対の日月
路面電車の駅からしばらく歩いた林の中、そびえる木々を見上げると、青々とした葉の隙間から差し込む木漏れ日が眩しい。
夏がやって来るのも、もうすぐだろう。
林の間に伸びる小道を進んだ先に、目指す家が見えてくる。
純和風の平屋建てで小じんまりとしているが、不思議と陰気さは感じない。
美夜が曇りガラスの引き戸を数回叩くと、中から大股な足音が聞こえてガラガラと戸が開き、腕まくりしたシャツにサスペンダー姿の男が顔を出す。
「よお、美夜か!ほら、早く上がれよ」
「こんにちは。秀治郎さん」
秋元秀治郎は三十代の半ば。
伸ばしっぱなしでうなじで束ねた髪や、口元の無精髭は少々風采が上がらない気もするが、秋元本人の人当たりの良さがそれを気にならなくさせていた。
そんな彼が日輪であり、医術を生業にしていると聞いて驚く人も、珍しく無いのではないだろうか。
玄関のすぐ横の板敷きの診察室には、分厚い医学書がぎっしり詰まった本棚が並び、その脇には聴診器や万年筆の載った木の机が据えられている。
秋元は椅子の背に掛けてあった白衣を羽織り、自分の向かい側に座るよう促した。
その時、開いたドアからひらひらとした兵児帯を締めて、白い前掛けをした可愛らしい小さな女の子がちらりと顔を出す。
美夜を見ると、満面の笑みを浮かべてとことこと駆け寄ってくる。
「美夜お姉ちゃん!来てたの?」
「秀子ちゃん、こんにちは」
秋元の娘である秀子は美夜に懐いていて、美夜の事をお姉ちゃんお姉ちゃんと慕ってくれている。
美夜も小さい子は好きだし、歳の離れた妹ができたようで嬉しく、よく一緒に遊んであげていた。
すると秀子の後ろから、着物の上に白衣代わりの水屋着を身につけた若い女性が姿を現す。
「秀子。お父さんこれから診察やさかい、行ったらあかんよ。こっち来ぃ」
柔らかな栗色の巻き毛を動きやすくきっちりと束ねたその女性は、秋元の妻で秀子の母親の嘉世子だ。
白く滑らかな額に、薄煙る睫毛をした嘉世子は、一見するともの柔らかな美しさを乳白色の霧の様に漂わせた女性。
だが、それとは全く裏腹に、口を開けばはきはきとした太坂弁が次から次へと飛び出し、性格もそれに似合って大変活動的である。
美夜に向ける微笑みも、美しい女性のそれ特有の気恥ずかしくなる近寄りがたさより、どこかほっとするような親しみを感じさせる。
「美夜ちゃん、よう来たねえ。今、いつものお薬用意するさかい、待っとってね」
「嘉世子、この前生まれた中山さんの所、さっき経過観察に伺ったんだろ?奥さんと、生まれた赤ん坊の体調はどうだった」
「母子共に全く問題無しや。お母さんの一郎さん、予定日より早う産気づきはったさかい、少し心配やったけど、赤ちゃんも元気に泣いとったわ」
日輪と月影の夫婦であっても、対等な関係を築く事ができるのだと知ったのは、秀治郎と嘉世子夫妻が初めてだ。
月影は結婚可能年齢に達すればすぐにでも嫁に行くべきとされているのだから、よほど生活に困窮しない限り、外に出て働く者など滅多にいない。
ましてや医師を志す月影など無きに等しいし、万人へ公平に教育の門戸を開くべきはずの医学校も彼らを受け入れる所は無い。
唯一例外を挙げるとすれば、独学で受けられる「医術開業試験」に合格する事で、月影にも医師の資格が与えられる。
嘉世子も、そのようにして医師たる自分の生きる道を得た月影の一人だった。
元々は太坂を中心に、関西へと幅広く事業を展開している大銀行の頭取令嬢として何不自由無い暮らしを送っていたらしい。
だが、太坂の病院で医師をしていた日輪の秀治郎と出会い、その恵まれた暮らしも何もかもを捨ててこの東の都へとその身を落ち延びたのだった。
そして、秀治郎と共に医師として働こうと、夫であり医師の先輩でもある彼に勉強を教わりながら、難関として知られる試験にも晴れて合格した。
月影であろうとも、愛する人と共に自分の人生を自分の手で見事に切り開いてみせる嘉世子は、美夜にとって憧れの大人の一人である。
それから秋元は、心臓の音を聞いたり、喉の奥を見たりして一通り美夜の体を診察していく。
「よし、今月も特に問題はないな。先月の抑制剤はどうだ?きちんと効いてくれたか」
「ええ。月蝕だって事忘れてしまいそうなくらい」
月影を悩ませるものとして、発情期、通称月蝕と呼ばれる症状がある。
思春期を迎えて子を作れる体になった月影は、月に七日ほど、日輪を誘う為の誘惑香を体から分泌する。
日輪がその誘惑香を嗅ぐと理性を無くし、月影自身も月蝕の間は日輪と交わる事しか考えられなくなってしまう。
そうした事も、月影の社会進出が阻まれる理由の一つなのかもしれないが。
月蝕が来る前に予め抑制剤を飲んでおけば、発情の症状を抑える事ができる。
だが、人によっては全く抑制剤が効かず、月蝕の間中ずっと発情の熱に苦しまなければならない事もあるらしい。
抑制剤を飲む事で普段と変わらない生活を送れる美夜はまだ運が良い方だろう。
美夜は伯爵家にやって来た頃月蝕は迎えていなかったが、怜子の勧めで、清小路家の主治医の同級生である秋元の診療所に通うようになった。
月に一度、発情抑制剤を処方してもらい、その際に何か体に変化が無いか診察してもらうのがお決まりになっている。
秋元夫妻は医者は医者でも、美夜のように抑制剤を必要とする月影に薬を処方したり、尋常種の女性同様に命懸けの月影のお産に真っ先に駆け付ける、月影専門の医師だった。
その後、美夜の診察が終わった頃を見計らって、再び秀子がひょっこりとやってきた。
「美夜ちゃん、今日は随分おめかししとるね。誰か素敵な人と逢い引きでもするん?」
自分の膝の上にちょこんと座って、足をぶらぶらさせる娘の頭を撫でながら嘉世子がいかにも微笑ましそうに言うので、思わず顔がかっと熱を帯びる。
「違うわ。この後、怜子さまとお出かけなの。わたしの病院が終わったら、一緒に街に行こうって。最近は怜子さまもお忙しくて、少し息抜きをなさりたいんですって」
恋人同士の日輪と月影が待ち合わせをするようなロマンティックなものとは違って、美夜の場合、主人の外出に使用人がただお供をするだけというのは重々承知だ。
だが、怜子と二人で出掛けられるとなるとどうしようもなく胸が高鳴ってしまい、おさげの先に結ぶリボンの色や半襟の柄だけでなく、白足袋にほんの少しの汚れがついていないかさえも心配になってしまう。
「ねえ秀治郎さん、わたしの格好変じゃない?怜子さま、お笑いにならないかな?」
「馬子にも衣装ってところか……嘘だよ。似合ってるぞ、凄く」
「ほんとう?!良かったぁ」
美夜が安堵してほっと胸を撫で下ろすと、夫婦はそんな美夜が心底面白くてならないという風に、顔を見合わせてくすくす笑う。
「ほんまに美夜ちゃんは、怜子さんの事になると月の満ち欠けみたいな一喜一憂ぶりやねえ。まるで対の日月の片割れを見とる気ぃするわ」
嘉世子の言葉に、美夜の顔はさっきよりもずっと熱く、赤く染まっていたはずだ。
対の日月。
それは古くからこの国に伝わる、本能的な関係である番とはまた異なり、運命的な繋がりによって結ばれた日輪と月影を呼ぶ言葉だ。
互いが互いの為に命を輝かせて生きる二人の仲睦まじさを、古人は一対の太陽と月に準えたそうな。
自分の対の日月である日輪や月影に出会う事は、薄絹に覆われた形無き夢を求める様に、彼らにとって一種の若き日の憧れとなっている。
「わたしと怜子さまが対の日月だなんて、そんな事あるはずがないわ。怜子さまは素晴らしい方だと思うけど、わたしじゃどう考えたって身分が違い過ぎるし……秀治郎さんと嘉世子さんは?お互いに、一目会って自分の対の日月だと思った?」
美夜の言葉に、夫婦は呆気に取られたようにぽかんと口をつぐんでしまった。
それから、もじもじと照れくさそうに目配せし合う。
「もう、美夜ちゃんったら嫌やわ。なあ、秀治郎さん」
「そうだぞ。大人をからかうもんじゃない」
せっかくの真面目な美夜の問い掛けも、夫婦の息の合った笑いで誤魔化されてしまった。
「おとうさんとおかあさん、どうして笑ってるの?」
秀子は、何故二人が笑っているのか不思議そうに首を傾げていたが、やがてそんな両親につられたのか、自分もきゃっきゃと無邪気な笑い声を振りまく。
愛娘を加えた二人の仲睦まじいこの光景こそ、対の日月と呼ぶに相応しいものではないだろうか。
(わたしにもいるのかしら。運命が決めた、対の日輪が)
対の日月というものは前世から宿命づけられており、相手に一目会った途端に分かるのだと言う人もいる。
太陽が西から登っても有り得ない事だが―――もしも、あの方が自分の運命の人、対の日輪であったなら。
まるで御伽噺のようだと分かってはいるが、そんなおかしな事を思ってしまうのだ。
都会の片隅の西洋料理店で、頬杖を突いて窓の外をどこかアンニュイな眼差しで見やるモダンガールの姿はハイカラな店の雰囲気に似つかわしい。
「怜子さま!お待たせいたしました」
「私も先程来たばかりよ。お座りなさい。お腹が空いているでしょう」
店内は個室にこそなっていないものの、色硝子がステンドグラスの様にはめ込まれたパーテーションで仕切られているお陰で、人目に付く心配は無い。
純白のクロスが掛けられた小さなテーブル越しに怜子と間近で向かい合えるなんて、伯爵家では考えられない事だ。
そんな非日常はどこか落ち着かないが、頬が緩むのを抑えきれない。
今日の美夜は、袂や裾周りに初夏の陽の元に咲く雛芥子の模様を描いた薄桃色の着物に、蒲公英色の帯を背中で蝶々の羽のようにお文庫結びにした装い。
怜子のお供をしても恥ずかしくないだけの格好はしてきたつもりだが、都会的に洗練された洋装のこの方と並ぶと少し気が引けてしまう。
それでも、美夜がこれを食べたいと言って、怜子の頼んでくれたオムレツライスが運ばれてくると、口に入れた途端にとろけていく黄金色の卵と、ほんの少し甘いチキンライスの組み合わせに笑みが溢れる。
怜子は自分もビーフシチューを味わいながら、美夜がスプーンをうきうきと動かす一挙一動を目を細めて愛でるように眺める。
「美夜が、本当に美味しそうに食べるのだもの。栗鼠が胡桃を頬張っているみたいで、可愛らしくてつい見てしまうわ」
一緒に出掛ける度、怜子はこうして美夜に何か美味しいものを食べさせて、その様子を何よりも楽しそうに見るのがお決まりだった。
「だって、怜子さまが連れて行ってくださるお店のお料理はどこもほっぺたが落ちる程なんですもの。それに、怜子さまと一緒にいただくと何でも美味しくて―――昔は、こうして誰かと一緒にご飯を食べる事もありませんでしたから」
兄姉は日に三度、漆の剥げたお膳に載せた食事を蔵に運んできたものの、お膳を置いてすぐに戻ってしまい、美夜と食事をしてくれる相手は誰もいなかった。
誰かと共に和やかな会話をしながらの食事の楽しさも知らずにいたのだから、食事の時間を心待ちにする筈も無い。
幼い頃の美夜にとっての食事は、一人きりで壁の方を向いて機械的に箸を動かし、ただただ無心に何かを口に運ぶ行為に過ぎなかった。
思い返してみても、小石を口の中に押し込んでいた様で、どんな物を食べていたのかさえ記憶には残っていない。
貧しかったのだから、質素でつましい食事だったのは確かだけど―――贅の限りを尽くした豪勢な美食であっても、それは同じ事だろう。
不意に、喪の黒絹のヴェールの様な冥闇が怜子の顔を覆った。
悔恨とも、嘆きともつかない表情―――それに従って、彼女の日輪としての威光も段々に弱まっていくのが見て取れる。
まるで、それまで輝いていた太陽が厚い雲に遮られて翳る如く。
「怜子さま?」
美夜が恐る恐る声を掛けると、抜け殻となった人間の体に魂が戻った様に、怜子もはっと我に帰った。
「ううん、何でも無いの」
先程の怜子に、美夜は全く知り得なかった彼女の別の俤を見たような気がした。
考えてみれば、美夜と過ごしてきた三年間の前にも、怜子には二十年以上の長い人生があった筈だ。
だからこそ、美夜の知らない何かを怜子が胸に秘めていようと不思議では無いのだ。
当の彼女はさっきの様子が嘘の様に、いつも通りの優美高妙とした微笑みを浮かべる。
「私も、こうして美夜と一緒のお食事が一番美味しくてよ」
その言葉には、嘘偽りは欠片も感じられなかった。
店を出た後は、髪飾りの店で新しいリボンを買ってもらったり、公開されたばかりの活動写真を見に行ったりと、美夜にとってはこの上なく素晴らしい休日だった。
そんな初夏の午後は紅茶に落とした角砂糖が溶けていくように、あっという間に過ぎていく。
「今日は楽しかったわね。また休みの日には、どこか行きましょう」
「ええ。本当に」
「そろそろ、家に戻りましょうか。美夜もあちこち歩き回って疲れたでしょう」
名残惜しそうな怜子の横顔を、橙色の西日が照らす。
美夜は、いつの間にか自分が怜子のすぐ斜め後ろを歩いていた事に気づき、心中密かに自分を戒めた。
主人と使用人は、決して並んで歩いたりしてはいけない。
あくまで主人は前を歩き、使用人はその三歩後ろをしずしずと歩く。
「月影の使用人と並んで歩くのを見られたりすれば、怜子さんが良い笑い者になるわ。お前は精々影の如く、目立たないようになさい」
伯爵夫人に威圧的な口調と共に教えられたその掟は骨の髄まで染み込んでいた筈なのに、どうして忘れかけていたのだろう。
生まれも身分も何もかもが違う自分たちは、太陽の下を並んで歩く事は許されていないというのに。
(それでも)
いつか、怜子と肩を並べて日差しが降り注ぐ下を笑い合って歩けたら良いのに―――などと、叶いもしない事を願ってしまう。
「まあ。美夜ったら、どうしてそんなに後ろにいるの?」
いくら美夜に話しかけても、ちっとも返事が無いために振り返った怜子が、ずっと後ろをとぼとぼと歩く美夜に驚いてはたと足を止める。
「それは……今日は怜子さまのお供をするのだから、怜子さまがお恥ずかしい思いをなさらないだけの格好をしてきたつもりなのですが。でも、怜子さまのハイカラなお洋服には、とても及ばないなあって」
苦し紛れの言い訳だが、あながち嘘という訳ではなかった。
着物や帯を仕立ててもらう時、怜子は必ずと言って良いほど美夜の意見を第一にしてくれる。
身に着ける物を自分で好きに選べるというのは、今までに無かった自由だ。
だが、長い間外の世界を見てこなかった美夜の服についての審美眼は、全く磨かれていないに等しい。
そんな自分のコーディネートは子供っぽかったり、野暮ったかったりしないかと時々心配になる。
美夜の言葉に怜子は少し憂わしげな顔をしたが、やがて美夜を安心させるように、しゅんと丸まった背中に手を添えて顔を上げさせる。
「今日の美夜はとても素敵よ。この着物も、帯も、半襟も、草履も、リボンも。皆、美夜がこの組み合わせが一番良いと思って選んだんでしょう」
怜子の言う通りだ。
折角怜子と二人で出掛けられる貴重な機会なのだから、普段とは違う自分を見て欲しかった。
その為に前の晩、持っている着物や帯を片端から引っ張り出して、ああでもないこうでもないと随分長く悩んだ末に選んだ組み合わせだった。
「着飾るという行為はね、誰かに強制されるべきではないの。その人が本当に好きなものを着ている事こそが真の装いだと思うわ。美夜はよく私をお洒落だって言うけれど、私はただ自分が着たい服を着ているだけよ」
おもうさまからはもう少し服の出費を抑えろと注意されてしまったんだけどね、と照れくさそうに笑い、怜子はなおも続ける。
「私にとってはどんなに高価できらびやかな着物よりも、美夜が自分の意思で選んだものを着ていてくれる方がずっと良いの。ね、分かってくれて?」
「はい!」と美夜は心からしみじみと感じ入って、何度も何度も力強く頷く。
嗚呼、やはりこの方は冬の太陽のような方だ。
たとえ寒さに俯こうとも、雲間から降り注ぐ光やその暖かさは、再び立ち上がって前を向く力をくれる。
「そうだわ、良いことを思いついた。今日の美夜の素敵な格好を記念して、一緒に写真館で写真を撮りましょうか。考えてみたら美夜と二人で撮った写真って一枚も無いものね」
怜子の提案でとんとん拍子に話は進み、それから間もなく帰り道にある写真館で、二人揃っての写真を撮る運びになった。
怜子は幼い頃から写真を撮られるのには慣れているが、美夜にとってはこれが生まれて初めての経験だった。
蛇腹式のカメラの前に立つと、黒光りするレンズに睨まれているようで落ち着かない。
「それじゃあ準備をしてきますんで、少々お待ちください」
写真館の主人がスタジオを離れた時、美夜は手前の天鵞絨張りの椅子に座る怜子にそっと耳打ちした。
「あのう、怜子さま。わたし、怜子さまと写真を撮れるのはすごく嬉しいんですけど、その……カメラって、魂が抜けたりしませんか?」
以前、姉の一人が「写真なんて撮ったら魂を抜かれるわ」と言っていたので、つい心配になってしまった。
「あらまあ、美夜は何て面白い事を言うのかしら」
怜子は淑女らしいしとやかさは保ちつつ、澄んだ声を立てて笑った。
「怜子さま!」
馬鹿げた質問かもしれないが、美夜本人は極めて真剣だった。
「笑って、御免なさいね。大丈夫よ。私がいるじゃない」
さあ、と差し出された手をはにかみつつ取った時―――
「お二人さん、撮りますよ」と目も眩むような閃光が弾けた。