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憂き夜のあかつき

障子窓の隙間からは、ちらちらと朝の陽射しが射し込んでいる。

頭上には見知らぬ天井が、古びた染みや木目を薄明かりの中にさらけ出している。


美夜はまだ眠気にぼんやりと(かす)む目を見開いた。

一瞬、自分がまだ野々宮家の別邸にいるのではないかと、きょろきょろと辺りを見回してしまう。


意識がはっきりしていくにつれて、これまでの事が徐々に思い出される。

怜子と手に手を取っての孤月ヶ浜からの逃避行は、昨夜の花火よりもなお色鮮やかな記憶となって残っている。


嗚呼、やはり夢などでは無いのだ。


チチ、チチ、と表から聞こえるのは孤月ヶ浜の浜千鳥の悲しげな鳴き声では無く、都の朝らしく(ほが)らかな(すずめ)のそれだ。


美夜はほっと胸を撫で下ろして、ちらと隣に目をやった。

これが夢でない証に、そこには美夜のものとは別の枕がもう一つ据えられている。


だが、それにモガらしい断髪の頭をなよらかに横たえていた女性(ひと)の姿は影も形も無い。

怜子さまがいらっしゃらない―――どこへ行ってしまわれたのだろう。


美夜がそろそろと布団から這い出ようとすると、襖が向こう側から開かれた。


「あら、目が覚めて?お寝坊さん」


怜子はもう身仕舞いを済ませて、畳の上にすらりと立っている。

匂いやかな化粧に彩られた怜子の微笑が、朝の光に柔らかく溶けていく。


洋風の装いを好むこの方には珍しく、今日の怜子は夏らしい空色の薄物に亜麻色の帯、ラピスラズリの帯留めを組み合わせた和服姿である。

それでも、ほっそりと丈高い身にはその爽やかな和装が良く似合う。


やはりこの方は、何をお召しになってもお美しい。

美夜は和服の怜子に見惚(みと)れるのも束の間、慌ててかしこまった。


「申し訳ありません。起きるのが遅くなりまして」


主人の身支度を整えるのは侍女である美夜の仕事なのに、それを忘れて寝こけるとは言語道断である。


「美夜があんまり気持ちよさそうに眠っていたものだから、起こすのが忍びなかったの。私も昨日の夜はよく寝られてよ」


それは本当なのだろうか、と美夜は怜子を上目づかいに見やる。


白粉(おしろい)でも隠しきれない(くま)が、うっすらとその涼しい目の下に浮かんでいる。

まるで、昨夜の不穏さの名残の如く。


あまりお眠りになれなかったのではないかしら、と心配になってしまう。

そんな美夜の憂いを知ってか知らいでか、怜子は嫣然(えんぜん)とその笑みを深める。


「顔を洗っていらっしゃい。さっぱりするわよ」


闇に飲まれそうな光が、一際その明るさを増す様に。

言い知れぬ(かげ)りを帯びた怜子の笑みもまた、朝の陽射しに負けぬ輝きを放つ。


洗顔を済ませて部屋の片隅に置かれていたトランクを開けると、そこからは懐かしい着物の幾つかが出てきた。

伯爵家を出てきた時、箪笥(たんす)の中にそのまま置いてきた着物を、怜子が持ってきてくれたのである。

怜子との思い出の詰まった着物は、どれもしっとりと肌に馴染んで心地よい。


いつも通り髪をお下げに編むと、ようやく怜子の傍に帰ってきたという気がした。


「やっぱり、美夜にはこの髪型が一番良く似合っているわ」


怜子が美夜の後ろ姿を見ながらしみじみと言うので、鏡台の前に座ったまま面はゆくなってしまう。


「お下げなんて子供っぽい、とおっしゃる人もおりますけれど」


事実、焔は美夜のお下げを子供じみているからと好まず、色とりどりの(かんざし)を用いて自分好みに結い上げさせていた。


「誰が何と言おうと関係無くてよ。私は美夜のお下げにした姿が好きなの。美夜の可憐さが一層引き立てられるわ」


そう言って、怜子はリボンが結ばれたお下げの片方を手に取り、目を閉じて唇を寄せる。

紳士が貴婦人の手にそうするより、なお愛慕に満ちた口づけに頬が熱くなってしまう。


だが、美夜は照れくささで顔を伏せたくなるのを我慢して、恥じらいつつ申し出る。


「その……ゆうべと同じ場所にも……お願い、いたします」


自分で言ってのけておきながら、顔から火が出そうだ。


ふっと目元を(ほころ)ばせ、怜子は美夜の頬に手を添える。


「良くてよ」


つい昨日、愛しい人の口づけの甘さを知ったばかりの美夜の唇に、怜子は自身の唇を重ねる。

初めての時と同じ、(いつく)しみに溢れていながら、長く包み込む様な接吻(せっぷん)


怜子の顔が離れると、美夜はようよう呼吸ができる。

止めていた息と共に、全身の血が一気に顔へと集まってくる。


「月影の方からこんな事をお願いして、はしたない真似をいたしました。お許しを……」


その太陽に手は届かなくとも、温かな日だまりの中にいられるだけで十分過ぎる幸福であった。

けれど、今では愛する人に触れたい、触れられたいという思いを押し殺す事ができない。


「はしたないものですか。美夜が私の事を求めてくれるなんて、これ程までに嬉しい事は無いわ」


怜子の指先は自身の口づけの跡を確かめる様に、美夜のお下げや唇をなぞる。

その感触に、思わず喉が上下する。


「この髪も、唇も。私以外の者に触れさせはしないと約束して頂戴。美夜の髪の毛一本でさえ、他の誰にも渡したくはないの」


わたしに差し上げられるものでしたら、何もかも怜子さまに差し上げます。

貴女という太陽によって、この命を輝かせる事を知ったわたしなのですから。


美夜はそう言葉にする代わりに、怜子の胸元へ頬を寄せて身を預けた。

決して離しはせぬと言わんばかりに、怜子はその腕の中に美夜を抱き締める。


「私の可愛い淡月(たんげつ)


優しい囁きが、そっと耳元のおくれ毛を揺らす。




それから、旅館の女中が運んできた朝食を二人で()る。

ご飯に豆腐の味噌汁、漬物と、これまで野々宮家の別邸で出されたものに比べれば質素な献立だ。


それでも、怜子と顔を突き合わせて食べる朝食は、涙が出そうになるほど美味しい。

積極的にお代わりをするというのも、別邸では考えられなかった事だ。


(ひつ)から二杯目のご飯をよそう美夜を見て、怜子がほっと安堵の息をつく。


「そうそう、もう少し食べなくては駄目よ。あと、一貫(3.75kg)くらいは増やして、私を安心させて頂戴」


「怜子さまも、お代わりはいかがですか」


茶碗を受け取ろうと手を伸ばしても、怜子はふるふると首を横に振る。


「私は良いの。ほら、この御香香(おこうこう)、美夜がお食べなさい」


そう言って、手つかずの漬物の小鉢を美夜の方に押しやる。

元々食の細い怜子だが、やはり心配になってしまう。




宿の外へと一歩踏み出した瞬間、稲妻の様な緊張が走る。


夏の太陽は抜ける様な青空の高みにあって、煌々(こうこう)と照っている。

その晴れやかな眩さが、何故だか空恐ろしい。


怜子が(たもと)の中から絹レースのハンカチーフを出して、汗ばむ額を押さえる。


どうして怜子が今日に限って和服を選んだのか、美夜はようやく合点が行った。

怜子はただでさえ背が高く、日輪としての独特のオーラで人の視線を集めやすい。


あまつさえ、洋装の女性は東暁(とうきょう)でもまだまだ珍しい存在だ。


昨日の今日とはいえ、もう焔が美夜たち二人を追って帝都に戻っているかもしれないのだ。

目立つ格好をしては、いつ居所が知れるか分かったものではない。


軍人として官憲とも懇意にしている野々宮家なのだから、警察に駆け込む事もできない。

そんな事をすれば、わざわざ名乗りを上げに行く様なものである。


改めて、とんでもない相手を敵に回してしまった事に背筋が寒くなる思いだった。


道端で煙草をふかしながら客待ちをしている二人組の人力車の車夫を、怜子が少し嫌そうに呼び止める。

それぞれ別々の(くるま)に乗り込んだ後で、怜子が自分の車夫に命じる。


(ほろ)を下げてしまって頂戴。一番下まで」


「でも、こんなにお天道様が良く照った、お天気の日なんですぜ」


怜子は伯爵家にいたどんな立場の使用人にも決して横柄な態度を取らず、その寛大さで彼らからも慕われていた。

けれど、引き下がろうとする車夫に対して、怜子は苛立って眉根を寄せる。


「良いのよ。あの子の俥もそうして頂戴」


怜子の押し通す様な口調に、壮年の車夫は日焼けた顔に困惑の表情を浮かべる。

だが、言われた通りに幌を下ろし、仲間の車夫もそれに(なら)う。

怜子の乗った俥を先頭に、俥は乾いた埃を巻き上げて走り出す。


ちらと上を見れば、隔てられた青空が遠い。

日の当たらない幌の中、美夜はうなだれて目を伏せた。


どうして忘れていたのだろう。


降り注ぐ陽射しの下を並んで歩く事なんて、(つい)ぞ許されていなかった自分達なのに。

怜子と唇を重ねる事ができたのも、日の光の差し込まない薄暗い座敷の中でこそだ。


日陰の身、という言葉が頭に浮かぶ。


人目を(はばか)る身となった事で、前にも増して自分の境涯を思い知らされる。

ようやく心から想う人と逢えたはずなのに、胸の中には暗雲が立ち込めている。


いけない、こんな事では。


美夜は込み上げる重苦しさを取り払おうと、斜め前の怜子へと目を向ける。

その(かんばせ)は、黒い幌の内側に隠されたままだ。


せめて、ほんの少しだけその幌を上げて、美夜にその優しい微笑みを見せてはくれないだろうか。

けれど、怜子は凛と背筋を伸ばしたまま、美夜を一瞥(いちべつ)だにする事は無かった。


―――何を思って、いらっしゃるのだろう。


御簾(みす)の内側に御座(おわ)す、姫君の表情を一目見たいと焦がれる様に。

美夜は、自分の想い人の心が知りたいと一人願った。


日の高く登った炎天の下、人力車は道を進んでいく。

ただただ運命に導かれる様に、美夜はただ座席に腰掛けて揺られている他は無かった。


これから自分がどこへ行くのか、皆目見当がつかない。

万事怜子に任せておけば良いと分かってはいるものの、やはり気掛かりだ。


怜子の乗った俥がとある一角で止まると、美夜の俥もそれに合わせて速度を落とした。


小柄な体でそろそろと俥を降りようとする美夜を見かねて、車夫が手を貸そうとする。


「足元に気を付けてくだせえ、お嬢さん」


美夜とそう年も離れていないであろう若い車夫は、玉の様な汗をかいた瑞々しい顔に爽やかな笑いを浮かべる。


「まあ、ご親切に」


ありがとうございます、と美夜は微笑んで自分より大きくも少年らしさの残る手を取ろうとした。

すると、目の前にもう一つ、上等な羽二重の絹地よりも白くなよらかな女の手が差し出される。


「さあ、美夜」


(いざな)うというより、半ば命じる様な響きが怜子の低く静かな声音から伝わってくる。


双の瞳は目も眩むような光を帯びて、真っ直ぐに美夜を見つめる。

そのあまりに強い眼差しが、夏の陽の光よりも痛い。


美夜を手助けしようとした若い車夫は、呆気に取られた様に口を開けていた。


「何か?」


怜子は貴族令嬢らしい品のある笑みと共に、車夫に一瞥(いちべつ)を投げ掛ける。

だが、その瞳の奥では容赦の無い吹雪が荒れ狂っている。


「いや、何でもありやせん」


怜子の目つきに、青年はすぐさま顔を(そむ)けてしまう。

どちらの手を取れば良いかと、美夜は逡巡(しゅんじゅん)する事さえ無かった。


怜子の手は、やはり美夜の慣れ親しんだ冷たさを持つそれだった。

凍り付いた白銀の鎖の様に―――それが手首から腕を這い、この身を幾重にも縛るのでは無いか。


そんな不吉な想像が脳裏を(かす)める。


二台の人力車が塀の角に消えた後、怜子が端正な顔を歪めて呟く。


「全く、下心が見え透いているわ。これだから、若い殿方って嫌なのよ」


下心だなんて―――あの純朴そうな青年はただ単に美夜の事を気遣って、肉刺(まめ)の治りきらない手を差し出してくれたに違いないのに。

けれど、その不服をどうして口に出せようか。


思い返してみると、伯爵邸にいた頃からこれと似た事が幾度もあった気がする。

廊下などで男性の使用人に呼び止められて話をしていると、決まってその場に怜子が現れる。


「まあ、ここにいて?探していたのよ」


今度のパーティーに着ていくドレスを一緒に選んで欲しかったの―――内容はその都度違ったけれど、こんな風に何かしら美夜に用事を言いつけるのがお決まりだった。


それで和やかな談笑を中断せざるを得なくとも、何一つ疑わずに怜子の言うとおりに従った。

主人である怜子の言うことは絶対だったし、美夜自身が彼女に命を救われた恩義に報いる事を喜びとした。


けれど、怜子もそうした美夜の従順な性質を見抜いていたのではないだろうか。


如何なる時も愛日そのものの慈悲深さと美しさを兼ね備えた、完璧な伯爵令嬢。

そう自分が信じ続けてきた清小路怜子という日輪は、まやかしの幻日(げんじつ)に過ぎなかったのだろうか。


だが、それを一途に盲信していたのは他でも無い美夜ではないのか。


二人が降り立ったのは、路面電車の走る表通りから少し奥へと入った、幾つもの家が軒を連ねる往来だった。


屋敷町と呼ぶほどの仰々しさは無いが、かといって下町の様に混みごみもし過ぎていない。

ちょうど良い落ち着きと、人々の生活の息吹(いぶき)が溶け合った家並(やなみ)である。

まだ葉の青々とした柿の木の枝が塀の上から覗いていたり、通りで猫がのんびりと寝ているのも長閑(のどか)な風景だ。


小路や角を曲がり、苔むした石段を降りた先に一軒の家が見えてくる。


「この家よ」


怜子は迷いの無い足取りで、開け放された質素な木戸門を潜る。


白木の表札には、厳めしすぎない毛筆の字で「大槻(おおつき)」と出ている。


大槻―――美夜には聞き馴染みの無い名だ。


本当にこの場所なのですかと怜子に尋ねようとして、美夜ははたと口をつぐんだ。

玄関の前で腕組みをして立っていた男性が、大股に怜子へと歩み寄ってきたのである。


「やあ、怜子君!よく来なさったねえ!」


歌う様に快活な調子でそう言って、彼は固そうなペンだこのある手を怜子に差し出す。


目の端をくしゃりとさせた子供の様に無邪気な笑顔が、どこかお茶目な印象を与える。


男性は怜子よりもやや年上であったものの、三十になるかならぬかの年頃だろう。

夏らしい白の(かすり)の着物に紺地の袴という出で立ちも相まって、書生の青年の様に見える若々しさである。


ポマードを軽く付けて髪をふんわりと七三に分け、余った一筋二筋の毛が額に垂れているのも親しみが持てる。

それとは対照的に、濃く引き締まった眉や大きな黒目がちの目元には、こちらに襟を正したくさせる精悍(せいかん)な力強さがある。


だが、一度口を開いた途端、その饒舌(じょうぜつ)さが堅苦しい部分を打ち消してしまう。


「おや、今日は和服をお召しだね。断髪洋装のモガの君が着物を着るなぞ、どういう風の吹き回しだい?いやあ、和装の怜子君を見るなんて、女学生時代の袴姿以来じゃないかなあ。でも、良くお似合いだよ。まるで華暁(かきょう)の描いた美人画の様だ」


男性の(せき)を切った様な口達者にも呑まれず、怜子はおっとりと微笑んで彼と握手を交わす。


「ご機嫌よう、國彦(くにひこ)さん。奥様はご在宅かしら」


そのやり取りを見るにつけても、昨日今日の仲という訳では無さそうだ。

怜子が学生の頃からならば、かなり長い付き合いになるだろう。


一体二人がどういった仲なのか、美夜はますます気になってしまう。


「ああ、いるとも。さあ、どうぞ入ってくれたまえ」


國彦と呼ばれた男性は、そう怜子を我が家に招き入れようとした。


だが、怜子の体の陰に隠れるように立っていた美夜の姿に、ぱっと顔を輝かせる。


「やあ、君が美夜さんだね?」


「はい、お初にお目に掛かります。百幸美夜と申します」


「怜子君から常々お話は伺っているよ。こうして見ると、気立ての良さそうな娘さんだなあ。歳は幾つだい?郷里は?それにしても、想像していた通りに可愛らしい子だね。怜子君が華暁美人だとすれば、こちらは少女小説の挿絵に出てくる様な可憐さだ」


矢継ぎ早にそうまくし立てられると、人懐っこい大きな犬にじゃれつかれている感じがする。

美夜が目を白黒させていると、怜子が苦笑いして二人の間に入る。


「およしなさいな、國彦さん。美夜が困っていてよ」


「いやあ、失敬失敬。だけど、気にならずにはいられないじゃないか。怜子君が我が家に月影の女の子を連れてくるなんて!」


頭を掻きながら、豆が弾ける様に笑う仕草が決して野卑に見えないのは、國彦自身の素直な人柄のお陰だろう。

それを抜きにしても、美夜は初めて会う筈のこの男性(ひと)に言い知れぬ親しみを抱き始めている。


遙かな夏空に昇っていく様な笑い声を聞いていると、自然と顔が(ほころ)んでくる。

まるで、ずっと昔に別れた兄弟に偶然巡り会った様な―――そんな懐かしさを(おぼ)える。

父や兄姉達にさえ感じる事の出来なかった(よし)みを、どうして今会ったばかりの國彦に感じるのだろう。


怜子がこほんと咳払いをして、國彦を美夜に紹介する。


「美夜、こちらは大槻國彦さん。尋常社という雑誌社で、編集のお仕事をしていらっしゃるの」


「こう見えても、怜子君と同じ日輪でね。社では、日輪の社員はぼくくらいなものだよ」


「まあ、雑誌社にお勤めなんですか?」


國彦が日輪というのも意外だったが、どうしてそんな市井(しせい)の人と怜子が相識の間柄なのかが不思議だった。


「お二人は、どういったご縁でお知り合いになられたんでしょう」


「それは、話すと長くなるからね。とりあえず、中に上がってくれ。妻や息子にも君達を引き合わせたいから」




案内された家の中は、年季を感じさせつつも、手入れが行き届いているのがよく分かる。

板張りの廊下など、毎日米ぬかで磨き上げているのが目に見えるつややかさだ。


古い家に特有の独特な木の香りはあるものの、それが少しも陰気でない。

この家のおかみさんの気忠実(きまめ)さが、そこかしこから感じられる。


通された六畳ほどの客間も、上等な調度品こそ無くとも素朴で居心地の良い空間だ。

それでも、低い座卓の前に怜子と並んで座布団を与えられた美夜は、どこか気もそぞろになってしまう。


「まあ、そんなに固くなりなさんな。今、(さい)が茶を持ってくるから」


二人の向かい側に腰を下ろした國彦は、そう言って心安く笑う。

すると、それと間を置かずに襖がさっと開かれる。


そこには一人の男性が、麦茶と水ようかんの皿を乗せたお盆を脇に端座していた。


月影の首輪が、まず目に飛び込んでくる。

縞模様の着流しに角帯を締め、前掛けをした格好だ。


年齢は國彦とそう変わらない様に見えるが、彼に比べれば首や肩の辺りの線の細さが目立つ。

月影の男性によくある様に、中性的で整った顔立ちだが、どこか神経質そうにも見える。


丸い銀縁眼鏡の奥にある糸を引いた様な目が、(いぶか)しげに美夜達を捉える。


誠太郎(せいたろう)。こちら、清小路伯爵のご令嬢の怜子さんに、侍女の美夜さん」


伯爵という単語に、誠太郎の眉がぴくりと動く。


「こっちがぼくの妻で、誠太郎と云うんだ」


男性同士の日輪と月影の夫婦というのも、ごく当たり前にいるのだ。

美夜の父と母や、伯爵の両親にあたる怜子の祖父母もそうした夫婦であった。


「こんにちは」


と美夜は頭を下げたものの、誠太郎はそれを一顧(いっこ)だにすることは無かった。


誠太郎が各々(おのおの)の前に湯のみと皿を置いたところで、ぱたぱたと小さな足音が客間に飛び込んでくる。


七つか八つほどの、坊ちゃんらしい半ズボン姿の少年だ。

くりくりと大きな目が、國彦によく似ている。


「お客さん、もう来たの?」


しげしげと物珍しげに美夜達を眺める男の子に、誠太郎が厳しい声を掛ける。


晴彦(はるひこ)!廊下は走らないようにって、母さんいつも言っているだろう」


「まあまあ、そう怒らないでもいいじゃないか。晴彦、お父さんの所においで」


それらの言葉や國彦にそっくりな面立ちを(かんが)みても、晴彦が二人の息子であるのは明らかだった。


「お父さん、このお姉ちゃま達がお家に住むの?」


父の膝の上に座った晴彦が、天真爛漫に問う。


「そうだよ。これから、二人とも家にいてもらうんだ」


それに続いて誠太郎が自身の隣に腰を下ろすと、 國彦が美夜達の方へと向き直る。


「改めて、妻の誠太郎に息子の晴彦。それから誠太郎のお腹にもう一人、赤ん坊がいてね。丁度、三月に入るところなんだ」


そうにこやかに話す國彦は、抱えきれないほどの幸せを存分に噛み締めているようだ。


まあ、と怜子が困惑の声を上げる。


「奥様、お腹に赤ちゃんいらっしゃるの?それでしたら、御遠慮しましたのに。大変な時期だわ」


「病院に行って妊娠が分かったのがつい一昨日の事でね。ぼくも誠太郎の事は心配だったんだけど、一人や二人増えても変わらないって本人が言うもんだから」


すると誠太郎が、初めて口を開く。


「華族の日輪だと知っていたら断っていたさ」


その吐き捨てる様な口調に、國彦や怜子の表情が(またた)く間に強ばっていく。


「誠太郎、そんな言い方は……」


「何がいけない。華族という無為徒食(むいとしょく)の特権階級は、君の掲げる平等主義に反する最たるものじゃないか、國彦。あまつさえ日輪は、生まれ持つその威光を振りかざしてこの社会を支配している」


誠太郎の論調は不正を手厳しく糾弾する弁士の様に、留まる事を知らない。


それに、と誠太郎の視線が刃物の様に怜子へと突き付けられる。


天照(あまてらす)の回し者かもしれない。そんな人間、僕はこの家の敷居を(また)がせるのも嫌だがね」


「晴彦、向こうで遊んでおいで」


鋭く言い放つ誠太郎を見かねて、國彦が息子を座敷から出ていかせる。


「奥様がそう思われるのも、ごもっともですわ」


怜子が(うつむ)いたまま、絞り出すように呟く。


実家(さと)の方といざこざがありまして、突然押し掛ける形になってしまいました。奥様が身重だと知らなかったとはいえ、しばらく置いて欲しいなどとお願いして、図々しいのは重ね重ね承知しております。ですが、その分きちんとお礼はお渡しいたします」


「お礼ねえ」


その片頬を皮肉に持ち上げ、誠太郎は怜子を見やる。


「その金はどこから出すのかね。どうせ、父親の金だろう。働く事を知らない華族の姫様が、口だけはご立派だな」


返す言葉も無く、うなだれる怜子の横顔が障子を透かした逆光の中に沈む。

重苦しい空気が、座敷の中に満ちる。


美夜は、怜子と相並んで針のむしろにでも座らされた心地だった。


「なあ、誠太郎」


國彦は妻を(なだ)めようと、焦りのにじんだ穏やかな声を出す。

だが、誠太郎はそれをぴしゃりと一蹴する。


「君は黙っていてくれ。今は僕が話しているんだから」


暮れゆく夏を惜しむように鳴き交わしていた蝉達が、今は死に絶えた様に静かである。

息苦しい居た(たま)れなさを紛らわそうと、怜子が着物の膝の絹地をつまんだ音さえ聞こえそうだ。


國彦は狼狽した様に、ぬるくなり始めた麦茶を一息に(あお)る。

どうやらこの大槻家は、日輪と月影の夫婦に付き物の亭主関白とは無縁の家庭らしい。


そんな二人の様子もお構い無しと、誠太郎はなおも続ける。


「僕はね。生まれ持った恩恵に(あずか)っておきながら、それに気付きもせずにのうのうと享楽を謳歌しているブルジョワが何より嫌いなんだよ。自分達こそが至上の性であると心得違いをし、豺狼当路(さいろうとうろ)とのさばっている日輪は特にね」


(なか)ば座卓から身を乗り出す様に、彼はまじまじと怜子の顔に見入る。


「清小路。新聞で時折見掛ける、貴族院の清小路尊子議員の娘だろう。顔も父親に瓜二つだ。いずれは君も、父親の跡を継いで政界に出るんだろう。日輪達の世襲による支配がまかり通っている限り、日本の政治に夜明けはやって来ないと思うがね」


誠太郎の怜子に対する辛辣(しんらつ)な物言いの数々は、憂さ晴らし、というのではない。

(なぶ)る、というのも違う気がする。


その端々に(さか)しさすら感じさせる、冷静を保ちつつも忖度無しにむき出しにされた批判であった。


月影が日輪に対して何か意見する事自体を、美夜は決していけないとは思わない。

世間では、月影がそんな真似をすれば身の程知らずだとすぐさま槍玉(やりだま)に挙げられるけれども。


月影も自分達日輪と同じく、独立した命を持つ対等な人間であると―――美夜の父に向かってそう言い切ったセレナーデの君の言葉を、美夜も(まこと)と信じる。

だが、それを差し引いても誠太郎の(そし)りの鞭は、一切の情け容赦も無く怜子へと振り下ろされている。


「あの」


考えるよりも先に、まず口が動いていた。


その場にいた全員の視線が、美夜の方へと集まってくる。

特に、誠太郎のそれは刺す様にきつく。


「お言葉ですが、怜子さまはそんな方ではありません。権力に(おぼ)れる様な事は決してなさらず―――華族として、日輪として、その力でこの不平等な世の中を良くしていきたいと考えていらっしゃいます。わたしが知る限り、華族の中で誰よりも聡明で怜悧(れいり)な方です。それは、侍女としてお側でお仕えしていたわたしがよく存じ上げています」


一言一言に確かな自信があふれて、それが消えない光の様に灯っている。


半分は、自分に言い聞かせた様なものだった。

美夜に対する気持ちがどんなものであろうとも、怜子の持つ真っ直ぐな信念だけは揺らぐ事は無いと信じて。


怜子が恥じらう様に目を伏せつつ、そっと美夜に微笑みかける。

ありがとう、とその表情が語っていた。


美夜にはそれだけで十分だった。


「ほう」


誠太郎の唇の両端が、やや愉快そうに持ち上がる。

てっきり、うんと嫌な顔をされるかと思いきや―――


「美夜さん、とか云ったね」


「はい。百幸美夜と申します」


自分の誇りであるこの名は、いくら名乗ったって足りないくらいだ。


目の前に座る、彼と同じ月影の小柄な娘を、誠太郎は真正面から見据える。

一般的に同性の日輪よりも小作りな体を持つとされる月影だが、やはり誠太郎は男性だ。


自分よりも上背のある相手に対して、気後れしないと言えば嘘になる。

けれど、ここで退()く事なぞ絶対にできない。


自分を愛してくれる女性(ひと)をけなされて、どうして黙っていられようか。


「ただの侍女にしては、随分ムキになるじゃないか。ああ、分かった」


にやり、と悪戯っぽい笑みが誠太郎の顔に浮かぶ。


「駆け落ちだろう、君ら。でなきゃ、わざわざ家出に侍女を連れて行くものかね。大方、平民の月影との結婚を親に禁じられて、それで家を飛び出したってところか」


そこに至るまでにはやや複雑な経緯(いきさつ)があるものの、ほぼその通りなので何も言えない。

美夜は頬を染めて、怜子と顔を見合わせるばかりだった。


「これに関しては、僕も他人(ひと)の事をとやかく言う資格は無いしねえ。まあ、愛し合っているならば結構な事じゃないか」


「はい」


怜子の声が、風鈴の音色よりも凜と澄んで響く。


彼女は美しい所作で、縮緬の座布団から青々とした畳の上へと降りる。

膝をきちんと揃えると、言祝(ことほ)ぐ様に朗々と、はっきりよく通る声で述べる。


「美夜は私にとって、父よりも、母よりも大切です。誰にも奪われたくありません。渡したくありません。ですから」


そこで言葉を切って、怜子は断髪の毛先が畳に触れんばかりに深々と手を突いて(ぬか)ずく。


「どうか、こちらに身を寄せる事をお許しください。私がお宅に住むのがお気に(さわ)るのでしたら、是非出て行かせていただきます。ですが、美夜だけはこちらに置いて、守ってあげては下さいませんか―――お願い申し上げます」


気位の高い華族の日輪の中で、一体何人がこの様に平民の月影へと頭を下げられるだろう。

他でも無い怜子が、美夜ただ一人の為に迷わずそうしてくれた―――


今すぐ青空に向かって、誰に(はばか)る事無く声高に叫びたかった。

この方が、わたしのお慕いする愛日の君なのですと。


怜子に対する新たな敬愛の念が、清らかな泉の様に滾々(こんこん)と心の奥底から湧いてくる。


いきなり怜子に頭を下げられた事に対し、誠太郎は虚を突かれた様に目を丸くする。

やがて、ばつが悪そうに怜子から視線を()らした。


「顔を上げたまえ。そんな風に土下座なぞされると、いかんせん調子が狂って仕方無い。誰も、君らを追い出すなんて言っていないだろう」


身を起こした怜子の(おもて)が、明るく晴れ上がる。


「では」


「一度頼みを引き受けておきながら、今更それを断るなぞ不正直にも程がある。だからと言って、君達二人を完全に信用した訳では無いがね」


「その点については心配無いさ」


妻の攻勢が収まった頃合いに、ようやく國彦が口を挟む。


「怜子君の人柄については、ぼくが保証するよ。女学生の頃から頭が良くて、真面目な子だ。それに何と言っても、あの徳子(とくこ)君の従妹(いとこ)なのだからね」


「君のお人よしには全く呆れるよ、國彦。君がそう言うなら、僕は何も口出しできないがね。この家の主夫(しゅふ)として、食事の面倒は責任を持ってきちんと見よう」


ため息をついて、誠太郎が眼鏡の中心を指で押し上げる。

薄いレンズが、白い光を鋭く反射する。


「ただ、上流階級のお家騒動にうちを巻き込むのだけはやめてくれよ。國彦や晴彦、このお腹にいる赤ん坊。僕の家族に危害が及ぶ事があれば、絶対に許さないからな」


その後、國彦は美夜達がこれから住む事になる、敷地内の離れへと二人を案内する。


「いや、さっきはすまなかった。誠太郎の華族嫌いは今に始まった事では無いんだがね。妊娠してから、前にも増して過敏になっているみたいだ。ぼくも誠太郎には頭が上がらなくてね」


そう言って、國彦が額の冷や汗を袖口でぬぐう。


「本当に、國彦さん達ご夫妻にはいくらお礼を言っても足りないわ。私と美夜を置いてくださって」


怜子がしずしずとその後を追いつつ、感謝に()えないとばかり頭を下げる。


「なんのなんの、こういうのは助け合いさ。ぼくだって高等学校を退学して行く宛ても無かった時、親切な編集長に拾われて今の仕事に就いた様なものだからね」


溌剌(はつらつ)と笑い声を立てる國彦を見れば、美夜も怜子と共に溜飲の下がる思いだった。


「しかし、まさか怜子君を天照の間諜(かんちょう)(スパイ)呼ばわりするとはなあ。肝が冷えて仕方無かったよ」


「その、()()()()()って何の事ですか?」


美夜がそう問うと、先を歩く國彦と怜子がはたと足を止める。


「ああ、美夜さんは知らないのか」


「無理もなくてよ。華族の中でも、その存在を知る人は多くないもの。天照というのはね……」


怜子が恥を忍ぶ様に教えてくれた事は、次の通りだった。


現在、爵位を持ち、華族に数えられる家は千近くにのぼる。

その中でも二十に満たないごく少数の家の当主である日輪達によって、秘密裏に結成された組織―――それが天照なのだという。


彼らの目的はただ一つ。


選ばれし存在である日輪の威光を高め、引いては華族の権力を絶対のものにする事。

そして、大日本帝國を手中に収める事こそ日輪たる自分達の使命と考えているのだ。


その為に各々の持つ特権を分かち合い、時には人道に背く事も(いと)わない。


冥治(めいじ)の初めに華族令が出されて間もなく、天照もひそかに産声を上げたのだという。

けれど、その真の姿は数十年を経た大宵(たいしょう)の今となっても明らかになっていない。


軍の高官や、財界の華族の中にも天照の一員が潜んでおり、その力をよからぬ事の為に行使する事も少なくないという。

だが、相手が法によって定められた特権階級であるがゆえに、警察も無闇に手出しができないのだ。


「下手に探ろうとすれば、此方(こちら)が消されかねない。何しろ彼らにとっては、ぼくのやっている仕事は目障りで仕方無いだろうからね。だから、ぼくも詳しい事は分からないんだが、少なくともそのトップは侯爵家以上の相当な家柄だ」


渋い表情で眉間に皺を寄せる國彦と共に、怜子がやるせなげに足元を見つめる。


「初めて國彦さんから天照の話を聞かされた時、同じ日輪として情けなくなったわ。華族という不平等な階級なんて、いつかは無くなるに決まっているのに。やがては(ほろ)んでいくものにしがみついて、その権勢を振るおうとするなんて、どこまで愚かなんでしょう」


それから、呆れた様にかぶりを振る。


「ただ、自分の家が天照に(くみ)していない事だけは幸いだったわ。父や、私が生まれる前に亡くなった祖父がその一員であったとは聞いていないし、父もそんな様子は見せなかったもの」


高天原(たかまがはら)の神々の長、唯一無二の太陽としてこの世の全てを照らす女神の名を(いただ)く組織、天照。

そんな輝かしい名を付けておきながら、その正体は暗然たる常闇そのものである。


同じ華族の日輪である怜子さえその全てを探り得ない天照とは、一体どれほど(いびつ)な闇を孕んでいるのだろう。

美夜は未だ知らなかった深淵を覗き込んだ様に、背筋が寒くなる思いだった。


目の前に一棟(ひとむね)の平屋が現れると、美夜はわあと声を上げた。


「これがうちの離れだよ。あまり広くは無いけれど、好きに使ってくれ」


離れは母屋から少しの距離を隔てて、独立した造りとなっていた。


小さくとも、母屋とは別に玄関まで付いている。

こうして見ると、同じ敷地内にもう一つ他の家が建っている様だ。


だが、それもその筈。

國彦達がこの家を買う前、そこには老夫婦が一人息子とその妻と共に暮らしていた。


この離れは息子夫妻の為の住まいとして、妻が嫁いできたのを機に建てられたという。

やがて老夫婦が相次いで亡くなって息子が家を持て余していた折に、会社から転勤の辞令が出された。


遠く離れた北の地に骨を埋めるつもりで、息子は住んでいる家を売り払って彼方(あちら)に新しい住まいを求めようとした。

そして、丁度その頃借家を引き払って新居を探していた大槻夫妻が、新聞でその広告を見つけたのだという。


「やや古いのが玉に(きず)だがね。でも、その分なかなか立派な家を安く買えたから満足さ」


母屋には美夜達が暮らすのに十分な座敷もあったが、お互いの事を考えればこの離れに住む方が良かろう、と國彦は話した。


ヤツデやガマズミの木々に囲まれ、橙色のノウセンカズラの花が生い茂る中にある離れは、人里離れた場所に佇む(いおり)の様だ。

このささやかな住まいでのこれからの暮らしを思えば、美夜はおのずと胸が高鳴る。


怜子と二人きりで所帯を構える事ができるなんて、まるで夢の様だもの。


「普段あまり使わないものだから、すっかり閉め切っていてね」


三和土(たたき)の上に陰影の落ちた玄関を潜ると、やや埃っぽい空気が鼻をつく。

みしりと(きし)んだ音と共に、床板が足袋越しにひんやりとした感触を伝える。


「部屋は八畳と六畳の座敷が一つずつに、居間もある。だが―――」


そう國彦が手近な襖を開くと、そこにはありとあらゆる物が所狭しと並んでいた。


晴彦が赤ん坊の頃に使っていたと思われる揺りかごやおまるから、バネのはみでた椅子に至るまで。

足の踏み場も無い程にごちゃごちゃとした光景に、怜子が唖然とするのが分かる。


「この通り、どの部屋もすっかり物置代わりになっていてね。昨日、誠太郎が掃除しようとしたんだが、あの体で重い物は持たせられない。ぼくも昨日は急な仕事が入ってしまってね。だから、ぼく達三人で手分けして部屋を片付けようじゃないか」


怜子が叱られた子供の様に下唇を突き出して、頷く。

元来きれい好きの彼女だが、伯爵家ではそうした事を全て使用人に任せていた事もあり、掃除は不得手なのだ。


美夜はその手を握って、励ます様に明るい声を立てた。


「大丈夫ですよ、怜子さま。皆で取りかかれば、きっとすぐに終わります」


「そうね」


萎れた花がまた潤う様に、怜子の唇に笑みが戻る。


「その前に、美夜さんのお目に掛けたい物があるんだ」


國彦が荷物の山をまたぎつつ、部屋の片隅へと二人を手招きする。

怜子に手を取られながらその後を着いていくと、紐で結わえられた古新聞と一緒に、雑誌が何冊も積み上げられていた。


國彦はその中の一冊を抜き出して、得意満面に美夜へと手渡す。


「これが、ぼくの作っている雑誌。この前の創刊十五周年記念の号だよ」


美夜はその雑誌を(うやうや)しく受け取ると、目を奪われた。

濃藍の地に眩い黄金(こがね)の斜線が描かれた表紙は、光の白々と射し込む夜明けの空を思わせる。


他の大衆誌や少女雑誌などと違って華美な絵など出ていない分、なおさら雑誌の名へと視線が吸い寄せられる。

そこには仄暗い座敷の中でも色()せぬ緋の文字で、「あかつき」と出ている。


まるで、夜明けの空を埋め尽くす茜雲の様な鮮やかさに美夜は息を呑んだ。


「拝見しても、よろしいですか」


「うん、構わないよ。どうぞ、好きなだけ見てくれ」


美夜は新たな扉を開く様に、そっと表紙をめくる。

怜子も美夜の頬に自分の頬を近づけ、それを見守る。


すると、「創刊十五周年に()いて寄する辞」と題された文章が二人の目に飛び込んでくる。




―――あかつきがかうして創刊十五周年を迎へた事で、私はしみじみと万感の思ひに浸らずにはいられない。


何故ならば、それは幾多の人々が彼らの不条理を抱へつつ、それでも尚夜明けを見やうと闘ひ続けてきた月日に他ならないからだ。


否、あかつきがこの世に生を受けるよりずつと前から、その苦しさや辛さに堪へかねて常夜(とこよ)の闇の中に散つていつた命もあるだろう。


それらの歴史は、何と無情な事だらう。


だが、語らるる事は無くともそこで足掻ひた人達は、確かに彼らの無情な生に立ち向かおうとしていたのである。


夜明けを見やうとしていたのである。


今の我が国は、未だ明けやらぬ夜の中にいるやうなものだ。


日輪達の専政が横行し、彼らに支配され続ける尋常種、その子を産む事を半ば使命の様に課せられている月影を、私は確かにあはれだと思ふ。


だが、生まれながらに自分達の生の()り方を考える事さへ許されず、決められた道を歩む事こそが正しいと思ひ込まされている日輪も、またあはれな者達ではなかろうか。


この()()の中に産み落とされたどの性も、その生まれ持つ苦しみは等しく同じであると私は信ずる。


そして、全ての人々が一日でも早く彼らの夜明けを迎えられるやうに願ふばかりである。


成る程、それは決して楽な道のりでは無いだらう―――だが、彼らがそれを願ひ続ければ、いつか必ず黎明(れいめい)の光は彼らの上に降り注ぐ筈だ。


その時こそ、この大日本帝國は新たな時代を迎へられるのだ。


それまであかつきは、この憂き夜を生きていく為の希望の光を彼らに与え続ける事だらう。


大宵(たいしょう)××年 東雲(しののめ) 月輝子(つきこ)





読み終えた美夜は、しばらくは息をするのさえ惜しい気がした。

(あかつき)の星々の様に、その一言一句が心の中に確かな光を投げ掛ける。


日輪に尋常種、そして月影。

誰もが生まれながらに同じ苦しみを背負い、明けない夜の中にいる。


けれども、その夜はいつか必ず明けて、新たな時代がやって来るのだと―――

ひしひしと胸打たれる美夜の隣で、怜子が驚きと嬉しさの混じった声で言う。


「まあ。この文章、徳子姉様が書かれたの?」


目をぱちくりとさせる美夜に、國彦が耳打ちする。


「それね、怜子君の従姉(いとこ)が書いてくれたんだよ」


怜子もにこにこと美夜の方を振り返る。


「四つ上の、母方の日輪の従姉なの。昔はよく遊んでいただいたものよ」


そして、東雲月輝子という名を指先で優しく撫でる。


「ぼく達『あかつき』の目的は、雑誌を通じて日輪達が一手に権力を握るこの社会の現状を変える事なんだ。引いては華族という階級を廃止して、全ての人々が平等に生きられる社会にする事も訴えている」


政界や財界においても、華族達はその幅をきかせている。


爵位を受け継ぎ、華族の家で当主を名乗れるのは日輪のみだ。

華族が力を持つ事は、そのまま日輪達の独裁に直結するのである。


「だから社員は大多数が尋常種で、少ないながら月影もいる。けれど、中にはぼくや徳子君の様に変わり者の日輪もいてね。徳子君には長らく、うちの雑誌に小説や時事問題の論評を書いてもらっているんだよ」


東雲月輝子というのはペンネームで、その人の本名は和泉(いずみ)徳子(とくこ)と云うのだった。

怜子の母たる伯爵夫人の生家、和泉子爵家の出身であった。


今は夫人の日輪の姉君である怜子の伯母が子爵の位を継いでおり、徳子はその長女に当たる。


「元々は『あかつき』の活動に共鳴してくれた徳子君が、うちの社に出入りする様になったのが始まりでね。同じ日輪のせいか、自然と気が合った。そのうち、自分の従妹である怜子君も連れてきてくれるようになったんだ」


「私、華族の日輪の中でも徳子姉様だけは尊敬できてよ。行動力があって、優れた考えを持っておいでだった。よく私に言っていらしたわ。生まれ持った性別や身分で人生が決まってしまう社会はおかしいって。姉の様でありながら、私には師の様な方でもあったわ」


華族の中で、怜子の他にもそうした革新的な日輪がいたのか。

怜子が自分の口から、自分の親戚を褒めるのも初めて耳にする気がした。


徳子は五人きょうだいの一番上で、その下には日輪の弟も生まれている。


それだけでなく、怜子の父である尊子は三人兄妹の真ん中で、若くして亡くなった月影の兄と、妹がいる。

他家へと嫁いだ彼らもそれぞれ子を成しているというのだから、従兄弟は徳子だけでは無いのだ。


けれど、従兄弟達の中で気を許せるのは徳子くらいだったと、怜子は寂しげに目を細めた。


「徳子様は、今どうしておられるのですか」


それほどまでに親密な相手ならば、徳子が清小路家を訪ねたり、怜子が和泉家に(おもむ)いたりしても良い筈だ。

けれど、美夜はその人の顔さえ知らない。


怜子が今までその名を美夜に告げずにいた事も、どこか妙な気がした。


ああ、と國彦と怜子が顔を見合わせる。


「それがね。六年ほど前に突然大学を辞められて、御実家を出て田舎の方に行かれてしまったの。徳子姉様のお父様である篤子(あつこ)伯母様は、姉様の活動をあまりよく思われていなかったそうだから、そのせいでは無いかしら。それ以来、姉様にはお会いしていなくて……徳子姉様、お元気でいらっしゃるかしら」


心細げに眉を寄せる怜子に、國彦が温かく微笑みかける。


「うちの雑誌以外でも、作家として精力的に活動しているよ。自分は実家と縁を切った様なはみ出し者だから、そうした人間と付き合う事が君の御父上に気を揉ませるのではないかと言っていた。けれど、元気にやっているから心配はいらないさ」


「そう、良かった」


怜子は安堵に表情をほころばせ、すっくと立ち上がる。


「私、隣の座敷で着替えてくるわ。和服では動きにくいから」


そうして怜子が部屋を後にすると、美夜は「あかつき」をぎゅっと胸に抱き締めた。


「何だか、嬉しいです。國彦さんの様に、こんなに素晴らしい雑誌を作っていらっしゃる方が怜子さまの身近にいたなんて」


「照れるなあ、そんな風に褒められると。ぼくも、働き始めた当座は色々言われたものだよ。こうした雑誌だから、日輪を嫌う社員は少なからずいてね。でも、美夜さんがそう言ってくれれば、あの頃のぼくも報われるだろう」


「徳子様の事も初めて知りましたが、本当にご立派な方ですね」


自らの生まれ落ちた階級や、そこに蔓延(はびこ)る常識。


そうした一つ一つに疑問を持ち、改革を叫ぼうとするのはどれほど勇気のいる事だろうか。


「ああ、そうだとも。大きな悲しみに襲われながら、それでもこの社会を変えようと書き続ける徳子君は、高邁(こうまい)な人だ。……あの事件さえ無ければ、徳子君もあれほど辛い思いを味わわずに済んだろうに」


美夜の手にした「あかつき」に目を落としながら、國彦が半ば独り言の様に呟く。

怜子の前では決して見せる事の無かった、苦悶に似た悩ましげな表情。


國彦の謎めいた言葉や哀切この上無い姿に、美夜は何と言って良いか分からなかった。


「お待たせしたわね。さあ、始めましょうか」


木綿の開襟ブラウスと黒い膝丈のスカートに着替えた怜子が戻ってきたので、美夜はもう何も尋ねる事はできなかった。

どこか、後ろ髪を引かれる様な思いはあったけれど。


美夜も國彦と一緒にたすき掛けをして着物の袖をたくし上げ、掃除に取りかかる。

荷物の埃を落としてから、母屋の空いた部屋へとえっちらおっちら運び込むのである。


紐で(くく)られた箱や行李(こうり)は中身が分からないので、二人は一つ一つ國彦に尋ねなければならなかった。


「この行李は何処(どこ)に置いたら良くって、國彦さん?」


「それには晴彦に着せていた産着が入っていたっけな。またすぐに使うだろうから、あまり奥に仕舞い過ぎない様にしてくれ」


「こちらの桐の箱には、何が入っているんでしょう。ずいぶん大切なお品の様に見えますけれど……」


「おや、懐かしい!誠太郎との結婚祝いに貰った、漆塗りの皿だね。いやあ、勿体なくて使えずにいたんだよ」


所狭しと並んだあれこれの一つを取っても、國彦達一家の長い思い出がそこには息づいている。

そう思えば、絶対に落とすものかと荷物を運ぶ手に自然と力が入る。


家族になるという事は、日々の生活の中で少しずつ物が増えていく様に、愛する人との小さな思い出を積み重ねていく事だろう。

美夜もいつかの日か年を取った時、怜子と共に紡いだ懐かしい記憶を振り返る事はできるのだろうか。


片付けが進むにつれて、少しずつ室内の相貌(そうぼう)が見え始める。

部屋の片隅にぽつんと置かれていたある物に、怜子が興味深く目を留める。


「まあ、ピアノがあるのね」


それは、一台の小型のピアノだった。

相当に古いものらしく、銀色の金具もやや剥がれた箇所がある。


「ああ、前のご主人が置いていったものだね」


以前この離れに住んでいた若主人は欧州の音楽を好んで、人から譲り受けたピアノを長らく弾いていたそうである。

けれど、家を引き払うに当たって、その古いピアノを手放す事にしたそうだ。


処分するのは気が咎められて、一年に一度は調律師を呼んで音程が狂っていないかを見てもらっているという。

だが、國彦も誠太郎も実家にはピアノなぞ無かったから、とんと弾く事はできないそうだ。


「怜子君はハイカラなご家庭に育ったのだから、お屋敷にピアノくらいはあっただろう?だから、好きに弾いてくれ。その方が、このピアノも本望だろう」


「さあ、弾き方なんてすっかり忘れてしまったわ。ピアノなら昔、母がよく教えてくれたけれど、子供の頃ですもの」


栗色のピアノの天板を雑巾で拭きながら、怜子はあらぬ彼方に目を向けて呟く。


確かに、伯爵家の大広間にはこの古いピアノよりも遙かに堂々たるグランドピアノが据えられていた。

しかし、怜子がその前に座って華やかな装飾曲(アラベスク)や軽やかな輪舞曲(ロンド)を奏でる光景には一度としてお目に掛かった事は無い。


ありし日、伯爵が彼女の娘について美夜へと語った話を思い出す。


「怜子はな。あれは私に似ず、ピアノを弾かせてみるとなかなか上手い」


そこまでの腕前を持つ怜子がピアノの弾き方を忘れてしまうなんて、そんな事が本当にあるのだろうか。


ようやく片付けが済む頃には、すっかり日が落ちていた。

硝子戸の開け放された縁側から差し込む斜陽が、座敷の中に濃い影を落とす。


一仕事を終えて火照った頬を、夕暮れの涼味を含むそよ風が撫でていく。

夏も、もう終わるのだ。


「いやあ、ご苦労だったね。今、母屋の台所に何か飲み物を取りに行ってくるよ」


國彦は自分も手うちわで顔を扇ぎながら、下駄を突っかけて出て行った。

蝉時雨の中にその足音が遠ざかると、二人はどちらからともなく寄り添って縁側に腰掛ける。


「夜になるわね」


沈みゆく西日の残光に目を細めながら、怜子がそっと美夜の手に触れる。


彼女の横顔やブラウスの何もかもが、茜色を帯びている。

それと同じ色が自分の頬を染め上げるのを感じつつ、美夜は頷いた。


やがて、二人の姿は宵闇の中に溶けていく。


「伯爵家にいた頃、よくこうして夕空の彼方に消えていく太陽や、それと入れ替わって現れる月を眺めたものね。私、一日の中でその時を何より好いていてよ」


「わたしもです」


そう答えて、怜子の手を握り返す。

すべての輪郭がぼやける()(たれ)時の中、怜子の手の感触だけが確かだ。


広大な洋館の片隅にあるバルコニー。

誰の目も気にせずに、ただ夜の中に慕わしい人の存在のみを感じられるあの場所を、美夜も愛していた。


足音も立てずに更けゆく夜の様に、美夜の恋心もそこで知らず知らず募っていったのではなかろうか。

場所は違えど、あの逢瀬の時と同じ甘美なときめきが美夜を包む。


「日暮れていく空を見る度に、安心できたの。ああ、今日も無事に美夜との夜を迎えられたって。私にとって、それ以外に望む事は何も無いもの。あなたのいる夜が、私の聖域なの」


暮色蒼然たる夕べの中、怜子の表情や声音がそれよりもなお(くら)い陰影を宿す。


「こうしていると、この夜の中に私達しかいないみたいだわ。ずっと、このままでいられたら良いのに。……夜が、明けなければいいのに」


そう呟く怜子の眼差しは、消えそうな星の様に儚い。


「美夜も、そう思わないこと?」


心の中を見透かされた様な気がして、びくりと体が震える。

他でも無い美夜自身が、ずっとそう願い続けていたのだから。


顔を上げて陽射しの中を歩くなんて、許されない人生だと思い込んでいた。

ましてや、自分とは何もかもが違う怜子と共になんて。


けれど、今は夜明けを見てみたい。


徳子や國彦、彼らの目指すこの国の(あかつき)を、怜子と一緒に見届けたい。

新たな時代を照らす朝日はどれほど明るく、美しいことだろう。


その思いを口にする代わりに、美夜は怜子の手を強く握り締める。

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