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月の妖精

怜子と別れ別れになっていく日常を、美夜はどうする事もできなかった。

彼女と口を聞く事も、顔を合わせる事も無い。


あれ以来は怜子は部屋に閉じこもったまま、姿を見せない。

死の様な静けさが、襖越しに重苦しく伝わってくる。

神代の昔、太陽神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)天岩戸(あまのいわと)に身を隠すと、世界は闇に包まれたという。


怜子は、美夜にとってただ一つの太陽だった。

美夜も永劫明けぬ、光無き夜の中にいる様な暗愁(あんしゅう)(おぼ)えずにはいられなかった。


誰かと一つ屋根の下にいながら壁を隔てている寂しさは、これまで味わってきたどんな孤独にも(まさ)る。

体は誰よりも近く彼女の傍にいながら、心はどこまでも遠く離れている。


いつかの日に怜子と写した写真を眺める事が、再び美夜の日課となった。

もう、戻りはしないであろう初夏の日。

焔に囚われていた頃、美夜は夜ごと月明かりにその写真を照らし、遠く離れた怜子を想った。


思えば、何と滑稽(こっけい)な自分だろう。

誰はばかる事なく怜子と愛し合える様になりながら、幸福だった過去を懐かしむ事しかできないのだから。


そう思えば、美夜はその写真を胸に抱いて、涙さしぐまずにはいられなかった。




身重の誠太郎の負担を軽くしようと家の事をしている時は、やり場の無い憂鬱や寂寥(せきりょう)を少しだけ忘れられた。

だが、それも大槻夫妻の内密の会話を偶然聞いてしまうまでだった。


台所で夕食の後片付けを済ませて離れに戻ろうとした時、誠太郎に針箱を借りに行こうと思い立った。

晴彦が転んで半ズボンに穴を開けたから、(つくろ)う様に頼まれたのだ。


息子を寝かせた後、大槻夫妻は居間でゆったりと夫婦水入らずでお茶を飲むのがお決まりだった。

失礼いたします、と居間の外からひと声かけようとした時、誠太郎の低声が美夜の耳朶(じだ)を打った。


「……怜子さんに、田舎にある病院にでも行ってもらうのはどうだ」


美夜ははっと身を固くし、息を殺した。

そして、いけない事とは知りつつ、襖を少し開けて居間の中を覗いた。


「誠太郎、それは……」


ちゃぶ台越しに妻と向き合う國彦は、きりりと濃い眉を八の字にして言葉に詰まっている。


「僕は決して、怜子さんを厄介払いしようなどというつもりはない。そんな恥ずべき真似をするくらいなら、とっくの昔に身一つで放り出している。僕はただ、怜子さんに心身ともに健康を取り戻して欲しいだけだ。こみごみとした都会の人目を避ける様に、ずっとこの家に引きこもっていては気の休まる時が無い。どこか帝都から遠く離れた、誰も彼女を知らない場所で、美夜さんと二人でいさせてあげた方が良いに決まっている」


ろくろく箸を付けられないと知っていながら、それでも怜子の健康を案じて栄養のある食事を作り続ける誠太郎が、嘘をつく筈も無い。


「怜子君には元気になって欲しいよ、ぼくだって。だが、病院かどこかに入るには、先立つ物が必要だろう。怜子君からはまとまった額を受け取ったが、それもあと数か月で底をつく。それ以降は翻訳で食べていくと言っていたけれど、本人はあの状態だ」


もどかしく前髪をかき上げ、國彦がため息をつく。


「できる限りの事はしてあげたいが、ぼく達にも生活がある。この家を買うのに借りた金も返している最中だし、晴彦を大学まで行かせてやる学費も。何より、もうすぐ家族が増えるじゃないか」


夫の悩ましい表情に、誠太郎は静かに目を伏せた。


「仕立て物の内職をしようかと思うんだ。少しは何かの足しになるだろう」


「無理しないでくれ、誠太郎。君一人の体じゃないだろう。……ぼくも、今度から残業を増やすから」


気づかわしげに妻の腹を撫でさする國彦の姿に、美夜はたまらず(きびす)を返した。

恩人である大槻夫妻にとって、自分達の存在が重荷になってしまっている。

美夜にとって、それは耐えがたく心苦しい事だった。


どうにか彼らの負担を軽くするあては無いものか。


何より、美夜自身が以前の怜子に戻ってくれないかと一縷(いちる)の望みを手放せずにいる。

その為にはお金が必要だが、尋常小学校も出ていない自分に誰が仕事を与えてくれるというのだろう。

美夜が外に出て働く事を知った怜子がどうなるかなんて、考えたくも無い。


(……役立たずだわ、わたし)


八方塞がりの無力感に、美夜はなす術なく立ち尽くした。




「美夜さん。このお茶、客間まで持っていてくれないか」


ある晴れた昼下がり、誠太郎にそんな事を頼まれた。


言われるがままに二人分の茶碗を運んで向かうと、大輪のダリアの花が咲く様に、(ほが)らかな笑い声が廊下まで聞こえてくる。

一体、どんなお客様なのだろうか。


「失礼いたします。お茶をお持ちしました」


「ああ、すまないね」


國彦と座卓を挟んだ向かい側には、怜子と年の近そうな女性が座っている。

豊満な体を目にも鮮やかな色彩の最新流行の洋服に包んだ姿は、怜子に負けず劣らずのモダンガールである。

伯爵令嬢である怜子が貴婦人然とした高貴さをまとっていたのに対し、どちらかと言えば世話女房じみた下町風の親しみやすさを漂わせている。


お盆をささげて入ってきた美夜を見ると、女性は愛嬌のある丸い目を何度もぱちくりさせた。


「あら、國彦さん!このお嬢さん、どなた?」


「美夜と云って、ぼくの姪でね。今、事情があってうちにいるんだよ」


「可愛い子だこと!あたしの絵のモデルにしたいわ」


女性が威勢の良い声でころころ笑うと、その場の空気がぱっと明るくなる。

怜子のもの寂しい風情に慣らされていた美夜には、この陽気な女性の何もかもが新鮮だった。


「こちらは多実(たみ)さん。うちの雑誌で連載している小説の挿絵を描いてもらっていてね」


新進気鋭の女流画家である彼女は、大槻家の近くにアトリエを構えている。

その縁から、時折こうしてこの家を訪ねるというのだ。


「お多実と申します。どうぞよろしくね、美夜ちゃん」


晴れ晴れしく挨拶をしたかと思うと、お多実は彼女が座るとやや小さく見える座布団の上からずいと膝を進め、美夜の顔を覗き込む。


「綺麗な目ねえ、月の光みたいに色が薄くて。髪も、異人さんの様だわ」


「お多実さんは芸術家だから、珍しい美しさには目が無いんだろう。芸術家と言えばね、お多実さんの知り合いの華暁(かきょう)氏。あの画家先生に今度うちの雑誌で描いてもらえないか頼んでほしくて―――」


仕事の話が始まる気配を察して、それではと美夜は座敷を後にした。


居候(いそうろう)の身分である以上、自分の事は自分でしなければならない。

毎日の洗濯もその一つだ。

美夜はたらいの前にしゃがみ込んで、ごしごしと洗濯板に足袋をこすりつけた。


汗ばんだ額をぬぐってふうと息をつき、何気なくたらいの中を覗き込むと、そこに自分の顔が映る。

ふとした瞬間に見る自分は、いつだって暗い表情をしている。

水鏡に映る少女は、その顔をさらに悲愴(ひそう)にしぼませた。


「そんな表情では、せっかくの可愛いお顔が台無しよ」


頭上から降る声に、美夜ははっと顔を上げた。


お多実は目を細めて、こちらまで笑いたくなる様な微笑みで立っている。


「ご精が出るわね、お洗濯?美夜ちゃんだけの分にしては、量が多いんじゃないかしら」


「あ……主人の分です」


自分の仕える人、という意味で美夜は主人という言葉を使ったのだった。


だが、お多実は違う方に取ってしまったらしい。


「まあ、御新造さん(奥さん)なの?この若さで。女物のシュミーズがあるという事は、御亭主は日輪の女性でしょう。ロマンチックねえ」


瞳をきらきら輝かせるお多実に真実を言う訳にもいかず、事情があって夫と共に大槻家の離れを借りていると述べた。


「もう、お帰りですか」


「ええ。美夜ちゃんにお話があって、探していたのよ」


美夜が小首をかしげると、お多実がいたずらっぽい笑みを浮かべる。


「美夜ちゃん、見世物小屋で働いてみる気は無い?」


「見世物小屋で?」


怪訝そうな顔をした美夜に、お多実が慌てて弁解した。


「見世物と言ってもね、お化けだの妖怪だのって、おどろおどろしいものじゃないのよ。まあ、聞いてちょうだいな」


お多実の父は下町で料亭を営む傍ら、見世物の興行にも手を伸ばすやり手の尋常種だった。

その見世物小屋に出ていた娘が少し前に嫁に行ってしまったから、その代わりを美夜にして欲しいというのだ。


「儚げな雰囲気が、月の妖精のイメージにぴったりだわ。ね、ただ綺麗な服を着て、舞台の上で大人しく座っていれば良いのよ。無論、お給金も弾むわよ」


月の、妖精。

まるで御伽噺(おとぎばなし)の様で、どこか現実味が無い。


だが、これでお金が貰える。

それがあれば、大槻夫妻や他ならぬ怜子の助けになれる。


見世物になる事に関して、自分を探している焔に見つかりはしまいかという不安もあった。

だが、焔の様な上流の人間が、場末の見世物小屋にわざわざ来る事は無いだろう。


「働かせていただきたいのは山々ですけれど―――主人はわたしが外に出て働くなんて、きっと許してはくれないと思うんです」


「見世物小屋だなんて聞けば、尚更でしょうね。でも、妻が働くのに夫の許しを得なければいけない事自体、時代遅れでナンセンスだと思うわ。ここは一つ、あたしに任せてくれない?」


雲間から太陽が、わずかにその顔を見せた気がした。




それから数日して、お多実は改めて大槻家を訪れた。


自分に客人があると聞かされた怜子は、久方振りに身支度を整えて部屋から出てきた。

怜子にまだそこまでの気力が残っていた事に、美夜は少なからず驚かされた。


だが、美夜に関わる事ならば、怜子は這ってでもやってくるだろう。


この家にやってきた時と同じ空色の着物に身を固めているのは、(わずら)いに細った体を隠す為か。

それでも、夏着物の薄い絹地が痩せた肩には重たげだ。


大槻夫妻も立ち会う中、二人の女性は客間で向かい合った。


儚いか細さと、健康な豊満さ。

水に溶け入りそうな空色の和服に、華やかな薔薇色の洋服。


対照的な二人の対面を、美夜も大槻夫妻の横で見守った。


「私の美夜に、どういったご用件でしょう」


怜子が明らかな敵意を含んだ眼差しを、じろりとお多実に投げつける。

だが、お多実はそんな事もどこ吹く風と、にっこり微笑んでみせる。


「私はしがない画家をしている者ですが、探し求めていたモデルのイメージに、お宅の奥様がぴったりですの。奥様も二つ返事で引き受けてくださいましたわ。この件は旦那様にも、是非お話ししておかなければと思いましてね」


芝居の台詞(せりふ)の様につらつらと、けれども丁寧さを損なわない口上でお多実は述べ立てる。


下座(しもざ)の美夜を、怜子はきっと咎める様に睨む。


「美夜、あなた……」


美夜はそれにも顔を背ける事無く、口を真一文字に結んで前を向いた。


「もちろん、お礼はさせて頂きますわ。アトリエの行き帰りの道がご心配でしたら、(くるま)を頼んで送り迎えもさせます。お大切な奥様をお預かりするのですもの。傷一つ付けやしません」


「良いお話じゃないか、怜子君。お多実さんならば画学生の頃から知っているが、絵の腕前は元より、人柄も信用できる女性だよ」


國彦の言葉にも、怜子はまだ渋る様子を見せる。


「でも……」


それまで美夜の横で背筋を伸ばしたまま場の空気に溶け込んでいた誠太郎が、初めて口を開いた。


「美夜さんが決める事だろう」


そのたった一言が、美夜の背中を押してくれた。


すっと息を吸って胸を張り、声を振り絞る。


「わたしに出来る事でしたら、お役に立ちたいんです。いつまでも、皆さんに頼り切りではいられませんから。こんなわたしにお仕事をいただけるなら、喜んでいたします。今まで怜子さまがわたしにしてくださった沢山の事には、とても足りませんが」


水を打ったような静けさが、座敷に満ちる。


怜子の真白い顔には、わずかな赤みが差した様に見える。

その唇がかすかに、しかしはっきりと言葉を紡ぐ。


「……美夜を、どうかよろしくお願いいたします」




「さあ、お召し替えが済んでよ!見てご覧なさい」


金の縁飾りの付いた姿見の前に立たされた時、そこに映る自分の姿に美夜は息を呑んだ。


(おぼろ)な月明かりを織りなした様に、柔らかにも煌々(きらきら)しい光沢を放つ純白のドレス。

ふんわりと毛先にカールの施された髪を飾るのは、それと同じ色をした花の冠。


極めつけは、何と云っても背中にくくり付けられた羽だろう。

蝶の(はね)の如く透き通った精巧さは、とても作り物とは思われない。


ドレスの隙間から紐を通して背中に結びつけられたそれは、少し体を動かすと本物の妖精の様にひらりと羽ばたく。


仙女に魔法をかけられた御伽噺(おとぎばなし)の主人公の様に、美夜も目を(しばた)かせずにはいられなかった。

自分が今いるのが、見世物小屋の中にある八畳ほどの板敷きの楽屋だとは信じられない。


小屋主として新しく見世物となる娘を見にやってきたお多実の父親も、貫禄のある太鼓腹を揺すって驚いて見せた。


「ほう、こりゃあ見事な月の妖精だ。これなら、お客も目を見張るだろう」


「あたしの見る目は確かでしょう、お父ちゃん」


その横に並んだお多実も誇らしげに、薔薇のコサージュの飾られた胸元を反らす。


お多実の父は、見世物小屋の他にもカフェーや映画館といった場所も経営している下町のお金持ちらしく、帯の辺りに時計の金鎖をちらつかせた気前の良さそうな人だった。

(たもと)の中からカリントウの紙包みを取り出すと、美夜に手渡す。


「お多実も良い()を見つけてきたもんだ。夜の興行が始まるまでまだ時間があるから、これでも食べて腹ごしらえしてくんな。お客だって、見世物なんてまがい物だと分かり切っているがな。心のどっかでは、摩訶不思議な(もん)を信じてみたい気持ちだってあるもんだ。だから、そいつらをまやかす為にも堂々としていな」


お多実がドレスを出してくれた箱の中には、虹色に照り映える(うろこ)を持つ人魚の衣裳や、今にもふわりと空を舞いそうな天女の羽衣まで納められていた。

この見世物小屋では、人ならざる存在に姿を変えた幾人もの少女達が、人々に一夜限りの幻想を見せている。

そして今宵、美夜もその一人となるのだ―――あえかな月明かりの中から生まれ出でた月の妖精として。


黒砂糖の甘さがねっとりと美味しいカリントウも、美夜の張り詰めた気持ちをほぐしてはくれなかった。

少女達の残り香の漂う室内を、(せわ)しなくきょろきょろと見回してしまう。


夜の訪れにはまだ早い頃で、夕影が辺りを濃く染め上げる。

窓から流れいる斜陽が一際明るい光を投げ掛ける場所に、美夜は目を留めた。


何か大きな台の上に真白い布が駆けられ、じっと物言わずに日暮れの中に沈んでいる。


「お多実さん。あれ、何ですか?」


「ああ、これ?」


お多実がさっと覆いを取り払うと、そこには相当な年季が入っているであろう、一台のピアノがあった。


長い眠りから目を覚ました様に、滑らかになるまで磨き込まれた天板の金文字が夕星(ゆうずつ)の如くきらめく。

怜子が使いこなすアルファベットであるとは分かるものの、美夜にはその意味を理解する事ができない。


「From Jane to Yoshino―――ジェーンからよし()へ、と云ったところかしら」


女学校を出ているだけあり、お多実には外国語の素養がある。


「このピアノ、人魚の娘に歌の稽古をさせる為に古道具屋から買い求めたんだけどね。元々は、横波間(よこはま)で貿易商をしていた異人さんのお屋敷にあったものらしいの。英國(イギリス)人の女性のアルファだったそうだけど、日本娘の月影を奥さんにしてね。よし乃というのは、その方の名前でしょう。でも、その異人さんが亡くなると、お屋敷や家財道具も全て売り払われてしまったそうよ。このピアノもその一つね」


夫や家も、何もかもを失ったよし乃という女性は、その後どんな行く末を辿ったのだろう。

美夜にはそれを知る(すべ)は無い。


異国の地で没した女性が、在りし日に妻へ贈ったメッセージが刻まれた蓋を持ち上げ、そっと鍵盤を押してみる。

コロン、と星を(まろ)ばす様に可憐な音を立てて、ピアノはその息吹を美夜の指先に伝える。


「美夜ちゃん、ピアノは弾けるの?あたしも女学校で少し習ったけど、全然駄目だったわ」


「はい。弾けると言って良いか、分かりませんが」


胸の中に仕舞われた、幼い日の幸福な夜の思い出。

その夜を彩る、ただ一つのセレナーデ。

この名と(まこと)の命を与えてくれたひとと、美夜を結び合わせた運命の曲。


星の(またた)きの様な日々が確かにあった事を、このセレナーデと美夜の名が教えてくれる。


自分もこの曲を弾いてみたい、と()うた美夜に、セレナーデの君は手取り足取り教えてくれたのだった。

それから幾歳月が流れた今となって、美夜は自らの手でこのセレナーデを耳にする機会に恵まれた。

伯爵家の大広間にもピアノはあったけれど、メイドの自分如きが奏でるなんて真似は許されなかった。


彼女の流麗な調べにはほど遠いけれど、あの夜の思い出は確かに美夜の中に生きている。


美夜がほうと息をついて腕を下ろすと、お多実がパチパチと拍手をする。


「初めて聞くわ。秘め事の様に言い知れぬ風情があって、美しい曲ねえ。題名は何と云うの?」


「エリザべート・リヒターのセレナーデという曲です。あるひとが教えてくれて、わたしの腕ではとてもその方に及びませんが……」


小夜曲(セレナーデ)、とお多実は口の中で呟いて何か考え込む様子だったが、やがて顔を上げる。


「今夜の興行に、少し変更を加えてみても良いかしら?」




帝都、東暁(とうきょう)の夜の眩さと賑々しさを離れた場所に、一軒の見世物小屋があった。

見世物小屋と名こそ付いているものの、空き地に天幕を張っただけの粗末な造りでは無い。


半地下の劇場跡を利用した場所で、一見しただけでは見世物小屋と分からないだろう。

だが、その前には多くの人達が列を連ねる。


「欧州ノ神秘 月ノ妖精」と大々的に看板を掲げた入り口から、善男善女は夜の秘めやかさを引き連れて中に入る。


「月の妖精ですって!きっと、さぞ綺麗な顔をしているでしょうね。貴女、その妖精の娘とわたし、どちらが愛らしいと思って?」


そう尋ねる月影の娘の腰に、日輪の恋人が腕を回す。


「私が何て答えるか、知っている癖に。かわいい子ね」


入り口を抜けると、その奥には客席が階段状に下へ下へと並んでいる。

そして、深紅のカーテンが重く垂らされた舞台がその奥に控えている。


客席を占めた人々は、その時を今か今かと待って囁きを交わすのだった。

やがて、カーテンが左右から開かれ始めると、それがぴたりと止む。


風にざわめく葉擦れの音や、夜鳴鶯(ナイチンゲール)の歌声さえ聞こえそうな夜の森の舞台が、月明かりの様なスポットライトに浮かび上がる。


舞台の端には、古風な燕尾服に身を固めた男が立っていた。

シルクハットを脱ぎ、客席に向かって滑らかに礼をすると、男は朗々と声を張って口上を述べる。


「紳士淑女の皆様、今宵はようこそお越しくださいました。お集まりいただいた皆様方に世にも霊妙不可思議な化生(けしょう)の姿をお目に掛けられる事、我々興行部一同も光栄の極みに存じまする」


芝居がかった口調でそう前置きし、男がぱちんと指を鳴らす。

舞台の天井からそろそろと降りてくるのは、三日月を象ったゴンドラである。


男がつかつかと歩み寄ってその扉を開け、中から姿を見せた可憐な妖精―――美夜の姿に、客席からどよめきが起こる。


「皆様のほとんどが、妖精などという存在は童話や御伽噺の中の存在だと思われてきた事でしょう。ですが、この世には我々の人知を越えた存在が、確かにいるのです。此方(こちら)にいる妖精は、欧州のとある村に根付いていた伝え話の存在であります。無垢な乙女の顔をしていても、その実は数百年に渡って人々の語り草となってきた妖精なのです」


観客達の物見高い視線にも動じまいと、美夜はただ目を伏せて物言わぬ妖精として振る舞った。


「伝説によると、妖精は村はずれの森の奥にある泉に、月の光が降り注ぐ夜にだけ現れるのであります。真昼の陽射しが降り注ぐ中で姿を見せる事は、決してありません。月明かりの化身である妖精は、夜の中でしか生きられぬと言い伝えられております。でありますから、我が興行部においては、こうして月影さやかな夜にのみ、皆様にその姿をお目に掛けられるのです」


皮肉なものだ。

美夜は生身の体を持つ、ただの人間に過ぎない。


けれど、太陽の下に出ていく事を許されず、夜の月明かりの中で生きてきたのだ。


「その孤独とは、一体如何(いか)ばかりでありましょうか。日の光の中で生きる我々人間とは、相異なる世界の存在だと言って良いでしょう。ですが、人ならざる身には言葉にして思いを伝える術はありません。その代わり、我々はとある方法を(もっ)てして、意思の疎通を図ろうと試みたのであります」


男が手を叩くと、別の男達が二人がかりで車輪の付いたピアノを舞台の中心に座る美夜の元へと押してくる。


「これまで人という存在を知らずにいた分、この妖精は人の営みというものに非常な興味を持っているのであります。人の弾くピアノの歌曲を見よう見まねで幾つも覚えるのです。こうして夜になれば、月の光を恋うて物悲しい曲を奏でるのです。言葉を持たない身なれば、その胸の内を込めた曲ほど、哀れを感じさせる音色もございますまい。では、どうかお聞き届けください」


会場中の視線が自分に集まっているのが嫌というほど分かり、指先が震えて力が入らない。

場数を踏んだピアニストならまだしも、衆人環視の中でピアノを弾くなぞ、美夜には生まれた初めてだ。


だが、この場面は自分一人で乗り越えなければ。

そう決意し、双の手を鍵盤の上に(かか)げる。


やがて夜の静寂(しじま)の中に流れる旋律。

弱々しくとも、決して絶える事の無いメロディー。


あの夜を閉じ込めた、ただ一つの曲。

過ぎ去った夜は今この時、舞台の上に蘇る。


音色の一つ一つに、あの少女(ひと)の面影が宿っている。


孤独の中に生きてきた名無しの月影の娘の夜が、幾百の幸せに溢れた美しいものになるように―――そう祈って自分を百幸美夜と名付けてくれた、唯一の存在。

セレナーデの君。


心の中で敬愛するその名を呼ぶだけで胸が熱くなって、手が止まりそうになる。


美夜は気を紛らわせようと、客席の方へと目を向けた。

しかし、客席の最後部―――そこの高みに立って自分を見下ろしている人物の姿に、美夜は思わず鍵盤から手を滑らせかけた。

胸に描いていたセレナーデの君に、一瞬その似通った面影が重なる。


だが、そこにいたのは紛れもなく怜子だった。


美夜と怜子の視線が、刹那の間に交わった。


瓜実顔は今にも倒れそうに血の気を失い、唇は息をするのも忘れた様に震えている。

ミッドナイトブルーの袖無しのワンピースは客席のほの暗さに溶け込んで、絶望の表情のみ浮いて見える。


何故、ここに怜子が―――美夜はピアノを弾く手元に目をやると、再び先ほどの場所へと視線を向ける。

けれど、そこに怜子の存在は影も形も無かった。




「お疲れ様。上出来上出来」


どうにか公演を乗り切った美夜を出迎えて、お多実はほくほくと頬を綻ばせる。


化粧を丁寧に落として、汗ばんだ衣裳を脱がせてくれる。

ようやく月の妖精から元の美夜に戻れた気がして、ほっと肩の力が抜ける。


「じゃあ、これ。約束していたお給金」


お多実に手渡された茶封筒は思いのほか厚みがあり、取り決めていたより多めの金額が入っているのは明らかだった。


「わたし、こんなに頂けません」


「いいの。あたしからの気持ち。それで、好きな物でも買って頂戴」


ならば、怜子の為に何か精の付く食べ物でも買っていこうか。

脂身の多い肉よりは淡泊な魚の方を好む怜子だから、舌触りの上品なうなぎの白焼きなど良いかもしれない。


そんな事を考えて、先ほど舞台から見た怜子を思い出して背筋が寒くなる。


あれは、一体何だったのだろう。

まさか、本当に怜子があの場所にいたというのか。


そんな筈が無い、と首を横に振って打ち消す。


あれはきっと、怜子に嘘をついた罪悪感が見せた幻。

そう思い込まなければ、恐ろしさでどうにかなってしまいそうだ。


だが、怜子の為には仕方が無かったのだと自分に言い聞かせる。

きっと怜子は今頃あの離れで、美夜の帰りを今か今かと待っているだろう。


今夜こそ、あの天の岩戸の様な襖の前に立って、その奥に御座(おわ)す方に呼び掛けてみようか。

そう思えば美夜はいても立ってもいられず、何か夕食をご馳走するというお多実の申し出も丁重に断った。


「もう時間も遅いし、流しの人力車を拾ってお帰りなさい。通りまで送っていくわ」


お多実がそう言うので、彼女と共に連れ立って外へ出ると、お下げ髪を撫でる夜風の冷たさに秋の気配を感じる。

街灯の立ち並ぶ通りの石畳の上を、二人は靴と草履の音を響かせて歩いた。


「ここまでで大丈夫かしら?あたしは父と話があるから、これから小屋に戻るけれど」


「はい。また明日の夜、お願いいたします」


さらさらと流れる秋の夜風。

不意に、そこに混じった不協和音に、美夜はふと足を止めた。


コツコツと石畳を打ち鳴らすハイヒールの靴音が徐々に大きくなり、美夜達の背後で止まった。


「美夜」


全てを凍てつかせる冷気の様に、肌を突き刺す声音。


振り返ってはいけない、と本能が告げる。

だが、(まじな)いを掛けられた様に、美夜の視線はそちらに引き寄せられていく。


闇の中に立つその姿に、心臓が凍り付きそうになる。


「私を、騙したわね」


怜子の双の瞳は確かな憎悪を宿して、夜に灯る。


舞台から見たのは正真正銘、清小路怜子その人なのだとすぐに分かった。

身動きの取れない間に、怜子は音も無く美夜との間合いを詰める。


謝らなければ。


無力な人間が我が身を守る為にできるのは、ただ詫びる事だけだと父の元で学んだ。

だが、寒さで舌の先まで痺れた様に、申し開きの言葉一つ出てこない。


そんな美夜を差し置いて、怜子はお多実を忌まわしげに睨みつける。


「モデルにするだなんて、よくもぬけぬけとそんな嘘をつけたものね。この子には、二度と近づかないで頂戴。来なさい、美夜」


怜子の骨張った指が、美夜の手首に食い込む。

その(たお)やかさが信じられぬほどの力なのに、痛みすら思惟(しい)には及ばない。


「お多実さんは悪くないんです。わたしが働かせてほしくてお願いしたんですから―――」


「お黙り」


足を踏ん張って弁解しようとする美夜を、怜子は有無を言わさず横抱きに持ち上げる。

小柄で華奢な美夜も、目方はそれなりにある。


身の丈五尺(約151cm)、十三貫(約50kg)の体はふわりと抱き上げられ、抵抗する術も無い。


何故、怜子は美夜が見世物小屋に出ている事を知ったのだろうか。

そんな疑問は頭の片隅にあったものの、今はこの状況を受け止めるだけで精一杯だった。


怜子は脇目も振らずに夜道を突き進み、やがて大槻家の門を潜る。


一家はとっくに眠ってしまったらしく、母屋には明かりの気配も無い。

二人の住まいである離れは、その横にひっそりと建っている。


美夜を抱いたまま、怜子は玄関の戸をハイヒールの爪先で乱暴にこじ開ける。


そのまま自室に戻ると、美夜の体は畳の上にどさりと投げ出された。

打ち付けた体の節々に鈍い痛みが走る。


「う……」


美夜がうずくまっている間に、怜子は文机の引き出しから何やら瓶に入った錠剤を取り出し、口に放る。

机の上の水のコップを取り上げると、一息に(あお)る。


そして、畳の上の美夜に覆い被さると、その唇を重ねる。

生きた肉の花びらの様に、美夜の口を塞ぐ。


「ん、ふっ」


首を振って拒もうとする美夜の顔を押さえ、怜子の舌の先が歯をこじ開けてくる。

流れ込む錠剤を、苦しさから水と一緒に飲み込んでしまう。


じゅ、と粘っこい音を立てて怜子の唇が離れると、美夜はげほげほと咳き込んだ。


「何を……」


毒を飲まされたのではないかと思った。


だが、良くも悪くもその予想はすぐさま裏切られる。


一呼吸する度、体はみるみるうちに熱く(たぎ)っていく。

甘い痺れが頭から指の先まで走り抜ける。


その症状は、月蝕―――発情以外の何物でもない。


(あお)い月明かりを背にして、怜子はそんな美夜を無情に見下ろしていた。


「何を、飲ませたのですか……」


熱病に冒された様に荒い息を吐きながら、美夜は必死に問うた。


月蝕の予定日まで、あと一週間はある。

それに備えて、トランクの中にあった秋元夫妻から差し入れられた抑制剤も飲んでいたのに、どうして。


怜子は手首でぐいと口元を拭い、ごく冷静に答える。


「月蝕の来ない月影の為の治療薬、と言えば分かりやすいかしら」


ふふ、と怜子は唇の端を持ち上げる。

おぞましさが背筋を走り抜ける。


だが、それとは裏腹に、美夜の体は刻一刻と月影としての本能に目覚めていく。


両脚の間にじりじりと熱が籠もり、美夜はもどかしく膝を擦り合わせた。

汗のにおいと共に、濃密な月影の誘惑香(フェロモン)が座敷の中に満ちていくのが、肌で感じ取れた。


嗚呼、と怜子が嘆息する。


「これが、美夜のかおりなのね。何と甘く、(かぐわ)しいのかしら。こんなに匂やかなかおり、知らなかった―――」


熱に浮かされた様な性急さで、怜子は美夜の上にのし掛かる。

彼女の中に(たぎ)る欲望が、柔肌の熱さとして美夜を包む。


劣情に支配されきった目の前の女は、如何なる時も淑女としての貞潔さを守ってきたあの怜子なのだろうか。

常に内に宿る理知を湛えていた切れ長の目は、淫らに溶けて美夜を捉える。


「ね、美夜。私のものになって」


色を帯びた吐息に頬を(なぶ)られ、声がわななく。


「嫌です、こんなの」


美夜は首を横に振って、必死に逃れようとした。

だが、怜子の腕は美夜の両手首を畳の上に押さえつけ、振り払う事を許さない。


「今まで私が、どれだけ耐えてきたと思っていて?もう、無理よ」


怜子は美夜の手を取り、自身の両足の間へと導く。


指先に触れる、熱く濡れそぼった塊。

脈打つ肉茎の感触が、否が応でも雄たる日輪の存在を主張する。


「ほら、分かる?美夜の事を想うだけで、これほどまでに(たか)ぶっているのが」


怜子は(なま)めかしい笑みを浮かべて、震える美夜の指先をさらに深く自身の物に絡ませる。


情欲を呼び起こされた日輪の女の恥豆は、男の陽根の様に形を変えるとは聞いていた。

こうして怜子の分身を握らされ、これから待ち受けている事は一つだけだと思い知らされる。


「美夜も、それは同じでしょう。だから、どうか私に身を(ゆだ)ねて頂戴」


「あっ」


首筋をつつと生き物の様に這う怜子の舌に、声を抑えられない。


彼女の手は美夜の膝を滑り、柔らかな(もも)の内側をなぞる。


怜子の手触りを(いと)うどころか、もっと奥へ、もっと中へとその先を望んで吐息が乱れる。


そうだった。


他でも無い美夜が、目の前の彼女を求めている。

怜子を受け入れ、精を(はら)の奥深くに放たれ、彼女の子を宿す事を。


それは、月影の(さが)として日輪を欲しているだけではない。

美夜という一人の人間が、愛する怜子と一つになる事を心の底から望んでいた。


怜子が、欲しい。


けれども―――だからこそ、こんな形で怜子と結ばれたくはない。

今ここで彼女を受け入れてしまえば、自分自身のみならず、美夜が心を寄せてきた怜子をも(おとし)める事になってしまう。


やさしい怜子を、(けが)してしまう。


自身を飲み込もうとする本能の濁流をはねのける様に、美夜は身をよじり続けた。


「嫌です、こんなの。嫌です。どうか、元の怜子さまに戻ってください」


どんな時も美夜を(いつく)しんでくれた、愛日の君に。


自身に屈服する事なく抵抗し続ける美夜に、怜子が痺れを切らしていく。


「どうして、私を拒むのよ。どうして、どうして」


その肩がおこりの様に波打って、両手首を掴む力が強さを増していく。


けれど、それとは裏腹に涙が真珠の欠片の様に目の縁に溜まる。


「あなたなんて、私がいなければ名前も無く死んでいたに違いないのに―――!」


感情の(ほとばし)るままに叫ぶと、背を丸めてゴホゴホと咳き込む。

激しい喘息の発作が、容赦無く怜子に襲いかかる。


病弱な子供の頃の怜子を苦しめていた発作は、成長してからすっかり鳴りを潜めていたというのに。


興奮のあまり、抑えられていた持病が再びその片影を見せたというのか。


視界を覆い尽くしていた怜子の体が、美夜の上から退いていく。

ひゅうひゅうと壊れた笛の様な音を立てて、怜子は苦しげに息を吸う。


喘息の発作に(さいな)まれてうずくまるその姿が、ふと誰かと重なる。

だが、今はそんな考えを巡らせている場合では無い。


「怜子さま、しっかりなさってください。怜子さま……!」


発情のだるさを振り払って、美夜は体を起こす。


手近な座椅子に怜子を座らせると、ワンピースの胸元をくつろげて背を撫でさする。


呼吸の波が落ち着いてきたのを機に、美夜は文字通り()()うの体で自室に戻って発情抑制剤を服用した。

身内に巣食っていた熱がすんと引き、再び畳を踏みしめて立つ事ができる。


喉を楽にする為に母屋の台所で沸かした湯を飲ませ、咳を抑える作用のあるハッカ油を嗅がせると、怜子の喘息も徐々に落ち着いていく。


ぐったりと座椅子にもたれる怜子の傍に、美夜は黙って寄り添った。

空になった湯飲みを手にして、怜子は虚ろな目で窓の外の月を見上げる。


「謝る資格も無いわね、私には」


そんな事はありません、と優しい言葉を返してやる気にはなれない。


自分の意思を無視して手籠めにしようとしてきた相手は、例え怜子でも許す事ができない。

怜子だからこそ、許せないのかもしれない。


かといって、彼女を侮蔑(ぶべつ)し、罵る訳でも無かった。


「先ほどのお言葉、どういう意味でしょう。怜子さまがいらっしゃらなければ、わたしは名前も無しに死んでいたと」


努めて粛然と、美夜は尋ねた。


うつむいた怜子の表情が、月明かりの影となる。


「そのままの意味よ」


怜子は囁く様に答えた。


「この名は―――百幸美夜という名は父でも母でも無く、ただ一人の方が私の幸福を願って付けてくださったものです。それが、怜子さまとどんな関係が……」


(おもて)を上げ、怜子はまっすぐに美夜を見つめる。

澄んだ光を宿した双の瞳が、月明かりを浴びて清らかに光る。


「あなたを名付けたのは、私だもの」

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