愛日のメモワール
月の光は静かに冴えて、向き合う二人の表情を明かに映す。
部屋を浮き上がらせる月影の様に、手を伸ばせば触れられそうな沈黙が辺りを満たした。
「嘘です、そんなの」
ようやく口をきける様になった時、呆然とした呟きが美夜の口を転び出る。
「そんな事、ある筈が―――」
「どうして、そう思って?」
真清水の様に透き通った瞳を美夜に向けて、怜子は思慮深い口調で問う。
その双眸には歪んだ欲望も、鬱屈した怒りも無く、遍く降り注ぐ陽射しのような優しさだけがある。
こんなに暖かな目と、遠い昔にどこかで出逢った様な。
暗い闇の中に閉じ込められ、名さえ与えられていなかった自分の存在を認め、光を当ててくれた少女。
美夜が初めて触れた太陽。
セレナーデの君。
彼女こそが、美夜の人生の黎明を照らす日輪そのものであったのだ。
それを誰よりも知っている美夜は、なおも駄々っ子の様にかぶりを振った。
「有り得ません。だって、わたしが初めて怜子さまとお逢いしたのは、三年前ではありませんか」
その頃には、美夜は百幸美夜という名を、魂を持った一人の人間であった。
小柄な体を精一杯伸ばし、誇りを持ってこの名を初めて怜子に名乗った冬の夜を忘れるものか。
「いきなり信じろと言っても、詮無い事よね」
寂しげに笑い、怜子はすっくと立ち上がった。
彼女が向かった先は、押し入れの横に据えられたピアノ。
以前、この離れに暮らしていた若主人が愛用していたピアノは、美夜の六畳のそれよりもやや広い怜子の私室に置かれていたのである。
怜子は粉雪の様にひらりと身軽くその前に腰掛けると、やおら蓋を開ける。
思えば、怜子がピアノの前に座るのを目にするのはこれが初めてだ。
真白い手を鍵盤の上にかざすと、よくって、と問う様に傍らの美夜を見上げる。
これから、何が起こるのだろう。
美夜は瞬きするのさえ惜しく、じっと息を詰めて見守った。
すう、と覚悟する様に怜子が深く息を吸い、両手を下ろす。
人差し指が、月明かりをまばゆくはね返す鍵盤に触れる。
その音は、さえぎるものなど何も無い草原の中に立って見上げる、夜空の中の一つの星の様な心地がした。
怜子の双手は滑らかに、命あるものの様に鍵盤の上を舞い、床しい音色を奏でる。
音の一つ一つが数多の星となり、夜の中を駆け巡る。
嗚呼、このメロディーは。
ふるさとの野を吹き渡る夜風が、熱を孕んだ頬を撫でていくのが分かる。
月は煌々ときらめき、幾夜もの記憶を照らし出す。
それこそは―――あの幸福な夏の夜を閉じ込めたセレナーデの調べであったのだ。
忘れがたき旋律は、幾千の言葉よりもなお雄弁に目の前の女性が誰であるのかを美夜に教えてくれた。
怜子は楽譜も無しに、切々と語り掛ける如くセレナーデを奏でる。
彼女の内に秘めた想いを、過去を、一つ一つ解き放っていく様に。
素晴らしい大団円で幕を閉じる物語を読み終えたかの様な、形容しがたい胸のわななき―――それが、美夜の言葉をしばしとどめた。
「……貴女が」
雲間から顔を出した月影の如く、口からぽつりともれ出たその声音―――
むせぶ様に、夜に散って。
「貴女でいらしたのですか、怜子さま」
セレナーデの余韻消えやらぬ、夜の中。
怜子―――かつてのセレナーデの君と再び相対して、美夜は涙さしぐまれてならなかった。
「大きくなったわね、美夜」
彼女の奏でるセレナーデの如く、怜子は慈愛に満ちた柔らかな声音で美夜の名を口にする。
ああ、そうだ。
怜子が誰よりも優しく美夜の名を呼ぶのは、彼女がそれを付けてくれたから。
名無しの月影の子の夜が、幾百の幸せに満ちた美しいものになる様に―――そう祈ってくれた、ただ一人の方だから。
そう思えば目頭がさらに熱くなり、眼前の怜子の姿が滲んでいく。
朝霧が掛かる様に徐々にぼやける面影が、記憶の中の朧な少女のそれと重なる。
そうした瞬間が、これまで幾度あった事だろう―――だが、決して偶然では無かったのだ。
「やっと、お逢いできました。やっと」
迸る感情が熱い雫となって、頬を滑っていく。
「まあ、美夜は相変わらず泣き虫ね。私が名前を付けた時も、そうやって泣いていたじゃないの」
怜子と出逢った十の子供の頃に戻ってしまった様だが、致し方あるまい。
幾度も夢に見た面影の主が、生きて美夜の前にいるのだもの。
しゃくり上げる美夜の涙を手を伸ばして拭い、怜子は円かな笑みを浮かべる。
けれど、そうやって怜子にいたわられる資格が自分にあるのだろうか。
美夜は胸を刺す痛みに、唇を噛んで頭を下げる。
「何とお詫びをしたらよろしいのでしょう。わたしの父のせいで、怜子さまをあんな目に遭わせてしまって……」
娘が夜ごと怜子の待つ別荘に通っていると知った父は、美夜を連れ戻すべくそこに乗り込んできた。
美夜が自分の意思をあらわにし、帰る事を拒んだ事に業を煮やした父は、持っていた煙管で美夜を打とうとした。
美夜を庇おうとした怜子は、その煙を吸って喘息の発作を起こしてしまったのだ。
けれど、父は半死半生の怜子を見捨て、美夜を抱えて逃げた。
何もできなかった自分も、彼女を見殺しにしたも同然だ―――罪の意識は、それからも暗い影の様に絶えず美夜に付きまとった。
それをどう償えば良いのか、想像もつかない。
「私こそ、謝らなければならないわ。私が頼りなかったせいで、美夜をあんな男の元に返してしまって」
その表情には、悔恨の色が濃く表われている。
怜子は椅子に座ったまま、腕を伸ばして美夜を抱き寄せる。
「でも、どんなに隔てられていた時も、あなたの幸福を願わなかった日は無くてよ」
冬の太陽の様な慈しみに満ちた抱擁が心地よい。
ずっと怜子の腕の中にいて、この身を、命を委ねたくなってしまう。
「愛しているわ、美夜。今も、昔も、あなただけを」
美夜を深く抱き締めたまま、怜子は言う。
「わたしも―――」
ただ一人、貴女だけをお慕いしておりました。
長き夜に紡いだ慕情と共に、美夜が怜子の背に腕を回そうとした時。
「だから、ね」
怜子の涼しい目元の白露が、月明かりに砕けて美夜の頬に落ちる。
夜は出逢ったあの日の様に、どこまでもひそやかに二人を包む。
果つる事なき夜の中には、自分と怜子の他には何も無い。
「一緒に、死にましょう」
美夜の名を、愛していると囁くのと同じくらい、怜子の唇は死を優しく奏でる。
愛しい。いじらしい。
この腕の中で、為す術も無く固まっている少女が何よりも愛しい。
驚愕に目を見開きつつ、それでも自身の抱擁に身を任せる他は無い小さな月が何よりもいじらしい。
皮膚の薄い胸を通して伝わる、美夜の乱れた鼓動の一つ一つさえ惜しい。
美夜の命が尽きて、月の光が消えていくようにこの身が刻々とぬくもりを失っていこうとも。
怜子はいや増してそれを愛おしいと思い、手放さずにはいられないだろう。
そう思えば、怜子は美夜を抱く腕にさらに力を込めた。
私の美夜。
私が名付けた、私だけの美夜。
愛している、美夜だけを―――その想いは、偽りではない筈だ。
けれど、それは裏を返せば美夜だけしか愛せなかったという事に他ならない。
慈悲深く、万物に恵みの温かさを振りまく冬の太陽―――愛日に、美夜は自分を準えた。
愛日の様な怜子さま、だなんて。
自分は美夜という月以外の何をも愛する事のできなかった、異形の太陽であるものを。
怜子ほどその誕生を皆から望まれ、愛されてきた子供もいなかろう、と誰もが語った。
今から二十四年前、怜子は公卿の末である伯爵の父と、子爵家の令嬢であった母との間に生を享けた。
三人兄妹の中で、ただ一人日輪の娘として生まれた父。
その娘である怜子もまた、日輪として清小路の家を背負っていく運命を当然のものとして与えられていた。
父の母親である祖母は、生まれた日輪の孫娘に華子と名付けようと提案した。
華族の家の当主として、その誇りを常に持って生きていくように、と。
祖母の名付けの案を退け、怜悧の怜の字を取って怜子と名付けたのは父の尊子であった。
思えば、それは父が娘について何かを拘泥した数少ない出来事ではなかろうか。
祖母は、唯一の跡取りである孫の怜子を何かにつけて可愛がった。
清小路の一人息子として生まれ、婿を迎えて父を生んだ月影の祖母。
西の都に育ち、言葉や振る舞いの端々に公家の権高さを染みこませた祖母は、まるで清小路の家そのものだった。
冥治の初めに欧州への留学を果たした祖父の好みで建てられた、西洋屋敷に移り住もうとも、彼の中から貴族の性質が失われる事は無い。
おばあさまは、お節句に飾る雛人形のお内裏様みたい。
幼い怜子は、そんな印象を祖母に対して抱いた。
いついかなる時も冷徹な表情を崩さず、十年一日と変わらず蔵の中に納まっている雛人形。
そんな祖母も、幼い怜子を膝に抱き上げる時には決まって愛しげに目を細めるのだった。
「怜子さんは、この清小路の家にとって一番大切な子や」
王朝の息吹を感じさせるのびやかな暁の都の言葉で、祖母はよく呟いたものである。
父は帝國大学の学生であった二十一の若さで、当時華族學院の月影部を卒業したばかりだった十八の母を妻として迎えた。
けれど、その後数年に渡って、父と母の間に子が生まれる事は無かった。
「怜子さんが生まれてきてくれた時は、それはほっとしたもんや。初音さんも、ようやく清小路の嫁の務めを果たしてくれはったしなあ」
母の名を口にする時、祖母の端正な顔はわずかな歪みを見せた。
跡取りを成す事こそが月影の果たすべき唯一の務めであると、祖母は自身の人生を通して証立てていた。
それは祖母の母、そしてそのまた母に至るまで、月影の先祖によって連綿と受け継がれてきた掟なのだ。
その務めをすんなりと果たす事のできなかった嫁を、祖母が快く思わないのも当然の事だろう。
でも、それはおたあさまのせいなの?
そんな疑問が、ぼんやりと頭に浮かんだ。
だが、そんな事を祖母に問うべきではないと、幼いながらに怜子も理解していた。
代わりに、こう尋ねたのである。
「それなら、れいこはおとなになってなにをすればいいの?」
「怜子さんは、お父さんと同じ様に伯爵家の跡を継いで、日輪としてこの家を照らしてくれたらええんや」
祖母から聞かされたその言葉を、怜子は幼い無邪気さを以て受け止めた。
清小路の跡取りたる日輪である事こそ、自身に与えられた役割なのだと。
そうした種を怜子の中に埋めた祖母は、やがて肺病を患い床に就く様になった。
怜子にうつる事を危ぶんだ母の意見もあり、山奥の病院に送られた祖母は、そのままそこで亡くなったという。
祖母が身罷ろうと、怜子に向けられる愛は少しも変わる事がなかった。
母などは、祖母の前で遠慮していた手前、ことさらに怜子を可愛がる様になったほどだ。
使用人達も誰一人として、怜子に優しさを見せない者は無かった。
「お嬢様はお幸せです。ご立派なお父様をお持ちの上に、皆から愛されておりますもの」
当時、怜子の身の回りの世話をしていたメイドがそう評した。
誰もが普遍的に怜子へ向ける好意を愛と称するのならば、なるほど怜子は愛されていただろう。
皆がその誕生を待ち望んだ跡取り娘。
そんな自分の立場を疑問に思うことなく、怜子は育まれていった。
そうでなくても、幼い頃から利発で、勉強や稽古事もすべからく器用にこなしてみせる怜子が愛されない筈が無かった。
しかし、その幼少期が何不自由無く満たされたものであればあるほど、歪な何かが目に付いた。
真清水に落とされた、一点の墨の様に。
目に入れても痛くないほどに娘を愛おしむ母は、父に対してはどこまでも冷酷な態度で通した。
二人が睦まじく寄り添って和やかな会話をするところなど、怜子は一度も見たことがない。
まるで赤の他人、否それよりも根深いよそよそしさで母は父を拒絶した。
華族の身分を持つ父と母にとって、結婚とは家を途絶えさせない為の義務である。
そこに彼ら自身の意思は含まれていなくて当然だ。
互いの両親に膳立てされるまま、定めしそこに否やの言葉を挟む事は無かっただろう。
しかし、母の父に対する態度は単なる冷淡以上に、嫌悪さえ感じさせるものであった。
「おたあさまは、おもうさまがおいやなの?」
怜子がそう尋ねても、母は日本人離れした大きな目の中に寂しげな影を浮かべたきり、何をも語る事は無かった。
怜子を身ごもって以来、母が孤閨をかこっていることについて使用人達が噂話をしているのを聞いたことがある。
月影の常として、母は月に七日ほど月蝕の為に部屋に閉じこもっていたが、その時でさえ父が寝間を訪れるのを許そうとはしない。
怜子の下に弟や妹が生まれないのはそのせいだというのだ。
父もまた、そんな母を咎める事は無かった。
しかし、父は母に対してのみならず、怜子にも透明な壁を隔てて接している様な気がした。
おもうさま、と甘えてみせても、父は怜子の頭を撫でたり抱き上げたりするでもなかった。
娘を見下ろすその目には、戸惑いと哀れみがない混ぜになっていた。
あれは、自分と同じ様に、家を継ぐという重責を負わなければならない娘に対する憐憫であったのだろうか―――それを愛と呼ぶ事はできないだろう。
自分は父にとって、跡取りとして他に価値を持たない娘なのだろうか。
愛の無い夫婦から生まれた子供なれば。
そんな疑念が、怜子をいつしか父の元から遠ざけてしまった。
何事もそつなくこなして見せる怜子にも、玉に瑕と呼ぶべき部分があった。
生まれつき喘息の気があった怜子は、発作を起こして寝込む事もしばしばであった。
普段から皆に可愛がられていた怜子だが、床に臥せった時などは度が過ぎていると思われるくらい労られた。
けれども、母方の従姉である德子は普段と変わらず、あっけらかんとした態度で怜子に接するのである。
あれは怜子が九つで、德子が十三の頃だろう。
発作を起こした後、怜子がいつもの様に自分の部屋で安静にしていると、德子が見舞いにやって来たのである。
いかにも学校の帰りに寄ったという袴姿のままで、雨の多い春先の事だったゆえ、柔らかな栗色の巻き毛には雨の雫が光っていた。
「怜ちゃん。具合はどう?」
お加減はいかが?などと、婉曲な物言いはしない少女であった。
彼女の弟の豊明を含めた他の従兄弟達が怜子さんと折り目正しく呼ぶのに対し、德子だけは怜ちゃんと親しみを込めて怜子の名を呼んだ。
德子の父の篤子からはしょっちゅう蓮っ葉だと咎められる振る舞いを含めても、怜子はこの従姉が好きだった。
階段の手すりにまたがって滑り降りる、母に大目玉を食らった遊びを教えてくれたのも德子である。
「德子姉様。もう、大分良くなってよ」
怜子はベッドの上に起き上がって、膝の上に本を開いていた。
「算術の教科書じゃない。どうしてそんな物」
信じられないといった調子で、德子は華やかな二重まぶたの目を見開いた。
「だって、もう三日も学校をお休みしているのだもの。勉強だって遅れてしまうわ」
怜子が至って真面目に答えると、德子が大仰に肩をすくめた。
「呆れた。病気の時くらい、大手を振って寝ていれば良いのに」
「私はこの家の跡取りだもの。試験で優等の成績を取るくらい、できないと」
周りの大人達は怜子の優秀な成績を褒め称えたが、それは怜子にとって誇るべき事でもなく、当然の義務であった。
清小路の家を背負って立つべき自分が、只でさえ虚弱な有様なのに。
跡取りたり得る為にも、怜子は人一倍の努力を自分に課していた。
「お可哀想な怜子さん。代わってあげられるものなら、お母様が代わってさしあげたい」
母が発作の度に涙ながらに言うのを聞けば、怜子も気が咎められてならなかった。
その頃の怜子にとっては、伯爵家を継ぐ事こそ自分の果たさねばならない唯一の役目であった。
それが何の為、誰の為であるかなどとは考えもせずに。
德子の顔色が、さっと変わった。
そのすっきりとした瓜実顔から、お雛様の様だと評される事の多かった怜子に対し、德子は薔薇色の頬をした西洋人形の様なハイカラな顔立ちであった。
今、その華美な顔に何か固いものがよぎった。
窓の外を埋め尽くす灰色の雨空が、その表情をより暗く見せる。
德子はベッドの脇に腰を下ろすと、怜子の両手を取った。
「怜ちゃんは真面目な子だから、そういう風に考えてしまうのでしょう。跡取りたれ、日輪たれ、と。当然と言えば当然ね。華族學院でもどこでも、そんな風に教えるのだから」
「この前のお正月にお会いした時、篤子伯母様も仰ってよ。怜子はこの家の跡取りたるべき日輪なのだから、振る舞いには一点の欠けも無いようにって」
子爵家の当主であり、母の姉である日輪の伯母がそう言うのならば、間違いは無い気がした。
けれど、実の父親の名に德子は忌々しげに目を眇めた。
「あんなお父様の言う事、聞く必要無いわ」
「でも……」
「私、お父様大嫌いよ。日輪である自分こそ、一番正しいという顔をして威張り散らして」
大嫌い。
鋭い一太刀の様な德子の物言いに、怜子は思わず目を見開いた。
親を好いたり嫌ったりするなんて、考えた事も無かった。
德子の様に、自分の好き嫌いをはっきり口にする事が許されるなんて。
「お父様ばかりではないわ。他の日輪だってそう。自分達こそがこの社会を支配するべき存在だと言って、尋常種や月影をどれだけ虐げても構わないつもりなんだわ。私達は日輪として、華族として偶然この世に生まれ落ちただけなのに、どうしてそんな横暴がまかり通るものですか」
いつしか德子の顔は赤々とした陽射しを浴びた様に輝き、口ぶりは真摯な熱を帯びる。
それが作り話である事を忘れさせるくらい、見る者を引き込む戯曲の観客になった様な気がした。
德子は熱情に滾った瞳を怜子に向け、切々と語り掛ける。
「生まれた身分や性別で人生が決まってしまう社会なんておかしいと思わない、怜ちゃん」
わずか十三歳の少女のものでありながら、その言葉には怜子の胸を打つ何かがあった。
思えば、怜子と同じく華族の日輪として生まれながら、自分を取り巻く全てを否定し抗おうとする反逆者であった。
そんな彼女が長じて、華族の解体を訴える社会活動に身を投じたのも運命だったのだろう。
「ねえ、怜ちゃん、お願い。あなただけはお父様や他の日輪の様に、生まれ持った熱さで他を苦しめるのではなく、温かな陽射しの様な愛を注げる太陽であって。この家の跡継ぎである前に、一人の日輪として」
汝の隣人を愛せよ。
德子の言葉は、幾年を経ても怜子の中に残って―――愛とは何ぞと、絶えず怜子に疑問を投げ掛けた。
その温かさで誰かを愛せる日輪たれ。
德子の切望は、怜子にとって天啓の様であった。
清小路家の跡取りとして生きる他に、自分にも生きる道があったとは。
けれど、何を愛したら良いのか、どう愛すれば良いのか。
それが怜子には分からなかった。
まだ、本当の意味で世の中がどういうものかを知らない子供だったのだから。
怜子が初めてこの世の不条理を知ったのは、それから数ヶ月が経った夏の日であった。
燃えたぎる様な陽射しの照りつける日、怜子はよそ行きのセーラーを着せられて、父の尊子の外出のお供をした。
二人を乗せた自動車は、城の様に堂々たる佇まいの門を潜った―――そこの表札には厳めしい字体で『野々宮』と出ていた。
広々とした武家屋敷の片隅にある客間に通されると、螺鈿が施された座卓の前には烈しい目付きをした軍服姿の男が座っていた。
武人らしい筋骨隆々とした体躯の男は、豪壮な門や屋敷と同じく野々宮という家を体現している如く見えた。
娘の怜子です、と黒い薄絹のドレスに身を包んだ父は怜子をその男に紹介した。
「こちら、野々宮侯爵でいらっしゃる。ご挨拶おし」
父に言われるがまま頭を下げた怜子を、侯爵は軍人らしい髭を撫でつつぎょろりと眺めた。
「成る程。貴様によく似ておるな、清小路」
軽く呟いたつもりらしいが、怜子の体を震わす雷の様に大きな声だった。
父は普段の寡黙な口調を崩す事無く、侯爵は華族學院に通っていた頃の上級生だったのだと怜子に説明した。
「侯爵閣下と私とは、少々積もる話がある。閣下には丁度お前と同い年の姫御がおられるから、遊んでおいで」
父に促されるまま客間を出された怜子は、和風の御殿の中を彼方此方と当て処も無く歩き回った。
焔姫、という名の侯爵の姫君がどこにいるのか見当もつかない。
そこが帝都の一角である事を忘れさせるほどに、野々宮家の庭園は風光明媚な美しさに溢れたものだった。
盛夏の暑さもものともせず、怜子は誘われる様にその奥へ奥へと入り込んでいった。
「まあ、夾竹桃」
抜ける様な夏空にくっきりと映える鮮やかな紅色の花を誇る、見事な夾竹桃の茂みに怜子は足を止めた。
すると、時が止まった様な庭園の静謐さを打ち破る、少女の甲走った声が茂みの奥から聞こえた。
「尋常種の貴様が、日輪の私を笑う事が許されるとでも思ったのか」
それから間髪入れずに響く、肉のぶつかり合う鈍い音。
思わずそちらを覗いた怜子の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。
そこにいたのは怜子と同じ年頃の、二人の少女であった。
長い黒髪を緋色の鹿の子で束ねた少女が、もう一人の少女の足を幾度も踏みつけにしている。
髪を二つに分けて結んだ痩せっぽちの少女は痛みに声を上げるでもなく、じっとされるがままだ。
そして、癇癪に任せてその子を虐げている少女―――質の良い着物や緋色の袴から見ても、彼女が野々宮侯爵の息女、焔姫である事は疑うべくも無かった。
怜子は考えるより早く、二人の前に躍り出ていた。
「何をしているの!」
焔は足をぴたりと止め、袂を軽やかに揺らしてこちらを振り返る。
炎天の下、怜子と彼女の眼差しがかち合った。
見ず知らずの部外者に対する怒りが、父である侯爵譲りの大きな目の中に漲っていた。
怜子はその憎しみに満ちた眼差しを真正面から受け止めつつ、声高に叫んだ。
「その子に意地悪するの、お止めなさいよ」
怜子の非難が、焔の中の敵意に火を付けたらしい。
汗ばんだ顔をさらに紅潮させ、凄まじい目つきで怜子を睨み据えた。
「私に命令するな!一体全体、急にしゃしゃり出てきて何だ、貴様は」
「貴様だなんて呼ばないで頂戴。私には、清小路怜子という名前がきちんとあってよ」
その名こそ、怜子を怜子たらしめるもの。
怜子の果たすべき義務であり、怜子そのものであった。
一瞬ぽかんとしてから、焔は蔑んだ笑いを浮かべて怜子に相対した。
「清小路?今日、父上の客としてやって来た伯爵の、日輪の娘だろう。我が侯爵家より爵位の低い家の娘が偉そうに。使用人の尋常種の子供をどう扱おうが、私の勝手ではないか」
怜子の中で、何かがすっと冷えていく音がした。
この娘は。
怜子と同い年のこの姫君は、日輪である事を何よりの大義名分として、それを振りかざしているのだ。
焔の目に、果たして尋常種の少女は人として映っているのか。
怒りと呼ぶにはあまりに冷え切って、悲しみと呼ぶにはあまりに感傷を欠いた気持ちが怜子を満たす。
驕り高ぶった目の前の小さな太陽を、怜子は白けた思いで見返した。
痴れ者め。
「その子だって、私達と同じ女の子だわ。どんな理由があって虐められて?日輪という性別を持っているのも、華族の家に生まれたのも、私達の力で成し遂げた事では無いじゃない。そんな事で威張るの、可怪しいわ」
焔は呆気に取られた様に口をぽかんと開け、立ち尽くしていた。
定めし、侯爵邸では彼女が虐めていた尋常種の少女も含めて、焔に物申す様な人間などいないのだろう。
ならば、それを正さなければならない。
怜子が正せないものなど、存在してはならないのだ。
日輪として、そして清小路怜子として。
勝ち気な性質をよく表わした焔の顔が、たちまち色を成す。
その唇をわなわなと震わせたかと思うと、旋風の様に素早く身を翻した。
「……知らん!」
怜子は目を細めて、立ち去る焔の後ろ姿を静かに眺めていた。
救いがたい少女である。
それに対する一片の同情さえ、怜子の中からは生まれなかった。
「あなた、お怪我はされていない?」
怜子は彼女の後ろで身を縮める様に立っていた、尋常種の少女を振り返った。
少女は何と答えれば良いのか分からぬと言った様子で、ちんまりとした三白眼の上目遣いで怜子を見やった。
怜子はそんな彼女に優しく微笑み、肩に手を添えた。
素足の下駄履きの少女の足元に目をやると、その爪先は青黒く腫れ上がり、内出血を起こしていた。
「あら、いけないわ。痣になっているじゃないの」
「いいんです、これくらい」
これくらい、どうという事はありません。
いつもの、事ですから。
卑屈にうつむくその姿が、語らずしてそう告げていた。
かわいそうに。
使用人の子供だというこの子は、きっとこれまで幾度となくあの侯爵令嬢に虐められてきたのだろう。
憐れみが、じんわりと怜子の中に染み通っていった。
今、この子に何かしてあげられるのは自分だけだ。
そう思えば、怜子はいても立ってもいられなかった。
「駄目よ、冷やさないと。どこかにお水を汲める場所は無いの?」
少女は竹藪の奥を指さした。
怜子は時折彼女の方を振り返って微笑みつつ、片足跳びで歩く少女の手を取ってそちらに連れて行き、井戸の脇にある庭石の上に座らせた。
古い井戸から水を汲み、それにハンカチを浸して腫れた足を包んでやると、少女は恐れ多いとばかりに頭を下げる。
「ごめんなさい、妾なんかの為に」
尋常種の少女に対する憐れみは一層甘く、怜子を酔わせた。
「気にする事無くてよ。私がしたくてしているのですもの。それに、自分を卑下したりしないのよ。あなただって尋常種だろうと、一人の人間なのだもの。忘れてはいけなくてよ」
怜子の晴れやかな笑みを、真夏の明々とした陽射しはくっきりと照らしてくれただろう。
これこそ、自分が日輪として為すべき事なのだ。
誰をして、怜子の行いが間違っていると言わしめられよう。
しかし、何かが足りない。
これが、怜子の求めていた愛するという事なのだろうか。
「怜子。いるか?」
人知れず確信に打ち震える怜子を、そう呼ぶ女の声があった。
父の尊子である。
いつまで経っても戻らぬ娘を、彼女自ら探しにやってきたのだろう。
「おもうさま!」
白日の夢に魅せられた様な瞳を自身に向ける尋常種の少女に背を向けて、怜子は父の待つ方へと駆け出した。
あの少女は、その後どうなったのだろう。
折に触れて、怜子はそんな回想を巡らせた。
怜子は彼女の名前も知らずじまいだった。
尋常種としての運命を受け入れる如く、ただひたすらに黙してうつむいていたあの面影は、今もあの薄暗い野々宮侯爵邸のどこかにいるのだろうか。
帰路に就く自動車の中で、父が尋ねた。
「焔姫と遊んでいたのか」
日よけの下、その顔は陶器の様に滑らかである。
貴族院議員として写真が新聞に載る時の固く生真面目な表情に比べれば、幾分か穏やかな面差しであった。
けれども、怜子は父と差し向かう時の常として、自動車のシートに揺られる体をこわばらせずにはいられなかった。
父の前では、一層跡取りとして身を慎まないといけない気がした。
娘として愛されぬのならば、せめて彼女の後継者としてあらねばと思ったのだ。
この時も、怜子は従順な跡取りらしく黙って頷けば良かっただろう。
だが、怜子はそうしなかった。
「いいえ。焔姫が使用人の子を虐めていたから、止めさせましたの」
怜子は筋道立てて、先ほどの出来事を父に語った。
最後まで聞き届けた父は、深い溜息をつく。
「父が父なら、子も子か。父娘揃っての気性の激しさは」
その一言で、侯爵の人となりは怜子にも十分伝わったというものである。
丁寧に紡がれた絹糸の様な黒髪を夏風にそよがせ、父が怜子の方へと向き直る。
あの頃、三十路の半ばであった父は、女盛りの名残を十分に留めていた。
「自分も巻き込まれるかもしれない、とは考えなかったのか。怜子」
その口調は怜子の身を案じるでもなく、かといって差し出がましい事をしたと咎める風もなかった。
怜子はかぶりを振ってお河童を揺すり、父を見上げる。
「だっておもうさま、どんな理由があっても、人が人を傷つける免罪符にはならないでしょう。どうして日輪だから、尋常種を虐げても良いと言えるの?」
怜子は躊躇いに声をひそめるでもなく、朗々と述べ立てた。
自分の言っている事が間違っているなどとは、夢にも思わなかったのである。
虚を突かれた如く、父は涼しい切れ長の目を見開いた。
けれど、次の瞬間には形の良い眉を顰めて、顔を歪める。
「……その考えは、決して他所で口にしてはならないぞ」
父に叱られる事なぞ、滅多にありはしなかった。
物わかりの良い娘として、我が儘を言って両親を困らせもしない怜子なのだから。
今まで聞いた事も無い父の低い声音に驚きつつ、怜子はなおも食い下がった。
「でも、おもうさま」
「ならぬと言っておるのが分からぬか!」
それは最早、怒声に近かった。
常に冷静さを崩さず、貴族院では「氷の清小路」とまで呼ばれていた父が、その様に感情をあらわにして声を張り上げるなんて。
恐ろしさより、驚愕の方が勝った。
父はほこりっぽい道の脇を行き交う人々の方へ目を向けたきり、怜子を顧みる事もない。
「お前は、私と同じ日輪なのだ。それを肝に銘じておくが良い。日輪のお前がその様な事を同胞の前で声高に話せば、どうなるか」
怜子は何をも口にする気になれず、ただ俯いていた。
父が、何かを呟いた気がした。
エンジンのけたたましい音のせいで、明瞭に聞き取れなかったものの―――怜子には、こう聞こえた。
「お前の為だ」と。
怜子の持つ考えは、日輪達の支配する社会において異端そのものである。
父はまだ道理の分からない娘に、その不文律をひしひしと説いたのだ。
生まれながらに他者を統べる性である日輪。
怜子は彼らにとって、調和の取れた世界を掻き暗す黒い太陽なのだ。
そんな存在は、消してしまわねばならないだろう。
我が子が支配者達の共同体から爪弾きにされる事を、父は危ぶんだのだろうか。
違う。
あの女は、怜子を愛さなかったではないか。
父にとっての怜子は、自身の跡目を継がせるだけの駒に過ぎないのだ。
結局、血を分けた子供が異端者として槍玉に挙げられて、自分に累が及ばない様にする保身の為だ。
貴族院議員としてこの国の政の中枢にいる父ならば、真っ先にそれを案ずるだろう。
悲しみより、嘲りと呼ぶべき気持ちの方が強かった。
所詮は父も他の日輪達と同じだ。
彼女の目には、怜子は災厄を呼び覚ます凶星としか映らない。
何とでも言うが良い。
おかしいのは怜子でなく、この社会の方だ。
誰に何と言われようと、自分自身を曲げる事だけはしない。
胸の中にひそやかに意志の熱を燃やす日輪として、生きていくのだ。
そんな決意を固めた矢先、信じがたい出来事が怜子に起こった。
怜子が同族して誰よりも唾棄すべき日輪の侯爵令嬢、野々宮焔に友人にならないかと持ちかけられたのだ。
きっかけは、一箱のチョコレートであった。
華族學院の初等科に通う頃から、怜子は何かと先生に気に入られて手伝いを任される事が多かった。
跡取りとして己を律してきた姿が、彼らの目には良い子の優等生に見えたのだろう。
その日も怜子はいつもの様に、授業で使った地図を地理の先生に頼まれて運んだのだった。
「ご苦労だったね、清小路君」
薄暗い準備室を出ようとした怜子に、若い男の日輪の先生は小さな箱を握らせた。
「先生、これは何でございますか」
「舶来のチョコレートさ。百貨店で買ってきた品で、ほっぺたが落ちそうに美味しいんだよ。清小路君はいつも、先生の手伝いをしてくれるからね。他の子達には内緒にしておきたまえよ」
チョコレートくらい、西洋風を好む伯爵家ではいつでも食べられる。
そんな高が知れた品をわざわざ怜子に渡すなんて、何の為なのだろう。
おまけに、学校に持ってくるのが禁じられているお菓子なんて。
訝しみつつ、怜子はそれを顔に出すまいとした。
九つの子供であっても、怜子には意図せずそうした事をやってのける、立ち回りに長けたところがあった。
先生は怜子に耳打ちする様に、そっと身を屈めた。
彼と女生徒の二人きりいない密室でそんな事をしても、無意味であるのは分かり切っているのに。
「清小路君の御父上は、貴族院の××議員と親しくしておられたね。先生の日輪の姉さんが、××議員の秘書をしているんだ。同じ貴族員議員である君の御父上にもお引き立て頂けるよう、それとなく伝えてくれるかい」
むしろ、それが彼の本当の目的であるのは明白だった。
なんて、浅ましいのかしら。
大人達の欺瞞と追従で構成された社会の一端を垣間見た気がして、忌々しい。
手にしたチョコレートの箱が、急に汚らわしい物の様に思えた。
けれど、怜子は素直な子供らしく笑ってみせる。
「分かりました。父には、先生やお姉様の事もきちんと伝えさせていただきます」
父と野々宮侯爵邸から帰ったあの日以来、怜子は自分を偽る事を覚えたのだった。
異形の太陽は、その真の姿を雲の中に隠しておかなければならない。
政治家や役人達が秘密裏にやり取りする賄賂を、「袖の下」と呼ぶ事がある。
文字通り、先ほどのチョコレートの箱を着物の袂の中に仕舞ったものの、さてどうしたものかと怜子は思案に暮れた。
一先ず教室に戻らなければと、怜子が下りの階段の手前を通りかかった時だった。
踊り場を上がった段の中ほどに、緋色の袴姿の女生徒がこちらに背を向けて腰を下ろしていた。
夏休みが明けて間もない頃で、まだ暑さが大分残っていたにもかかわらず、その体は凍える様に震えていた。
ただ事ではないと、怜子は長い黒髪を紅のリボンで一つに束ねた後ろ姿に呼び掛けた。
「まあ―――あなた、どうかなさって?」
怜子の声に反応して、その子はすぐさま顔を上げた。
よく日に焼けて、負けん気の強そうな面差し。
少女のそれにしては印象が強すぎるほど、きりりとした眉。
炎の様に烈しい感情をありありと映す、大きい目。
今、その目はゆくりなき驚きを浮かべて、怜子を見上げていた。
野々宮侯爵の姫君、焔だ。
突然の事に、怜子も揺れ動く感情を隠せなかった。
「あなた、野々宮侯爵家の……」
彼女のいる組は、前の時間は外で体操の授業をしていた筈だ。
授業の終わりを告げる鐘が鳴ってしばらく経っているのだから、彼女はとっくに教室に戻っても良い頃だ。
それが何故、階段の真ん中などで座り込んでいるのだろう。
ふと、怜子は彼女の青ざめた顔色や、ぱさぱさに乾いた唇に目を止めた。
以前、侯爵邸で対峙した時の血色の良く健康そうな彼女とは、まるで別人である。
彼女の体調が思わしくない事は、火を見るより明らかだった。
怜子は階段を下って焔の元へ行き、彼女の隣に座り込んだ。
ぎょっとして目を見開いたその顔に、手のひらで包み込む様に触れてみる。
「お顔色、悪くてよ」
触れた刹那は大理石の如く熱を失った頬が、たちまち真っ赤に火照る。
燃ゆる炎に手を触れている様に、熱かった。
「……余計なお世話だっ」
怜子の手を除けようと、焔が咄嗟に腕を振り上げる。
その瞬間、ぐうっと間延びした音が響く。
何の音であるか、怜子にはすぐさま分かった―――だが、その腹鳴が怜子のものでないのは確かだ。
学校に行く前に、バターを塗ったパンにベーコンエッグ、玉葱のスープという洋風の朝食を家できちんととってきたのだから。
となると、音の主は一人しかいない。
焔は死ぬる程の恥辱に耐えかねる如く、唇を噛みしめている。
彼女の不健康な顔色も、覇気の無い振る舞いも、度が過ぎた空腹によるものだと思えば合点がいく。
けれども。
衣食住、何不自由無い生活を送っているに違いない侯爵家の姫君が、よもやこれ程までに空腹に喘ぐ羽目に陥るとは。
どうして、朝ご飯を食べていないのかしら。
その訳は怜子に測りかねたが、目の前の少女が今にも倒れそうなくらい飢えているのは事実である。
苦しんでいるのだ、この子は。
怜子と同じく華族の家の跡取りに生まれ、いたぶりの限りを尽くしていた姫君が。
日輪である事を振りかざして、臣下の者を虐げる横暴を何より卑しいと軽蔑していたのに。
それにも関わらず、ただただ焔に対する純粋な憐れみが怜子の中に広がっていく。
「お腹、空いていらっしゃるのね」
痛い所を突かれた様に、焔がぐっと身を反らす。
その仕草さえ、哀れで健気であった。
抗いがたい憐情が、怜子を動かす。
人形の体に繋がれた、幾筋もの糸の様に。
怜子は着物の袖の中に手を差し入れて、チョコレートの箱を取り出し、蓋を取る。
「チョコレートと云って、西洋のお菓子よ。お友達と遊んでいる時に食べるようにって、お父様が持たせて下さったの」
小さな嘘を添えたそれを、焔に差し出す。
「お上がりなさいな。元気が出てよ」
醜いへつらいの象徴であったそのチョコレートは、怜子の言葉一つで恵み深い施しへと姿を変える。
嫌悪する事さえどうでもいい相手だが、彼女が困り果てているならば話は別だ。
焔の目は、箱の中に納められた西洋菓子に釘付けになっている。
彼女の瞳が葛藤に揺らぐのを、怜子は確かに見た。
虎は飢えても死したる肉を食わず、という訳か。
大名の末裔たる気位の高さは伊達ではないのだろう。
焔はなかなか怜子の差し出した菓子に手を付けようとはしなかった。
けれども、それも須臾の間である。
生々しい擦り傷の残る指先が、最初の一粒をつまむ。
それを皮切りに、焔は次々とチョコレートへ手を伸ばしていった。
よほどお腹が空いていたのだろう。
一口ごとに、焔の瞳には生き生きとした炎が灯る。
焔の手の動きは次第に遅く、ついには止まった。
戸惑った様な目を怜子に向けると、焔は首を横に振る。
箱の中には、チョコレートが一粒だけ残されていた。
せめて、最後の一つには手を出すまいというのだろう。
「全部、召し上がってよろしいのよ」
怜子は答えた。
あなたに優しくするのは、これが最初で最後なのだから。
役目が済んだ以上、怜子がここに長居をする理由も無い。
「では、ご機嫌よう」
焔を一人残して、怜子はもと来た階段を上っていった。
それからは、焔の事もすっかり頭から抜け落ちていた。
元々、好感を持っている相手以外には大した興味を持てない怜子である。
あの侯爵令嬢の振る舞いは見下げ果てたものだが、かといって彼女をわざわざ敵視する訳ではない。
そんな特別な感情さえ、抱くには足りない。
野々宮焔自身は、怜子に対してどの様な感情を抱いていたのだろう。
けれども、強いてそれを知ろうとは思わない。
今も昔も、怜子には彼岸の相手だ。
華族學院の初等部に通っていた頃から大学を卒業するまで、休み時間には一人で読書をするのが習慣だった。
そうすれば、気の合わない同級生達との会話に煩わされなくて済む。
ある日の昼食の後の休み時間も、怜子はいつもの様に懐に本を忍ばせて教室を出た。
夏の名残の陽射しが窓硝子越しに差し込む廊下を通り過ぎようとした時、怜子の後ろに子供の足音が迫った。
「待ってくれ、清小路!」
必死に自分を呼ぶその声に、怜子ははたと立ち止まる。
振り向けば、息せき切った様子でそこにいたのは、焔であった。
頬を赤らめて肩を上下させる彼女に、怜子は冷ややかな眼差しを向ける。
「野々宮家の姉姫様が、私に何の御用かしら」
自分と彼女を縛るものは、もう何も無い筈だ。
わざわざ親切に微笑んでやる義理もあるまい。
怜子のすげない態度に、焔はひるむ様に身をわずか引く。
けれど、覚悟を決めて息を吸い、怜子の方へと一歩を踏み出す。
「私と、友達になってくれないか」
ともだち。
思いがけない単語に、怜子は目を瞬かせる。
呆然としている怜子に向かって、焔はなおも声を振り絞る。
「いきなり変な事を言うと思うかもしれない。だが、どんな時も貴様の事が頭から離れないんだ。私が貴様にしてやれる事なら、何だってする。大事な手毬だって貸してやるから、だから」
焔の縋る様な目つきが、怜子の心を捉えた。
どこまでも真摯に、ただ一人怜子を求めている目。
そんな眼差しを向けられたのは、生まれて初めてであった。
誰かに愛されたがっている目だと、すぐに分かった。
「いきなり変な事を言うと思うかもしれない。だが、どんな時も貴様の事が頭から離れないんだ。私が貴様にしてやれる事なら、何だってする。大事な手毬だって貸してやるから、だから」
相手が日輪であろうと、尋常種であろうと、救いを必要とする者には迷わず慈愛の手を差し伸べてやればいい。
それが怜子の務めなのだから。
何より、怜子自身が何かを愛したかったのだから。
与えよ、さらば与えられん。
けれど。
「私は―――」
痺れを切らした焔が、むせぶ様に訴える。
「結構よ」
一欠片の憫笑さえ、怜子の内からは起こらない。
怜子を支配するのは、動かしがたい無為であった。
「他の子を苛めたりするひと、私は嫌いだわ。どんな理由があっても」
お前は愛するに値しない。
その生が尽きる日まで、誰からも愛されず孤独に死ねば良い。
焔の瞳の奥に燃えていた炎が、その命を失って消えていく。
怜子に拒絶された焔は、まるで生ける絶望そのものであった。
そんな彼女への憐れみさえ、怜子には遠かった。
今になって思えば、焔との出来事は序章に過ぎなかったのだ。
次第に、怜子は識り始めた。
自分を取り巻く世界を。
その醜さを。
この世はまやかしに満ちている事を。
怜子が生まれ落ちたのは、支配階級である日輪達を中心とした上流社会。
そのいつ果てるともない空虚さに、気も狂わんばかりであった。
愛するに足らない人間は、何も焔ばかりではない。
身の周りの何もかもが、怜子に愛する事を許さない。
見るに堪えぬ欺瞞に満ちた世界なぞ、滅んでしまえばいい。
そう願う怜子は、まさしくこの世界にとっての黒い太陽だったのだろう。
だが、怜子はその微笑みで周囲を欺いてみせた。
成長するに従い、ますます父と似てくる自分自身を誤魔化そうとした。
青みがかった黒髪を父の様に長く伸ばすことなく、子供の頃と変わらず軽やかに首筋で断って。
四季を通じて機能的な背広に身を包む父に対し、怜子は絶対にズボンは履かなかった。
極めつけが、いつでも唇に浮かべていた笑みである。
父が、怜子に向かって微笑みかけてくれた事なぞ無いのだから。
その物腰柔らかな振る舞いと共に、表向きの優しさを振りまく怜子を、誰もが慈悲深き淑女として見てくれた。
ただ一人、野々宮焔を除いては。
しかし、作り物の笑顔を浮かべる度に、自分という太陽が翳っていくのを感じた。
十六の年を迎えても、怜子の虚弱体質とそれに伴う喘息は相変わらずだった。
怜子が発作を起こすごとに呼び出される清小路家の主治医の古河が、ある時こんな提案をした。
「お嬢様は、しばらく空気の澄んだ田舎で静養なさるのがよろしいでしょう。帝都を離れれば、少しは症状も緩和されるやもしれません」
風光明媚な海辺や高原などに贅を凝らした別荘を持つ名家は多くあるが、清小路家にそこまでの余裕は無い。
そこで、知り合いのさる華族が山奥に建てたものの、あまり使われていない別荘を夏の間借りる事になった。
メイドの一人をお供にして、怜子は帝都から汽車を乗り継いで丸一日はかかる山間の村へと送られる事になった。
生まれ育った東暁とは別世界とさえ思える、時が止まった様な村里の田園風景。
けれども、怜子は何故だかその鄙びた空気の中に言い知れぬ息苦しさを感じて、好きになれなかった。
その外れにある、白樺の林の奥にぽつんと建てられた小さな洋館が、怜子の一夏の住まいであった。
そこでの日々は、何ら取るに足る事は無かった。
怜子よりやや年上の尋常種のメイドは、気立てが良く素直な人柄だったが、彼女の他に話し相手がいる訳でもない。
面倒な人付き合いをするくらいならば、その方がましなのだけれど。
持ってきた本も、やがては読み尽くされてしまった。
毎日毎日が、何の変化ももたらさず過ぎていく。
おまけに、喘息の治療の為に服用し始めた薬の副作用で、夜もなかなか寝付けず起きている始末。
誰もいない夜の中で、一人きり。
夜ごと空に輝ける星々だけが、怜子に寄り添ってくれた。
寂しいとは思わなかった。
大勢の人に囲まれていても、孤独を感じるのには慣れていたから。
ただ、退屈だった。
いよいよする事が無くなった怜子は、夜中に欠伸を噛み殺しながら紅茶を淹れてくれたメイドに訊いた。
「夜に、ピアノを弾いてはいけないかしら。あまり五月蠅いと、あなたにご迷惑かもしれないけれど」
洋館の居間には、一台の古いグランドピアノが据えられていた。
それを奏でるのが怜子にとって数少ない心やりだったのだが、夜更けにはその蓋を閉じていた。
メイドはふふと明るい声を立てて、溌剌と笑ってみせる。
「いいえ。夜中に御不浄に立った時にピアノの音が聞こえてくれば、私もかえって安心できます。お嬢様は御無事でいらっしゃるのだと」
こうして、怜子は堂々と夜にもピアノが弾ける様になった。
良家の日輪の少女には娘らしい稽古事は二の次で、それよりも勉学や人の上に立つ術を学ぶ方が大事だとされる。
けれど、母の初音は怜子が物心ついた頃から、折りに触れてピアノを教えてくれたのである。
普段は伯爵家の体面を重んじ、権高な伯爵夫人として使用人達にも容赦がなく、怜子を可愛がりつつも躾には厳しい母。
そんな母が、ピアノを奏でる時には春の陽だまりの中にいる様な笑みを浮かべる。
怜子が生まれるより古くから、伯爵家に仕える執事が教えてくれた。
「まだ奥方様がこの家にお輿入れなさって間もない頃にも、よくピアノを弾いておいででしたよ。そんな時には決まって、伯爵様がお側で奥方様を見守っておられました」
睦まじいお二人でいらっしゃいました。
執事はどこか切なげに語った。
いがみ合う両親にも、その様に相和して過ごしていた時期があったなんて、怜子にはとても想像ができなかった。
けれど、それは真なのだろう。
過ぎし日の幸福を味わうかの様に母が奏でる曲の数々は、その繊細でゆかしいメロディーと共に娘の怜子へと受け継がれた。
エリザベート・リヒター作曲の『小夜曲』も、その一つである。
無論、そのセレナーデの他にも怜子が腕に覚えのある楽曲はいくつもあった。
けれど、しめやかな夜の中、月明かりを浴びて仄白く光る鍵盤と向かい合えば、決まってその曲が慕わしかった。
その宵も、怜子は純白のネグリジェの寝間着に楽譜を抱えて、ピアノの前に座った。
月は夏の夜空に冴え渡り、庭に面して開かれた硝子戸からは、涼しくも包み込む様な風が吹き込む夜であった。
そんな夜の中に、セレナーデの調べはどこまでも伸びやかに響いていく。
ここには、真昼の世界を統べる仰々しい輝きの太陽は無い。
怜子の生み出す音の一つ一つが夜空の星となり、風となる。
まさに、夜に奏でられるべき曲―――夜を形作るセレナーデであった。
その夜の中にただ一人、怜子は自らの奏でる旋律に夢うつつとなった。
流れる様なアルペジオに、怜子の手は鍵盤の端から端を行き来する。
幻想に魅せられた人の様に、怜子は自らの作り出した深みのある旋律にうっとりと目を閉じて聞き入った。
だが、何かがごとりとぶつかる音が、不意に部屋の端でした。
その異質な物音が、怜子の手をぴたりと止めさせる。
今、この部屋にいるのは怜子一人だけの筈。
メイドは奥の部屋で寝ているのだから、一体誰だというのだろう。
怜子は素早く、物音が聞こえた窓辺へと目を走らせる。
夜風に翻るレースのカーテンの奥に、小さな人影があった。
子供―――それも、あどけない顔をした少女である。
女の子が、どうしてこんな真夜中に。
夏の夜の夢か―――それとも、人ならざる物の怪か。
そんな幻想に、怜子の心は奪われた。
降り注ぐ月明かりがこれ程までに映える色も無いと思われる、色素の薄い髪と肌。
公家の姫君らしく、抜ける様に色が白いと言われる事の多い怜子だが、その子供とは比べものにならない。
燦々と照りつける太陽の下に出せば、たちまちその身を焼き尽くされると思われるばかりに淡く、儚い。
長い前髪の下から覗く円い目も、おぼろな月明かりの結晶の様にあえかだ。
世界中のどこを探しても、これ程までに透き通った宝石もあるまい。
怜子の好奇心に満ちた眼差しと、子供のうろたえた眼差しがかち合う。
それも束の間、子供は怯えに目を曇らせるや、すぐさま脱兎の勢いで踵を返す。
「待って!」
怜子は声を振り絞る様に叫んだ。
理性がそうさせたというより、他の何かが。
怜子はネグリジェの裾が乱れるのも厭わず、立ち止まったその子の元に駆け寄った。
そして、そのあまりのか弱さに我が目を疑った。
身の丈、五尺五寸(165cm)の怜子の胸に届くか届かないかくらいの背丈で、一見した限りでは七つか八つくらいに見える。
これくらいの歳の子ならば子供らしくふっくらとしているのが普通なのに、手首やつんつるてんの着物の裾から覗く膝小僧もひどく痩せ細っている。
それが衣服かどうか疑わしいくらい、継ぎ接ぎだらけでぼろ布も同然の着物。
お下げに編まれた髪は艶も無く、栄養状態の悪さが浮き彫りになっていた。
唯一、そのか細い首に嵌められた月影の首輪が、他と違った点で怜子の目を引く。
だが、それ以外の何を取っても、伯爵令嬢として生まれて何不自由無い暮らしを送ってきた怜子が、初めて目にする貧しさの象徴であった。
「ごめんなさい、あの……」
震える小さな唇からもれ出る声は、今にも泣き出さんばかりに掠れ、消え入りそうだ。
怜子に慈悲を乞うその姿は、いたわしささえ感じさせる。
眼差しが、声が、全てが怜子の中に本能の如く強い憐れみを呼び覚ます。
どうしようもない痛ましさは怜子の身も心も、魂をも突き上げる。
初めての恋に翻弄される乙女の様に、怜子は凄まじい憐情に為す術も無かった。
気が付けば、怜子は目の前のいじらしい月影の子供に微笑んでいた。
「御機嫌よう―――いい夜ねえ」
単なる空世辞ではなく、感じたままに怜子はそう詠じた。
そんな怜子を祝福するかの様に、月は清らに澄んでいた。
怜子にとって人生最良の夜があるとすれば、まさに美夜と出逢ったこの夜だろう。
「さあ、お座りなさいな」
ただでさえ華族でない平民を忌避する母がこの場にいれば、貧相な身なりの子供を犬猫の様に追い払っていただろう。
だが、この場には怜子に指図する人間は誰もいない。
別荘の若き女主人として、怜子は座り心地の良いソファーをその子に勧めた。
ここに立ち入った事を、怜子に叱られるとでも思っていたのだろうか。
子供は困った様に視線をさまよわせていたが、今にも鼻緒の切れそうな草鞋を脱ぎ捨てると、ソファーの座面にちょこなんと正座した。
一応の行儀はある様でも、ちぐはぐな振る舞い。
「あらまあ。良いのよ、緊張しなくても」
脇の下に手を差し入れて抱き上げた体は、心細くなるくらいに軽い。
けれど、確かに生きている者の温かさがあった。
この子は、生きた人間なのだ。
身を固くする子供をソファーの上に座らせ直し、怜子もその隣に腰を下ろす。
「あなたはここの村の子でしょう。お年はいくつ?」
怜子が尋ねると、子供は小さい手を両方とも開いて示す。
十。
十歳にしては、その仕草はひどく幼い。
小柄な体格も相まって、ようやく小学校に上がるか上がらないかくらいの子供に見える。
先ほどから、怜子はとらえ所の無い違和感をこの子に抱き始めていた。
時折、日傘を差して散歩に出る時に見かける、晴れ渡った空の下で遊ぶ村の子供達とはどこか違う。
何かがずれているのだ、この子は。
その正体は何だろう。
自分の問題の解き方が間違っているのは分かっているのに、どこを間違えているのかが分からないのに似たもどかしさ。
けれども、それも怜子にとっては些末な問題だ。
「そう、十。可愛らしいのね。私は十六なの。年は少し離れているけれど、お友達になってくださらないかしら。この辺りには誰も見知った方がいなくて、毎日退屈なのだもの」
思えば、これまで友というものを持った事が無い怜子だった。
他の子供に誘われれば素直に遊ぶものの、自分の心を明かせる友というものは、怜子の世界には存在しなかった。
そんな友になれずとも、怜子はどんな形でもこの月影の子供をそのまま帰したくはなかった。
この子は、神が怜子の元に遣わしてくれたのではないだろうか。
その時、胸の奥を突き上げられる様な咳に、怜子は袖で口元を押さえる。
喉に走るひりついた痛みには、幼い頃から女学生の今となっても慣れる事ができない。
「大丈夫?」
取り乱さんばかりに狼狽える子供に、怜子は努めて微笑んでみせる。
「心配しなくても良くてよ……私、どうも気管支が弱くていけないの。この村の空気は喘息を和らげるのに適しているとお医者様が仰るから、夏の間、ここに療養に来ているの」
掠れる声で答える合間にも、怜子はこの子に対する愛しさが、刻一刻と募っていくのを感じた。
「ずうっと、このお家に一人きりなの?」
一人きり。
そんな孤独は、草深い山里にある別荘での夜に限った事ではない。
西洋の香り高き伯爵邸の宴でも、規律と秩序が保たれた学舎でも。
真昼の太陽の下でも。
私はいつでも、どこにいても一人だったわ。
その言葉を、ぐっと喉元で飲み込む。
「いいえ。女中さんが一人、付いてきてくれているの。今、奥の部屋で眠っていらしてね。本当なら私も寝ないといけないのだけれど、お薬のせいかしら、どうにも目が冴えてしまって。そのピアノを弾いていたのよ」
怜子が部屋の奥のグランドピアノを指さすと、子供が鈴を振る様な声を上げる。
「あっ、わたし、この音を聴いて来たの―――」
ぱたぱたと駆け寄ると、様々な角度から目を輝かせてピアノを眺める。
怜子の奏でるセレナーデが、星の導きの様にこの子を引き寄せたというのか。
心が熱くなる思いで、怜子は譜面台の上の楽譜を取り上げた。
幾度も手にしてきたそれは、しっとりと掌に馴染む様だ。
「エリザベート・リヒターの『セレナーデ』よ」
欧州の楽壇に聞こえたアルファの女流作曲家の曲を、怜子は自らの誇りの様に見せる。
子供は奇蹟を前にした様に、澄んだ目を大きく見開く。
「せれなあで―――」
高ぶる感情の全てが、その一言に込められていた。
無限の闇の中に取り残された人間が、あたかも一筋の光を見いだした様に。
怜子は胸を轟かせて、その子に語り掛ける。
「小夜曲とも云うの。大らかな夜を旋律の内に宿して、一節を奏でるだけで月光の恵み深さを、星影の眩さを讃美せずにはいられない音楽なのよ。いつかは明ける夜の哀惜がありながらも、幾つもの物語を秘めていて、それが浮かび上がる様な浪漫に満ちているの……ね、お気に召して?」
「わたし、このセレナーデとっても好き」
無邪気に言って、子供は厚い雲間に隠れていた月が顔を出す様に笑った。
初めて笑った。
愛しさに、怜子の心はおのずと和んでいく。
今まで、誰にも感じた事の無い温かさが怜子の中に芽生える。
この子の笑顔を、一番近くで見られたら。
怜子は満ち足りた幸福さで、微笑む。
「私も、この曲が一等好きよ」
唯一無二のあなたと出逢わせてくれたのだから。
その少女は、怜子の夜に与えられたもう一つの月であった。
それからの日々は、まるで夢の様だった。
その色を、香りを、誰も知らない花に似たそれは、けれども確かに美しく、匂いやかに咲いていた。
夜に埋もれて。
夜明けまでには戻らなければと言うその子に、怜子はまた明日の夜に来るようにと念を押して帰した。
次の日の夜、昨日の出来事は全て夢だったのではないかという不安に駆られた。
けれども、あの子は変わらぬ姿で夜の中から現れたのである。
それが、どんなに怜子を喜ばせただろう。
誰一人知る事の無い忍び逢いは、夜ごとに重ねられていった。
空虚な日々の中で、怜子はただただ夜を心待ちにするようになった。
都から持ってきた衣裳で装い、胸を高鳴らせて夜を迎えた。
ワンピースを着てみせた時など、洋服がよほど珍しいのか、わあっと驚くその子が微笑ましくてならなかった。
本当に可愛い子。
そんな性質の一つ一つを知っていくにつれて、怜子はなおさらその子が愛しかった。
怜子を利用しようとする蔑みや、すり寄ってくる媚びも無く、ただただ素直に怜子を慕ってくれた初めての相手。
清小路怜子という名を告げずとも、その子の前では一人の人間として在れた。
この子との夜では、伯爵家の跡取りでいなくてもいい。
肩書きなんてあらずとも、二人の仲には何の差し障りも無いのだから。
怜子にしても、何処の何という子か知れずとも、その子を愛しく思う気持ちには変わりなかった。
村人の大半を占める百姓の娘かと思ったものの、野良に出る身に付きものの日焼けとは無縁の肌の白さ。
手にも力仕事の証である肉刺や胼胝は無く、ひ弱な事この上ない。
働く必要の無い身分の子供にしては、身につけている物があまりに粗末だ。
けれども、強いてそれを探る事もなかった。
夜ごと別荘を訪れるその子は、怜子にとっての生きた秘め事であったのだ。
二人きりであっても、目隠し鬼を始めとして遊びには事欠かなかった。
彼らだけであればこそ、怜子達はいつまでも飽かずに笑い合っていた。
「また、あのセレナーデを弾いて」
そう頼まれて、怜子は数え切れないほど二人が出逢った夜を宿す小夜曲を奏でた。
敬虔な信者が讃美歌に耳を澄ませる様にうっとりと耳を傾け、ほうとため息をつくと、もう一回だけとねだる。
試しに後ろから手を取って弾き方を教えてみると、初めて鍵盤に触れるとは思えぬほど器用に覚える。
それでも、やはり怜子の奏でるセレナーデが一番のお気に入りらしい。
「どうして、このセレナーデをそんなにお気に召して?」
からかう様に怜子が言うと、その子ははにかんで俯く。
「だって、こんなに素敵なセレナーデを聞いたら、夜を統べる月読命も夜明けを来させようとはお思いにならないでしょう。そうすれば、わたし達お別れしなくても良いのだもの」
怜子は言葉にできない思いに泣きたくなり、その子を胸の中に抱き寄せた。
そのまま、いつまでも離さずいたかった。
「なんていじらしい子なのかしら、あなたは」
あまりに細く、あまりにか弱い体。
無力なこの子が夜明けを遠ざけようとする本当の理由を、怜子はまだ知らなかった。
怜子といる時の少女は汚れの無い月の様に、無邪気で素直な子供だった。
しかし、その月は時折不穏な翳をほの見せた。
「今度はお昼にいらっしゃいな。美味しいお菓子も用意して待っていてよ」
何度誘っても、子供は首を縦に振ろうとはしなかった。
そうしたいのは、やまやまなのだけれど。
もどかしく夜空を見上げる瞳が、物語っていた。
何故。
何故、真昼の太陽の下ではなく、宵闇の中でしか逢えないのか。
どこの家の何という娘か知れずとも、怜子はただそれだけが知りたかった。
怜子が問うと、子供はようやく観念した様に告げる。
「わたし、お日様の出ている間はお外に出たらいけないの。おとっつぁんがいるから……でも、夜になれば兄さんや姉さんが出してくれるの」
打ち明けるというには、あまりに漠とした物言い。
自らを八雲に閉ざそうとする月の様に、この子は何かを隠している。
けれど、その秘密がただならぬものである事は、直感が知らせていた。
煌々たる太陽が統べる昼の世界には、足を踏み入れられぬというその身。
そして、静寂の他には何もない夜にこの子を縛り付けているのは、この子の父であるという。
兄や姉が外に出してくれる、という言い方からして、それは彼女の意思を尊重したものではない。
「お父さんがいるから?……何故?」
声が低まるのが自分でも分かる。
正面から目を見据えて詰問すれば、その中の雲はますます濃くなっていく。
その奥には、怜子の伺い知れない悲しみがあった。
「だって、だって、いけないんだもの。おとっつぁんがお家にいる間は、どうしても……」
もう、怜子も無理にそれを吐かせる気にはなれなかった。
自分の不遇な身の上を、この子自身が一番嘆いているのだから。
頭に浮かんだのは、幽閉の二文字である。
何の罪も犯していない少女が、なにゆえ自由を取り上げられなければならぬのか。
怜子は初めて、夜ごと別荘を訪ねてくる子が囚われている境涯を知ろうとした。
いつもの様に、村へと続く白樺の小道までその子を見送った怜子は、こっそりとその後を着けようとした。
月はいつしか、山の彼方に姿を消していた。
眼前に広がる闇に怜子はたじろぎつつ、一歩を踏み出す。
日の出を前にした夏の夜の空気はすんと冷えて、朝露を帯びた青草のにおいが混じる。
その冷気は見えない針の様に、怜子の喉を刺した。
「―――っ」
口元を押さえて、地べたにうずくまる。
けほ、けほと必死に乾いた咳をしつつ、目には涙がにじむ。
末は伯爵よ、貴族院議員よと褒めそやされておきながら。
怜子自身は、全くと言って無力な存在だ。
怜子の非力さは、何もその病弱に限った事ではない。
それまで手紙の一通も出さなかった父から、出し抜けに便りがあった。
怜子の身を慮るでもなく、ごく簡潔に
「新学期が始まるまでには帰京せよ」と淡々としたペンの跡が記されていた。
自分では一端の大人のつもりで振る舞っていた怜子だが、それはとんだ思い違いであった。
所詮は、衣食住の全てを父に頼り切っている十六の子供に過ぎないのだから。
帝都の伯爵家に戻る事が、怜子にとって何であろう。
自分がいなくなってしまったら、あの子は。
けれども、父の命に背く事がどれほど罪深い事であるか。
結局、怜子には他に選べる道も無かったのである。
とある夜、いつもの通りセレナーデを弾いていた怜子は、自分が東暁の家に帰らなくてはならない事を心苦しく少女に告げた。
「東暁へ―――」
少女はつぶらな目の奥に涙を留めて、怜子を見上げる。
その生き死には怜子の手に掛かっていると言わんばかりの、いじらしさ。
怜子は椅子を下りて、その子の前にしゃがんだ。
ともすれば乱れそうになる群青の袴の裾を、手で押さえる。
「私、あなたの事は本当に大切なお友達だと思っていてよ。あなたもそうではなくて?互いに忘れず想い合っていれば、いつかきっと、また逢えるわ」
怜子は決めていた。
今は無理でも、いつか。
きっと、この子の救いとなれる日が来る筈だ。
その暁には、必ずこの別荘に戻ってこようと。
子供は聞き分けよくとはいかないが、それでもこくりと頷いてみせる。
「だからね、お名前を教えて欲しいの。決して、あなたの事を忘れないように」
別れの前に、どうしても確かめねばならなかった。
その真名を。
名前とは、その人間を形作り、この世に繋ぎ止めるものである。
陽の光無しに生きられぬ人間がいない様に、名前無くして生きられる人間がいるものか。
この時の怜子は、ごく当たり前に考えていたのである。
その子の胸の内など知らずに。
「ね、何と云うの、あなたのお名前は?お松ちゃん、お竹ちゃん、お梅ちゃん、お鶴ちゃん、お亀ちゃん?」
子供は魂を無くした様な顔で、うなだれて首を振る。
「後生よ、教えて頂戴」
「分からないの。誰も、わたしの名前を呼ばないのだもの」
嘘や偽りの無い言葉は、時として人を欺こうとするそれより惨い。
名乗らない、のではない。
名乗る名が無いのだ。
目の前に突きつけられた信じがたい事実に、怜子は我が耳を疑った。
けれども、それは神以て本当のこと。
「お父さんもお母さんも、あなたに名前を付けてはくれなかったの」
怒りに駆られて、怜子は着物の肩揚げの折り目も重たげな細い肩を掴む。
彼女に対してではない。
娘を娘として扱わない、外道も同然の相手に。
後から知った事だが、度重なるお産で体が弱っていた月影の母は、この子を産んで間もなく黄泉へと旅立っていた。
他でもない父親こそが、我が子から人として生きる道を奪ったのだ。
淑女として、決して声を荒らげた事の無い怜子であった。
そんな怜子が色をなしたのに、子供は開いた口が塞がらない様子。
怜子を宥める様に、慌てて言う。
「仕方無いの。だって、わたしが月影だから」
あまりに不釣り合いな諦観が、あどけない瞳の奥に横たわっている。
月影。
太陽の輝きによってしか、光を生み出せぬ存在。
ただ他によって生きる者達。
日輪の為に生き、死ぬ事を定められた性別。
それが一体、何の罪であろう。
今にも消えそうな朧月の様に弱々しい少女が、どんな業を背負っているというのだ。
運命ではないか。
女に生まれる事も、月影に生まれる事も。
どうして、苦しまねばならないのか。
苦しめられなければならないのか。
しかし、そう叫ぶべき当人が、誰よりも神妙に己の因果を受け入れている。
「仕方の無いものですか!」
怜子は咽ぶ様に叫んだ。
声を上げて誹り、詰ってやりたかった。
この子の父を。
従順過ぎるこの子を。
不条理に満ちた社会を。
明けない夜の様な時代を。
「仕方の無いものですか……」
けれども、何より腹立たしく、忌々しいのは。
守らねばならない存在が近くにいながら、その子を一時でも手放そうとしていた自分自身だ。
何て愚かだったのかしら、私は。
怜子は跪ずき、かじりつく様に小さな体を抱き寄せた。
「きっと幾夜もの、孤独な夜を過ごしてきたのでしょう。悲しい事も沢山あったでしょう」
少女は、何も言わない。
ただ、怜子の着物の袖をぎゅっと握る。
震える小さな手が、全てを物語っていた。
世界中の夜を合わせたよりも暗い闇の中を、ただ彷徨っている様な気がしていた。
自分の生きる意味を見つけられなくて。
何の為に日輪として、生まれてきたのかが分からなくて。
今、やっと分かった。
怜子が怜子として生を享けたのは、この腕の中に息づく月の為。
「だったら、私があなたに名前を付けるわ」
そして、これは怜子が最初に果たすべき責務。
「あなたのこれからの夜が、幾百の幸せに満ち溢れた美しいものであるように―――百幸美夜、と」
日輪として、この月を幸福にするのが怜子の生涯を捧げるべき使命なのだ。
尽きる事の無い怜子の愛によって。
「それが、わたしの名前なの?本当に、わたしにも名前ができたの?」
「ええ、そうよ。百幸というのが姓で、美夜というのがあなた自身を表す名前。……まあ、どうしたの」
高揚に爪立ったと思うや、少女―――美夜は、こぼれ落ちそうな目から涙をはらはらと落とす。
この世に生まれ落ちた赤ん坊が生きる為に産声を上げる様に、とめどなく泣きじゃくる。
何もかもさらけ出して慟哭する美夜に、怜子は戸惑いが隠せなかった。
「どこか痛んで?」
美夜がかぶりを振ると、泣き濡れた真白い頬に月明かりが映える。
涙に溺れそうになりながら、それでも自分の気持ちを絞り出す。
「わたし、嬉しいの。嬉しいの、すごく……」
例えようもない歓喜に、怜子は波打つ背中に回した腕をかたく閉じる。
万感の思いにわななく唇で、白玉の様な額に烙印を押す。
これであなたは、私のもの。
私が名付けた、私だけの美夜。
その命が終わる日まで、百幸美夜という名が彼女を怜子の手元に結びつけるよすがとなるのだ。
美夜の涙が止まるのを待ってから、怜子は彼女に自分の名前の書き方を教えた。
怜子がペンで書いた手本を隣に置き、椅子に座った後ろから美夜の手を握って動かしてやる。
初めて筆を取るという手つきは不慣れで辿々しかったが、書き終えた紙を満足げに見せてくれる。
「上手、上手」
怜子が微笑むと、美夜の顔はぱあっと晴れ上がる。
紙を持ってぴょんぴょんと飛び跳ねるのが、無邪気な子供らしい。
不意に足を止めると、小首を傾げて怜子を見上げる。
「わたしの名前は美夜になったけれど、おねえちゃんの名前は何と云うの?」
名前を明かしていなかったのは、怜子も同じであった。
だが、怜子には名乗るべき名がきちんとある。
「まあ、私ったらうっかりして……そうね、私の名前も教えなくてはならないわね。私の名は子で終わる、ごくありふれたものなの。父が付けてくれたそうなのだけれど―――」
怜子にとって、この名は生まれ持った重責を表わす象徴そのものであった。
それを思えば、名乗るのを躊躇する。
だが、美夜にとってはただ慕う相手の呼び名に他ならない。
怜子は覚悟を決めて、しゃがんで美夜を手招きする。
ぬくみを帯びた小さな手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「私の名はね……」
美夜はつぶらな瞳を一心に見張り、頷く。
「やっぱり、此処にいやがったか」
不吉そのものの、男の声。
なかば嘲笑を含んで背後から投げつけられたそれに、怜子は硝子戸の方を振り返る。
血に飢えた獣の様な獰猛さを全身から発する壮年の男が、そこにはいた。
やくざ者やごろつきの様な、見せかけだけの凶暴さではない。
生ける悪辣そのものであった。
着物をだらしなく着崩した男は片方の腕を懐に突っ込み、もう片方には煙管を携えていた。
汚れない月光に満ちた室内の空気が、禍々しく濁っていく。
「―――おとっつぁん」
魂消ゆるばかりにおののく少女の呟きが無ければ、この曲者が美夜の父親などとは信じがたい。
美夜とは似てもにつかぬその男は、しかし、怜子が抱える途方もない憎しみを向けるべき相手なのだ。
男が美夜に何かをするところを、怜子はこの目でしかと見た訳ではない。
けれども、がくがくと震えて怜子に縋ろうとする美夜が、苛烈な仕打ちの何よりの証だった。
「餓鬼の分際で、俺の目を掻い潜って抜け出すたあ良い度胸じゃねえか、なあ?今夜はたまたま博打で負けが嵩んで帰ってみれば、蔵の中に手前は居ないときてやがる。他の餓鬼共をとっちめてやったら、村外れにある東暁からの金持ちの別荘に行ってると言うじゃねえか」
蔵の中。
怜子の身は、幼い頃のぼやけた記憶の水底に引きずり込まれていく。
先祖代々の品を収める為に、清小路家にも二階建ての純和風の蔵があった。
庭で德子と隠れん坊をしていた怜子は、何の気なしにその中に身を潜めようとした。
そこにあったのは、気が遠くなるばかりの静寂。
そして、全てを飲み込む様にぽっかりと口を開けた暗がり。
澱の如く蔵に溜まっていた冷気が、怜子に襲いかかってくる様で。
身の毛もよだつ思いで、怜子は蔵から走り去ったのである。
怜子は我知らず、自分で自分の身を抱き締めていた。
自分で隠れるのも恐ろしいというのに。
美夜は、実の父親の手によってそこに押し込められていたのだ。
なんて、悍ましいのだろう。
込み上げる吐き気に、背を曲げようとして気が付いた。
ひたぶるに怜子だけを頼りにして、その袖にしがみ付いている美夜に。
「全く手子摺らせやがって。帰ったら存分に仕置きを加えて、二度とこんな真似が出来ねえようにしてやるからな」
娘の腕を掴もうとする男の手から美夜を遠ざけ、自分の体を盾に行く手を阻む。
背後に美夜を匿ったまま、男を睨みつける。
「あなたの様な方の元に、この子を帰す事は出来ません」
こんな酷悪な相手に、野蛮な指一本でも美夜を触れさせてなるものか。
稚い美夜を守れるのは、自分だけなのだ。
怜子のものであるこの子を、絶対に渡しはしない。
初めて怜子が目に入った如く、男は苛立たしく彼女を見下ろす。
「東暁から来ている御令嬢ってのは、あんたの事か。其奴は俺の子だ。自分の餓鬼をどうしようが、あんたには関係ねえだろう」
「何が父親ですか……!この子の自由を奪って、あまつさえ名も付けないなんて。父が実の娘にする仕打ちとは思えません」
伯爵令嬢という地位も、目の前の外れ者の前では何の意味も持つまい。
怜子が振りかざせるのは、ただ己の正義ばかりであった。
男は皮肉めいた笑いを浮かべたまま、にやりと尖った犬歯を覗かせる。
「嬢ちゃん、あんた―――日輪だろう。俺ぁ自分の同類は、においで分かるんだよ」
怜子は我知らず、自身の罪を言い当てられた様にはっとした。
どんな時も、感情を乱す事無く冷静であれ。
数少ない父の教えの一つも、今は全く用をなさない。
「その様子だと、図星らしいな」
怜子が滑稽でならないと言わんばかりに、男は馬鹿にした様に鼻で笑う。
口をつぐんだ怜子と、怯えて黙りこくったままの美夜。
それを良いことに、男の独壇場が続く。
「あんたも日輪ならば分かるだろう。月影の連中なんてのは、所詮は俺達の為に作られた存在だってのが。日輪がいなけりゃ、生きていく事さえ出来ねえんだ。月影の娘をどう扱おうと、それは日輪である俺の勝手じゃねえか」
まただ。
我が身を流れる日輪の血を厭うのは、これで何度目だろう。
生まれ持つ権力を振りかざし、使用人の娘を玩具にしていた侯爵令嬢。
怜子を生徒としてではなく、貴族員議員の娘としか見ていなかった教師。
自分達が作り出す社会の掟を守り、冷酷な支配者の一人として君臨していた父親。
彼らと同じ日輪の性別を持っている事を突きつけられる度に、怜子は自分の生を呪ってやりたかった。
どれほど拒もうとも、社会は、日輪は、この国が円滑に動く為の歯車としての役目を怜子に求める。
生まれてこなければ良かった。
自分が自分でいられない、こんな世界になんて。
全てを恨んで投げ出すのは、あまりに容易い。
けれど。
怜子は、もう一人ではなかった。
取るに足らない世界の中で、愛する月を見つけられたのだから。
怜子は日輪である。
この世でただ一つの美夜という月の為に生まれた、太陽である。
もう、迷いはしない。
怜子は決然と顔を上げ、男に向き直る。
「月影だって、独立した命を持つ対等な人間である筈です。例え親であろうと、その自由を涜して良い訳がありません」
例え大勢の同胞達の冷ややかな視線の中であろうとも、怜子は高らかに謳い切っただろう。
美夜の他には何を失っても、悔いなど無かった。
辺りには沈黙の幕が下り、再び夜の静寂がやって来る。
だが、その静けさすらはねのける様に、美夜の父親は全身から不穏な空気を発する。
気位の高い日輪にとって、他人から指図されるのは何より我慢ならない事なのだ。
「……ほう、小娘が一丁前に言うじゃねえか」
怜子に対する腹立ちも相当なものだろうが、男は目的を果たす様に、彼女の後ろにいた娘の腕をぐいと掴みにかかる。
「とにかく、此奴は俺の物だからな」
是が非でも娘を取り返そうと、乱暴な手段に打って出る。
掴まれた細腕は、今にもぽきりと音を立てて折れてしまいそうだ。
怜子の背に、冷たいものが走る。
「ほら、とっとと来ねえか!」
止めさせなければ―――しかし、怜子が動くよりも早く、月影の少女が声を張り上げる。
「嫌っ!わたし、絶対に帰らない!」
じたばたと地団駄を踏んで、必死に父の腕を振り払おうとする美夜。
怜子はその光景に釘付けになった。
彼女にとって、父親が鬼にも近しい恐ろしき存在であるかは怜子でさえ分かる。
そんな父とのしがらみを自らの手で断ち切ろうとする子に、怜子は言葉を奪われた。
「この餓鬼、親父に逆らおうってのか!」
男の腹立ちは、最高潮に達した。
月影の娘が日輪の父親に歯向かう事は、古い価値観の中では決して許されない行いである。
「此奴め!」
煙管を手にした男の手が、頭上に振り上げられる。
それを避ける事のできない美夜は、ぎゅっと目を閉じるばかりだ。
怜子は転がり出る様に走って、両手でその煙管を掴んで受け止めた。
銀色の吸い口が、鋭い抜き身の切っ先の様に突きつけられる。
怜子は止めていた息と共に、そこから立ち上る紫煙を深く吸い込んでしまった。
「っは……!」
途端に気管が狭まり、息ができなくなる。
全身に危険信号を送る様に、心臓が胸郭の中でどくどくと蠢く。
一斉に血の気が引いていき、指先から体温が失われていく。
怜子の持病には、煙草の煙は特に有害だと言われていた。
父の尊子を含め、伯爵邸では煙草を吸う者とて無かったのである。
そんな煙を思い切り吸い込んで―――頭で理解するより早く、体がその危うさを告げる。
怜子は胸を押さえて、ばたりと床の上に倒れ込んだ。
苦しい、苦しい。
それさえ言葉にならず、壊れた笛の様な音を立てて唇の端からこぼれ落ちていく。
床に爪を立てて薄れゆく意識を繋ぎ止めようとしても、つるつると板の面を滑っていくばかりで。
「おねえちゃん!」
美夜は慌てふためき、すぐさま怜子の元に駆け寄ろうとする。
しかし、それを封じる様に、父は彼女の腕を掴んだ。
「面倒な事になりやがった―――早くずらかるぞ」
まるで荷物か何かの様に娘を担ぎ上げ、怜子に背を向ける。
「おねえちゃん!おねえちゃん!」
あらん限りの力でもがきながら、必死に怜子を呼ぶ美夜。
待って、行かないで。
怜子はかろうじて残された力で、少女の方へと手を伸ばす。
見捨てられた挙げ句、このまま命を落とすよりも。
美夜を奪われる事の方が、怜子には耐えられない。
自分の命くらい、惜しみなく差し出してみせる。
だから、その子だけは。
美夜だけは、私から奪わないで。
その為ならば、怜子は千の言葉だって並べてみせただろう。
だが、ひくりと動く喉から出たのはただ一つ。
「美夜―――」
自分が彼女に与えたその名。
美夜が怜子一人のものであるという、終生変わらぬ証。
ぽつりと吐き出されたそれは、はっきりと耳についた。
きっと、あの子にも届いた筈。
それだけが、唯一の救いだった。
泣きながら自身を呼ぶあどけない面影を最後に、怜子の意識は遠のいていく。
音も、光も無い無限の夜の底に、怜子は沈んでいった。
次に怜子が目を覚ました時には、見知らぬベッドの中にいた。
つんと鼻をつく消毒薬のにおいや、着慣れない浴衣の肌触りに戸惑う怜子の顔を、目に涙を一杯に溜めたメイドが覗き込む。
「ああ、お嬢様!お目覚め遊ばしたのですね。良かった!」
怜子が寝かされていたのは、山の麓に立つ小さな医院の一室であった。
自身の仕える令嬢を抱き締めてわんわん泣きながら、メイドが事の次第を語ってくれた。
夜半、メイドは手洗いに立ったついでに、怜子がいるであろう居間の前を通りかかった。
普段その時間であれば、ドアの向こうからは奥ゆかしい小夜曲の旋律が流れてくる。
だが、問題の夜はピアノの音一つせず、はたと静かであった。
それを訝しく思った彼女が部屋に入ると、部屋の真ん中で倒れている怜子を見つけたという訳である。
病院で医師の手当を受けた怜子は、辛くも一命を取り留めたのである。
「良うございました、良うございました。こうしてお命が助かって。あと少し処置が遅れていたら危なかったと、お医者様が言っておられました。私がもっと早くお気づきしておりましたら……」
怜子の無事を確認しても、メイドはべそべそと泣き通しであった。
「綾のせいではないわ。私なら、この通り平気ですもの」
年上のメイドをなだめすかしつつ、怜子の心はともすると山の中の別荘へ向けられるのであった。
「ねえ、綾。あの別荘に戻ってはいけないかしら。忘れてきてしまったものがあって」
「なりません。お医者様は、絶対に安静になさる様に仰っていました。何かご入り用でしたら、私が取りに参りますから。よほど、お大切なお品なのですか?」
怜子にとっては、この命に代えがたいほど大切なものである。
けれど、それを取り戻す事は終ぞ叶わなかった。
帰京は予定されていた日よりも延期されたものの、怜子は日がな一日ベッドの上で、遠い山の彼方を眺めるばかりであった。
いつしか、あの夜な夜なの逢瀬は全て夢だったのではないか、と怜子も想い始めていた。
けれども、それもメイドの綾がまとめて持ってきてくれた荷物を見るまでの事である。
トランクの中に、一枚の紙が挟まれていた。
辿々しくも、精一杯綴られた文字。
百幸美夜。
怜子の与えたお手本を見ながら、他ならぬ美夜が自分の名を初めて書いた紙に相違無かった。
それを目にした途端、怜子は紙がくしゃくしゃになるのも構わず胸に抱いて、泣き崩れた。
美夜は、誰が何と言おうと夜の中に生きていた。
この世に百幸美夜という月影が在る事を知っているのは、怜子だけなのだ。
なのに、怜子はあの子を助けられなかった。
途方も無い蔵の闇の中に、引き戻してしまったのである。
幸せにすると誓ったのに。
あの子が生きる夜が、美しいものであれと願ったのに。
怜子が美夜に与えられたのは、百幸美夜という名一つではないか。
もっと、怜子が強ければ。
美夜をあんな目には、遭わせやしなかったのに。
悔やんでも悔やみきれない自責の念に、怜子はベッドで背を丸めたまま泣き伏した。
病室の中にはメイドや医師の姿も無く、黄昏の気配が迫っていた。
握り締めたシーツが、刻一刻と宵闇に染められていくのが分かる。
けれども、やがて訪れる夜の中に―――怜子が何より探し求めている月の姿は見つけられない。
ひと夏の出逢いと別れが、十六の怜子を変えてしまったのは確かだろう。
家や学校では従順な跡継ぎ、良い生徒である事は変わらず。
誰も、怜子が今までの怜子である事を疑いはしなかったに違いない。
帝都に戻ってから間もなく、怜子は密かに尋常社に出入りする様になった。
旧時代の階級の打破や、万民の平等を訴えるこの雑誌社の活動に共鳴していた德子が、よく話してくれたものである。
「性別や階級に関係なく、全ての人が自分で人生を選べる社会が来ない限り、この国に夜明けは来やしないわ」
尋常社の活動に興味があると打ち明けると、德子は喜び勇んで従妹を尋常社の社員や自分と同じ立場の学生達に紹介してくれた。
けれど、怜子は積極的に社会運動に身を投じたり、文学にのめり込む訳でもなかった。
古い因習に囚われている月影の解放を目指す、尋常社の活動を手助けする事で、自分の罪を贖える気がした。
國彦や德子の様に、純粋にこの国のより良い未来を願う日輪達を見る度、自分のエゴイズムに虫酸が走った。
それから、煙草と夜が怖くなった。
近くで煙草をふかす様な人間がいれば、鼻を覆ってその場を離れれば良い。
けれども、夜は。
変えられない星の巡りの様に訪れて、怜子を苦しめるものとなった。
明けない夜が無い如く、暮れない昼は無い。
淡いすみれ色のヴェールを夕空に被せる様な、春の夜。
草いきれのにおいも爽やかな、夏の夜。
枯れ葉が地面を這う音も物寂しい、秋の夜。
凍てつく寒さが身を震わす、冬の夜。
どの夜も、一つとして怜子に孤独を与えないものは無かった。
窓辺に立って黄昏迫る空を見上げる度に、胸が締め付けられた。
遠い北国の深山の奥、蔵の中の美夜の元にも、この寂寥の夜はやって来るのだろう。
今もあの子は一人きりで、宵闇と共に蔵の中に閉じ込められているのだ。
怜子のせいで。
後悔に苛まれながら夜を迎える事ほど、怜子にとって辛い事は無かった。
その内、夜ごとに巷を彷徨い歩く事が怜子の日課となった。
街の雑踏の中であれば、傍らに美夜のいない夜の寂しさも少しだけ薄れたから。
それでも消せない悲しみを、怜子は余す事無く勉学へとつぎ込んだ。
五年という歳月は明けやすい夏の夜の様に、瞬く間に過ぎていった。
怜子は華族學院の中等科から、この国の最高学府である帝國大学で学ぶ身に。
十六の少女から、二十一の女性へと成長した。
その頃にはもうひとかどの大人として、次期清小路家当主に相応しい振る舞いを周囲から求められる様になった。
無論、怜子もごく自然にそれに応えた。
けれど―――どんな時も怜子の心の夜に光るのは、あの消え入りそうに儚い淡月だけであった。
氷の様に澄んだ望月が、真白い月明かりを落とす冬の夜。
怜子は毛皮の縁飾りが施されたマントに身を包み、雑踏の中を歩いていた。
どこへ行く、という目的も無く。
ただ、少しでもこのうら寂しさが薄れるのを待って。
散々な結果に終わった山での療養生活にも、どうやら効き目はあったのだろう。
華族學院の高等科を卒業する頃には、幾分か体も丈夫になっていた。
肺の中に染み通ってくる様な冬の夜気にも、咳き込む事は無くなっていたのである。
路地裏に続く道の前を通りがかった時、黒革の手袋に包まれた怜子の手首を、ぐいと闇の中に引きずり込んだ腕があった。
その持ち主は、甘い香水のにおいをむせ返らんばかりに漂わせた女。
華やかな装飾を施した首輪が、怜子の目を引く。
「お姉さん、日輪様だろう。あたいと遊んでおいきよ。良い夜を味あわせてあげるからさあ」
生々しい血の如く赤い唇に笑みを浮かべ、月影の女は薄着の体を怜子にすり寄せようとする。
帝都の宵闇には、そうして春をひさぐ月影が数多く隠れ潜んでいる。
怜子自身、この類いの女達に声を掛けられた事も一度や二度ではない。
だからこそ、その時もごく冷静に女の体を引き剥がせた。
「間に合っているわ」
足早に路地裏を後にして、溜息がこぼれた。
大学の同級生には、道楽の一環として日ごと違う月影と夜を共にする日輪もいる。
けれども、怜子自身はどれだけ美しく眩い光を放つ月にも、心が動かされた憶えは一度として無い。
それは、母や父方の叔母に幾人と紹介された華族の令嬢でも同じ事。
怜子が健康になりつつある事を察した母は、娘が大学も出ないうちからその嫁を探す様になった。
「お父様が二十一の歳には、既にわたくしを妻に迎えておいででしたよ」
というのが母の口癖。
だからこそ怜子にも、なるべく早く清小路家と釣り合いの取れる家の月影と結ばれる事を望んでいる。
最も、それは怜子に限った事ではなく、良家に生まれた日輪の誰しもに課せられている責務だろう。
だが―――どれほど家柄が良く美しかろうとも、怜子は妻となるべき月影を愛せはしないだろう。
怜子が心奪われたのは、その名の他には何も持たない美夜だけなのだから。
そう思えば怜子は悩ましく、うつむき加減に足を速めていた。
足元ばかり見ていた怜子だが、どんと胸に何かがぶつかった衝撃で我に帰った。
「あっ!」
という、娘の悲鳴も一緒に。
顔を上げると、そこには子供と見まがうばかりに小さな少女が、尻餅をついていた。
この寒さの中に羽織の一枚も着ず、痩せ細った体に粗末な手織り縞の着物をまとっている。
「痛た……ご、ごめんなさい」
「いいえ、私こそ前をよく見ていなかったものだから。あなた、立ち上がれて?」
怜子がしゃがんで手を差し出すと、娘が顔を上げる。
「はい。何とか……」
夜空の月よりもなお透き通った目が、怜子を見る。
その目は怜子の瞳よりも先に、心へと突き刺さってくる。
怜子が、これまでずっと探し求めていた目。
静かな、でも確かな意志が薄雲の掛かった淡月の様に宿っている、色の薄い目。
そればかりではない。
純情可憐な顔も、ひそやかな息づかいも、耳に染み入るあどけない声も。
何もかもが、あの子に生き写しで。
でも、まさか。
怜子は思わず息を呑んだ。
夢ではないのか、幻ではないのか。
初めて別荘にやって来たその子と出逢った時も、同じ事を思った。
けれど、目の前の娘は戸惑いながらも怜子の手を取る。
「ありがとう、ございます」
手袋越しにも、しかと伝わる感触。
小さな手は冷え切ってはいたものの、確かな命を持って脈打っている。
その全てを感じたくて、怜子は自分の手を強く絡めようとした。
「待ちやがれ!」
中年の男の粗暴な怒鳴り声が、耳をつんざく。
何事かと怜子がそちらを見るより先に、娘は銃声を耳にした野兎の様に素早く振り返った。
娘は身も世も無く震え上がり、顔には深い怯えがにじみ出ている。
「どうしよう……」
追い詰められた娘の絶対絶命の呟きが、怜子を動かした。
為すべき事は、ただ一つ。
怜子はマントを翻すと、娘の頭から爪先まですっぽりと包み込み、周囲の目から隠した。
怜子に抱き寄せられた娘は、頬を紅潮させつつマントの内から怜子を見上げる。
「あ、あの……」
「静かに」
直後、どかどかと足音を立てて、やくざ者らしき二人の男が人混みの中から現れる。
「畜生!あの娘、どこ行きやがった?」
「確かにこっちに逃げるのが見えたぞ」
マントの中の娘はびくりと体を強ばらせたかと思うと、幼子の様に怜子にしがみついてくる。
華奢な体が泣いている様に震えるのが、触れあった肌から感じ取れる。
「大丈夫よ」
怜子はそっとマントの中に向かって囁き、背中を撫でた。
男達は互いに顔を見合わせながら、ぶつぶつと何か言い合っている。
その身なりから見ても、堅気の人間ではあるまい。
「どこに行ったもんか……あっ、お嬢さん、この辺りで月影の娘を見やせんでしたか。手織り縞の着物を着た、十四、五くらいの娘なんですがね」
達磨の様に太った赤ら顔の男が、傍にいた怜子にうやうやしく訊いてきた。
やはり、男達が探しているのはこのマントの中にいる娘で間違いは無い。
怜子はいかにも淑女らしい微笑を浮かべて、平然と答えた。
「さあ……存じ上げませんわ」
「仕方ねぇ、あっちを探すぞ!」
男達はまたどやどやと、雑踏の中へと消えていった。
「もう出てきても良くてよ」
そう声を掛けると、娘が弾かれる様にマントの中から飛び出してくる。
娘は目を潤ませて、腰を真っ二つに折らん勢いで怜子へと頭を下げる。
「あのっ、ありがとうございます!」
「お礼なんて要らないわ。でも、そうね。もしお嫌でなければ、あなたのお名前を教えてくださるかしら」
「名前……ですか?」
きょとんと目を丸くする娘に、怜子は微笑んで頷く。
それとは裏腹に、心臓はどくどくと熱っぽい鼓動を響かせている。
他人のそら似かもしれない。
そうだとすれば、怜子はどうすれば良いのだろう。
耳を塞いで、うずくまりたい。
その瞬間がやって来るのが恐ろしい。
娘は背筋を伸ばすと、あどけなくも張りのある声で
「百幸美夜と申します」
臆する事無く堂々と、名乗りを上げる。
「まあ……百幸、美夜?」
怜子は今にも気を失って、倒れそうになった。
それでは、この子は。
怜子の祈りが込められた名を、誇りを持って名乗ったこの子は。
胸の奥底にある太陽が、熱を持って燃えている。
怜子のただ一つの月は、こうして再び彼女の元に戻ってきたのである。
この時ばかり、神の存在を信じた事は無かった。
怜子は込み上げる思いのままに美夜を抱き締めて、涙が枯れるまで泣きたい衝動に駆られた。
私があなたを名付けた張本人なのだと、何もかも打ち明けたかった。
助けられなかった事を、全身全霊で詫びたかった。
けれど。
美夜のうなじに嵌められた首輪と同じくらいの固い枷が、怜子を引き留めた。
形ばかりの謝罪を口にしたところで、奪われていたこの子の自由が返ってくる訳でもない。
美夜の父の横暴を許してしまったのは、他ならぬ怜子の落ち度だ。
それを美夜が知ったら、どう思うのだろう。
考えただけで、怜子は足元が崩れ去っていく様な恐怖を感じた。
墓場はおろか、黄泉の国までこの秘密は持って行かねばなるまい。
怜子は必死で動揺を押し隠し、目の前の美夜に向き直った。
「そう、美夜というのね。あなたは月影でしょう。どこか行く宛はあって?」
助けられた喜びも束の間、美夜はしゅんと顔をしぼませてかぶりを振る。
この世で誰も頼る者とてない、天涯孤独の境遇。
いつか感じた懐かしい憐れみが、怜子をときめかせる。
「それなら」
怜子は腰を屈めて、美夜の目を覗き込む。
「一緒に来る?私の家へ」
今度こそ、自分はこの子にとっての太陽となろう。
美夜という月を守れなかった弱い日輪ではなく、清小路怜子として。
この子の夜が幾百の幸せに溢れた美しいものとなる様に、愛と慈悲を注ごう。
それが、怜子の日輪としての使命なのだから。
永遠に輝き続ける太陽の様に、揺るぐ事の無い決意が怜子の中で産声を上げた。




