天満月の日輪
貴族院議員であった清小路尊子伯爵の訃報が、早くも世間の人々の記憶から薄れようとする盛秋。
冬の気配を忍ばせた、麗らかにもどこか寂しい陽射しが、野々宮侯爵家別邸の一室にも柔らかに降り注いでいる。
秋晴れの午後、その座敷は一様に気難しい面持ちの十数人の男女で埋め尽くされていた。
「どげんなるのじゃろう、これから」
「私にも分からないわよ。一体、殿様は何を考えているのかしら」
彼らは、野々宮の分家の戸主にあたる日輪達である。
かつて野々宮家が統べていた九国の地の方言も混じった低い囁きが、虫の羽音の様にざわめいている。
今日、ここに彼らが集まったのには理由がある。
本家直系の当主であった焔が、侯爵の座を降りると宣言したのだ。
屋敷が灰燼と化した火災で負った怪我は著しく、それは終生彼女から消えない傷となった。
片脚を引きずらなければ歩く事も難しく、常に体を支える杖を必要とした。
元大名家として、野々宮家は長きに渡ってお上の臣下の御役を全うしてきた。
時代が変わっても、野々宮宗家の日輪は代々軍人として国への忠義を尽くす役割を担っている。
現在の当主である焔も、生まれながらにその任を負っていた。
そんな自分がこの様な体になってしまっては、お国への申し訳が立たない。
世が世なら腹を切って詫びる代わりに、金輪際この家の主としての権利を放棄する、というのが焔の言い分だった。
座敷の片隅で置物の様にかしこまる志津は、天井から吊り下げられた御簾に隔てられた上座の方を見やる。
顔の右半分を覆い尽くす火傷の跡を、焔は医師や彼女を看護する志津の他には晒そうとしない。
一族郎党が集まる席において、その顔を見た者はいなかった。
父親譲りの秀麗な美貌がどの様に焼け崩れたのかという事も、彼らの卑しい好奇心の的だった。
不躾に自身へ向けられる大勢の視線も意に介さず、帳の向こうの人影は脇息に肘を置き、じっと鎮座している。
あの火事以来、焔は人が変わった様な寡黙さで、滅多に口を開こうとしない。
加えて主君の表情が読み取れないもどかしさに、志津は立ち上がりたくなる様な焦りを感じた。
今、貴女はどう思し召しておられるのですか、御館様。
軍人生命が絶たれた責任を取るだなんて、建前に過ぎないと志津には分かっている。
焔は自身の権力の全てを捨てる事によって―――彼女がこれまで重ねてきた悪行への罰を手ずから下すつもりなのだ。
それに否やを唱えられる者など、この家にはいない。
「殿様の御決断に、我々分家の者が口を挟む謂れもあるまい。だが、一つはっきりさせておかねばならないのは」
どっしりとした体にお召の羽織を着込んだ男が、勿体ぶって口火を切る。
「野々宮本家の次期当主を誰人が務めるのか、という事だろう」
獲物のにおいを嗅ぎつけた獣の様なぎらつきが、一同の目に浮かんだ。
「それは勿論、殿様の妹君である珠緒さんの婿を侯爵に据える他はなかろう」
華族の家に於いて、家督を継げるのは日輪のみ。
正当な侯爵家の姫でありながら、月影であるというだけで珠緒は当主の座から外される。
あの大火から間もなく、清小路家からは珠緒との縁組みを無かった事にしたいという申し出が正式にあった。
「当然ですわ」と珠緒はさして気に病む様子も無くけろりとしていたが。
だが、本家に生まれた月影の娘として婿を迎えなければならない身になれば、伯爵家への嫁入りなどは元より叶わぬ夢だ。
「和泉子爵家の豊明君はどうだろうか。あそこの息子はまだ独り身だっただろう」
「あんな所、所詮は戦争の手柄で爵位を賜った成り上がり者じゃないの」
「藤堂伯爵家の千代子姫はどうだ。あの家は御一新の前からうちとの縁も深い」
当の珠緒の意見を聞く者など誰一人おらず、婿選びの月旦評は続いていく。
親戚達に囲まれる形で正座する珠緒は、華やかな振り袖を畳に延べたまま、じっと口をつぐんでいる。
唇を噛みしめた美しい横顔を見ていると、心臓を鷲づかみにされる様ないじらしさに襲われる。
同時に、ふつふつと煮えたぎる様な感情が体の奥底から込み上げてくる。
それは、珠緒に対してではない。
今まで、どんな時も心を殺し続けていたから気づかなかっただけで。
利己的で鼻持ちならない野々宮の親戚連中が、志津はどうしようもなく嫌いだったのだ。
「何も、よその家から婿を迎える事も無いじゃない」
一人の出し抜けな発言に、話し声がぴたりと止む。
これ見よがしに宝石の帯留めを光らせた女は、ねっとりとした笑みを浮かべる。
「珠緒さんには、この野々宮の分家から婿を取って頂けば」
「そんた良か考げだ」
女の言葉を待ちかねた嫌らしい笑いが、申し合わせた様に一同の顔に広がっていく。
他家から婿を迎える云々は、白々しい前振りの茶番に過ぎない。
おののく様に、珠緒がはっと身を反らした。
この機を逃すまいと、親戚達の矛先は一斉に彼女へ向けられる。
「うちには九州帝大を卒業した娘がいますが、器量よしじゃっで、珠緒さんもお気に召しましょう」
「私には、士官学校を出たばかりの息子がおりますの。珠緒さんもお小さい頃に会っているから、きっと覚えておいでですわ」
我も我もと珠緒に群がる連中に、志津は腸が煮えくり返りそうだった。
この、欲の塊どもが。
自分達の日輪の息子や娘を本家の姫と番わせる事ができれば、いずれは侯爵家の全てが手に入る。
彼らにとって、珠緒は貪婪な己の欲望を満たす器に過ぎないのだ。
焔や珠緒が、どんな思いでこの場にいるか知っているのか。
押し寄せる怒りに、頭の中がくらくらしてくる。
膝の上で固く握った指先が、掌を突き破りそうになった。
毅然と背筋を伸ばしたまま、珠緒はさんざめく烏合の衆を横目で見やる。
気品と艶やかさが溶け合ったその姿は、吹きすさぶ風にも折れぬ一輪の牡丹の様であった。
その丹花の唇が、初めて開かれる。
「あたくしは、何方とも結婚するつもりはありません」
耳障りな騒つきを、玉の声が一瞬にして鎮めた。
志津は自分の耳を疑い、思わず腰を浮かせた。
珠緒の発言に、辺りはたちまち騒然とする。
さながら、天地が響めいた如き動乱であった。
「珠緒さん、そげん我が儘を言てはいかん。皆、お家の為じゃっで」
そうなだめすかされても、珠緒は頑として譲らなかった。
紅のつやつやと光る唇を引き結んで、きっと柳の眉を上げる。
「あたくしがしないと言ったら、しないのです。例え相手が宮様であっても、あたくしは結婚なんてしません」
すっぱりと言い放つ様は、小気味よいほどの強情振りであった。
「黙って聞いておれば、図に乗りおって」
痺れを切らした様に、羽織袴姿の男が立ち上がる。
男は親族達の喧騒を縫う様に大股で進み、珠緒の前に仁王立ちになった。
「侯爵家の姫御前である前に、月影のあんたに選ぶ権利があるとでも思っているのか。月影の役割は家の為に子を生す事だけだというのに、驕るのも大概にしろ!」
思わず、馬脚を現したというところだろうか。
当主の妹を相手にここまで無礼な口を利けるのは、元より月影の珠緒より日輪の自分の方が上だと妄信しているからだ。
がなり立てる男を強いて止める者もいない辺り、親戚一同の胸の内は同じなのだ。
月影如きが、日輪に対して何かを物申すなど烏滸がましい。
幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う。
日輪によって生き、日輪の光によって輝く存在であれと強いられ続けてきた性。
ただ口を閉ざし、服従に順じよと。
けれど、志津の姫君はそんな事もお構いなしである。
切り揃えられた前髪の下から、鮮やかな黒を湛えた瞳で男を睨み返す。
「お黙り遊ばせ!誰にも、あたくしのする事に文句を言わせやしないわ。矢でも鉄砲でも持っていらっしゃい!」
どこまでも気骨稜々と意思を貫こうとする、誇り高き珠緒の姿。
男は尻込みする様に口をもごつかせたのも束の間、月影に口答えされたという屈辱に真っ赤になった。
「何を、生意気な……!」
男の足が、どん、と珠緒の振り袖の袂を踏みにじる。
節くれ立った指が、姫君の肩に掛かろうとするより早く―――志津は、足音も荒らかに座敷の中心へと乗り込んでいた。
その背に珠緒を庇うと、ありったけの嫌悪を込めて不埒者を見据える。
「ここに御座す方を、どなたと心得る。畏くも、先代当主の御息女、野々宮侯爵家の二の姫であらせられるぞ。貴殿如きが、傷つけて良い方では無い」
自分の行動が正しかろうが、間違っていようが、知った事か。
志津にとって、珠緒を害そうとする相手は誰であろうと許すまじき敵である。
「お志津……」
名伏しがたい胸の震えを込めて、珠緒は自身の腰元を呼ぶ。
珠緒の柔手が、すがる様に志津の手を取る。
この方の為なら、妾は何だってできる。
「尋常種の女中風情が」
烈々たる怨みのままに、男は呪詛の様に唸った。
見得を切った様にぎょろりとした眼を血走らせ、歯が折れそうになるほど食い縛る。
「野々宮の日輪を相手に、自分が何をしたか分かっているのか」
痺れる様な痛みが、志津の肌という肌を刺す。
生まれながらに他の性の上に立つ日輪は、自分より下の存在を抑えつける威光を本能的に発する。
女であり、尋常種であり、使用人である志津に手向かいされるのは、男にとっては死ぬる以上の不名誉である。
恥辱に煮え立つ日輪の本能が、獰猛な獣の様に志津へと襲いかかってくる。
背後の姫君の為に、膝を屈する事など殺されてもできない。
だが、この座を占めている日輪は男だけではない。
「賤しい尋常種の分際で、どこまで浅ましいのかしら」
「分を弁えぬ下等な存在が、何と愚かな真似を……!」
侮蔑に満ち満ちた言葉の数々が、不穏な地鳴りの様に湧き上がる。
思い上がった尋常種に対する幾多の憎しみと嘲りが、睨み殺す様な視線となって志津に浴びせられる。
呼吸をしようと思っても、息が吸い込めない。
全身は、これ以上無いほどに冷え切っていく。
本能が、身を以て志津に警告している。
理解していたつもりだったのに。
自分と彼らの間には、決して覆せない差がある事を。
野々宮の日輪達にとって、尋常種の女中は同じ人間ではないのだ。
視界に入れられる事さえ無かった相手から、容赦無くぶつけられる悪意がどれほど堪えるものか初めて知った。
しかし、生身の体を持つ以上、志津は尋常種以外の何者にもなれない。
だから―――志津は、志津のすべき事から逃げる訳にはいかないのだ。
囂々と渦巻く非難の嵐の中で、志津は珠緒を守る為に立つ。
「姫御が姫御ならば、女中も女中か。揃いも揃って、身の程知らずどもが!」
男がけたたましく咆哮した、その時だった。
「口を慎め」
決して怒鳴るでもなく、水面に落とされた雫の音の様に静謐な声音。
だが、この家で最も高い位を持つ日輪の声は、御簾越しであろうともその場の空気を変える力を持っていた。
騒ぎ立てていた男女は反射的な早さで居ずまいを正し、志津も珠緒と即座に三つ指を突いた。
その一声だけで、同じ日輪さえも頭を低くせずにはいられない。
野々宮焔とは、どこまでも絶対的な日輪なのである。
「隆之助」
帳の中から焔に呼び掛けられて、先ほどの男はみるみる凍り付いた。
首筋をたらりと冷や汗が伝うのが、背後から見て取れる。
「貴様、ここを何処と心得る。野々宮家の日輪ともあろう者が、かような場で見苦しくわめき散らすとは」
焔はどこまでも淡々と、父親ほども歳の離れた男を詰問する。
その表情が御簾に隠れて伺い知れないのが、かえって畏ろしい。
「私めはただ、無礼な女中に自分の立場を分からせてやろうと」
「志津は自らの身を投げ出し、使用人として珠緒を守ろうとしただけの事。咎められるべきは―――先に私の妹に狼藉を働こうとした、貴様ではないのか」
烈しい眼が、じろりと男に向けられるのが目に浮かぶ様だ。
侯爵家当主の威光に畏伏した男は、すっかり縮み上がってしまった。
「他の連中も、あれこれと好き勝手のたまってくれたものだ。私は侯爵の座を降りるとは言ったが、珠緒に婿を取らせるとは一言も申していない」
「けれど、それでは野々宮の家が途絶えてしまうではありませんか!」
喧しい、と焔は息せき切って発言した女を一喝する。
「たかが小娘と、貴様らが陰で私を侮っていた事は知っている。だが、この家の長は私だ。全ての決定権は、私にある―――珠緒」
「は、はい!」
姉に名を呼ばれた珠緒は、間髪入れずに顔を上げる。
「野々宮侯爵家の当主として、今一度尋ねる。お前は、どうしたいのだ」
そう問われて、珠緒の艶やかな眼差しは畳の面を彷徨った。
しかし、真っ直ぐに御簾の奥の姉を見据えると、きりりと声を張り上げる。
「あたくし、結婚なんて一生御免被ります。この家を出て―――お志津と二人で暮らしとうございます」
一際強く弾かれた琴の音の様に、その言葉は志津の胸奥を揺さぶった。
「御姫様」
すわと自身を振り返った志津にも動じず、珠緒は唇を真一文字に結んでいる。
「それが、お前の答えなのだな」
「はい」
短い返事に、何人にも曲げられぬ姫君の意思がこもっていた。
「ならば、好きにするが良い。野々宮家は爵位を返上する」
それは、この国の特権階級の恩恵を何もかも捨て去る事を意味する。
彼女が何より誇るべき華族の身分を投げ打つと、焔はあっさりと口にしたのである。
当主の宣言に、座敷は今度こそ上を下への大混乱だった。
「そんな事があって良いものか!」
「もう終わりよ、この家は」
周章狼狽する人々と相反して、志津は放心して開いた口が塞がらなかった。
「珠緒が婿を取ろうが取るまいが、最初からこうするつもりだった。でなければ、私はとてもお天道様に顔向けができない。言いたい事は、これで全部だ」
杖を頼りに、御簾の中の人影はよろめきながら立ち上がる。
そのまま片脚を引き引き、奥の襖から座敷を後にする。
深々と頭を垂れて姉の後ろ姿を見送り、珠緒はすっくと立ち上がる。
「行きましょう、お志津」
珠緒は志津の手を引くと、てんやわんやの騒ぎには一瞥もくれず、さっさと部屋を出て行ってしまった。
長々と伸びた渡り廊下の吊り灯籠を揺らす風は冷たい。
しかし、赤や黄色に色づいた木々の葉が、寒風の中でも秋の女神の衣の様に華やかである。
「見て、お志津。紅葉や銀杏が、あんなに綺麗に染まっていますわ」
絢爛を何より好んだ先代侯爵夫人の住まいであったゆえ、別邸と云えども庭園の趣きは本宅に引けを取らない。
だが、志津は錦秋の彩りを誇る庭ではなく、そちらを嬉々として指さす珠緒に目を向ける。
斜陽を背にした横顔は、逆光の仄暗い陰影の中でも変わらず美しい。
「今年はお月見も、菊見の会も開けずじまいでしたものね。色々とばたばたしてしまって」
珠緒は、気づいているのだろうか。
春の観桜会に、夏の蛍見、冬の雪見の会―――華族の中でも群を抜く贅と雅を凝らした侯爵家の四季折々の催しが、帝都の上流階級を賑わせる日は来ない。
屋敷が焼け落ちたのなら、また建てれば良い。
華族を華族たらしめる位を手放す今、野々宮侯爵家は歴史の地平線に消えていく。
けれど―――我が身の宿命そのものであった野々宮家の終焉さえ、志津には取るに足らない事だ。
志津の瞳は、無邪気に振り袖を秋風にはためかせる珠緒しか映さない。
「何故、あの様に御館様へおっしゃったのです」
野々宮家に仕える身として、如何なる時も心を殺せと父や母には教えられてきた。
それでも、問いただす様に焦りが声に出るのを止められなかった。
どんな日輪が相手でも、断じて添うつもりは無い。
血を繋ぎ、家を守るべき身には思うのすら許されない事を、この深窓の姫君は高らかに謳ったのである。
「怜子様のご一件では、確かにお心を痛められたと存じます。ですが―――」
「お志津まで、あたくしにあんな親戚達の子供と番ってこの家を継げと言いますの?」
嫌なものを吐き出す如く、珠緒は珊瑚樹の実の様な唇を歪める。
日輪の風上にも置けぬ連中に、瑕さえない宝玉の珠緒を娶る資格が無いのは百も承知である。
「妾は、この家の行く末を危ぶんで申しているのでは御座いません」
志津はさらに語勢を強めて言葉を重ねた。
「御姫様にそぐわしい日輪の君は、定めてどこかに御座す筈です。貴女様を幸福にしてくださる方が、必ず」
ただ一人の対の日月と彼女が結ばれるのを見届けられれば、何も望まなかった。
だから、志津は他家に嫁いで野々宮を捨てる事も拒み、焔の傀儡でい続ける事を選んだのだ。
貴女の命の光が消えるその日まで、幸せでいてくださるように。
祈る事だけが志津に残された希望であった。
尋常種の妾には、それしかできないのだから。
「お志津は何も分かっていませんわ」
癇癪持ちの姉に負けず劣らず、すぐむきになる癖は幼い頃からちっとも変わらない。
珠緒が生まれたその日から、志津はこの子を見守ってきた。
だが―――まじろぎもせずにこちらを見上げる双の瞳の中に、志津の知らない珠緒がいた。
滑らかな玉の頬は、夕映えの茜色が霞まんばかりに紅を帯びている。
「あたくし、お志津といたいと言いましたのよ」
耳元でひゅうひゅうと逆巻く風の音が、刹那に遠くなった。
袷の着物に羽織を重ねても冷えが身に染む折だというのに、体は寒さを感じなかった。
「対の日月である日輪と出逢って見初められるのが月影の幸せなのだと、母上はいつもおっしゃっていましたわ。だから、あたくしもずっと信じていた」
母譲りの美貌を持って生まれ落ち、武家屋敷の奥深くで貝殻の中の宝玉の様に育まれた姫君。
掌中の珠の如く、日輪から愛される様に。
我が子の名に込められた母の切なる願いは、彼女亡き後も珠緒の中にあり続けた。
「月影にとって、日輪様と結ばれる以外の幸せなど無いのだって。でも、それはあたくしの思い込みでしたわ」
楓の葉の如く薄い珠緒の掌が、志津の両手を握る。
志津を手伝い、進んで姉を看護していた薄桃色の指先には、以前は見いださなかったささくれがある。
「お志津はどんな時も、あたくしの事を守ってくれましたわ。さっきだって、あの男からあたくしを庇ってくれた」
それが、臣下としての志津の役割だからと言い切ってしまう事は容易い。
志津は両親に連れられて、生まれたばかりの珠緒に初めて目通りを許された日を思い出していた。
まだ六つの子供であったが、志津は幾年経とうとその時を忘れはしない。
出産前と変わらぬ美しさを保った侯爵夫人は、その顔に笑みを浮かべておくるみに包んだ珠緒を抱いていた。
「ほら、この子は可愛いでしょう。あたくしにそっくり」
父や母の様なお追従も口にせず、真珠の粒の様につやつやした顔の赤ん坊に見入るばかりの志津に、侯爵夫人は言った。
「お志津が、この子を守っておあげね」
自分は、ただ主君の奥方に言いつけられた通りに珠緒を守り、仕えてきたのだろうか。
いや、違う。
それを決めたのは志津自身だ。
珠緒が日の本で一番幸せな月影になれる様に、この命を使おうと。
「どんなに輝かしい日輪より、あたくしにはお志津が誇るべき太陽ですわ。あたくしは、お志津が好き。日輪でなくても関係ありませんわ。怜様よりも、誰よりもお志津が好きなの」
吹きすさぶ木枯らしの中でも、珠緒の思いの丈は志津に届いた。
たまおは、おおきくなったらおしづのおよめさんになるの。
小ちゃな珠緒が、そう舌足らずに宣言したのはいつだったか。
馬鹿だなあ、と傍に居た姉の焔は鼻で笑って見せた。
―――志津は尋常種なんだから、結婚なんて無理に決まっているだろう。
月と肩を並べられるのは、眩い明るさで世を照らす太陽たけなのだから。
言われずとも、分かっていた。
生まれながらに分かっていた。
月影と尋常種。
二人を隔てる、動かしがたい身分の壁が無くとも―――天の太陽は彼らに微笑みはしない。
尋常種の志津に、珠緒を幸せにする事はできない。
だから、彼女を怜子という日輪に託して、朗らかに笑い合う後ろ姿を見ているつもりだった。
しかし―――志津はただ、作り上げた幸せの形を珠緒に押しつけていただけではないのか。
うつくしい彼女は、自分の心のままに志津を選んでくれたというのに。
いつの間に、こんなに大きくおなり遊ばしたのだろう。
夕まぐれの下で志津の手を握ったまま、真剣な目で見つめてくる珠緒。
どんな月よりも派手やかで、美々しく夜空に煌めいて。
けれども、自分の想う相手にはどこまでも誠実な光を降らせる月に育っていた。
彼女の放つ月明かりが、志津の心に積もった気持ちを溶かした。
吹きさらしの乾ききった頬を、その熱さを忘れていた雫が伝う。
泣くのなんて、ずっと昔にやめた筈だった。
心の内を溢しても、それを拾い上げてくれる相手などいなかったから。
母を喪おうと、父が逝こうとも、志津は泣きはしなかった。
なのに、愛しい珠緒の前では落ちていく涙をとどめようも無い。
「まあ。泣いていますの、お志津?お志津は、あたくしでは嫌なの?」
袖口で涙を押さえるのも惜しんで、志津はかぶりを振った。
「こんな妾が、御姫様の隣にいても構わぬのならば、喜んで。妾も―――」
自分の手で閉じた扉を開ける様に、志津は想いを放った。
「私も、御姫様に焦がれております」
帝都の空を覆いゆく宵闇の中、珠緒が片笑んだ。
「お志津でいいのではありませんわ。お志津がいいの」
志津はもう堪らなくなって、自分よりも頭一つ分低い珠緒の体をかき抱いた。
「絶対に、私が貴女を幸せにします」
どれだけ世間が後ろ指を指そうとも、志津はこの月を手放しはしない。
桔梗色の袂の内側で、珠緒がくすりと笑うのが聞こえた。
「あたくし、もう幸せよ」
しなやかな腕が、志津の背中に回される。
秋の暮れ方は、重なり合う二つの影をひそやかに包んでいく。
沈みゆく夕日の他に、庭の灯籠の陰からその光景を伺う人物がいた。
相想う二人の姿を目に焼き付ける如く、彼女はしばし佇む。
やがて―――志津と珠緒に背を向け、くるりと踵を返した。
動かぬ片脚を音を立てぬ様に引きずって、彼女は夜の中に消えていった。




