決別の朝
雨戸に掛けられた手が、緊張に細かく震えるのが見て取れる。
閉め切られた廊下の暗がりに浮ぶ白い手は、自分のものながらどこか頼りない。
けれど、勇気を出さなければ。
美夜は思い切って、廊下の雨戸をがらりと開け放つ。
朝の陽射しが、廊下の床板の上に純白のレースの布の様に広がる。
雲一つ無い日本晴れ、という訳にはいかないが、それでも朝はちゃんと訪れる。
美夜はほっと胸を撫で下ろして、雀の飛び交う帝都の空を見上げる。
もう朝はやって来ないのではないかと、布団の中で目を覚ました時に胸騒ぎがしてしまった。
清々しい朝の空気を吸い込んで伸びをすると、背後の障子が音も無く開いて、怜子が顔を出す。
「おはよう」
洗い流した様に清らかな陽射しの中で見る顔は、これまでのやつれ具合が嘘の様に穏やかであった。
「おはようございます。昨夜は、よくお休みになれましたか?」
「ええ、ぐっすり。夢も見なかったわ」
翌朝に備えて床に就こうという前の晩、怜子は布団に入ったまま、心細げに半身を起こしていた。
明日は早いのですから早くお眠りになりませんと、と言って怜子をせき立てる気にはなれなかった。
長く自分を苦しめた悪夢に、今さら怯えるなという方が難しいだろう。
寝間着に着替え、隣に布団を敷いた美夜も傍に侍ったまま、心配でならなかった。
怜子は、何やら薬の瓶を手にしていた。
「これを飲むと、眠らなくても幾分か疲れないのよ」
恥じる様に怜子が見せてくれたのは、疲労軽減の妙薬と銘打って売り出されている興奮剤の一種であった。
眠りに落ちるのを恐れた怜子は、この薬を飲んで長い夜を凌いでいたのである。
どこかで見た事がある様な、と瓶のレッテルをしげしげと眺めるうちに、美夜は記憶の中のとある出来事を思い出した。
「このお薬、問題になっていたものではありませんか」
医師の秋元夫妻の医院に通っていた頃、夫婦が帝都に出回っているその薬の中毒性について、由々しく話し合っていたのを覚えている。
「美夜ちゃん。こないな薬、飲んだらあかんで」
毒々しい原色づかいの薬の広告を美夜に見せながら、嘉世子が苦い顔で忠告した。
その薬には一時的に不安を軽減する作用はあるものの、服用量を誤れば度を過ぎた興奮を引き起こし、暴力沙汰になった事例もあるという。
怜子の度重なる病的興奮の症状に、この薬が全く関わっていないとは言い切れないだろう。
「まあ……私、知らなくて」
少しでも悪夢の魔の手を払いたくて必死だった怜子は、裏路地の奥にある怪しい薬屋でこれを買い求めた。
美夜に飲ませた発情促進剤も、怜子が日輪である事を見抜いた店主がなかば押しつける勢いで売ったのだという。
怜子はすっくと立ち上がると、月蝕の薬と一緒に、その興奮剤を屑籠に投げ入れてしまった。
「こんな薬に頼ろうとした、私が愚かだったわ」
その潔さは美夜を感服させたものの、怜子の瓜実顔からは憂いの影が消える事は無い。
美夜は怜子の嫋やかな手を握って、枕元に座した。
「どうか、お心安くお眠りください。わたしが、こうして傍におりますから」
一つ布団で休むのは、結婚してからと二人で決めている。
肌を触れあわせる事はまだできないが、心だけは誰よりも近くで怜子を護るつもりである。
顔色の優れない怜子の面差しに、薄く血の気が広がった。
「ありがとう、美夜。私は、いつもあなたに助けられているわね」
結ばれた手を、分かちがたい縁として。
怜子は覚悟を決めて、瞼を閉じたのである。
久し振りにゆっくりと体を休めたおかげか、その顔は生き生きとした気力を取り戻している。
鏡台の前に座って自ら化粧を施し、明るい空色のワンピースに着替えた姿は、美夜の憧れ続けたモダンガールそのものである。
「どう、似合って?無精をして寝間着のままでいたから、洋服さえも新鮮だわ」
鏡の前でくるりと回ってみせる怜子の笑顔に、美夜の心は晴れた青空を見上げた様に慰められる。
美夜も桃花色の単衣に着替えて、髪をおさげに編んだ。
その先に結ぶのは、マーガレットの刺繍が施された淡紅色のリボン。
野々宮家の別邸に幽閉されていた時、焔の飼い猫の尻尾にこのリボンを結んで、怜子に助けを求めた様なものだ。
持ち物を整理しがてら箪笥の中を探ると、平べったく丸い容器に詰められた紅が仕舞われていた。
悪阻で倒れ掛けていた誠太郎を助けたお礼として貰った、美しい色合いの練り紅である。
「まあ、口紅ね」
怜子に背後から手元を覗き込まれ、美夜はどきりとしてしまった。
この紅を付け、嬉々として怜子を出迎えた夜、彼女は美夜の期待とは裏腹に、ひどく冷厳な反応だった。
「私以外に粧った顔を見せたりはしないで」
物狂おしい悋気を剥き出しにしていたあの時の怜子を思えば、美夜は何も言えなくなってしまう。
けれど、怜子は優しい姉様らしい微笑みを見せ、美夜の手から紅を取り上げた。
「そこにお座りなさいな、塗ってあげるわ。私も、美夜には綺麗になって欲しいもの」
動かないで、と怜子に念を押され、美夜はじっと目を閉じて唇を差し出す。
花の香りを帯びた紅をまとう怜子の指先が、唇の上をなぞっていく。
美夜は聖体拝領の儀式に臨む様な神妙さで、その指を受け入れた。
「ほら、どう?」
怜子に差し出された手鏡を見ると、鏡の中の娘は色づいた唇をすぼめる様にはにかむ。
だが、磨き上げた朝日の中の顔は、幾分か大人びて見える。
まだ見慣れない顔が何だか可笑しくて、美夜は怜子と顔を見合わせて軽い笑い声を立てた。
遠い空の彼方に消えていく様にその笑いが収まると、二人の視線は引き寄せられる如く絡み合う。
どちらとも無く、二人は紅の乾ききらぬ唇を重ねていた。
離れては、また愛おしむ様に唇を合わせて。
ちゅ、とその度に生まれる音は、小鳥が鳴く様に可愛らしくも、花が開く様に甘やかだった。
昂ぶる慕情のままに口づけを交わす二人だったが、不意に美夜は怜子の胸を押しとどめた。
「ああ、せっかく塗ったのに、紅が落ちてしまうわね。御免なさい」
「それも、あるのですけれど……お天道様が見ていらっしゃいますから。続きはまた、今夜」
自分達の足で陽射しの下に出て行ける二人とはいえ、ひそやかな睦事には夜こそ相応しい。
これから二人で迎える夜を思えば、照れくささに顔を伏せたくなるが、その恥ずかしささえ愛する人と分かち合えるのが嬉しい。
「ええ、今夜」
笑い声を忍ばせた囁きが、耳に触れる。
怜子と過ごせる幸福は、決してどこにも行かずに自分を待っている。
必ずやってくる夜明けの様に。
美夜は、そう信じて疑わなかった。
勝手口から台所に足を踏み入れると、炊きたてのご飯のふっくらとした香りや、味噌汁の温かな湯気に包まれる。
前掛けをして忙しく立ち働いている誠太郎が、美夜の気配に足を止めた。
「ああ、美夜さん。今日は、珍しく卵が手に入ったんだ。怜子さんにも持って行って……」
振り返った大槻家の主夫は、銀縁眼鏡の奥の目を驚きに瞬かせる。
気鬱の病でずっと臥せっていた怜子が、きちんと身なりを整えて、美夜と共に立っているのだから。
おまけに、二人の手には旅支度の詰まったトランクが携えられている。
怜子が前に進み出て、深々と頭を下げる。
「長い間、本当にお世話になりました。美夜と私は、今日限りお暇させて頂きます」
誠太郎が菜箸を手にしたまま唖然としていると、まだ髭も剃らずにいる寝起きの國彦が、欠伸をしながらやって来た。
「誠太郎、洗面所の歯磨き粉が切れてて……怜子君、それに美夜さんも、一体どうしたんだ」
「國彦さんも。奥様と御一緒に、身内の様に親切にしてくださって。特に私の事では、散々ご迷惑をお掛けしておきながら、いきなり出て行くというのも勝手なお願いですけれど」
まるで憑き物が落ちた様に颯爽とした怜子の振る舞いに、夫妻は鳩が豆鉄砲を食らった様。
「出て行くと言っても、何処へ。うちの事なぞ構わず、ずっといてくれて構わないものを」
最初は華族の日輪である怜子にあれだけきつく当たっていた誠太郎が、懇願する様な声を出す。
「実家に戻ります。美夜と、一緒に」
怜子は自分の横の美夜へと目配せし、美夜も頷いた。
美夜に向けた眼差しを、怜子は懐かしく細める。
「美夜が、私に思い出させてくれましたの。日輪として、華族として、この世の中を良くしていきたいという夢を。社会を変えようとする人間が、自分の弱さにも立ち向かえないのではお笑いぐさですわ。家に戻って、両親と―――父と、話します」
凜と言い切る怜子の姿に、美夜は嗚呼と胸の中で感嘆した。
誰よりも高潔な輝きを持つこの女性こそ、美夜の愛日である。
「時間は早いな」
無精髭を撫でながら、國彦が苦笑する。
「ついこの間まで女学生だと思っていたら、いつの間にかこんなに立派な大人になっているのだから。快く送り出してやろうよ、誠太郎。二人が、手と手を取り合って生きていこうと言うのだもの」
夫の言葉に、心配性な母親らしい誠太郎も笑みを見せる。
「幸せになりたまえよ、君達二人とも」
世間の掟に背き、誰から誹られようとも構わない心づもりだったが、こうして言祝がれれば春の日の様に胸が温かい。
「はい」
愛おしい相手と顔を見合わせた二人は、ぐうと鳴った美夜の腹の音に、揃って目を丸くした。
沈黙が辺りを包んだものの、すぐに場は笑いにどっと沸き立つ。
「まあ、お恥ずかしい」
よくよく考えれば、昨日の夕方に見世物小屋の楽屋で、お多実の父から貰ったカリントウを口にしたきりである。
怜子は手で口を押さえて品良く笑っていたが、自身の腹部もきゅうっと引き絞る様な音を立て、はたと口をつぐむ。
「……私も、お腹が減ってしまいましたわ」
恥じらう怜子だが、その食欲は彼女が生きようとしている何よりの証だ。
前掛けの紐をきゅっと結び直し、誠太郎が頼もしく言う。
「朝ご飯にしよう。どんな事をするにも、まず腹ごしらえをしなければ」
二人にとっては、そんな心遣いの一つ一つが身に染みる様だ。
これまで禄に食事に手を付けなかったのが嘘の様に、怜子はよく食べた。
その健啖ぶりは、大の男である國彦、食べ盛りの子供の晴彦、矢継ぎ早にご飯や味噌汁のお代わりを頼まれる誠太郎の目を見張らせるのに十分な程だった。
米一粒も残らない茶碗を下ろすなり、怜子は心から残念そうに嘆息した。
「誠太郎さんのご飯が、こんなに美味しかったなんて。今まで残してばかりだったのが、悔やまれてなりませんわ」
お腹を満たせば、いよいよ出立の時である。
両親と共に玄関で美夜達を見送ろうという時、晴彦が名残惜しげに美夜の着物の袖を掴む。
「美夜お姉ちゃん達、もう行っちゃうの?また来てくれる?」
遊び相手の美夜が家を出ようという間際になって、子供らしい寂しがりを発揮したらしい。
「晴彦もこう言っているし、いつでも気軽においで。ぼくや誠太郎も、歓迎するから」
息子の頭を撫でつつ、國彦がいつもの気安い笑みを浮かべる。
怜子に靴べらを渡した誠太郎も、そっとお腹を撫でさする。
「お腹の子が生まれたら、顔を見に来てやってくれ。この子も、きっと喜ぶだろうから」
「はい、勿論。お二人の赤ちゃんなら、きっと凄く可愛いでしょうね。今から楽しみです」
それは近くて、ほんの少し遠い未来の話。
けれど、美夜にはその光景が手に取る様に見える。
誠太郎は、きっと元気な赤ん坊を生む。
新たな家族を幸福そうに囲む大槻家の人々の横に怜子と自分の姿がある事を、当たり前に想像していた。
いつか、自分に怜子との新しい命が宿ったら。
大槻夫妻の子と、その子を遊ばせる事だってできるだろう。
それを微笑んで見守る自分の姿さえ、淡くも浮かんだ。
希望に満ちた明日の数々に、美夜の心は躍った。
美夜は必ず、幸せになれる。
怜子が付けてくれた、百幸美夜という名の通りに。
「さあ、美夜」
靴を履き終えた怜子が、上がり框から立ち上がる。
三和土には既に、美夜の草履が揃えられている。
「はい」
草履を突っ掛け、居並んだ大槻家の人々に深く頭を下げる。
「今まで、ありがとうございました。皆さんから頂いたご恩は、決して忘れません」
血の繋がった姪も同然に思いやってくれた大槻夫妻の優しさを、徒疎かにする筈が無かった。
けれど、彼らにも別れを告げる時がやってきた。
歩き出さなくてはならない。自分の足で。
先に立った怜子が玄関の引き戸を開けると、こぼれる様に朝日が差し込んでくる。
「行きましょう」
怜子の差し出した手を、美夜はひしと掴んだ。
希望に満ちた、青空の下へ。
愛する人と共に、美夜は新たな一歩を踏み出そうとした。
けれど。
先を歩く怜子が、はたと足を止める。
「怜子さま?」
彼女は固まったまま、答えない。
怜子の凍りついた視線の先を追い、美夜は言葉を無くした。
そこには、宵闇に浮かぶ星の様に、漆黒の上着に照り映える金ボタンの軍服に身を包んだ男達が列を成していた。
青空が、翳っていく。
心臓がどきどきと、痛いばかりに鳴り止まない。
それは決して、明るい未来への憧れからではない。
トランクを掴んだ手に、冷や汗がにじむ。
何故、こんな場所に大勢の軍人が。
軍帽の下から鋭い目を覗かせた男達の中でも、眼光人を射る如き一人の士官が進み出る。
「清小路尊子伯爵が息女、怜子殿。貴女には、我々の上官から拘束命令が出されている。ご同行願おう」
大罪を暴き立てる様な容赦の無さで、士官はそう告げた。
拘束命令。上官。同行。
禍々しい単語の数々が、悪夢の情景の様に頭の中を巡っている。
嘘だ、何もかも。
だって、空はこんなにも晴れ渡っているのに。
けれど、晴天の下にさらけ出されたのは、嘘偽りない現実であった。
さらに二人の軍人が列の中から進み出て、両脇から怜子の腕を拘束しに掛かった。
「何かの、間違いではありませんの」
動揺を隠せない怜子が、身動きを封じられたまま悲鳴の様に叫ぶ。
このひとに、一体何の咎があるというのだ。
「間違いであるものか」
せせら笑う如き女の低い声が、紺碧の空に響き渡る。
男達はその声に操られる様に、即座に道を開ける。
彼らの一糸乱れぬ敬礼に迎えられ、彼女はゆっくりと歩を進める。
長靴の音も高らかに、陽射しに燦々と映える黒髪をなびかせて。
剛健な男達の中にあって、ひとかたならず目を引く紅一点。
天の太陽さえ霞ませる程の日輪の威光が、生まれながらの支配者である事を物語る。
全ては、彼女の思いのまま。
怜子、そして美夜の命さえも。
「野々宮中尉殿。ご下命の通り、清小路伯爵令嬢を確保いたしました」
「ああ」
直立不動の部下を一瞥し、彼女は満足げに唇の端を持ち上げる。
そして、目深に被った軍帽を持ち上げ、青ざめた一対の太陽と月に向き直る。
「久しいな、清小路。そして、美夜」
全ての生きとし生けるものを焼き尽くす夏の太陽、畏日の君。
野々宮焔は不敵な笑みを浮かべる。
燃え盛る炎に貫かれた様に、美夜はよろめいた。
計り知れない恐怖で膝はがくがくと震え、歯の根が合わない。
認めたくない。
目の前にいる彼女の存在を受け入れてしまえば、心の奥底に封じ込めていた畏れがあふれ出してしまう。
焔との身の毛もよだつ日々は、美夜にとってパンドラの箱の禍も同然だった。
一息にとどめを刺された方が、この地獄を見せつけられるよりどれだけ良いだろう。
「そんなに怯えてどうしたというのだ、美夜。せっかくの目出度い再会ではないか」
焔はつかつかと美夜の元にやって来ると、血の気を失った頬に手を伸ばそうとする。
「ひっ」
赤々と燃える炭火を顔に近づけられた様に、美夜は悲痛な声を上げてのけ反った。
「その血塗られた手で、美夜に触らないで頂戴!」
怜子は雁字搦めにされながらも、焔の手をはたき落とす様に声の限り叫んだ。
その双眸に怒りの火柱を燃え上がらせるより早く、焔は長靴の先を怜子の鳩尾にめり込ませる。
「誰に向かってそんな口を利いている?痴れ者め」
一切の力加減も無い鈍い音が、美夜の耳孔を穿った。
「あがっ……!」
聞くに堪えない惨たらしい呻きを漏らし、怜子は地べたに倒れ込んだ。
人目も憚らず背を丸めたかと思うと、未消化の朝餉を土の上に吐き戻す。
えぐ、えぐと苦痛に嘔吐く怜子を、焔はこの上なく蔑んだ眼差しで見下ろした。
「汚らしい。貴様の様な下衆は、やること為すこと全てが見苦しいな、清小路」
焔は怜子の前髪を力任せに引き抜かん勢いで鷲づかみにし、顔を上げさせる。
そのまま、今度は端正な横顔の線を描く鼻梁を重い拳で殴りつける。
噴き出した鮮血が、土の上にぱらりと大小の水玉模様を描く。
爪先に怜子の吐瀉物と血が点々と跳ね返った自身の長靴に、焔は舌打ちした。
「貴様のせいで、私の靴が汚れたではないか。その二枚ある舌を使って、磨いてみせろ」
度重なる暴行によって息も絶え絶えの怜子の口元に、焔は長靴の爪先を突きつける。
助けなければ。動かなければ。
そう思うのに、足は地面に繋ぎ止められたままで。
美夜が駆け寄ろうとするより先に、二人の間に割っていった男性の姿があった。
「一体何なんだ、君達は!人の家にずかずかと踏み込んだ挙げ句、無実の民間人に乱暴を働こうというのか」
この家を守る主夫として、誠太郎には一切の躊躇いも無い。
家族の為には何をも恐れぬという覚悟を背に、誠太郎は暴虐の化身の様な女将校に啖呵を切る。
その時、火が付いた様な少年の突然の泣き声に、一同の視線はそちらへ集まる。
玄関先で父の陰に隠れていた晴彦が、声を上げて泣き出したのだ。
目の前で繰り広げられる狼藉に、気弱なこの子が今までよく耐えたものである。
「黙らせろ」
焔は虫が顔に止まったのを追い払う様な他愛の無さで、別の部下に命じた。
彼らの行く手を阻まんと、誠太郎が焔に食って掛かる。
「僕の子供には、指一本たりとも触れさせるものか!」
命懸けで我が子を守る母そのものの誠太郎の姿にも、焔の心は毛ほども動かされなかった。
「出しゃばるな、月影風情が」
彼の方もようよう見ず、どんと手荒く誠太郎を突き飛ばす。
「うっ」
危うくよろけて尻餅を突きかけた妻を、すんでの所で國彦が後ろから抱き留める。
誠太郎の無傷を確認するや、國彦は見た事もないほど恐ろしい顔で耳を劈く怒鳴りを上げる。
「身重の月影に、何て真似をするんだ!それでも人間か、お前は!」
幼い息子、妻、そしてまだ見ぬ我が子の身をも危険に晒され、國彦の怒りは留まる所を知らなかった。
「そもそも、怜子君をこんな目に遭わせる義理が何処にある。とても軍人のする事とは思えん」
誠太郎を腕に抱きながら、國彦が苦々しく吐き捨てる。
「身重の月影、か。赤ん坊に無事でいて欲しければ、余計な手出しはしない方が賢明だぞ。さもなくば、腹の子は獄中で生む事になるかもな。そもそも、この世の日の目を見る事も無いやもしれん」
さも愉快そうに、焔が言う。
何を考えていれば、ここまで血も涙も無い脅し文句を口にできるのか。
だが、これが単なる脅迫でない事は、焔の残忍さを目にすればすぐに分かる。
彼女には、自分の言葉を実現できる権力も備わっているのだ。
目を閉じて葛藤した末に、國彦が妻に囁く。
「誠太郎、晴彦を家の奥に。君もそこにいて、絶対に出てくるな」
頼む、と切に訴えかける夫の眼差しに、誠太郎は黙って頷く。
そして、言われるがままに玄関で泣いている息子の手を引き、扉を閉めた。
両拳を白くなるほど握り締め、悔しさに震える國彦をよそに、焔は怜子の上に身を屈める。
「よくも、私の手から美夜を奪い去ってくれたな。医者の夫婦も丸め込んで、狡猾極まりない真似をしてくれたものだ」
鼻孔から粘っこい鮮血を垂らしながら、それでも怜子は焔を真正面から睨みつける。
「私は、何一つ間違った事はしていないわ。野々宮侯爵、あなたが孤月ヶ浜の別邸に監禁していた美夜を、この手で救い出しただけよ」
間髪入れず、焔の平手が乾いた音を立てて怜子の横頬を張り飛ばす。
何故、こんな卑劣がまかり通るのを前にしても体が動かないのだろう。
怜子とこの名の他には、何をも失う物は無い美夜であるのに。
焔という恐るべき畏日の前に、美夜の月影としての本能は圧倒され切っている。
だが、同じ月影の誠太郎は臆する事無く日輪の焔に立ち向かっていったではないか。
月影としての本能と共に、美夜を縛るもの―――
「私の対の月」
記憶の奥底に張り付いた焔の囁きが、呪いの様に美夜の動きを封じている。
「ご自慢の正義を振りかざす蛮勇さは相変わらずだな、清小路。だが、全ての正否を決めるのは貴様ではなく、この私だ。これから身を以てそれを分からせてやる」
焔は立ち上がり、彼女の後ろで直立不動の姿勢を保ち続ける部下に命令する。
「|こいつを陸軍本部に」
男達に引っ立てられて歩き出した怜子が、美夜の方を振り返ろうと必死に身をよじる。
「美夜……!」
なのに、美夜はその背中を追う事さえできなかった。
焔は懐から厚い封筒を取り出すと、それを無造作に國彦へと突き出す。
「取っておけ」
中身は、折り目一つ無い紙幣の束である。
大槻一家の沈黙を、焔はその金で買おうというのだ。
國彦はそれを荒々しく掴むと、無言で天高く放り投げる。
飛び出した札が、ひらひらと紙吹雪の様に青空を舞う。
それが國彦になし得る、唯一の抵抗であった。
「好きにするが良い。何れにせよ、この件は他言無用。もし情報が他所に漏れる事があれば、この家が火の海に包まれると思えよ」
焔にとっては、その札束も端金に過ぎないのだ。
赫灼たる太陽を背に、畏日の君は美夜の前に立つ。
「迎えに来たぞ。私の対の月よ」
怜子を苛み続けた悪夢は、朝を迎えれば消え去ったではないか。
この白日の悪夢は、一体いつ覚めるのだろう。




