背中合わせの日月
「初めちょろちょろ、中ぱっぱ。赤子泣いても蓋取るな、だよ。美夜さん」
「初め、ちょろちょろ……」
「中ぱっぱ」
まだ太陽も目を覚まさない、薄暗い早朝の台所。
美夜は姉さん被りにした手拭いにたすき掛けをして、朝食の支度をする誠太郎を手伝っている。
誠太郎も、今では彼の力になりたいという美夜の気持ちを汲んで、それを受け入れてくれる。
だが、誠太郎の手助けをするというより、ほとんど彼に教えられるばかり。
ご飯の炊き方一つ取っても、美夜には慣れない事だらけだ。
簡単なまかないを作るのならまだしも、こうして一からご飯を炊くのは初めてだった。
西洋風を旨とする伯爵家の食卓に上るのはパンが中心で、毎朝帝都でも名の知れたパン屋が届けにきてくれる。
たまにご飯を炊く時も、それは美夜の仕事では無かった。
そんな美夜に、誠太郎は独逸語の講義でもするように、一から教えてくれた。
最初は火の勢いを弱く、しばらくすると沸騰した釜の中からちょろちょろ音がしてくる。
そのタイミングで薪を加えて、ぱっぱと火が燃え上がるくらいの強火にするのだ。
パチパチと火の粉の弾けるかまどの前にかがみ込み、竹の筒で息を吹き込めば、ぼうっと炎が燃える。
朝靄に煙る空へ、お米のふっくらとしたにおいを染みこませた湯気が昇っていく。
「そうそう、上手いじゃないか」
誠太郎から褒められる以上に、自分にできる事が増えていくのが美夜には嬉しい。
沸騰が激しくなって中身の吹き出す頃になると、燃えていない薪を引いて火の勢いを弱める。
「しばらくすると、赤ん坊が泣くみたいに釜の中からゴトゴト音がする。でも、絶対に蓋を取らないように。音が収まる頃には、ご飯も美味しく炊き上がっているから」
誠太郎の言葉通り、美夜はじっと火の勢いを見守るのに集中した。
朝の一時は静かに、和やかに流れる。
すると、そんな穏やかさにまどろむ台所へと、勝手口から突如飛び込んできた人影があった。
「誠太郎さん!美夜が何処にいるか御存知ありません?離れの中に、あの子の姿がなくて」
怜子は誠太郎の肩を掴まん勢いで、そう早口に尋ねる。
乱れた断髪や純白の寝間着の裾もそのままにし、剥き出しの足は朝露に湿った泥にまみれていた。
以前の怜子ならば、寝間着のままで庭先はおろか、自分の部屋から一歩外へさえも出ようとはしなかった。
その様にはしたない真似は、淑女にあるまじき振る舞いだと言って。
しかし、焦りに呑まれた彼女にはそんな事も眼中に無いらしい。
誠太郎は怜子のあられもない格好や行動に、すっかり鼻白んだ様子だった。
「美夜さんなら、ここにいるさ。今日から朝食の支度を手伝ってもらっているんだよ」
誠太郎の陰にしゃがんでいた美夜がおずおずと立ち上がると、怜子はすぐさま自身の腕の中に抱き寄せる。
「嗚呼、美夜。良かった!」
怜子の千切れ千切れの呼吸が額に掛かる。
美夜はその出し抜けな抱擁に、されるがままとなる他無かった。
誠太郎は苦笑さえ引っ込んでしまった如く、目の前の異様な光景に釘付けとなっている。
隣では誰からも構われないまま泣き続ける赤ん坊の様に、ほったらかしにされた飯釜がゴトゴトと激しく音を立てていた。
あれから、怜子が悪夢に魘される事は無くなった。
だが、それも当たり前の事である。
悪夢が我が身を苛むのならば、眠らなければ良い―――怜子はそう思い定めて、長い夜を過ごしているのだから。
夢魔に苦しめられるうめき声の代わりに、彼女の部屋からは嘆きと憂いを込めた溜息が夜ごと漏れ聞こえる様になった。
それが怜子の健康を蝕んでいく事になったのは言うまでも無い。
布団から起き上がるのが難しくなり、昼日中であっても床に臥せている事が増えた。
そんな彼女を、大槻夫妻も案じている。
息子の好き嫌いには厳しい誠太郎も、怜子が三度の食事をほとんど手つかずのまま残す事には口を出さないのだ。
人の身である以上、怜子も眠らずにはいられない。
昼間に途切れ途切れの睡眠を取っているものの、毎日の眠りは三時間にも満たないだろう。
それでよく体を起こしていられるものだと、ある意味感心してしまう。
しかし、散りゆく花の様な彼女の身がいつまで持つか。
「怜子さま。わたし、そろそろ参りませんと」
「……どうして?」
彼女の腕の中から遠慮がちに申し出た美夜に、怜子はじっと恨みがましい目を向ける。
我が子を奪われる事を恐れる母親の様に、怜子は片時も美夜を離そうとはしない。
弱々しく腕の中に抱き寄せて、うわごとの様に美夜の名を囁く。
少しでも姿が見えなくなると動転してあちこち探しに行くので、美夜も不用意に歩き回れない。
「誠太郎さんがお買い物に行かれるそうですから、晴彦ちゃんとのお留守番を頼まれましたの。用事が済んだら、すぐに戻ります」
彼女を置いて離れを出られるのは、誠太郎の手伝いをしに行く時くらいだ。
美夜がなだめすかす様に言うと、怜子はようやく腕を下ろす。
「早く戻ってきて頂戴。約束よ」
障子を閉め切った陰影の中に、うつむいた怜子の瓜実顔が沈んでいく。
雛人形の様にすっきりとした品の良さが、かえって化粧気の無い顔を寂しげに見せる。
「ええ……約束いたします」
美夜も、強いて微笑んでみせる。
自分の存在によって怜子が少しでも安らげるのならば、できるだけ彼女の傍にいる他無い。
健やかなる時も、病める時も、空に太陽と月の輝く限り。
日輪と月影の結婚式では、そう言って神に永遠の愛を誓うのだという。
健やかなる時も、病める時も――
明けない夜が無い様に、癒えない病は無いと信じたい。
そんなものは、ただ死によって救いがもたらされる呪いも同然だもの。
けれど、怜子の美夜を映す瞳はどこまでも昏く、終わりの見えない常闇を思わせた。
夜明け前から空に垂れ込めていた鈍色の雲は、今なお繭の様に太陽を包み隠している。
晴れた青空でも見て憂鬱を紛らわせたいのに、それさえ遠い。
「美夜お姉ちゃん?」
自分を呼ぶ晴彦のあどけない声に、居間の中からぼんやりと空を見上げていた美夜は我に帰った。
「ごめんなさいね、考え事をしていて」
尋常小学校の一年生である晴彦は、外で活発に遊び回るより、家で本を読んだりするのが好きな大人しい子らしい。
学校の勉強もよくできる方で、皆の前で先生に褒められたという綴り方(作文)の宿題を誇らしげに見せてくれる。
「タノシカツタコト」という題に晴彦が選んだのは、日曜日に家族で動物園に行った時の出来事だった。
父に肩車をされて、人混みの中から大きな象を見た事。
母の作ったお弁当を、お昼に芝生の上で食べた事。
帰りは三人で、夕焼けの中手を繋いで帰った事。
そのどれを取っても、幸福な家族の情景が目に浮かぶ様だ。
「お父さんがね。お母さんのお腹の赤ちゃんが生まれたら、今度は四人で来ようって。ぼく、その時は弟か妹に色んな動物の名前を教えてあげるんだ」
「いいなあ、晴彦ちゃん」
思わず口をまろび出た呟きに、はっとした。
頼もしい父に、優しい母。
普通の子供なら当たり前に与えられる、そんな家族との幸せな日々なんて美夜の人生にありはしない。
怜子と結ばれる事に対して、彼女本人への懸念はもちろんある。
それと同じくらい、新たに家族を得る事への不安は途方も無い。
怜子との間に子供を授かったとして、親に愛された事も無い自分が育てられるのだろうか。
どう愛情を注いで、どう守っていけばいいのだろう。
もし、その子が月影だったら。
自分が負ってきたのと同じ辛さに我が子を苦しませる事がないと、どうして言い切れよう。
こんな思いをするくらいなら、月影になんて生まれて来ない方が良かったのではないかーーー
心の中で自分の生を疑った事も、一度や二度では無い。
過去にばかり囚われてはいけないと思う。
だからこそ前に進みたいのに、鬼の様な父の記憶や、蔵の中に囚われていた日々が離れてくれない。
「お前はなあ、生まれた時から売ろうと決めていたんだよ」
そう美夜を嘲ったあの男の声が、今も耳にこびり付いている。
やっと自由を手に入れた筈なのに、あのかび臭い蔵の中に心の一部を置いてきてしまったみたいだ。
仲間のメイド達が家族から届いた手紙を読んでいたり、薮入りには楽しげに里へと帰っていくのを見る度、どこか惨めな思いが募った。
普通では無い境遇に生い立った自分と、彼らとの絶対的な違いを見せつけられている気がして。
自分には人間としての要が欠けているのだと、消えない烙印を押された様で。
願っても叶わない望みに支配される苦しみを、誰が知ってくれるだろう。
「美夜お姉ちゃん、今日は何だか元気無いね。怜子さんと喧嘩でもしたの?」
美夜の沈んだ表情に気がついた晴彦が、父譲りの大きな目を思わしげに曇らせる。
この子は利口で賢い分、人の感情の機微にも敏感なのだ。
それだけに、なかなか痛い所を突いてくる。
「ううん、何でもないのよ」
こんな子供にまで心配させて、自分が情けなくなる。
晴彦はつと立ち上がると、部屋の隅にあるおもちゃ箱へと何かを取りに行く。
「これあげるから、元気出して」
それは、果物の絵が描かれた缶入りのドロップだった。
皿の様に広げた美夜の手に、晴彦がころんと一粒出す。
「あっ、オレンジ味だ」
「これ、最後の一つでしょう。わたしは平気だから、晴彦ちゃんが食べて」
そう美夜が手のひらに載せた飴を返そうとすると、晴彦が首を横に振る。
「良いんだ。お母さんがね、元気の無い友達には親切にしなさいって。ぼく、今は元気だから、このドロップ美夜お姉ちゃんにあげる」
國彦に似たか誠太郎に似たか、いずれにせよ心の優しい子である。
きっと、良いお兄ちゃんになるだろう。
「ありがとう。じゃあ、頂くわね」
口に含んだ途端、じわりと甘酸っぱい風味が舌の上に広がる。
いつの日かセレナーデの君に貰ったキャンディも、オレンジ味だった。
生まれて初めて誰かから与えられた優しさが、どれほど美味しかったことか。
無論、全く別の飴だけれど、美夜はその味をあの時のキャンディと重ね合わせずにはいられなかった。
日だまりの懐かしい温かさが、じんわり胸を満たしていく。
束の間は現実を忘れて、人生の数少ない幸福な思い出に縋ろうとするのはいけない事だろうか。
今となっては、美夜の心を慰めてくれるのはそれくらいしか無いのだ。
ドロップが早く溶けてしまわない様に、ゆっくりと口の中で転がした。
感傷に浸って飴を舐る美夜の横顔を、晴彦は不思議そうに眺めていた。
舐め終わった飴の甘さが口から消えないうちに、のどかな昼下がりに似つかわしいチャルメラの音色が外から流れてくる。
「飴売りのおじいさんだ。いつも、このくらいの時間に売りに来るんだ」
子供にとって、甘いお菓子ほど魅力的な物は無いだろう。
晴彦は今にも行きたそうに、白い靴下の足で背伸びをして外を覗こうとする。
「じゃあ、ドロップのお礼にお姉ちゃんが買ってあげる」
「ほんとう?」
ぱっと顔を明るくする晴彦に、美夜は微笑んで頷いた。
外に出てはいけないと怜子からは再三に渡って言われているものの、すぐ近所ならば大丈夫だろう。
早く早くと晴彦に手を引かれるまま向かった空き地では、白い髭のお爺さんが台を広げて飴細工を作っていた。
晴彦の他にも、近くに住む子供達がわいわい言いながらその光景に眺め入っている。
膨らませた飴を器用にはさみで整えていくと、柔らかく白い塊が、あっという間に兎や鳥といった動物に姿を変えていく。
その手妻の様な光景は、子供でない美夜でも見ていて面白かった。
「坊ちゃん、姉さんと来たのかね。何を作ろうか」
美夜の手をしっかり握った晴彦に、お爺さんがにこにこと尋ねる。
聞くと、頼めば大概のものを飴で作ってくれるというのだ。
怜子にも買っていこうと晴彦が言うので、その分も含めて三つ作ってもらった。
「何だか、食べるの勿体ないや」
そう言いつつも、晴彦はうきうきと犬の形をした飴を口に含む。
「美夜お姉ちゃんは食べないの?」
「おうちに戻って、怜子お姉さんと頂くわ」
そう答えた美夜の手には、黄金の翼を大きく広げた鳥と、耳をぴょこんと折り曲げた兎の飴の棒があった。
唐土の国では、太陽の事を金鳥、月の事を玉兎と動物になぞらえて呼ぶのだとか。
愛日という言葉も、元々は隣国の古典に端を発するものなのだ。
この精巧なつくりの飴を見て、美夜の愛日の君も気を晴らしてくれれば良いのだけれど。
空き地の片隅では、晴彦と同じくらいの年頃の男の子達が飴を頬張っていた。
その中の一人が晴彦に気が付き、嬉々として駆け寄ってくる。
「晴彦も来てたんだ。これから皆で石蹴りするから、一緒にやろうよ」
「石蹴り?うん、やりたい」
晴彦は内向的な性格であっても、決して友達と遊ぶのが苦手という訳では無いのだろう。
温厚で優しい子なのだから、遊び友達から好かれるのも頷ける。
「行っていらっしゃい。お母さんには、わたしから説明しておくから」
明るく笑いさざめきながら子供達と遊びに行く晴彦を見送ると、美夜は四つ辻の真ん中にぽつんと立ち尽くした。
こうして一人きりで外を歩くのは、一体いつ以来だろう。
湿り気を帯び、雨の訪れを予感させる空気を胸いっぱいに吸い込んで伸びをすると、体の節々がほぐれていくのが分かる。
知らず知らずのうちに、身も心もすっかり張り詰めていたのだ。
新鮮な外の空気を吸いながら大槻家へ戻った頃には、憂鬱な気分も和らいでいた。
玄関を開けようとした時、叩きつける様な勢いで向こう側から引き戸が打ち破られる。
「……何処に行っていて?」
いかなる呪詛も、怜子のおどろおどろしい怨み言の前には祝福も同然であった。
そこにいるのは美夜が誰よりも慕う愛日の君、清小路怜子という女性に違いなかった。
しかし―――荒れ果てた花園の様に、彼女の昔日の麗しさは影も形も無かった。
曇天の薄明かりに晒された姿に、思わず声を上げて後ずさりそうになる。
温かな血が通っているとは信じられないくらい、青ざめ乾ききった肌。
黒髪はその匂いやかな艶を失って、生気の無い表情を縁取る。
患いに痩せ細った体を不吉なくらい白い寝間着に包んだ姿は、もはやこの世の人とは思われない。
まるで、亡霊だ。
障子を閉め切った部屋の中にいたとはいえ、愛する人がここまで変わり果てていた事に今まで気が付かなかったなんて。
やつれた顔の中で、双の目のみが怒りに激しく瞬いている。
取り返しの付かない事をしてしまったと思い知るには、全てが遅過ぎた。
凍てついた痛みが、氷柱の様に鋭く美夜の頬を刺し貫く。
怜子がその手を、美夜に向かって振り下ろしたのだ。
「この、薄情者!私の気持ちを知っていながら、よくも、よくも……」
殴られた衝撃による耳鳴りと、初めて彼女に手を上げられたという驚愕で、その後の言葉はろくろく耳に入ってこない。
誰かに痛めつけられるのは、これが初めてではない。
だが、他のどの人よりも美夜を愛し、慈しんでくれた愛日の君―――その怜子が美夜の頬を張り飛ばしたなんて。
へなへなと腰が抜けて、足に力が入らない。
湿った土の冷たさと一緒に、絶望がじわじわと体を這い上る。
殴られた拍子に手から取り落とした飴は、二つとも飛び石の上でばらばらになっていた。
ぽっきりと翼の折れた金烏と、首のもげた玉兎。
それを見ていると、世界の音が徐々に戻ってくる。
「私が美夜の事を何よりも想っているのに、何故こんなにむごい仕打ちができるのよ。本当に非道い……!」
怜子が逆上するまま再び手を振り上げると、美夜はびくりと体を震わせた。
虐げられてきた人間の体には、その拳の痛みが骨の随まで染み込んでいる。
打たれた傷は、やがて治る。
けれど―――心の痛みはその奥深くまで刻み込まれたまま、幾年を経ても癒える事が無いのだ。
消し去りたい父の忌まわしい記憶が、脳裏にまざまざと蘇える。
美夜は地べたに手を突き、面を伏せた。
忘れていた筈の動きを、体は愚直なばかりに覚えている。
「申し訳ありません。わたしが悪かったんです。ごめんなさい」
自分達月影は、何があろうと日輪に逆らってはならない。
幼い日に姉から聞かされた、決して破ってはいけない掟。
だから、父に逆らう事は死んでも許されなかった。
その父と怜子こそ、同じ日輪の性を持っていると忘れていたのか。
涙がぽたぽたと、地面に落ちていく。
それに呼応する様に、天からは大粒の雨が一雫、また一雫と降ってくる。
泣きじゃくる美夜の姿に、怜子の色褪せた顔はさらに蒼白になっていく。
わななく唇は断末魔の呼吸の様に、ひゅっと音を立てて息を吸い込んだ。
「許して頂戴。痛かったでしょう。許して……」
美夜の頬をそっと撫でる怜子の目からも、涙が止めどなく流れる。
太陽をその雲の中に隠したまま、雨は二人の上に冷たく降りかかる。
雨脚は衰える事無く、宵の口となってもしとしと屋根瓦を打つ。
まだ濡れている様な気のする目の縁を拭って、美夜は夕食の支度を手伝う。
こんな雨にも関わらず、大槻家には幾名もの来客があったのだ。
誠太郎の妊娠を聞きつけた尋常社の人達が、各々心づくしのお祝いを持って訪ねてきたのである。
水引を掛けたご祝儀や産着を縫う為の反物、家が米屋を営んでいるので、大きな米俵を載せた荷車をぬかるみの中引いてきた人までいた。
晴彦を身籠もるまで、誠太郎は國彦と共に尋常社で働いており、なかなか腕の立つ編集者だったという。
妊娠をきっかけに家庭に入ったが、女学生の怜子が尋常社に出入りする様になったのはそのすぐ後だった。
だから、二人の間にはほとんど面識が無かったのだ。
夜も更けてきた事とお祝いへのお礼も兼ねて、尋常社の人々には夕食を振る舞う事になったのである。
献立こそ質素なものの、ちゃぶ台を囲んでの賑やかな宴会の席。
お銚子も次から次へと回され、時折どっと笑い声が起こる。
「いやあ、めでたいね。大槻さん夫婦も、二人の子の親になるとは」
にこにこと祝いの盃を受ける國彦の横には、誠太郎が照れくさそうに並ぶ。
降りしきる雨のせいで少し肌寒い夜だったが、座敷の中には人々の熱気が満ちて汗ばむくらいだった。
宴の盛り上がりを横目に、一仕事終えた美夜は部屋の片隅にじっと座り込んでいた。
すっかり出来上がった赤ら顔の社員が、そんな美夜を目ざとく見つける。
「おや、新しく雇われた女中さんかね。さ、君も休憩して、こっちに来て一杯やりたまえよ」
「わたし、あの……」
体に毒だと怜子から言われていたので、酒には口さえ付けた事が無い。
美夜が困っていると、國彦が間に入ってくれる。
「ぼくの姪なんだよ。美夜と云うんだ。誠太郎の手伝いをしてもらう為に、田舎から呼び寄せてね。お腹が大きくなれば、家事も一苦労だろうから」
「ほう、姪っ子か。そう言われると、顔立ちもどことなく國彦さんに似ているな」
國彦の機転のきいた作り話をきっかけに、一座の話題は美夜の事で持ちきりになる。
「誠太郎さん、怒るとおっかないでしょう。我慢できなくなったら、尋常社にいらっしゃい。私が立派な職業婦人に仕込んであげるわ」
そう冗談を言って笑う月影の女性社員がいるかと思えば、
「この後藤と云う奴、なかなか女房の来手が無くてね。どうだねお美夜さん。一つ、こいつの嫁さんになっちゃくれないか」
「ああ、任せておけ。そんじょそこらの日輪なんか目じゃないくらい、何倍も幸せにしてみせるさ」
呂律の回らない口調で笑い合う、へべれけになった尋常種の男性社員までいるので、何と返して良いか分からなかった。
「やめたまえ、二人とも。美夜さんには、将来を誓い合った相手がきちんといるのだからね。余計な手出しは無用だよ」
誠太郎が彼らを諫めるのを聞くと、まぶたの裏側がじんわり熱くなってくる。
今頃は真っ暗な部屋の中、一人きりでうずくまっているであろう怜子の姿が目に浮かぶ。
「ありゃ。このお銚子、もう空だ」
「わたし、取ってきます」
美夜は逃げる様に宴の席を後にした。
和やかな明かりの下では、この涙を隠せない。
生まれ育った蔵の中の闇が、今はどこか恋しかった。
酒を並々と注いだ徳利を、小鍋でことこと温める。
ランプの火が、しゃくり上げる美夜の影をくっきりと台所の板壁に映す。
ぴちょん、ぴちょん。
軒を伝い落ちる雨だれの音に混じって、涙が鍋の中の湯に波紋を広げる。
ぴちょん、ぴちょん。
塩辛い雫が徳利の中に入ってしまっては大変だ。
袖口でごしごしと目元を擦る美夜の肩を、ぽんと押さえた大きな手があった。
「美夜さん」
國彦の眼差しや声音は、アイスクリームをとろかす日なたの様に温かった。
「泣いていたのだろう。目が赤いよ」
怜子の二十四回目の誕生日を祝うパーティーが近づいていた頃、全く同じ事を彼女に言い当てられた。
父の急病で実家に帰らなければならないメイド仲間の花に代わって、美夜はその手伝いをさせて欲しいと伯爵に頼みにいったのである。
彼女から、パーティーに招待した良家の月影の令嬢の中から怜子の妻を探すつもりだと聞かされて―――誰もいないバルコニーで、思わず泣きそうになってしまった。
そんな美夜を見つけた怜子は、聖母の様に柔らかな声音で問うた。
「泣いていたのね。目が赤くてよ。またおたあさまに何か言われたの?」
その時、悟ってしまった。
自分が怜子を慕う気持ちは、使用人が主人に対して抱くべき類いのものではないと。
そんな感情を怜子に知られるのも、心配させてしまうのも心苦しくて、美夜はこう答えた。
「夕焼けのせいでそう見えるだけでしょう、きっと。ご心配なさらないでください」
だが、太陽の無い夜にはその言い訳も意味を成さない。
「泣くまいと目を擦るとね、かえって周りが赤くなってしまうものなんだよ。君は人一倍色白だから、それが特に目立つ。ぼくの兄も色の白い人だったから、よく分かる」
そこまで言われようと、美夜はなおも頑是無い子供の様に口をつぐんだままだった。
「言いたくなければ、言わなくてもいいよ―――怜子君の事だろう」
違います、と美夜は意地を張ろうとした。
けれど、何故だか國彦にはこの胸の悲しみも何もかも打ち明けて、泣きついてみたくなってしまう。
彼が尋常社の人達についた嘘の様に、本当に國彦が美夜の叔父ならば良いのに。
亡くなった母には年の離れた日輪の弟が一人だけいたそうだから、この広い日の本のどこかにその叔父はいる筈なのだ。
「怜子さまがこれからどうなってしまわれるのか、不安でたまらないんです。最近の怜子さまは、今までとはまったく別の方の様で」
「本当に、変わってしまったからな。聡明で才気に溢れた彼女が、この頃はまるで魂を抜かれたみたいだ。翻訳の作業も、ずいぶん滞っている」
だが、仕事なんてどうでもいいんだと國彦はため息をつく。
「今の怜子君を見ていると、昔の徳子君を思い出してしまうんだ。従姉妹だからという理由だけでなく」
「徳子様を?」
怜子の従姉であり、以前は尋常社にもよく出入りしていた作家の徳子。
生ける屍の様な今の怜子が、何故その徳子と重なるのだろう。
「怜子君には伝えていない、ごく内密な話だ。言えばきっと、あの子自身まで深く傷ついてしまう」
雨模様の夜空を映して、國彦の瞳の色は暗かった。
「あの頃、徳子君には好き合っている月影がいたんだ。蔦さんという名前でね。月影の学校で教師をしていたよ。自分の意志をしっかりと持っていて、とても頭の良い女性だった。うちの誠太郎とも、親しくしていてね。丁度ぼくと同い年だから、生きていれば今年で三十になる」
生きていれば。
その言葉に、不吉な何かが背筋を走る。
「お亡くなりになったんですか」
「殺されたんだ―――天照に」
子爵家の長子であり、帝國大学の学生であった徳子は、自分と同じく尋常社に出入りする蔦と出逢った。
教師として、一人の月影として、彼らが自分の力で生きていける社会の実現を目指す蔦の志の高さに、徳子はすぐさま惹かれていった。
やがて恋仲となった二人を、國彦と誠太郎も大いに祝福したという。
だが、それを断じて許さない人物がいた。
徳子の父であり、怜子の伯母でもある和泉子爵だ。
やがては子爵家を継ぐべき娘が、自分達華族の廃止を掲げる万民平等の思想にかぶれるだけでも度しがたいのに。
あまつさえ、平民の月影と恋に落ちるなんて。
二度と尋常社の敷居をまたがず、蔦と手を切れという父の命令も、徳子は断じて聞き入れようとはしなかった。
業を煮やした子爵はどこからか得た伝手で、天照に問題の始末を委ねた。
その結果、蔦が教鞭を取る学校へと踏み込んだ警察が、彼女の身柄を拘束した。
反社会的な過激思想で、生徒達を扇動しようとしたというありもしない罪状で。
一体天照とは、どこまで卑劣な手を使うのだろう。
無実の同志を救う為、國彦たち尋常社の人々も奔走したものの、強大な天照の力は彼らにも動かせなかった。
そんなある日、信じがたい知らせがもたらされた。
蔦が獄中で、突然命を落としたのである。
「……死因は心臓発作という事だった。蔦さんは生まれつき、心臓が弱かったからね。だが、本当はどうだか。ぼくは、蔦さんは天照に殺されたも同然だと思っている」
思想犯の中には非人道的な取り調べを受けたり、劣悪な環境下に置かれる者も少なくは無い。
そうした状況が、蔦の寿命を縮めた可能性は大いにある。
愛する月影の死は、徳子を抜け殻そのものにしてしまった。
父を、そしてその血を引く我が身を憎んだ。
蔦を助けられなかった罪を、死んで贖いたい。
そう涙ながらに國彦へ訴えた事も、一度や二度では無いという。
だが、そんな徳子にも活路は残されていた。
蔦の願った世界を込めた物語を綴る事が、徳子にとっての救いとなったのだ。
「あの事件があったからこそ、ぼくは今の徳子君が在るのだと思う。物語のおかげで、彼女は新たな人生を歩み始められたのだと」
物語によって、徳子はその生を繋ぎ止める事ができた。
読む人の魂を揺さぶる様な文章も、暗い闇に落とされながら、なおも新たな夜明けを見ようとする彼女だからこそ生み出せるものだろう。
だが、一時は想い人の死を嘆くあまり、その後を追おうとさえした。
「誰かを愛する事は人を強くし、希望を持たせるものだ。だが、深い愛はその相手が喪われた時、果てしない絶望へと人を追い込んでしまう事がある」
遠くを見る様な目をして、國彦は粛々と語る。
しとしと降る雨の音が、かえって台所の静けさを引き立てる。
「ぼく達日輪というものは、対の日月としてこの世でただ一人番うべき月影がいると言われているね。こうした関係は、この世に二つと無い稀有なものだ。対の月影に対する日輪の愛執というものは、他とは一線を画す部分がある」
そう言うぼくだって、誠太郎が蔦さんと同じ目に遭わされたらまともではいられなくなってしまう、と國彦は呟く。
怜子を苦しめているのも、美夜に対する途方も無い愛執であると彼は言いたいのだ。
「……わたし、怜子さまを見捨てたりはしたくありません。約束したんです。もう決して、あの方のお傍を離れはしないと」
今、自分が彼女の元を去ったりすれば、怜子は一体どうなってしまうのだろう。
「美夜を失ったら、私はどうすれば良いか分からないわ」
大槻家で暮らし始めてから間もない頃、降り出しそうな雨催いの空の様に怯えていた彼女。
すがりつく様な囁きが、今も耳元にある気がする。
「分かっているよ。怜子君が美夜さんに想い焦がれている様に、美夜さんもまた誰よりも怜子君を愛している事は」
美夜を慰めてくれる國彦の思いやりが、ただただ有難かった。
「おや。このお膳、怜子君のだね」
台の上には、誠太郎が用意した怜子の分の夕食が載せられている。
部屋に戻ってからというもの、怜子は中からことりとも物音をさせずに閉じこもっているのだ。
夕食を怜子に届けるのは自分の仕事なのに、どんな顔をして彼女と向き合えば良いのか分からない。
そんな美夜の気弱な表情を見やって、國彦が申し出る。
「いいさ、ぼくが運ぶよ。怜子君の部屋の前に、ひと声掛けて置いておく。そろそろお銚子も温まった頃だろうから、美夜さんはそれを皆のところに持っていってくれるかい」
「助かります」
美夜は微笑んだつもりだった。
だが、それはひどく歪なものだったに違いない。
雨を纏った夜の空気に湿った廊下を、白足袋でキュッキュと鳴らして進む。
だが、徳利を載せたお盆を手にする美夜の歩みは遅かった。
宴の賑わいの中に戻るのも、怜子と顔を合わせるのも気が進まなかった。
誰もいない場所で、煩わしい事は何も思わずにいたい。
足を止めてうなだれる美夜の前に、廊下の角からにゅっと人影が現れた。
「便所、どっちだっけなあ……」
千鳥足もふらふらと危なっかしく、熟れた柿の様に赤い顔をした背広姿の男性は、國彦の同僚で後藤と呼ばれていた人だ。
美夜を嫁に貰おうと、仲間たちと冗談を飛ばし合っていた尋常種の男性である。
前後不覚に陥るまで酔いつぶれて、すっかり酒に吞まれ切っている。
「おおっと」
よろけた彼が危うく転びそうになったので、美夜はお盆を床に置いてすぐさま脇から支えた。
「大丈夫ですか。お手洗いまで歩けます?」
「いやあ、すまないなあ。すっかり飲みすぎちまった」
えへらえへらと笑う彼からは、それと分かる酒のにおいが濃く漂ってくる。
この様子だと、だいぶ呑んだらしい。
「お手洗いでしたらこちらです。さあ」
彼の背中に腕を回して歩かせる美夜の肩を抱いて、後藤はおぼつかなくたたらを踏む。
「おきみは本当に気立てがいい女だなあ。俺みたいな酔っ払いにも嫌な顔せず面倒見てくれるんだからさあ」
「おきみ?」
彼は独身の筈だから、奥さんの名前ではないだろう。
ひょっとしたら酔った勢いで、行きつけのカフェーの女給か誰かと美夜を間違えているのかもしれない。
「俺はそんなおきみに、たまらなく惚れてんだよ。お前もそうだろう、なあ、おきみぃ」
呂律の回らない口調で言い、彼はなかば押し倒す勢いで自分の体と壁の間に美夜を挟み込む。
いきなりの出来事に、頭が真っ白になりそうだ。
「やめてください。わたし、おきみさんじゃ……」
「固い事言うなよ。俺とおきみの仲じゃないか、なあ」
身をよじって逃れようとする美夜に、男はなおも蛸の様に絡みついてくる。
酒に火照って汗ばんだ男の肌のぬくみが、体中余すことなく美夜を覆う。
「嫌っ、離して……!」
突き放そうとしても、若い男の力の前には美夜の細腕などびくともしない。
男の胸板が、すっかり美夜の視界を塞いで叫ぶ事もできない。
その時、ゴッと鈍い音が頭上でした。
「うっ」
絞り出すようなうめき声と共に、後藤の体がへなへなと床へと倒れる。
ぽかんと口を開けた美夜の視界の中で、怜子は血のついた木製の写真立てを手にしたまま、無慈悲に男を見下ろしていた。
一瞬、時が止まったのではないかと感じられた。
氷漬けにされてしまった様に、体も動かず声も出ない。
喉元まで冷たいものがせり上がってくる。
怜子は後藤の上に馬乗りになると、再び両腕を振り上げた。
「誰の許しを得て、私の美夜に下賤な真似をしているのよ!」
まくれ上がった寝間着の裾からは、少女の様に細く真白い太ももが見え隠れする。
今までに見た事のない夜叉の様な顔で、怜子は二度三度とえぐる様な勢いで写真立ての角を男の頭に打ち付ける。
「さっさと去ね、この色魔が!」
どんな時も淑女としておっとりと微笑み、悪辣な罵りの言葉なぞついぞ口にする事が無かった怜子。
そんな彼女が怒りに任せて、狂った様に男を打ち据えているこの光景は、果たして現実のものなのだろうか。
後藤は怜子を払いのける事もできず、ただただ頭を庇おうとするばかりだ。
目の前のむごたらしい有様が、喉元に突き付けられた尖った氷柱の先端の様に迫ってくる。
だが、床に赤々と広がる血だまりが目に入り、美夜は慌てて怜子の肩を掴んだ。
「もう、やめてください!後藤さんが死んでしまいます!」
「この男がいけないのよ、この男が―――」
悲鳴に近い美夜の声も届かぬ様に、怜子はその手を止める事が無い。
痩せ細った腕のどこから、これほどまでに強い力が出るのだろう。
「後藤の奴遅いなあ。あいつ、便所までちゃんと行けたのか」
「もしかしたら、どこかでひっくり返ってるのかもしれないぜ」
廊下の曲がり角の奥から近づく会話に、美夜も怜子もはっと顔を上げた。
男たちの足音や声は、徐々にこちらへとやってくる。
美夜は考えるよりも早く手近な部屋の襖を開けると、怜子の寝間着を引っ張ってそこに引きずり込んだ。
廊下に残ったままのお盆を手繰り寄せると、音もさせずに素早く襖を締める。
それから程なくして、襖の向こう側から慌てふためいた男たちの声が飛ぶ。
「おいっ、大丈夫か、後藤!」
「誰か来てくれ、誰か!」
その叫びを聞きつけて、居間からも続々と人が集まってくる。
「まあ、後藤さん!」
「医者を呼べ、早く!」
襖一枚隔てた向こう側は、蜂の巣をつついた様な大騒ぎだ。
とんでもない事になってしまった。
胸の中では心臓が、バクバクと音を立てて恐ろしいくらい鼓動を刻んでいる。
「あ、あ……」
口から慄いた声が出そうになるのを、美夜は慌てて手で押さえた。
そして、恐る恐る隣の怜子を見る。
暗い座敷の中で虚ろな目をして座る彼女は、まるで人形の様だった。
その不気味さが、辺りの闇を一層濃くする。
それからは、嵐の様に全てが目まぐるしく過ぎていった。
客間の布団に寝かされた後藤の為に医者が呼ばれ、その為に家中てんやわやだった。
幸いにも彼の命に別状は無く、酔いが醒めた数時間後には平気で起き上がってみせた。
「いやあ、お騒がして申し訳ない。酒を飲むと、その間の記憶がすっぱり抜け落ちてしまうもので。何一つ覚えちゃいなくて」
頭にぐるぐると包帯を巻きながらも、けろっとした顔で笑って見せる彼に、誰も彼も胸を撫でおろした。
一連の事件は酒に酔った後藤が廊下で足を滑らせ、近くの柱に頭を打ち付けたという事で片づけられた。
そんな彼に、國彦や誠太郎は大事を取って泊まっていく様にと促した。
だが、迷惑をかけた上にそこまでしてもらっては悪いからと、後藤は念のために人力車を呼んで帰っていった。
酒癖は決して良いとは言えないが、素面の彼は温厚な好青年なのだ。
「うちは全く構わないから、泊まっていけば良かったのになあ」
雨のそぼ降る夜道を遠ざかる人力車を見送りながら、國彦が鼻を鳴らす。
「本人は大した事が無いと言っていたが、僕はどうも引っかかるんだよ。あれだけ頭から出血しておきながら、柱には全く血が付いていなかったなんて、どこかおかしいと思わないか」
夫との相合傘の内から、誠太郎は心底不思議そうに呟く。
まあまあ、と楽観的な國彦は妻の背へと手を添える。
「後藤君は無事だったんだから、それで十分じゃないか。ねえ、美夜さん」
大槻夫妻の後ろで立ちすくんでいた美夜は、びくりと肩を震わせた。
傘の柄をぎゅっと握りしめて、声が上ずりそうになるのを抑える。
「ええ、御無事で何よりです」
月の無い雨の夜で良かった、とこの時だけ思う。
蛇の目の傘は、青ざめる肌や引きつった表情を隠してくれる。
背水の陣に挑む覚悟で、美夜は怜子のいる座敷の前に立つ。
普段であれば閉じた襖の前に膝を突いて、主人である彼女にお伺いを立ててからの入室となる。
だが、今はそんな事さえ二の次だった。
「……怜子さま。美夜でございます」
部屋の敷居に立ったままそう述べる美夜の無作法を、怜子は決して咎める事はしなかった。
窓ガラスの雨の雫が一つ二つと流れていく様子を文机に頬杖をついて眺めていた怜子は、鷹揚に振り返る。
「来てくれたのね」
その口元には小さく笑みさえ浮かんでいた。
窓からの雨明かりが、それを浮かび上がらせる。
先ほど人一人殺めかけたとは信じられぬくらい、聖母の様に清らかな笑みであった。
「こちらに来てお掛けなさい。さあ」
洗練された所作で美夜の手を取ろうとする怜子から逃れる様に、美夜は大きく後ずさった。
「美夜?」
戸惑う怜子をきっと見上げ、美夜は声を振り絞る。
「どうして、あんな事をなさいましたの」
目の前に立つ女性への恐れですくみそうになる足を、必死に踏みしめて問う。
泣きたくなる様な怯えが全身を支配する。
少しでも気を抜いた途端、我が身を打ちのめすであろうそれに打ち勝てるのは、美夜自身しかないのだ。
かつての彼女に対する尊敬や憧憬の代わりに、美夜は勇気と恐怖を持って怜子に向かい合った。
ああ、と怜子が目を逸らす。
「無事だったのでしょう、あの男。酔って何も覚えていなかったというのだから、結構じゃないの。自業自得よ」
気まずさからというより、心底どうでもいいという風に。
過ぎ去った昨日の天気の話でもするみたいに。
その顔を見た途端、今まで味わった事の無い感情が渦を巻く。
こんな気持ちを怜子に対して憶える日が来るなんて、想像もしなかった。
怒りだった。
どう扱ったら良いのかも分からない怒りが、美夜の中から溢れ出る。
「一歩間違えば、亡くなっていたかもしれないんですよ。あの方の振る舞いも決して褒められたものではありませんが、申し訳ないとはお思いにならないのですか」
「仕方無かったのよ」
こともなげに呟いて、怜子は文机の上にある木製の写真立てを取り上げる。
角にこびりついた生々しい血の跡が、先ほどの惨事を確かに物語る。
見て頂戴、と怜子はその写真を美夜へと差し出す。
いつかの初夏、怜子と出かけた記念に撮ってもらった一葉の写真。
淑女らしく上品に椅子に腰かけた怜子と、その横にはにかんで立つ美夜。
互いを信じて、確かに結ばれた手。
何の憂いも無く幸福に笑えた、夢の様な日々がそこにはあった。
出来上がった写真を取りに出かけたところを、美夜は野々宮家の使用人に拐かされたのだった。
それからの生き地獄の様な日々も、ひそかに隠し持っていたこの写真の怜子を見る事で耐え忍べた。
「美夜の部屋の箪笥の中にこれがあったから、嬉しくなってしまったの。二枚のうち、一枚は私の物でしょう。古い写真立てを見つけたから、それに入れてみたの。よく撮れているわね。素敵だわ」
無邪気な少女の如く華やいだ声を立てる怜子を、美夜は異形の存在か何かの様に呆然と見つめていた。
「この写真を美夜に見せるのと一緒に、今日の事を謝りに行きたかったの。……それなのに」
凄まじい憎しみに、品の良い瓜実顔がみるみる鬼女の形相へと変わり果てていく。
「私の美夜に、あんな猥りがわしい真似をしたりして。殺されても文句は言えなくてよ」
その刹那、全身が総毛立つのを感じた。
「いい加減になさってください。人の命を何だと思っていらっしゃるんですか!」
怜子の前では、一度も張り上げた事の無い大声が口からほとばしる。
誰よりも優しく、誰よりも慈悲深い冬の太陽、愛日の君。
そんな彼女は、もういないのだろうか。
ばらばらに砕けた金鳥の飴の様に、美夜の太陽は二度と戻りはしないのだろうか。
彼女に対する愛も、玉兎の飴の様に砕け散りそうだった。
「一体、どうなさってしまったんです。怜子さまは。わたしのお慕いしていた怜子さまは……」
美夜の目の前にいる怜子は、自らの物狂おしい執着を燃やして輝く太陽でしかない。
「こんな怜子さま、わたしは見たくありません」
「美夜!」
背後から怜子が呼び止めるのも聞かず、美夜は向かいにある自分の部屋に駆け込み、中から箒でつっかえ棒をした。
一人きりになった途端、抑えていた涙が再び頬を伝う。
美夜は座敷の真ん中にかがみこみ、身も世も無く泣き伏した。
雨粒が、絶え間なく窓を打つ。
初めて怜子との別れを強いられた夜も、こんなやるせない雨が降っていた。
もう、月は出ない。




