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明けずの夜

座敷の中には、暁闇よりも、宵闇よりも(くら)い闇が、息もできないほど重苦しく満ちている。

今が朝なのか、夜なのかさえも分からない。


一筋の光さえ差し込まない無明の闇の中に、美夜は置き捨てられていた。

生まれてから十五年閉じ込められていた蔵の中よりも、遥かに暗い冥闇。

地の底にあると言われる黄泉の国への道を歩いている様に、一寸先さえ見通せない。


焔が美夜を連れて戻ったのは、帝都でも名だたる家が軒を連ねる煌慈(こうじ)町に、広大な敷地を占める野々宮侯爵邸であった。


孤月ヶ浜の豪壮な別邸が比べ物にならないほど、途方も無い広さと絢爛さを誇る武家屋敷。

迷宮の様に入り組んだ廊下を数え切れないほど渡った先に、人目を(はばか)る如くその部屋はあった。


厳重な(かんぬき)の掛けられた扉の向こうからは、妖気の様におどろおどろしい空気が漂ってきた。

その中に美夜を入れ、鍵を閉めてから、焔はもう長らく戻って来ない。


あれから、どれくらいの時間が経っているのか実感が無い。

美夜にできるのは、自分を襲った悲劇を幾度も闇の中に描き出す事だけであった。


何故、こんな事になってしまったのだろう。

美夜は怜子と共に、新しい夜明けを見ようと歩き出すところだったのに。

それが、今では闇の中に一人囚われているなんて。


「怜子さま」


ただ一つの太陽の名を、そっと呼んでみる。

だが、それすら(わず)かな光明を生むには及ばない。


闇は、音を立てずに美夜の声をも飲み込んでしまう。


ここにあるのは、どこまでも尽きない虚無。

かけがえの無い怜子の存在さえ、この闇の中では定かではない。

確かなのは、百幸美夜という自分自身だけ。


その名を授けてくれた怜子の面影が、彼女を美夜の中に繋ぎ止めていた。


忘れ形見の様な彼女の記憶が心の中で脈打つ度に、涙が頬を伝った。

遠く近く、思い出の星々は心の夜空に(またた)く。

初めて彼女と出逢った八年前の夏の夜から、最後に彼女と口づけを交わした朝の記憶まで。


怜子の真新しい唇の感触さえ、刻一刻と闇に薄れていきそうなのに。

お天道様が見ているから、と美夜は彼女の体を途中で押し返してしまった。

続きはまた今夜、と忍び笑いをもらし合って。


何故、あの時一度でも多く怜子の唇に触れておかなかったのだろう。

そう悔やむ間にも、思い出の星は涙とともに光を失っていくばかりで。


「ら、らら、ら……」


美夜は祈る様な気持ちで、セレナーデの旋律を口ずさむ。

決して彼女を忘れまい、と蔵の中でその曲をお守りにしていた昔の様に。


怜子と美夜の運命を結んだ小夜曲だけが、正気を保ってくれる。


不意に、間延びする様に(きし)んだ扉の音が、美夜の歌を遮った。

暗闇に慣らされ切った美夜は、揺らめく蝋燭の薄明かりにさえ眩しく目を細めた。


「待たせたな、美夜」


闇に溶け入る如き漆黒の軍服姿の焔が、蝋燭を手に笑っていた。


「さぞかし暗くて、怖かったろう。お前が付け火でもするといけないと思って、明かりは置いてやれなかったのだ。すまないな」


焔が床に手燭を置くと、二人の周りを丸く燭光が取り囲む。

美夜が首を横に振ると、その影が大きくたゆたう。


「いいえ。わたしは陽の光も差し込まない蔵の中で、生まれてから十五年間育てられてきました。父はわたしを売るために、月影の兄弟の中でわたしだけを閉じ込めたのです。暗闇なんて、怖くはありません」


本当に美夜が恐ろしいのは、暗闇ではなく、その中に一人取り残されなければならない事。

自分の存在がこの世界から消される恐怖に比べれば、闇そのものの恐怖など無きに等しい。


「お前も、とんでもない親に育てられた口か。死んだ私の両親も(ろく)な人間では無かったが、お前には負けるな。我が子を蔵の中に、十五年とは」


初めて耳にする美夜の生い立ちに、焔はくつくつと笑っている。

下手に同情されようと、自由を奪われていた十五年という歳月の重さは変わらない。


「父親は無論、日輪だろう。男か、女か」


「男、です」


思い出すのも忌まわしい面影を脳裏に呼び覚まして、美夜は答えた。


「やはりな。男の中でも、日輪は特にふんぞり返っていて始末に負えん。私の父親がそうだったのだから」


焔は茫々(ぼうぼう)と広がる暗闇に目を向け、遠くを見つめる様に語った。


「お前ほどではないが、私の父親も大概な男だった。子供の頃、何か奴の気に食わない事をすれば、真っ先に殴られた。それでも腹の虫が治まらない時は、この座敷の中に放り込まれてな。朝から晩まで出して貰えない時もあった。だが、私は一度として泣いた事は無かったぞ。此処(ここ)に閉じ込められた時ばかりではない。どんな折檻を受けても、決して」


幼い頃の焔は、相当に負けん気の強い子供だったのだろう。

父に痛めつけられながらも、それでも泣くまいと歯を食い縛る幼い焔の幻影が浮かぶ。


底知れない闇の中、瞬きもせずに灯火の如くじっと座っている女の子の姿に美夜は胸が痛んだ。

まるで、昔の自分を見ている様だったから。


かつての気丈な少女のなれの果てが、残酷極まりないこの女であるとはどうしても思えなかった。

しかし、美夜には是が非でも彼女に尋ねなければならない事がある。


「怜子さまは、今どうしていらっしゃるのですか」


沈黙の闇に、強ばった声がこだまする。

焔の瞳に、(はげ)しい炎が嬲るように火の手を上げる。


「陸軍省の牢獄の中だ。国家の転覆に加担しようとした、政治犯の疑いで」


終わりの見えない深淵(しんえん)に、突き落とされた気がした。

自分と同じ様に、光の射さない牢に繋がれる怜子の姿が在り在りと目に浮かぶ。


美夜は我を忘れて、焔に取りすがった。


「御無事でいらっしゃるのですか、あの方は!」


「今の所は、な」


皮肉めいた薄笑いと共に返され、体の力が抜けていく。


「政治犯だなんて……あの方は、何も悪い事はされていません。罪になる様な事は、何も」


「法に記されているものばかりが罪ではない。あの女は(いやしく)も華族の身分を持ちながら、その根幹を揺るがしかねない考えを持つ結社に出入りしていたではないか。だが、その繋がりがあったからこそ、お前達の居所を見つけられた」


美夜達の潜伏先を探す為に、焔は特権階級の廃止を訴える左翼的な団体を徹底的に洗い出していったという。

目的の為には、手段を選ばずに。


そして、その一つである尋常社に、怜子が女学生の頃から出入りしていた事実を突き止めた。

彼女と親しくしていた大槻國彦の自宅に、女同士の日輪と月影の夫婦が身を寄せている事も。

大槻家にやってきた誰かの口から、自然とその事が漏れたのだろう。


美夜達があの家で腰を落ち着けていた間にも、破滅の手は刻々と迫っていたのだ。


「それにしても、あの大槻という男も余程どうかしていると見えるな。平民とはいえ、日輪の分際で尋常種や月影に(くみ)する真似をするとは」


一体、焔に國彦の何が分かるというのだ。

彼女は知らないではないか。


月影の兄を救えなかった後悔を抱えながら、それでも愛する人が幸福に生きられる様に、混沌とした夜を打ち破ろうとする偉大さを。


「尋常社の方々は、誰もがこの欺瞞(ぎまん)に満ちた国を変えようと戦っているのです。怜子さまだって、わたしの様な月影が苦しまない社会にしたいと、夜明けを願っているだけですのに。その崇高な気持ちの何が、罪になると云うのですか」


弱い自分を隠して、美夜は懸命に焔に対する。


こんな卑怯な相手に、夜明けを願う人々の想いが壊されて良い筈が無い。

いわれの無い罪を被せられて、美夜の太陽が奪われて良い訳が無い。


「私にとっては、奴らの下らないお題目なんてどうでもいい。そんなものに、この日(いず)る国が長きに渡って積み上げてきた伝統が―――我が天照(あまてらす)の権威が打ち負かされるものか」


「今、何と」


喉の奥から絞り出した声が、震えている。


にやり、と焔が尖った八重歯を覗かせる。


「そうか、美夜も天照を知っていたか」


すっくと立ち上がった彼女の影が、光を()む。


大槻國彦(あのおとこ)も、天照の存在だけは嗅ぎつけていたのだろう。だが、その頂点に立つ家の正体はよもや知るまい。私の祖父である野々宮政之助(まさのすけ)こそ、天照を組織した創始者。その器は祖父から父へ、父から娘の私へと受け継がれた。そして今、この野々宮焔こそが天照の最高責任者であるのだ」


(よど)んだ闇の中から暴き出されたのは、眩しいばかりに救いの無い真実。


華族の中でも際だった名家が集まり、己が特権を分かち合う秘密組織、天照。

巧妙に日の目を逃れ、歴史の陰に(うごめ)き続けたこの国の暗部―――野々宮侯爵家こそ、天照の立役者であったのだ。


美夜は愕然と、焔を見上げた。

今、自分が向かい合っているのは、この国の影そのものだ。


「考えてもみろ。たかだか陸軍の一将校の力だけで、お前達の居所を突き止め、身柄を押さえられるものか。この計画を為し得たのも、全ては天照の存在あってこそ。軍のお偉方共も、私の為す事には決して口出しできまいよ」


どれだけ(くら)く、深い闇の中であっても、怜子さえいてくれれば。


互いの為に命を輝かせ合う一対の太陽と月として、その闇を断ち切れるつもりでいた。

夜明けを見られるつもりでいた。


しかし―――決して明けない夜が、二人の上には暗く暗く広がっていた。


何もかも、無駄だったというのか。


「見てみろ」


焔は手燭を取り上げ、四方の壁をぐるりと照らし出す。


美夜は、初めてこの部屋の全貌を目にする事となった。

蝋燭の不明瞭な明かりに浮かび上がったそれに、美夜の全身は一気に総毛立った。


「きゃあっ!」


壁を埋め尽くしていたのは、おびただしい数の人間の爪痕であった。

所々にどす黒くこびり付いた血の跡が、そのおどろおどろしさを引き立てる。


腰を抜かし掛けて後ずさろうとする美夜の肩を、焔がしかと抱く。


「この部屋には、私の日輪の伯父が閉じ込められていたのだ。この家は元々、祖父の正室の娘である父の姉、日輪の伯母が跡目を継ぐ筈だった。だが、それを良しとしなかった父の兄が、伯母に毒を盛って(あや)めた。その罪を家の外に漏らすまいと、伯父はこの座敷牢に閉じ込められた。それから程なくして、気が触れて死んだという。最後まで、自分は潔白だ、ここから出してくれと訴えていたらしいがな。だからこそ、側室の息子に過ぎなかった私の父が、侯爵の座を手に入れられたのだ」


この壁に刻み込まれた爪痕の一つ一つが、その無残な最後を声無くして訴えかけている。


絢爛豪華な屋敷の奥に、これほどまでに(おぞ)ましい秘密が隠されていたなんて。


「だが、そんな事は伯父に限った事ではない。遠い祖先の御代から繰り返されてきた事だ。それを連綿と受け継いできた謀略の血筋―――その末裔が私という訳だ」


陰謀と奸計(かんけい)によって、名声を保ってきた血塗られた家。

それこそが、野々宮家が長きに渡って天照を()べる事ができた理由だ。


この家の当主として、天照の巨魁として。

焔はどこまでも晴れがましく、両腕を広げて朗々と語る。


「勝てば官軍、負ければ賊軍という言葉があるだろう。勝ちさえすれば、全てが正義であると。あれは違う。勝者の勝利は、最初から決まっているのだ。敗者とて、それは同じだ。下手を打って転落した、私の伯父の様に。私が一度(ひとたび)命じれば、清小路怜子を国家に(あだ)為す大罪人として葬る事ができるのだぞ」


世界から一瞬にして太陽が失われてしまった様に、音も、光も美夜には届かない。

自分の心臓が動いている事実さえ、現世(うつしよ)の出来事とは思えなかった。


あの方が、死ぬ。

閉ざされた頭の虚空に、その言葉だけががんと響いている。


焔は辺りを歩き回りながら、遊びの計画を立てる子供の様に残酷な策を巡らす。


「ただ殺しても面白くないから、徹底的に痛めつけてやろう。不届き者の売国奴には、どんな拷問が相応しかろうな。気を失うまで鞭の雨を降らせてやろうか。指を一つずつ叩き潰してやろうか。お前は何が良いと思う、美夜?」


耳を塞ぐ事も、嫌だと声を上げる事さえできない。


ふと、思い出す。

怜子の従姉である德子の恋人であり、無実の罪で監獄に閉じ込められて命を落とした蔦の事を。

心臓の弱かった彼女は、こうした責問の数々に耐えきれなかったのではないか。


さらにある事に思い至って、はっとした。

德子の父たる子爵の頼みで蔦に濡れ衣を着せたのは、他ならぬ天照ではないか。


蔦を殺めたも同然の天照―――その名を背負っている張本人が、美夜の目の前にいるのだ。


そして今、美夜の愛する人も天照の作り出す闇に葬られようとしている。

美夜の心を覆い尽くす常闇とは裏腹に、焔の嗜虐(しぎゃく)の炎はますます天高く燃え盛る。


(せわ)しく足を速めながら、うっとりと酔い痴れた瞳を頭上に向ける。


「だが、どれもこれも似たり寄ったりで、つまらんな。ここは一つ、派手に火炙りにするか。あの美しい髪も、肌も、消し炭にしてしまえば見る影も無かろう。彼奴(あいつ)が苦痛に叫びながら燃え尽きていく光景なぞ、どんな見世物より素晴らしかろうな……」


幻影はいとも容易く、美夜の中で形になった。

焔の(うら)みの炎に骨さえ残らず焼き尽くされる怜子の姿が、目を逸らす事も許されずに浮かぶ。

無間地獄よりも恐ろしい末路に、美夜はもう耐える事ができなかった。


「やめて!」


錯乱した美夜の叫びが、蝋燭の炎を掻き消す。

辺りが闇の底に沈む。


美夜は恥も外聞も捨てて、焔の上着の裾にしがみついた。


「お願いですから……何でも、いたしますから。怜子さまだけは。怜子さまのお命だけは……」


後はもう、涙で声にならない。

それでも、美夜は掴んだ焔の軍服を放そうとはしなかった。


怜子がいなければ、美夜の夜明けはやってこない。


泣き濡れた頬を両側から挟み込み、焔は(ひざま)づいた美夜の顔を上げさせる。


「清小路を青空の下に出してやれる道が、一つだけある」


闇さえ焼き払う如く、焔の瞳の奥の業火が猛然と燃え立つ。


この目が、怖かった。

彼女と出逢ってしまった時から。


「私の(つがい)になれ。百幸美夜」


焔のたった一言が、幾千の火矢となって美夜の胸を貫いた。


「この世でただ一人の、私の対の月。お前を番にする事が、私の生きる意味だった。お前は一度、私を裏切ったが―――今度こそ、誓うか。私のものになると。私という日輪の為に生きる月影になると」


愛日と、畏日。

怜子の命と、自分の番になる事。


その二つを天秤にかけて、美夜に選べというのか。


なんという下劣さ―――


永遠に怜子を(うしな)う事と、永遠に焔のものになる事。

そのどちらも、美夜にとっては炎燃ゆる地獄道である。


美夜がどれだけ、怜子という日輪を敬愛しているかを知らないから―――否、知っているからこそ、こんな手を使うのに違いない。

よくも、そんな残酷な契約を美夜に迫れたものだ。


鬼め。


目の前に立っているのは、人間の皮を被った魔物だ。


怒りという単語では言い尽くせない(はげ)しい感情が、ふつふつと体の奥底から湧き上がる。

持てる力を出し切って、焔に掴みかかりたかった。

思いつく限りの罵詈雑言を、口汚く浴びせてやりたかった。


けれど―――そんな事をしても、怜子が自由の身となれる訳ではない。


二人の逃げ場は、何処にも無い。


光明の見いだせない闇の中、美夜は倒れる様に(くずお)れた。


焔はそんな美夜を、冷笑と共に見下ろしていた。


美夜は怜子と手を取り合って、自分達の生きていく明日を選んだ筈だった。

しかし―――二人に与えられたのは、死よりも遠い別離だ。


選ばなかった昨日が、ふと美夜に囁きかける。

二人だけの夜に、命を絶っていれば。


永遠に夜明けが来ない様に、この手で夜を終わらせていれば、どれほど幸福であっただろう。

怜子と共に過ごした夜を美しいものにしたまま、この世に別れを告げられたのに。


焔に飼い慣らされて生きる事に比べれば、捨てた結末にさえ悔いが残る。

けれど、それさえ過ぎ去ってしまった。


血のにおいが染みついた床板に顔を伏せる美夜を、葛藤の光と闇が襲った。

片方の闇には、蝋よりも青白い怜子の死に顔がちらついている。


お許しいただけませんか、怜子さま。

貴女への操を守る為に、貴女を見殺しにする事を。

わたしも自分の命を断って、その罪を償いますから。


そう問い掛けれど、死人は(もく)して答えない。


片方の光には、その輝きの中で明るく微笑む怜子の姿が踊る。

陽射しの下で生き生きと笑う顔は、あまりに清らかで、あまりに美しくて。


選べない。


「さあ、返事を聞かせてもらおうか」


最後の審判を告げる喇叭(らっぱ)の響きの如く(おごそ)かに、無慈悲に。

焔の声が、暗闇を震わせる。


長い時が流れた。


やがて、美夜は口を真一文字に結んで、顔を上げた。

悲壮な決意を胸に。


「あの方を、助けてくださるのですか。わたしが、侯爵様の番となれば」


畏日の身から燃え立つ陽光は天をも焦がすばかりに、美夜を包む。

弧を描いた唇が、その炎に照り映える様に赤く色づいている。


「では、誓うな。私の妻になると」


「はい」


「私の番になると」


「はい」


「私の子―――この家を継ぐ日輪の子を生むと」


「……侯爵様の、お心のままに」


呪われろ、と美夜は偽りを口にした自分に毒づいた。


怜子の血を引く我が子を胸に抱ける日が来るのを、ただただ待ち望んでいた。

そんな朝は、もう二度とやって来ない。


日輪の番にされた後では、その月影は他の日輪の番となる事もできない。

子を成す事だって、番の日輪との間で無ければ叶わない。


だが、それさえ惜しくは無い。


怜子が晴れ渡った青空の下で命を全うできるのならば、何だってする。

焔の子を何人(はら)まされようと、心を殺して耐え忍んでみせる。


勝利の喜びに酔う畏日が、大口を開けて高らかに笑う。

ついに美夜を征服し、我が物とできる事への勝ち(どき)であった。


「そう言うからには、もうお前を陽射しの下に出してやる事はできないな。野々宮侯爵夫人として、この家で一生、私の為に生きるのだ。だが、案ずる事など無かろう。お前の世界には、私という太陽さえあれば良いのだから」


もう、美夜は朝日の輝きを目にする事も無い。

夜明けを告げる鳥の声を聞く事も無い。

(あかつき)に咲く花の香りを感じる事も無い。

朝に吹くそよ風をこの身に浴びる事も無い。


でも、隣に怜子がいないのならば、どんなに眩しい夜明けも美夜には意味を持たない。

明けない夜の中に落とされても、美夜には同じ事だ。


確か三年前だったか、と出し抜けに焔が言う。


「私の遊郭通いが度を越しているのを見かねた父が、どこからか月影を買って私に与えようとした事があった。だが、その娘が逃げ出したとかで、結局その話はご破算。私にはどうでもいい事だったが―――もしかしたら、その月影はお前だったのかもしれないな。そうすれば、もう少し早くお前を私のものにできたのだが」


美夜は、はっとして顔を上げる。


三年という歳月の隔たりを越えて、美夜の記憶は怜子と出逢ったあの夜へと辿り着く。

人買いの男達に東暁(とうきょう)へと連れて来られた晩、彼らが美夜について酒盛りをしながら話すのを聞いた。


「しかし、あいつも運が良いなあ。こんなにもすぐにお大尽の買い手がつくんだから。煌慈(こうじ)町の、ほら何といったか」


「野田とか、野々村とか………そんな名の家だったような気がするが。どうもその家の跡取りの廓遊びが目に余るようでな。父親も、月影を一人与えておけば落ち着いてくれるだろうと」


そうだったのか、と美夜は乾いた笑いを浮かべた。

肉親に売られた美夜を買ったのは、他ならぬ焔の父である先代の野々宮侯爵であったのだ。


嗚呼、全ては最初から決まっていたではないか。

星のさだめは、美夜が夜に産声を上げたその時から不変の道筋を描いていた。


畏日の番となる事が、美夜という月影の運命。

美夜の夜は、永遠に明ける事など無かったのだ。


「さて、これから色々と支度をせねばな」


焔はうきうきと弾んだ足取りで、座敷牢を後にする。


美夜はただ一人、再び闇の中に閉ざされた。




程なくして、美夜は暗闇に満ちた座敷から別の間に移された。

その細部にまで職人達の精魂が込められているに違いない、風雅な(つく)りの部屋であった。


壁は見上げるほどに高く、部屋の四隅が(かす)んで見えるほどに広い室内をさらに大きく見せている。

それが絵である事を忘れさせるばかりに壮大な山河の景色が、天井との間にある壁の四方を取り囲んでいる。

四季折々の草花咲く金泥の屏風に、螺鈿細工の小鳥が(きら)めく黒漆の飾り棚。


此処(ここ)は、私の母親が使っていた部屋でな。あの女の贅沢好きは見苦しい程だったが、お前の為の座敷だと思えば、むしろ美々しいとすら思えてくる。この灯りなぞ、作り物とは思えんだろう」


赤々と燃ゆる太陽を模した灯篭が、天井からただ一つ吊り下げられていた。

意気揚々と焔が指し示したそれを、美夜はぼんやりと見上げた。


どれほど贅を()らしたとて、それはまがい物の太陽だ。

本物の日輪の温かさに比べれば、その陽射しはあまりに寒々しい。


それを差し引いたとて、まやかしの太陽の光は陽当たりの悪い座敷の全てを照らすには及ばない。


この部屋を蒼然たる暗がりにしている何よりのものは、廊下に面した出入り口の天井と床を貫く格子であった。

柱ほどに太い木を組み合わせた格子は、手足を出すのがやっとの隙間しか存在しない。


先代侯爵から深く愛されていたという夫人が、よもやこんな牢獄に押し込められていた筈があるまい。

埃の積もった気配さえ無い真新しい格子は、焔が自身の対の月を閉じ込めんと作らせたものに相違なかった。


浅はかな真似を。


本当に美夜を出す気が無いのなら、あの暗闇の中に置き去りにしたまま扉を開けなければ良い。


(あた)う限り豪華に飾り立てたとて、所詮この部屋は美夜を死ぬまで飼い殺しにする為の(おり)なのだ。

籠の鳥も同然の境遇をわざわざ美夜に見せつけるのは、逃げ出そうとする気を起こさせないようにだろう。


そんな事をせずとも、美夜は逃げない。


見えない鎖は、とっくの昔にこの首輪に繋がれているのだから。


(きた)るべき日には、焔は野々宮家の古くからのしきたりに(のっと)り、先祖代々の位牌が(まつ)られた仏間で祝言を挙げる。


『番の儀』―――それは一族が見守る中、婿となる日輪が(めと)るべき月影のうなじを噛み、自身の番とする婚礼の伝統だ。


我が身に刻まれるであろう焔の印が、美夜を久遠に彼女のものとする。


そして、美夜は未来永劫、本物の太陽に触れる事は無い。

それを嘆くくらいなら、美夜は最初から此処にいない。


美夜の身の周りの世話をさせるという名目で、焔は片手では数えられないくらいの召使いを付けた。

誰も彼も、魂の無い人形の様な顔をした尋常種の女達であった。


人に(かしづ)かれる事を知らずに育った美夜は、それに戸惑ったものの、すぐに慣れた。


入れ替わり立ち替わり現れる腰元達は、余計な口をきかずに淡々と無表情で仕事をこなした。

それを使用人特有のよそよそしさ、と片付ける事はできない。


彼女らの美夜に対する振る舞いには、掌に載せた硝子玉をおっかなびっくり扱う様な怯えが(にじ)んでいた。


三度の食事はどれも手の込んだ美食揃いだったが、元より食べる気はしない。

美夜が食事の途中で箸を置くと、腰元の一人が体を震わせて平伏した。


「お願い申し上げます。どうか、お召し上がりくださいませ。お嫁様の御身(おんみ)にお(さわ)りなぞありましたら……」


皆まで言われずとも、分かった。


美夜が体を壊す様な事があれば、累は彼女らに及ぶ。

自分達の主君である焔への畏怖が、女達を忠実なる腰元たらしめていたのだ。


美夜を孤月ヶ浜の別邸へと連れ去った男衆の、(おく)し切った眼差しを思い出す。

野々宮家の頂点に立つ絶対王者に背く事を許されず、ただその命令に従う他は無い使用人。


そんな彼女達の気をこれ以上揉ませたくは無いから、美夜は黙って食事を口に運んだ。


従順そのものの「お嫁様」に、腰元達がほっと息をつく気配が伝わってきた。

耳を澄まさねば分からないほど、(かす)かに。


焔に命じられるがまま、腰元達は美夜をお嫁様と呼んだ。


高貴な華族令嬢をも嫁に迎える事の無かった野々宮家の当主が、突然どこぞの馬の骨とも分からぬ月影を妻にすると屋敷の人々に宣言した。

貴族の姫君らしくも無く、結納も交わさずに身一つで侯爵に嫁ごうという美夜に、彼女らが狼狽したのは確かだろう。


おまけにその嫁御前は、仄暗い座敷の格子の中から一歩たりとも外に出る事を許されていないのだ。

だが、それに異を唱える事さえ大罪に値いする屋敷の空気は、当の美夜でも感じ取れた。


困惑も恐れも全て押し殺し、忠義の奴隷として生きねばならない彼らが哀れだった。


そんな者達に焔の命令を退けさせ、生まれ持った「美夜」という名で呼んでもらおうというのも無理な話だ。


人は、自分に向けられた呼び名に染まっていく生き物であるらしい。

怜子が付けてくれたこの名が、幾百の幸せな夜を与えてくれた様に。

そう考えれば、それは一種の(まじな)いだろう。


床に転がされた絵巻物の様に流れていく時間の中で―――美夜という月は、徐々に薄れていく様だった。




そうして幾日かが過ぎた、とある夜の事であった。


美夜は縁側に面した障子の前に座り、空を見上げていた。

無論、障子の外側には格子が取り付けられている。


この部屋に日が燦々(さんさん)と差し込む事は無い。

太陽を模した灯籠なぞあっても無くても同じだから、美夜は青白い月明かりの波が打ち寄せる暗がりで、(うつ)けていた。


外には玉砂利を敷いた日本庭園の(おもむき)ある風景が広がっていたが、焔の手配りによって、そこに人の姿は無い。

松の木々が地面に黒ずんだ影を落とす、寧静(ねいせい)と呼ぶにはあまりに寂しい静けさであった。


「美夜様」


しじまを打ち破った声に、美夜は不意を食らった。


焔の他には、誰も自分をそう呼ぶ事の無かった名前。

しかし、焔のそれより深々と控えめな声音の持ち主は。


振り返れば、彼女は衣擦(きぬず)れの気配もさせずにそこにいた。

文句の付け様が無いほど美しい姿勢で三つ指を突いているのは、野々宮家の女中にして焔の乳姉妹(ちきょうだい)


風岡志津その人であった。


「志津さん」


驚きに、美夜の声が上ずった。


こうして感情を揺さぶられる様な事は、この部屋に入れられてから(つい)ぞ無かった。


「お久しゅう御座います。美夜様」


懐かしさすら感じさせるほどに見慣れた桔梗色の着物や三白眼と同様、変わらぬ折り目正しさ。

けれど、そこには以前の様に、美夜を突き放すかたくなさは無かった。


こうして志津と顔を合わせるのは、孤月ヶ浜での花火の夜以来だ。


焔の元から逃げ出した美夜と共に、姿を消した怜子を駅まで追いかけてきた珠緒に付き従っていた彼女だった。

だまし討ちも同然に志津の前から姿を消して以来の再会に、気まずさを(おぼ)えたのも束の間。


見知った相手と言葉を交わせる安堵に、美夜の心は解きほぐされていった。


「志津さんが、どうしてここに」


御館様(おやかたさま)から、この本邸で美夜様にお仕えせよとの御下命を拝し、(まか)り越しました」


それから志津はよどみの無い口調で、自身を取り巻くこれまでの経緯を語った。


あの花火の夜、孤月ヶ浜駅に焔が辿り着いたのは、美夜達の乗り込んだ汽車が出発したのと入れ違いであった。

二人を取り逃がした珠緒に激昂した焔は、あろう事か公衆の面前でその妹に罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたのである。

自暴自棄になった焔は、珠緒の清小路家への嫁入りと引き換えに美夜を手に入れる筈だった事を口走ってしまった。


珠緒が柳眉を逆立ててその事への(いきどお)りをあらわにすると、焔はたじろぐどころか、居直って妹に暴力を振るったのである。

自分を可愛がってきた姉の本性に、珠緒はさぞかし幻滅したに違いない。


もう焔の顔は見たくないと、幼い頃から面倒を見てくれた志津を連れ、帝都にある侯爵家の別邸へ居を移した。

姉妹の母親である先代侯爵夫人が芝居見物の折に使っていた家で、遊び好きな彼女はそちらに留まる事の方が多かったという。


珠緒は怜子の婚約者という名目で清小路家に住んでいたのだから、当の怜子が姿を消した以上、伯爵家に留まる事も難しいと思われた。

何より、珠緒は自身の結婚の裏に隠されていた陰謀を知ってしまったのだから。


けれど、別邸での唯一の使用人である志津が本邸へと呼び返された今となって、身を寄せるあての無い珠緒はやむを得ず伯爵家に戻ったという。


「―――ご迷惑をお掛けしました。珠緒お嬢様にも、志津さんにも」


足掻いた、つもりだった。

力を尽くせば、美夜にだって明日を選べると信じていた。


「こうなる事を知っていれば、孤月ヶ浜の別邸から逃げ出したりせずに、与えられた人生に従っていれば良かったと思います。それが、月影としてのわたしの運命なのですから」


そうすれば多くの人を巻き込む事も無く、変えられない宿命に絶望する事も無かったのだ。


「本当に、その様にお考えですか」


志津は畳の(おもて)に伏せていた顔を上げ、じっと美夜を見据える。

金魚鉢の底の様な暗がりの中に、その顔がくっきりと白く浮いている。


(わたし)もかつては、同じ事を自分に言い聞かせて参りました。尋常種として、野々宮家に忠義を尽くせと。忠義に生き、忠義に没せよと。父も母も、そうして生まれ持った責務を全うして死んでいったのです。妾だけが、自分の尋常種としての運命に疑問を抱くなんて、おこがましいと思っておりました。―――美夜様に、お目に掛かるまでは」


頬に手を添えられた様な気がして、はっと顔を上げる。


風岡志津という女性を初めて知った時。

美夜は、彼女を傀儡(かいらい)の様だと思った。


ただ唯々諾々(いいだくだく)と、与えられた命令に従うだけの操り人形。


「御館様からどれほど痛めつけられようと、妾にとってはそれが子供の頃から当たり前でした。嫌だと言う事など、許されていなかったのです。両親さえ、妾に対するあの御方の振るまいを黙殺していました」


忠義の(こころざし)の元に、我が身を捧げなければならない星の下に生まれ出でた志津。

心を殺し、(うつむ)いて生きねばならない孤独は、想像するに余りある。


「悲しみも苦しみも、全て耐え忍ばなければと思っていました。ですが、美夜様は妾を庇ってくださった。その小さなお体にも関わらず、御館様に怯む事無く」


それは、孤月ヶ浜での夏の事だった。


誤って欠けた茶碗を焔に出した(とが)で、焔から折檻を受ける彼女を見た時、やめさせる為に体が動いてしまった。


忘れられてしまえば良い、と思っていた。

この世界から消えていく自分の存在と共に、振り絞ったどんな小さな勇気も。


しかし―――志津は、美夜が自分を守った事を、忘れてはいなかった。


無駄ではなかった。


嗚呼、と美夜は唇を噛みしめる。


無駄では、なかったのだ。


「主君の命に逆らう事など、妾には考えられませんでした。従順である事こそが、しもべの何よりの義務ですから。なのに―――それ以来、御館様の意に背く様な事が、二度も御座いました」


「一つ目は、発情を起こしたわたしから遠ざける為、侯爵様に嘘をつかれた事ですか」


はい、と志津が頷く。


では、二つ目は。


「もう一つは―――孤月ヶ浜の駅のホームで、御館様が御姫様(おひいさま)に狼藉を働かれた時、居ても立ってもいられずにその手をお止めした事です。生まれて初めてで御座いました。自分の心のままに、動いたのは」


感嘆のあまり、美夜は思わず息を止めた。

命よりも大切な姫君を、身を(てい)して助け出す志津の姿が、生き生きと脳裏に描かれる。


志津の嘘が無ければ、発情を起こしたあの夜、美夜は焔の手に()ちていたに違いない。

だが、それは口先で焔を(あざむ)いただけの事。


掛け替えのない珠緒の身が危険に晒されたその時、志津は初めて身を(もっ)て焔に立ち向かったのだ。

自分の危険を(かえり)みず、まとわりつく迷いも断ち切って。

何という強さだろう。


「御姫様が御無事でいらっしゃるのですから、自分の行動に悔いは御座いません。けれど、何故その様な事が妾に出来たのだろうかと、自分に問うてみたのです。そして、ようよう気が付きました」


志津は美夜の元に膝を進め、自身の手で美夜の両手を包み込む。

長い間酷使され、痛々しいささくれの跡が目立つその手は、決して綺麗とは言えなかった。

怜子の様な(たお)やかさや、焔の様な(たくま)しさを持つでもない。


だが、それは志津がこれまでの人生を生き抜いてきた、唯一無二の(あかし)

彼女を知る美夜にとっては、確かに美しく―――温かい手だった。


「何もかも、美夜様のお陰です。御自分の意思で動く貴女が、妾に忘れかけていた自分の心を思い出させて下さったのです」


抗いがたい想いに、志津の声はわなないていた。


遙か昔から受け継がれた役割に、生まれ持った尋常種という性別によって。

彼女の自我の芽は抑えつけられていた。


それを芽吹かせたのは、他ならぬ美夜であると云う。


美夜を映す志津の瞳は、黒々と潤んでいた。

しかし、そこにかつての(うつ)ろな面影は無い。


虐げられ続けた傀儡に、魂が宿った。


「そのご恩を美夜様にお返しする為に、妾は今日、御館様へ三度目の不義理を働くつもりです」


美夜の手を握る指に、志津が力を込める。

その瞳を(よぎ)る閃光が、闇を穿つ。


「此処から逃げましょう、美夜様。妾が、力をお貸しいたします」


一陣の風が、身内を吹き抜けた様な気がした。


「今宵、美夜様の元に参りましたのは、お世話をさせて頂く為では御座いません。妾は、この屋敷で生まれ育ったのです。内部の構造は、寸分違わず頭に入っております。何処をどう通れば、誰の目にも触れずに外へ出られるかも知っています。妾なら、美夜様を自由にして差し上げられる」


熱弁を振るう志津の帯締めには、この部屋を閉ざす格子の戸の鍵が結ばれている。


こくり、と喉が上下する。

牢獄の扉は、開いたも同然なのだ。


「でも、そんな事をすれば、志津さんが」


志津がこれから犯そうとしているのは、一言の申し開きも許されない大罪。

それは、彼女が一番よく知っているだろうに。


ふ、と志津が笑う。


「妾の事なら、お気になさらず。御館様からどんな罰を下されようと、構わぬ覚悟です。例え、お手討ちにされようとも。逃げ出すならば、夜の闇に紛れる事のできる今しかありません。さあ」


そう言って、志津は月明かりを透かす格子の方を振り返る。


晴れた空を見上げる事なんて、もう二度と叶わないと思っていた。

そんな光の見えない闇の中でも、差し伸べられた手があった。

美夜はただ、それを取りさえすれば良い。


そうすれば、もう一度青空が見られる。

心が吸い込まれそうなくらい澄み渡ったあの空が、美夜だって恋しかった。


しかし。


「……できません」


暗い面持ちで首を振る美夜に、志津が困り果てた表情を見せる。


「恐ろしいお気持ちは、お察し致します。けれど」


「ありがたいお申し出ですが、できません。わたしがこの座敷から逃げ出せば、怜子さまが殺されてしまう」


志津は言葉を失った如く、口元を手で押さえた。

その顔が、みるみる青ざめていく。


「今、怜子さまは政治犯の疑いを着せられて、陸軍省に囚われています。侯爵様はあの方の命と、わたしが番になる事を引き換えにされました。ですから、わたしは此処にいなければ」


どれほど(くら)い明日が待っていようと。


もう二度と、日の目を見る事ができずとも。

それが、美夜の選んだ全てなのだから。


「どうか、わたしを不幸だとは思わないでください。怜子さまが生きてお日様の下に戻れるのならば、わたしは本望ですから」


淡い月明かりに溶け込む如く、(やわ)く微笑む。

仕方の無い事なのだ、と志津に―――自分自身に、言い聞かせる為に。


志津の唇が、引きつった様に歪む。

泣き出しそうな子供みたいに。


そんな顔をなさらないでください。

ようやく、ご自分の心を取り戻せたのではありませんか。

今まで禁じられていた分も、あなたにはこれから笑ってほしいのに。


美夜の願いが通じたのか、志津の顔からはすんと表情が消えていく。

けれど、かつての能面の様な冷ややかな顔ではなく、破れぬ(こころざし)に満ち満ちた面差し。


志津は正座をしたまま後ろに退(しさ)ると、着物の襟の奥から伸びている細長い首筋が見えるほど深く頭を下げる。


「それほどまでの決意を持って、美夜様が此処に残られるというのなら。妾も身命を()して、貴女様にお仕えしとう御座います。―――どうか志津を、幾久しゅうお側に置いてくださいませ」


「志津さん……」


どんな地獄へも、一人で歩いていくつもりだった。

けれど、同じ泥梨(ないり)に身を投じ、運命を共にしてくれる人がいる。

彼女の想いを無下にすれば、(ばち)が当たろうというもの。


美夜も居ずまいを正して、志津に向き直る。


「こちらこそ、(よろ)しくお願いいたします。わたしの様な、何の取り柄も持たない月影で良ければ」


自分の主君である侯爵夫妻に、志津は他の使用人の様な恐怖からではなく、心からの忠義で仕えてくれるだろう。

それが果報でなくて、何だというのか。


改めて自分の元にやって来た腰元に、美夜は言う。


「志津さんに、早速お願いしたい事があるのです」

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