常夜の心中
「私は美夜だけの『怜子さま』でありたかった」
芝居の独白の様に、怜子がぽつりと呟く。
その瞳の奥には、夜よりもなお昏い闇が広がっている。
「完璧な淑女として、日輪として。誰よりもあなたを守り、慈しみたかった。……でも」
怜子の目から一雫、その闇がこぼれ落ちる。
「いつだったかしら。自分の中に、黒い太陽が潜んでいるのに気づいたのは。あなたの幸福を願い、笑って欲しいと思いながら、それを自分だけのものにしたいという穢れた欲望を知ってしまったのは」
それを皮切りに、一つ、また一つと涙が怜子の頬を伝う。
「あなたという月を、誰にも渡したくはない。触れさせたくない。見せたくない」
全てを焼き尽くさん勢いで燃えさかり、美夜を我がものにしようとする夏の太陽、畏日。
寒さに震える存在を優しく包み込み、慈悲の陽光を美夜に降らせる冬の太陽、愛日。
烈しい執着の火の手を美夜に伸ばそうとする焔を、これまでは恐れていた。
けれど、それよりも遥かに強く、昏い愛執に我が身を焼いて輝く太陽が、一番近くにあったのだ。
お優しい怜子さま、愛日の様な怜子さま。
誰よりも深い闇を内に秘めながら、その太陽はどこまでも清らかに輝いていた。
「あなたがそばにいた頃は、見て見ぬ振りができたの。けれど、父の策略であなたが野々宮侯爵の手に渡った時、途方も無い嫉妬で気が狂いそうだった。ようやく美夜が私の元へと戻ってきたら、それで全て終わると思っていた……でも、駄目だったの」
彼女自身、どうにか留めてきたであろう昏い感情は、もう抑える術とて無くじわじわと広がっていく。
「またいつ、あなたを奪われるか。怖くて仕方無かった。今日か、明日か。この家に来てから私がどんな夢を見ていたか、美夜は知らないでしょう」
怜子は畳に伏せていた顔を上げ、引きつった笑いを浮かべる。
それは笑顔というにはあまりに寒々しく、悲哀に満ちた表情であった。
目の前で我が子を殺された母がその惨憺たる光景を物語る様に、怜子は泣き濡れた目を虚空へと向ける。
「不安な気持ちを押し殺して床に就くと、決まって同じ夢を見るの。あなたが野々宮侯爵に力づくで陵辱されるのを、為す術も無く見ている事しかできない夢」
怜子を明けても暮れても甚振っていたのは、現とほど近い場所に潜んでいるむごたらしい悪夢。
彼女の口を通してそれを聞かされるのは、美夜にとっても生きた心地がしない。
けれど、愛する者が犯される光景を、目を逸らす事も許されずに見せつけられるのは、どんな血生臭い拷問をも凌ぐ苦しみだろう。
「最初は必死に私の名前を呼んで、泣いて嫌がっていた美夜も、次第に甘い快楽の声を上げるようになって。あの女の軍服の背に、細い腕を回して悶えるのよ。それを何度も、何度も目に焼き付けられるの。……生き地獄だったわ」
高貴さに満ち満ちた面差しを涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、怜子は身も世も無く慟哭する。
澄み切った月光は悲劇の主人公に向けられるスポットライトの様に、そんな彼女の姿を無情に照らし出す。
壊れていく。
美夜の、崇めていた太陽が。
敬愛する女性が。
何が、彼女をここまで追い詰めてしまったのだろう。
二人を引き裂いた張本人である野々宮焔か。
誰よりも彼女の近くにいながら、何もできなかった美夜か。
けれども―――怜子をじわじわと侵し続けた何よりのものは、彼女の中に巣食った恐怖。
母親の心の傷を養分にすくすくと育った赤子は、その狂乱という形でこの世に生まれ落ちた。
「ああ、ああ。一体、私は何処で間違えたのかしら。ただ、美夜と二人で、あなたと初めて出逢った頃の幸せな夜を生きたかっただけなのに」
伸びた断髪を掻き乱して、怜子は取り返しのつかない後悔を嘆く。
悪夢の中で美夜が焔にされたのと同じ事を、今し方自分も美夜にしようとしたのだ。
その悔悟の念に、怜子は今にも打ちのめされてしまうだろう。
「もう嫌よ。あなたを奪われる事に怯えるのも、あなたを傷つけてしまうのも」
止めどなく涙を流す目を向け、怜子は美夜の手をそっと引き寄せる。
「だからね。夜明けが来る前に、一緒に死にましょう。あのセレナーデの聞こえる、幸せな夜のまま」
涙で汚れた顔を拭い、聖母の様に崇高な微笑みを見せる怜子。
その清らかな笑みに、死という言葉はあまりに不似合いだった。
「怜子さま」
「今夜、美夜が弾いていたセレナーデは本当に素晴らしかったわ。美夜を探して見世物小屋の前を通りかかった時、あの小夜曲が聞こえてきて。幸せなあの頃を思い出させてくれて」
目の前に座る美夜の声さえ、怜子の耳には届いていない。
彼女が見つめているのは、かつての夜だけだった。
「死にましょう。少しでも、日の出の遠いうちに。大丈夫よ。決して、痛くはしないから。私も、すぐに後を追うから」
膝を立てた姿勢で、怜子は少しずつ美夜ににじり寄ってくる。
抱き締める様に腕を伸ばす。
「愛しているわ、美夜」
その手は美夜の背中に回される事なく、ゆっくりと喉元へと迫り来る。
美夜は身動きもできずに畳にへたり込んだまま、呆然と見守っていた。
逃げなければ。
何よりも力強い本能の囁きさえ、どこか他人事の様。
迫り来る死を前にした人間に、恐怖は等しく襲いかかる筈であった。
しかし、美夜の中には一欠片の怯えさえ無い。
その鼓動が今にも断たれようとしているのに、心臓は恋の始まりの様に快く高鳴っている。
美夜の頬に、小さく笑みが浮かぶ。
はっ、と高揚が吐息となって唇をもれ出る。
(夢みたいだわ)
絶頂に近しい歓喜が、美夜を支配する。
今まで、誰がここまでの物狂おしさで美夜を求めてくれただろうか。
蔵を埋め尽くす闇の中で美夜が日の光以上に欲しかったのは、愛だった。
ずうっと誰かに必要とされたくて、愛に飢えていた。
そして、初めて自分を愛してくれる怜子を、美夜もまた愛した。
他の誰に愛されずとも、怜子さえ愛してくれれば。
その愛が、どんなに歪んだものであっても構わない。
怜子は死を以てして、彼女の持ちうる全ての愛を美夜に捧げてくれようとしている。
美夜の望みはこの最期の瞬間、命と引き換えに叶えられようとしているのだ。
それが嬉しくなくて、何だろう。
まともではない、という自覚は頭の片隅にあった。
死を目の前にしても、ただただその甘美な恍惚に浸っているのだから。
けれども、まともに生きられないのが美夜の定めではないか。
夜の中に産声を上げて、その月の下でしか生きられない人生だ。
夜明けを待たずして散っていく月見草の様に、ここで果てていくのが美夜の為の運命なのだ。
自分という月だけを愛してくれる、怜子という太陽と共に。
最初から、最期は決まっていた。
断末魔の苦しみさえ、二人きりの夜に旅立てる喜びには遠く及ばないだろう。
美夜は全てを受け入れる様に、そっと目を閉じる。
怜子のひんやりした指先が、喉元に触れる。
けれども。
一秒、二秒経てど、その骨張った指が喉に食い込む事は無い。
美夜は思わず、目を開けた。
怜子はだらりと腕を下ろし、うずくまっていた。
その目を伝うは、滂沱の涙。
「できない……私には、できない。美夜だけは殺せない」
嗚呼、やはりこの方は。
どこまでいっても、その優しさを捨てきれない愛日なのだ。
頑是無い少女の様にかぶりを振る合間にも、涙の泉は涸れる事を知らない。
美夜は膝を進めて、怜子を抱き締める。
「わたしも、怜子さまを愛しております。誰よりもわたしを愛してくださる、愛日の様な怜子さまを」
幼子に語り掛ける様に、その耳に囁く。
「そんな怜子さまと御一緒に死ねるのならば、これ程までに幸福な夜もございませんでしょう。美夜も、怜子さまと死にとうございます」
何を言うのかと、怜子は目を丸くしている。
そんな彼女の頬を両手で挟み、美夜は尚も続ける。
「ですが、それは遠い未来の話。その前に、わたしは真昼の太陽の下を怜子さまと生きていきたいのです。降り注ぐ光がどれほど苛烈なものであろうとも、今まで生きてきた夜の中を出て、陽射しの降り注ぐ青空の下を歩いてみたいのです」
それはずっと、心に描いてきた願い。
怜子と死ぬ事と共に、この憧憬もまた美夜の望みであった。
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき あさぼらけかな
彼女と寄り添って過ごせる夜が明けてしまうのを、いつだって恐れていた。
だが、その夜の果て。
太陽の統べる白日を怜子と生きていく道だって、確かにある筈だ。
「二人で夜明けを見ましょう、怜子さま。誰の許しも要りません。わたし達ならば、きっとできます」
あやふやな願いは、言葉にする度に確かな未来へと変わっていく。
「美夜……」
怜子は咽ぶ様に呟き、体を起こす。
その目に渦巻く闇の中に、新たな光が一つ灯る。
ささやかにも清い輝きを放つ、夜明けの明星に似た光だった。
だが、その煌めきを宿す目は、ともすると不安げに伏せられてしまう。
「こんな私と生きる道を選んでくれるというの?美夜を自分だけのものにしたいという醜い欲望を内に秘めながら、あなたに接してきた私を」
「それは、怜子さまが心を持った人間であるという証ではありませんか。それに、どんな形であれ、怜子さまはわたしの事を守ろうとしてくださったのでしょう」
本当に怜子が美夜を我が物にしようとしたのならば、焔の様に、自由を奪って閉じ込める事だってできた筈である。
怜子はただ、美夜を失った悲しみを二度と繰り返すまいと、怯えていただけなのではないか。
少なくとも、美夜はそう信じる。
「ねえ、怜子さま」
美夜はお下げに結ばれた幅の広いリボンの片方をしゅるりと解いて、それで自身の目元を覆う。
「久し振りに、目隠し鬼をいたしましょう」
「目隠し鬼?」
いたずらっ子の様に笑う美夜に反し、怜子は間の抜けた調子でそう繰り返す他は無かった。
目隠し鬼―――それは、あの別荘で二人が特に気に入っていた遊びだった。
二人きりの鬼ごっこ。
耳ざとい怜子は、手を叩いてきゃっきゃと逃げる美夜をすぐに捕まえてしまったものである。
「ほら、見つけた!」
怜子に抱き上げられると、美夜は口惜しげに唇を尖らせる。
「次は、わたしに鬼をやらせて」
しかし、言われるがままに目隠しをしてやっても、美夜はそれをすぐに取ってしまった。
「まあ、それではずるじゃないの」
からかう様に怜子が言うと、美夜は答える。
目隠しをして、怜子の姿が見えなくなってしまうのが怖くてたまらないのだと。
怜子が、いつの間にかいなくなってしまいそうで。
すがる様に自分を見上げる美夜のいじらしい目に、怜子は胸を衝かれた。
「私は、あなたを置いて行ったりしなくてよ」
自分がいなければ何もできない美夜が、怜子には愛おしかった。
その数年後に伯爵家に連れてきてから、怜子自ら生活する術を手取り足取り美夜に教えていった。
何しろ、ろくに学校に通った事も無い子である。
歩き方や姿勢を始め、華族令嬢の小間使いに相応しい振る舞いを身につけさせるのに、怜子は相当苦心したものだ。
けれど、自分を救った怜子の恩に報いようと懸命に立ち働く美夜が、たまらなく健気であった。
赤ん坊を生み育てるのは、こんな感じだろうかと漠然と思った。
日輪であれど、女としての生殖機能も一応怜子には備わっている。
だが、それは形だけのものであり、実際に日輪の女が子を孕める確率は尋常種や月影に比べれば低い。
何より、社会は日輪の女に母としての役割を求めてはいない。
日輪として生まれ持った統率力で社会を動かしていき、家父長制の頂点に立つ夫であり、父である事。
極まれに日輪や尋常種の男と情を通じて子を身籠もった日輪の女がいたりすれば、世間のいい笑いものになる。
目を離せば、すぐに命を落としてしまうくらいに脆く、弱い赤ん坊。
美夜との日々は、そんな赤子を守り慈しむのに似ていた。
何かを愛し、守るという喜びを初めて怜子に与えてくれたのが美夜であった。
私がいなければ、何もできない子。
怜子は心の中で、そうほくそ笑んだ。
月は太陽の目を焼く様な輝きによって、初めて夜空に輝き出る。
太陽の光無しには、月はただ闇の底に沈むばかりである。
そんな美夜の太陽でいる事が、怜子のただ一つの喜びであったのに。
「嫌よ」
怜子は弾かれる様に立ち上がり、後ずさった。
「私には、あなたを抱擁する資格も、される資格も無いのに」
美夜は怜子の甲走った叫びに足を止めるでもなく、一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
目隠しをしたまま、よちよち歩きの子供が母親を探し回る様なおぼつかない足取りで。
転びはしないかしら。
怜子はそんな不安に駆られて、思わず足を止める。
あの別荘の居間に比べて、大槻家の離れの座敷は格段に狭い。
怜子が身をそらして、美夜の手を逃れようとするのが精一杯だ。
そんな中を盲いも同然に歩き回る美夜が、いつ躓くか分かったものではない。
案の定、文机の端に足先をぶつけた美夜の体が、ぐらりと傾く。
「危ない!」
怜子が手を差し出すより早く、美夜は体勢を持ち直して畳を踏みしめる。
思わず伸ばした腕を、慌てて引っ込めた。
この子は、何を考えているのだろう。
「あの頃と変わらず、お優しゅうございますね。怜子さまは」
両腕を空に差し伸べて探り当てながら、美夜が笑う。
靴下の裏を畳に擦りつけて足音を殺しても、怜子の上下する息づかいがその居場所を知らせてしまう。
「怜子さまがわたしを探してくださるのが、嬉しかった。この世でただ一人、わたしを見つけ出してくださる怜子さまがわたしにとっての救いでした。でも、いつもすぐに捕まってしまうのが悔しくて。だから、今度はわたしが怜子さまを捕まえようと思っても、駄目でした。目隠しの闇が、怜子さまのいないあの蔵の中を思わせるようで、恐ろしかった」
それほど怖がっていた闇の中に、どうして自分から身を置けるの。
怜子は声にならない問いを飲み込んで、拳を握り締める。
「これまで美夜を守ってくださった怜子さまのお気持ちを、どれほど有り難いと感じているか。でも、わたしはもうあの時の美夜ではありません。怜子さまという太陽に守られるばかりのか弱い月ではなく、どんな暗闇の中でも、怜子さまと共に輝ける様な月でありたいのです」
怜子はぴたりと足を止め、思わず美夜を見やる。
着物の裾を波打たせ、一歩一歩、確かな足取りでやってくる美夜。
その迷いの無い足運びに、目を奪われた。
あの子の目には、何が見えているのだろう。
もどかしい焦燥に、怜子は歯噛みする思いだった。
あの時の様に、私に縋って。頼りにして頂戴。
そう叫んで、喚き散らしたくなるのを必死に抑えつける。
あなたを照らす太陽になれないのなら、私はどうしたら良いの。
怜子自身が子供の様に、とめどない不安から逃げ出したかった。
そちらに気を取られるせいで足がもつれて、うまく歩けない。
気が付けば、二人の距離は動かしがたいほどに縮まっている。
後ろに下がろうとした怜子の背に、壁がぶつかる。
「あ……」
我に帰った怜子が身を翻そうとした時には既に遅く、美夜の手がワンピースの胸元を掴む。
か細い腕が、しっかりと怜子の背へと巻き付く。
「捕まえました、怜子さま」
目隠しを外した美夜の眼差しが、怜子の心を射る。
とくん、と胸が脈打った。
下から怜子を見上げているのは変わらない、あどけない瞳。
けれども、月明かりに照り映える毅然とした眼差しには、幼い頃の、怜子に守らなければと思わせるいじらしさは無かった。
揺らぎの無い目で、美夜はまっすぐに怜子を見ている。
「互いを照らせる太陽と月として、共に生きて参りましょう」
凜と放たれた言葉は、消えない光となって闇を祓う。
無力な子、だと思っていた。
自分の他には守ってやれる相手もいなくて、一人で立つ事もできない小さな月。
日輪である自分が、慈しまねばならない哀れな月。
けれど、違った。
誰よりも美夜をそんな風に見ていたのは、怜子ではないか。
いじらしい子、か弱い子だという美夜の姿も、全部、怜子の思い込みではないか。
消えそうに儚い光の淡月―――そんなものは全て、怜子の幻想だ。
その淡月は雲に隠されながら、誰よりも眩く輝く月であった。
彼女は自分の足で立って、こうして生きようとしている。
怜子は、初めてそれに気づかされた。
「―――馬鹿ねえ、私は」
自嘲の薄笑いが、唇をこぼれる。
怜子は、何と傲慢で愚かだったのだろう。
「美夜はこんなに大きくなっていたのに、それに気づきもしなかったのだから」
声を上げて笑いたいのに、代わりに溢れるのは涙ばかりで。
美夜の顔さえ、淡い雲を被せた様にぼやけて形にならない。
でも、しっかりと目を開いて見なければ。
ありのままの真実を、そして未来を。
美夜は体を伸ばして、怜子の唇に口づける。
その感触は柔くも、彼女の意志の様に確かだった。
「どんな太陽であろうとも、怜子さまだけがわたしの太陽です」
怜子は黙って、美夜の身を抱き締め返した。
母が子を抱く様にではなく、愛しい娘の体を離れないくらいに強く。
美夜の腕もまた、怜子の体に深く絡められている。
幾度も運命に引き裂かれ、離ればなれになった太陽と月は、星の導きよりも確かに互いを求め合う。
怜子の頬がこめかみに擦りつけられる感触に、美夜は心地よく目を細めた。
「可愛い美夜。私の美夜」
だが、いつまでもこうしてはいられない。
どんな夜であろうとも、必ず夜明けはやってくる。
最後に名残惜しく頬ずりをしてから、怜子の体が離れていく。
「伯爵家に帰ろうと思うの」
清小路伯爵家。
怜子の生まれ育った場所であり、彼女の両親である伯爵夫妻の待つ家。
あんな所には帰らない、卑劣な伯爵を父とは思わないと吐き捨てた怜子が、そこに戻ろうと言う。
「これまで私は、色々なものから逃げていたわ。自分の弱さから。家のしがらみから。歪な社会から。醜いものから目を逸らして、見て見ぬ振りをする事はできるけれど。私も美夜の様に前を向いて、陽射しの下を歩かなければ」
怜子の瞳の奥には、もうあの昏い闇は無い。
そこには遙かな青空が、限りなく広がっている。
一度は闇に消えかけた分、その陽光はどこまでも明るい。
「思い出したの。美夜と出逢ってから、自分がどう生きていきたいかという事を。華族として、日輪としての力で、月影が―――美夜が、苦しまない社会を作りたいって。德子姉様に頼み込んで尋常社の活動に参加したのも、元々はその思いがあったから。こんな事さえ、いつの間にか忘れていたなんて」
面目ない、と肩を落とす怜子の頬に、美夜は手を添えて微笑む。
「お供いたします。どんな空の下であっても」
「美夜も来てくれなければいけなくてよ。だって……」
頑固な口調で言い放ってから、怜子はうぶな少女の様に頬を染めてうつむく。
「父と母に、美夜との結婚の報告をするのだもの」
結婚。
その意味を理解した途端、耳朶までかっと熱くなる。
「え」
「美夜の他に、私と共に生きる月影がいると思って?」
それは、美夜とて同じである。
けれど、面はゆさのあまり、袖で顔を覆ってしまう。
「わたしが怜子さまのお嫁さん、だなんて」
「あの人達が何と言おうと、構わないわ。父には結婚の許しを得に行くのではなく、知らせをするだけだもの。それで華族の地位を失う事になっても、私の夢が消えるものですか」
「怜子さま……」
「どんな事になっても、もう決して美夜を手放しはしないわ。だから、私だけを信じて、一緒に来てくれる?」
怜子の切れ長の目に、迷いは無い。
その手を取って、美夜は答えた。
「はい」
ひんやりとした指に自身の指を絡ませ、さらに続ける。
「怜子さまの願う夜明けを、わたしも一緒に作っていきたいのです。一対の太陽と月として」
太陽と月の二人きりの妻問いを、夜空が見守っていた。




