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偽りの日輪

女の呻き声に、美夜は目を覚ました。

深い闇をつんざく様な(うな)りは、知らない人が耳にすれば幽霊かと怯えるかもしれない。


(もだ)えにも似たその呻きがどこから聞こえてくるのか、そしてそれが誰のものかは分かっている。


美夜は寝床を抜け出ると、文机の上にある蝋燭に急いでマッチで火を灯す。

そして、燭台のみを手にしてそのまま部屋を飛び出した。


真向かいにある座敷の襖を開け放つと、部屋の中央に敷かれた布団の中で、怜子が美しく寝化粧した顔を苦悶に歪めている。


「うっ、う……」


もう朝晩は涼しくなり始める頃だというのに、はだけたネグリジェの胸元には大粒の汗が浮かんでいた。


見えない手に首を絞められているかの様に、怜子は喉元を掻きむしる。

乾いた唇がぱくぱくと動いて、掠れた声が漏れる。


「美夜、美夜……」


美夜は布団の脇にしゃがみ込んで、そっと怜子の耳元で囁いた。


「美夜はここにおります、怜子さま」


切れ長の(まぶた)はゆるゆると持ち上げられて、ぼんやりとその瞳に美夜を映した。


汗でネグリジェの張りついた背中に手を添えて、体を起こすのを手伝う。

硝子の水差しから揃いのコップに水を注ぎ、彼女に手渡す。


「さ、お飲みになってください」


こくこくと音を鳴らして、怜子は水を飲み干していく。

わずかに動く喉が、あまりにも白く細い。


そう見えるのは、月の無い夜のほの暗さのせいでは無いだろう。


枕元のランプを()け、怜子が深いため息をつく。

橙色の明かりに浮かぶ、前髪をかき上げた面差しには鬱々とした疲れが染み出している。


そんな顔をした怜子は、何歳も歳を取った様に見える。


「御免なさい。また美夜を起こしてしまって」


「わたしなら、平気です」


葉を乱して風に揺られる木々の影は、髪の長い女がうつむいて慟哭(どうこく)する様に障子に映っている。

外の影にぼんやりと目を向けながら、怜子はまた一つ嘆息した。


その吐息がコップの水面に小さなさざ波を作る。


「また、悪い夢を見ていたみたい。嫌になるわ」




大槻家での暮らしが始まってから程なくして、怜子はこうして夜中に(うな)されるようになった。

夢魔というのは姿も形もなく寝床に忍び寄って、人におぞましい悪夢をもたらすものなのだろうか。


一晩中怜子の傍に(はべ)って、彼女に近寄ろうとする夢魔を追い払う事ができればどんなに良いだろう。

悪夢に(さいな)まれる怜子の苦しみも計り知れないだろうが、それに手をこまねいているだけの自分が情けなく、辛い。


せめて、その手を握って片時も離れず、少しでも怜子が安らげる様にしたい。

そうは思うものの、怜子は美夜が自分と(とこ)を共にする事に二つ返事でうなずこうとはしなかった。


「だって私達、結婚もしていないもの」


孤月ヶ浜からの逃避行の夜は、布団が一組しか用意されていなかった為やむを得ない同衾(どうきん)だった。

その様な場合でなければ、夫婦でない日輪と月影が一つ布団に寝る事は望ましくないと怜子は考えているのだろう。


「申し訳ありません、差し出がましい事を」


「違うわ、違うのよ」


表情を固くする美夜に、怜子は慌てて弁解する。


「私が美夜に触れたくないと思っているのでしょう。でも、そうではないの。美夜の事が恋しいからこそ、(いたず)らに美夜の事を傷つけてしまうかもしれない。そんな事をすれば、美夜は私の事を軽蔑して離れていくでしょう」


自身の体を抱き締める怜子は、足元から湧き上がる震えを必死に押し殺そうとしている様だった。


「美夜を失ったら、私はどうすれば良いか分からないわ」


そういう訳で、大槻家にやって来た夜から美夜は六畳の、怜子は八畳の座敷へ別々に眠るのであった。


傷つけるという言葉を、ただ単に怪我を負わせるという意味で怜子が口にしていないのは百も承知だ。

もう、子供では無いのだから。


日輪と月影として(つが)える体を持ち、互いに愛し合っている自分達はいつ最後の一線を越えてもおかしくはない。

だからこそ、怜子も美夜の事を案じてくれているのだろう。


そこまで自分を大切に(いつく)しんでくれる怜子より他に、この操を捧げる日輪があろうか。

だが、怜子のなかば物狂おしいばかりの(おのの)きには、美夜も一抹の不安を覚えずにはいられない。


美夜は精神医学の博士でも無いから、怜子の悪夢の原因を明確に探り当てる事はできない。

けれど、そこには美夜がいなくなる事への恐れが根底に巣食っているのではないか。


悪夢から(うつつ)に返り、自身の顔を覗き込む美夜を目にすると、怜子は言葉に出来ないほどの喜びをその瞳に(みなぎ)らせる。

まるで、無くした宝物を見つけ出した様に。


日に日に悪くなっていく顔色や濃くなっていく(くま)は、ただならぬ闇が愛日を(むしば)んでいくのを物語っている気がする。


人に(あざむ)かれた人間が、どこまでも同じ裏切りを恐れる如く。

一度でも美夜を失い掛けた事実は、怜子の中に忘れがたい傷跡として残っているのだろう。




「ね、美夜。また、あれを歌って頂戴」


甘えと不安の混ざった口調で、怜子がねだる様に言う。


「はい、かしこまりました」


美夜は布団に潜った怜子の隣に、自分の身を横たえる。

怜子と同じ夜具の中に体を滑り込ませる事はせず、畳の上に肘枕をした格好だ。


それから、彼女の胸元を優しく拍子を付けて叩く。


「ねんねんよ、かんかんよ。嬢やはよい子よ、ねんねしな。お月様が見てござる―――」


怜子はじっと目を(つぶ)って、その歌に聞き入る。

眉間に寄った(しわ)が、撫でた様に薄くなっていく。


それは、美夜の故郷に伝わる子守歌だった。


お前の事はお月様が見守っていてくださるから、何も怖がる事は無い。

だから、安心してお眠り。


夜の闇を恐れてぐずる子供に、そう語り掛けるもの優しい曲である。


「嬢や」の部分は、本当は「坊や」と歌うのだが、怜子にはこちらの方が適当だろう。


「いい歌ねえ、調べが何とも言えずに穏やかで―――」


少しずつ鳴りを潜めていく外の風と並んで、そう呟く怜子の心も少しずつ(ゆる)んでいく様だ。


「美夜の柔らかな声に乗せられると、なおの事優しい歌になるわ。これを聞くと、すぐに眠れるの」


白蝋(はくろう)の色をした怜子の顔に、か細い微笑が浮かぶ。

(つたな)いながらも、自分の歌声で少しでも怜子の眠りを手助けできている事が美夜には嬉しい。


どうか、安心してお眠りください。怜子さま。

わたしという月が、こうして貴女のお側にいるのですから。


その願いを込めて、美夜は怜子に捧げる子守歌を歌う。


「ね、その子守歌は誰が歌ってくれて?お母さん、それともお兄さんかお姉さん?」


怜子の問いに、美夜は歌をやめて答える。


「いいえ。おっかさんはわたしを産んで亡くなりましたし、兄さんや姉さんは夜になれば母屋に戻ってしまいましたから」


では誰が、と怜子が不思議そうに目を(しばた)かせる。


「きっと、どこかの家のおかみさんでしょう。蔵の中にいても、夜になればこの歌がどこからともなく聞こえてきたんです」


蔵の格子窓から入り込むそよ風の様に、その子守歌は夜ごとに美夜の元へと届けられた。

自分の赤ん坊をあやすらしい女性の歌声が、幼い美夜を慰めてくれた。


絹糸の様に繊細でありながら、包み込む様な子守歌。


それを聞けば、一人ぼっちで夜を過ごさなければならない孤独に泣いていた美夜も、しばしはその涙を忘れられた。

そっとその歌声に耳を澄ませて、自分の生と引き換えに命を落とした母を想った。


自分を抱き締めてくれたであろう柔らかな手や、優しい笑顔を思い浮かべた。

美夜にとっては、切なくも温かい思い出を忍ばせた子守歌である。


「けれど、わたしが十になる頃には子供も大きくなったのでしょう。それきり、この歌は聞こえてきませんでした」


「そう……寂しくは無かって?」


悪い事を()いてしまったかと声を落とす怜子に、美夜は首を横に振った。


「平気でした。その頃には、わたしは夜を心待ちにしておりましたもの」


セレナーデの君との出逢いが、美夜にとっての夜をかけがえのないものにしてくれた。

彼女と別れ別れになった後は、あの少女(ひと)の奏でたセレナーデが子守歌の代わりとなって美夜の隣にいてくれた。


今、セレナーデの君が目の前にいたとしたら、その手を握って伝えたい。


貴女の付けてくださったこの名の通り、わたしの夜は美しいものでしたと。


「怜子さまは、御存知でしょうか。エリザベート・リヒターという西洋の作曲家の曲なのですけれど―――」


多少なりともピアノを(たしな)んでいた怜子なら、きっとあのセレナーデについても何か知っているのではないだろうか。


そう思って怜子の顔に視線を向けると、彼女はいつの間にかすうと安らいだ寝息を立てて、眠りに落ちていた。

伏せられた長い睫毛(まつげ)が、頬に濃い影を落とす。

怜子の面差しには先ほど悪夢に(うな)されていた時とは違い、眠りに身を(ゆだ)ねた女のえも言われぬ美しさがあった。


その寝顔を愛おしく見下ろして、美夜は枕元のランプの明かりを音を立てない様に消す。


「おやすみなさいませ、怜子さま」




明けて翌日、自室の文机に向かって書き物をしている怜子に、美夜は思わず声を掛けてしまった。


「怜子さま!もう、起き上がってもよろしいんですか?」


「平気よ。今日は、何だか調子が良いの」


悪夢に眠りを妨げられる様になってから、怜子の寝覚めは目に見えて(かんば)しくなくなっていた。

大抵は朝ご飯の時間を過ぎても、閉め切った部屋の中で()せっている。


その為、美夜は一人で出勤前の國彦や小学校に行く前の晴彦、家族の給仕をする誠太郎と共に朝の食卓を囲むのだった。


大した事は無いと怜子は言うけれど、小さな体の不調が病弱な彼女を害しはしないかと気が気でない。


「いかがですか、翻訳のお仕事は」


「順調よ。専門的な単語や表現が多くて、少し訳すのに苦労するけれど」


皮の表紙が張られた辞書を片手に、怜子は時間さえあればこうして英語や仏蘭西語の翻訳に取り組んでいる。

外国語は、彼女が学生の頃から得意とする科目だった。


聞けば、怜子は伯爵家にいた頃からこうして翻訳の仕事で美夜の衣食住を(まかな)っていたというのだ。

思い返せば、レースのカーテン揺れる窓辺に据えられたマホガニーのデスクで、書き物に精を出していた怜子の後ろ姿は深く印象に残っている。


言えば美夜に気を遣わせるだろうから、内緒にしていたというのだ。


三年前、娘が行く宛ての無い美夜を連れてきたと知った伯爵は、訳の分からない月影なぞに一銭も出すつもりはないと言い放ったという。

ならば、と怜子は翻訳の仕事をする他にも、家庭教師のアルバイトなども始めて精一杯働いたそうだ。

時折、大学からの帰宅が遅くなる日があったのはそういう理由があったのか。


蓄えは多少残っているが、美夜との二人暮らしの生活費を稼ぐ為と、今度は國彦の伝手(つて)で翻訳の仕事を紹介してもらったらしい。


「あの頃、お金が足りなければ喫茶店の女給の仕事もしようかと思っていたのよ。でも、こんなにのっぽの女給なんてお客さんが吃驚(びっくり)するわね」


怜子はそうおどけて笑ったが、美夜はただただ彼女への感謝の気持ちでいっぱいになってしまった。

そこまでして怜子が自分の事を養い、育んでくれていたなんて。


温和怜悧な公家の姫君の内に隠された、並々ならぬ意思の力が目に見える様だ。


けれど、やはり何故見ず知らずの自分の様な月影を、怜子がいきなり引き取ってくれたのかを疑問に思ってしまう。


「ここの表現、初めて見るわ。國彦さんがお帰りになったら()いてみようかしら」


真面目な顔つきで帳面と睨めっこする怜子を見れば、美夜もじっとしてはいられない。


「怜子さま、まだ朝ご飯を召し上がっていらっしゃいませんでしょう。わたし、お台所へ取りに行って参ります」


「助かるわ。それでは、お願いね」


草履を突っかけて小走りに玄関を出れば、瑞々(みずみず)しい朝の陽射しが目に染みる。


お勝手口から台所に足を踏み入れると、誠太郎が流しで洗い物をしていた。

大槻家を切り盛りする主夫として、夫と息子が家を出た後の彼はこうして家の事に余念が無い。


美夜が何か話そうとするより先に、誠太郎はたわしで鍋を擦る手を止めずに言う。


「怜子さんの朝食なら、いつもの所だよ」


いつもの所、というのは分かっている。

流しと並んだ台の上に、きちんと蠅帳(はえちょう)を被せた朝食の膳が載せられている。


「用意してくださって、ありがとうございます」


ご飯や味噌汁と共に、海苔の佃煮や納豆の小鉢が添えられたお盆をひっくり返さない様にそっと運ぶ。

そんな美夜の方を振り返る事も無く、誠太郎が(うと)ましげに顔をしかめる。


「まったく、朝食くらい時間通り食べに出てこられないものかね。片付かなくて困る」


その苦り切った言い方に、お盆を支える手に嫌な汗がにじむ。


「いい若い者が、ぐうたらと朝寝にかまけて情けない。こんな時間まで、まだ眠っているのか。自分の食事くらい、自分で取りに来るべきだと思うがね」


「……(あい)すみません。怜子さまはあまりお眠りになれなくて、お加減が思わしくないもので。(なま)けていらっしゃる訳では、ありませんわ」


怜子の優れない体調に加えて、誠太郎の二人に対する容赦の無さも、美夜には悩みの種だった。


開けっぴろげな國彦は元より、ややはにかみ屋な部分のある息子の晴彦も次第に美夜達に慣れて、一緒に遊ぶまでとなった。

けれど、誠太郎一人はいつまで経とうと、決して美夜達に対する険のある態度を和らげようとはしない。


夫と息子を見送り、日がな一日家事をこなす誠太郎とは必然的に顔を合わせる機会が多くなる。

だからこそ、美夜も誠太郎とは良好な関係を築いていきたいと思っているのだけれど。


誠太郎は呆れた様にふんと鼻を鳴らし、水気を拭き取った鍋を戸棚に仕舞おうと持ち上げる。

美夜は慌ててお盆を台の上に置いた。


「わたし、代わります。やらせてください」


また三月に入ったばかりで腹部の膨らみは目立たないとはいえ、誠太郎はその体に別の命を宿しているのだ。

重い物を持たせ過ぎるのは、お腹の子にも良くないだろう。


「君がか?」


誠太郎は嘲りの笑いを浮かべ、頭一つ分高い位置から美夜を見下ろす。


「余計なお世話だよ。その低い背じゃあ、棚に手が届かんだろう。もっと考えてから物を言うんだな」


差し出した手をあっさりとはたき落とされた事と、自分の低身長を馬鹿にされた事への二重の恥ずかしさに、顔が熱くなる。

そんな美夜に、誠太郎はさらに追い打ちをかける。


「白々しい仲良しごっこなんて、しなくて結構。僕は君達に対して気を許してはいないし、これからもそうする事は無い。ただ、一つだけ言っておく」


鍋を下ろし、誠太郎は敵意に満ち満ちた眼差しで美夜を()めつける。


「この台所の事は、主夫である僕の領分だ。無用な口出しは、一切遠慮願いたい」




夏の日は長い。


自室の窓から見える太陽は、やがては落ちゆく事も知らない様に(あま)つ空の高みにある。

果てなき晩夏の一日をどう過ごせば、この手持ち無沙汰を紛らわせられるのだろう。


仕事にいそしんでいる怜子の元にお茶を持って行ったり、疲れが取れる様に肩を揉んだりする事が思い浮かんだ。

そうして、彼女の役に立ちたいのはやまやまだ。


けれど、朝食の膳を台所へと返しに行く美夜に、怜子はこう言ったのである。


「何か用事があれば呼ぶわ。美夜は自分のお部屋にいて、好きな事をしていらっしゃい」


好きな事、と言われても雲を掴む様だ。

怜子の傍で、彼女の為に何かをするのが美夜にとっては一番の喜びなのだもの。


それ以外に、どんな楽しみがあろう。

彼女がいてくれれば、それだけで十分だった。


美夜にも当たり前の人生が与えられていたとしたら、普通の娘らしい趣味をおのずと持つ事ができたろう。

それを不思議に思いも無かったし、疑いもしなかった。


倦怠をもてあまして、畳の上にじっと座り込んでいる気分はあまりよいものではない。


こんな事はいけない、とため息をつく。

何もしないでいると、先ほどの誠太郎の件も含めて悪い事ばかり考えてしまう。


どうして、誠太郎は美夜達に対して心を許してはくれないのだろう。


確かに、自分の家庭にいきなり入り込んできた者達を(いと)う気持ちは分からないでもない。

家を守る妻であり、母である誠太郎なら尚更の事だろう。


でも、だからこそ美夜もできる限りの事はして、彼の力になりたいのに。


また、ため息が(こぼ)れる。


すると、向かいの部屋から待ち焦がれていた襖の開く気配がした。

美夜が胸を高鳴らせる間も無く、続いて自室の襖が開かれて怜子が顔を出す。


「少し、出掛けるわね」


そう言う彼女は、リボンの巻かれたつばの広い帽子を目深(まぶか)に被っていた。

黒に近いミッドナイトブルーの袖無しのワンピースと相まって、活動写真の女優の様に見える外出姿である。


「お供いたします」


立ち上がった美夜を、怜子はこわばった表情で制する。


「いいの。美夜はここにいなさい」


それは、怜子の主人としての命令だった。


「必要な物があるから、買いに行ってくるだけよ。すぐに戻るわ」


「でしたら、わたしが代わりに参ります」


「美夜一人で?」


一体何を言い出すのかと、怜子の切れ長の目が大きく見開かれる。

そして、熱に浮かされた様な(はげ)しさで美夜を抱き寄せる。


「冗談でもよして頂戴、そんな恐ろしい事。外へ出るだなんて、何かあったらどうするの。あの侯爵の奸佞邪智(かんねいじゃち)を、美夜もよく知っているでしょう。私から美夜を奪う為に、どんなに狡猾な手段を使うか」


必死な訴えと共に、怜子の抱擁(ほうよう)はどれほど美夜を強く締め上げている事だろうか。


「私に黙って、この家を一歩でも出たりしないで。約束できるでしょう」


美夜の無言を、怜子は肯定の証と捉えたのだろう。


彼女の体が潮の様に引いていく。


「ね、お願いよ」


そう言い残して去って行く怜子の背中を、美夜はうなだれて見送った。


美夜にとって、怜子は何よりも恵み深い愛日なのだ。

彼女が自分に寄せるいかなる感情も、溢れる陽射しそのものである愛ゆえだと思っていた。


けれど―――時折、真綿で首を絞められている様な息苦しさを(おぼ)えるのは何故だろう。

生まれ育った蔵や、野々宮家の別邸よりも(くら)い、目に見えない何かに閉じ込められている様な気がするのは何故だろう。




こんな風に気分が塞ぐ時は、水でも飲んで頭をすっきりさせたい。

だが、その為に台所へ行かねばならない事を思えば、美夜の足取りはたゆたいがちだった。


案の定、誠太郎は少し早い夕食の支度の為に、台所の中で忙しく立ち働いていた。

入り口でおずおずとしている美夜を見ると、眼鏡の奥の目をきつく細める。


「何かね。そうやって突っ立っていられると、目障りで仕方無い」


「あの、お水を……」


誠太郎は黙って戸棚から硝子のコップを取り上げると、水を注いで美夜の目の前にどんと置く。


「これで良いか」


それを飲んだらさっさと帰ってほしいという誠太郎の心持ちは、言わず語らずして伝わってきた。


「ありがとうございます」


付ききりで火加減の番をする為に、かまどの前に置かれている腰掛けに座って喉を潤す。


すると、誠太郎の様子が自然と目に入ってくる。

家刀自として料理の一切を受け持っているだけあり、その手さばきは小気味が良いほどだ。


味も、野々宮家の女中である志津のそれに引けを取らない。


黄昏(たそがれ)の斜陽射し込む中、脇目も振らずに包丁をふるう彼を見ていると、その真摯(しんし)な横顔に志津の面影が重なる。


今頃、志津はどうしているのだろう。

主人の帰京に合わせて、彼女もこの帝都の空の下に戻っているのだろうか。


そんな事を考えながら、美夜が水を飲み干した時であった。


「―――うっ」


油揚げを刻んでいた誠太郎が、突如口元を押さえてうずくまる。

その瞬間、体が動いていた。


「大丈夫ですか、誠太郎さん!」


しゃがんでその背中に手を添えると、誠太郎がよろよろと顔を上げる。


「放っておいて、くれたまえ」


消え入りそうに呟く顔は、役者の如く薄い唇も含めてすっかり血の気が絶えていた。


まるで、光を失った月の様である。

こんな彼を、どうして一人にしておけようか。


「大した事じゃない。君に心配される程の事では―――」


言い終わらぬうちに、また吐き気が込み上げてきたらしく口を閉じる。


「少し、お休みになった方がよろしいです。さあ」


彼を立ち上がらせようとする美夜の手を、誠太郎は身をよじって振り払おうとする。


「構わないと言っているだろう。本当に君は人の言葉を聞かないな」


「いけません」


美夜だって、この状況でそう簡単に引き下がれはしない。


「お母さんが無理して働いたりすれば、お腹の赤ちゃんにも良くはありません。わたしの事はどう思ってくださっても構いませんから、今は誠太郎さんと赤ちゃんの事を考えてください」


美夜の強い語調に、誠太郎は呆気に取られて口をつぐむ。


手負いの獅子の様にとげとげしい眼差しが、徐々に()いでいく。


「……寝室まで連れて行ってくれないか。案内する」


夫妻の寝間に立ち入る事は、普段なら(はばか)られる。

けれど、今はそんな事を気にしている場合ではない。


押し入れから出した布団に、誠太郎を寝かせる。

まめな誠太郎は布団干しも欠かさないらしく、ふっくらした布団からは日なたの匂いがする。


口をきくのも気疎(けうと)いらしく、誠太郎は黙って目を閉じて横になっていた。


美夜はいつ誠太郎が戻しても構わない様にと風呂場に洗面器を取りに行くやら、彼の額に浮かぶ汗を拭くやらで、腰を落ち着ける間も無かった。

ややあって、独り()つ様に誠太郎が口を開く。


「手間を取らせて、面目ない。晴彦を妊娠している時は、こんな事も無かったのだが」


「良いんです。具合の悪い方を、放ってはおけませんもの。お気になさらず」


悪夢に(うな)される怜子の介抱をするうちに、こうした事に慣れてきたせいもある。


「他に、何か欲しい物があったらおっしゃってください。すぐに持って参ります」


「だったら、恥を忍んで一つ頼みがある」


何なりとどうぞ、と美夜は膝を進める。


悪阻(つわり)にも人によって色々あるのだが、僕は吐き気が治まると腹が減る体質らしい。何でもいいから、口に入れるものを持ってきてくれないか」


「それでしたら、わたしに任せてください。僭越(せんえつ)ですが、お台所をお借りしても?」


「ああ、構わん」




四半刻(30分)も過ぎる頃、美夜はお盆を手に誠太郎の待つ部屋へと戻ってきた。

ほかほかと湯気を立てる土鍋に、誠太郎が目を見張る。


「何だね、それは」


「お口に合えば、よろしいのですけれど」


布巾を挟んでまだ熱い土鍋を取ると、辺りにだしの馥郁(ふくいく)とした香りがほわりと漂う。


雑炊(ぞうすい)か」


残りご飯をだし汁で煮込み、塩で味を付けたものだ。


栄養の事を考えて卵を落とし、野菜を加えて彩りも良くしてみた。

まだ本調子でない誠太郎の胃や喉に負担をかけない様に、汁気の多い食べ物の方が良いだろうと考えての一品だった。


「頂こう」


誠太郎は木の匙でゆっくりと雑炊をかき混ぜて冷ました後、そっとすくい上げて口に運ぶ。

彼が自分の手料理を咀嚼して飲み込む一連の動作を、美夜は固唾を呑んで見守った。


ほっと驚きの息が、誠太郎の唇をまろび出る。


「……美味い」


美夜も思わず、顔がほころんだ。


「良かったです、そう言っていただけて!」


誠太郎は食事の手を止める事無く、やがて土鍋の中は一粒の米も残さず空になった。


「ご馳走様。清小路家の様なハイカラな屋敷では、てっきり西洋料理しか出ないと思っていたのだが。実に良い味だった」


大槻家にやって来てから初めての、誠太郎からのお褒めの言葉に面はゆくなってしまう。


「伯爵家では、使用人達が自分でまかないを作る事がよくありましたの。メイド仲間に花ちゃんと云う子がいたのですけれど、その子に教わったんです。故郷に弟や妹が沢山いる子なんですが、お母さんが悪阻の時、この雑炊を作ってあげると元気が出たそうなんです」


「きっと、心配りの良い子なのだろうな。君の友なのだから」


誠太郎は膝の上のお盆を脇に置くと、美夜の方へと向き直って頭を下げる。


「ここまでしてくれる君や、怜子さんに色々とすまない事を言ってしまった。……許してくれるか」


ほんの数時間前とは打って変わって殊勝(しゅしょう)な態度の誠太郎に、美夜は開いた口が塞がらなかった。


「大丈夫です。わたしや怜子さまも、気にしていませんから。それに、わたしにできる事があるなら、何か少しでもお役に立ちたくて」


「この家に身を寄せている事を気にしているのかね。怜子さんからは(しか)るべき金額を前もって受け取っている。君が気にする必要はない」

 

「それも、ありますけれど」


胸の中に、(にぶ)い痛みが広がる。

それが罪悪感と呼ばれるものであると、美夜は知っていた。


「わたしのおっかさんも誠太郎さんと同じ、月影の男の人だったそうなんです。度重なるお産で体を壊していたのに、家族の為にずっと働き続けていて。とうとう、わたしを産んで死んでしまいました」


儚く消えていく月の様にその身を削り、最後はあっけなく()ってしまった母。

彼の面影一つ、美夜には残されていない。


「おっかさんは命と引き換えにわたしを産んでくれたのに、わたしは何もしてあげられませんでした」


ようやく手に入れた人生の中で、それだけが悔いとなっている。


「誠太郎さんを見ていると、ご迷惑だと分かっていても、何かして差し上げたくなってしまうんです。……おっかさんにできなかった分も」


誠太郎は静かに美夜の告白に耳を傾けながら、帯を(ゆる)めた下腹部をそっと撫でさする。

その身にもう一つの命を宿した、母親の手つきだった。


美夜は、はっと顔を上げる。


「ごめんなさい、これから赤ちゃんをお産みになる方に」


新たな命を産み出すのがどれほど大変な事であるかは、先ほどの誠太郎の苦しみようだけでも容易に分かる。

そんな大仕事に命がけで挑まなければならない彼を、母の話で不安がらせてしまったかもしれない。


「良いんだ。むしろ、よく話してくれた。君にとって、辛い話だろうに」


美夜に向けられる誠太郎の眼差しには、いつにない優しさが含まれていた。


「亡くなったお母さんの分も、か。前に、それと似た事を國彦に言われたよ。君は、昔の國彦とどこか似ている。人一倍情が濃くて、まっすぐな所が特に」


美夜は、怜子に連れられて大槻家にやって来た時の事を思いだした。

初めて顔を合わせる筈の國彦から感じられた、あの温かな親しみは偶然ではなかったのだろうか。


「きっと、君と怜子さんがこの家に住み始めたのも何かの縁だ。こうしてただ()せているのも退屈だから、少し昔語りをさせてくれるか」


「はい、わたしで良ければ。怜子さまもお出掛けになって、時間はうんとありますから」


やはり、晩夏の一日は長い。

宵には、まだ遠い頃だ。



「僕と國彦が出逢ったのは、高等学校の寮だった。僕が一人で使っていた部屋に、新入生の國彦が入ってきたのがきっかけでね」


「誠太郎さん、高等学校に通われていたんですか?」


思わず、声が上ずる。

月影の誠太郎が高等学校への入学資格を与えられるなんて、到底有り得ない話だからだ。


家が裕福であれば、月影の子も小学校を卒業後に進学する道がある。

けれど、それも尋常種の少女達が学ぶ女学校と同様、良妻賢母を育てる為の学校だ。


それ以上の教育を月影が受ける事は、許されていない。


だが、どこか合点が行ったのも事実だ。

磨きあげられた知性の光る眼差しや、月影らしからぬ固い口調も、誠太郎自身の深い学識を感じさせた。


「でも、尋常種の男性か日輪でなければ、高等学校や大学には……」


「日輪だったからさ」


誠太郎は、どこか遠い場所を見る様な目をしていた。


「僕は、今年で三十二になるがね。十の年から國彦と出逢う二十歳(はたち)まで、日輪として生かされてきた」


次々と明かされていく内容に、頭がついていかない。


「どうして、そんな事が」


目をぱちくりさせる美夜に、無理もないと誠太郎が苦笑する。


「まるで、推理小説の様な話だからな」



誠太郎は、地方にある富裕な造り酒屋の長男として生を()けた。


一人息子ではなく、双子として同じ日に産まれた日輪の弟がいたという。

顔こそ瓜二つであったものの、その性質はまるで正反対だった。


「弟―――凛太郎(りんたろう)は引っ込み思案の僕と違って、日輪らしく周囲を照らす明るさを生まれ持った子でね。だが、こんな僕の事も気遣ってくれる優しい子でもあった」


ごく普通の兄と弟として育てたらどんなに良かった事か。


この国では、昔から双子として生まれた赤ん坊を()む地域が少なくない。

古い迷信の残る(ひな)の、代々続いた造り酒屋である生家では尚更だった。


日輪である凛太郎は唯一の跡取りとして、周囲も大事に(いたわ)った。

けれど、月影の誠太郎はまるでいない者の様に、ろくろく見向きもされずにいたという。


父や母にさえつれなくされる日々の中、誠太郎の心の支えとなってくれたのが弟の存在だった。


どうして誠太郎の食事や衣服が、自分よりも粗末なのか。

同じ兄弟でありながら、どうして差を付けるのか。


誠太郎が言えない事も、凛太郎は平気で口に出して周囲を困らせたという。

 

家を飛び出し、凛太郎と二人きりで遊ぶ時だけは嫌な事を忘れられた。

親に愛されずとも、周囲から忌避されようとも、誠太郎にはそれで十分だった。


けれど、誠太郎が十歳を迎えた冬、その日々は(にわか)に一変した。

雪が降りしきる日、町外れにある神社へ一人で参拝しに出掛けた凛太郎が、石段から足を滑らせて命を落としたのである。


誠太郎は風邪を引いて、寝込んでいた。


男の子でも月影である誠太郎には、嫁入りに必要という建前で多くの家事が押し付けられていた。

弟が跡取りとしての勉強に励む間も、寒風の吹く中、あかぎれのできた指で洗濯や皿洗いをしなければいけなかった。


おまけに冬になっても誠太郎には粗末な煎餅(せんべい)布団一枚しか与えられず、部屋も隙間風が吹き込む様な場所だったのだ。

そんな環境に置かれていた子供が、風邪を引くのも当然だろう。


それでも医者が呼ばれる事は無く、苦しむ誠太郎の身を案じたのが凛太郎だった。

 

自分がお(やしろ)に行って、誠太郎の風邪が少しでも軽くなるよう神様にお祈りしてくる、と。


それが弟との最後の会話になるとも知らず、誠太郎はその優しさが嬉しかった。

弟の死の(しら)せが入ったのは、そのすぐ後の事だった。


「父と母は我が子を失った悲しみに浸るより、唯一の跡取りが欠けた事で半狂乱になっていた。それで、どうしたと思う?……僕が死んだ事にしたんだ」


物語の一節を読み上げる様に、誠太郎は抑揚の無い声で語った。


死んだのは、弟の凛太郎ではなく兄の誠太郎だと―――両親はそう周囲に言い含め、死亡届も誠太郎の名で出された。


合わせ鏡の様によく似た双子の容貌によって、誰一人それに疑いを持つ者はいなかった。

そうして、誠太郎は凛太郎の身代わりとして仕立て上げられたのだ。


「今までの接し方が嘘の様だったよ。家族も僕を凛太郎と呼び、その通りに扱った。まるで僕という月影の子供が最初からいなかった様に」


何という事を。


残暑厳しい折にも関わらず、体の芯がすうんと冷えていく。

それまで冷遇していた子供を、今度は自分達の都合で日輪としてすり替えようというのか。


美夜も十の歳まで名無しのまま育ったが、(のち)にセレナーデの君が百幸美夜という名を与えてくれた。

唯一無二の美夜の人生は、その時始まったのだ。


反対に、誠太郎は生まれ持った名前をいきなり奪われた。

その名に宿る魂や人生までも、むざむざと(ほうむ)り去られたのである。


「そんなの、子殺しと一緒ではありませんか」


(いきどお)りの言葉が、思わず口を突いて出る。


「驚いた。随分、はっきりと言うんだな」


「瓜二つの双子でも、弟さんと誠太郎さんは別の人間である筈です。それを、それを……誠太郎さんの気持ちは、どうなるんです」


あまりの腹立ちに、声が震えて目が(くら)みそうだ。


「父も母も、僕自身の事なんて考えもしなかっただろうさ。あの家には、凛太郎という太陽の存在が不可欠だった。彼らは、それ無しには生きてはいけなかった。だからこそ、僕を弟に仕立てあげたのだろう。例え、それが偽りの日輪であっても」


暮れ方の夕焼けに目をやりながら、誠太郎は続ける。


「だが、僕自身は家の事より、弟に対する負い目があったからこそ、凛太郎としての人生を受け入れる気になったのかもしれない」


自分が風邪なんて引かなければ、弟は死なずに済んだ。

そんな罪の意識は、少年であった誠太郎の中に深く根を張っていった。


「父にも、凛太郎の代わりにお前が死ねば良かったと罵られた。僕も、その通りだと思った。本来ならば、生まれた時に(くび)り殺されてもおかしくは無かったのだから」


もはや、偽りの日輪としての人生を受け入れる他、誠太郎に道は無かったのだ。


弟がしていなかったという理由で、近眼の為にかけていた眼鏡も取り上げられた。

全ては、凛太郎としての生を(まっと)うする為に。


それからの誠太郎は凛太郎の名で学校に通い、文字通り、人が変わった様に勉強に打ち込んだ。


土地の中学校を優秀な成績で卒業すると、東暁(とうきょう)にある高等学校へと進学する事になった。

誰にも、月影としての自分を見破られてはならないという誓いを胸に秘めて。


しかし、そんな誠太郎を嘲笑うかの様に、生まれ持った肉体が彼の行く手を(はば)んだ。

月影の宿命である月蝕―――発情期の問題が、成長した誠太郎の身の上に降りかかったのである。


「僕は発情抑制剤を飲むと、ひどい副作用に苦しめられてね。発情が抑えられても、寝込んで授業にはろくろく出られなかった。そのせいで、高等学校も二回落第してしまった」


月影としての人生を捨てようとしても、体に刻まれた本能がそれを許さない。

そうしたジレンマに(さいな)まれながらも、誠太郎は大学へ進学する為に寝る間も惜しんで勉学に励んだという。


「幸い、寮では一人部屋を与えられていたから、同級生は誰も僕の事を疑いやしなかった。せいぜい、病弱な奴だと思われていたくらいだろう」


しかし、誠太郎が三度目の一年生を迎えた春、思いもかけない相手が寮のルームメイトとしてやって来た。

その日輪の新入生こそが、今の夫となる國彦であった。


寮生の数が増えて部屋が足りなくなったので、同じ一年同士で組まされる事になったのだ。

同級生といっても、國彦は中学を卒業したばかりの十八歳、落第した誠太郎は二つ年上の二十歳であった。


尋常種ならまだしも、よりにもよって、どうして日輪と同室に。


月蝕を起こしている所を見つかりでもすれば、日輪を惹き付ける誘惑香(フェロモン)によって自分が月影である事が露見してしまう。

誠太郎にとって、それはそのまま身の破滅を意味した。


そんな事は、絶対にあってはならないのだ。

生涯最後の日まで、日輪としての自分を演じ続けなければならない。


「國彦の第一印象は、あまり日輪らしく無いという事だったな。若い日輪の男といえば、横柄なくらい自信を(みなぎ)らせて、口の利き方にも尊大な部分がある」


誠太郎も日輪として振る舞おうと、そうした態度を取っていた時期があった。

その時の癖が今でもなかなか抜けず、たまに月影らしくないと言われる事が悩みだという。


「日輪特有のオーラが無いという訳では、決してなかった。だが、今の快活振りが嘘の様に、あの頃の國彦はどこか陰鬱(いんうつ)で、無口だった」


いつもおちゃらけて、冗談ばかり言って皆を笑わせている國彦の姿からは想像もできない。

気難しい誠太郎と寡黙な國彦は、すぐ親しい間柄になる事は無かった。


誠太郎も、無闇に深入りはするまいと()えて距離を置いていた。

けれども、その新入生に対して全く興味が無いと言えば嘘になった。

 

肩を組み、大声で寮歌を合唱する硬派の学生達や、色街通いにうつつを抜かす軟派な連中。

そのいずれの群れにも加わる事無く、ただひたむきに学問を修めようとする國彦の姿が目を引いた。


彼の横顔に、誠太郎は自分が抱えてきたのと同じ、孤独の影を見いだした。


北国のさる旧家の出身という事以外は、國彦について知る事は叶わなかった。

ただただ、國彦に対する言い知れぬ感情が(つの)っていくのを、どうしようもなかった。


「國彦を見ていると、何故だか弟の事が思い出されてならなかった。ふとした瞬間の國彦の表情が、死んだ筈の凛太郎と重なってしまう」


もし、凛太郎が健やかに生きていてくれたならば―――大槻國彦の様に、何にも惑わされぬ高潔さを持った青年になっていたに違いない。


彼について、何か知りたいと願う気持ちが自身の中に湧き上がるのを感じたが―――それを、自身の手で潰してしまった。


他人に干渉するな。


少しでも気を許せば、この禁秘が白日の下に晒されるのは時間の問題だ。


しかし、ある日の放課後、秘密は予期せぬ形で露呈してしまった。


寮の自室で授業の復習をしていた誠太郎は、突如として発情の熱を起こして倒れてしまった。

そんな彼を真っ先に見つけて介抱したのは、他ならぬ國彦だった。


月影の誘惑香に意識を乱されそうになりながらも、國彦は手拭いで口と鼻を覆い、必死に誠太郎を守った。


そんな國彦の頼もしさは、いつかの日の凛太郎を彷彿(ほうふつ)とさせた。

その優しさのせいで、自分の代わりに命を落とした弟を。


月蝕の熱が引くと、誠太郎はこの秘密を明かさないようにと真っ先に國彦に頼み込んだ。

自分が弟の身代わりとして生きなければならない理由も、何もかも打ち明けて。


すると、國彦はそれに対して明らかな憤りを見せた。


何故、誠太郎だけが家の為に犠牲にならなくてはならないのかと。

そして、死んだ自分の兄の様にはなってほしくない、と誠太郎に訴えた。


墓場まで持って行きたいであろう秘密を一つ残らず誠太郎に話させておきながら、自分は黙っているなんて公平ではないゆえ、と國彦は語った。


彼が生まれたのは、冬になれば漆喰の(とりで)の様な雪が全てを閉ざす北国であった。

生家は、その地方でも指折りの名家であった。

数百年に渡る栄光を誇った大槻の名を、國彦の両親は何より尊んでいた。


けれど、維新後の時代の流れにより、それも全て過去の夢となっていた。

國彦が生まれる頃には、赤貧洗うが如しの暮らしであったのだ。


そんな國彦には、十以上も年の離れた月影の兄が一人いた。

家の為だと言われれば、どんな事も黙って耐え忍ぶ様な少年だった。


大人しくも優しい兄を、幼い國彦も慕った。

 

しかし、國彦の父は家の体面を保つ金策の為、その兄を半ば身売りも同然に、十六の若さで近隣の村にある豪農の跡取りへ嫁がせたのだという。


兄の夫となったその日輪の男は、とんだ放蕩者(ほうとうもの)だった。

家の財産を使い込んで遊び回り、それに妻が少しでも物言う事があれば、逆上して乱暴を働いた。


兄は年を置かずに幾人もの赤ん坊を身籠もったものの、どの子も月影だった。

それも、夫から責め立てられる要因となった。


嫁いだ当初は裕福だった婚家も、夫の道楽によって徐々に傾いていった。

そんなどん底の様な生活の中でも、國彦の兄は家の為、子供の為に自分を捧げる事をやめなかった


そして、末の女の子を産んだ時、その命を使い果たす様に息を引き取ったという。

子供であった國彦は、死にゆく兄の為に何もできない自身の無力さが悲しく、悔しかった。


だからこそ、兄の様に自分を犠牲にする事はやめてほしいと誠太郎を抱き締めた。

もう、目の前で優しい月が消えていくのを見たくはない、と。


思えば、何という(えにし)だろうか。

(うしな)った兄や弟の面影を、それぞれ重ね合わせていた自分達であったとは。


その時、國彦という日輪と共に生きていきたいという願いが、月が厚い雲から顔を出す様に誠太郎の心に現われた。

そして、それは國彦も同じであった。


互いに想い合っていた事を、二人は初めて知ったのである。


揃って高等学校を退学するという決断に、二の足を踏む誠太郎と國彦では無かった。

家も、負わされた宿命も、何もかも振り捨てて。


生活の為に仕事を探していた折に出会ったのが、「あかつき」の編集長だった。


「尋常社に勤め始めてしばらく経った頃だったか、國彦が求婚してくれたのは。……嬉しかった」


薄赤く頬を染めて微笑む誠太郎は、まるで恋を知ったばかりの少女の様に初々しい。


「その時、こう言ってくれた。亡くなった兄さんの為にも『あかつき』の一員としてこの国を良くしたい。でも、それと同じくらい、これから月影として生きていく僕が苦しまない社会を作っていきたいって」


兄を亡くして以来、國彦が彼の事を忘れた事は一度として無かった。


(きゅう)を負って上京した後も、胸の片隅には兄に対する想いがあった。

学問を修めて身を立て、兄の様に苦しむ月影が生まれない社会を作りたい。


彼の他を寄せ付けない孤独も、その志を果たさんとする為だったのだ。


國彦の妻問(つまど)いは、誠太郎の心を動かした。

 

彼と生きていく事に、不安が無いと言えば嘘になった。

今まで偽りの日輪として生きてきた自分が、今さら月影としての人生を歩んでいく事ができるのだろうか。


けれど、その不安もまるごと受け入れ、月影としての誠太郎を愛してくれたのが國彦だった。

 

月影として愛する喜びを、愛される喜びを知り。

やがて、二人の間には晴彦という息子が生まれた。


そして今、誠太郎は國彦との新たな命をその身に宿しているのだ。



「僕の話は、これでお(しま)い。美夜さんを、長々と付き合わせてしまったね」


いつしか、辺りには夜の(とばり)が降ろされていた。


「お幸せでしょうね、誠太郎さんは」


紆余曲折(うよきょくせつ)を乗り越えて結ばれた二人の物語に、美夜は胸を震わせずにはいられなかった。


「幸せだとも」


誠太郎の表情に、迷いは微塵(みじん)も見られない。


愛する人との日々を紡いでいく事の喜びが、静かに輝いていた。


「凛太郎を亡くした時、僕には心から家族と呼べる相手はいなくなってしまった。國彦も、それは同じだろう。だからこそ、國彦や晴彦、これから生まれてくるこの子。ようやく得られたこの家族が、僕にとっては何にも代えがたい存在なんだ」


初めて誠太郎と顔を合わせた時の敵意に満ちた態度も、根底にあったのは彼の家族を守ろうとする心だ。


愛する人と過ごせる何でも無い日々の愛しさを、そしてそれを失いたくない気持ちを美夜もよく知っている。

だからこそ、誠太郎をなじる筈が無かった。


本当は妻として、母として、誰よりも彼の家族を大切に想っている人なのだから。


「君達、特に怜子さんに関しては天照の関係者ではないかという事も心配だった。でも、僕は華族の日輪と聞いただけで、さぞかし(おご)り高ぶった嫌な女に違いないと決めて掛かってしまってね」


誠太郎がそう考えていたのは、自分の家柄をひけらかして威張る華族出身の同級生を高等学校時代に見てきたからだった。


「だが、怜子さんは決してそんな日輪では無かった。好いている美夜さんの為に、僕に頭まで下げたのには、感服したよ。月影としてそこまで想われている君が羨ましいくらいだ」


はにかんでうつむく美夜に、誠太郎は柔らかな声音で語り掛ける。


「あの人ならば、間違い無く美夜さんを手放したりはしないだろう。君も、怜子さんと家族になりたくはないか。身分だの何だのと、世間はうるさい事を言うだろう。だが、互いに愛し合っている君達二人がそうしたいと望むのなら、僕達夫婦も最大限の手助けがしたい」


真っ直ぐに顔を上げ、はいとはっきり答えれば良い。

頭ではそう分かっているのに、何故だか言葉が出てこない。


月影の自分は怜子を命の太陽として慕い、敬愛している筈だ。

そんな彼女と結ばれ、互いに唯一の日月として二世を誓う以外の望みは、百年生きても得られないだろう。


なのに、誠太郎の問いを正直に(がえ)んずる事ができないのは―――今まで知り得なかった、怜子という日輪の影を知ってしまったからだろうか。

時折、美夜の慕い続けてきた愛日の君とはまったく別の、得体の知れない女性を目の前にしているような時がある。


國彦と誠太郎がこれほどまでに睦まじい家族になれたのも、お互いの抱える過去や苦悩も何もかも分かち合い、共に生きていく覚悟をしたからだ。


美夜は清小路怜子という日輪を、どこまで知っているのだろう。

愛する日輪の光の明るさを、影の暗さを、どこまで見てきたのだろう。


怜子の明暗の全てを受け入れる勇気が、果たして自分にあるだろうか。


「わたし、怜子さまの事はこの世で一番お慕いしておりますし、誰よりも尊敬しています。でも、でも……」


「君はまだ若いのだから、迷ったりするのも無理は無い。相手をどれだけ好いていても、そうした事は考えてしまうものだよ」


返答に(きゅう)した挙げ句、言い訳の様に視線を彷徨わせるしかできない自分が情けなかった。


「あまり若過ぎても、お産の時、母体に負担が掛かる恐れがあるからな。美夜さんの中にまだ迷う気持ちがあれば、夫婦になる時は延ばした方が良いかもしれない」


「お産」


まだ日輪を知らない月影の乙女は、その単語にすっかり毒気を抜かれてしまった。


だが、怜子と結ばれた先には、彼女の子を授かる運命が遠からず待ち受けているのだろう。

それも、美夜が月影の性を持つゆえに。


怜子と自分の血を受け継いだ赤ん坊をこの腕に抱く日が来るなんて、美夜には想像もできない。


「美夜さん。君、年は幾つだね。十五は過ぎているだろうね」


月影が結婚できるのは男女問わず、十五からと法律で定められている。

誠太郎は、怜子が年端もいかない月影に思いを掛けていないかを案じているのだろう。


小柄な分、年齢より何歳か幼く見られるのは慣れている。


「生まれは冥治(めいじ)三十九年で、年は十八になります」


十八、と誠太郎はやや驚いて繰り返す。


「國彦の末の姪が生きていたら、丁度同い年か。その子も月影だったそうでね。國彦の兄は、その子を産んで亡くなったんだ。だが、その赤ん坊も生まれてすぐに死んでしまったらしい」


誠太郎はその顔を、憂いに曇らせた。

そう聞かされると、美夜もどこか境遇の似ている自分の母と國彦の兄を重ねてしまう。


「國彦の姪の事だ。生きていたら、きっと君の様な子になっていただろうな。君は大人しげに見えるが、しっかりした強さと思いやりを持った子だから。きっと怜子さんとも良い夫婦になれるだろう。それに、お母さんの事であまり自分を責めない様に。母親というのは、子供が無事生まれてきてくれるだけで嬉しいのだからね」


身分という壁が立ちはだかっている以上、美夜達の前途は洋々という訳にはいかないだろう。

だが、美夜の不安を感じ取った誠太郎の優しい言葉と、母としての重みのある慰めが心強い。


「僕にも分かるよ、君が怜子さんを好いているのは」


今度こそ、頷いて見せた美夜だった。

その時、玄関先から威勢の良い声が飛んでくる。


「今帰ったよ、誠太郎!」


仕事を終えた國彦が、帰ってきたのに相違無かった。


「わたし、お出迎えに行って参ります。誠太郎さんはお休みになっていてください」


小走りに玄関へ向かうと、國彦は息子の晴彦と一緒だった。

折々、外に遊びに行った晴彦を仕事帰りの國彦が迎えに行き、一緒に活動写真を見に行ったりする事があるそうなので、今日もそんな所だろう。


「國彦さんも晴彦ちゃんも、お帰りなさい」


「美夜お姉ちゃん、ただいま」


母からきちんと挨拶をするよう躾けられている晴彦は、元気良くそう答える。

國彦も、相変わらず懐の深そうな笑顔を浮かべている。


「おや、美夜さんじゃないか。誠太郎はどうしたんだい」


「誠太郎さんはお加減が優れなくて、寝室の方にいらっしゃいます」


「誠太郎が?」


國彦は血相を変えると、靴を脱ぎ捨てて家に上がる。

あまり素早いので、詳しい事を説明する間も無かった。


残された晴彦が、ぎゅっと美夜の着物の袖を握る。


「お母さん、具合悪いの?」


大きく愛らしい目を心配そうに伏せる七つの男の子には、美夜も胸が痛む。


「大丈夫よ。ほら、一緒にお母さんの所に行きましょう」


寝室に戻った美夜達が目にしたのは、布団から体を起こした誠太郎に、拝み倒さんばかりに取りすがる國彦の姿だった。


「な、約束してくれ。誠太郎。無理はしないって。お腹の子だけじゃない、君自身に何かあったらと思うとぼくは気が気じゃないんだから」


「何回同じ事を言わせるんだ。ただの悪阻だから、心配はいらないものを」


誠太郎はそんな夫を、あきれ顔になだめている。

普段はのんきそうな國彦も、実は身重の妻を人一倍案じているのだ。


「お母さん、もう平気なの?」


母の元に駆け寄った息子の頭を、誠太郎は優しく撫でる。


「平気だとも。晴彦もお腹が空いただろう。今、ご飯の支度をするからな」


立ち上がろうとする妻を、國彦が肩を押さえて制する。


「良いから、寝ておいで。夕食の支度はぼくが代わりにやるから。晴彦、先にちゃぶ台を拭いて、皆の箸を並べておいてくれるか」


「うん、分かった」


母の様子を見られて安心した晴彦は、言われた通りに部屋を後にする。

日輪の子供はやや早熟な所があると言われているが、それを差し引いても物分かりの良い利口な男の子である。


美夜は夫妻の邪魔にならないように、國彦の斜め後ろに腰を下ろした。


「二人目が生まれるというのに情けない。美夜さんが雑炊を作ったり色々してくれたから、もう大丈夫だよ」


國彦はようやく溜飲が下がったとばかり、ふうと息をついた。


「ありがとう、美夜さん。ぼくも仕事があって、ずっと誠太郎の傍にはいてあげられないから。君がいてくれなければ、どうなっていたか」


膝を正した國彦にぎゅっと手を取られ、美夜は面はゆい心地だった。


「全く、國彦は一々大袈裟で困る。だが、美夜さんのお陰で随分助かった。お礼と言っては何だが」


誠太郎は手近な小物入れの箪笥(たんす)から、何やら丸く平べったい小さな入れ物を取り出す。

手渡された容器の蓋を取ると、それは練り紅を詰めたものだった。


「あら、紅!」


桜色を濃くした可憐な色合いの口紅に、心が躍らない娘が居ようか。


だが、どうして男所帯の大槻家にその様な物があるのだろう。

不思議がる美夜に、國彦が説明した。


「前、家に押し売りがやって来た事があってね」


買うまで帰らないと最初はふんぞり返っていた押し売りも、誠太郎の強気な態度にたじたじになった。

とうとう、向こうが買ってくれと泣いて頼むまでに立場は逆転した。


巡査を呼ぼうか迷っていた誠太郎だが、お人好しの國彦は、一つくらい買ってあげても良いだろうと押し売りに同情的だったという。


それで仕方無く切れていた軟膏を買おうとしたが、中身は練り紅だったという訳だ。

確かに、二つとも容器の形は似ているから間違えるのも無理は無い。


誰も使う人間がいないから、せめて美夜に使って欲しいという。


「早速付けてごらん。怜子さんも、きっと惚れ直すよ」


誠太郎にそう言われれば、ますます塗るのが楽しみになってしまう。


小さな紅一つ貰うだけでも、美夜はそのお下げの頭をぺこぺことさせ、何度もお礼を言うのだった。


「もう、行ってもよろしいでしょうか。怜子さまもお戻りになる頃ですから、是非お見せしたくて」


そう言って弾む様な足取りで部屋を辞する美夜の姿には、誠太郎も自然と気持ちが(なご)んだ。


もしもお腹の子が女の子だとすれば、こんな気持ちになるのだろうか。


「本当に素直で可愛らしい子だ。怜子君が夢中になるのも分かるよ」


國彦は兄が妹に対する様な親しみを込めて、しみじみと目を細める。


「僕も、そう思う。あの二人には、何とかして幸せになってほしい」


「……ああ」


もしかしたら、亡くした末の姪の姿を同い年の彼女に重ね合わせているのかもしれない。

そう思えば、目の前の夫へのいたわしさが込み上げてくる。


「美夜さんにな、話したんだ。僕達の昔話」


國彦は虚を突かれた様に目を見張ったが、黙って頷いた。

口から生まれたかと思う程のお喋りで、興奮するとぺらぺらとまくし立てる國彦だが、誠太郎が話したい時には静かに聞いていてくれる。


「あの子、妊娠している僕の身を気遣って色々と手伝おうとしてくれていたんだ。それなのに、僕は冷たい事を言ってしまった。今日も、差し出された手を振り払おうとしたりして。だけど―――あの子は、僕とお腹の赤ん坊の為だと言って、決して妥協しようとはしなかった。外柔内剛(がいじゅうないごう)って、ああいう子の様なのを言うんだろう。そういう風に、誰かの為に自分の意志を貫けるところが昔の國彦に似ていると思ったんだ」


國彦は照れくさそうに、中指と親指の腹を擦り合わせる。

誠太郎が晴彦を身籠った時にきっぱりとやめたものの、煙草を吸っていた時の癖が今でも残っているのだ。


「ぼくはあの頃、兄と君を重ねて見ている所があった。誠太郎が、ぼくの姿に成長した弟さんを映していた様に。けれど、誠太郎は誠太郎、兄さんは兄さんだ。そう理解しているのに、晴彦がお腹にいるのが分かった時、不安になってしまった。君が、順吉(じゅんきち)兄さんの様に―――」


その先を口にするのは縁起でもない、と國彦は唇を引き結ぶ。


震える彼の手に、誠太郎はそっと自身の手を重ねた。

固いペンだこと一緒にインクの染みが所々に付いた、大きく頼もしい手。


誰かの夜明けの為に働き続けた、誠太郎がこの世で一番好きな手だ。


「そこまで自分を想っている相手と(つが)えて、子を二人も授かる事が出来たんだ。月影として、これ以上幸福な事があるかね」


國彦は泣き笑いの様な表情を浮かべて、誠太郎の背に手を回す。

初めて彼に秘密を打ち明けた時と同じくらい、強く。


「愛してる、誠太郎。君以上の奥さんが、何処にいるものか」


「……僕もだ」


國彦という日輪があるからこそ、どんな朝も夜も生きていけるのだ。




「そうそう、これを渡したかったんだ」


國彦がシャツの胸ポケットから取り出したのは、「安産」の字が縫い取られたお守りだった。


「今日、仕事の帰りに晴彦とお参りに行ってきたんだ。晴彦の奴、すっかり張り切っていてね。これからお兄ちゃんになるんだからって」


「ありがとう、二人とも」


弟がお社の階段から足を滑らせて命を落として以来、神社からは足が遠のきがちになっていた。

そんな自分に代わり、心を込めて祈ってくれる夫と我が子の存在が、誠太郎には何よりのお守りだ。


「さあ、今夜はぼくが腕によりを掛けて夕食にするよ。それまで、もうひと眠りおし」


「うん」


彼より二歳上の(あに)さん女房である誠太郎なのに、そうやって國彦に背中を撫でられると寄りかかりたくなってしまう。


布団に身を横たえた誠太郎の胸を、國彦はそっと拍子を付けて叩く。


「ねんねんよ、かんかんよ。坊やはよい子だ、ねんねしな。お月様が見てござる」


調子はずれで素朴な歌声に、誠太郎は思わず笑ってしまう。


「何だい、その歌は」


國彦も、微笑んで答える。

目も覚める様な鮮やかさとは裏腹に、どこか感傷の念を呼び起こす夕焼けに似た笑みだった。


「ぼくの、故郷(ふるさと)の子守歌だよ」




美夜は月明かりに浮かぶ、鏡の中の自分の顔に胸ときめかせて眺め入った。


色素の薄い髪や肌、その淡い(いろど)りの中に唇の紅が匂う。

まるで、真白い月見草の中に、薄紅色の花が一点だけ咲いたようだ。


思えば、これまで自分から肌に白粉(おしろい)をはたく事も、紅を差す事もしてこなかった美夜だった。


あの方がお帰りになるのが、今か今かと待ち遠しい。


「でも、この髪形では子供っぽくはないかしら」


ふと、髪を下ろしてみてはどうかと思いつく。

お下げのリボンをほどくと、胸までの長さの髪はふさふさと垂れ下がった。

これで少しは、口紅も引き立つだろうか。


玄関の引き戸の開く気配に、美夜はいても立ってもいられなかった。


「お帰りなさいませ、怜子さま!」


只今(ただいま)


怜子は月明かりを背に、大理石の彫像の如く三和土(たたき)の上に(たたず)んでいる。

あらわになった柔肌が、青白い色を帯びていた。

ほっそりした手には、小さな風呂敷包みを(たお)やかに持ち添えている。


一体、どちらに行かれていたのだろう。


怜子はつかつかと美夜の元に歩み寄り、その頬を両手で挟んで上を向かせる。


「紅を付けていて?」


「はい、誠太郎さんに頂いて。似合いますでしょうか」


甘い恥じらいのささやきは、怜子の唇で荒々しく塞がれた。


「んっ、う、んむっ」


にわかに、(むさぼ)る様な口づけ。


美夜の知っている怜子の口づけは、母が子にする如く、どこまでも優しく(いつく)しむ様なものだ。


苦しさから顔を背けようとした美夜の髪を、怜子の指が絡め取る。


彼女の唇を拒む事は許さぬと言わんばかりに、幾度も幾度も押し付ける。

矢継ぎ早に繰り返される接吻と短い呼吸の間隙(かんげき)が美夜を翻弄した。


ようやく怜子の唇が離れると、美夜は喘ぐ様に肩を上下させた。

息の止まりそうな苦しさから解放されても、心臓は(おのの)きに脈打っている。


怜子はそんな美夜を、凍てつく様な眼差しでじっと見下ろしていた。


彼女の高貴な薔薇色のルージュと、美夜の少女らしい可憐な色の紅が混ざり合い、怜子の唇は温かな生き血を(すす)った様に染まっていた。


「ひっ」


その毒々しい色合いに、首筋に冷たいものが走る。

手の甲で唇を(ぬぐ)う事もせず、怜子は黄泉路の果てから響く様な低い声音で呟く。


「美しい月ほど(かげ)りやすく、美しい夜ほど明けやすいものよ。私以外に(よそお)った顔を見せたりはしないで。それから、髪を下ろすのも。―――良くって?」


薄闇のヴェールに覆われた瓜実顔の中で、その目がぎらりと一閃(いっせん)とする。


夜は二人を閉じ込めたまま、今しも更けゆくのだった。

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