業火の婚礼
陽は既に、傾いてしまったらしい。
終わりかけの夏と、始まろうとしている秋の気配を忍ばせた風が、しゃらりと花かんざしを鳴らす。
唇に紅を引かれ終わった美夜は、角隠しを被せた文金高島田の髪も重たく腰を上げる。
深緋の色打ち掛けの裾模様の鶴が、さっと畳の上に翼を広げた。
一朝一夕で仕立てさせたとは思えぬほど、華麗な花嫁衣装。
しかし、それに一分の隙も無く身を包んだ今宵の花嫁の表情は、暗かった。
着付けや化粧を担った腰元達も、それを知ってか知らずか、余計なお世辞は口にしない。
「それでは、私どもはこれにて下がらせて頂きます。お時間になりましたら、お声をお掛けしますので」
「ええ、お願いします」
野々宮家の婚礼は、日の入りから夜に掛けて行われる習わしである。
それまで、もう時間は幾許も残されていない。
座敷を後にした腰元達と入れ替わりに、志津がやって来た。
花嫁姿の美夜を一目見るなり、ほっそりとした頬に笑みを浮かべる。
「お美しくいらっしゃいます。とても」
目の覚めるばかりに華々しい色打ち掛けも、自分のぼんやりした顔立ちには似合わない事は知っている。
どれほど見事な衣裳とて、美夜の暗い面持ちを引き立ててはくれない。
けれど、志津の些細な気遣いが嬉しく、美夜も紅の光る唇を綻ばせていた。
「ありがとうございます」
こちらを、と志津が陶器の器に入った油の様な液体と、刷毛を見せる。
「うなじに塗らせて頂きます。今暫し、首輪をお外し下さいませ」
蜜の様に甘いかおりを漂わせたその液体は、痛みを感じにくくする作用のある薬草を煮詰めたものだという。
予め塗っておけば、歯を立てられる時にあまり痛まないから、と。
それも、志津の心づくしである事は明らかだった。
剥き出しの首筋に薬を塗ろうとして、志津が囁く。
「最後にお尋ねしますが―――本当に、よろしゅう御座いますか」
今ならまだ間に合うと、志津は言いたいのだ。
美夜が一言否やと口にすれば、きっと志津はその望みを叶えてくれるだろう。
だが、美夜の決心は、もう鈍りはしない。
夜は、やって来てしまったのだから。
「はい」
それよりも、美夜には気に掛かる事があった。
「志津さん。あの事は」
声を落として尋ねれば、刷毛を動かす手を止める事無く、志津が答える。
「お言いつけ通り。万事、滞りなく済ませて御座います」
美夜はほっと胸を撫で下ろした。
それを聞けば、もう心残りは消える筈だった。
けれど、美夜にはまだ、断ち切るべきものがある。
「他に、欲しい物など御座いませんか」
「でしたら、灰皿とマッチを」
煙草を吸うわけでも無い美夜がそんな物を欲しがったのに、志津は面食らった様子だった。
それでも、言われた通りにそれらの品を持ってくる。
孔雀の模様が入った来客用の灰皿を畳の上に置いて、美夜は懐からある物を取り出す。
それは、一葉の写真。
怜子と街へ出掛けた初夏の日の思い出を切り取った、美夜の宝物だった。
椅子に気品高く腰掛ける怜子と、その手を取って立つ美夜。
二人とも、幸福そうに微笑んでいる。
怜子と過ごしたあの夢の様な日々が蘇って、美夜も笑みを含んでいた。
それと共に、胸が痛む。
孤月ヶ浜の別邸にいた頃、夜ごと月明かりにこの写真を照らし出しては、涙を流していた。
怜子に逢いたくてたまらなかった。
彼女と離ればなれに引き裂かれた境遇が悲しかった。
これを見る度に怜子を思い出して、一人泣いていた。
けれど、写真の中の怜子の面影が、孤独な日々の支えとなってくれた。
もう一度、生きて怜子に逢うのだという希望を捨てさせずにいてくれた。
どれほど、美夜は助けられてきた事だろう。
この写真は、どんな時も美夜の生きるよすがとなってくれるに違いない。
しかし、今の美夜にとっては自分の覚悟を疑わせる憂いの元だ。
美夜は灰皿の中に写真を置いて、火を付けたマッチを近づける。
フラッシュの閃光の様に明るい炎が瞬いた。
その火は生きた蛇の様にくねって、写真を飲み込む。
めらめらと燃ゆる炎の中で、二人の姿はあっという間に灰と化す。
志津はその光景を、横から神妙な面持ちで見守っていた。
さようなら、怜子さま。
心の中で、そう別れを告げる。
怜子が生きながら炎に焼かれるくらいなら、この方がずっと良い。
これでもう、美夜の手に彼女の形見は何も残されていない。
辺りにたなびく煙のにおいが、つんと鼻を刺す様な気がしたけれど。
涙は浮かんでこなかった。
だからきっと、これで良かったのだ。
そう思うのに、ただの燃えがらとなってしまった思い出から目を離せなくて。
宵闇の中で、美夜は身じろぎもせずにうつむいていた。
その時、格子の扉が開く気配がして顔を上げる。
先ほどの腰元の一人が頭を垂れて、恭しく告げる。
「お時間でございます」
来るべき時が、やってきた。
処刑の日を迎えた罪人の様に、もう美夜に逃げ場は残されていない。
けれど、美夜は恐れる事などなかった。
写真を燃やした灰皿を、遠ざける様に押しやる。
「今、参ります」
色打ち掛けの裾を引き、美夜はすっくと立ち上がる。
怜子が陸軍省の通用門を出た時、間もなく沈んでいこうとする夕日の輝きに目を射られた。
背後に堂々と聳える煉瓦造りの建物を照らす残光の眩しさから、我知らず手庇を作る。
指の隙間から漏れ出る陽射しさえも、懐かしかった。
斜陽であるとはいえ、こうして再び太陽を見る事ができるなんて。
ほんの少し前まで、怜子は一筋の光さえ差し込まない場所に閉じ込められていたのだから。
陸軍省の地下にある牢獄に入れられた時、こう告げられた。
貴女には政治犯の容疑が持たれている。追って、沙汰を待つ様にと。
怜子は思わず身構えた。
それは血を吐く様な拷問か、眠る事さえ許されずに延々と続く取り調べか。
お天道様に顔向けできない事をした覚えは無い。
だからこそ、何をされても屈するものかと意気込んだ。
これしきで負ける様な人間に、社会を変える事などできるものか。
けれど、怜子の意に反して、危害を加えられる様な事は何一つ無かった。
それどころか、事情聴取の真似さえも。
不思議に思いつつ、すぐに合点が行った。
やはり、これは野々宮焔の差し金であると。
政治犯云々というのは、怜子を地下牢に閉じ込めておく口実に過ぎない。
そもそも政治犯に限らず、法に触れた人間を取り締まるのは警察の役割ではないか。
陸軍が出てくるなど、お門違いも甚だしい。
自身の身柄の拘束が不当なものであると分かっても、憤慨していきり立つ気にはなれなかった。
この件を動かしているのは警察や陸軍とは比にならないくらい、もっと大きな権力。
本能が、そう囁いていた。
それも、恐らく華族絡みの。
自分があれほど疎んでいたこの国の上流階級の特権を、こうして身をもって知る事になるとは。
無明の闇の中で、怜子は一人膝を抱えて自分の非力さを恨んだ。
朝も夜も無い暗闇の中では、時の流れさえも淀んで止まっている気がした。
終わりの知れない闇の牢獄からは、一体いつ出られるのだろう。
永遠に、そんな時はやって来ないのかもしれない。
先の見えない幽閉に絶望して命を絶つか、耐えられずに気が狂うか。
そのどちらかを選ぶしか、この生き地獄から救われる方法は無いのだろうか。
この闇が、怜子の為に用意された棺だとしたら。
絶望が、少しずつ心を浸していくのを感じた。
誰とも言葉を交わす事無く、日がな一日暗闇の中に置き捨てられる様な生の中で、まともでいられる人間などごく僅かだろう。
それでも、怜子が最後まで自分を失わずにいられたのは。
ひとえに、美夜の存在があったからだ。
改めて、百幸美夜は並外れた娘であると思う。
生まれて十五年もの歳月、一人ぼっちの闇と戦ってきたのだから。
あの子が閉じ込められていた闇の長さに比べれば、怜子の味わった苦痛など何でも無い。
けれど、美夜は今どうしているのだろう。
生まれ育った蔵の中よりもっと昏い場所に閉じ込められ、日ならずしてその光を絶やそうとしているかもしれない。
怜子には及びもつかないくらい、悲しく辛い思いをしているかもしれない。
他ならぬ、野々宮焔の手によって。
美夜の身を慮って胸を焦がす事が、皮肉にも怜子を生かし続けてくれた。
寝ても覚めても、怜子の心を埋め尽くすのは忘れがたい美夜の面影ばかりだった。
月虹の様に鮮やかで、淡い少女の名残。
ある時は、まだ出逢って間もない頃の、名前さえ持っていなかったあの子が無邪気に笑う。
「わたしも東暁へ行ってみたいな―――いつか」
あどけなく口にした美夜が焦がれていたのは、自由になる事。
またある時は、屋敷に引き取ったばかりの美夜が、慣れないシャンデリアの明かりの中でこわごわと身をすくめる。
「ここが、わたしのいた所よりあんまりに明るくて。かえって、おっかない気がして」
メイドの仕着せの裾を不器用にからげつつ、精一杯怜子の後を着いてきていた健気さが、愛おしかった。
誰よりも幸福でいて欲しいと祈った。
そして、大槻家での最後の夜、怜子の手を取った美夜が気丈に言う。
「怜子さまの願う夜明けを、わたしも一緒に作っていきたいのです。一対の太陽と月として」
その強さが、怜子という日輪の翳を追い払ってくれた。
あの子と共に生きる明日を、怜子に選ばせてくれた。
なのに。
どうして、運命はあの子からばかり取り上げるのだろう。
自由も、幸福も、夜明けを見たいという願いさえ。
その不条理に対する怒りと嘆きを、どこにぶつければ良いのかさえ分からなかった。
けれども、一番憎むべきは―――美夜という月と互いを輝かせ合う事を決めながら、昏い闇を振り払えなかった日輪の自分。
やはり、怜子はあの子を奪われた弱い太陽のままなのだろうか。
どれだけ手を尽くしたとて、こんな自分の所に美夜は戻ってこないかもしれない。
気づけば、怜子は魂を奪われた抜け殻の様になっていた。
すっかり気力を削がれた怜子には、いきなり地下牢にやって来た焔の部下に保釈を告げられても、まるで他人事であった。
拘束を解く代わりに、これまでに起こった事は全て忘れる様に。
事務的に述べた男に、美夜の行方を尋ねようとも思わなかった。
答えが無いのは、分かり切っていたから。
黄昏迫る道を、怜子はおぼつかない足取りでとぼとぼと歩いた。
高くそそり立つ陸軍省の塀に、長々と情けない影が伸びる。
禁を解かれるにあたって、着替えや化粧までさせてもらえたのだから、身なりだって悪くは無いだろう。
食事は三食きっちり出されていたものの、元より食べる気はしない。
それを差し引いても、きっと今の自分はさぞ酷い顔をしているに違いない。
美夜という月の無い世界を、どう生きていけば良いのだろう。
行く宛ても無いまま、怜子はぼんやりと彷徨う他は無かった。
怜子のうつろな目に、陸軍省を出て間もない道路脇に止められた車が飛び込んできた。
見覚えのある舶来の自動車は、人目を憚る如く夕焼けの中にひっそりと佇んでいる。
後部座席のドアが開いたかと思うと、薄墨色の頭をした老紳士が降りてくる。
「お迎えに参りました。お嬢様」
怜子が生まれる前から清小路家に仕えている執事の園田は、さびのある心地よい声音に似つかわしく、柔和な微笑みを浮かべる。
包み込む様な表情の中に、怜子に対する心配が滲んでいる。
昔から、こんな風に優しい眼差しを見せる尋常種の使用人だった。
清小路家にも、とっくにこの件は伝わっていた。
園田の様子から察するまでもなく、それは伯爵家にひとかたならぬ波乱を起こしただろう。
けれども、彼はそんな事はおくびにも出さず、努めて怜子を慰撫してくれる。
「さぞや、お疲れであらしゃいましょう。どうぞ、お召しくださいませ」
彼に促されるまま、怜子は黙って車に乗り込む。
自動車が走り出しても、運転手を含め、誰一人口を開く者とて無い。
何もかもどうでも良くて、怜子は車窓を流れる日暮れの帝都の街並みに目を向ける。
怜子を乗せて伯爵邸へと戻った自動車は、車回しのある表玄関では無く、普段は使用人達が出入りする裏門へと停められた。
わざわざそうするのは、人目を避ける為に他ならない。
それだけの事を、怜子はしたのだ。
だから、出迎えなんて無いと思っていた。
むしろ、今は誰の顔も見たくはない。
けれども、沈みゆく太陽によって濃い茜色に煙る石畳の上には、三人の人影があった。
母の初音に父の尊子、そして、焔の妹である野々宮珠緒。
怜子が車から降りるなり、母はドレスの裾が乱れるのも構わず娘の首っ玉にかじり付いた。
「嗚呼、怜子さん!よく、よく帰ってきてくれました……」
西洋人の様に大きな目から溢れた涙の玉が、次々と怜子の胸に落ちる。
高貴な伯爵夫人としての体面も忘れ、声を上げて泣く母の姿に、怜子は驚きを禁じ得なかった。
この女性は、やはり怜子の母なのだ。
無条件に彼女を慕っていた幼い頃ならいざ知らず、成長してその人柄を見るにつけて、次第に母から遠ざかっていく自分を感じた。
華族である事を理由に平民を下に見たり、あからさまに美夜を蔑むところは度しがたい。
しかし、怜子もこのときばかりは、お腹を痛めて自分を生んでくれた月影の母が慕わしかった。
なよらかな絹地に包まれた震える背中を、そっと撫でさする。
「ただいま、戻りました。おたあさま」
絹レースの袖口でアイラインの掠れた目元を拭い、母は振り返る。
「あなたの為に、珠緒さんもいらしているのですよ。ほら、お顔を見せて差し上げて」
娘の手を取って、かつての婚約者の元へと導く。
あの野々宮焔の妹である月影を前に、怜子の気持ちは糸の様に張り詰めていく。
入り日に映える紅の振り袖に、艶やかな黒髪。
久方振りに相見る彼女は、やはり美しい乙女であった。
その縁組みは怜子の意に染まぬものであったとはいえ、野々宮珠緒は誰憚る事なく怜子の婚約者であった。
今も、それは変わる事が無い。
しかし、怜子は家柄も美貌も兼ね備えている彼女よりも、美夜を選んだのだ。
誰もがその眩しさを仰ぎ見る天満月ではなく、柔らかな光を降らせる淡月を。
行かないでくれと泣いて頼む珠緒を、孤月ヶ浜の駅に置き去りにして。
ざり、と胸の奥に後ろめたさが爪を立てる。
ああするより他無かったとはいえ、珠緒の立場に立ってみれば心が痛む。
面と向かって憎まれ口を叩かれても、文句は言えない怜子だ。
しかし―――珠緒の黒い宝玉の様な瞳は、ただただ怜子に対する情けに満ちていた。
「お帰り遊ばせ、怜様。あたくし、怜様がご無事でいらっしゃるかどうか、そればかりが気がかりで……」
安堵を帯びた眼差しでこちらを見上げる姿からは、どこまでも純粋に怜子の身を案じていたのが伺われる。
込み上げる切なさに、怜子は唇を噛み締めた。
散々痛めつけられた傷跡を、その玉の様な手のひらで優しくいたわられた様な気がして。
打算や功利の念無しに、自分の息災を祈ってくれる相手。
美夜や母の他に、まだそんな相手がいた。
仮初めの婚約者ではあったけれど。
自分は終ぞ、彼女に恋をする事は出来なかったけれど。
「……ありがとう。珠緒さん」
この美しい天満月の娘を、怜子は一人の人間として好きになれた。
曇りを帯びた真珠が生まれ持った輝きを取り戻す様に、珠緒の顔には無垢な笑みが浮かぶ。
(―――ああ)
知らないのだ、この子は。
陸軍省に於いて怜子の身柄を拘束していた相手が、血を分けた自分の姉である事を。
だからこそ、一途に怜子の無事を願えたのだ。
失望とも、憐憫ともつかない感情がぽつりと生まれる。
だが、それも無理はない。
全ては、秘密裏に動いていた事。
母とて、この事件の真相を知っていれば珠緒をただでは置かないだろう。
だから二人とも、何一つ知らなくて良い。
無事に怜子が戻ってきた安心に浸って、いずれは忘れてしまえば。
日々はまた、穏やかに過ぎていく。
だとすれば怜子も、忘却という名の救いに身を委ねてしまうべきなのか。
美夜を忘れて、あの子のいない真っさらな世界を生きていけば。
何もかも、最初から無かったも同然になってしまうのか。
怜子の夜を照らすただ一つの淡月も、生まれてこなかった事になるのか。
暗い帳が、怜子を覆い尽くす様に降りてくる。
呼吸が、知らず知らず早まる。
そんな事が、本当にできるのだろうか。
例えできたとしても、怜子は。
怜子は、美夜を―――
その時、現実と怜子を隔てていた暗幕は、目の前に進み出た相手によって破られた。
離れた場所で一人静観していた父の尊子が、おもむろに娘の元へとやって来たのである。
規則正しく石畳を鳴らすハイヒールの音に、怜子は身を硬くした。
自分のしてきた事が間違いだったとは欠片も思わない。
だが―――父からしてみれば、怜子は彼女の決めた婚約を投げ出して駆け落ちし、挙げ句の果てには軍にまで捕まったのである。
親に背くのも、家の名を汚す事も、華族にとっては甚だしき罪過だ。
怜子の父であり、清小路家の家長である尊子は、自らの手で娘に制裁を下さねばなるまい。
それが、どんな罰であろうとも。
怜子は覚悟して、自分に向けられる父の氷の様な視線を正面から受け止めた。
ところが。
尊子の冷たく硬い眼差しは、その瞳に怜子を映した途端、和らいだ。
「……よく、帰ってきてくれた」
寡黙な父らしく、決して多くは無い出迎えの言葉。
けれど、その中には確かに怜子をいたわる響きがあった。
(お怒りに、ならないなんて)
二の句どころか一の句も出てこなかったのは、拍子抜けのせいばかりでは無い。
父の面差しは、しばらく見ない間にひどくやつれた様だ。
茜色の海の様な夕焼け空の下でも、その顔には血の気らしいものが全く感じられない。
瓜二つである父のそんな表情に、怜子は美夜への想いに囚われるあまりに精神の均衡を崩しかけた時の自分を思い出した。
深い翳の中に落とされた、太陽。
娘が投獄されたせいで、心労が祟ったのだろうか。
それを抜きにしても、伯爵らしい堂々とした立ち姿が威勢に見えるくらい、父は体調が思わしくない様だ。
まるで、病人みたいに。
「本当に、どうして怜子さんが捕まったりしなければいけなかったのでしょう。政治犯だなんて、出鱈目も良いところです。次期清小路伯爵たる日輪が、そんな卑しい罪に手を染めるなぞ」
辺りを気にして声を落としつつ、母は大層口惜しげに嘆じる。
怜子が孤月ヶ浜から行方をくらました一件も、その悔しさでうやむやになってしまっているらしい。
「でも、怜様が無実であると、これではっきりと証立てられましたわ。幸い、世間にもこの事は知られておりません。ですからお義母様も、お気を落とされずに」
珠緒は甲斐甲斐しい嫁として、義理の母をなだめようとする。
けれど、その身振りや物言いはどこかぎこちない。
父は何をも語る事無く、手を後ろで組んで立ち尽くしている。
「ともかく、家にお入りなさいな」
幾らか腹立ちもましになった母は、怜子を伴い白亜の洋館へと戻ろうとする。
母や珠緒に続いて一歩を踏み出すべきか、怜子が惑っていると。
「怜子様!」
屋敷の日陰から飛び出す様に、二人のメイドがこちらへ走り寄ってくる。
猫の様にきりりとした顔立ちとそばかすが特徴の千登勢と、ラジオ巻きの髪型にどんぐり眼の花。
二人とも、美夜と仲良くしていたメイドの少女達である。
美夜が伯爵家からいなくなった時などは、動転して怜子を問いただした程だ。
「何です、お前達は!振る舞いを慎みなさい」
「どうか奥方様、今暫しお許しくださいませ」
青筋を立てて叱声を飛ばす伯爵夫人を、千登勢が丁重に制止する。
「怜子様、これを―――」
息せき切りながら花が差し出したのは、一通の手紙であった。
清小路怜子さま、と表書きに記されたペンの筆跡に、怜子は息を呑む。
素直な人柄そのものである様な、丸く愛らしい字の主は一人しかいない。
「この字は、美夜の」
千登勢が、こくりと頷く。
花は乱れた息の合間から喘ぐ如く、怜子に伝えようとする。
「ゆうべ、背の高い桔梗色の着物を着た野々宮家の女中さんがやって来て。怜子様がお戻りになったら、お渡しする様にって」
何事かと聞いていた珠緒が、驚きをあらわにする。
「お志津だわ」
独特の三白眼を持つ志津という女中には、怜子も見覚えがある。
孤月ヶ浜の浜辺で焔に連れられた美夜と再会した時、彼女もその場にいた。
何故、志津が美夜からの手紙を。
怜子は居ても立ってもいられず、鋏も使わずにびりりと手紙の封を切った。
純白の便箋を埋め尽くす文字を見た途端、心臓が締め付けられるのを感じる。
ひらがな混じりの手紙を、美夜の澄んだ声が耳元で読み上げてくれる様で。
拝けい 怜子さま
この手紙を読んでいらつしゃるといふことは、ご無事におやしきへと戻られたのでせう。
わたしにとつて、そのほかに望むことは一つとしてありません。
怜子さまのお命と引きかえに、野々宮侯爵のものにされやうとも。
明日の夜、美夜はあの方の元へとお嫁にまひります。
貴女さまとのお約束を果たせず、かうしてうらぎる形になつてしまふことを、どうかお許しくださひ。
さいごに一度だけ、怜子さまにお目にかかりとふございました。
もう二度と、日の目を見ることは叶わないでせうから。
けれど、さうすればこの決心がくづれてしまひます。
どれだけ暗ひ明日がやつて来やうと、美夜は怜子さまのおもかげをたった一つの太陽として生きるつもりです。
怜子さまが名づけてくださつた百幸美夜といふ名のとおり、美夜の夜は、美しひものでした。
今まで生きてきたどんな夜より、怜子さまと過ごした夜は、幸せでした。
その思ひ出がこめられたこの名と、貴女さまと出逢はせてくれたセレナアデのひと節さへあれば、わたしはどんな闇の中でも生きてゆけるのです。
ですから、どうぞ美夜のことは死んだとでも思ひ、お忘れになつてくださひ。
珠緒様を奥方としてお迎へになつて、笑ひの絶へないあたたかな家庭をお作りくださひませ。
あの方は、たしかに怜子さまをお慕ひしていらつしゃいますから。
そして、清小路伯爵として、この社会が新たな夜明けを迎へられるやうにしてくださひ。
愛日としてのやさしさを持つ怜子さまなら、きつと叶ふことでせう。
ただただ、美夜はそれを願つております。
美夜は一人の月影として、怜子さまといふ太陽を愛しておりました。
どうぞこれからも、幸ひでいらしてくださいませ。
草々不一 百幸美夜
終わりに記された、その名。
薄雲の様に淡い字の中で、怜子の付けた名前だけがくっきりと刻まれている。
読み終えた手紙を握る怜子の手が、だらりと下ろされる。
天を仰げば、紅染めの様な夕空の赤さが朧になっていく。
涙が一筋、頬を伝った。
あの子は、美夜は。
怜子を救う為に、我が身を犠牲にしようとしている。
明けない夜の中に囚われようとも、ただただ怜子への愛に殉じようとしている。
「……本当に、どこまで」
どこまで、怜子の為に自分を犠牲にすれば気が済むのだろう。
やるせなさと愛しさが、怜子の中にじわじわと波の如く広がっていく。
涙が一つ、また一つと流れては止まらない。
そんな自分の顔を心配そうに覗き込む花に、怜子は我に返った。
「美夜は、侯爵家にいるんでしょうか。あの女中さんに訊いても、何も教えてくれなくて。ただ、美夜は立派だったと」
立派な子だった。強い子だった。
自分の大切な信念や人の為には、進んで身を投げ出せる様な。
この花とて、急病の父を見舞う為に、怜子の誕生パーティーの手伝いを代わる事を美夜から申し出られたのだ。
儚げな容姿以上に、そんな強さを持ち合わせていたのが百幸美夜という娘だった。
雲に覆われながら、眩い光を絶やさない淡月の少女。
けれども―――その強さは、間違った形で費やされようとしている。
こんな時に、感傷に浸っている場合などではない。
怜子は自分の為すべき事を理解し、涙の跡を拭う。
「美夜は、そこにいるわ。私が責任を持って連れて帰るから、安心なさい。あなた達は、あの子の帰りを信じて待っていて頂戴。良くって?」
千登勢と花の顔に、安堵が広がっていく。
いつもの溌剌とした笑顔で、花が言う。
「分かりました。必ず、美夜を連れてきてくださいね。あの子、ずっと前から怜子様が好きなんですから」
二人のメイドが屋敷へと戻るなり、母はたちまち血相を変える。
「どういう事です。美夜は、遠方の家へと奉公に出されたのではありませんの。それが、どうして野々宮侯爵家なぞに」
「奉公などというのは真っ赤な嘘です、おたあさま。美夜は元々、孤月ヶ浜にある侯爵家の別邸に閉じ込められていました。私はあの子を連れて逃げ、帝都の知人の家に身を寄せておりました。ですが、私達の行方を追っていた野々宮侯爵に捕まって。私はあの方によって、政治犯の容疑で陸軍省に拘束されていました。美夜は私の命と引き換えに侯爵へ嫁ぐ事を命じられ、それを受け入れたのです」
真紅のルージュを塗り重ねた母の唇が、わなわなと震える。
信じがたいと言わんばかりに両手で顔を覆ったのもつかの間、隣でうろたえていた珠緒に凄まじい剣幕で掴みかかる。
「珠緒さん、あなたも姉君の回し者だというの?よくも、よくもわたくしの娘を……!知っていて黙っていたというの?何とかお言い!」
青天の霹靂の様な出来事に頭が追いつかない中、伯爵夫人に食って掛かられ、珠緒はすっかり萎縮していた。
「おたあさま、お止めください。珠緒さんは関係ありません」
怜子が母の体を引き剥がそうとするより早く、珠緒はきっと玉の顔を上げる。
「あたくし、姉上がそんな人道に背く行いをしたと知っていたら、とても恥ずかしくてこの場にはいられませんわ。そもそもの原因は、お義父様が姉上との間に、美夜と引き換えにあたくしを清小路家の嫁として貰い受けるという約束を結んだからですわ。卑劣な取引の道具にされている事を最初から知っていれば、誰がおめおめと怜様の妻になれましょう。この野々宮珠緒は、そこまで落ちぶれておりません」
武家の娘としての高潔な誇りを宿した珠緒の毅然とした声が、夕空の彼方へと響いていく。
それを機に、母の殺気立った視線は珠緒を離れ、背後の父を捕らえる。
「貴女」
初めて聞く低い声が、母の口を漏れる。
「どういう事かしら。美夜を、野々宮侯爵の手に渡したというのは」
娘の怜子でさえぞくりとする眼差しを向けられ、父が後ずさる。
「初音、違うのだ。これは―――」
「何が違うと云うのです。娘の命まで危険に晒して、貴女は本当に父親ですか!」
弁解の間すら与えず、母は父のジャケットの襟首を掴んで糾弾する。
「奉公に出された家で大切にされていたと思えばこそ、美夜を手放せたのに。それが物か何かの様に、野々宮侯爵に下げ渡されていたなぞ、酷いにも程があります。怜子さんの命と引き換えに、自分の身を捧げなければならないなんて、それでは、あの子が―――」
リネンの生地に食い込んだ母の指が徐々に力を失っていき、布の皺が浅くなる。
降り始めた雨の様に、一雫の涙が石畳の上に落ちた。
「美夜が、あまりに可哀想ではありませんか」
すすり泣く母親の姿に、怜子は何を言ったら良いか分からなかった。
伯爵夫人が美夜を嫌っている事は、清小路家では誰もが知っている。
彼女が娘の侍女にきつく当たる事など、日常茶飯事であった。
あれほど嫌悪していた美夜の為に、母が涙を流すなんて。
だが、今はそれどころではない。
怜子は確固たる足取りで、父の前に進み出た。
「おもうさま」
死人の様な顔をふらりと向けた父を厳しく見据え、怜子は告げる。
「美夜を野々宮侯爵に売った事を、今は問いません」
のみならず、怜子は母の言う通り、この父のした事で危うく命を奪われかけた。
けれど、尊子は直接手を下した訳ではないから、そちらを責めようとは思わない。
「これから野々宮家へ行って、美夜を取り返して参ります。例え、この命尽きようとも」
太陽は遠くの空へ、今にも沈みかけている。
婚礼は夜からだというから、急がねばなるまい。
車に戻ろうと身を翻した怜子の手首を、父の手がはっしと掴む。
「行くな、怜子」
頭に血が上るのを感じ、怜子はかっとなって声を荒らげた。
「この期に及んで、まだ家名の心配ですか!」
尊子は弱々しく首を振る。
見れば―――その手は痩せ細って、ひどく痛々しい。
「家名が、何になろう。そんな物、いざという時には何の役にも立たぬ」
立っているのがやっとの筈なのに、それでも父は掴んだ娘の腕を放そうとはしない。
「お前を逮捕したと、野々宮焔から連絡があった。騒ぎ立てたりすれば、娘がどうなるかは分からないと。とんでもない相手と関わりを持ってしまったと気づくには、遅過ぎた。全て、私が悪かったのだ」
彼女の抱えていた恐怖と苦悶を映して、その声はおののいていた。
怜子は息を詰めて、父の懺悔に耳を澄ませる。
「この家も、財産も、華族としての地位も、何もかも失っても構わない。けれども、お前だけは―――お前だけは失いたくないのだ、怜子。今行けば、あの娘にどんな真似をされるか。頼むから、行かないでくれ。お前がいなければ、ならぬのだ」
愛されていないのだと、思っていた。
清小路家としての跡取りとしてより他、父にとって自分は存在意義の無い娘なのだと思い続けてきた。
氷の清小路と貴族院であだ名される通り、冷厳な彼女であると諦めに近い気持ちで受け入れていた。
けれども―――見せかけの氷が溶かされた時、そこに居たのはひたむきに我が子を想う、一人の父としての尊子であった。
「おもうさま……」
こんな演技のできるような父でない事は、娘である怜子が一番よく知っている。
春の陽射しの様に氷を溶かしてしまったのは、尊子のありのままの親心。
怜子の胸は、言い知れぬ震えに滾った。
想われていないのでは、なかった。
どこまでも陰ながら、父は娘である怜子の事を心にかけていてくれたのだ。
怜子は父の手もそのままに、暗紅色をなしつつある薄暮れの中に立ちすくんだ。
母や珠緒も、嘘の様なこの情景にのめり込まんばかりに見入っている。
この手を、離さずにいたいのはやまやまだ。
恥も外聞もかなぐり捨てて、怜子の腕を掴んでいる父の気持ちだって、痛い程に分かる。
しかし、怜子は静かにもまっすぐ、自分の胸の内を伝えるより他は無かった。
「私は行かなければなりません。昔、まだ華族學院の中等科に通っていた頃、私は美夜に会っています。あの子はほんの十の子供でした。その時一度、私は美夜を失ったのです。今、またあの子を失って、同じ後悔を繰り返したくはありません。燃え尽きた太陽として、死んだ様に生きたくはありません。おもうさまは、私の無事を願っていてくださる。けれど、何が幸せで何が不幸かは、私が選ぶ事です。どうか、行かせてください」
行かなければならないのだ。
愛日としての、真の生き方を教えてくれたあの子の為に。
もう二度と、なくしてはいけない美夜の為に。
怜子のただ一つの、月の為に。
自分自身で紡いでいく一言一句が、怜子に確かな勇気をくれる。
父は目を瞠ったまま、絶えずその瞳に怜子を映していた。
怜子を留める様に張り詰めていた最後の氷が、砕ける音がした。
その手が、緩んだ。
間髪入れずに、怜子は両親と向かい合って頭を下げる。
「行って参ります。おもうさま、おたあさま」
父も、母でさえも怜子を止める事は無かった。
母は何も言わない代わりに、目頭にハンカチを押し当てた。
珠緒は草履の歩みも性急に、怜子の元へ進み出る。
「あたくしも連れて行ってくださいまし、怜様。姉がこの様に間違った行いに手を染めている責任を、妹のあたくしも取らねばなりません」
凛と眉を上げた面差しに、かつての子供らしさは欠片も見られない。
はっきりと言い切る珠緒が心強く、怜子はかたく頷いていた。
「もう行かなければならないわ。参りましょう」
怜子が珠緒を伴って、自動車に乗り込もうとした瞬間。
まるで糸が切れたように、父が膝から崩れ落ちた。
前かがみになると、空を染める落日よりも赤くどす黒い血を、色褪せた唇からごぼりと吐き出す。
母と珠緒の口から絹を裂く様な悲鳴が飛び出し、忽ちその場は騒然となった。
「貴女、貴女!」
しゃがみ込んだ母に背中をさすられる間も父の吐血は止まらず、咳の度に白い石畳の上に染みが飛ぶ。
「誰か、連れてきて頂戴!お医者様をお呼びしなければ」
母は半狂乱となって、執事の園田にすがりつく。
父が血を吐いたのは紛れもない事実なのだ。
どんな時も彼女に対する冷徹さを崩さなかった母が我を失う光景が、怜子にそう告げた。
頭から血の気が引いていくのを感じ、怜子はよろける様に一歩を踏み出した。
「おもうさま」
「来るな!」
信じられないほど力強い父の声に、硝子の壁にぶつかった様に足が止まる。
今にも命の火が消えそうな体のどこから、これほどまでに底力のある声が出せるのだろう。
父は口からどろりとした血を滴らせながら、呼吸と共に声を絞り出す。
「早く……行け。間に、合わなくなる前に」
息も絶え絶えであるのにも関わらず、父は怜子を送り出す為に最後の力を使おうとしている。
怜子を引き止めようとしていた無数のしがらみは、跡形も無くなってしまう。
「戻って参ります。絶対に」
「必ず、だぞ」
父は微笑んで頷くと、自身の作った地面の赤いまだら模様に顔から倒れ込む。
母と園田が使用人達を連れてやってきた時、怜子は珠緒の手を引いた。
「行きましょう。珠緒さん」
ドアのハンドルに手を掛ける。
夕日は最後の輝きを見せて、地平線の先へと消えていくところであった。
うぐいす張りの廊下の上を滑っていく深緋の裳裾が、やけに重たく感じられる。
慣れない色打掛に足を取られてたどたどしく歩く美夜を見かねて、付き従う志津が手を差し伸べる。
「どうぞ、御手を」
「ありがとうございます。でも、平気です。一人で歩けますから」
どれだけ志津が美夜の事を慮ってくれようと、この裳裾は美夜一人で負うべきもの。
例え足に絡みついて歩けずとも、美夜は進まなければならない。
廊下に一定の間隔で置かれた、美夜の背丈ほどもある篝火が障子に二人の影を落とす。
天下に名を馳せた野々宮侯爵家の婚礼の夜に、その炎は弥栄と燃え盛る。
婚礼の儀が行われるのは、屋敷の西に位置する奥まった座敷。
左右に一際赤々と燃ゆる篝火を置いた障子の前に、焔は腕を組んで立っていた。
初めて彼女と見えた時と同じ、誉れ高き帝國軍人の軍服姿。
思えば、焔が普通の女の様な着物を着ているところなぞ、見た事が無い。
いつ如何なる時も彼女は帝國軍人であるのだと、誇らかに世に知らしめている軍服。
炎に照り映えたその姿は、誰もが今宵の主役として認める勇ましさであった。
「やっと来たか」
真白い歯を見せて、焔が笑う。
陽によく焼けた肌や均整の取れた長身と相まって、男をも打ち負かす精悍さを持ち合わせている。
自分の夫となるべき相手に対して、今さらながら、かつ他人事の様にそう思う。
「はい。参りました」
美夜は笑わずに答えた。
「とうとう、この時がやって来たのだな。祝言が済めば、お前は未来永劫、この野々宮焔の妻だ。覚悟はできているだろうな」
絶対的な勝利を確信している人間が、相手の喉に刀の切っ先を突きつけるように焔は問う。
「無論です」
何度訊かれようと、美夜の答えは変わる事が無い。
その為に、ここまでやって来たのだから。
膝まづいた志津の手で障子が開かれると、吸い込まれそうになるほど長々と座敷が伸びている。
全てが急拵えの式であるから、侯爵家の親類は一人として呼ばれていなかった。
見通しの良い座敷の最奥には、壁のほとんどを埋め尽くさんばかりに巨大な仏壇が据えられていた。
三方開きの漆塗りの扉の内側から、細かな装飾の一つに至るまで、惜しげも無く金があしらわれている。
御燈明の灯された仏壇の前に、まず焔が、続いて美夜が腰を下ろす。
仏壇を見上げた美夜の中に、緊張が走る。
ここに、野々宮家を担ってきた先祖達が祀られているのだ。
骨肉相食みながら、その血を繋ぎ続けてきた人々が。
彼らの見えない視線が身を抉る様に向けられている気がして、美夜は頭上へと目を逸らした。
そこには、重々しい額縁に納められた二枚の遺影がそれぞれ飾られている。
一人はこの世の者とも思えぬほどに美しく、まだうら若い月影の貴婦人である。
娘の珠緒と見紛うばかりのその女性が、野々宮姉妹の母である文緒なのだろう。
十六の若さで焔を産み落とし、彼女が十五の歳に事故で亡くなったというのだから、まさに佳人薄命である。
そんな花の様に儚い自分の運命さえ知らぬように、先代侯爵夫人は艶やかな笑みを含んで座敷を見下ろしている。
もう一人は、数々の勲章を飾った一分の隙も無い軍服姿の壮年の男性。
濃く引き締まった眉や、畏怖さえ感じさせる迫力ある目元、意思の強さを体現した唇。
焔に似通った面影を持つ男性こそ、先代の野々宮侯爵、勝之助なのだ。
焔にとっては、かつて散々自分を甚振った父だ。
生まれ持った日輪としての威厳は、写真越しにもひしひしと伝わってくる。
横目で焔を見やると、彼女は並んだ両親の遺影を、じっと眺めていた。
焔の唇に、にやりと蔑みに似た笑みが刻まれる。
なにゆえの笑みであるのか―――その不吉な笑顔に、薄ら寒いものが背筋を走る。
錦の袈裟に身を包んだ老僧が、二人の結婚を御仏に報告する敬白文をおごそかに読み上げる事から、婚礼は始まる。
焔には太陽を象った橙色の瑪瑙の数珠。
美夜には月の形をした水晶の数珠がそれぞれ手渡されていた。
真白い房に指をきつく絡めて、美夜は身じろぎもせず経文に耳を澄ませる。
焔は物怖じする様子とてなく、堂々と胸を張り、握った拳を膝の上に置いている。
唇には、自信に満ちた微笑みが焼き付いた様にある。
これはまだ、華燭の典の序章に過ぎない。
一般的な祝言にある三三九度の盃が、野々宮家の婚礼で交わされる事は無い。
それよりも、確かに夫婦を分かちがたく結びつける儀式。
番の儀がつつがなく済んで、初めて花嫁は夫のものとなる。
それだけを受け入れる事が、野々宮家に嫁入る月影の役割と言っても過言ではない。
裏を返せば、番の儀を終えた嫁は、終生野々宮家から離れる事を許されない。
こく、と小さく唾を飲み込む。
隣の焔には、決して聞こえぬように。
刻一刻と近づくその時を前に、美夜の心臓は早鐘を打ち始めている。
耳の奥がきいんと鳴って、僧侶の声が遠のいていく。
震える指先を、もう片方の手で押さえる。
怖がってはいけない。
最後まで、演じきらなければ。
そう自分に言い聞かせて、前を向く。
「では、婿殿」
僧侶に呼び掛けられた焔は、頷く。
そして、広間の空気を隅まで沸き立たせる様に朗々と声を張り上げる。
「先つ祖のおのおの方にお伝えいたす。野々宮が現当主、焔はこの月影、百幸美夜をこれより我が番とする事を申し上げ候」
野々宮珠緒は、自動車が大の苦手だ。
自分が乗るのは言うまでもなく、往来を行き交う鉄の塊を眺める事さえ。
大好きな母が、志津の母親と共に自動車事故で命を落とした時からだった。
エンジンの振動やブレーキの甲高い音で、その悲惨な最期を嫌でも想像してしまう。
外出は志津に付き添ってもらう徒歩が基本だが、それで行けない場所へは家紋入りの人力車に乗る。
こうして怜子と並んで自動車の後部座席に座っている間も、珠緒は冷や汗が止まらなかった。
心臓がばくばくと鳴って、口から飛び出してしまいそうだ。
真っ青な顔の珠緒を見かねて、怜子がそっと囁く。
「どうか、御無理をなさらないで。近くで自動車を止めて、流しの人力車を拾ってお帰りになっても良いのよ」
怜子は足手まといになりそうな珠緒を疎んでいるのではなく、気を遣ってくれているのだとは分かる。
だが、珠緒は聞き分けなく首を横に振っていた。
「妹である珠緒さんに、こんな事を言いたくはないのだけれど」
困った様に眉根を寄せて、怜子はためらいがちに言う。
「野々宮侯爵は、自分の目的を邪魔する相手には何をするか分からないわ。きっと、肉親のあなたに対しても」
珠緒も姉の恐ろしさは、身をもって知っている。
孤月ヶ浜の駅で、豹変した姉に乱暴狼藉を働かれた痛みを、体はまだ覚えている。
それでも、珠緒は行くと決めたのだ。
「あたくしは参ります。怜様と、御一緒に」
「……ありがとう」
怜子がその切れ長の目元を、やさしく細める。
美しくも、哀愁を帯びた笑みに胸が締め付けられる。
昔から、どこか翳を纏っていた人であった。
美夜が十の子供だった頃に、二人は出逢ったのだと怜子は語った。
珠緒が怜子を見初めたのは、十二の歳である。
あの時既に、怜子の心の中には美夜がいたのだ。
侯爵家の月見の会で、ざわめきを離れて一人月を仰いでいた怜子。
孤高を誇る怜子の姿に、子供であった珠緒の目は惹きつけられ、恋をした。
でも、と珠緒は唇を噛む。
雲に隠れた淡い月を見上げていたあの夜、怜子が思いを馳せていたのは、美夜だったのではないか。
そんな疑いが頭をもたげる程、美夜を憂える怜子の表情が、六年前と重なる。
最初から、自分が怜子と結ばれる事などは無かった。
しかし―――怜子の事を想っていた気持ちが、間違いであったとは思わない。
美しく、賢く、慈愛に満ちた怜子という太陽に、珠緒はずっと焦がれていたのだ。
こうして怜子に着いてきたのも、姉の凶行を止めたいという気持ち以上に、彼女の身に何かあってはと気が気では無かったから。
夜の帳が降りた帝都の街並みを、怜子は真剣な眼差しで眺めている。
珠緒はそんな怜子の横顔を、飽かず見つめていた。
やがて、自動車は野々宮侯爵家の本邸の前に止められる。
侯爵家の顔とも呼ぶべき巨大な木の門は、何人の侵入も受け入れぬように閉ざされている。
見慣れた筈の古色蒼然とした佇まいが、今はどこか不気味だ。
珠緒はすぐさま車から降りると、気が狂った啄木鳥の様な勢いで脇にある通用口の扉を叩いた。
「開けて頂戴。誰か、誰か!」
その必死の叫びが通じてか、木戸の覗き窓が開いて、下男の一人が顔を見せる。
「これは、御姫様」
扉越しにも慌てて礼をしようとする使用人に、珠緒は焦れったく命じる。
「早く、ここを開けて頂戴。今すぐ姉上の所に行かなければ」
野々宮家で焔に次ぐ地位を持つ珠緒が言って、叶えられない事など無い。
だが、下男は恐ろしげに目を伏せて、心底申し訳なさそうに言う。
「おそれながら、今夜は誰であろうと屋敷の中には入れるなとの御館様のお言いつけでございまして」
珠緒はいきり立ち、黒髪を振り乱して食って掛かる。
「どうして。あたくしは、この家の娘よ。当主の妹の言う事が聞けないというの!」
「しかしながら―――御館様ご自身が、例え御姫様がお越しになろうと、門を開けてはならぬと仰せになりましたので」
彼とて、珠緒の為に門を開けたいのはやまやまなのだと目が物語っていた。
それができないのは、使用人達にとっては珠緒以上に、侯爵である姉の命令こそ絶対であるから。
用意周到な姉の事ゆえ、どこの門を叩いても結果は同じだろう。
珠緒は困惑して、扉から手を放す。
万事休すの文字がちらつく。
ここまで来たのに、何もできないなんて。
自分は何一つ、怜子の役には立てないのか。
「珠緒さん」
羽二重の絹の様に白く軽い怜子の手が、珠緒の肩に触れる。
代わって頂戴、と目で伝えられ、珠緒は素直に彼女の為にどいた。
覗き窓越しに怜子と顔を合わせる下男は、何事かとどぎまぎしている。
怜子は研ぎ澄まされた眼差しで男の目を覗き込むと、ただ一言。
「開けなさい」
その言葉と共に、凄まじい日輪の威光が怜子から放たれる。
身も焼くばかりの閃光が、夜の中に火花を散らす。
全身の毛がぶわりと逆立ち、肌が粟立つ。
その圧倒的な威光に、珠緒は震え上がってしまった。
そんな怜子に命じられて、拒めるものなど居はしなかっただろう。
「は、はい!」
主君の命令さえ忘れ果て、下男は門の内へと走る。
きしる様な音を夜に轟かせ、門は怜子の為に開かれる。
人を統べるべくして造られた性、日輪。
その空恐ろしいばかりの力をまざまざと見せつけられて、珠緒は棒立ちになってしまった。
「いらっしゃい、珠緒さん」
怜子は大股に、すたすたと門の内側へと踏み込んでいく。
どんな場所であろうとも、彼女の歩みが道を織り成す。
珠緒は慌てて、鮮やかに宵闇に浮く白いブラウスの背中を追った。
「もし、門が開かなければどうなさるおつもりでしたの?」
怜子の真摯な面持ちを横目に、珠緒はこわごわと尋ねた。
すると、怜子は険しい表情を崩さず事も無げに答える。
「どんな手を使ってでもこじ開けるわ。車で突っ込むなり何なりして」
怜子の日輪としての威光だけでなく、その徒ならぬ執念に、珠緒はすっかり舌を巻いてしまった。
天命も同然の当主の宣言を皮切りに、全ての歯車は動き始める。
荘厳とも感じられる重々しい空気が、瞬く間に辺りを染め上げていく。
禁域に足を踏み入れた様に、言い知れぬ不気味さが美夜の背筋を貫いた。
座敷の隅で畏まっていた志津が、淀みの無い所作で立ち上がる。
茶托を運ぶからくり人形の様に、小さな紅絹の座布団を美夜に差し出す。
「どうぞ、こちらに首輪を」
川のうねりに放り込まれた小さな木ぎれの様に、美夜は流れに身を任せる他は無い。
美夜は首輪の金具に指を掛けようとしたが、うまくいかない。
寒くもないのに体が震えて、それが指先にまで伝わってくるのだ。
火照った唇を舐めつつ、どうにか外し終えた首輪を座布団の上に置く。
年頃の月影があらわになったうなじを人前に晒すなど、極めて異例な事だ。
日輪の前で首輪を外せば、それは番にされる事を承諾したも同然。
その後の作法は、夜を日に継いで何度も何度も暗唱したのだから、忘れる筈が無い。
花嫁は花婿へと向き直り、成すがままに頭を垂れる。
「我をして光を紡ぐに能わず、我をして夜を照らすを得ぬ、幽し月の身なれば。今これより、君なる日のみを仰げる月にならんと欲す。いざ、番の契りをば」
悠久の歴史と共に受け継がれてきた、古式ゆかしい誓詞。
それを乗せた自分の声は、まるで他人のものの様に乾いている。
だが、表情に翳りを帯びた美夜とは裏腹に、焔は満面に笑みを湛えて申し渡す。
「然らば、首を」
彼女から発せられる後光さえ感じるほどに、焔の一言一行には日輪としての自尊が溢れている。
誰よりも強く残酷な太陽、畏日。
ついに美夜を我が物とし、永久に彼女の番として結びつけられる狂喜は煌々と燃えたぎる。
地獄の業火の如く熱く、烈しい炎は留まるところを知らない。
焔の指が、美夜のか細い両肩を掴む。
ぐい、と引き寄せられ、美夜が焔にしなだれかかる様な体勢になった。
「力を抜け。すぐに済ませてやる」
焔の囁きが、熱い吐息と共に頬を焼く。
これで、ぜんぶ終わる。
美夜は覚悟を決めて、目を閉じた。
何も怖くなんて無い。
なのに。
瞼の闇の中に、一つ灯る何かがあった。
自分の手で焼き滅ぼしてしまった、彼の女の顔。
ぎゅっと目を瞑って消そうとしても、その清らかな面影は星の如く澄んだ光を放って、失せ去る事が無い。
(美夜)
その声が、笑みが、在りし日のままに美夜を呼ぶ。
美夜が初めて愛し、愛されたひと。
凍てつく夜さえ振り払う、愛日の君。
美夜が仰いだ、まことの太陽。
どうして、わたしを苦しめたりなさるのですか。
貴女の為に、夜明けも何もかも、全て捨てようというわたしですのに。
熱い潤みが、美夜の目に広がった。
それでも尚、瞼の中の怜子が薄れる事は無かった。
嗚呼、と嘆息する。
美夜は気づいてしまった。
どんなに昏い夜の中でも、決して彼女を忘れられなかった様に。
美夜という月は、どうしても怜子という太陽を自分の中から滅する事ができないのだ。
その時、うなじを撫ぜる焔の唇の感触に、美夜の魂は現し身に戻る。
あまりの悍ましさに、美夜は思わず焔の体を突き飛ばしていた。
「やめてよ!」
喉が張り裂けんばかりに怒鳴って、美夜は畳を蹴る様に立ち上がった。
驚きに満ち満ちた沈黙が、水を打った様に広がった。
それまで操られた如く唯々諾々と従い続けた花嫁が、土壇場で反旗を翻したのだ。
式に立ち会う僧侶や志津が唖然とするのは元より、誰よりも度肝を抜かれたのは焔だろう。
「い、一体どうしたというのだ。落ち着かないか」
戸惑いと共に伸ばされた焔の手を、美夜はけがらわしい物の様にはたき落とした。
「触らないでよ、気持ち悪い!あんたなんか、大っ嫌い!」
それまで心の奥底に押さえ込んできた恨みつらみが、とうとう頂点に達する。
駄々っ子の様にわめきながら、美夜は有りったけの嫌悪を込めて焔を睨みつけた。
大勢の人を踏みつけにしてきたこの女の身勝手さが、美夜はただひたすらに嫌いだったのだ。
「何が対の日月よ。何が番よ。馬鹿馬鹿しい。わたしの運命は、あんたなんかにどうこうされる程、下らないものじゃない。あんたに好き勝手される為に、わたしは月影として生まれてきたんじゃない」
押し殺していた思いを解き放つうちに、どんどん気持ちが昂ぶっていく。
地団駄を踏む美夜の頬を、涙が伝っていた。
「美夜……」
誰からも見捨てられた子供の様な表情が、焔の顔に浮かぶ。
それを哀れに思うどころか、憎たらしくさえ感じた。
「軽々しくわたしの名前を呼んだりしないで」
この名を付けてくれたのは、人として生きる道を教えてくれたのは。
ただ一人の、愛しき君であるのだから。
「例え神様が対の日月として、わたしとあんたを娶せようとしたって、そんなもの糞食らえだわ。わたしが誰と生きるかは、わたしが決める。わたしの、対の日輪は」
明日を分け合った魂の持ち主は。
離れがたい月と太陽として、夜明けを作っていこうと誓った相手は。
この命を捧げる御方は。
「清小路怜子さま、ただお一人よ!」
「美夜!」
心の全てを込めて美夜が声の限り叫んだのと、座敷の襖が思い切り開かれたのは同時であった。
自分を呼ばわる涼やかな声に、美夜は思わずそちらを振り返った。
幾千の朝よりも明るく、幾千の炎よりも輝かしい光を放つ太陽。
その慈愛で闇を照らし、悲しみの氷を溶かす冬の日輪。
美夜の愛日の君が、そこには立っていた。
初めて出逢った時と寸分違わぬ、闇夜を払う陽光の眼差し。
それを一直線に美夜へと向ける彼女の名を、美夜もまた呼んだ。
「怜子さま!」
美夜は矢も盾もたまらず駆け出していた。
重い角隠しを被った顔を上げ、身にのし掛る花嫁衣装も軽やかにからげて。
裾模様の鶴は、何にも縛られずに天翔る。
彼女に飛びつかんばかりの美夜を、怜子の腕はしかと抱き留める。
生きたぬくもりを持つ柔肌が、美夜の小さな体を包み込んでくれる。
寒さに震える月を守る、太陽の様に。
「来て、くださったのですね」
なよらかな膨らみを持つ胸元に頬を寄せれば、怜子の命を刻む旋律が聞こえる。
懐かしいセレナーデの様に、心を慰める優しき音色。
いつしか美夜の心臓も、それに共鳴して鼓動の音を響かせる。
同じセレナーデを奏でる二つの心臓のメロディーが、美夜の魂を揺さぶる。
心が、一つになった。
どんなに昏い夜も打ち破り、必ず空に現れる太陽の様に。
怜子が自分を救いにきてくれたという喜びが、美夜の中で希望の星として耀う。
それを、怜子も感じているだろう。
波打つ美夜の背に、怜子はさらにきつく腕を回す。
「私の為に、美夜に苦難の道を選ばせてしまった。でも、こんな事で私が救われると思うの。美夜が迎える朝で贖われた命で、私に何ができるというの」
怜子の目からほろほろと溢れた光の雫が、美夜の心を晴らしていく。
闇の中、誰にも知られず朽ちていくのが自分という月の運命だと信じていた。
だが、美夜は決して孤独ではなかった。
暗闇に閉じ込められていた自分が幸福になる未来を、彼女が遠い帝都の空の下で祈ってくれていた子供の頃の様に。
どんな苦しみの中でも、怜子の慈しみの心が隣で美夜を照らしてくれた。
闇が、夜が、人生の災禍が、幾たびも美夜と怜子の間を切り裂こうとした。
しかし、互いが互いを想う気持ちは、永久に翳らぬ光としてどんな時も二人を結んでいてくれた。
その光明が繋いだ絆こそ、対の日月と呼ばれるものではないか。
「怜子さま……」
やはり、美夜の運命の太陽はこの方より他にいない。
その首筋に、美夜が腕を回そうとした時。
「姉上、おやめください!」
珠緒の甲高い悲鳴が、美夜の耳を貫いた。
それに続いて、頭上の空気がひゅっと切り裂かれる。
美夜を抱き締めたまま、怜子が辛うじて顔を逸らす。
「本当に、殺しても殺しても現れる亡霊の様だな、貴様は」
帝國軍人の証である抜き身のサーベルを手に、焔は常軌を逸した興奮に肩を上下させていた。
赤々と燃える炎を映した刀身は、ぎらぎらと目も潰れるばかりの輝きを放っている。
だが、焔の双の目にはぜる烈火の熱が、それさえ霞ませる。
肌に触れればひとたまりも無い鋭い切っ先を、焔は怜子に向かって振り下ろしたのだ。
何の迷いも無く人を殺めようとしたその狂気に、戦慄が走る。
「どこまで私の邪魔をすれば気が済むのだ。貴様がここまでしつこいと分かっていれば、さっさと殺しておいたのに。もういい。今、私がこの手であの世に送ってやる。くたばれ、清小路!」
攻撃の手を緩めず、焔は再び怜子に斬りかかる。
焔の刀の一振りから逃がす様に、怜子は美夜の体から手を放す。
「これは、何とした事じゃ。恐ろしや、恐ろしや」
「和尚様、どうぞこちらに。お早く」
厳粛な雰囲気から一転、修羅場と化した祝言の有様に腰を抜かした僧侶を、志津が部屋から避難させる。
そうして慌てふためく周囲をよそに、焔と怜子は凄まじく吹き荒れる嵐の中で向かい合っていた。
二人の間には、時間も、世の中も存在しない様に見えた。
激情に駆られているにも関わらず、生粋の武人である焔の太刀筋は一分の乱れも無い。
血に飢えた獣の牙の様に、その切っ先は怜子の心臓を抉り出そうとどこまでも執拗に付け狙う。
持ち前の敏捷さで、怜子は降りしきる刃の雨を辛うじて避けていく。
けれど、ほんの一呼吸でも遅れれば、その身はすぐにでも真っ二つにされてしまうだろう。
焔は怜子がどんな動きをしてもお見通しと言わんばかりに、次々と斬りかかっていく。
足元を狙った斬撃を避けようと、怜子が断髪を靡かせてひらりと舞い上がる。
紺のスカートが捲れると、匂いやかな白百合の花弁の様な両腿が剥き出しになった。
「貴様の肌は滑らかで美しいなあ、清小路」
焔は攻めの手を緩めず、血走った目を怜子に向ける。
「定めし、父親に打たれた事など一度も無いのだろう。尊子殿は、娘の貴様に対して絶対に乱暴を働く様な人間ではない。私は貴様のそんな甘ったれた所が大嫌いなんだ。恵まれている癖に、それに気づいてすらいない。娘思いの親も何もかも持っている分際で、何故美夜を欲しがる」
荒い呼吸が治まるのを待たず、怜子は答える。
「私が全てを手にしている様に見えたのなら、それはとんだ間違いよ」
思慮深い眼差しは、底さえ見通せそうな冬の湖の様に澄んでいる。
「ほざくな!」
怒り心頭に発した焔は、目にも止まらぬ速さで怜子に足払いを食らわせた。
「きゃっ」
体勢を崩した怜子が、畳の上にどさりと倒れる。
待ちかねていた場面を前に、焔の激情は最高潮に達する。
「死ね、清小路!」
美夜は咄嗟に怜子の前に走り出ると、焔のサーベルが振り下ろされようとするその体の上に覆い被さった。
「駄目、やめて!」
美夜が予想だにせず怜子の盾となった事に、焔の表情には稲妻の様な動揺が過った。
行き場を無くした手が、すんでの所で宙に留まる。
焔が惑いに立ちすくんでいる僅かな間に、素早く動いたもう一人の娘の姿があった。
「もう、おやめくださいまし、姉上!父上と母上が黄泉の国から御覧になれば、きっと悲しまれます」
怒りに我を忘れた姉の狂態に臆する事無く、珠緒はその背中に飛びついて必死に彼女を止めようとする。
しかし、血を分けた妹の心からの懇願さえ、今の焔には届かない。
「私に触るな、この阿婆擦れが!」
焔が藻掻く様に体を振り回すと、珠緒の体は背後の柱へと思い切り叩きつけられる。
「痛……」
珠緒は右肩をしたたかに打ったのか、反対側の手で弱々しくそこを押さえながら、立ち上がる事さえできない様子だった。
ふっと湧いた真珠の様な涙を見るにつけても、どれほどの激痛であったかは想像にかたくない。
「御姫様、大丈夫ですか」
志津が血相を変えて駆け寄ってきても、珠緒は声も出せずにこくこくと頷くばかりだ。
珠緒の事はいたわしいが、美夜にはそれと同じくらい怜子の安否が気掛かりだ。
「お怪我はありませんか、怜子さま」
「美夜の方こそ、無茶をして」
美夜が身を挺して自分を庇った事に、怜子は咎める様に唇を尖らせる。
けれど、美夜が無事であった安心感から、その曇った表情が徐々に和らいでいく。
良かった、と美夜が微笑んだのも束の間。
凄まじい勢いで背後から襟首を掴まれ、美夜は無造作に怜子から引き剥がされた。
首が絞まる苦しさで、喉元を掻きむしってしまう。
「来い!」
足に力を入れて踏ん張る事もできず、美夜はずるずると焔に引きずられるままだった。
だだっ広い廊下の分かれ道まで来た焔は、どちらへ行こうか右往左往している。
「待ちなさい!」
畏日はすぐさま後を追ってきた愛日と、両側に篝火がずらりと並んだ廊下で対する形となった。
「美夜を離しなさい。その子は月影である前に、心を持った一人の人間なのよ。あなたがどんな卑怯な手を使っても、本当の意味で美夜があなたのものになる事は無いわ」
怜子はどこまでも冷静さを保ち、相手に迫る。
そんな彼女の凜とした声音を遮る様に、焔は捨て鉢になってサーベルを突きつけた。
「黙れ、黙れ黙れ!」
背後には、美夜を隠したまま。
大切な宝物を取り上げられようとする子供が暴れる様に、焔は躍起になって抵抗を続ける。
刀を打ち振る焔の影が、障子を埋め尽くす。
彼女が正気を失いつつあるのは、火を見るより明らかだった。
それでも尚、焔は刃を振るい続ける。
再び怜子に斬りかかろうと、焔は思い切り刀を振り上げた。
だが、怜子が身を逸らした事で、その後ろにあった篝火の一つが轟音と共に倒される。
あっ、と美夜が声を上げる間も無かった。
床に解き放たれた炎は障子を包み込み、瞬く間に大きく燃え上がったのだ。
「……何と云う事を」
息を呑む様に、怜子が呟く。
それまで沈着そのものであった怜子も、辺りを舌の様に這い回る炎には驚きを隠せず、後ずさった。
焔の顔に、ゆっくりと笑みが広がる。
越えてはいけない境界を越えてしまった人間の顔だった。
広い草原に放たれた炎が、全てを飲み込んでいく様に。
彼女の中に残されていた理性は、跡形も無く焼き尽くされてしまったのだ。
「燃えてしまえ、全部!」
狐憑きの如くけたたましい笑い声を発しながら、焔は次から次へと篝火の列をなぎ倒していく。
辺りはたちまち火の海と化し、壁や床の焼け焦げるにおいが充満した。
猛り狂う紅蓮の大渦が、美夜と怜子の間を分かつ。
「怜子さま!」
燃え立つ炎の幕の向こうへ呼び掛けても、火の粉の散る音がそれを掻き消していく。
揺らめく火の隙間から、それとは正反対に青ざめた怜子の顔がちらちらと覗くばかりで。
それでも怜子に伸ばされようとする美夜の手首を、焔が横から握りつぶす様に掴む。
「お前は、私と来るんだ」
疾風の様に走り出した焔に、美夜は為す術も無い。
炎はさらに勢いを増して、婚礼の夜を赤々と業火に染め抜いていく。
奥へ、奥へ、奥へ。
あの世とこの世を繋ぐ、黄泉比良坂の洞窟を下っていく様に。
焔はまっしぐらに、屋敷の奥深くへと突き進んでいく。
死に急ぐ人間のそれに似た一心不乱さで。
刻一刻と色濃くなりゆく彼女の横顔の照り返しが、火の手が迫っている事を告げる。
辿り着いた先は、屋敷の最果ての間。
生きる者の気配は、そこには何一つとして感じられない。
亡者の叫びの様に、ごうごうと炎の逆巻く音。
障子を透かして見え隠れする、茜色の光映。
あれは、死の気配だ。
怜子にも会えないまま、自分は生きながら焼かれていくのだろうか。
此処が遠からず自分の死に場所になるかと思えば、恐ろしさで体の芯が凍り付いてく。
それとは裏腹に、二人の頬や額には玉の様な汗が浮かんでいる。
暑い。
じりじりと皮膚を焼く様な熱気は、身を潜める日陰さえ無い炎天の夏の日を思わせた。
火照った唇は、舐めた端から乾いていくばかりで。
美夜を抱き寄せたまま、焔は座敷の中央へと頽れた。
「火が、すぐそこまで来ているらしいな」
身を強ばらせて何も言えずにいる美夜に、焔は熱を帯びた吐息と共に囁く。
「このまま、此処で火に巻かれるのを待つか、それとも―――この刀でお前と私の身を貫いて、一つになって果てるか。お前は、どちらが良いと思う?」
目の前に掲げられる、硬く冴えきった白刃に息が止まりそうになる。
とうとう、焔は気が触れたのではないかと思った。
けれど―――美夜を映す漆黒の瞳に、烈々たる狂気の炎は影も形も無い。
そこには、諦めに似た物寂しい翳だけがある。
「だが、お前はうんとは言わないだろう。―――とうとうお前は、私の事を好いてはくれなんだ」
今にも部屋に攻め入ろうとする炎の紅を宿した露が、ぱたりと美夜の頬に落ちる。
それは、自らの身を燃やして空に光る流星の様に哀しいきらめきであった。
焔が、泣いている。
初めて目にする畏日の涙は、美夜に驚きを越えた感情をもたらした。
「お前だけではない。死んだ父や母も、私の事を愛しはしなかった。奴らにとって、私は野々宮の家を継ぐ駒に過ぎなかったのだ。私が、日輪であったから。この家の太陽として生きていく責務を負って生まれてきたから」
幾つもの涙が光っては燃え尽きていく流れ星の様に、上気した肌を走る。
「私の人生は、何だったのだ。ただただ野々宮の家の血肉となる為に、私は生まれてきたのか。これほどまでに虚しく、耐えがたいのが人生であるとすれば」
末期の呼吸の様に儚い息と共に、焔は言う。
「日輪になんて、生まれてこなければ良かった」
生まれてこなければ良かった。
自分の生を、自分自身を否定するその言葉より哀しい言葉が、この世にあるだろうか。
誰よりも力強く、目も焼けるばかりの輝きを持つ夏の太陽、畏日。
蒼穹を焦し、生ある者全てをひれ伏せさせる空の王者。
そんな焔は、子供の様な痛みを抱えたまま、これまで生きてきたのだ。
美夜はたまらず、焔の顔を横から両手で包み込んだ。
「お辛う、ございましたね」
生まれてきた事を悔やまなければならない苦しみを、美夜もまた知っている。
生の苦悩という同じ枷に縛り付けられてきた焔が、生き別れた双生児の片割れの様に感じられて。
「わたしも、ずっと同じ事を考えていました。何故、わたしは月影に生まれてしまったのだろうと。月影の性と共に生きていく事は、こんなに辛いのかと。月影として生まれてこなければ、父に売られる事もありませんでした。家の胎として生きねばならない性の傷ましさを、間近で見せられる事もありませんでした」
焔の目が、心憂く細められる。
「どうして、生きていく事はこんなにもやるせないのでしょうね」
踏みにじられ、利用され、搾取され続ける性。
太陽の光無しには、命を繋ぐ事のできない宿命を抱えた月影。
そんな我が身を、恨まなかった事があると言えば嘘になる。
しかし―――誰からも愛されずとも、自分だけは自分を愛してあげたい。
日輪であっても、月影であっても、胸を張って真昼の空の下を歩きたい。
生まれ持った性の鋳型に人々を押し込もうとする社会が、それを許さなくても。
美夜は伏せていた面を上げる。
「でも、どんなに運命がわたしを弄んだとしても、わたしは未来を、夜明けを信じていたいのです。誰もが自分の力で人生を切り開いていける時代がやって来るその日まで、生きていたいのです。此処で、死にたくはありません。死にたくなんか、ない」
それが、美夜の出せるただ一つの答えである。
怜子に別れの一言も伝えられずに死んでしまうなんて、絶対に嫌だ。
立ち上がろうとする美夜を、焔がしかと手を掴んで引き留める。
「一人にしないでくれ。私は腐っても軍人の端くれだ。死ぬ事なんて、元より覚悟の上だ。けれど―――誰からも愛されないまま、一人で死ぬのはこわい」
切々と訴える声音にも、わななく指先にも、いじらしさが溢れている。
死を目の前にした人間は、自分の胸の内を知らず知らず明かすのだという。
「侯爵様……」
その時、一陣の風の如く前髪を揺らした熱気に、二人は揃って顔を上げる。
部屋の障子が焼け落ちて、火の塊が室内へとなだれ込んできたのだ。
炎は二人を追い詰める様に、壁や畳をじわじわ蝕んていく。
どれだけ美夜が生きようと足掻いても、道は閉ざされてしまっている。
もう、これで終わりなのだろうか。
そう思った時、脳裏に浮かぶのは怜子の顔だった。
美夜は、幸福であるのかもしれない。
どんな満ち足りた走馬灯にも代えがたき、愛しき太陽を心に抱いて死ねるのだから。
暑さでぼうっとする頭で、そんな事を考える。
だが、紙が燃え落ちた障子の向こうに立っている人影を見た美夜の頭は、途端に澄み切った。
彼女は何の躊躇も無しに、炎に包まれた木枠を思い切り蹴り飛ばす。
そして、飛び散った火の粉を振り払うと、目を瞬かせる美夜の前に進み出る。
「少々、はしたない真似を見せてしまったわね。淑女失格だわ」
燃え盛る業火にも褪せぬ笑みが、怜子の顔には清らかに咲いていた。
渦巻く炎を掻い潜って怜子が助けに来てくれたという事実が、美夜には嬉しさ以上に信じがたい思いだった。
辺りに立ちこめる煙は、怜子の繊細な喉をも脅かすだろうに。
案の定、口を押さえて咳き込んだ怜子の背中を、美夜は慌てて撫でさすった。
「ありがとう。でも、平気よ。美夜の為ならば、どうという事は無いわ」
気丈に笑ってみせた後、怜子は畳にへたり込んだままの焔に向き直る。
「美夜は、返して貰うわよ」
怯えも弱さも見せない、きっぱりとした物言い。
潔く眉を上げた面差しには、断固たる決意があった。
ふらり、と焔が立ち上がる。
その手は、未だにサーベルを握ったままだ。
怜子と美夜の間に、緊張が走った。
怜子の視線は手近な場所に転がっている、武器になりそうな障子の残骸を捉える。
また焔が逆上して斬りかかってきた時に対抗する覚悟は、いつでも出来ているという構えだった。
だが、焔は刀を持った腕を振り上げる事も、怒声を張る事もしなかった。
「そんなに、美夜が大切か」
凪いでいるとさえ言って良い眼差しを、ぼんやりと怜子に注いでいる。
その反応には怜子だけでなく、二人の間にいる美夜でさえ拍子抜けしてしまった。
「何故、そこまで美夜を愛せる。貴様は私を愛さなかったのに。何故、美夜は愛せるのだ」
暗く沈んだ瞳の中に、情念の炎が灯される。
それは蝋燭の灯火の様に小さくも、しかと見て取れる眩さであった。
怜子が焔を、愛さなかったとは?
美夜は見当のつかない焔の胸の内に当惑しながらも、その続きを待った。
にじり寄る炎の熱さも、幾千の蛍の明かりの様な火の粉が弾ける音も、今だけは遠かった。
「華族學院の初等科に通っていた時。朝の食事の時間に遅れた罰として、父に朝食を抜かれた事があった。空腹で倒れそうになっていた私に、貴様は舶来のチョコレートをくれただろう―――私がそれに、どれほど救われたか。貴様は、一度でも考えた事があったか」
怜子が、澄んだ瞳をはっと見開き、固まった。
それは、ただ一つの記憶の糸を確かに掴んだ人間の表情であった。
「あの冬の太陽の様な優しさ。慈悲深さ。美しさ。何一つとして、私の心を捕らえないものは無かった。私は、貴様に魅せられたのだ。自分が日輪である事さえ忘れさせる、貴様に魂を奪われた。私は……私は……」
思いの丈の滾るがまま、焔の声音は熱を帯び、頬は紅を成す。
乱舞する火よりも熱い想いが、彼女の中には息づいていた。
焔の手が、サーベルを投げ捨てる。
そのまま、美夜には一瞥もくれずに怜子の胸へと倒れ込む。
「私は、そんな貴様を愛したんだ。十五年経った今となっても―――私が愛しているのは貴様だけだ、清小路」
畏日の中に隠されていた秘密を、幾重にも覆っていた帳が焼け落ちた。
彼女の命の熱となり続けた、慕情の炎によって。
止めどない涙も、その業火を消す事は叶わない。
そうだったのか。
目の前にさらけ出された焔の真によって、美夜はようやく気づかされた。
焔がただ一人、想いを紡ぎ続けた相手は。
ほんとうに、心の底から彼女が恋していたのは。
愛日の君、清小路怜子であったのだ。
怜子に向けられた憎悪も、全ては彼女への愛情の裏返しであったとは。
「父からも、母からも愛されずとも、貴様だけが愛してくれれば良かった。なのに、貴様は私を嫌いだと言って、拒んだではないか。私にとっては、地獄に突き堕とされたも同然だ」
泣き腫らして赤くなった目で、焔は怜子を睨める。
抑えがたい憎悪ではなく、祈りにも似た思慕を感じさせる眼差しで。
水晶の様な怜子の瞳は、たじろぐ様に揺らいだ。
「あなたが、私を……」
十五年もの間、彼女の胸に秘められていた怜子への想い。
一人の日輪の少女を、焦熱に狂える畏日へと変えてしまった恋情。
それに対して誰よりも心を乱されたのは、烈しい思慕の炎を目の当たりにした愛日その人なのだ。
「もしも、私が月影だったなら―――貴様は、私を愛してくれたか」
焔のその問いに、怜子の形の良い唇はぴたりと閉じられる。
失笑とも、冷笑ともつかない薄笑いが、焔の泣き濡れた頬に刻まれる。
「こんな事を、聞くのも愚かだったな」
涙を含んだその声がもの悲しい。
「あの時、私は誓ったのだ。貴様に愛される事が叶わないのならば、日輪として、貴様に打ち勝つ他は無いと。為すべき事は、ただ一つ。この世界のどこかにいるという対の月影を探し出し、番とする事。その為に、好きでもない月影の女を数え切れない程抱いてきた。ようやく美夜を見つけて、この悲願を叶えられると思ったが―――そんな事はできないと、今になって気づいてしまった」
焔は横でその成り行きを見守る美夜に目を向け、聞くに忍びなく声を落とす。
「私は美夜の自由を奪って閉じ込める事はできたが、心だけは手に入れられなかった。美夜が清小路を慕う気持ちを、曲げる事はできなかった。美夜という月の、自我の光を消せはしなかった。美夜は、今まで私が見てきた月影の誰とも違う。儚げな姿をしていながら、その心は誰よりも強い。そんな美夜を、私が力ずくで手に入れようというのが間違いだったものを」
彼女の言葉を締めくくった嘆息は、地獄の業火に焼かれる罪人の如く、哀切この上無い響きを帯びていた。
美夜の心臓が硝子でできていたならば、そこにはぴしりとひびが入っていたに違いない。
涙がぽろぽろと湧いては止まらず、炎の紅が薄れて見えた。
ひっく、と泣きじゃくる美夜をどうして良いか分からず、焔はおろおろと弱ってしまった様子だった。
「嗚呼、お前には本当に悪い事をした。謝ったとて、取り返しのつく事ではないが―――」
美夜は赤い色打ち掛けの袖で涙を拭い、ぶんぶんと首を振った。
「侯爵様が、お可哀想で。あんまり、お可哀想で……」
野々宮焔ほど、哀れな女性がこの世にあろうか。
誰からも愛されず、孤独を抱えて生まれ落ち。
ようやく巡り逢った愛日にさえ、慈愛のぬくもりを与えられる事は無かった。
その絶望、悲憤、怨嗟―――
王者の様な強さは、愛される事を知らない悲しみを隠し通す為の仮面であった。
相反する憧憬と憎悪に引き裂かれながら、それでも焦がれる太陽へ手を伸ばし続けて。
闇に一つ燃ゆる炎の如く、孤独な命の火を燃やして生き続けてきた畏日という太陽の輝きは、それが燦然たるほど涙ぐましい。
怜子の愛を、この世の光を知らずに生きてきた一人ぼっちの境遇があったからこそ、焔の痛みが我が身へ刺さってくる様に感じられる。
「……やはり、お前は私とは違う。お前の様に、誰かに寄り添える優しさを持っていれば、もっと良い生き方が私にもあったのかもな」
焔の言い方は、まるで生きる事を諦め切っている様ではないか。
死にゆく運命を、天に委ねてしまっている様ではないか。
「許される事など無いと、分かっている。けれど―――もし、願いが一つだけ叶うならば、清小路。貴様に愛されたかったと、思わずにはいられない」
牙を剥いた炎を背にする様に、焔が後ずさる。
「私は、此処で逝く。貴様ら二人は、早く逃げるが良い。私など、生まれながらに愛される資格は無いのだ。きっと、行く先は地獄だろう。燃え盛るこの焔が、私の罪の証だ」
犯した罪過を映す浄玻璃の鏡を眺める様に、彼女は背後の炎を見やる。
怖くは、ないのですか。
その問いが、口から迸しりそうになる。
想像を絶する熱さと苦痛の中、生きながら業火に焼かれるのは。
誰にも看取られずに、ただ一人で死んでいくのは。
愛される事を知らないまま一人で死ぬのは恐ろしいと、美夜に縋りついてきた焔であるのに。
だが、美夜が糺さずとも、震える我が身を抱き締める焔の姿がそれを物語る。
体の奥底から突き上げてくる恐怖をも、焔は自身と共に業火の中へ葬り去るつもりなのだ。
(そんな、惨い事って)
思わず両手で顔を覆いたくなった美夜だが、つと自身の前を通り過ぎた怜子へと視線が引き寄せられる。
怜子の足は、焔の前で止まった。
灼熱の炎も、雪の様に真白く清らかなブラウスや肌を緋色に染めるには及ばず。
さざ波一つ立てない水面の様な表情からは、その心持ちを読み取る事ができない。
焔はまごつく様に、目をぱちくりとさせた。
怜子はそんな彼女の切り揃えられた前髪を払うと、嫋やかに爪先立つ。
そして―――焔の日に焼けた額に、自身の唇を押し当てた。
奇蹟を目の当たりにした如く、美夜は息を呑んだ。
開いた口が塞がらない焔に、怜子は小夜曲の様に静かな声音で語り掛ける。
「あなたを、愛します」
愛日と畏日。
決して交わる事の無い、冬と夏の太陽。
今、その二つの太陽が重なり、新たな光が生まれた。
「―――え」
焔の瞳にも、小さな星が落ちる。
怜子は焔の手首を引き寄せて、自分よりわずかに高いその背に腕を回す。
漆黒の軍服と、純白のブラウスの胸元が絡まり合う。
いつも美夜にそうする様に―――もしくは、それとは別の情けを込めて、怜子は焔を抱き締めたのだ。
「何を……」
焔は耳の付け根まで朱を注いで、面を伏せようとする。
だが、怜子の腕の中から逃れる術は無く、彼女にされるがままだ。
触れあった柔肌を通じて怜子に伝わっているであろう、焔の破裂しそうな心臓の鼓動さえ聞こえてくる様だ。
それも全て、焔が怜子を恋い慕うが故に。
「私は今まで、この世には美夜の他に愛するに値する存在はいないと思っていたの。―――あなたも、含めて。けれど、それは私の思い上がりだったわ。どんな相手でも愛する事が、愛日として、日輪としての私の生きる道だと。今、ようやくそれが分かってよ」
切れ長の目にあたたかな慈悲を湛え、囁く怜子。
美夜は彼女の背後に、真の愛日の気高い光輪を見た気がした。
この世界に隔て無く愛の陽射しを降らせる、誰よりも壮麗な太陽。
それは、現世の出来事とは思えぬばかりに神々しく、清らかな輝きを放つ情景であった。
火の渦に飲み込まれそうな侯爵家の奥座敷も、今だけは侵す事のできない聖域であった。
「誰もがあなたを憎み、傷つけたとしても。私だけは、あなたを愛してよ。―――焔さん」
祝福を締めくくる聖句の様に、怜子はその名を唱える。
「私の名前……初めて、呼んでくれたな」
太陽を遮っていた暗雲が去って行く様に、その顔には徐々に明るい笑みが広がっていく。
大粒の涙が、堰を切った様に次から次へと生まれ出づる。
「ありがとう、清小路。ありがとう―――」
湧き上がる感情を包み隠さず、声を振り絞って慟哭する焔の背中を、怜子は赤ん坊をあやす様に撫でさする。
いがみ合い、争ってきた太陽達のわだかまりが、二人の陽射しによって溶けていく。
神はいるのだと、確かにそう思えた。
美夜の胸にも、一筋の光が差し込んだ様だ。
潤んだ目を細めて、美夜は抱き合う二つの太陽を見つめていた。
その刹那。
頭の真上で、断末魔の様な轟音が鳴り響く。
頭上を仰げば―――燃え落ちた天井が、丸太の様に太い梁と共に美夜目がけて落ちてくる。
人はあまりに突然の出来事に対して、全ての動きが止まってしまうらしい。
喉が強ばって、悲鳴さえ上げられない。
足が、動かない。
咄嗟に頭を庇って目を閉じた美夜が最初に感じたのは、強い衝撃だった。
だが、崩落した天井に押し潰されたという訳ではない。
突き飛ばされた美夜は、畳の上へと転がる様に倒れ込んだのである。
続いて、鼓膜が張り裂けそうになる凄まじい音が耳をつんざく。
地響きの様な揺れが、座敷を震わせる。
それが収まると、美夜はよろよろと半身を起こし、瞼を開いた。
目の前の光景に、息が止まった。
崩れた天井の下敷きとなって、仰向けに倒れているのは焔ではないか。
焔は美夜を庇う為に、自ら犠牲となったのだ。
焼け落ちた木材は焔の下半身全体を覆い、燻っていた。
燃えた木材が触れたのか、焔は顔の右半分を手で痛々しく覆っていた。
解けた黒髪が、毒々しい血の流れの様に広がる。
「侯爵様!」
「焔さん!」
美夜はおののいた悲鳴を上げて、怜子と共に焔の元へ走り寄った。
「う……」
喘ぐ様な呼吸と、前髪を張り付かせる冷や汗が、その苦悶を表わしている。
辛うじて、息はある。
「ごめんなさい、ごめんなさい。わたしを庇ったばかりに。侯爵様が……」
涙ながらに自身の顔を覗き込む美夜に、焔は顔の片側は隠したままゆるゆると微笑んでみせる。
「お前が無事なら、それで良い。今まで、散々苦労を掛けてきたんだ。こんな形でも、償わせてくれ」
それでも申し訳なさで一杯の美夜の頬に、焔は反対の手を伸ばす。
「私は対の日月で無かったとしても、お前の事は特別な存在だと感じていたと思う。お前の強さと優しさが、私は好きだよ。だから、気に病むな。お前は生きて、青空の下を自分の足で歩いて行く月影だ。美夜」
美夜の顔を眺めている筈の穏やかな眼差しは、どこか遠い。
乱れた呼吸に上下していた胸の動きも、遅すぎるくらいゆっくりになっている。
これでは、まるで―――
不吉な予感に、青ざめる。
「待って頂戴。今、これをどかすから」
立ち上がって瓦礫を動かそうとする怜子だが、びくともしない。
まくり上げたブラウスの袖から覗く嫋やかな腕には、幾筋もの張り詰めた血管が浮き出ている。
美夜も色打ち掛けを脱ぎ捨てて助太刀したものの、まるで身の丈ほどもある岩を相手にしている様だ。
もどかしさのあまり、体の奥底が冷えていく。
「もう良い。早く逃げなければ、本当に焼け死ぬぞ。私に構わずに逃げろ」
「そんな事……」
美夜も、怜子の胸の内は痛いほどに分かる。
「瓦礫で頭を打ったのだ。どんどん、目の前がぼやけていってる。どの道、私はここで死ぬ運命なのだ。でも、悔いは無い」
死にゆく痛みも、恐れの翳も見せない晴れやかな笑み。
「私は貴様に愛されたかっただけではなく、貴様の様に、誰かを救える太陽でありたかったのだと思う。こうして死に際に、どちらの願いも叶ったのだから、本望だ。―――嗚呼」
しみじみと、焔は天を仰いで呟く。
「生まれてきて、よかったなあ」
その言葉が、最後だった。
瞼を閉じた畏日は―――もう、その目を開く事は無かった。
雪解け水の様に透き通った一雫が、怜子の目から落ちる。
薄く埃の刷かれた焔の頬は清められていくものの、彼女が目を覚ます事は無い。
美夜は覚束ない手つきで、懐から桜の模様が入った黒漆塗りの手鏡を取り出す。
掌に納まる大きさのそれを、そっと焔の口元へ持って行く。
だが、鏡は曇らない。
まだ生き生きと赤い唇が、くっきりと映るばかりで。
本当に、焔の命の火は消えてしまったというのか。
頬や唇は、花の様に赤いというのに。
柔肌は、触れれば温かいというのに。
この地上から、野々宮焔という太陽は消えてしまった。
無情な現実が、美夜の中で例えようも無い悲哀へと変わる。
「侯爵様……」
焔の死を受け止めきれない美夜は、両手で顔を覆って泣き伏そうとした。
だが、怜子は違った。
我が身に降り掛かる未練を断ち切る様に、勢いよく立ち上がって美夜の手を引っ張る。
「逃げましょう。早く、ここから」
その目は、美夜のものと同じく黒々と潤み、爆ぜる炎を映している。
だが、そこには動かしがたい決意が現れていた。
何が何でも生きるのだという、命への執着とも呼ぶべき表情。
「生きるのよ。私達、二人とも。―――それを、焔さんだって望んでいてよ」
美夜の手を取ったまま、怜子は熱を込めた声で説く。
涙が、はたと止まった。
そうだった。
美夜がこうして怪我一つせずに存えているのは、焔が命と引き換えに自分を救ってくれたからだ。
生きていられるという事の尊さ。
同時に、焔への感謝が、じわじわと美夜の胸を満たしていく。
美夜は、死んではならない。
怜子と一緒に生き抜いていく事こそが、焔の真心に報いる唯一の方法だ。
美夜は怜子の手を、強く握り返していた。
彼女の瞳をじっと見据え、頷く。
「はい」
美夜の返事に、怜子は鷹揚に微笑んだ。
それから祈る様に膝まづき、昔日の艶やかさを保ったままの焔の黒髪の一筋を、そっと手に取る。
焔のそれと何ら変わらぬ美しさを宿す、紅の唇を寄せて。
「……ご機嫌よう、焔さん」
空を埋め尽くす暗雲の様に、廊下には濛々たる黒煙が立ち込めている。
美夜は怜子と共に姿勢を低くし、口と鼻を袖で覆ってその中を進んだ。
容赦無く降りかかる火の粉を避ける為に、美夜の色打ち掛けを二人で被る。
ぴたりと寄り添った二人の手と手は、かたく結ばれていた。
「決して、放してはいけなくてよ。必ず、二人で外に出るの」
一寸先も見えない煙と炎の中でも、離ればなれになりはしない。
どんな闇の中であろうとも、二人にはお互いがいる。
それだけを信じて、美夜と怜子は外を目指した。
途方もない煙の中を進んでいくのは、終わりの見えない道を歩いて行く様だ。
けれど、怜子の存在が美夜の足を止めさせずにいてくれた。
不意に、美夜は火照った肌に涼しい風を感じた。
そちらに目をやれば―――炎の隙間から覗いているのは、半分焼け崩れた雨戸に縁取られた夜空である。
「怜子さま、あっちに」
美夜が指さした先から、怜子は美夜の手を引いて向かう。
未だ炎を吹き上げる木の扉に、怜子は二度、三度と激しい体当たりを繰り返す。
やがて、雨戸は激しい音と共に崩れ落ちた。
そのままの勢いで、怜子の体が外へと投げ出される。
開いた出口から、美夜も身を屈めて飛び出す。
庭の玉砂利の上に倒れ込んだ怜子を、すぐさま抱き起こした。
「御無事ですか、怜子さま」
「平気よ。美夜の方こそ、怪我はしていないわね?」
それぞれの無傷を確認した二人の顔に、笑みが広がる。
美夜と怜子は、生きている。
汗ばんだ肌や渇いた喉に触れる夜気の心地よさが、それを教えてくれる。
辺りは大変な騒ぎであった。
水の入ったバケツや桶を手にした使用人達があちこちを走り回り、一帯は恐慌の渦に突き落とされていた。
「もっと水をくれ、早く!」
「御館様は何方におられる。誰も、お姿を見ていないのか」
悲痛な叫びが、どこからともなく起こる。
火事場そのものの地上の混乱をよそに、夜空の星々は静かに輝いていた。
美夜は改めて、屋敷の方を振り返る。
焔の思いの丈の様な炎は、なおも衰える事を知らずに燃え続けている。
この紅蓮の業火の中から生きて出られたのは、全く奇跡の様なものだろう。
緊張の糸が切れると、美夜は怜子に隣ったまま、腰が抜けて立てる気がしなかった。
「怜様!美夜!」
夜を切り裂くように二人の名を呼び、息せき切って裾の乱れも厭わずに走り寄ってきた少女。
紅の振り袖をこぼれる様に翻した珠緒の姿を、背後の炎が縁取る。
「二人とも、無事でしたのね。姉上とお志津がどうしているか、知りませんこと?」
婚約者の肩を掴まん勢いで詰め寄る珠緒に、怜子が目を剥く。
焔は分かるが、どうして志津までも。
怜子と美夜が顔を見合わせると、珠緒の綺麗な顔がみるみる悲しみで歪む。
陶器の様な肌が染まっていく。
真珠の涙が頬を伝ったのを皮切りに、珠緒はわっと泣き出してしまった。
それぞれ父親と母親そっくりで、あまり似たところの無い姉妹だが、そんな珠緒の泣き顔は先ほどの焔に瓜二つだった。
「どうか、お気を確かに」
美夜に宥められると、珠緒は嗚咽を漏らしながら、何が起こったのかを語る。
女中や使用人達は、みな逃げ出して無事であった。
珠緒も志津に連れられ、真っ先に避難したという。
だが、当主である焔と、嫁御寮の姿がどこにも見えない。
慌てふためく周囲を他所に、志津は井戸端で水を被るなり、炎に包まれた屋敷の中に飛び込もうとした。
他の使用人達の制止や、珠緒が必死に引き留めるのも振り切って、彼女は猛火渦巻く侯爵邸の中へと消えていったという。
「お志津は、姉上の事を助けに行ったんですわ」
珠緒は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、唸りを上げて全てを飲み込もうとする大火の方を見やる。
「助かりっこありませんわ、こんな火の中では!父上も、母上も、姉上も身罷られてしまう上に、お志津までいなくなってしまったら。あたくし、あたくし、どうすれば……」
袂で顔を覆ってすすり泣く珠緒の肩に手を置きながら、美夜はそっと怜子と目を見交わした。
無言で、怜子が頷く。
この世でただ一人の姉が、既に帰らぬ人となった事を知れば―――それは、珠緒を絶望の底へと叩き落としてしまうだろう。
天を焦がす火は地獄の炎の如く、どこまでも燃え盛る。
珠緒の叫ぶ様な咽び泣きが、血の様に赤らんだ夜空へ響いていく。
大火はその空の色をそのままに、血塗られた名家の歴史と、淀んだ恨みつらみをも焼き尽くす様に。
それはまさしく―――野々宮焔という畏日が魂に秘めていた、烈しい愛憎そのものの業火であった。
明日、己が死ぬかどうかも知らない蝉達の、甲高い叫びに浸された座敷であった。
夏らしい竹の香りを漂わせた青簾が、わずかに茹だる様な暑さを遮る。
焔は直角に背筋を伸ばし、下座にかしこまって座った格好であった。
日に焼けて擦り傷だらけになりながらも、ぷっくりと丸い手。
その小さな握り拳を載せたるは、折り目に一分の皺も見られない緋色の袴の膝。
きっと、まだ華族學院の初等科に通っていた頃の出来事だ。
それが、単なる記憶の断片に過ぎないとは分かっていても―――決して足を寛げたり、ほっと息をつく事は許されない。
こわばった視線の先に鎮座しているのは、他ならぬ父であるからだ。
仁王の様な顔立ち。
漆黒の軍服の下で息づく、筋骨隆々とした体躯。
焔の様な小娘の首など、即座にへし折ってしまえそうな節くれだった指。
そうした父の断片のどれも、焔の眉宇を引き締めさせないものは無かった。
「良いか、焔」
ひ弱な人間ならば、その一喝で息も絶えなん凄みのある低い声で、父は言う。
「お前は女子である前に、この野々宮家の日輪であり、生まれながらに武士たるべき人間だ。そんなお前が、安穏と布団の中で往生しようなどと思うな。この父が名付けた、焔という名の通りに―――猛火の如き強さで、敵と我が身を焼いて死ぬる様な日輪であれ」
嘘吐きめ。
心の中で、目の前の男に対する侮蔑が気炎を上げる。
野々宮家に生まれた日輪としての、在るべき死に様を娘に説いておきながら。
その父こそ、対の月影たる最愛の妻を喪った孤独に耐えかねて、毒を呷って死んでいったではないか。
天下に並ぶ者無き益荒男の父が、そんな末路を辿る事になるとは誰一人見通せなかっただろうけれど。
子供の焔はいつもの如く、一兵卒が上官に対する様に答えていた。
「相分かりました、父上」
耳元の蝉時雨が、波立ってざわめく。
騒がしい蝉の声は、いつの間にか炎が空気を喰らう音に取って代わられていた。
蝶が蛹から抜け出る様に、重い瞼を持ち上げる。
酒を飲み過ぎた翌朝の様に、後頭部がずきずきと痛む。
頭の中の霧はなかなか薄れていかず、乳白色に煙っている。
慣れない頭で最初に思ったのは、自分が地獄にいるのではないかという事である。
燎原の火の如く燃え広がった業火のただ中に、焔は一人いた。
焦げ臭いにおいが、つんと鼻を刺す。
灰は灰に。塵は塵に。
焔は、焔に。
焼けただれた片頬に、笑みが浮かぶ。
当然と言えば、当然だ。
多くの相手を貶め、欺いてきた焔には地獄の他に行き場とて無い。
だが―――
「……っ」
丹念に炙った火箸を押し当てられた様な顔の痛み。
そして、脳天に突き抜ける様な左脚全体の激痛に歯を食い縛る。
殊に、焔の長身を凌ぐ瓦礫にもろに押し潰された脚の痛みは、筆舌に尽くしがたかった。
肉体というのは、死んでも痛むものなのだろうか。
のたうち回りたくなった焔の視界に現れたのは、よく見慣れた女の顔である。
その凹凸の少ない能面の様な面持ちこそ、焔がまだ現世に留まっている何よりの証だ。
寝そべった焔をその三白眼に映した女は、決して地獄に堕とされる様な人間では無いからだ。
「……何故、貴様がここにいる」
つくづく、奇っ怪な事があるものだ。
一度は死んだと思った焔が、再び息を吹き返すだなんて。
炎熱の螺旋の中に、志津がこうして立っているだなんて。
焔の訝しげな問いにも、志津はいつも通り平然と答える。
「臣下が、主君を助けに参ってはいけないのですか」
この尋常種の使用人は、どんな時も泰然自若と感情の起伏を見せない。
日が沈んでは昇るのと同じ様に、焔にとってそれはごく当然の事だった。
だが、今はそれが癪に障って仕方無い。
「薄気味悪い忠義者振りは相変わらずだな。私を助けたところで、貴様に何の益がある。子供の頃から、私に散々虐げられてきたのを忘れた訳ではあるまい」
「はい、忘れません」
志津は桔梗色の着物の裾を畳に敷いて座し、真顔でそう述べる。
「ならば、何故みすみす命を捨てる様な真似をする」
焔が尋ねると、志津は伏せていた目を上げる。
その瞳の中には、確かに魂の一閃と呼ぶべき光があった。
「姉君を亡くした御姫様が悲しまれるのは、厭で御座います」
厭、か。
いっそ、ただの忠義心だと言われた方がまだ焔は驚かずにいられただろう。
「……貴様が、自分の気持ちを話すのは初めてだな」
無理も無い。
一人の尋常種の女を、しきたりで雁字搦めにして心を抜き。
自分自身の生きる道を奪ったのは、他ならぬ野々宮家―――焔ではないか。
己を殺して、野々宮家の忠義の為に生きよと。
その血に染みついた呪いに、志津はどれだけ縛られてきた事か。
「つくづく哀れな尋常種だな、風岡志津。この野々宮家に仕える尋常種ほど、抑えつけられた生も無かろうに」
志津の薄い眉が、ぴくりと動く。
侯爵夫人と共に事故に巻き込まれ、今際の際まで主君の奥方の無事を祈り、命を使い果たした母。
愛妻の死を嘆き悲しんだ侯爵の死出の旅の共をする為に、自害した父。
周囲からは忠義そのものと褒め称えられた両親の死を、彼女は悲しむ事さえ許されていなかった。
それが、野々宮家の臣下である風岡家の人間の宿命であるから。
「正直に言ってしまえ、志津。貴様は、私が憎いだろう。貴様を散々苛んだ上に、貴様の全てを狂わせた野々宮家の当主だ」
愉快さで、声が弾むのを抑えきれない。
恨み言の一つでも聞かされれば、焔も死ぬる甲斐があるというものだ。
野々宮家の当主という腐り切った肩書きを、喜んで投げ打ってやれる。
紅の跡さえ無い唇が、言葉を紡ぐ。
「憎んで、おりました。―――この、野々宮という家を」
それから、固い胼胝の残る焔の手を取る。
「ですが、妾は天地神明に誓って、御館様の事を憎んだ事は御座いません」
その目が、あんまりに澄んでいたから。
その指先が、あんまりに温かかったものだから。
その声が、あんまりに優しく穏やかだったから。
焔は呆れて、開いた口が塞がらなかった。
「折角、貴様に復讐の機会を与えてやっていたのに。これでは、とんだ骨折り損ではないか。貴様が私を憎んでいなかったと知っていれば、とうに暇を出していたものを」
「……御館様は、妾にご自身を弑し奉らせるおつもりだったのですか」
唖然と目を見開いた志津の顔も、初めて目にする。
母の訃報が舞い込んできた時も、父の遺書を焔に差し出した時も、眉一つ動かさずにいた女だった。
「寝首の一つでも掻かれても良いと思っていた。私の命には、これっぽっちの値打ちも無かったのだから」
むしろ、乳姉妹である志津の手で全てが終わるのなら、焔は嬉々として受け入れていただろう。
「本当は、何もかも捨てたいと思っていたのだ。この、忌まわしい野々宮侯爵家の当主としての地位も。所詮はお飾りに過ぎない、天照の頭目の立場も。今、やっとそれが叶う」
血の一滴にまで溶け込んだ呪いによって生かされていたのは、志津ばかりではない。
人々の羨望の的となる身分も、焔にとっては耐えがたいしがらみでしかなかった。
ずっと、捨てたくてたまらなかったのだ。
焔は志津の手をぞんざいに払って、そっぽを向いた。
「とっとと帰れ。貴様まで死ねば、珠緒はどうなる。あの世間知らずの甘ったれが、貴様無しで生きていけると思うのか」
両親からの愛を独り占めしていた妹が、憎たらしくてならなかった筈だった。
けれど―――誰一人寄る辺ない身の上となった珠緒が、孤影悄然と暮らすのはどうにも度しがたい。
だが、志津はゆっくりと首を横に振る。
「帰りません。御館様を、お連れするまでは」
とうとう、この暑さで頭がおかしくなったのか。
「分からん奴だな。帰れと言っているのが聞こえないか!」
焔の怒声にも、志津は決してたじろいだりはしない。
「死ねば、何もかも無かった事にできるとでもお思いですか」
三白眼の小さな瞳が、にわかに尖る。
その鋭さに、生まれて初めて白刃を目にした時の様にぞくりとした。
「御館様の考えておられる事が、分からない志津ではありません。貴女自身の枷であった野々宮の家もろとも、御自分を消そうとなさっている。ですが、それで全てが終わりましょうか。貴女の犯した罪が、赦されましょうか」
「……貴様に、何が分かる」
雄々しい怒りの炎が、火の手を上げる。
これまで、憂さ晴らしの為に志津を甚振った事は幾度と無くあった。
けれど、それとは全く違う、どこまでも純粋な怒り。
目の前にいる女は、もはや焔の傀儡ではなかった。
一人の人間である志津に、対等に腹が立っていた。
「分からない事を探す方が難しゅう御座います。妾は生まれて二十四年間、ずっと御館様にお仕え申し上げていたのです。乳姉妹である貴女の事なら、誰よりも存じております。この座敷で御館様をお見つけ致したのだって。幼少のみぎり、御父上から隠れたい時は必ず此処においでだった。その時、この志津がいつもお側にいたのを、お忘れですか」
小さな鍵で、心の奥底を開かれた様な気がした。
とっくの昔に、無くしてしまった筈の鍵で。
ずっと、一人きりだと思っていた。
跡取りとしての苛烈な躾という名目で父には殴られ、美しい彼女に似なかった事で母には遠ざけられた。
唯一心を寄せた怜子にも冷たい目で見られ。
誰も、自分を愛しはしない。
焔はどれほど絶望し、全てを呪っただろう。
けれど、いたではないか。
どんな時も、焔の影となって支えてくれた相手が。
「志津」
その名を見つけ出した声が、震えている。
「この志津がいる限りは、決して貴女を死なせはいたしません」
志に満ち満ちた、穏やかにも強き微笑み。
志津の言葉が、昏い胸の中に一条の光として差し込んでくる。
焔は、生きても良いのだろうか。
もう一度、明るい陽射しの下を歩いても良いのだろうか。
与えられた希望が、灯火の様に輝いている。
けれど―――
「……貴様は、こんな私に生きろと申すのか。二目と見られぬ顔に成り果てた私に。足だって、もうまともには動かせまい。私の様な人間が、軍人として生きていかれるものか。何もかも失った無様な私に、貴様はそれでも生きろと言うのか」
志津を、まっすぐ見る事ができない。
隠れる場所の無い太陽の下に、消えない罪の跡を刻まれたこの身を晒すのが恐ろしい。
生きるという言葉が、こんなにも明るく、怖いものだったなんて。
「そうしようと決めたのは、御館様だけでは御座いません」
はっと顔を上げた焔の目に、臆する事なく前を向く志津が映る。
「妾の父と母は、尋常種として貴女の御両親の為に命を捨て、忠義を果たした。自分もその様に、野々宮家の為に死ぬ事こそが唯一の忠義だと思って参りました。しかし―――妾は、父や母とは違います。彼らが死んで忠義を果たしたのならば、妾は生きて忠義を果たします。それが、妾が尋常種として生まれた理由であるならば」
生を見つめる光をその目に宿した志津を、今日ほど美しいと思った事は無かった。
明日を生きようとする瞳は、夜明けそのものであった。
「生きましょう、御館様。どんな性別であっても。どんな苦しみがあっても。命の炎が燃え尽きる日まで」
志津の誘いに、答えは必要無かった。
焔はただ、眼差しで頷いてみせるだけで十分だった。
生まれた時から互いが互いの為にいて、心の通じ合った彼らにはそれで事足りた。
だが、と焔は脚を押し潰している木材の塊を苦々しく見やる。
志津一人で、巨岩の様な重さを誇る柱を持ち上げられるのだろうか。
そんな焔の心配をよそに、志津は瓦礫の下に手を差し入れる。
すると―――美夜と怜子が二人がかりでもびくともしなかった柱が、徐々に持ち上げられていく。
みしみし、みしみしと軋む柱と焔の間に、ようやく少しばかりの隙間ができた。
その隙に、焔は両腕で這う様に急いで抜け出した。
凄まじい音と共に、柱を地面に投げ出した志津の手は満開の牡丹色になっていた。
その重さを想像しただけで、腕が千切れそうになる。
志津はうつ伏せになった焔の背中に腕を回すと、胸と胸を合わせる様に持ち上げる。
そして、腕を引っ張って肩の上に載せられると、折り曲げられた焔の体は片方の腋で志津の頭を挟む形になった。
志津は肩に乗せた焔の脚と脚の間に腕を通すようにし、片手で焔のぶら下がった手首をしっかりと押さえている。
焔は小猿さながら、志津にしがみついている格好だ。
「……貴様、やっぱり私の事が嫌いだろう」
運ばれている分際で文句は言えないが、横抱きにするとか負ぶうとか、もっと他に丁寧な運び方があるのではないかと思ってしまう。
これでは、米俵にでもなった気分だ。
「文句は後にして下さいませ。これが、一番速く運べるのです。何より、持ち上げるのにそれほど力がいりませんから」
そう言われて、焔はしぶしぶ黙った。
上背があって筋肉質な分、普通の女よりも目方は重い方だと自負しているからだ。
それに、と志津が付け加える。
「憎んでいる相手と床を共にできるほど、妾の心は死んではおりませんでしたゆえ」
赤々と燃えている炎の色にも染まらなかったその頬が、紅を潮した様な気がする。
焔も湧き上がる面はゆさの為に、志津の着物の肩を掴んでいた。
だが、その奥にある蝋の様に滑らかで、包み込まれる様な肌は傷つけまいと。
それがどれほど柔らかく傷つきやすいかを、焔は知っていた。
闇の床の中に冴え冴えと浮かび上がった、一糸纏わぬ裸体の鮮やかさも。
たった一度だけ、志津と肌を重ねた事がある。
これまで、月影の女を数え切れないほど抱いてきた。
閨で交わした睦言はおろか、顔さえ覚えていない相手もいる。
けれど―――その中でただ一人の尋常種であった志津と共にした夜だけは、絶えず焔の中に残り続けた。
二人にとって、それは初めて誰かを抱き、抱かれるという経験であった。
野々宮家には年頃になった跡取りの為に、添い伏しの相手をあてがうという習わしがある。
その役を担ったのが、志津だったという訳だ。
野々宮家に生まれ落ちた日輪として、十八になった焔はその洗礼を受けた。
情を交わすとも、愛し合うとも呼べない、血の通わない儀式にも似た契り。
唇を重ねる事も、互いの体に触れ合う事も無しに、ただ家の為の義務として志津の中へと入っていった。
志津は破瓜の苦痛にも、うめき一つ上げる事は無かった。
「痛みは、しないか」
熱に浮かされた様な吐息混じりに問うと、志津が首を横に振る。
敷布を握り締めていた指先が離れたかと思うと、そっと焔のあらわになった肌をなぞる。
そこに刻まれているのは、父による傷跡。
幼い頃から折檻を受け続けてきた焔の肌は、傷の無い箇所を探す方が難しかった。
縦横無尽に皮膚を這い回る紅の蛇は、あたかも宿主を食い殺そうとしている様だった。
焔にとっては、自分の体の中で何よりも忌まわしい存在。
だが、志津はまるで慈しむ様にそこに触れたのである。
「焔様が味わったものに、比べれば。痛うなど、御座いません」
志津の唇が、微笑みに花開くのをあの時確かに見た。
かすれた囁きが、焔の耳朶を撫でた。
汗ばんだ肌に張り付いていた髪と共に、それは焔の中に愛おしさにも似た情欲の火を灯した。
「……ずっと、悔いていた。貴様の操を、私なぞに捧げさせてしまった事を。それで、嫁に行くのを躊躇わせてしまったのではないかと」
「何を仰せになります。嫁に行かなかったのは、御姫様がお幸せになるのを見届ける為。そして何より、この家にお仕えする為です。妾は―――」
布を通して太ももに触れるうなじが、熱い。
「御館様が抱えておられるものを、少しでも軽くして差し上げたかった。家の為に生きねばならない貴女という太陽の運命を、尋常の身に過ぎない妾にも分かち合わせていただきたかったのです」
日輪と、尋常種。
元より、結ばれる星の定めには無い二人である。
この首筋を食んだとて、それは徒に柔肌を傷つけるだけだ。
だが―――そんな事をせずとも、志津はとっくの昔に身も心も焔に捧げてくれていた。
「……ありがとう、志津」
それは、焔が生まれて初めて志津に対して口にする感謝であった。
志津は肩に乗せた焔の顔を覗き込み、燃えずの桔梗の花の様に笑んだ。
それでも、歩む足を止める事は無く。
業火の中を、主従は共に進み続ける。




