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冬月の出会い

所々が脆く崩れた壁に四方を囲まれた、 古びた土蔵の二階の小さな座敷。

それが、物心ついた時の世界の全てだった。


帝都から遠く離れた雪深い山間の村が美夜の生まれ故郷である。


生家はかつてその地域一帯の豪農として名声を誇っていたそうだが、美夜が生まれる頃にはすっかり零落していた。

家の障子は破れ、屋根瓦は崩れて見る影もなかった。


座敷から出された事は数える程しかなく、家の外に出た事はほとんど無いと言って良い。


月影の母は度重なる出産で体力が落ち、美夜を産むとすぐに亡くなったそうだ。

そんな美夜の世話をしてくれたのは、何人もいる兄や姉達だった。

兄達は特に意地悪と言う訳ではなかったが、皆、美夜に対してどこかよそよそしい感じがした。


小さい頃の美夜が疑問に思ったのは、どうして自分がこのような場所にいるのかという事だった。


「どうして、わたしはおうちのそとにでたらいけないの?」


美夜がそうやって尋ねると、兄姉は決まって気まずいような、申し訳ないような顔をするばかりだった。


だが、美夜があまりにねだるので、ある時一番上の兄が答えてくれた。

兄は美夜の目をじっと見つめ、言い聞かせるようにこう言った。


「それは、お前が月影だからなんだよ。月影には果たさねばならない役割がある。お前の世話をしている兄さんや姉さん達もだ。お前や、兄さん達はその為に生まれてきたんだ」


「やくわり?やくわりって、なあに?」


すると、兄は痛いのを我慢しているような辛そうな顔をして


「―――お前はまだ、そんな事は知らなくていい」


とだけ呟いて、俯いた。


美夜には、その声が心做しか嗚咽のように感じられた。

けれど、美夜には兄の言っていることの意味が分からなくて、目をぱちくりさせるばかりだった。


しかし、今なら―――兄の言っていた役割というものが、悲しいくらいによく分かる。

日輪の子を生むのが、月影の生涯を捧げるべき役割なのだと。


それを妹である美夜に教えないでいてくれたのは、兄のせめてもの優しさだったのだと、美夜は今ではそう思っている。


その兄が嫁に行って蔵に来なくなってしまったのは、それからすぐ後の事である。

美夜が大きくなるにつれて、兄姉の数は一人、また一人と減っていった。


「わたしもいつかお嫁に行くの?」


残った兄姉達にそう尋ねても、いつか何故自分がここにいるのか聞いた時と同じような顔をするばかりで、妙な違和感があった。


そして美夜が十五の歳を迎える頃には、最後の一人である一番年の近い姉も蔵に来なくなり、とうとう美夜は一人ぼっちになってしまった。


姉がいなくなってからというもの、美夜は日がな一日蔵のすみっこで膝を抱えて座り、格子窓の外を眺めていた。


それからしばらく経った、ある冬の日の事である。

火鉢もない蔵の空気はしんと冷え切っていて、白い吐息が立ち上った。


いつものように、美夜が窓の外で荒れ狂う北国の吹雪をぼんやりと眺めていると。

不意に階下の扉が、ぎいっと重々しい悲鳴のような音を立てて開かれるのが聞こえ、誰かが階段を登ってやってくるのが見えた。


「……おとっつぁん」


思わず漏れた声が震えているのが、自分でも分かった。



美夜にとって、父ほど恐ろしい相手はいなかった。

以前は隆盛だった家運がひどく傾いてしまったのも、元はと言えば彼の賭博に溺れた末の放蕩によるものだという。


父の酒に酔って常に血走った目と真っ赤な顔を見る度、赤鬼のようだと思わずにはいられなかった。


母屋にいる父とはほとんど顔を合わせることが無かったので、美夜自身はそんな目に遭わされる事は滅多に無かったが、粗暴で気の短い父は毎日のように兄や姉達に暴力を振るっていた。

兄姉の誰かの体に痣や傷ができているのも日常茶飯事だった。


だが、美夜は母屋から聞こえてくる父の雷のような怒号や、兄姉の哀願混じりの悲鳴がおっかなくてならず、父の折檻(せっかん)が始まる度に耳を塞いでうずくまっていた。


しかし、それほどひどい父であるにも関わらず、兄姉たちは誰一人として父に逆らおうとはしなかった。


「おとっつぁんは日輪様だもの。私達月影は、日輪様には絶対に逆らってはいけないのよ」


姉の一人が父につけられた腕の痣を痛々しげに撫でながら、諦めたようにそう呟くのを見て、幼かった美夜の胸にも、決して父には歯向かってはいけないのだと深く刻まれたのである。


慌てて膝をつき居住まいを正す美夜に、父は鬱陶しげな一瞥を投げつけただけだった。

それでも、美夜は動悸が早鐘を打ち、冷や汗が止まらなかった。


父は後ろに二人の男を伴っていた。

二人ともお世辞にも人相が良いとは言えず、前に蔵の中にある錦絵で見たやくざ者のような格好をしている。


()()がそうだ」


と父が美夜をぶっきらぼうに指さすと、男達は美夜をじろじろと頭のてっぺんから足の先まで舐め回すように見る。


一体何なんだろう、この人たちは?


いきなり現れた見ず知らずの男たちに、美夜の頭は混乱しっぱなしだった。


()()はもう来ているのかね。まだなら、買値は多めに付けてやれるが」


「そんな事、俺の知ったこっちゃねえ。まあ、まだなんじゃねえか。他の餓鬼達も何も言ってなかったしよ」


「背は低いが、子を生む分には問題ないだろうな。器量もそれほど悪くない」


そう言って、乱暴に顎を持ち上げる男のむくつけな手の感触に、美夜は総毛立つ思いがした。

だが、美夜の様子などお構い無しに、三人の男達は話を続ける。


「それじゃあ、この娘はうちで責任持って買い取らせてもらいやしょう。後の事は全てこちらで引き受けやすよ」


「ああ、頼んだ」


そして男の一人が美夜の手首をちぎれんばかりに掴み


「ほら、立て」


と立たせようとした。


しかし、


「嫌っ!」


と美夜は反射的にその手を強く振り払っていた。


「ほら、とっとと来やがれ!」


もう一人の男も痺れを切らしたように、必死に身をよじる美夜の体を掴んで、無理やり立たせる。

それでも、美夜は歯を食いしばって精一杯足を踏ん張り、何が何でも連れていかれまいと必死だった。


すると、父が男を押し退けて美夜の前に立ち塞がったかと思うと―――次の瞬間にはその爪先が美夜の腹部にめり込んでいた。


肋骨が折れなかっただけでも運が良かっただろう。

鈍い痛みがずうんと腰にのし掛かると共に、酸っぱいものが喉にせり上がってくる。

美夜が声にならない悲鳴を上げ、腹を押さえてうずくまると、父はなおも髪を掴んで顔を上げさせた。


「いい加減にしろ、何の為にお前を育ててやったと思ってる!」


そうして再び振り上げられた父の足を、今度はすんでの所で男の一人が慌てて止めた。


「旦那、腹はいけませんぜ。子でも生めなくなれば、商品としての値打ちが無くなりまさあ」


その言葉に思わず顔を上げる。


「商品って、どういう事なの?わたし、誰かに買われるの?」


兄姉から聞いた話で、外の世界ではお金を使って人々が食べ物や着物を手に入れているという事は知っていた。


だが、美夜は人間だ。

人間が人間を買うだなんて、そんな事があるのだろうか?


「やっと分かったのか、この愚図が。お前はなあ、生まれた時から売ろうと決めていたんだよ」


父の美夜を見下ろす嘲笑と侮蔑の混じった眼差しは、とても血の繋がった娘に向けるものとは思えなかった。


「死んだお前の母親は月影ばかり産みやがって何の役にも立たなかったが、売れば儲かる。お前の兄や姉のように、千金を出してでも子作りの為に月影が欲しいという家に嫁に出しても良かったが、それよりも秘密裏に売った方が大金になるからな」


美夜は自分の耳が信じられなかった。

自分が売られるのは、生まれた時から決められていたのだ。


兄も姉も、その為に美夜を育てていたのだ。


(兄さん達も知っていたなんて……)


兄達がこの事を知っていながら、それを秘密にされていた事が一番悲しかった。


思い返せば、兄や姉も父に支配された挙句、身売り同然に望まぬ嫁入りをさせられた被害者だったのだ。

そんな兄達が父に逆らえるはずもなかったのだし、自分達が生きていくのに精一杯だったに違いない。


だからこそ、今となっては兄達を憎むような気持ちは欠片もない。

しかし、その時の美夜は兄達が自分を欺いていたのかと、裏切られたような気持ちで何も言えなかった。


「もういいだろう。連れて行け」


美夜が呆然としていると、父が男達にこう命じ、踵を返して出ていこうとした。


「待って、おとっつぁん……!」


遠ざかる父の背中に手を伸ばした瞬間、背後から口元を布で塞がれ、甘ったるい匂いがツンと鼻の奥を刺す。

一体何を嗅がされたのかと思う間も無く、次の瞬間には意識を奪われ、目の前が真っ暗になっていった。




頼むから、さっき起こった出来事は全部夢であって欲しい。

だが、美夜の切なる願いは目を開けた瞬間、無慈悲に打ち砕かれる。


眠りから覚めると、どこか家の一室らしい真っ暗な狭い空間で、美夜は両腕を縄で結ばれて米俵か何かのように転がされていた。

美夜の手首を幾重にも硬く締める縄の末は、部屋の中心の太い木の柱へと括り付けられている。


体を起こし、一体ここはどこなのだろう、男達はどこへ行ってしまったのだろうかと思案していると、別の座敷の方から彼らが話す声が聞こえた。


「おい。奥にいる娘、そろそろ起きた頃じゃないか。お前行って様子見てこいよ」


「まあ待て、もう一献いこう。そしたらとりあえず見に行こうじゃねえか」


どうやら男達は、奥で酒盛りでもしているらしかった。


「しかし、あいつも運が良いなあ。こんなにもすぐにお大尽の買い手がつくんだから。煌慈(こうじ)町の、ほら何といったか」


「野田とか、野々村とか………そんな名の家だったような気がするが。どうもその家の跡取りの廓遊びが目に余るようでな。父親も、月影を一人与えておけば落ち着いてくれるだろうと」


「いやはや、やはり金持ちの日輪様はやる事が桁違いだねえ。まあ、俺たち尋常種には関係の無い話だがな」


そう男達が話すのを聞いた時、自分は売られるのだという事実を再び目の前にまざまざと突き付けられた気がした。

月影としてこの世に生を()けた時から、美夜の人生は定められていた。


運命はこの手に結ばれた縄のように自分を引きずり、どうする事もできないのだろうか。

姉達が言っていた通り、月影の自分は用意された運命に逆らわず、流れに身を任せなければならないのか?


そんなの―――


美夜はきっと唇を引き結び、手首に巻かれた枷を睨みつける。


(絶対に、嫌!)


もうこれ以上、誰かの勝手な手によって自分の人生を好きにされたくはない。

何が何でもここを逃げ出さなくては、と美夜の決意は固まった。


幸いにも、長い間日の射さない蔵の中にいたから夜目は利く。

部屋の戸口とは反対の壁に、換気の為か、地面とすれすれに細長い地窓が設けられていた。

普通の大人が通ったら体がつかえそうだが、美夜なら通り抜けられそうだった。


逃げ出すには、まず縄を何とかしなければいけない。

何か刃物でもあれば縄を切れるのだが、そんな物を都合よく持ち合わせている筈もなかった。


部屋の中を見渡しても、それらしい道具は無い。


ならばと反射的に、美夜は手首の枷に(かじ)りついていた。

簡単に切れる訳も無く、咥えた縄を引き千切ろうとすると、顎が痺れ、歯が折れそうになる。


それでも、美夜はただ一心不乱に、縄に歯を立て続けた。

ほぐした縄の繊維を少しずつ歯で引き出して噛み千切っていくのは、永遠にも感じられる程気が遠くなる作業だった。


絶対にここから逃げ出すのだという、もはや執念とも呼ぶべき(みなぎ)る決意のみが、美夜の心を支えていた。


やがて、噛み締めた奥歯に渾身の力を込めて、首を左右に思い切り揺さぶると―――縄はブチリと確かな音を立てて、緩んだ。


(やった!)


縄を振りほどいた美夜はすぐさま地窓を開けると、そこから這い出そうと身を(かが)めた。

すると、後ろの襖が開く音がするのと同時に、部屋に男の片割れが入ってきた。


「おい、何しやがる!」


逃げ出そうとする美夜を見て、男は怒りを露わにして掴みかかってくる。

だが、美夜はすんでの所でそれをかわし、流れるように外に出た。


「早く来てくれ!娘が逃げたぞ!」


男の声に振り返る事もなく、美夜は一目散に夜の闇の中に飛び出して行った。


曲がりくねった道を抜け、ひたすらに走る。

裸足に土の冷たさが染みようとも、どこへ行けば良いのかも分からずとも、とにかく走るしか無かった。


後ろからは絶えず男達の気配が迫っていて、一瞬たりとも足を緩める事はできない。


ただ、少しでも遠くへ。

美夜の頭にはその事しかなかった。


走るうちに目の前にはちらちらと明かりが見えるようになり、祭囃子にも似た賑やかなざわめきが近づいてくる。


美夜は本能的に、そちらの方向目指して駆け出していた。


そして暗い路地を飛び出し、そこに広がる光景に美夜は思わず目を奪われた。

ガス灯が照らす大通りは、夜でも真昼のような明るさを誇っている。

今まで見た事もないほど大勢の人達が行き交い、中には物珍しい洋装に身を包んだ人までいた。

さらにその横を、多くの自動車や路面電車が通る。


帝都・東暁(とうきょう)の華やかな夜の大パノラマがそこにはあった。


生まれ育った村とは大違いのその風景に、美夜の足はたじろいだ。

だがそれも刹那の事で、すぐに人混みに飛び込み、無我夢中に走り抜けた。


その間にも後ろからは「逃がすな!」と男達が怒鳴るのが聞こえ、周囲の人達も何事かと振り返る。


人混みの中に紛れた事で美夜の居場所ははっきりとは分からないようだが、追いつかれるのは時間の問題だという気がした。


また、生まれてから今までこれほど長く走る経験もなかったので、走り続けるうちに息が上がり、足も次第にもつれていく。

少しでも足を動かさなければいけないとは思うのに、体が言う事を聞かない。


脇腹は鉄の釘を打ち込まれた様に(うず)き、脚は疲労で千切れそうだった。


このままでは捕まってしまう。

そうすれば、もう二度と逃げ出す事はできないだろう。


もっと速く、もっと遠くへ―――


その思いだけを頼りに、もう一歩を踏み出そうとした時だった。


「あっ!」


逃げるのに必死だった美夜は、向かいからやってきた人に気が付かず、正面から思い切りぶつかって尻餅をついてしまった。


「痛た……ご、ごめんなさい」


「いいえ、私こそ前をよく見ていなかったものだから。あなた、立ち上がれて?」


頭上から降り注ぐのは、谷川のせせらぎの様に澄み切った女性の声。


「はい。何とか……」


顔を上げてその人と目を合わせた途端、美夜の心はすっかり奪われてしまった。


自らの手を惨めな美夜に差し出していたその人こそ―――清小路伯爵令嬢、怜子だった。

怜子はまだ学生で、ほんの二十歳過ぎくらいの年齢だったはずだ。


しかしその時の彼女は、全身からもう十分に成熟しきった高潔な威厳を漂わせていた。

その気高さはまさしく太陽、日輪そのものだった。


凍えるような寒風に、毛皮の縁飾りがついたマントの長い裾をはためかせる怜子の姿は、物語の中の高貴な王女を思い起こさせた。


「ありがとう、ございます」


美夜はその佇まいに圧倒されながらも、吸い込まれるようにして上等な黒革の手袋に包まれた手を取った。


頭の中がふわふわとして、まるで夢でも見ているみたいだ。

けれども、夢見心地な気分はすぐに打ち砕かれ、美夜は現実に引き戻された。


「待ちやがれ!」


振り返ると、男達がもうすぐそこまで迫っている。


万事休す、おしまいだ―――


「どうしよう……」


美夜が弱音を呟くのと、怜子のマントが目にも止まらぬ速さで(ひるがえ)ったのはほぼ同時だった。

次の瞬間にはマントの中にすっぽりと包み込まれており、怜子の腕が強く美夜を抱き寄せていた。


あまりに短い間の鮮やかな出来事だったので、美夜は驚く間もなかった。


二人の体は一分の隙もなく密着し、美夜の頭のすぐ横には怜子の白絹のブラウスに包まれた豊かな胸がある。

ぴったりと耳をつけていると、肌の下を流れる血潮の温かさや、柔らかな双丘の奥で鼓動を刻む心臓の音までもが伝わってくる。


「あ、あの……」


「静かに」


怜子にそう囁かれ、美夜は言われた通りにじっと息を殺した。


その直後に


「畜生!あの娘、どこ行きやがった?」


「確かにこっちに逃げるのが見えたぞ」


と美夜を追う男達の声が聞こえ、心臓が止まりそうになった。

見つかったらどうしようと怖くてたまらず、すがるような思いで怜子の体にしがみついた。


「大丈夫よ」


美夜の怯えを感じ取ったのか、怜子はそっと美夜の耳に囁き、震える背中を撫でてくれた。


マントの合わせ目からそっと覗くと、男達は美夜を見つけられずに苛立っている様子だ。


「どこに行ったもんか……あっ、お嬢さん、この辺りで月影の娘を見やせんでしたか。手織り縞の着物を着た、十四、五くらいの娘なんですがね」


片方の男が、そばに居た怜子に腰を低くして尋ね、美夜は慌てて顔を引っ込めた。


「さあ……存じ上げませんわ」


いかつい男を目の前にしているというのに、怜子の声は全く焦りを感じさせず、鼓動は時計の秒針のように極めて正確だった。


「仕方ねぇ、あっちを探すぞ!」


男達の足音が遠ざかると共に、美夜はほっと胸を撫で下ろした。


「もう出てきても良くてよ」


「あのっ、ありがとうございます!」


見ず知らずの自分なぞを助けてくれて、美夜は怜子にはいくら感謝してもしきれず、瞳を潤ませて何回も頭を下げた。


「お礼なんて要らないわ。でも、そうね。もしお嫌でなければ、あなたのお名前を教えてくださるかしら」


「名前……ですか?」


怜子は涼しい目元に慈愛深い微笑を浮かべ、頷く。


この人に微笑まれると、何故だかどぎまぎしてしまい、御顔もまともに見られなくなってしまう。

だが、精一杯背筋を伸ばして、どうにか自分の名を名乗る。


「百幸美夜と申します」


「まあ……百幸、美夜?」


その静謐(せいひつ)な眉目の辺りを、一瞬驚きの表情が掠めた様な気がした。

しかし、きっと美夜の気のせいだったろう。


二人はその時会うのが初めてだったのだし、怜子が美夜の名を知っていた筈も無いのだから。


「そう、美夜というのね。あなたは月影でしょう。どこか行く宛はあって?」


その問いに、美夜はしょんぼりと、弱々しく首を振る。

怜子に助け出され、どうにか男達から逃げる事はできたものの、これからどうすれば良いのかさえ分からなかった。


「それなら」


怜子は膝を折り、顔の高さを合わせてからじっと美夜の目を覗く。

どこまでも真っ直ぐひた向きに、美夜を見つめる澄んだ目。

曇天を切り裂く一筋の陽光のように、美夜の胸の奥まで射し込んでくるようだった。


「一緒に来る?私の家へ」


こくんと頷く美夜と、それを見守る怜子の姿を、冴え渡った夜空の望月が照らす。


月の光もさやかに、冬の宵は静かに更けていった。



あの後、怜子に連れられて伯爵邸にやってきた美夜は、怜子専属のメイドとして働けることになった。

それから怜子に仕えて、今年で三度目の春を迎える。


「もう三年も経つのね。私には昨日の事のように思えるけど」


「わたしもです。あっという間でした」


「でも、美夜は大きくなったわ。前は本当に小さくって、私の胸のところまでしかなかったのに、今は肩のところまで背が伸びたんですもの」


「あら。わたし、もう少し大きかったと思いますわ」


美夜がむくれてぷっと頬を膨らませると、怜子は慌てて弁解した。


「だって、あんまり小さかったものだから、私てっきり十二くらいの女の子だと思ったのよ。それが今ではこんなに立派なメイドさんになって、雇い主としてこれほど嬉しいことはないわ」


「怜子さま」


一歩後ろに下がってから、これまでの感謝を込めて、深く深く頭を下げる。


「あの時わたしをお救いいただいて、ありがとう存じます。それだけでなく、こうしてメイドの仕事も与えてくださって。本当に、いくら感謝してもしきれません」


怜子がいたからこそ、美夜は美夜として生きていけるのだ。

月影である前に、一人の意思を持った人間として。


「大したことはしていないわ。あなたが恩義を感じる必要は無くてよ」


怜子は事も無げに言い、また紅茶を一口、美味しそうに味わう。


「でも……!」


清小路家のような公家華族は大名華族のように領地を持っていないため、並外れて裕福という訳ではない。(ごく普通の平民の家庭と比べればそれなりに財産はあるのだが)


それでも怜子は、幼い自我の他には何一つ持ち得ずに着の身着のままだった美夜を引き取って、衣食住の面倒を全て見てくれた。

さらに空いた時間には、読み書きが一切できなかった美夜のために、自ら勉強を教えてくれもした。


これほどまでの温情に感謝を感じない人間が果たしているだろうか。


「私はあなたの労働への対価を支払っただけ。主人なら当たり前の事だわ」


「でも、あの冬の満月の晩、追っ手からわたしを隠してくれました。どうして赤の他人であるわたしのような月影を……」


この屋敷にやってきてから幾度となく考えてきたが、答えは出ないままだ。


「理由を上げるとすれば、目かしら。あなたの目の奥にはね、静かな、でも確かな意思が薄雲の掛かった淡月(たんげつ)の様に宿っている気がしたの。その目を見た途端、考える間もなく体が動いてしまって……何だか分かりにくい説明よね」


怜子は苦笑いしていたが、美夜はそんな自分の主人を敬愛する気持ちでいっぱいだった。


「いいえ。どんな理由であろうと、怜子さまがお優しくて立派な方だということに変わりはありませんもの。わたし、怜子さまにお仕えできてほんとうに幸せでした」


それは嘘偽りのない、美夜の本心である。

怜子と過ごしてきた一瞬一瞬が、忘れられない思い出であり、かけがえのない宝物だった。


「私もよ。あなたが来てくれてから、毎日が少しずつ楽しくなった。おもうさまやおたあさまがあなたのことを何とお思いになろうと、私はあなたと一緒にいたいの。これからも私の傍にいると約束してくれる?」


「もちろんです!指切りしたって構いません。……あ、でも指切りなんて子供っぽいですよね」


「あら、良いじゃない。私は構わなくてよ」


怜子は言うが早いがティーカップを置き、小指を差し出す。

彼女が良いならと、美夜もどこかこそばゆい気分で自分の小指を絡める。


「指切げんまん、約束します」


これからもずっと、自分はこうして怜子の傍で彼女の為に仕えていきたい。


そして、月影でも自由を得られるのだと行動をもって示してくれた恩を返したいと心から思うのだった。



その日の夜遅く。


伯爵家の玄関のポーチの前に、一台の自動車が止まる。

日輪らしい堂々とした足取りで車から降りて来るその女性こそ、現伯爵・清小路尊子(たかこ)であった。


その面差しや、小さな所作の一つ一つ取っても、全くもって怜子は()である尊子の血を濃く受け継いでいると言って良い。

しかし、ひそめるように張り渡された眉や、峻険(しゅんけん)に引き締まった口元から発せられる、(いかめ)しく近寄りがたい雰囲気は怜子に無いものである。


早くに父を亡くし、若くして伯爵家の当主の座に就かなければならず、自分にも他者にも一切の妥協を許さずに生きてきた立場が尊子をこのような人間にさせたのかもしれない。


「あら、貴女(あなた)。お帰りでしたの」


広々した玄関ホールの深紅の絨毯が敷かれた螺旋階段の上から、夫人は夫を冷ややかな目で見下ろす。


「怜子はどうしている。初音(はつね)


物言いの堅さに対して、妻の名を呼ぶその口調は意外にも穏やかだった。


だが夫人は夫のほうなど見向きもせずに


「怜子さんでしたら、随分前に戻られましたが」


と答え、それから不機嫌そうに顔を歪める。


「貴女、怜子さんたらまたあの月影の娘と一緒にいましたわ。おまけにあの娘の肩を持つ真似までして!貴女も父親でいらっしゃるなら、しっかりと言い聞かせてくださらなければ困ります」


「怜子には後で話そう。清小路家の次期当主しての自覚を十分に持つようにと」


「この間も同じ事を仰っていたではありませんか。一体どうなさるんです、怜子さんがあの娘を(つがい)にでもしたら!」


日輪が月影のうなじを噛むと、二人は番と呼ばれる特別な関係で結ばれる事になる。

結婚などで生じる社会的な関係とは異なり、本能によって深く体に刻み込まれるその絆は、一度結ぶとどちらかが死ぬまで解除されないと言われている。


月影は番の関係を結んだ後では、その日輪の子しか妊娠する事が出来ない。

彼らが首輪を嵌めてうなじを守るのも、それが理由である。


自分の子を月影に産ませたい日輪は、婚礼を挙げた後に月影を番にするのが一般的だ。

伯爵と夫人も数十年前にそうして番となり、二人の間には怜子という娘が生まれた。


だが、望まぬ相手との結婚を嫌がる月影が、違う日輪にうなじを噛ませて番になってしまったなぞという話も極稀にある。

一昔前はお上への反逆行為として、そんな月影と相手の日輪には激しい制裁が下されたものだった。


夫人は娘が美夜を自分の番にしてしまうのではないかと、それを死ぬより恐れているのだ。


「そんな真似をする程、怜子は愚かな日輪では無い。あやつにきちんとした思慮の深さがある事は、私も知っている」


夫の言葉に、夫人はしぶしぶ納得がいったらしい。


「わたくし、怜子さんにお嫁さんを迎えてはどうかと思いますの。怜子さんにふさわしい、良い家柄のお美しい月影のお嬢さんを」


「その事も考えてある。案ずるな」


思い通りの回答を得られた夫人は満足した様に、美しいがどこか技巧的な笑みを浮かべる。


「それを聞いて安心致しましたわ。では、わたくしはこれで休ませていただきます。ご機嫌よう」


怜子が生まれて間もなく、夫婦の寝室は別々になっていた。


夫人が自室に下がってしまうと、しんと静まり返ったホールには、尊子一人だけが残される。


「―――邪魔は、排除せねばな」


その呟きを聞く者は、誰もいなかった。

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