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愛日の暗影

帝都の玄関口である東暁(とうきょう)駅を出ると、そこは今しも夜の只中(ただなか)であった。


闇という闇をガス灯が明々と照らす、都の夜の光輝燦爛(こうきさんらん)たる有様。

美夜はそのまばゆさに、初めてこの風景を()の当たりにした時の様に面食らってしまった。


生まれ故郷である北国の山奥では、夜は全てを秘し隠す如く静かに()った。

真昼の太陽を浴びて育つのを許されなかった幼い美夜も、そんな夜の中でなら生きられたのだ。


心の奥底に横たわる故郷の夜を(しの)べば、今もそこに残る懐かしい面影が浮かび上がってくる。

百幸美夜という名と共に、人として生きる道を与えてくれたセレナーデの君。


この輝かしい帝都の夜の中には、決してその姿を見いだす事はできないだろう。

そう思えば、古傷の痛みの様な(かな)しみが美夜の胸を刺していく。


「どうかして?美夜」


肩に触れた怜子の手の感触に、美夜ははっと我に返った。


「いいえ、何でもございません。つい、ぼうっとしてしまって」


「まあ、おかしな子ね。一体、何を考え込んでいたの?」


怜子は口元に手を添えてくすくすと笑っていたが、やがてその笑みにどこか切ない影が差す。

そして、(たお)やかにも性急さを感じさせる手つきで美夜の手を取る。


「私といる時は、私の事だけを見ていてくれなければ嫌よ。良くって?」


都の夜にふさわしい華やかな美しさを持つモダンガールには似つかわしくない、哀願に似た囁きであった。

だが、愛しい怜子の頼みにどうして否と言える美夜であろうか。


どんな夜であろうとも、怜子が隣にいてくれるのならば、それだけで美夜にとってはこの上なく尊い夜になるのだ。

それは、幾百の幸せにも代えがたい。

胸に込み上げる温かさを噛みしめつつ、美夜は怜子を見上げて頷いた。


夜といえど、やはり通りにはまだ大勢の人達が行き交っている。


それに比例して、客を乗せようと走るタクシーの数も多い。

怜子は往来に出ると、手を上げてその中の一台を止めた。


何々町の方までお願いと運転手に頼むや、美夜を促して乗り込む。

タクシーが走り出してからややあって、美夜は隣に座る怜子におずおずと尋ねた。


「あの、これから伯爵家に戻るんじゃないんですか?」


すると、怜子は苦々しく顔を(しか)める。


「……帰らないわ、あんな所」


吐き捨てる様にそう呟くや、窓の外へと目を逸らしてしまう。


「―――伯爵様、ご心配なさりはしないかしら」


何気なくそう呟いた美夜だったが、怜子はそんな美夜に研ぎ澄まされた刃の様な眼差しを向ける。

それによって、切れ長の涼しい目はこの上なく冷酷な印象を(たた)える。


「おもうさまの話はしないで頂戴。あんな卑劣な(ひと)、もう父だとは思わなくてよ」


その態度が、娘と侯爵令妹の結婚と引き換えに、美夜を焔へと売り渡した父に対する義憤であるのは明らかであった。

だが、慈悲深い愛日から生まれたとは信じられぬほど、恨みの毒を含んだ怒りである。


「……申し訳ありません、怜子さま」


美夜はただ、そう謝る事しかできなかった。


やがて、ばつの悪い沈黙と二人を乗せたタクシーは、人通りもまばらな一角で止まった。

降りてみると、そこは帝都の中心部とは打って変わって、水を打った様な静けさの広がる通りが続いている。


夜風に揺らぐ風鈴のかすかな音さえ、何にも遮られず甘ったるい余韻を響かせる。


料亭や旅館のものらしい名が墨で書かれた行灯がそこらに並んでいるが、盛り場と呼ぶほどの賑わいは無い。

どの店も、何かしらよそよそしい雰囲気を帳の如く身に(まと)って佇んでいる。


幅の狭い路地が入り組んでいるのも、人目を忍ぶものがあった。


怜子の、夏の夜気に湿った石畳を歩く足の運びも、靴音が響かぬ様に気を配っているのがありありと感じられる。

悪い事をしている訳では無いのに―――美夜はこう思いつつ、自分も怜子の長身の陰に隠れる如く、彼女に寄り添わずにはいられなかった。


「信頼できる知人の当てがあるのだけれど、今日はもう遅いもの。今夜はどこかへ泊まって、()()()へはまた明日向かう事にしましょう」


心持ち身を屈めて、怜子はそう美夜の耳元へ囁く。

人に聞かれてはならぬ秘密を伝える様な吐息混じりの口調が、いや増して美夜を悩ましい気持ちにさせる。


それは、この通りのあやしげな空気のせいばかりでは無い。

やっと怜子と二人きりになれた状況に、美夜は濃艶な香気を嗅いだ如く酔いそうだった。


だって、接吻(くちづけ)までしたのだから―――もはや、伯爵令嬢とメイドという単なる主従の関係には戻られまいもの。


怜子の濡れた様な唇の感触を思い出すだけで、美夜の頬はすぐさま熱を帯びる。

鮮やかな紅灯の明かりよりも、怜子の唇を彩るルージュの深い赤に美夜は胸の高鳴りを(おぼ)えるのだった。


とある旅館の格子戸を怜子に続いて潜ると、のっそりと女中が姿を現す。


「お二人様でいらっしゃいますか」


無愛想までとは言わなくとも、素っ気ない女中の態度や、隠れ家の様に高く巡らされた板塀。

この旅館がどういった所なのかは、自然と美夜にも察せられた。


もしかしなくても―――ここは、俗に言う連れ込み宿という場所なのではあるまいか。

恋人同士が人目を避けて睦み合う為の場所に、自分が怜子と共にいるなんて。


果たして、女中の目に美夜達はどの様に見えているのだろう。

身なりの良い淑女と、ちんちくりんな月影の小娘。


幾度も身を重ねて愛し合った事のある恋人同士の様に映っていたとしたら―――恥ずかしさで鼓動は無意識に早まり、思わず怜子の手を掴んだ。

すると、女らしい雫型の爪を持つ彼女の手入れの行き届いた指先は、そっと美夜の丸みを帯びた手を握り返してくる。


女中はそんな二人に、呆れたのか、何とも思っていないのか分からない目つきをしていたが、お部屋にご案内いたしますと立ち上がる。

こわごわと彼女の後を着いていく美夜とは相反して、怜子は躊躇(ためら)いの無い足取りで薄暗い階段を上っていく。


案内された部屋は、こじんまりとした六畳ほどの和室だった。


昼となってもこの部屋には燦々(さんさん)と陽が射す事は無く、ただ情事の名残の(かげ)が薄明かりに浮かび上がるのみだろう。

やや古びて茶色がかった畳の甘いにおいにも、美夜はどこか落ち着かないものを感じてしまう。

部屋の奥の漆喰の壁には(ふすま)がはめ込まれており、寝間はその向こう側にあるらしい。


お風呂の支度は出来ております、とだけ言い残して女中はそそくさと去っていった。


怜子は持っていたトランクを部屋の隅に横たえると、ちゃぶ台の前に据えられた座布団の上に端然と腰を下ろす。

一点の汚れも無い絹靴下の白さが、ほの暗い部屋の中では眩しいくらいに鮮やかだ。


どう腰を落ち着けたものかとたゆたって立ち(すく)んだままの美夜を、怜子はそっと手招きする。

近づいた美夜の腕を、怜子はにわかに貪る様な勢いで掴んだ。


その細腕からは到底想像のできない、手首に食い込む様な怜子の力に、息が止まりそうになった。

怜子はそんな美夜の動揺にも尻込みする事無く、そのまま自分の方へとその体を引き寄せる。


大理石の様にひんやりとした形の良い鼻梁(びりょう)に首筋を撫でられて、美夜は為す術なく固まるばかりだった。


「煙草のにおいがする」


その低い声に、ぞわりと背筋が震えた。


「私が煙草を嫌いな事、美夜はよく知っているわよね」


怜子の目は先ほど美夜が父の名を出した時よりも、尚冷たく、尚鋭く細められて美夜を凝視している。

勿論です―――その言葉さえも、喉がこわばって形にはならない。


淑女(レディ)は、些細な事で見苦しく激昂したりはしないものよ。

そう言って、普段の怜子はその鷹揚(おうよう)さをいつ何時も保ったままだ。


だが、煙草に関してだけは、怜子は自身の並々ならぬ嫌悪を隠そうとはしなかった。

紙巻きのシガレットは勿論、刻みたばこの煙管(きせる)に至るまで。


伯爵家にいた頃、一人の執事が休憩時間に吸ったシガレットのにおいを仕着せに染みこませたままで怜子の御前にまかり出た事がある。

怜子がそれに対してあからさまに眉を(ひそ)めたのは言うまでも無く、後でその執事を呼び出して叱りつけさえした。


(はた)で見ていた美夜の方が、父譲りの厳格さで若い執事を絞り上げる怜子に恐ろしくなってしまったくらいだ。


怜子が煙草を毛嫌いするのは、持病の喘息でその煙がいけない事や、生来の潔癖症のせいもあるだろう。

けれど―――それには何か、別の事情も関わっているのではないだろうか。


「美夜が煙草を吸う筈は無いものね。―――()()()でしょう」


怜子の言葉が指す人物は、一人しかいない。


野々宮焔―――彼女の名を口にするのさえ忌々しい、と身も凍るばかりの吹雪の様な怜子の声音が物語っていた。


焔が常日頃から、紙巻きの煙草を(たしな)んでいたのを知らない美夜では無い。

立て膝でシガレットの紫煙をくゆらせていた小粋な焔の姿は、まだ生々しく記憶に残っている。


別邸で焔と過ごす間に、美夜の身にも知らず知らずその香りが移ったのだろうか。


「お湯を使って、そのにおいを落としていらっしゃい」


怜子の侍女である美夜にとって、それは絶対的な命令に他ならなかった。




汗に()えた浴衣を脱いで竹製の籠に入れ、髪をすっきりと束ね直す。


浴槽から桶で(すく)った湯を体に掛けると、その温かさにほっと人心地つけた。

孤月ヶ浜からの逃避行が、今の今まで美夜の気を張り詰めさせていたせいもあるが―――こうして一人になれた事で、ようやく胸のつかえが取れた気がした。


悪夢から覚めた直後の様に、(いや)が応でも先程の怜子を思い出してしまう。


(本当に、お人が変わってしまわれたみたい)


見まい見まいとすればするほど、魂の底まで氷結させる様な怜子の眼差しがまざまざと(よみがえ)る。


清小路怜子という女性は、美夜にとって慈悲に満ちた冬の太陽、愛日そのものであった。


冬日(とうじつ)愛すべし 夏日(かじつ)(おそ)るべし―――


燃え盛る熱さで畏れられる夏の太陽に比べて、人々にぬくもりを与える冬の太陽はいとおしく有り難い。

この言葉を美夜に教えてくれたのは、他ならぬ怜子そのひとであったのに。


どんな時も愛日の様にその優しさを絶やす事の無い彼女を、美夜は慕い続けていたのだ。

それこそ、崇めていたと言っても過言では無いほど。


ただひたすら仰いできた愛日の見せた、光無き夜よりも暗い闇の片影をどうして信じられるだろうか。


得体の知れない悪寒を振り払おうと、美夜は勢いよく湯を浴びた。

右の手のひらを擦りむいているのを忘れたせいで、ぴりりとその熱さが怪我に()みる。


孤月ヶ浜駅で待つ怜子の元へと急いで向かう途中、転んで作ってしまった傷だ。

この自由にならない手で、どう体を洗えば良いのだろう。


美夜がとつおいつしていると、扉の外で何やら人の動く気配がした。

旅館の女中だろうかと美夜がそちらを振り返る前に、扉はからからと開かれる。


現れた相手を見て、美夜は(ひのき)の風呂椅子に座ったまま危うく腰を抜かし掛けた。


「れ、怜子さま!」


曲線の優雅な肢体を薄い絹のスリップ一枚のみに包んだ姿で、怜子は立ち込める湯煙の中に幻の如く立っている。


美夜は近くの手拭いを掴むと、慌てて体の前側を覆い隠した。

起伏の少ない胸元や、両脚の間の淡い茂みを彼女に見られてしまったのではないかと想像しただけで、心臓が千切れてしまいそうになる。


だが、美夜に負けず劣らず、怜子も恥じらいの色をその瓜実顔(うりざねがお)に浮かべていた。


「驚かせて御免なさいね。決して、いやらしい出来心からでは無いのよ。その手だと体を洗いにくいだろうと思って」


そう口籠もって、怜子は繊細なレースの縁飾りが縫い付けられたスリップの裾から伸びている、ほっそりと美しい脚の内側をもじもじと擦り合わせる。


「だから、ね。お手伝いさせて頂戴」


はにかみつつも、慈愛に満ち満ちた微笑みを見せる怜子は、やはり美夜の尊敬する愛日の君に他ならなかった。


「それでは、お願いいたします」


「ええ、楽にしていらっしゃい」


尋常ではない緊張で(こわ)ばる美夜の体を、怜子はシャボンを泡立てた手拭いで優しく撫でていく。

首輪さえ外した無防備な裸体を、日輪である怜子の前に晒してしまっているなんて。


怜子がほんの少し身を乗り出して美夜のうなじに歯を立ててしまえば、彼女は美夜を(つがい)として自分のものにできてしまうのだ。

その瞬間を我知らず望んでしまっているのは、月影としての(さが)が為せる業だろうか。


怜子に(みだ)らな下心が無いのは分かり切っているのに―――大理石の様に滑らかな手が肌に触れる度、嗚呼と声を上げてしまいそうになる。


温かな湯に(くぐ)らせようと、怜子の手はなかなか熱を帯びる事が無い。

幽玄な美しさを持つ手弱女(たおやめ)に似つかわしく、その御手はひんやりと冷たいままだ。


吐息も曇る冬の夜ともなれば、手足が冷えて眠れなくなる事もしばしばであった。

怜子の為に、美夜は夜ごと彼女のベッドへと湯たんぽを持って行ったものである。


それに加えて、怜子の枕元に(ひざまづ)いて、その手を揉んだり擦ったりして温める事も美夜の役割であった。


「美夜の手は温かいのねえ。一晩中、こうして握っていて欲しいくらいよ」


柔らかな羽布団に身を埋めた怜子は、愛おしげな言葉と共に美夜の手へと頬を寄せる。


やがて美夜の熱を吸って、怜子の手にはほんのりと薔薇色が差してくる。

それを見ると、美夜はまるでこの命の一部を怜子に分け与えたかの様な、何とも言えず満たされた気持ちになれるのだった。


慣れ親しんだ怜子の手の冷たさに、今は何故だか不吉なものを感じてしまう。


貴族の女の手は、滅多に温かになりはしない。

その手と同様、気性もどこまでも冷たいままなのだという言葉をどこかで聞いた事がある。


以前の美夜ならば、怜子だけは違うと胸を張って言えたに違いない。

だが、今はどうだろう。


生まれ落ちた階級ゆえの性質と呼ぶには、あまりに冷酷な何かが怜子の内側に隠されている気がする。


他人の背中を流すなぞ、伯爵令嬢である怜子にとっては慣れない事だろうに、持ち前の器用さで美夜の肌を洗い上げていく。

しかし、怜子は不意にその手を止めて、まじまじと美夜の背中に眺め入った。


「美夜、痩せたのではなくて?腰のところが、前はもう少しふっくらとして愛らしかったのに」


「それは……」


野々宮家の別邸に閉じ込められていた心細さで食欲が無くなってしまって、と口に出して怜子に言う事は(はばか)られる。


「この肩も、腕も―――」


氷の御手が、剥き出しになった肌の上をなぞっていく。

美夜は身を震わせて、声を立てまいと必死に唇を噛みしめた。


だが、先ほどよりも強く、深く手首に絡みついてくる怜子の手にひっと悲鳴を上げてしまう。

凍り付いた白銀の鎖に似たその感触に、身の毛がよだつ。


「―――許せない、あの侯爵。私の美夜をこんな目に()わせて」


たとえ親の(かたき)にさえ、ここまでの憎悪が向けられる事は無いのではないか。

怜子からは、美夜をしてそう思わしめるのに十分などす黒い感情の波が伝わってくる。


底無し沼の様なその恨みは、自身の元から美夜を奪い去った焔ただ一人にぶつけられているのだ。


他所(よそ)へ奉公に出されたとばかり思っていた美夜が、あの侯爵の手中にあっただなんて。それを知った時の私の気持ちを想像できて?」


肩越しに美夜の顔を覗き込む怜子の瞳は、一寸の光も差し込まぬばかりに(くら)い。

かつてこの目は、曇天を切り裂く陽光にも似た温かな眼差しで美夜の心の奥まで照らしてくれたものだった。


けれど、今は全てを飲み込んでしまいそうな闇がひたすらに恐ろしい。


「―――あの女に何をされたの。正直にお言い」


思わず顔を背けようとした美夜の顎を掴み、怜子は有無を言わさぬ口調で問いただす。

地獄で閻魔大王からの裁きを受ける罪人の如く、最早美夜に逃げ場は無かった。


「何も、されてはおりません。誓って申し上げます」


消え入りそうな声で、美夜はそう答えた。


「本当ね?」


怜子の手は万力の様に手首を締め上げ、美夜はただ幾度も頷くばかりであった。

ややあって、その手がわずかばかり緩まる。


「美夜の事、信じてよ。もし美夜があの侯爵に貞操を(けが)されていたら、美夜を(あや)めて私も自害するつもりだったもの」


一分の迷いも無い怜子の言葉に、戦慄が全身を貫く。


もし野々宮家の別邸で発情を起こした時に志津が守ってくれなければ、今頃美夜はどうなっていたのだろう。

死は美夜の喉元へ、その刃の切っ先を突きつけていたのでは無かろうか。


怜子は再び手拭いを取り、美夜の肌を擦って舌打ちした。


「嗚呼、嫌になる。いくら洗っても煙草のにおいが落ちないわ。汚らしい、汚らしい……!」


「怜子さま」


かすれた美夜の声さえ耳に届かぬ如く、怜子は熱に浮かされた様にひたすら美夜の体を清めようとする。

ごしごしと柔肌を擦られるその痛さたるや―――美夜はただ涙を(こら)えてうつむくしか無かった。


自分の意思でなくとも、一度は焔のものにされようとしていた自分への断罪なのだと思えた。


内なる慈悲の深ければ深いほど、愛日の罰は酷を極める。

それを拒む事が、どうして美夜に許されていただろう。


気が付けば、白い肌は無数の桜色の(あと)でまだら模様に染め上げられていた。

その手を下ろし、怜子が息を呑む音が伝わってくる。


「―――御免なさい」


それだけを呟き、怜子は足早に風呂場を出て行った。

一人残された美夜は手拭いを顔に押し当て、背を丸めてすすり泣くばかりであった。




背後の(ふすま)がそっと開かれる気配に、部屋の隅で縮こまっていた美夜はさらに身を固くした。


湯上がりの和やかな風情を漂わせた怜子は、愛用する白のネグリジェの代わりに、美夜と同じく旅館の浴衣に細帯を締めた出で立ちであった。

ほんのりと薄化粧を施した姿は、ややしどけなくも美人画の様に麗しい。


けれど、美夜はその奥ゆかしい美しさに見蕩(みと)れる事は出来なかった。


怜子に激しく擦られた肌は、開かれた障子から流れ込む涼やかな夜風にひりひりする。

その痛みに、美夜はごくりと生唾を飲んだ。


「遅くなってしまったわね」


怜子はそう言って、少し力無い笑みを浮かべた。

切れ長の目元には、疲れに似たものが(にじ)み出ている。


怯えて後ずさろうとする美夜の肩に、怜子の手がそっと掛かる。


「美夜も草臥(くたび)れているわよね。今夜は、もう休みましょう」


風呂場での狂態が信じられなくなるほど、その手つきや声音には優しさが(あふ)れている。

美夜は黙って頷き、おずおずと立ち上がった。


部屋の奥の襖を開けると、寝間の中心にはきちんと床が延べられている。

けれど、そこにあったのは一組の敷き布団と掛け布団のみである。

それが単なる女中の手違いで無い証拠には、枕が二つ、一分の隙も無く揃えられている。


やはり、ここは普通の旅館とは違うところなのだ。


交わりを持つ事が前提とされた夜床(よとこ)を見せられ、美夜は顔から火が出そうだった。

けれど、横になる場所と言えばこれきり無いのである。


美夜と同様、頬を染めて沈黙を貫いていた怜子が口を開く。


「私、畳の上で眠るわ。布団は美夜がお使いなさい」


「そんな、わたしなんかが」


仮にも主人である怜子を差し置いて、侍女である美夜がのうのうと布団で寝息を立てるなぞ、恐れ多いにも程がある。


「わたしなら平気ですから、どうぞ怜子さまがお布団でお眠りになってください」


「いけないわ、風邪を引いてよ」


堂々巡りになりそうな譲り合いに、二人はほとほと参ってしまった。

このままでは朝になってしまうと、怜子がやむを得ず申し出る。


「それでは、一緒に布団に入る事にしましょうか」


「えっ」


その刹那、美夜は自身の顔から血の気が引いていくのを抑える事ができなかった。


今夜、幾度も見て見ぬ振りをしてきた違和感が、くっきりと浮かび上がる。

敬愛する怜子に対して、この様な事を思うのは不遜(ふそん)極まりないと分かっているけれど―――目の前にいる彼女が、今はただただ恐ろしい。


鬼に食われそうな村娘の如く震える美夜に、怜子はなだめすかす様に歩み寄る。


「何もしないから、信じて頂戴。ね?」


(すが)る様な目が、美夜の心を()る。


どんな形であろうとも、やはり怜子の眼差しは愛日の陽光の如く、美夜という月の奥深くへと差し込んでくるのだ。


するりと寝床の中に身を滑り込ませた怜子に続いて、美夜もおっかなびっくり布団に潜り込む。

行灯(あんどん)が消されると、夜の静寂と共に、薄闇が美夜達を包む。


二人寝るのがやっとの布団の中では、否応なしに肩や足が触れあってしまう。

怜子の(たお)やかな肌ざわりに、美夜はどぎまぎせずにはいられない。


緊張をほぐそうと深く息を吸い込めば、肺の中をパフュームのかぐわしい幽香が満たす。

朝霧の中、清らかな露を宿した瑠璃色の花の様な芳香。

それは紛れも無く、怜子の匂いに相違なかった。


湯上がりに、彼女は気に入りの香水をその一糸纏わぬ素肌やしっとりと濡れそぼった断髪に浴びせたのだろう。


慕わしい怜子と結びついたその香りは、美夜にとって何よりも好きな匂いであった。

怜子の腕の中でその匂いに包み込まれると、どんな慰めの言葉を掛けられるより安らげた。


けれど、今は臥所(ふしど)の闇の中でその肌の冷たさと共に、隣にいる怜子の存在を重苦しく主張する。


これでは、とても眠られやしない。

ぎゅっと目をつぶろうとも、かえって意識は冴えていくばかりだ。


美夜がまんじりともできないでいる間、怜子は寝返りだに打たずに仰臥(ぎょうが)している気配が伝わってくる。

眠ってしまわれたのだろうか―――そう美夜が思いかけた時。


「起きていて?」


その囁きが、夜の静けさを動かした。


首を動かしてそちらを見やれば、怜子は横たわったままじっと美夜を見つめている。

暗がりの中で、その双の目は小さな光を放っていた。


「はい、寝付かれなくて」


怜子も同じだったのかと、何だか少し安心できた。


薄絹を被せた様な闇の中で、怜子が微笑むのが分かった。

けれど、(にわか)に目を伏せると、彼女の周りはそれこそ一点の光も差さない影に覆われる。


「さっきは、御免なさいね。美夜に痛い思いをさせたり、酷い事を言ったりして」


一言を絞り出す度に、怜子の姿はより深い暗闇に浸され、その輪郭さえおぼろになっていく気がする。

美夜は息をするのも忘れて、その懺悔(ざんげ)に耳を澄ませた。


「美夜が私の目の前から居なくなってからは、全く月の無い夜を過ごしている様だったの。何をしていても、あなたが無事でいるだろうかと、そればかりが気に掛かってしまって。あなたと二人で眺めた月を、毎晩心細い気持ちで(あお)いでいたわ」


孤月ヶ浜の屋敷で怜子を恋うて夜ごと涙を流していた時、彼女もまた同じ月を見て美夜を想っていてくれたのか―――

それを知れば、怜子と(へだ)てられていた寂しさがより深く身に染み込んでくる。


「あの侯爵が美夜を(かどわ)かしたのだと知ってからは、朝も夜も無く、頭がおかしくなりそうだったわ。美夜には何の罪も無いと分かっているのに、あなたの顔を見るとあの女の事を思い浮かべてしまう」


離ればなれの日々を乗り越えて、こうして愛する人と過ごせる夜を、美夜も怜子もどれだけ心待ちにしてきた事だろう。

再会の夜の寝物語と呼ぶには、怜子の告白はあまりにもの悲しい。


怜子はわななく様にその肩を震わせたかと思うと、やがてその声音が涙に濡れていく。


「分かって頂戴。もう、()()()美夜を失いたくないの」


その声なき慟哭(どうこく)の震えが、冷たい肌越しに美夜へと伝わってくる。


清小路怜子という女性を、美夜は全美(ぜんび)の日輪そのものだと思っていた。

いかなる暗黒も彼女の威光を(かげ)らせる事はできず、どこまでも気高く輝き続けるのだと。


今―――その太陽は、美夜には想像もつかぬほど暗く、深い影の中に飲み込まれそうになっている。


日輪の輝き無しに光を生む事のできない月の美夜は、その暗影をどう振り払えば良いのだろう。

思い迷って、美夜は自分の片手をそっと怜子のそれに重ねる。


「わたしは、ここにおります。これからは、決して怜子さまのお側を離れる様な真似はいたしません」


「本当?本当ね?」


溺れる人が藁をも掴む様な必死さで、怜子は美夜の手を自身の胸元に掻き抱く。

慕情の血潮の熱が、怜子の手の冷ややかさを際立たせる。


涙がはらはらと、砕け散る真珠の様に怜子の頬を流れていく。


怜子と同じ時、同じ幸福を分かち合える夜が、美夜は一等好きだった。

彼女と別れなければならないのなら夜なぞ明けなければ良い、と祈った事が幾度あった事だろう。


けれど、今はただこの夜が過ぎ去るのを待つばかりだ。

どうか、早く朝が来ますように―――そう願って、美夜は愛しい女性(ひと)の手を握り締める。

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