。
「御姫様」
「やっぱり、お志津はあたくしを子供扱いしていますわ。十八にもなって、雛祭りをするだなんて」
くすくすと笑って、珠緒は志津の頬に手を添える。
「そんなお志津の優しいところが、あたくし昔から大好き。でも―――さっきも言った通り、あたくし、もう子供ではありませんのよ」
病とは違う熱を帯びた瞳が、上目遣いに志津を見上げる。
恋しい珠緒の艶治な表情に、志津は我を忘れた。
気が付けば―――瑞々しい椿の花の様に紅い珠緒の唇に、自身の唇を重ねていた。
初めて触れる乙女の唇は、あまりに柔らかかった。
自分のしでかした事に気がついた志津は、慌てふためいて顔を離す。
「申し訳御座いません、御姫様」
ほんの一瞬の短い口づけに、珠緒は長い睫毛をぱちぱちとさせていた。
間髪を入れず、熱で火照った顔に朱が広がっていく。
「お馬鹿っ!風邪が感染ったら、どうするつもりですの!」
柳眉を逆立てた珠緒に甲高い声で怒鳴られ、耳がきいんとする。
しかし、志津は構わず細身で女らしい躰を抱き寄せた。
艶やかな黒髪が、ふわりと翻える。
「お慕わしい御姫様と同じ病を得るなんて、何と云う幸いでしょう」
早鐘を打つ珠緒の鼓動が、触れあう胸元を通して伝わってくる。
志津はその一つ一つを、妙なる音色の様に噛みしめた。
「お馬鹿……」
耳朶を撫でる囁きは、あまりにか細い。
志津の腕に身を任せる如く、珠緒の躰からは力が抜けていく。
嫋やかな手が、志津の袂を握る。
「お志津は、いつまでも元気でいてくれなくてはいけませんわ。あたくしを置いて、早々と病み死になんてしたら許しませんわよ」
貧血の気こそあるものの、子供の頃から病気一つしてこなかった志津である。
「御姫様の仰せとあらば」
そう言って、背に回した腕に力を込める。
黒真珠の瞳が、もじもじと志津を見上げる。
「その、御姫様というのも何だか面映ゆいですわ。あたくし、もう華族の娘ではありませんもの」
「では、何とお呼びいたしましょう」
珠緒が赤ん坊の頃から慣れ親しんでいる呼び名は、すっかり志津に染みついている。
白羽二重の寝間着の袖で顔を隠す様にして、侯爵家の元姫君は呟く。
「あたくしの名前を―――姉上や、父上が呼んでくださった様に」
それきり、恥じらって面を伏せてしまった。
志津は珠緒の赤らんだ頬を両手で包み、そっと顔を上げさせた。
そして、吸い込まれそうに大きい宝珠の様な瞳を覗き込んで、言葉を紡ぐ。
「愛しております、珠緒。尋常種の身であろうとも、私が命を懸けて貴女をお守りします」
それは志津にとって、思いの限りとも言える行動だった。
しかし、志津も珠緒も、あまりに大胆な呼び名に揃って赤面してしまった。
「やっぱり、人前ではよして頂戴。その呼び方」
「左様で御座いますね」
でも、と珠緒は逡巡する如く視線をさまよわせる。
「二人きりの時は、お志津に任せますわ」
恥じらいに染められていた珠緒の顔に、花の様な笑みが広がった。
けれど、今は言葉よりも、ただ一途にこの愛を珠緒に伝えたい。
再び寄せられた志津の唇を、珠緒は目を閉じて受け止めた。
春の夜空には、見事な天満月が輝いていた。




