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終章 東雲の子

凪いだ池の水に映る初夏(はつなつ)の空は、どこまでも晴れやかな青だった。

(あまね)く降り注ぐ陽射しに、野辺の草花は天に向かって生き生きと伸びゆく。


昼下がりの公園は人影もまばらで、白日の長閑(のどか)な空気に満ちていた。

絵画の様に美しい情景に、美夜は思わず溜息を零す。


本当に、良い天気。


風にそよぐ青葉の隙間から差し込む木漏れ日が、刈り込まれた芝生の上にゆらめいている。


薄紅色に白いかたばみの花模様を散らした単衣(ひとえ)の袖をかざし、手庇(てびさし)を作る。

青空の下で初めて眩しい太陽を見上げた時の感動は、二十五の今となっても忘れられない。


「ママ!」


朗らかな幼い声に、美夜はそちらを振り返る。

おさげ髪に洋服姿の小さな少女が、子うさぎの様に息せき切って駆けてくる。


東雲子(とうこ)ちゃん」


美夜が微笑んで両腕を広げると、その子―――東雲子は勢いよく飛び込んでくる。


その首には、幼いながらも月影の印である首輪が嵌められていた。


走ってきたせいか、前髪が汗で額に張り付いている。

健康的に上気した林檎(りんご)のほっぺた。

美夜を覗き込む、星を浮かべた様な大きい目。


溌剌(はつらつ)とした生気に満ちあふれた小さな命を、愛おしく抱きしめる。

美夜の命を(もっ)てしても守ると決めた、唯一無二の宝物である。


「遠くからここまで走ってきたの?お転婆さんね」


どうやら、また背が伸びたらしい。

愛娘(まなむすめ)が日に日に成長していく様を見守る幸せは、母として何にも代えがたいものだ。


屈託のない笑顔で、東雲子がこくりと頷く。


この子の父親に言わせれば、顔も仕草も美夜の小さな頃に瓜二つなのだそうだ。

けれど、夜明けの空の様に青みがかった黒髪は父方の血である。


「ママに、見せたいものがあったの」


そう言って、ふっくらとした手に握りしめていたそれを美夜に差し出す。

一輪の、真白い月見草の花。


あえかにか細い姿は、陽射しの下ではあまりに儚い。


「あっちの方に咲いてたから、東雲子、ママにも見せてあげたかったの」


「嬉しいわ、なんて綺麗なんでしょう。東雲子ちゃんは優しい子だわ」


誇らしげに胸を張ってみせる我が子に、美夜は微笑ましく目を細める。


それから、言い知れぬ憂いを帯びた眼差しを手にした花へと向けた。

(おぼろ)に淡い月明かりの下に咲き誇る、夜の花。

()の光を浴びる事を許されずに生きていた、月見草の様な娘はもういない。


あの懐かしいセレナーデの中にだけ、かつての夜は秘められている。


再び東雲子の体を抱き寄せ、美夜は遠い昔の調べを口ずさむ。


「ら、らら、ら……」


母の膝の上で、東雲子は不思議そうに(まど)かな目を見張っていた。


その時、草の根を踏みしめる音が背後に近づいて、美夜は口をつぐんだ。


「ああ、此処(ここ)にいたのね」


空色の爽やかな洋装の淑女は、息も絶え絶えで見るからに疲労困憊した様子である。

眩い逆光が、この頃ますます彼女の父に似てきた面差しを縁取る。


「御苦労様です。怜子さん」


「パパ、やっときた」


妻とその腕に抱かれた娘に、怜子は愛日そのものの慈しみの眼差しを注ぐ。


「もう、東雲子は本当に足が速いんだから。お父様、とても追いつけなくてよ」


「だって、パパがあんまり遅いんだもの」


「まあ、この子は」


口ではそう言いつつも、怜子の顔は娘可愛さでめろめろに(ほころ)んでいる。


「東雲子。パパにも抱っこはさせてくれないの?」


「いや。ママがいい」


にべも無く断られて、真性の子煩悩である怜子はすっかりしょげてしまった。

東雲子の背中を撫でさすりながら、美夜はくすくすと苦笑いした。


何しろ、パパと呼んでくれる限りはそう呼んで欲しいと公言している怜子だ。

よちよち歩きの東雲子が、ようやく言葉を話し始めた頃である。


公家の伝統的な父母の呼び方である「おもうさま」「おたあさま」と呼ばせようとしたが、どうしてもうまく言えない。


その代わりに教えたのが、パパとママである。


しかし、果たしてこれで良いのだろうかと美夜が悩んでいると、怜子が言った。


「いいじゃない。この子は、私達とは違う新しい時代を生きていく子だもの」


東雲子という名前も、二人で十月十日(とつきとおか)知恵を絞って考えたものだった。


生まれた子が、日輪であろうと月影であろうと。

男の子ならば(あきら)。女の子ならば東雲子。


新たな未来を。夜明けの先を精一杯生きて欲しいという願いを込めた名前である。


「東雲子の生きていく世界がもっと良いものになる様に、パパとママは頑張るからね」


両親の話す事がまだよく分かっていない赤ん坊の東雲子は、父に抱き上げられながら目をぱちくりさせていた。

だが、怜子の言葉には父としての深い決意が(にじ)んでいた。


誰もが、性別によって人生を決められる事の無い社会を作る事。

かけがえのない娘を授かってから、二人の夢には新たな願いが加わった。


月影である東雲子が、この世界で自分らしく生きられる様にしたいと。


一昨年(おととし)、二人はその大望へと向かって最初の一歩を踏み出したところである。


さる豪商の所有していた土地を買い取り、新たに学び舎を建てた。

男女共学の月影の中等学校を開校するにあたり、二人は「黎明(れいめい)學院」という名を付けた。


開校記念の式典で怜子が理事長として述べた祝辞は、居並ぶ生徒や保護者の目を丸くさせた。


「良き妻、良き母になる事だけが学びの意義ではありません。皆さんには月影という性別に縛られる事無く、自分で自分の生きる道を見つけられる人間となって頂きたいのです」


水を打った様に静まりかえった会場で、美夜は真っ先に盛大な拍手を送った。


案の定、華族の設立した学校に子供を入学させる事で、嫁入りにあたって(はく)を付けられると見込んだ保護者からは不満が寄せられた。

けれど、教育に理解のある親達の中には、怜子の考えに共鳴してくれる人々も多くいる。


小さくとも、希望の光は確かに灯っている。


いつか、この国が黎明を迎える日まで。

果たすべき改革は、まだ始まったばかりだ。


水筒から冷えた紅茶を注いで渡してやると、東雲子はこくこくと喉を鳴らして飲み干していく。


「ねえ、ママ。さっきのお歌、なあに?」


娘の汗ばんだ額をハンカチで拭く美夜に、東雲子が尋ねた。


「お歌って?」


隣で同じく紅茶のコップを手にした怜子が、美夜の代わりに()き返す。


「さっきママが歌ってたの。こんな風に、る、るる、るって」


子供らしい澄んだ声で紡がれる旋律に、ああ、それはと怜子が微笑む。


「パパとママの運命を結んでくれた、大切なセレナーデよ」


「セレナーデ?」


小首を傾げた東雲子に、美夜も思い出深い声音で語る。


「東雲子ちゃんが生まれるずっとずっと前―――このセレナーデがあったからママはパパに出逢えて、東雲子ちゃんが生まれたの。おばあちゃまや、亡くなられたおじい様もこの曲がお好きだったのよ」


幾星霜を生きた小夜曲(セレナーデ)は、愛に満ちた対の日月達の日々を時を超えて物語る。


冥治(めいじ)は遠く、大宵(たいしょう)は過ぎ、そして今は照和(しょうわ)の御代である。

しかし、どれだけ長い時が流れようと、このセレナーデがある限り彼らの過去が消える事は無い。


「東雲子がママのお腹にいた頃も、よくパパがこのセレナーデを弾いて聴かせたものよ。覚えていない?」


「覚えてない。だって、東雲子生まれてなかったもの」


父の問いにも、東雲子はあっけらかんと首を横に振る。

だが、すぐに素直な笑みがその顔に広がる。


「でも、東雲子、このセレナーデ好き。パパとママは、()()()()なんでしょう。そんなパパとママが会えるようにって、このセレナーデにはまほうがかけられてたのよ」


娘の子供らしからぬおしゃまな物言いに、二人は思わず顔を見合わせた。


「対の日月だなんて、どこでそんな事を聞いたの?」


美夜が(ただ)す。


「あっちゃんが言ってたの。東雲子は月影で、あっちゃんは日輪だから、必ずどこかに運命の相手がいるんだって」


秋元夫妻の次女である明日嘉(あすか)は、東雲子が生まれた頃からの幼なじみだ。

美夜達の結婚式の日に生まれた、大槻夫妻の次男の凛二郎(りんじろう)も二人とは仲が良く、何をして遊ぶのも一緒である。


親として、見ていて喜ばしい限りだ。

二人とも日輪であるから、将来は彼らのどちらかが東雲子のお婿さんになるかも、と淡い空想をしないでもない。


娘を溺愛する怜子は、絶対他所(よそ)になぞ嫁にやらないと息巻いているが。

東雲子には家の事など気にせず、心のままに自分の望む相手と結ばれて欲しい。


「ええ、そうよ。パパとママはこの世界で一人しかいない対の日月同士だもの。だから、東雲子みたいに可愛い子が生まれたのよ。こんなに愛らしい子、他にいなくってよ!」


朗々と歌う様に言い、怜子が勢いよく東雲子を抱き上げて頬ずりをする。

きゃあと甲高い歓声を上げ、東雲子はされるがままになっている。


「パパ、おけしょうの粉ついちゃう!」


手足を自由にじたばたさせながら、けらけらと笑い転げる東雲子。

天使の喇叭(らっぱ)の様に無邪気な声が、青空を震わせる。


はち切れそうなあどけない笑顔に、二人の胸は一杯になる。

いつまでも、こうして東雲子が真昼の光の中で笑っていられる世界であって欲しい。


この子に生を授けた母として、美夜は心からそう祈る。

父である怜子も、それは変わらないだろう。


ようやく東雲子が父の腕から解放されると、美夜は小さな手を握り、心を込めて語りかける。


「いつか、東雲子ちゃんも自分で運命の相手を見つけられるわ」


その日が来るまで、東雲子の歩む夜明けが幸せなものであるように。

親としての務めを果たす事が美夜達の使命である。


「そろそろ、お家に帰りましょう」


清小路伯爵邸。

幾つもの愛と物語の舞台となった―――そして、美夜達家族が新たな日々を紡いでいく場所へ。


スカートの裾を払って、怜子が立ち上がる。

美夜は頷き、水筒や畳んだ敷物をバスケットに納めていく。


「パパ、ママ、はやくはやく!」


片付けも終わらないうちから、東雲子はせっかちに両親を呼んでいる。


「もう、あの子ったら」


今にも昼なかに駆けていきそうに足踏みする娘に、怜子が目に入れても痛くは無いと言わんばかりの笑みを浮かべる。

そして、愛慕に満ちた陽光の様な眼差しと共に、美夜に向かって手を差し伸べる。


「さあ、行きましょう。美夜」


どんな時も美夜の心を照らし続けた優しき瞳は、今日も美しく輝く。


「はい」


これまで何度もそうしてきた様に、美夜は対の日輪である彼女を信じてその手を握る。


空は雲一つなく晴れ渡っている。

陽射しが燦々(さんさん)と降り注ぐ日なたの世界。


その空の下へ、美夜は愛しい太陽のぬくもりを手に歩き出していくのだった。



大宵オメガセレナーデ 完

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