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畏日の情火

野々宮侯爵家の別邸は火が消えた如く、(じゃく)として静まり返っている。

その廊下を明かりも着けず、床板を踏み抜かんばかりの轟足(とどろあし)で進むのは、(やしき)の主たる野々宮焔であった。


焔は私室へと駆け込むや、文机の上に据えてあった電話機のハンドルを回す。

別邸にはきちんとした電話室もあったのだが、美夜に外部と接触を持たせまいと厳重に鍵を掛け、誰であろうと使用を禁じていた。

焔自身が連絡に使う電話機は、小型のものを私室に用意していたのである。


交換手が出ると、焔は半ば怒鳴りつける勢いで電話口に告げた。


「帝都の清小路伯爵邸に繋いでくれ。番号は―――」


向こうが電話を取るのを待つ間、焔は焦れったく指の先で黒檀(こくたん)の文机を打ち付けた。

ようやくメイドらしい声が対応すると、前置きも無しにすぐさま用件を伝える。


「野々宮焔だが、伯爵に話がある。今すぐ呼んでこい」


「でも、あの、伯爵様はもうお休みになっておりまして.......」


うら若い声音のメイドは、焔の威圧的な口上に泣き出さんばかりであった。


年寄りは床に就くのが早い。

焔はかっと高ぶった苛立ちを、受話器に叩きつける様に叫んだ。


「火急の用だ。叩き起すなり何なりして呼んでこい。今すぐにだ!」


はい、とメイドは涙声で答え、それから(しばら)くして電話は伯爵に代わられた。


「.......何の用かね。こんな夜分に」


電話越しの怜子の父、尊子(たかこ)の声は心()しか低く沈んでいる気がする。

寝入っている所を起こされた不機嫌にしては精気に欠けた、ため息の様な囁きである。


だが、そんな事はどうでも良い。


焔は電話機を抱え、受話器に口元を近づける。


「その遠い耳かっぽじってよくお聞き下さいませ、伯爵殿。貴殿の娘御が、美夜を連れて行方を眩ませたのですよ」


「怜子が、美夜を連れて?」


語尾を上げる様に、尊子はそう問い返した。


細部まで余す事無く彼女の娘に受け継がれた、尊子の雛人形の様な瓜実顔―――それは今にも死にそうなばかりに青ざめているのだろう。

伯爵と取り交わした契約書を浜辺で突きつけてやった時の、怜子の銷魂そのものの表情を思い出す。


この父娘(おやこ)は絶望の面持ちまで、気味の悪いくらい似ている。


ガタリと何か倒れる音がしたのは、伯爵が驚きのあまり膝から(くずお)れたのか。

老いて痩せた身をナイトガウンに包んだ女が、薄暗い電話室の中でうずくまる光景を焔は想像した。


「怜子が、怜子が―――」


うわ言の様に繰り返されるその名が、耳に(まと)わりつきそうだった。


「何故こんな事が―――あの娘は、君の管理下にあった筈だろう」


結婚によって結びつこうとしている家の当主同士という間柄であっても、焔が伯爵と顔を合わせる事は(まれ)であった。

家と家との繋がりを深める結婚は、血統の保持を第一とする華族において尚その意義が重んじられる。


しかし、伯爵が自分に対して良い感情を持っていない事を焔も理解していた。

家名を守る為に目が眩んだ年寄りなぞどうでも良かったから、さして気に留める事も無かったのである。


伯爵と契約を取り交わして以来、焔が清小路家を訪ねた事は無く、彼女と焔の関係は疎遠そのものであった。

時々電話で結納の日取りなどについて話す時も、美夜についての話題は伯爵にとってのタブーであるらしく、彼女の名を出す事は一度もあらなんだ。


伯爵が美夜の居場所を知る筈は無く、焔が妹の婚前旅行の行き先を知らずにいたのも当然であった。


それが、今回の変事のそもそもの原因だろう。


「とにかく、此方(こちら)も死力を尽くして奴らの行方を追うつもりですから、伯爵殿もお覚悟を」


そう口早に告げ、焔は受話器を叩きつける様に電話を切った。

金属のベルの音が、断末魔の様に闇の中に(こだま)する。


焔はゆらりと幽鬼の如く闇の中に立ち上がり、サーベルを抜くと―――力任せに電話機へと振り下ろした。

甲高い音と共に畳の上に散らばった破片が、にぶく月明かりをはね返す。


一度(たが)が外れれば、勢いは留まる所を知らない。


(ふすま)を、畳を、障子を―――目に付いた物を手当たり次第、片端から切り刻んでいく。


心火の()ぜるがままに振るわれた刃の跡は、えぐれた如く深かった。

切り裂かれた調度の残骸が、焔を中心とした放射円状に死屍累々(ししるいるい)と転がる。


胴体から真っ二つに切断された襖絵の猛虎(もうこ)は、覇気の無い瞳で月を仰ぐ。


狂乱の炎により焦土と化した室内の有様―――焔は肩を上下させながら眺めていた。


何かを壊す事より他、我が身を焼く炎の様な激情を鎮める(すべ)を知らない。

そうした宿運を、焔はこの名と共に父によって与えられたのだ。


燃え盛る(ほむら)の如く、全てを焼き尽くす強さを持った武人となれ。

その父の願いは、焔にとって生まれながらに負った呪いも同然であった。




母の文緒(ふみお)が十六で焔を身籠もった時、父はまだ見ぬ我が子が日輪の男子(おのこ)である事を何より切望した。


母親の見聞きする物が胎児に影響を及ぼすと聞けば、母の閨房(けいぼう)の壁という壁に、昔時(せきじ)の伝説に名高い武将の錦絵を飾った。

名も自身の勝之助(しょうのすけ)から取り、焔之助(えんのすけ)と付けるつもりだったという。


それも全て、自分と同じ帝國軍人に相応しき勇ましい日輪の若君が生まれてくるようにとの祈念であったのだ。


けれど―――月満ちて、軍歌の喇叭(らっぱ)の如く屋敷中に響き渡る産声を上げて誕生したのは、他でもない女子(おなご)の焔であった。


日輪でさえあれば、軍人になるのに男か女かが問われはしない。

女の日輪は尋常種や月影に比べれば上背があり、腕力も強い事が多い。


実際、焔だって身の丈は五尺六寸(約170cm)ほどある。


しかし、屈強な肉体を持つ日輪の男には力で及ぶまいと父は思ったのだろう。

父にとって、焔は決して満たされない(かなめ)を欠いた日輪であった。


そんな身に焔を生んだ母を、彼女を溺愛していた父が責める事はしなかった。

代わりに、父はもはや懲らしめに近い武術の稽古を娘に課したのである。


「さあ、立て。お前が女子であるからとて、父は容赦せぬぞ。女の身であればこそ、男の数倍の鍛錬を要するのだ。これしきの稽古にも耐えられず、野々宮家を継ぐ日輪たりえるものか」


この身を竹刀(しない)で激しく打ち据えられる度、父に対する憎しみは目に見えぬ炎となって燃え上がった。

痛みは消えない傷跡となり、焔の身に永久に刻み込まれた。


後継者たる娘の風采を損なうまいと、父は外から見て分かる箇所に折檻の跡をつけようとはしなかった。

一糸纏わぬ裸身を鏡に映せば、みみず腫れの様な傷が背中や胸を覆い尽くしているのが分かるだろう。


うだるような夏の日の稽古中、暑さで足元がふらついたのを叱責された時につけられたもの。

息も止まるばかりの寒風吹く雪の日、かじかんだ手から太刀を取り落とした罰としてつけられたもの。


それを負わされた所以(ゆえん)を、焔はかすかな擦り傷一つに至るまで覚えていた。


小さな心の臓を焼き尽くさんばかりの、恨みの炎の熱さまでも。


父によって肉身へ加えられた痛苦と同じくらい、母の振る舞いは幼い焔の心を責め(さいな)んだ。

ありとあらゆる体罰で焔をいたぶった父とは相反して、母はその美しい指一つ動かしはしなかった。


()()()()()事によって、母は娘の心に()えない傷を負わせたのである。


跡取りとなる日輪を産み落とせば、それで月影としての自分の役目は済んだと言わんばかりに―――焔を(かえり)みる事は無かったのだ。


母に抱き締めてもらった事が、一度でもあっただろうか。


けれど、絶世の佳人と褒めそやされた自分と同じ美貌を生まれ持った妹の珠緒に対して、母は惜しみなく愛を注いだのである。

それは子供の焔にも分かり過ぎるくらい明白に、姉妹の扱いの差となって表われた。


出先で見つけたと言って、母はよく珠緒に反物や髪飾りを買ってくる事が多かった。

珠緒ならば、こうした(きら)びやかな錦や(かんざし)も映るに違いないから、と。


「焔の分は、無いのですか」


ある時、思い切ってそう尋ねれば、母は(かすみ)の如く雅な眉を寄せ、困惑の表情を作った。


「いけないわね。母様、焔さんの分まで気が回らなくて。でも―――焔さんは顔立ちも母様に似ていない上に色も黒いから、珠緒と違って華やかな着物を着せても引き立たないのではないかしら」


紅椿の露を含んだ唇が、ちらと真珠の歯並みを覗かせる。


母は、娘を(わら)ったのだ。


焔の肌が浅黒いのは生まれつきでもあるが、炎天であろうと父が野外での稽古に引っ張り出すため、おのずと日に焼けたのである。

果たして、母はそれを知っていたのだろうか。

色黒だと揶揄(やゆ)された顔が、さらに熱で染まるのではないかと思われた。


手足をもがれる様なあの辛さは、今となっても忘れる事ができない。


着物が欲しければ乳母のお(てい)に金を渡しておくから、あの女が選んだ反物をお針子に仕立てさせれば良いだろうと母は付け加えた。

だが、焔が欲しかったのは豪奢な着物や装飾品では、決して無かったのだ。


幾年月が過ぎた今となっては、どうしたってあの時の望みを(あがな)う事はできないだろう。


焔は父を、母を、妹を憎んだ。

生まれて間も無い内から両親の関心を奪い去った珠緒が大嫌いだった。


焔を虐遇した父でさえ、末娘で月影の珠緒は目に入れても痛くないほど可愛がるのだ。


両親の姉に対する仕打ちにも気づかず、鈍感なまでにのほほんとした妹を真から可愛いと思える筈が無い。

姉上、姉上と無邪気に(まと)わりついてくるのがどれだけ(いと)わしかったことか。


両親にとって自分は愛しい娘などではなく、野々宮の家を継ぐ器に過ぎなかったのだ。


私はただその為だけに、日輪としてこの世に生まれてきたのだろうか―――

その懐疑は灰に埋もれた熾火(おきび)の如く、恨みつらみの烈火と共に焔を内側から(むしば)んでいった。


子供の頃を思い返せば、常に体の中を火竜にでも食い荒らされていた様な気がする。

目に見えぬ炎が、焔の全てを包み―――その熱さたるや、地獄の業火も及ぶまいと思われた。


何の罪も犯していない私が、どうしてこの様な責め苦を受ける()われがあろうか。


果ても無い炎の道を歩かされる中、焔はわずかばかりでも活路を見出そうとした。

乳姉妹(ちきょうだい)である志津をいたぶる時、焔は自身の中で荒れ狂う業火が、束の間は鎮まるのを感じた。


焔が叩こうが蹴ろうが、志津は何もかも悟り澄ました如く三白眼を伏せ、決して抗う事はしなかった。

我が身の尋常種としての天運をも、受け入れる如く。

自身の何もかもを焔に捧げ、決して逆らう事の無い志津という存在は、ある意味で焔にとっての逃げ場であった。


しかし、志津に対する思いが「信頼」というあたたかな名で呼ばれる類いのものであるとは、決して認められなかった。


尋常種なぞに、どうして日輪である焔の全てをさらけ出せるだろう。

そんな恥知らずな振る舞いに及ぶくらいなら、焔は迷わず死を選んだ。


志津のみならず、何人たりとも図々しく自分の内側へと踏み入ってくる事は許さない。

父と母からされた如く、これ以上誰かに自分という日輪を傷つけ、(かげ)らせてなるものか。


焔にとって、憎悪と寂寥(せきりょう)こそ孤独な心を形作る全てであった。


けれど―――九つを迎える夏の日、今もなお焔の心に巣食い続ける、不滅の面影が現れたのである。

この身に刻まれた傷の如く、途方もない痛みを伴ったまま、永劫消えはせぬひと。


「清小路」


焔は夜の暗がりに向かって、乞う様にその名を呼んだ。

だが、無明の闇は焔の叫びに答える事もあらず、ただ茫々(ぼうぼう)と広がるばかりである。


清小路怜子―――彼女と出逢ってしまった事こそが焔にとっての宿命であり、また災厄でもあった。


憎らしいばかりに空の青く澄み渡った、夏の日であると記憶している。

あの夏の日だけは、忘れずにいられなかった。


空の青さも、夾竹桃の息もつまるばかりに甘い香りも、明日死ぬ事を知らない蝉のけたたましい鳴き声も、真新しい傷口にしみる汗の痛みも、干からびた舌の味も。

過ぎ去った日を形作る一つ一つが檻となり、焔をそこに(ゆう)している。


けれど―――赤々と燃ゆる心の炎に照り映える少女の面影こそ、何よりの檻であった。

十五年の歳月を経ようと色褪せる事を知らず輝くあの姿に、焔は今となっても囚われたままだ。




父が自分を()った時、後ろで笑っていたのだろう―――そう理由を付けて、その日も焔はいつもの様に志津を庭の片隅へ連れ込んだのだ。


自分の行為が善か悪かと考える事さえなかった。


九つの焔にとって、志津をいたぶる大義名分なぞあって無い様なものであった。

日輪である焔自身の意思こそ、至上の錦の御旗であるのだから。


こんな事をいちいち覚えておく焔では無かったのに、あの夏の日の端々としてそれさえ忘れる事は許されない。


父の虫の居所が悪かったのか、焔は普段の折檻にも増して激しく殴られた後だった。


苛立ちをぶつける様に、焔は志津をしたたかに痛めつけた。

下駄の爪先を草履の底で思い切り踏みつけてやっても、志津は呻き一つ上げず、じっと黙していた。


そんな至極当然の事さえも、その時の焔には(しゃく)に触って仕方無い。


「黙っていないで何とか言わないか、本当に貴様は何を考えているのか分からなくて気味が悪い―――」


痩せ細った向こうずねを蹴り飛ばしてやろうと、焔は袴の裾を(ひるがえ)して片足を振り上げた。


「何をしているの!」


まるで、首筋にひやりとした水を浴びせられた様であった。


背後から投げ掛けられた声に、焔は思わず足を止めた。

いや、止めずにはいられなかった。


見えざる力に制されたかの様に―――それはまさしく、神通力とでも表現するより他ない幻妖さであった。


一体、何が起こったのだろう。


焔は動揺を悟られまいと、渋面を作って声の主を振り返る。

その背を目一杯伸ばし、逃げも隠れもせぬと言わんばかりに立っているのは、焔と同じ年頃の少女である。


切れ長の眼差しが涼しい綺麗な子だった。


お河童頭に天色のリボンを結び、当時としてはハイカラなセーラーの洋服なぞ着ているのが目を引いた。


ただの子供ではないか―――しかし、ぶれの無い眼差しで正面から見据えられれば、言葉一つ自由にはならない。

それまで意のままであった手足が、にわかに思い通りに動かなくなった焦りと恐ろしさは筆舌に尽くしがたい。


「私に命令するな!一体全体、急にしゃしゃり出てきて何だ、貴様は」


目の前の相手に自分を乱されまいと、焔はかろうじてそう叫んだ。

気味の悪い汗に濡れた手は、知らず知らず着物の袂を掴んでいた。


少女は凜と(おもて)を上げ、自身の名を名乗る。


「貴様だなんて呼ばないで頂戴。私には、清小路怜子という名前がきちんとあってよ」


清小路―――この日、父の元には同じ姓を持つ伯爵が客人として訪れる筈であった。


私ともあろう者が、伯爵の娘如きに調子を狂わされそうになるなんて。

心騒ぎのあまり、そんな事さえ忘失していた自分に腹が立った。


けれど、わずかばかりの余裕が焔に生まれた。


「清小路?今日、父上の客としてやって来た伯爵の、日輪の娘だろう。我が侯爵家より爵位の低い家の娘が偉そうに。使用人の尋常種の子供をどう扱おうが、私の勝手ではないか」


(わら)ってやれば良い、こんな奴。

たかが伯爵家の娘なぞ、焔が恐るに足る筈が無い。


頭ではそう理解しているものの―――妖女の(まじな)いに絡め取られた様に、焔は身じろぎ一つできない。


遙か昔、その豪勇さで知られた日輪の武将がいた。

自身に斬りかかろうとする尋常種の雑兵(ぞうひょう)どもを一睨みすれば、たちまち恐れをなしたという。


こうした日輪の生まれ持つ威光が尋常種や月影をたじろがせるのは、何もその武将に限った話ではない。


だが、焔は日輪だ。

日輪である焔が、同じ日輪の怜子に気圧(けお)されたというのか。


焔の困惑を知ってか知らいでか、怜子は尚も続ける。


「その子だって、私達と同じ女の子だわ。どんな理由があって虐められて?日輪という性別を持っているのも、華族の家に生まれたのも、私達の力で成し遂げた事では無いじゃない。そんな事で威張るの、可怪(おか)しいわ」


一瞬、焔は怜子の言葉を理解しかねて固まった。


志津が、自分達日輪と同じ女の子?

焔が日輪として生まれてきたのも、焔自身の力では無い?


天の(ことわり)において、太陽はこの世界をあまねく照らすという運命(さだめ)の下に在るのだ。


自分が日輪として生を受けたのも、単なる偶然に過ぎないなんて―――


野々宮焔という自身の存在さえ、風前の灯火(ともしび)の様に消えそうな気がした。


(そんな馬鹿な事があるものか!)


正気を保てと焔はさらに固く(たもと)を握り締める。

あまりに強く力を込めた為に、両の手は痺れた様に感覚を失っていたのだが、それさえ思考の外にあった。


誰が何と言おうと、焔はそこらの凡俗の徒とは何もかもが異なる選ばれし存在なのだ。

選ばれし存在でなければならない。


父は事あるごとに、焔にこう言い聞かせたものである。


「良いか、焔。日輪はその身をして光を生み、耀(かがよ)う。我ら日輪こそはこの世で最も強く尊い存在であるのだ」


そんな自分と尋常種の志津が同じ女の子であるなぞ、冗談ではない。


焔が日輪として生まれてきたのには、必ず確かな所以(ゆえん)がある筈だ。

野々宮家を継ぐ為だけでない、焔が日輪たるまことの(あかし)が―――


怜子の言葉は、焔がより所としていた悲願を無情にも奪い去るものであった。


しかし―――それを何のためらいも無く発した怜子こそ、焔と同じ日輪ではないか。


絶望と不可解の(はざま)で揺らぐ焔は、目の前の怜子の姿にはっと我に返った。

騒々しいばかりの暑さの中でも、怜子は氷の様に清らかな額に汗一つ浮かべず、すっくと背筋を伸ばして立っている。

怜子自身の魂がにじみ出たとでも言うべき、彼女の身から発せられる見えざる光を焔は感じ取っていた。


その光の柔らかにして、明々と美しいこと―――


怜子を一目見た時から、焔はこの光に引き寄せられていたのではなかろうか。

何に(なぞら)えようか、その光を。


そんな事を考えている自分自身に気が付くと、焔はたちまち羞恥で顔が熱くなるのが分かった。


「……知らん!」


焔はくるりと(きびす)を返し、逃げる様に怜子へ背を向けた。




母屋(おもや)の自室へと戻った焔は、部屋中のありとあらゆる物を激昂に任せて壊し回った。


自分の持ち物では飽き足らずに妹の部屋に行き、珠緒が大切にしていた人形の腕を折りさえした。


だが、それでも身を内側から焼く様な怒りは治まる事を知らない。


この屋敷において、焔に異を唱える事は何人たりとも許されぬ―――父を除いて。

見ず知らずの伯爵令嬢なぞにあんな無礼な真似をされた事は、焔にとって屈辱以外の何者でも無かった。


しかし、何よりもそんな狼藉を許してしまった自分自身に腹が立って仕方無かった。

尻尾を巻くのも同然に怜子の元から逃げてしまった事を、今さら悔やむ。


武士として、敵に背を向けるという失態だけは晒すなと父から幾度も言い含められていたのに。


まるで、怜子の気迫に怖気付(おじけづ)いた様ではないか。

それをみすみす認めねばならぬほど、焔にとって屈辱的な事は無かった。


しかし―――清小路怜子という少女の存在が、焔という日輪の威光を遮ったのも誤魔化しようのない事実であった。


一体、どうして。


怜子の静かに澄み切った、しかし強い光を宿した瞳に見据えられれば、自分が日輪である事さえ疑ってしまいそうになる。


あれ以上怜子と向かい合っていたら、焔は焔でいられなかっただろう。

自分の思うがままに行動し、言葉を発していた怜子の心像が、生き(すだま)の様に付きまとってくる。


忘れてしまえ。

忘れてしまえば良い。

忘れなければ―――


返す返す自分に言い聞かせようとも、怜子と逢い()めてしまった悪夢の様な思い出は恥辱を伴ったまま、決して消える事が無かった。

溶ける事を知らない氷中花の様に、その忌々しい記憶を閉じ込めた焔のわだかまりは夏の間中、日増しに(つの)る一方であった。




当時―――焔は華族學院の日輪部、初等科の三年生だった。


いずれは華族として大日本帝國の中枢を担う、日輪の少年少女達のみが門を潜る事を許された学び()である。

その学舎は、帝都の騒がしさを離れた閑静な場所にあった。


夏休み明けの始業式は、白い外壁にスレートの屋根が()かれた正堂で行われるのが定例であった。

まだ夏の暑苦しさを十分に留めた陽射しが重々しい緋色のカーテン越しに射し込む中、焔は他の子供達と共に學院長の訓話を聞かされた。


「君たちはこの伝統ある華族學院の生徒であり、(ほま)れ高き日輪なのだ。人の上に立つ日輪たるもの、その自覚をしかと持ち―――」


そんな話はわざわざ(さと)されるまでもなく、焔は常に心掛けてきた事だ。


學院長の話もなおざりに、焔は目だけを動かして背の順に並んだ子供達の列を見やった。

繻子(しゅす)のリボンが結ばれたお下げ髪に、花かんざしを挿したお稚児髷―――そんな少女達の後ろ姿の中に、焔の目は探し求めていた人影を容易に見いだした。


首筋で断たれたお河童頭、その青みがかった黒髪を(いろど)る天色のリボン。

夏の暑さにも爽やかなあの日のセーラーの代わりに、薄藍の着物と群青の袴を身につけていたものの、胸の底に焼き付いた面影の主をどうして忘れられようか。


清小路怜子。


「清小路伯爵の一人子―――名は怜子と言ったか。その日輪の娘がお前と同い年だという。學院でも、同級生のお前には是非仲良くしてもらいたいと父親に頼まれた」


伯爵父娘が帰った後の夕食の席で父からそう告げられた時、誰があんな奴と仲良くするものかと焔は内心苛立った。


しかし―――その時の焔は、彼女の姿を探し求めずにはいられなかった。


意外にも、怜子がいたのは焔のすぐ隣の組である。

二人は背丈も大して変わらないから、距離もさほど離れてはいない。


これほど近くにいながら、何故入学してから今まで怜子の存在を気にも留めていなかったのだろう。

そんな不思議を(いぶか)りつつ、焔は怜子の横顔をきっと睨みつけた。

怜子は焔の眼光にも、暑く粘った陽射しにも涼しい表情のまま、小さな淑女の風情ですらりと立っている。


それからというもの、清小路怜子という少女は事あるごとに焔の視線を奪う焦点となってしまった。


大事そうに本を胸に抱えた彼女と廊下ですれ違う時、使用人に手を取られ、迎えの車に乗り込む彼女を見掛けた時―――

何気ない怜子の姿の数々に、焔の胸は言い知れぬ(とどろ)きを憶えるのであった。




真新しい陽射しがかんかんと照りつけていた、とある朝。


焔は寝床の中で、じっとりと湿った肌触りに目を覚ました。

何とも言えない不快な生あたたかさの原因は、考えるまでもなく明らかだった。

それでも恐る恐る掛け布団をめくれば、敷布と寝間着の腰の辺りはぐっしょりと小水で濡れていた。


物心ついた頃からの夜尿症は、焔が初等科の三年生になっても一向に改善の(きざ)しを見せなかった。

志津の母親である乳母のお貞は、焔が粗相するのを見るに付け、いかにも気の毒げに嘆息したものだ。


「また御父上様がお叱りにならなければ良いのですが。一体、どうすればお治りになるのでしょう」


お貞が自分の汚れた寝具を始末している光景を、焔はいつも直視できずに顔を背けていた。

この恥ずかしい悪癖を取り払う(すべ)があるのなら、焔自身が教えて欲しかった。

好きな西瓜やサイダーを我慢して精一杯の策を講じたものの、それも気休めにしかならなかった。


父に手酷く痛めつけられた夜なぞは、決まって寝ている間の失禁に苦しめられた。


恥を忍んで呼び出したお貞に体を(きよ)めさせ、急いで身支度を整えたものの、焔は朝食の時間にすっかり遅れてしまった。


規律の正しさを尊ぶ軍人の父は、生活における秩序の乱れを大層嫌う。

父の鞭の様な平手が、激しく焔の頬に振り下ろされた。

屈辱で上気し切った頬が、その一撃でさらに赤く腫れ上がったのが感じられる。


夜更けまで遊び回っている母は、そもそも滅多に朝餉(あさげ)の席に顔を出す事が無かった。


「食事の時間一つ守れぬ体たらくで帝國軍人になれると思っているのか、馬鹿者が。おまけに、九つにもなりながら赤ん坊の様に寝小便を垂れるとは」


唇を噛みしめてうなだれる焔を苦々しく見下ろし、父は部屋の隅に控えていた女中にこう命じた。


「焔の分の膳を下げろ。日輪としての振る舞いも(わきま)えない奴に食わせる飯は無い」


野々宮家の家紋が金で箔押しされた膳の上には、時間が経って乾き掛けた白米や、底に味噌の沈んだ汁物の椀が手つかずのまま残されている。

殿様である父の絶対命令に従う他ない女中は、そそくさと言われた通りに食膳を片付けた。


焔が呆然と立ち尽くしていると、小さな足袋の足音をぱたぱたと響かせ、三つになる妹がひょっこりと食事の間に現われた。

自分の身の丈ほどもある華やかな振り袖もひらひらと、珠緒はこの上なく可愛らしい足取りで父と姉の傍にやってきた。


「おはようございます。ちちうえ、あねうえ」


焔は父に何か挨拶する時、威儀を正した正座のままで顔を上げる事は許されない。

声が小さいと言って殴り飛ばされるのも日常茶飯事であった。


けれども、珠緒の幼子らしい無邪気な舌足らずの挨拶に、父は厳めしい髭に覆われた口元を綻ばせる。

自身の胡座(あぐら)の上にちょこんと座らせた珠緒に、父は猫なで声で何くれと語りかけるのであった。


「今日の朝のお菜は卵焼きだぞ。珠緒が好きな、お砂糖を沢山入れてうんと甘くしたやつだ」


何よりも惜しくない妹娘の為、愛おしげに細められた父の目には、途方に暮れる姉娘の映り込む余地は無かった。

焔は朝昼晩の食事を全て抜かれるよりも、父と妹の和気あいあいとしたその情景を見せつけられる方が骨身に(こた)えた。


とはいえ、育ち盛りの子供にとって、食事抜きの罰は決して生やさしいものではない。


学校に着いてから、焔は身を削られる様な空腹に襲われた。

目の前にはぼんやりと(もや)が掛かり、頭の中はずきずきと発作の様に痛む。


お腹が空いた、辛い、苦しい―――


普通の子供ならば感じたままそう口にできる事も、焔には許されなかった。

野々宮侯爵家の日輪として、どんな時においても我が身の傷を見せてはならないのだ。


不運というのは重なるものであるらしく、その日は午前に体操の授業が入っていた。


それでも、焔は双の袂を緋のたすきで固く縛った格好で、級の中の誰よりも速く五十(メートル)の徒競走を何度も駆け抜けた。

炎天下、(したた)り落ちる汗が目にしみるのもお構いなしであった。


体操は焔の得意な課目だったから、手を抜きたくなかった事もあるが―――

清小路怜子と同じ組にいた、幼馴染みの永盛功子から聞かされた情報が焔を躍起(やっき)にさせた。


清小路伯爵家のお(ひい)さんは常に成績優秀で、通信簿の成績は(こう)(おつ)(へい)(てい)の中でも最上の甲で占められているという。

大変な才女として名高かった父君の血だと教師達は噂し合っているらしい。


怜子の逸話は、焔を少なからず気おじさせた。


学課の成績は一つでも多く甲を取る様にと父から命じられていたものの、苦手な算術では下から二番目の丙を取ってしまったのだ。

何か一つでも自分が怜子に劣っている部分があれば、焔には到底耐えられない事であった。


けれど、と功子は付け加えた。


怜子には生まれつき喘息の気があって体が弱く、休みがちの体操の授業だけは丙なのだという。

その敵の弱みは、焔を大いに奮い立たせた。


どんな事があっても清小路怜子にだけは負けやしない、という不撓不屈(ふとうふくつ)の決意が焔を支えていたのだ。


授業の終わりを告げる鐘が鳴り響く頃には、焔は()()うの体で教室に戻る事以外考えられなかった。


何とも形容しがたい不快な吐き気が、空っぽの胃の中で陣太鼓の様に響いている。

体は暑さを感じず、指の先からは刻一刻と温もりが失われていく。


一歩を踏み出すのさえ、普段の倍以上の気力を要した。


同じ級の子供達は焔の方もようよう振り返らず、さっさと追い越して教室へと行ってしまう。

子供達に限った事ではないが、良家の人間というのは他者に不必要な関心を持たないようにする傾向がある。

それは取りも直さず、自分を狙う外部からのよこしまな干渉を避ける為なのだ。


他人に()て、人の上に立てと幼い頃から教育され続ける日輪の子供なら、尚更だろう。


焔は人気が無く薄暗い階段を、手すりに身をすがらせる様に力無く上がっていった。

しかし、踊り場を曲がった階段の中ほどで、焔は精根尽き果ててよろよろと座り込んでしまった。


何とかして立ち上がらなければいけないのに、体が全く言うことを聞かない。

だが、焔に救いの手を差し伸べてくれる人間なぞ、此処には誰もいないのだ。

此処だけではない、この世の何処にも。


八方塞がりの惨めさに、焔は膝を抱えて顔を伏せた。


泣きはしなかった。

泣くのは何より情けない事であると知っていたからだ。


「まあ―――あなた、どうかなさって?」


闇に一つ生まれた(ともしび)の如く突然に、聞き覚えのある澄んだ声音が焔の頭上から降り注いだ。


導かれる様にはっと顔を上げれば―――一人の少女が天色のリボン匂うお河童頭を(かし)げて、階段の上から賢そうな切れ長の目で焔を見つめている。


焔が今、一番会いたくない相手。

清小路伯爵令嬢、怜子に相違なかった。


目を丸くして自身を仰ぐ焔を見て、怜子の表情がやや(こわ)ばる。


「あなた、野々宮侯爵家の……」


それは焔とて同様であった。


よりにもよって、こんな無様な姿を怜子に見られてしまうなんて。

焔はすぐにでも逃げ出したい気持ちに駆られたが、今は立ち上がる事さえままならないのだ。


怜子はこんな自分をどう思っているのだろう。

それ見たことかと焔を嘲笑っていやしないか。


彼女が(さげす)みに満ちた眼差しで自分を見下ろしている気さえして、焔は口惜しさに顔を背けた。


頼むから、どこかに行ってくれ―――生まれてから人に何かを頼み込んだ経験も無い焔だったが、この時ばかりは胸の中で祈る様に(こいねが)った。

しかし、いくら待てど背後の気配が薄れる様子は無い。


その怪訝さに焔が振り返ると、怜子は袴の裾をさやさやと波打たせて階段を降り、焔の隣へと腰を下ろしたではないか。

朽ちた花弁の如く床に投げ出された焔の緋色の袴に、目も覚めるばかりに爽やかな怜子の群青の袴が触れ合う。


驚きに目を見開いた焔の顔を、怜子はじっと覗き込んだ。

怜子の瞳は、真清水を湛えた泉の様な静けさに満ちていた。


彼女が何を考えているのかは分からなかったが、少なくとも焔を(いや)しめようとする悪意は感じられない。


「お顔色、悪くてよ」


怜子の手が、焔の頬に柔らかく添えられる。

ひんやりとした(てのひら)の感触に、焔の心臓はどくりと跳ね上がった。


その鼓動が、怜子に聞こえやしなかったか。


「……余計なお世話だっ」


気安く私に触れるな―――慌てて怜子の手を振り払おうとして、焔の胃はぐうっと悲鳴の様な音を立てた。


居たたまれなさから、焔は甲羅に引っ込む亀の様に身を(すく)めた。


こればかりは怜子の耳にも届いてしまったらしい。


「お腹、空いていらっしゃるのね」


怜子は着物の(たもと)に手を差し入れると、何やら小さな箱を取り出す。


蓋が開かれると、そこには初めて見る菓子が一粒一粒整然と仕切りの中に納められている。

磨き上げられた宝玉の様につやつやと照っているもの、花の形を精巧に象ったもの―――どれも、焔がお目に掛かった事の無い美しさであった。


「チョコレートと云って、西洋のお菓子よ。お友達と遊んでいる時に食べるようにって、おもうさまが持たせて下さったの」


怜子はその小箱を、上品な仕草で焔へと差し出す。


「お上がりなさいな。元気が出てよ」


チョコレートの甘く香ばしい匂いに生唾を飲み込もうとしていた焔は、すんでの所で思いとどまった。

おめおめと敵からの施しに手を付けるなぞ、武士の名が泣くではないか。


焔はよっぽど、その西洋菓子の小箱を突き返してやろうと思った。


なのに―――どうしても、それが出来なかった。


怜子の身から、冷たい冬の朝をふわりと煙らす霞の様に(かも)し出される光明を目の当たりにしては。

初めて相見た時から焔を否応なしに包み込んだ、その気高い光を。


気づいた時には、つまみ上げたチョコレートの包み紙を剥がし、口の中に放り込んでいた。


火照った舌の上で、その西洋菓子はじんわりと溶けていく。

その途端、焔の全身には生き返った様に血潮の流れがほとばしった。


焔は夢中になって、指の先をべとべとにしながら一つ、また一つと手を伸ばしていく。

怜子は何を言うでも無く、ただチョコレートを頬張る焔をじっと見ていた―――静かな瞳で。


やがて、箱の中には黄金(こがね)の紙に包まれた一粒を残すのみとなった。


ひもじさに喘いでいた胃はすっかり満たされ、ぽかぽかと心地良かった。

チョコレートの滋養のみならず、別の何かが自分の心身を温めてくれるのを焔は感じていた。


けれど、空き腹を抱えてとはいえ、がつがつと貪ってしまった自分の行儀悪さが恥ずかしくなる。

焔はもう十分だと答える代わりに、頬を薄赤らめて首を横に振った。


怜子の目は物わかり良く、焔の言わんとする事を認めた。


「全部、召し上がってよろしいのよ」


その言葉と共に、怜子の身から発せられる光はいや増して明るく、いや増して清らかに彼女を輝かせた。


「では、ご機嫌よう」


怜子は衣擦(きぬず)れの音もさせずに立ち上がると、影一つ無く陽射しの溢るる廊下の方へともと来た階段を上っていった。


それはまさしく、白日の奇蹟(きせき)であった。


優しさなんて、形を持たない煙の様にもろく空虚なもの。

九年間の人生の中で、それが焔の見つけた人の情けに対する答えであった。


これまで誰一人として、心から焔に(あわ)れみを掛けてくれる人間はいなかった。

両親にさえ(いつく)しまれなかった自分が、どうして優しさというあやふやな存在を信ずる事ができようか。


けれど―――怜子の善行によって、焔の不信は(ことごとく)破り捨てられた。

神の御姿を眼前にした人間が、それに(すが)って崇めずにはいられぬよう。


利益を目的とした偽善を別とすれば、焔にとっては初めて誰かに手を差し伸べられた経験であった。

父の虐遇、母の無関心―――ありとあらゆる厳寒に晒されていた焔の身には、その優しさのぬくもりがいとも容易く染み渡った。


怜子の発する光が何であるか、焔にはその正体がすぐと理解できた。


寒風吹きすさぶ冬の宵、焔は父の手によって、体を鍛える為と称して一晩外へ放り出された事がある。

かじかんだ手足を絶え絶えの吐息で温めつつ、焔はただ凍てつく夜が過ぎ去るのを待っていた。

そして、長い夜が明け、青藍の空へと登った(あさひ)の神々しいまでの眩さ―――焔は生涯忘れられないだろう。


薄れゆく命が、その温かさによって息を吹き返すのを感じた。


あの旭と同じ光を、焔は確かに清小路怜子という少女に見たのだ。

彼女は漆黒の夜に潜む魔を払い、森羅万象を癒やす冬の日輪であった。


その輝きを夏の昼日中に目の当たりにした事が、奇蹟で無くて何なのであろう。


焔はチョコレートの最後の一粒を、こらえきれずに口へと放り込んだ。

その味はどこまでも甘露であった。



夏の日の秘め事は秘め事のまま、それからも二人の間柄は単なる同級生に過ぎない筈であった。


けれども、夕立の後のからりと晴れ渡った夏空の様に―――明らかに変わった事が一つだけある。

清小路怜子という少女に対する焔の感情は、間違い無く以前とは異なるものになっていたのだ。

生まれて初めての情けを、怜子の手で与えられたその日から―――


それはまるで、胸の奥底に生まれた小さな炎の様であった。

その炎は穏やかに、焔の心を温めてくれた。


何と名付けようか、その思慕の炎を。

父や母に対する恨みの炎よりも遙かに優しく静やかでありながら、決して燃え尽きる事の無い焔火。


そして、焔の中にその火を灯した張本人こそ、あの伯爵令嬢に相違なかった。


折に触れて怜子の事を思い返す度、和やかな熱に焔の胸はときめいた。


誰にも愛されずにいた焔に、唯一冬の太陽の様な慈悲を与えてくれた怜子。

そんな彼女が、ただただ慕わしかった。


彼女を恨み、敵視していた事さえ遠い昔の事の様に感じられた。


以前は一目見るだけで胸が悪くなりそうだった彼女の姿を、いつの間にか自分から探し求めるまでとなっていた。

それが焔にとって、(よろこ)びそのものであった事は言うまでもあるまい。




日の長い夏が影の無い明るさとなって満ち満ちていた、暮れやらぬある日の放課後。

廊下を歩いていた焔は、外から聞こえる少女達の屈託の無い笑い声に足を止めた。


窓辺に寄って下に目を遣れば、校庭では数人の少女達が目隠し鬼に興じている。

白い(きれ)で視界を塞がれた鬼の少女を取り囲み、他の子供達は手を叩いてきゃっきゃと囃し立て、逃げ回る。


「鬼さんこちら、手の鳴る方へ―――」


目隠しをされたお河童頭の少女は、与えられた音のみを頼りに両腕を伸ばして空を探る。

それが誰であるか、焔にはすぐ分かった。


「清小路」


と焔の口を思わず彼女の名前がついて出た。


焔はその場を立ち去る事もできず、怜子が友人達と嬉々として戯れている光景にじっと見入っていた。


怜子は不意に立ち止まると、周囲の物音に耳を澄ませる。

そして、次の瞬間には群青の袴がひらりと(ひるがえ)ったかと思うと、怜子の手は傍らにいた少女の元禄模様の袖をしっかと掴む。


「ほら、捕まえてよ!」


「嫌だわ。怜子さんはあんまりお耳が良くって、すぐに捕まってしまうんだもの」


そのふくれ面の物言いに、周囲にいた子供達は開けっぱなしに笑い出した。


「まあ、お千代(ちよ)さんたら御自分の足が遅いのを怜子さんのせいになさるのね」


怜子も目隠しを外して、子供らしく声を上げて笑う。


すると、厚い雲間から太陽が顔を出した様に、周囲の空気が一段と明るく清まって見えた。

その場にいたどの日輪の少女達よりも、怜子はきらきらと輝ける太陽であった。


貴様は、そんな風に笑うのか。


怜子の眩しい笑顔は、彼女が不幸を知らずに愛されて育った何よりの証であった。

初めて目にする怜子の笑顔に、焔は胸が高鳴るのを感じた。


嗚呼、その手で焔を捕まえてくれたら。

そして、その笑顔を焔一人に向けてくれたら。


(焔さん、捕まえた)


そんな事を望んでいる自分に気がつくと、焔は驚きで飛びのく様に窓から離れた。


私ともあろう者が、何という事を。


けれども、自身の中にある怜子への慕情の火は、もう到底消せるものでは無いと焔はこの時悟ったのである。




怜子に対する自身の気持ちが何なのか、焔は重ね重ね自身に問うてみた。


胸を焼くばかりに熱き憧れの炎の名を、「初恋」と名付けるべきか。

けれども、その度に焔は自分自身で愚かな問いを切り捨ててしまった。


日輪である焔が、同じ日輪の怜子を恋うなぞ、と。


世を(あまね)く照らせる日輪は、その光を我が身に受ける定めに生まれ出でた月影と結ばれるのが天命であるのだ。

焔は野々宮家の跡取りたる日輪として、いずれは伴侶となる月影の妻を(めと)るという務めがある。


では、怜子が月影であれば。

彼女が月影としての命を持っていれば、焔の慕情は正しいものとして口にする事を許されただろうか。


けれども、それも違う。


清小路怜子という少女の輝きは、天の高みにあって慈悲の陽光を降らせる日輪以外の何物でも無い。

そして、その(たっと)い清輝は同じ日輪の焔をも照らすのだ。


まさに、日輪に生まれるべくして生まれたひとでは無かったか。


彼女という日輪を、焔はどこまでも仰いだ。

再びその光に包まれ、恩恵の温かさに触れたいと願った。


怜子を慕い求める気持ちは、終わりなき荒野に放たれた炎の様に、燃え広がったまま果てる事を知らなかった。

そして、日増しに募る思慕の炎は、ついに焔を一世一代の大勝負に駆らせたのである。



昼食を済ませた後の休み時間に、怜子が教室を出てどこかに行くのを焔は知っていた。

こっそり後を着けてみると、彼女は長椅子(ベンチ)の据えられた校舎の裏手へと、一人静かに読書をしに行っていたのである。


聡明な怜子らしい事だ、と焔は合点がいった。


彼女の一挙手一投足にまで目を配る事が、焔の日課になっていたのだ。


その日、焔は廊下に面した窓の外を足早に通り過ぎる怜子の姿を目の端に捉えるや、すぐさま教室を飛び出した。

遠ざかりゆく後ろ姿を目に焼き付け、必死に追いかけた。


教室が立ち並んだ一帯を抜けて、怜子は人の往来も少ない廊下に差し掛かろうとしていた。

行動を起こすなら、辺りに衆人の目が無い今しかない。


「待ってくれ、清小路!」


大声で自身を呼ばわる焔の声に、怜子はぴたりと足を止める。


振り返る、と云っても体全体を慌ただしく動かすでもなく、青藍の矢絣(やがすり)の着物が映える色の白い片頬をちらと焔に向けたきりであった。


「野々宮家の姉姫様が、私に何の御用かしら」


焔の呼びかけに(こた)えた怜子の言葉には、いつになく冷たく硬い響きが含まれていた。

その事にややたじろいだ焔であったが、もう後には退()けない。


胸に抱き続けてきた想いが、言葉となって口を(ほとばし)り出た。


「私と、友達になってくれないか」


後にも先にも、焔が誰かにものを頼み込んだのはこれ一度きりである。


友として、怜子の隣にいたい。

これこそは、焔の嘘偽らざる悲願であったのだ。


怜子はただ黙って、氷華の様に繊細なまつ毛の先を幾度か動かしていた。


「いきなり変な事を言うと思うかもしれない。だが、どんな時も貴様の事が頭から離れないんだ。私が貴様にしてやれる事なら、何だってする。大事な手毬だって貸してやるから、だから」


想いの火の手の速さに、口が追い付かない。

それでも、焔は自身の心の丈をぶつける如く、また一歩怜子に迫った。


「私は―――」


私は、貴様が好きなんだ。


それと時を同じくして、怜子が閉ざしていた口を再び開いた。


「結構よ」


吸い込むだけで肺まで氷りそうな、凍霞(いてがすみ)の様な冷たさが怜子から漂ってくる。

焔があれだけ慕った冬の太陽の温かさは、跡形も無く消え失せていた。


「他の子を苛めたりするひと、私は嫌いだわ。どんな理由があっても」


怜子の言葉は氷柱の様に、焔の鼓膜を突き刺していった。


嫌い―――怜子はその一言で無情に、焔の冀望(きぼう)を退けたのである。


焔には、地獄に突き落とされたも同然であった。


鋭い氷の欠片を埋め込まれた様に、心臓が痛い。

夏のざわめきが遠い。


どこまでも冷徹な怜子の眼差しと、焔の困惑に揺れ動く眼差しがかち合った。


「あなたにチョコレートをあげたのは、困っている人がいたら見捨ててはおけないからよ。でも、私は初めて会った時からあなたの事が嫌いだったわ」


これが、冬の太陽の正体か。


恵み深い日差しを浴びせたかと思えば、雲間に顔を閉ざしてその温かさを無慈悲に取り上げもする。

地に残された者は、ただ寒さに震えて凍え死ぬ他は無い。


その陽射しは清らかに明るくも、何と残酷な太陽だろうか。


呆然と立ち尽くす焔を見下ろし、怜子は矢絣の袂を(ひるがえ)す。


「では、ご機嫌よう」


その(しと)やかな別れの言葉が、かえって怜子の態度をより素っ気なく際立たせていた。


九つの少女のものとは思えぬほど、冷淡な貴婦人然とした振る舞いであった。


静けさの中に、焔一人だけが残された。

まるで芝居の中の一場面の様に呆気なく、焔の願いはむざむざと破り捨てられたのである。


やがて、(はげ)しい怒りと屈辱に焔の血潮は熱く(たぎ)った。


突き放すくらいなら、何故優しくした。

何故冬の太陽の慈悲の光を浴びせた。


あの陽光の温かさを知らなければ、それが奪われる悲しみも味わわずに済んだのに。


怒りは全てを焼き尽くさんばかりの大火となって、焔の中から湧き上がる。

人を想う気持ちも、恨む気持ちも、一度火の手が上がればどこまでも強く燃え盛る宿命を負った身であれば。


怜子に対する慕情は、瞬く間に以前と同じ、否それよりも遥かに凄まじい憎しみへと姿を変えた。


(それが貴様の答えか、清小路怜子!)


口の中によく知っている鉄の味が広がった、と思ったのは、唇を噛み締めるあまり血が(にじ)んでいたのである。


何があっても、貴様だけは絶対に、絶対に許さない。

私を拒むのなら、終生呪われるがいい。


怜子に対する新たな魘悪(えんお)の念のみが、焔を絶望へと()とさずにいてくれた。


そして―――やっと、分かった事がある。

焔が日輪として、この世に生を受けた理由だ。


全ては、同じ日輪である怜子に打ち勝つ為。

その為に、焔は日輪として生まれてきたのだ。


何が何でも、私は絶対に清小路怜子を超えてやる。

彼奴(あいつ)がこの足元へ惨めに這いつくばる様を見るまでは、死んでも死に切れない。


無尽の炎の様な野望が、焔の魂を()いた。


とある考えが焔の脳裏に(あかつき)の光の如く射し込んだ。

月は太陽の力強い輝きを受け、その仄白くあえかな(おもて)を浮かび上がらせる。


この様に、日輪と相共に生きる定めを負った性こそが月影であった。


日輪には世に数多いる中にただ一人だけ―――魂と魂とが結びつき、運命によって巡り逢う月影がいるという。

それこそが、対の月影である。


一目その姿を見れば心はどうしようもなく震え、自分の生はこの出逢いの為にあったのだと古今の日輪達は口を揃えた。

焔の父も、その一人である。


結ばれた彼らの命は対の日月としてその輝きを不滅のものにし、常永遠(とことわ)(かげ)る事は無い。


神代の昔からの伝え話は、焔には天啓の様であった。


この世でただ一人の対の月影を、いつの日か必ずや探し当ててみせる。

そして、永遠の光明を放つ決して翳る事を知らない日輪となるのだ。


全ては、清小路怜子を超える為。




それからの焔は、日輪としての命に()けたその誓いが(ゆえ)に生を紡ぎ続けた。

まだ見ぬ月の面を見る為なら、何だってした。


長じて帝國軍人となる頃には、あちらこちらの月影と焔の間の艶聞が流れる事となった。

カフェーの女給、芸者、遊び()、女学生、令嬢。

野々宮侯爵家の家名や有り余る富、焔自身の凛然とした風采も手伝って、浮かれた月影の女達はいくらでも寄ってきた。


今思えば、鼻につく香水の様にそんなあからさまな欲望を透けさせていた女達の中からどうして運命の相手を求められようか。


対の月影というのは相(まみ)えるだけでおのずと分かるものだと言われていたが、焔にはとても信じられやしなかった。

きっと私達こそ、運命の定めた対の日月にございましょう―――粘っこい蜜の様に甘い猫なで声で、そう焔に囁く女は後を絶たなかったが。


身を繋いでみれば分かるだろうかと、かりそめの情事に(ふけ)った夜は数え切れない。


だが、いくら唇をついばめど、肌に舌を這わせれど―――駄目だった。

(むな)しい体の交わりは、心までも結んではくれない。


月影を抱けば抱くほど、満たされる事の無い渇きに狂いそうになる。

泥沼の中でもがくのにも似た情欲は、より多くの月影との(ただ)れた密事へと焔を駆らせた。


陰で色狂いや好き者などと呼ばれていた事は知っていたが、どうでも良かった。


ただ一人の対の月影を得る為ならば、何も惜しくは無い。


けれど、いつになればそんな相手は現れるのか。

そう悶々としていた矢先であった。


焔があの月影の娘―――百幸美夜と、天命と呼ぶべき出逢いを果たしたのは。




怜子が十歳を迎える年、焔は初めて父と共に彼女の誕生日を祝うパーティーに招かれた。

それから、清小路伯爵家から一人娘の誕生日パーティーの招待状が届くのは毎年の事であった。


一年を経るごとに、より美しく、幸福になっていく怜子を見せつけられるのは焔にとって(はなは)だ不本意ではあった。

しかし、家や親同士の付き合いもあり、そうそう無下には出来なかった。


娘の怜子に瓜二つな伯爵、尊子は焔の父の華族學院時代の後輩であるからだ。


父亡き今となっては、焔もそうした(わずら)わしいしがらみを断ち切っても構わない筈であった。

けれど、パーティーへとやって来る月影の令嬢達の中に、探し求めている相手がいるのではないか。


そう思えばこそ、焔は妹と共に伯爵令嬢の二十四回目の誕生日パーティーと足を運ぶ気になったのである。




「野々宮侯爵に珠緒お嬢様。当家の夜会に、ようこそお()でくださいまして」


侯爵姉妹の姿を目にするなり、伯爵夫人自らいそいそと二人を出迎えた。

豊かな栗色の髪を夜会巻きに結い上げ、西洋風のドレス姿の初音夫人は、冥治(めいじ)の舞踏会の名残を留めたハイカラさである。


美々しく装った妹の珠緒を見るなり、夫人は華のある二重(まぶた)の目元をほころばせた。


「しばらくお見かけしない間に、お嬢様もすっかりお綺麗におなりになったこと!どうぞ、此方(こちら)にいらして下さいまし。怜子にも、是非お引き合わせしとうございますわ」


「まあ」と妹はその瞳を輝かせ、隣に立つ焔を見上げる。


「伯爵夫人もこう仰っている事ですし、行ってもよろしいでしょう、姉上?」


「ああ、構わん。奥様に失礼の無い様にな。怜子殿にもよろしく伝えておくれ」


そうにこやかに答えてやれば、妹は浮き浮きと伯爵夫人に伴われていった。


すると、それを待ちわびていたかの様に、月影の娘達が焔の元に(うやうや)しく現れる。


華族の月影の姫君というのは、従順・貞淑の代名詞の様なものだ。

家を継ぐ為の日輪の子を宿す事は、彼女らにとっては生まれ落ちた理由そのものである。

家庭での教えのみならず、華族學院の月影部において、初等科から中等科にかけての徹底した良妻賢母教育が(ほどこ)される。


日輪の三歩後ろを歩いてこそ、月影は月影であるのだ。


そうした事を片時も忘れずにいる境涯も、彼女達を奥ゆかしき令嬢たらしめていた。

けれども、それも選りすぐられた花の様に、似たり寄ったりの(うるわ)しさであった。


そんなものは、やがて飽きる。


何人目か分からない令嬢の応対を済ませると、初夏の宴の(ぬる)んだ雰囲気に疲れた体を、壁にもたせかけた。


爽やかな喉越しの冷酒を一息に流し込みたいものだと()れていた時、焔の横を少女のものらしい軽やかな足音が小走りにぱたぱたと通り過ぎた。

その様に慌ただしく会場を渡るのは、清小路家の使用人以外にいる筈がない。


普段なら、使用人の小娘如きには一瞥(いちべつ)もくれない焔であった。

けれども、見えぬ糸にでも強く引かれたように、焔は思わずそちらへと目を向けた。


あれこそは、運命と呼ばれるべき糸だったのだろう。


エプロンの胸元に二本のお下げ髪を垂らしたメイドの姿に、心臓がどくりと跳ね上がった。

その顔立ちや雰囲気にあどけなさすら残した、うら若い小柄な少女であった。


これまで伯爵家を訪れた事は幾度もあるが、焔は初めて目にする顔だ。


瑞々しい頬を薄紅に上気させ、メイドは脇目も振らずに歩いてゆく。

何やら用事を言いつけられて、それをこなしに行く最中といった急ぎ様であった。


その抜ける様に白い首筋に映える黒革の首輪が、焔の目を()る。

娘が月影であるという、唯一無二の証。


尋常種の娘が、嫁入り前の行儀見習いとして女中奉公に出される事は多くあるが、月影の場合には話が違ってくる。


いずれは日輪の元に嫁ぐべき月影の我が子を、外に出して悪い虫が付く事を親も避けようとする。

ましてや、こうしてパーティーなどで多く人が集まる華族の屋敷では、自ずとその危険性も高まる。


何より、月影の役割は額に汗して働く事ではなく、日輪の子を産んで育てる事だ。


上流の家の常として野々宮侯爵家にも数多くの使用人がいたが、みな尋常種であった。

それは清小路伯爵家とて同じ筈だ。


何故、月影のメイドがここに―――そんな疑問も消し飛ばすほど、身が熱く(たかぶ)っていく。


来し方、どの月影にも決して感じる事のできなかった、胸奥(きょうおく)までも揺るがす興奮。

焔の意思とは無関係に、血潮は炎の流れと化した様に全身を駆け巡り、心臓は一つの熱塊となって脈打つ。

気だるい疲れなぞはいつの間にか消え去って、爛々(らんらん)と冴えた瞳が娘へと吸い寄せられていく。


魂が震えるとは、この事では無いか。


―――これは、まさか。


今までずっと追い続けてきた大願が、目の前に一条の糸の如く垂らされている気がした。

無我夢中でその糸へすがりつく様に、焔は娘の後を追わんと大股に一歩を踏み出そうとする。


すると、その前に立ち塞がる様に、振り袖やドレスで麗々しく着飾った月影の娘達が現れた。


此方(こちら)にいらっしゃいましたの、侯爵様。今夜のパーティーに来られたと聞いて、わたくし達是非お目に掛かりたいと存じまして……」


思いも寄らぬ邪魔が入った事に内心舌打ちしつつ、焔はこうした娘達の前で心掛けている、紳士的な微笑を浮かべる。


「私の方こそ、お美しいお嬢様方にそう言って頂けて光栄だ。すまないが、急用を思い出してな。失礼させてもらう」


娘達の無念そうな眼差しを振り払い、再びパーティーの雑踏の中にあのメイドを探そうとしても、その姿はどこにも見いだせなかった。

近くを通りがかった別の使用人に、「あのお下げ髪のメイドは」と尋ねれば、酒を補充する為の場所に入っていくのを見たと言う。


教えられた方向へ急ぎ向かう最中、戦いへと(おもむ)く時の様に血湧き肉躍るのが感じられた。

如何(いか)なる軍歌とて、その時の焔の鼓動に勝る勇壮な響きはあるまい。


大広間の片隅を衝立で囲んだきりの場所が、華やかな夜会の目立たない裏方となっている。

パーティーの表舞台との境界である衝立の前に立った途端、胸の高鳴りは最高潮に達した。


この奥に、あの娘がいるのだ―――ただそれだけの事が、焔にはこの上ない愉楽の燃え(くさ)となる。


研ぎ澄まされた嗅覚が、あの娘の残り香を確かに感じ取る。

仕着せに染みたシャボンの涼やかな匂いに混じって、月の宵の柔らかな夜気の様に焔の頬を撫でていった、ほの甘い香り。


すぐにでも、あの細い首筋に鼻梁を埋めて嗅ぎ貪りたい衝動に駆られ、生唾を飲み込む。


更に一歩を踏み出そうとした時、その(こころよ)い香りとは別のにおいが、焔の鼻腔を刺激した。

若い男特有の鼻につく汗のにおいと、香り高さとはほど遠い、安っぽいオーデコロンのにおい。


薄い残り香を掻き消さんばかりのくどさは、焔にとって異臭以外の何物でも無い。

思わず顔を(しか)めて軍服の袖口で鼻を覆った時、衝立の向こう側から下卑た好奇を剥き出しにした男の声が飛ぶ。


「君、月影じゃないか。どうして伯爵家のメイドなんてしているんだい?」


それに呼応するかの如く、高慢な(さげす)みを漂わせた女の声が現れる。


「本当だわ。いい年をした月影が、嫁にも行かずに何をしているのかしら?」


「そういえば風の噂で、清小路家の怜子女史がどこからか連れてきた月影を自分のメイドにしていると耳にした事があったな。あれは真実だったのか」


「才色兼備で品行方正な日輪と評判の怜子さんがねえ……人間、意外と分からないものね」


身を乗り出して衝立の継ぎ目から垣間見れば、酒の瓶を載せたテーブルの並ぶ、そう広くは無い空間である。


そして、そこでは身なりだけは良い華族の日輪の男女が、二人がかりであのメイドを取り囲んでいるではないか。

男の方はその放蕩(ほうとう)振りで知られている男爵子息であり、女の方は野々宮家の催した宴で幾度かその顔を見掛けた子爵令嬢である。


怜子―――聞くのも忌まわしい怨敵の名は、焔に憎悪よりも驚愕の念をもたらした。


無遠慮な言葉の数々に耐え忍ぶ如く、桜色の唇をぎゅっと噛み締め、その小さな身を震わせている月影の少女の姿は、ただひたすらにいじらしい。

この娘が、他でも無い怜子の侍女だというのか。


「よくよく見たら、結構愛らしいじゃないか。なあ君、僕とどうだい?どうせもう、怜子女史のお手が付いているんだろう」


口説き文句とも呼べぬ低俗な戯言(たわごと)と共に、男爵子息のタキシードの腕がメイドの華奢な肩へと絡められる。


急火の様な怒りが、かっと焔の身を焼く。

その汚らしい手を今すぐ下ろさないか―――そう焔が怒鳴り込むより先に、メイドは恥じる様に伏せていた顔を上げ、敢然(かんぜん)と言い放った。


「怜子さまは……怜子さまはあなた方と違って、そのようなふしだらな事をなさる方ではありません。絶対に!」


その刹那、焔は思わず息を呑んだ。


メイドをしつこく小突き回していた男爵子息と子爵令嬢も、唖然と口を開ける。


夜空に浮かぶ月の青白く静かな姿のままに、大人しく従順であるべし―――月影として生まれ落ちた彼らはその教えを(むね)として育てられる。

感情の(みなぎ)るままに声を荒らげる事、ましてや日輪を相手にすれば、それは何より無法な振る舞いだ。


月影であるあの娘こそ、誰よりもこの事を理解しているだろうに。


自身を値踏む言葉なら、メイドとして何を言われても耐えたに違いない。


だが、自分の主人である怜子に向けられた(そし)りには、断固として抗ってみせた。

彼女を悪く言う相手は、誰であろうと許しはしない―――どこまでも純粋で強い感情が、その表情や声音に満ち満ちていた。


双の瞳は怯えに伏せられる事無く、まっすぐに男女を()め付けている。


それが、怜子の潔白を証明する何よりの印となった。

自分の利益の為に主人と情を通じる狡猾な娘に、愚直と言っても良いほどの勇気があるだろうか。


だが、自身の主人を(おとし)められた憤りを差し引いても、その頑強な意志には目を見張るべきものがあった。

これほどまでに確かな心を持つ月影の娘がいる筈が無い。


やはり、この娘は今まで出逢ったどの月影とも違う。


この少女という唯一の月を、焔はこれまで探し求めていたのではなかろうか。

そして、その月は今宵、焔の目の前で(けが)れ無い光を放って輝いている。


嗚呼、ついに見つけた―――


焔の口元には、長きに渡る本懐を遂げた安堵の微笑が浮かんだ。


男女はようやく我に返ると、口々に娘を罵る。

月影の分際で日輪の自分達に歯向かうとは何たる図々しさだ、偉そうな事を言っていても、体を使って伯爵家に取り入ったに違いない、云々。


男爵子息がメイドの肩を掴んだ手に腹立ち紛れに力を込めるのが、さらに深くなった仕着せの皺から見て取れる。


「やめて、放してください!」


娘は悲鳴を上げてその腕を振り払おうとするものの、小柄な娘と大人の男の力の差は明らかであった。


それを見て、焔はようやく自分のすべき事を思い出せた。

衝立の内側へと足を踏み入るや、つかつかとメイドと男の元に歩を進める。


そして、娘の肩へと張り付く男の手首を掴んだ。


いきなり自身の腕を掴まれた男や横で見ている女、そしてメイドも含め、その場にいる全員の視線が焔に集まる。

娘の丸い目は大きく見開かれ、色の薄い瞳にシャンデリアの(きら)めきを映して焔を見上げる。


半ば呆れた薄笑いが、自然と漏れ出る。


「見苦しいぞ。か弱い月影の女子(おなご)を相手に、大の日輪の男子(おのこ)ともあろう者が」


この野々宮焔の物に乱暴を働こうとは、愚の骨頂と言う他あるまい。


「何だ君は!急に現れて……うっ、うぐっ!」


やかましく突っ掛かってくる男を黙らせる為に、高価な金時計を光らせたその手首を(ひね)ってやる。


これくらい、焔には朝飯前だ。


不意に、今この場面を死んだ父に見せてやりたくなった。

父上が女、女と(おっしゃ)って虐げた焔は、こうして日輪の男の手を捻り上げられるまでになったのですよ―――


そう言って目の前でせせら笑ってやれば、あの男はどんな顔をするだろう。


愉快な気分のせいで手に力が入り過ぎてしまい、骨の鈍く(きし)む感触が掌に伝わってくる。

娘が男爵子息の腕から逃れたのを契機に、もう良いだろうと手を放す。


「貴様ら、吉田男爵の息子と小野子爵の孫娘だな?その下劣な振る舞いで華族を名乗ろうとは、片腹痛い」


そう言う君は何者だ、急にこんな真似をするなぞ失礼にも程がある―――焔の顔に見覚えの無い青年は、身の程知らずにも噛みつこうとする。

代わりに、野々宮家の宴に招待されて侯爵と言葉を交わした事も幾度かある子爵令嬢が、ぎょっとした顔で焔を見る。


「ちょっと、お()しなさい!この方は……」


女に耳打ちされ、男は慌てて(こうべ)を垂れる。

まさか野々宮侯爵でいらっしゃるとは思わず、とんだ御無礼を―――掌を返した様な詫び言は、滑稽なばかりの情けなさだ。


「貴様らの謝罪にどれほどの価値があるというんだ?全くお目出度(めでた)い。これ以上私の気分を害したく無ければ―――今すぐ目の前から失せろ」


その一言で、見苦しく萎縮している無礼な連中はさらに震え上がった。

先程までの威勢はどこへやら、失礼致しますと慌ただしく謝罪をし、脱兎の如く逃げ出していった。


「大事無いか」


娘の方を振り返ると、その(つぶ)らな瞳をうろたえる様に焔へと向ける。


「は……はい」


そして、(しば)しは何を言うでも無く、自分より頭一つ分は高い焔を仰いでいた。


媚びた眼差しで月影の女に見上げられる事には慣れている。

けれども、この娘の淡い色の瞳からは、そうした卑しみは一欠片も感じられない。


「私は野々宮侯爵家当主、帝國陸軍中尉の野々宮焔という者だ。君の名前は?教えてくれるか」


そう問えば、娘は威儀を正す様に背筋をしゃんとさせ、一言一言丁寧に礼を述べる。


「危ない所をお助けいただき、ありがとうございました。わたしはこちらの清小路伯爵家でメイドとしてご奉公しております、百幸美夜と申します」


みよ―――それがこの娘の名なのだ。


どんな字を書くのかと尋ねれば、美しい夜と書きますと嬉しそうに答える。

まるで、それ以上に大切なものなぞ無いと言わんばかりに。


焔は自分の名を好きになれた事なんて一度も無い。

父によって負わされた宿命を表わす様なこの名を。


だが、美夜にとっては違うのだ。

世界で一人しかいない自分自身と結びついたその名を、何より愛おしんでいる。


「美しい夜と書いて美夜―――良い名前だ。美夜と名付けたのはご父君か?それともご母堂か」


「父でも、母でもありません。この名前をつけてくれたのは……」


では、誰が付けたのか―――そう()きたい気持ちはあったが、名付け親が誰かなど大した問題にはならない。


「誰が付けたにせよ、似つかわしい名前だ。この髪も、肌も、瞳も月の光を溶かし込んだのではないかと思う程に色素が薄くあえかで―――月明かりの下ひそやかに咲く月見草の様だ」


その存在の何もかも、夜会のまばゆい燈火の元に晒すには儚すぎる、私の為に生まれた命。

私の美夜。

私の対の月影。


胸の中を、これまで味わった事の無い気持ちが満たす。

焔の血反吐を吐く様な二十四年間の人生の中で、誰からも与えられずにいた安らかな感情であった。


この心地よさが、愛と呼ばれるものなのだろうか。

両親にさえ愛されずに生きてきた焔には、分からないけれど。


焔の指先は、その手触りを惜しむかの様に(おの)ずとお下げ髪の片方へと触れる。

だが、当の美夜は驚いた様に声を上ずらせた。


「こ、侯爵様?」


大きな目が、みるみる怯えに曇っていく。


何を恐れる事があろうか、と焔は後ずさろうとする美夜に歩みを進める。

お前が私にとって唯一の月影である様に、私こそがお前のただ一人の日輪なのだ。


「さあ、もっとよく顔を見せておくれ」


この感情が愛であろうと無かろうと、そんな事は一向に構わない。

もう手放せない、手放さない。


この世でただ一人の、私の対の月。


「お前を一目見た時から確信していた。お前は、私の……」


「―――美夜!」


焦りに乱れる女の声が、焔の首筋にひやりと触れた。

真白い水泡(みなわ)を散らす、澄み切った早瀬を思わせる声。


その声の主を、どうして忘れる焔であろうか。

覚悟を決めて振り返れば、そこに立っているのは紛れもなく今宵のパーティーの主役。


夜会にやって来た月影の娘達に囲まれていたその(ひと)を、見まい見まいと目を逸らしていた焔であった。


闇夜を照らすシャンデリアの眩耀(げんよう)たる輝きにも(まさ)る、その艶姿。

息せき切って軽やかに揺れる断髪、涼しい切れ長の目を備えた瓜実顔(うりざねがお)、高貴な深みのある青の夜会服に包まれたすらりとした肢体。


一目見れば、誰もがその姿に目を奪われたに違いない。


やはり、清小路怜子は美しかった。

そして、その美貌を認めるのが(しゃく)になるくらい、焔の中に憎しみの炎が燃え上がる。


なぜ、貴様がここにやって来るのだ。


その憎悪が引き金となって、十五年前に味わわされた屈辱が(よみがえ)ってくる。

あの痛み、悲しみ―――のたうち回らんばかりの私の気持ちを、貴様は知っていたのか。


そう問い掛ける代わりに、焔は有りっ丈の恨みつらみを込め、目の前の伯爵令嬢を睨みつける。


だが、怜子はその眼差しを避けようともせず、その涼しい目を見張って焔を見返すのであった。

思えば、彼女とこうして差し向かう事なぞ、あの九つの夏以来ではなかっただろうか。


十五年の歳月は、怜子を少女から一人の臈長(ろうた)けた淑女へ、そして焔の憎しみを、さらに熱き猛炎へと変えた。


ルージュに彩られた唇が、ややあって(おごそ)かに開かれる。


「美夜から手を離していただけるかしら。野々宮侯爵」


淑女としての慎ましさでは決して隠しきれない、日輪の威光に満ち満ちた低い声音。


敵意と呼ぶにはあまりに(はげ)し過ぎる感情が、真っ直ぐに焔へと向けられているのが分かる。

それ以上美夜に触れる事は、断じて許さない―――と。


焔の口元に、ふっと笑みが浮かぶ。


「人聞きが悪いな、清小路。私がたまたまここを通りかかった時、この娘が華族の不良日輪の連中に絡まれていたから助けたまでだ。なあ、そうだろう?」


こう言って美夜の目を覗き込めば、怯えをその瞳の奥に仄見せて、こわごわと頷く。


「は……い」


「そうか、この娘は貴様の月か。それほどまでに血相を変えるのならば、さぞかし大切なのだろうな。ほら、お返ししよう」


美夜から手を離せば、怜子はすぐさま自分の腕の中に彼女を抱き寄せる。

母親が、ただ一人の消えた我が子を見つけた時の様に―――否、それ以上に物狂おしい一心不乱さであった。


「良かった。美夜が無事でいてくれて」


「怜子さま……」


人前でいきなり抱擁された事に対して、美夜は戸惑う様に目をしばたかせていた。


だが、やがて安堵した微笑と共に、怜子のドレスの胸元へと(すが)る様に頬を寄せる。

恵み深い太陽の温かな光を恋う、月の様に。


美夜の怜子に対する深い信頼を物語るその光景を目にした時、焔の中にあった疑問は確信へと変わった。


主人を侮辱された美夜の怒り様が、単なる侍女としての忠誠と見えなかったのは事実である。

けれど、怜子までもがこの様に自分のメイドに執着する様子を剥き出しにしようとは。


やはり、この二人の関係は単なる主従の一言で片付けられる(たぐ)いのものでは無いらしい。


特に、怜子の美夜に対する執心ときたら、全く尋常ではない。

だが、それが焔にとって何の障壁になろう。


(かえ)って、自分の直感は間違っていなかったのだという歓喜が焔を満たす。


百幸美夜という少女の生は、焔が怜子という日輪を越える為に()るものだ。

その美夜が、他でも無い怜子から並々ならぬ寵愛を受けていようとは―――これを運命と呼ばずして何と呼ぼう。


この少女が生娘(きむすめ)である事は、大勢の月影を見てきた焔には容易に分かった。


自身の手元に置いておきながら、床を共にさせる事無く、飽くまで美夜に対しての純潔を貫き通そうというのか―――

ただ一人の相手に捧げる操を、命に懸けても守ろうとする乙女の様に。


学生時代から、焔と違って浮いた噂なんて(つい)ぞ流した事の無かった怜子らしいやり方ではないか。


そこまで想っている少女を、目の前で奪い去られた時の怜子の悲嘆は如何(いか)ばかりだろう。

こう思えば、必ずや美夜を自分一人の(つがい)にするという揺るぎない決意が固まった。


そうやってその腕の中に美夜を抱き留めていられるのも、今のうちだ。


「では、邪魔者はそろそろ消えるとするか。だがな、清小路。本当に大切にしている月ならば、貴様以外何人の目にも触れぬよう、その(まなこ)を一つ残らず潰したらどうだ」


私なら、日輪としてきっとそうするものを。

自分の物に手を出そうとする不埒千万な奴らを、生かしておくなぞ到底我慢ならない。


そう二人に背を向けてその場を後にしたものの、うなじにはいつまでも、怜子の凄まじさを秘めた眼差しが張り付いている気がした。




それからの焔の行動は早かった。


家へと戻った後、帰り道でずっと不機嫌そうにしていた珠緒について志津に尋ねれば、神妙な答えが返ってきた。


「……御姫様(おひいさま)は、お小さい頃から怜子様に想いを寄せられているので御座います。ですが、今宵の宴でご挨拶に伺ったところ、怜子様と親しげに言葉を交わしていた月影の小間使いがいたそうで。その娘と怜子様がただならぬ仲にあるのではないかと」


やはり、天も焔に味方していたのだ。


焔の目から見た妹は、甘ったれの我儘な子供に過ぎない。

けれど、世間から見れば喉から手が出るほど欲しい侯爵家の姫君である。


かつて西国の大藩を()べていた野々宮家は、世が世なら公方(くぼう)の御台所にだってなれた家柄だ。

野々宮家の莫大な財産と地位の恩恵にあずからんと、華族の中で珠緒を嫁に欲さない家があろうか。


おまけに、亡き母譲りの玉の美貌である。


これを利用しない手は無い。

あの妹が生まれてきた事を、初めて喜べた。


野々宮家と清小路家の縁組と引き換えに、美夜の身代をこちらに受け渡す事を要求すれば、伯爵は案の定食いついてきた。


ただ、幾らかの戸惑いもそこにはあった。


あれは怜子のメイドだ、それにあの娘が承知するかどうか、と。

そんな伯爵の弱気を振り払う為に、焔は彼女に対して一番効果的な揺さぶりを掛けてやった。


怜子と美夜の関係は、とっくに主従のそれを越えている。

いずれは追い詰められた果てに、二人で命を絶つ事さえありはしないか―――


みるみる青ざめていく尊子の顔色は、滑稽以外の何物でも無かった。


道を誤ろうとする娘を救えるのは父親である貴殿のみなのだという一言が、尊子の背を押した。

自分の指を切り裂いて流れた鮮血で、婚姻の契約書に判を()いたのには全く恐れ入った。


焔の父親といい、やはり親というのは馬鹿ばかりなのだろう。

けれど―――同じ馬鹿ならば、尊子の様な馬鹿が良いと思わずにはいられなかったが。


そして、野々宮家の別邸へと連れて来させた美夜をこの腕に抱き締めた時の嬉しさと言ったら、筆舌に尽くしがたかった。

軍服の胸の中で、打ち震えている小さな体―――この全てが余す事無く焔の物なのだから。


こう思えば尚々美夜が惜しくなり、さらに腕に力を込めた。

けれど―――美夜はただびくびくと、陰雲の様な恐れを帯びた瞳でこちらを見上げるばかりだった。


最上の衣裳や座敷を用意しても、怜子に見せていた、春宵の朧月の様なうららかな笑みを見せてくれる事は無かった。


表面上では余裕を装いつつ、じりじりともどかしい焦燥が焔を追い詰めていった。

せっかく美夜を手に入れたというのに、この(うれ)いは何なのだろう。


対の月影一人笑顔にできないなぞ、日輪としてこれ以上に情けない事があろうか。

怜子ならば容易(たやす)く為し得た事が自分には叶わないというのは、焔にとって最大の屈辱だ。


だが、焔の気持ちとは裏腹に、あの娘は無邪気そうな顔の奥で密かに奸計(かんけい)を巡らせていたのだ。

花火大会に着ていく浴衣をねだりに来た時の、あの演技と言ったら見事なものだった。


「妙な事もあったものだな。何を欲しいとも言わぬお前が、こうして浴衣をねだるなぞ」


そう問えば、小さな手を焔のそれに重ね、目にはいじらしく涙さえ浮かべてみせた。


「だって、侯爵様とのお出掛けならば、着る物も素敵にしたいのですもの。子供のわがままかとお思いになるかもしれませんが、お願いいたします。どうか……」


戸惑いよりも先に、とうとう美夜が自分という日輪一人を(たの)みにするようになったという喜びの方が大きかった。


その裏にあった魂胆も見抜けずにいた自分は、何という愚か者だろうか。

初めて美夜を見た時の確固たる意思は、消える事無くあの淡い瞳の底に潜んでいた。


あの娘の発情が遅れた為に呼び寄せた医者も、最初から共謀して焔を欺いていたのだ。


手の中にあった月は、花火大会の夜、雲間に姿を(くら)ませた様に焔の元から逃げ去ってしまった。

そうして今―――焔は全く(ひと)りだ。

何もかも失って、ぽつんと闇の中に取り残されている。


夏の朝霧の様な幻影が、焔の(まぶた)の裏に映し出される。


のどやかに微笑む美夜と、彼女を愛おしげに見つめる怜子の姿。

それは、相思相愛の月と太陽そのものであった。

幸福という言葉をそのままにした様な情景に、焔は胸を掻きむしられそうだった。


その冬の太陽の眼差しをどうして私には向けてくれなんだ、清小路。


けれど―――それも、破れた夢の様にあっけなく消えてしまった。


長い間、焔は暗影の海に溺れた如くうずくまっていた。

やがて、よろりと上体を起こすと―――解けて乱れた黒髪の間から、爛々(らんらん)と光る目が覗く。


消えない熱情の炎が、絶え間無く燃え盛る。

何人たりとも消す事のできない大火に身を(まか)せ、焔はその熱さに酔い()れた。


「ははは、はは」


歪んだ唇からは、哄笑(こうしょう)の声が狂女のそれの様に延々と流れ出る。

それは決して、自嘲と呼ばれる惨めなものでは無かった。


「精々逃げるが良い。貴様ら二人とも、地獄の果てまで追い詰めてやる」


この手で、何としても奴らの仮初(かりそ)めの幸福を引き裂くのだという決意の笑みであった。


夜の静寂(しじま)の中に、畏日の高笑いが遠く響いた。

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