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夜空の華

怜子から美夜の元へ、御萩丸を通じて手紙が届いた。




明日の新聞に、帝都にある呉服屋のちらしが入つているかと思ひます。

どの柄でもかまひませんから、そこに出ている反物で浴衣をこしらへてもらうやう、どうにか()()()におねがいして頂戴。

何と云ふ名の反物か、手紙に書いてくれる(よし)頼みましてよ。




その広告には、帝都でも評判の画家である高林(たかばやし)華暁(かきょう)がデザインした浴衣用の反物が出ていた。

彼の仕事は雑誌や広告の絵を描くのみに留まらず、着物や帯の反物の柄を考案するなど、多岐に渡っていた。


そうした反物は一つ一つ、「薔薇の夢」や「鈴蘭の涙」といったロマンティックな名を付けて売られ、夢見がちな少女達に高い人気を誇っている。

何故、焔にねだってまでその浴衣を手に入れるよう、怜子が美夜に頼んだかというと―――理由は次の通りであった。


美夜が選んだ反物と同じ柄のもので、怜子も呉服屋に浴衣を(あつら)えさせる。

そうして花火大会の夜、その浴衣を(まと)った嘉世子が焔の隙をつき、全く同じ格好の美夜と入れ替わるという。

美夜はその後、怜子の待つ駅へと向かい、焔から逃れるという計画であった。


何か手拭いの様なもので顔を隠した上で、辺りは薄暗い夜であるから、焔がすぐ入れ替わりに気が付かないという希望はあったが―――その(おとり)の様な役割を、嘉世子自ら引き受けてくれたという。


もし上手くいかなければと、不安が全く無いと言えば嘘になる。

けれど、自分を救う為に尽力してくれる怜子や秋元夫妻の為にも、美夜に出来る事をやるしか無い。


その第一段階として、美夜は夕食の後で焔の私室を訪れた。


襖の肉筆の猛虎(もうこ)は今にも飛びかかってきそうで、美夜は少し()じけづいてしまった。

失礼致しますと敷居を(また)げば、禁域へ足を踏み入れた如く首筋に冷たい戦慄が走る。

当主の部屋だけあり、装飾の豪華さは他の部屋とは一線を画す。


彼女は虫の鳴き交わす庭に面した縁側で、ゆったりと一服している最中だった。


「どうした、改まって」


そうは言いつつも、焔は美夜の訪問に機嫌を良くした様子であった。

シガレットを硝子の灰皿に押し付け、まあ座れと自身の隣に招く。


「珍しいな。お前がこうして私の部屋にやって来るなぞ。金平糖でも食べるか」


いそいそと菓子の袋を取り出そうとする焔を制し、美夜は懐から折り畳んだ広告を取り出す。


「侯爵様には、こちらを見て頂きたいのです」


「呉服屋の広告ではないか。どうしてこんな物を」


「その……華暁の浴衣を一枚、誂えて頂きたいんです。花火大会に着ていく為に」


しげしげと色刷りの広告を眺めていた焔だが、やおら顔を上げるや、尋問するかの如く低い声音で呟く。


「妙な事もあったものだな。何を欲しいとも言わぬお前が、こうして浴衣をねだるなぞ」


美夜はぎくりとして、身を固くした。


何か裏があるのでは無いか、と勘ぐられている気がして。

けれど、ここを脱出する為の(きざはし)として、この局面はどうしても乗り越えなければならない。


怜子さま、お許しください―――胸の内でそう懺悔し、美夜は思い切って自身のものより一回り大きな焔の手を握る。

指の一つ一つが強健に生え揃った筋肉質な手は、触れてみれば意外なほど瑞々しく張りのある皮膚を持ち、妙齢の女性特有の滑らかさを保っている。


そして、涙を帯びた哀願の上目遣いで彼女を見やった。


「だって、侯爵様とのお出掛けならば、着る物も素敵にしたいのですもの。子供のわがままかとお思いになるかもしれませんが、お願いいたします。どうか……」


いじらしさを装う為に声を震わせ、色白の頬を薄く赤らめる。

常日頃から月影の女達のなまめかしい媚態(びたい)に慣らされている焔に対しては、下手にしなを作るよりもこの方が適当だろう。


こうした浅ましい()()()()の真似事も、怜子に再び(まみ)える為と思えば耐えられた。


「ああ、泣く事は無いではないか。浴衣の一枚くらい、お安い御用だ。対の月影であるお前の頼みならば、どんな事でも叶えてやる」


困惑と庇護欲の混じり合った苦笑が焔の顔に浮かぶ。


どんな事でもと仰るのなら、わたしを自由にしてくださいませ―――喉元にこみ上げた抗言をぐっと飲み込み、無邪気な少女らしい明るい笑みを作る。


「本当ですか?まあ、嬉しい!」


「それで、どの柄が欲しいんだ」


広告にはこの夏の新作として、十ばかりの反物の柄が出ていた。


「この、『月見草の宵』を」


優しく黄みがかった紺色の地に、清らかな白と愛らしい薄紅の月見草の総模様。

月光の淡い宵を思わせるこの浴衣が、少しでも美夜の姿を夜に溶け込ませてくれないかと願っての事であった。


浴衣は早速、美夜の丈に合わせて呉服屋で誂えさせる事が決まった。

安堵で胸を撫で下ろす美夜に対し、しかしなあと焔は口をへの字に曲げる。


「華暁の絵なら、うちの珠緒も好きだがな。どうも私はこいつの描く女が気に食わん。顔つきが軟弱で、精気に欠ける」


広告の片隅に描かれた華暁の絵を、焔は尖った指先で弾いた。


団扇を手にした涼しげな浴衣掛けの娘は、相も変わらず物言いたげな流し目をこちらに向けて微笑む。

(たお)やかな撫で肩と清らかにも優美な眼差しを持つ美人画で世に知られるだけあり、華暁の描く女性達は「華暁美人」と呼ばれて親しまれている。


言い知れぬ高貴さをも宿したその面影は、どこか怜子に似ている気がした。




「さあ、支度が済みまして御座います」


いよいよ花火が打ち上げられる宵、志津が着付けてくれた浴衣姿の自分を、美夜は姿見越しにまじまじと眺めた。

浴衣に合わせ、髪は顔の左右に少しの(おく)れ毛を残して結い上げる。


お文庫結びにした緋色の帯は、同じく呉服屋に仕立てさせた品。

勿論、帯の色や結び方も(あらかじ)め怜子には伝えてあった。


(のり)のきいた浴衣の布地が、緊張で張り詰めた肌には硬く擦れる。


「変ではないかしら」


ややもすれば(はや)りそうになる気持ちを抑えたくて、美夜はそう志津に問うた。


「お似合いでいらっしゃいますよ。とても」


そう言って志津は目元を(ほころ)ばせる。


「準備は済んだのか。早く出なければ、花火が上がってしまうぞ」


()いた様子で足音を鳴らしてやって来た焔も、美夜の浴衣姿にほうと声を上げた。


「愛らしいではないか。お前は色が白いから、紺の色合いがよく映る。こうして見ると、華暁の浴衣も捨てたものではないな」


有頂天に腕を組む焔に合わせて愛想笑いを浮かべつつ、美夜はじっと彼女を見上げた。


別邸で過ごしたのは一月余りの筈だが、蔵の中に閉じ込められていた十五年間にも比すべき苦痛を強いられてきた。

月影として意思を踏み(にじ)られ、自我を無視され続ける日々。


けれど、それも美夜自身の手でお(しま)いにしてみせる。


今宵、自分はこの女性(ひと)の元から逃げるのだ。

奪われた自由をこの手に取り戻す為―――大切な方に、もう一度()い見る為。


美夜が百幸美夜として生きる為に。


怖気(おぞけ)はいつの間にか消え失せていた。


「戸締りはきちんとしておけよ、志津。私の留守中に家を空けるのに、不手際があってはならんぞ」


「承知しております、御館様」


焔と美夜が花火見物に出掛ける間、普段は働き詰めの志津も主人から束の間の休息を与えられた。

この機会に、海神ホテルにいる珠緒と久々に会ってきても良いと言うのである。


志津が朝からそわそわと、夕べを待ち切れない様子でいたのを美夜も知っている。


「今晩は蒸しますから、御館様も美夜様も、お戻りになればすぐに汗を流せるよう湯浴みの御用意を致しましょう」


こんな時にも自身の務めを忘れぬ志津の殊勝な言葉に、美夜は少しの良心の呵責を(おぼ)えた。

逃亡が成功すればこの屋敷には二度と戻らず、志津と顔を合わせる事も無くなる。


けれど、(さい)は投げられた。

もう後に退く事は許されないのだ。


「では、出掛けるとするか」


そう振り向いた焔へ、美夜は小さくも確かに頷いた。


日暮れた空には雲一つ無く、花火には似つかわしい晴れやかさであった。




孤月ヶ浜の往来は花火見物にやって来た大勢の避暑客で混雑しており、美夜達は人混みに揉まれながら進まなければならなかった。


道の両脇にはこの盛況を幸いと、数え切れないほどの出店が立ち並ぶ。


焼きとうもろこしや綿菓子のにおいが混ざり合った生ぬるい夜風。

軒先に下げられたアセチレン灯の眩さと熱気。

そして、肩と肩とが触れ合いそうなまでに密集した人々の賑わいも、非日常の夜そのものであった。


美夜は浅葱(あさぎ)色の手拭い越しに、ちらと手前の焔を見やる。

手拭いを広げて頭に載せ、顔を覆う様に左右を垂らしたこの被り方も、焔は単なる埃よけの為と思い込んでいるらしい。


計画は順調に滑り出したかの様に見えた。


「人があまりに多いから、はぐれるといけない」


焔はそう言って美夜の右手首を掴み、引き()らんばかりに先へ先へと行ってしまう。

むせ返りそうな人いきれの中、重なった皮膚と皮膚が汗で湿り気を帯びる。


美夜の手を片時も離そうとしない焔は、恋人の手を握るというより、看守が虜囚を連行する様な強引さであった。

これでは、時が来ても逃げられるかどうか怪しい。


「どちらへ向かっていらっしゃるんです?」


雑踏の喧噪(けんそう)に掻き消されまいと、美夜は声を張る。

生い茂る夏草を払いのける如く人混みを押し分けつつ、焔もそれに負けじと大声を上げる。


「ここから進んだ小高い丘の上に神社がある。浜辺に出ても良いのだが、この人混みだからな」


日輪として何事においても優遇されてきた為か、焔はそうした煩雑(はんざつ)な事の一切を嫌う。


その神社は、この孤月ヶ浜の海に散った月影の姫君と許婿(いいなずけ)とを人神として(まつ)った、鎮魂の為の歴史ある場所だという。

今宵の花火大会も、元々は哀れな死を遂げた対の日月の御霊(みたま)を慰めんとする起源を持つものであった。


まずい、と美夜は下唇を噛む。


怜子からは事前に、彼女の待つ駅への行き方を示した地図を渡されている。

小さく折り畳まれたそれは二人で写した写真と共に、美夜の懐へ丁重に納められていた。


焔や志津の目を盗んで何度も見返した地図は、すぐさま頭の中に空で描ける。

それによれば孤月ヶ浜駅と神社とは、丁度正反対の方角に位置している。


こうしている間にも、怜子との距離は遠ざかるばかりだ。


人だかりに紛れてやって来る予定の嘉世子の姿がなかなか見えない事も、美夜の焦りをかき立てた。

幾度も後ろを振り返っては、じれったさで鼓動が不規則に早まった。


あまりの人の多さ(ゆえ)に、美夜をなかなか見つけられないのだろうか?


仮に嘉世子が今すぐ来てくれたとしても、かように手を拘束されていては、隙を突いて逃げ出す事も叶わない。


また、街の中心となる大通りから外れつつある事もあり、人影も徐々に数を減らし始める。

二人きりになれば、手品の様に入れ替わるという器用な芸当も、とてもではないが為し得ない。


今夜の潮合いをふいにしてしまえば、焔から逃れる機会は二度と巡ってこないだろう。

こんな時こそしっかりと物事を見定めなければならないのに、頭の中は次第に冷静さを失っていく。


気味の悪い冷や汗が、真新しい浴衣を肌に張り付かせる。

美夜は知らず知らずの内に顔を伏せ、八の字にたゆたう足ばかりを見ていた。


その刹那であった。


稲妻にも似た閃光が足下を照らしたかと思うと、それに()いで身を震わせるばかりの轟音が鼓膜を貫く。

何事かと顔を上げた美夜の視界に飛び込んできたのは、まさしく孤月ヶ浜の夜に咲ける(はな)の乱舞であった。


たおやかな芙蓉を思わせる精妙なものから、大輪の菊のきらびやかさを誇るものまで―――色彩や大きさもとりどりな花火が一斉に夜空で開き、散っていく様は、目もくらむばかりの壮麗さである。


これを百花繚乱と呼ばずして、何と呼ぶのだろう。

その美々しさに、たちまち人々の間から(どよ)めきが巻き起こる。


「やあ、上がったぞ!」


「お母ちゃん、花火花火!」


「ずいぶん美しいものねえ。あの花火の一つを取っておいて、帯留めにする事はできないものかしら」


道行く誰もが足を止め、夏の美しさの集大成たる夜空を仰がずにはいられない。

畏日の君とて、それは例外では無かった。


「今年はいつにも増して見事だな」


嘆美の息をついた焔の手はわずかに緩み、美夜の腕は彼女から()き放たれた。


それに間髪を入れずして、美夜の肩を音も無く性急に叩いた手があった。

反射的に振り返ると、いつの間にか背後には待ちわびていた女性が立っている。


(嘉世子さん)


唇の動きだけでそう呼べば、浴衣の柄から帯の結び方まで何もかも美夜と揃いにした彼女は、ぱっちりした目の中で頷く。

嘉世子は美夜から手拭いを受け取って顔を隠すや、鮮やかなばかりの素早さで立ち位置を入れ替えた。


その時、迷子になるまいとする子供の様に、焔の腕が後ろに伸ばされて美夜の手を探し求める。

嘉世子が素知らぬ風に夜目にも真白い手首を差し出せば、焔はそれを引っ掴んで何事も無く大股に歩き始める。


周囲の群衆も、再び動き出していた。


(あんたは早う、怜子さんとこ行き)


そう言いでもするかの様に、嘉世子は去り際に元来た道の方を顎で示した。


美夜は頷くや否や、二人を振り返る事もなく駆け出す。

少し進んだところで、またもや見知った顔に出会った。


「ああ、どうやら上手くいったらしいな」


「秀治郎さん」


このくらい離れれば焔にも聞こえまいと、美夜はようやく声を出して彼を呼べた。

父の背中におぶわれた、金魚柄の浴衣を着た秀子も顔を出す。


「わあ、美夜お姉ちゃん!」


大人達の緊迫をよそに、この小さい女の子は遊び相手の美夜と久しぶりに会えた事を無邪気に喜んでいた。


「秀子の奴、どうしても着いてくるって聞かなくてな。仕方なく連れて来ちまった」


長くは騙せないだろうから、なるべく早く逃げろと秋元は念を押す。


「秀治郎さんも嘉世子さんも、私の為にありがとう」


「俺達がしてやれるのはここまでだ。後は怜子さんと二人で、何としてもあの侯爵に捕まらんよう逃げ切ってくれ。……健闘を祈ってる」


そう言い残し、秋元は美夜の身代わりとなった妻の後を追い掛ける。


美夜はまた新たに、怜子の待つ場所に繋がる一歩を踏み出した。




夜空に弾けた紅の花火が、窓辺でため息をつく珠緒の片頬にもその残光を咲かせる。


(……花火)


バルコニーへと出れば、月読命(つくよみのみこと)御手(おんて)づから作られた万花の園と見まがうばかりに、天上にはありとあらゆる光が燦爛(さんらん)と満ち満ちていた。


また新たな花火が空に()ぜては、その光彩に遅れて鈍い響きが産声を上げる。

夜の隅々までもを震わすその音は、別邸で夏を過ごした幼い日の一場面をも珠緒の中に呼び起こした。


姉と志津に連れられ、珠緒は小さな足で石段を登って丘の上の神社までこの花火を見に行ったものである。


「どうだ、迫力があるだろう。珠緒」


光華(こうか)の波を真正面に浴びつつ、姉は喜々として明暗の入り交じる空を見上げる。


けれども、珠緒は次から次と耳をつんざく轟音の数々に怯えて、とてもその光景を目に入れる余裕は無かった。

花火の音も幼い耳には大砲か(いかずち)の如く、それがひゅうっと打ち上がるのも鏑矢(かぶらや)が空気を切り裂く様に聞こえて怖かった。


「もう帰りましょうよ、姉上」


涙ながらに小声で訴えれど、それさえも花火の音に掻き消されて姉の耳には届かない。

蚊取り線香の煙を団扇でなびかせていた志津がその手を止めたかと思うと、珠緒の耳を両側からそっと覆った。


「こうすれば、怖くは御座いませんでしょう」


志津の(かそけ)し囁きも、花火の轟音も、彼女の掌を通して自鳴琴(オルゴール)の如く柔らかく溶けていく。


そして、珠緒の瞳には満天の花々が(はなびら)の一つ一つも鮮烈に映る。

幾百の火矢が降り注ぐかとも思われた花火も、こうして見れば夏の夜空に織り上げられた綾錦の至美を誇る。


「きれいねえ、お志津」


「本当に」


こう言いつつ―――志津は夜空の華よりも、それに心躍らせる珠緒の方を好ましそうに眺めていた。

あの頃は花火の方に目を取られがちであったが、今となっては志津の微笑みの優しさを、小さくも確かな線香花火の(またた)きの様に思い出す。


誰か大切な人と共に見上げるからこそ、花火はその色をより照々(しょうしょう)と夜に咲く。


(怜様とこの花火を見られたら、どんなに素晴らしいかしら)


そう思えば居ても立っても居られず、珠緒はすぐさま怜子の部屋へと向かう。

ノックをしても返事が無いのはいつもの事だから、珠緒はさして不審にも思わずにドアを開けた。


けれども―――(もぬけ)の殻と化した室内の有様に、珠緒は言葉も無く立ち尽くす。


怜子一人がいなくなっているのならば、散歩にでも出たのかと飲み込めただろう。

しかし、クローゼットの洋服からドレッサーの口紅に至るまで、怜子の痕跡は跡形も無く消え去っていた。


孤月ヶ浜で怜子と過ごした日々も、全ては逃げ水の様な幻であったのかと珠緒は我を疑った。


けれど、(うつ)ろたる部屋の中に唯一残っていた、ライティングデスクの上の封筒が彼女の存在を物語る。

苦悶で吐き出しそうになりながら、珠緒はその手紙を開く。




野々宮珠緒様


このやうな形であなたを置いて姿を消す事を、どふかお許しください。

あなたに非は有らずと、私は誓つて申し上げられます。

それでは、ごきげんやう。


清小路怜子




手紙を胸に抱いたまま、珠緒は部屋を飛び出した。


どこへ行けば良いか分からずとも、駆け出さずにはいられない。

今は体裁も格好も、何もかも気にしてはいられなかった。


すれ違うホテルの宿泊客達は、平静さを失った娘の乱心振りに何事かと振り返る。


怜様が、あたくしを置いて雲隠れした―――その残酷な事実ばかりが、悪夢の様に頭の中を往来する。

珠緒にとっては天から太陽がその姿を消し、世界が闇に覆い尽くされたにも等しき凶事であった。


あの方は自分を見限り、行って仕舞われた。


何故、そして何処(どこ)へ―――


渦巻く疑惑のせいで前方へ注意を払えずにいた珠緒は、不意に曲がり角から現われた人影に正面からぶつかりかけ、危うくつんのめりそうになった。


「まあ、御免遊ばせ!」


珠緒は羞恥から相手の顔も碌々(ろくろく)見られず、深々と頭を下げる。

その上から少しも腹立ちを感じさせぬ、余裕ある婦人の声が降ってくる。


「いいえ、お気になさらず……あら」


聞き覚えのある声に、珠緒ははっと(おもて)を上げてその人と相対した。

厳めしい軍服の代わりに柳色の()の着物を身につけてはいるものの、その佇まいは良家の貴婦人にして日輪の風格。


「珠緒さんではありませんか。偶然ですね、この孤月ヶ浜でお会いするとは」


理知的な銀縁眼鏡の奥の目を細め、彼女―――永盛ながもり功子(いさこ)は旧友の妹へ、丁寧に挨拶の口上を述べる。


「功子様、ですの?ほんとうに……」


珠緒は姉の焔から、(やまい)を患った彼女の療養の為に、別邸の一室へ住まわせていると聞かされていたのだ。

その彼女がどうしてこのホテルにいるのだろう。


「わあ、珠緒さん!お久しぶりねえ!」


功子の隣に寄り添う、軽やかな洋装の娘が叫ぶ様にこう言って珠緒の両手をぶんぶんと揺さぶる。

功子より四歳年少の二十歳で、彼女とは幼なじみにして許婚(いいなずけ)の間柄でもあるこの月影の令嬢は、名を彌生(やよい)と云う。


底無しの快活さや満開の桜の如き笑顔など、その名の通り花野を恵風が吹き渡る春を思わせる。


「おやめなさい、彌生。珠緒さんが困っておられるでしょう」


婚約者のお(きゃん)振りに、功子は眉を(ひそ)めてたしなめる。

けれども、彌生のお転婆振りは珠緒にとっていつもの事であった。


むしろ、珠緒はこの二人の健康そのものの様子にあ然とした。


特に、功子の見舞いにやってきた彌生が体調を崩したと姉に聞かされ、華族學院時代の上級生にあたる彌生の為にも、珠緒は怜子の伝手(つて)で医師を紹介しさえしたのだ。

だが、当の彼女は病の気なぞ微塵も感じさせぬふくよかな頬に、元気溌剌(はつらつ)とえくぼを浮かべる。


「二人とも、お体は」


珠緒はやっとの思いでそれだけを言い得た。


「お陰様で、私も彌生も(つつが)なく過ごしておりますよ。時に、焔は息災ですか。しばらく任務で北の方へ(おもむ)いていた事もあって、かなり無沙汰をしてしまったものですから」


「あたしも、焔様には春のお花見で功子とご挨拶をしたきりだもの。野々宮様では孤月ヶ浜に別荘がおありでしょう?そちらにいらっしゃるのなら、是非伺いたいわ」


もう何が何やら理解が追いつかず、珠緒の頭の中は真っ白になる。

功子が任務を切り上げたのを機に、彼女は彌生と共にこのホテルへ避暑にやって来たとの事だった。


「近い内に彌生と挨拶に参りますから、焔にも(よろ)しくお伝え下さい」


そう懇切丁寧に(いとま)を告げる功子は、とても白を切っている様には見えなかった。


「ねえ功子、レストランまで手を繋いでいきましょうよ」


「嫌ですよ。公衆の面前ではしたない」


功子はそう言いつつも、彌生に手を取られてはにかんだ様に微笑み、決して放そうとはしない。


睦まじい許婚同士を、珠緒は呆気に取られて見送った。

だが、今は怜子の後を追う事が最優先だ。


観音開きの硝子扉の玄関をドアマンの案内も待たずにすり抜け、珠緒は石畳の階段を小走りに駆け下りようとした。


御姫様(おひいさま)


薄暗い階段の下からそう彼女を呼んだ声を、珠緒は聞き間違いではないかと思った。

けれども―――どんなに繊麗(せんれい)な唄よりも珠緒に安らぎを与えてくれるこの声音を持つのは、この世に一人だけである。


「……お志津」


「お久しゅう御座います、御姫様」


(まど)かな微笑を浮かべた細面も、見慣れた桔梗色の着物をまとった長身も―――花火の輝きに照り映え、言葉を越えた懐かしさを伴って珠緒の胸に迫ってくる。

寄る辺ない日々の中で慰めとしていた面影を目にした刹那、珠緒の中に抑えられていた感情が一気に放たれた。


人目も(はばか)らずに階段を飛び降り、驚く志津に(すが)りついた。


「来てくれたのね、お志津。来てくれたのね!」


「はい。今夜は御館様にお許しを頂きまして。……一体、どう遊ばしたのですか」


「怜様が、怜様が……」


事の次第を志津に説明しようとしても、乱れて言葉に出来ない。


珠緒は仕方なしに、握りしめた手紙を志津へと突きつけた。


「これを怜子様が―――()しや」


志津は何かを察した如く、その三白眼を見開いた。


「お志津、心当たりがあるの?」


「きっと、怜子様はお一人ではありますまい。(いず)れにせよ、まだ遠くへ行かれていないでしょう」


手早く往来の人力車を呼び止めるや、志津は珠緒をその中へ乗せようとする。


「さあ、御姫様」


不穏な胸騒ぎを振り払う様に、珠緒は伸ばされた手を掴んだ。




焼けた鉄の(かせ)を嵌められとるみたいや、と嘉世子は侯爵の指が深く食い込む手首を見下ろす。

跡が残るのは、骨の軋みそうな鈍痛からも間違いは無いだろう。


こんな状況でさえ無かったら、「痛いやんか!」と文句の一つでも付けてやるところだ。

けれども、ここで声を出してしまえば全てが台無しになってしまうのだから―――嘉世子は波打つ前髪を押さえる様に、手拭いを目深(まぶか)に被る。


(月影の手の握り加減も知らへんのかいな、このお嬢さん)


この手に美夜はどれほど苦しめられたのだろう。

引っ込み思案な美夜の性格を抜きにしても、この妙齢の侯爵に逆らう事は許されなかったに違いない。

そう思えば第三者の嘉世子でも無性に腹が立つのに、何事においても耐え忍ぶ美夜の事だから、その辛さを自分の中に閉じ込めてしまうのだろう。


嘉世子の手を引いたまま、侯爵は葉擦れの音も秘め事の囁きの様に聞こえる林の間をずんずんと進んでいく。


「この先だ。神社があるのは」


焔は貴公子の如く端正な(かんばせ)を時折ちらと此方へ向けるものの、嘉世子の正体を見破った様子は無い。


何事も無く神社まで辿り着く事ができようとは、嘉世子自身も予想だにしなかった。

これも、物の姿をおぼろげに()かす薄闇のお陰だろう。


所々が苔に覆われた石段を登った先、朱塗りの鳥居を抜けた向こうに、古びたお社が鎮座まします。

境内には嘉世子達の他に人影とて無く、夜夜中(よるよなか)の神域という場所柄も相まって、清閑とした雰囲気が辺りに満ちている。


「ほら、此処ならばよく見える」


そう焔に言われるがまま元来た参道の方を振り返れば、小高い丘の上から遙かに孤月ヶ浜の海を一望し、凪いだ水面を綾錦の如く染め上げる花火を見晴るかす事ができる。

嘉世子も(しば)しは自身の置かれた立場を忘れて、その絶景を()でずにはいられなかった。


「な、素晴らしいだろう?この景色をお前にも見せたかった。私の対の月影である美夜に」


腰へと回された腕に、嘉世子は息を止めて歯を食い縛った。

その身を蛇の如くすり寄せつつ、焔は夢心地に酔い痴れた口調で「美夜」へと語りかける。


「この世の如何なる至宝とて、お前を手に入れる為なら惜しくは無い。お前を私一人の(つがい)にする為ならば―――」


熱を帯びた指が、手拭いに隠された嘉世子の首筋をなぞる。

不意に指先がそこに刻まれた一つの噛み跡を見いだし、燃え尽きた様に動きを止めた。


「お前は」


(まま)よ―――と嘉世子は手拭いを取り去り、(ひらめ)く夜空の下に自らの素顔を(さら)け出した。


額に掛かる巻き毛を振り払い、嘉世子は狼狽を隠せぬ女と正面切って向かい合った。

焔は不意打ちの矢に心臓を貫かれた如く口を開き、唇は微かに打ち震える様に見えた。


「お前は、あの時の……!」


「またお会いできて光栄ですわ、侯爵閣下。どないですやろ、月影の医者に騙された御気分は」


皮肉めいた口調になるのを、嘉世子自身抑えきれなかった。

月影に医者が務まるのか―――この女にそう言われた時、嘉世子は自身の中になだれ込んでくる怒りを必死に押し殺して笑みを作った。


(あんたなんかに、うちの(つむ)いできたものの何が分かるねん)


正体を明かしてしまった以上、気兼ねは不要だろう。


「最初から夫婦共々、私を(たばか)っていたのか。美夜を何処へやった!」


「とっくに逃げよったわ。あんたみたいな(ひと)に美夜ちゃん好きにさしてたまるかいな!」


食って掛からん勢いで怒りを露わにする侯爵に負けじと、嘉世子も声を荒立てる。

とんだじゃじゃ馬娘や、月影の分際で―――そう父から(うと)まれていただけあり、これしきで(ひる)む嘉世子では無かった。


「ようも美夜ちゃん虐めてくれたなあ、あない屋敷に閉じ込めたりして!」


「美夜は私にとって、この世でただ一人の対の月影だ。全ての決定権は対の日輪である私が持っている。私が完全な日輪となる為には、美夜の存在が不可欠なのだ」


焔は悪びれもせず、舌端火を吐く如く―――彼女の妄言で嘉世子は胸が悪くなりそうになる。


零落した商家の息子であった月影の母は、実家への融資の代償として父の妾にならざるを得なかった。

月影として生まれたその時から、母の人生は狂わされたも同然であった。


苦痛の生にもがき苦しみつつ、抗う事も出来ずにいた母の哀れな姿は、今でも嘉世子の目に焼き付いている。

息を引き取る間際、母が娘に(のこ)した言葉はどんなに(いた)ましい響きを帯びていた事だろう。


「お母ちゃんが月影に産んでしもうたばかりに、嘉世子にまでつらい思いさせる事になってしもうて、堪忍な」


月影である自らと娘の宿命を呪いつつ、無残に朽ち果てていった母。

母の様な死に方だけはしたくないという忌避の念は、嘉世子を自死にまで駆らせた。


美夜には、母の強いられた(むご)たらしい末路を辿らせてなるものか。

とても正気とは思われぬ侯爵の態度が、嘉世子の中の気持ちをはっきりと浮かび上がらせた。


「ふざけるんも大概にしいや!対の日輪だから何してもええなんて、そない阿呆な事あるかいな。美夜ちゃんはあんたの所有物やあらへんわ。日輪である以前に、あんたには人として大切なもんが欠けとるんやわ。そないあんたが完全な日輪になんて、なれる筈無いやろ」


嘉世子の言葉が焔の逆鱗に触れたのは、軍帽の下から覗くかっと燃え上がった双眸が示していた。


「この……!」


焔は嘉世子に詰め寄るや、磨き込まれたサーベルの柄へと手を掛ける。


とっさに目を閉じかけた時、茂みから何者かが飛び出して嘉世子の前に立ち塞がった。


「俺の女房に手出しはさせないからな」


広い背中に嘉世子を守る如く、秋元は一歩も退かぬ屈強さで宣言する。


「秀治郎さん」


その偉丈夫振りが、嘉世子にはどんなに頼もしかっただろう。


日輪の男女は互いに睨み合ったまま、一定の間合いを保っていた。


「……覚えていろよ」


吐き捨てる如く呟くと、侯爵は素早く身を翻し、足早に去っていった。


「おととい来やがれ」


石段を駆け下りる焔の後ろ姿を見下ろしつつ、秋元も忌々しげにそう口にする。


「必ず助けてくれると思うとったわ、秀治郎さんなら」


「当然だろう。嫁が危ない目に逢いそうなのに、黙って見てる旦那がどこにいるんだ」


嘉世子が無事で良かった、と秋元はほっと胸を撫で下ろす。


「入れ替えはお前の身を危険に晒してしまうかもしれないって、怜子さんも心配していたけど、お前はやるって聞かなかっただろう」


「だって、怜子さんと美夜ちゃん、昔のうちらを見ているみたいやもん。放っておけんわ」


二人の名が出た事で、夫婦の間には沁々(しみじみ)とした沈黙が流れた。


「……無事に逃げ切ってくれるとええねえ」


「ああ」


二人の平安を祈る嘉世子であったが、ある事をはっと思い出す。


「秀治郎さん、秀子はどないしてん?一緒と違うの」


「あの侯爵に何かされたらまずいと思って、茂みの中で待っている様に伝えておいたんだが」


秀子、と声を掛けても娘が出てくる気配は無かった。


生い茂る(やぶ)へと分け入る夫の後を、嘉世子も娘の名を呼びながら続いた。

すると驚いた事に、秀子は木の根方に寄りかかってすやすやと安心し切った寝息を立てていた。


「まあ、呆れたわ。のんきな子やねえ」


そうは言いつつも、嘉世子の胸は温かな愛おしさで満たされるのであった。


「帰ろう。《《俺達》》の家に」


「せやね」


穏やかで、小さな幸福の育つ場所へ。


「それにしても、秀子もずいぶん重たくなったもんだな」


「この子も大きなった云う事やろ。うちらが思うとる以上に子供は早よう成長するし、時間も流れるわ」


額に汗して娘を負ぶう夫を横目に、嘉世子はぽつりと呟く。


「秀治郎さんには、うちの名前の由来話してへんかったね。うちの嘉世子いう名前な、お母ちゃんが付けてくれてん。月影が苦しまない、()い世の中になって欲しいって。昔はそないな事不可能や思うとったけど……美夜ちゃんと怜子さん見とるとな、時代も変わっていく気ぃするねん」


秋元は無言で頷き、そっと妻の肩を抱いた。




足元が(くずお)れると共に、美夜の体は倒れ込む如く前のめりに地面へと投げ出された。

浴衣の裾や袂も砂埃にまみれ、転んだ拍子に突いた右の(てのひら)は擦りむけて血が滲んでいる。


何事かと足に目を遣れば、下駄の鼻緒はつま先の箇所でぶつりと切れていた。


(走れる様には出来ていないのだわ)


金蒔絵の施された黒漆塗りの下駄は、しずしずと(うつむ)いて歩く娘の為のもの。

自分の心を殺し、他者から命じられるがまま唯々諾々(いいだくだく)とその後に従うだけの―――


装飾の美しさとは相反して、その造りは丈夫とはほど遠かった。


座り込んだのも束の間、すっくと立ち上がった美夜は無傷の下駄も脱ぎ捨て、再び走り出す。

初めて怜子と出逢った冬の夜も、あかぎれにひび割れた足で凍てつく帝都の大路(おおじ)を駆け抜けた美夜であった。


生きて再び怜子に相見るまでは、どんな事があろうとも歩みを止める訳にはいかない。


駅へと急ぐ道中、自分を待つ方の面影をその胸に呼び起こしては、美夜の鼓動はいや増して早まるのであった。

もはや美夜の目には、夜空の大輪の百華をも映り込む余地は無かった。


ただ一つの太陽を求めて、月影の娘は夜の中をひた走る。


異国からの客人も多いという土地柄、孤月ヶ浜には西洋風の瀟洒(しょうしゃ)な建物がそこかしこにある。

孤月ヶ浜駅もそのご多分に漏れず、屋根の時計塔が目を引くハイカラな駅舎だ。


夜も深む頃、駅の周辺にはこれから旅客となるらしい人やその見送りの人々、汽車から降り立ったばかりの人の姿が見えた。


美夜は上がった息を整えつつ、人混みの中に目を走らせる。


汗ばんだ額を夜の潮風に冷やされ、脈打つ鼓動も少しずつ落ち着きを取り戻すが、それでも美夜は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。

もしも怜子を見つけられなかったら、美夜は一体どうすれば良いのだろう。


けれども、周囲の婦人と比較しても抜きん出ている丈高い体躯(たいく)、何よりその身から放たれる高貴と品格が、決して彼女の存在を雑踏の中に埋もれさせはしない。

まるで導かれる如く、街灯の下に人待ち顔で立つ思い人を美夜の目は容易に見つけ出した。


例え無明の闇の中であろうと、明々と際立つであろうその御姿―――それは生まれながらに光を宿す日輪そのものであった。

一日千秋の思いで待ち焦がれていた瞬間を前にして、視界が(にじ)んでいく。


「怜子さま」


陽よ消え(たも)うな、と美夜は彼女の名を呼ぶ。

感極まるあまり、叫声には遠く及ばぬ(かす)かな囁きであった。


しかし、断髪の頭を傾け、手首の内側にはめた腕時計を気を揉みつつ優雅な仕草で確認しようとしていた怜子は、はっとその顔を上げた。


二人の瞳は迷いもせずに互いの存在を捉える。

怜子の聡明と慈悲を宿す切れ長の目は、言い知れぬ思いにたちまち潤む。

深雪を溶かし、万物に恵みを与える愛日の眼差し。


冬の太陽の眼差しを、美夜は幾度夢に見た事か。

澄み切った冬の朝日を浴びる湖の如く、怜子の瞳はその清輝をあまねく帯びる。


あまりに真っ直ぐと自分を映すその水面(みなも)に、美夜は身を投げても構わないとさえ思った。


美夜が裸足で石畳を蹴って駆け出すのと、怜子のターコイズブルーのスカートが波の如く揺らいだのは同時であった。

一際(あで)やかな大輪の華が夜空に生まれた刹那―――(いつく)しみ深くも物狂おしい怜子の抱擁が美夜の全てを包み込んだ。


愛日の光を受くる月の如く、美夜の身には余す所なくその温もりが染み渡る。

美夜も今は無我夢中で怜子の(たお)やかな肩に頬を寄せ、打ち震える背中を抱き返す。


また怜子さまに()えたら何と言葉をお掛けしようかという思案も消し飛んでしまい、唇を伝うは想いの限りを込めた言霊(ことだま)


「お逢いしとう、ございました」


それに(こた)える様に、怜子の(かいな)は息も止まるばかりに美夜を抱き締める。


「離しはしなくてよ―――死んでも」


邂逅(かいこう)の余韻に浸りつつ、美夜はじっと怜子を見上げる。


その肖像を悲しき日々のよすがにしていた女性と現世(うつしよ)で再会できた事が未だに信じられず、まじまじとその(かんばせ)に眺め入った。

幽玄な品の良さを(かたど)った瓜実顔。

この方は初夏の一時を止めた写真よりも生き生きと清澄な表情を浮かべ、生身の姿で美夜の目の前にいるのだ。


すると、怜子の透き通る様な頬がぽっと紅を帯びる。


「そんなに見られたら落ち着かないわ、美夜」


怜子の言葉は美夜を咎めるでもなく、淑女としての慎み深い羞恥に柔らかく溶け、はにかむ如くその皓歯(こうし)を見せるのであった。


「そ、そうですよね。失礼いたしました、怜子さま」


美夜も照れくささに赤面し、二人は互いの瞳の中に自身の恥じらいの表情を見た。

そんな面はゆい思いも、怜子と分かち合えばどこかくすぐったい(よろこ)びを生むのだ。


「汽車が出てしまうから、急ぎましょう」


怜子は両手にそれぞれ、旅支度を詰めたトランクを(たずさ)えていた。

彼女に伴われるがまま駅の構内へ足を踏み入れると、プラットフォームには堂々たるくろがねの汽車が、今にも動き出しそうに停まっている。


東暁(とうきょう)行きの汽車は間も無く発車いたします。御乗車の方はお急ぎ下さい」


制帽を目深に被った車掌の呼び掛けに、ホームにいる人々は見送りの者達と慌ただしく別れの言葉を交わし、続々と汽車へ乗り込んでいく。


「これから、東暁へ戻るんですか?」


「先々の事は帝都に着いてから詳しく説明するわ。ひとまず、今は進まなければ」


行きましょう、と怜子は美夜の方を(かえり)みて、嫣然(えんぜん)と微笑む。

その(いざな)いに、美夜は誓う如く確固たる意志を持って頷いた。


例え三途の川の渡し船であろうとも、怜子のその微笑み一つで美夜は迷わず彼岸への行人になる事を決めただろう。

その先にどんな災禍(さいか)が待ち受けていようと構わない。


愛日の恵み深い光の一筋があれば、それで美夜は永世生きていかれるのだから。


ええ、参りましょう。怜子さま。

貴女とならば、地獄へだって。


慕わしき人と自身のこれからを一つにするべく、美夜は怜子と共に乗降口に爪先を掛けようとした。


「待ちなさいよ!」


そう後ろから二人の背を貫いたのは、美しい宝玉を力任せに叩き割る音に似た、玲瓏(れいろう)にして怒りをあらわにした怨声。

振り向けば、黒髪を振り乱し、切羽詰まった剣幕でやって来るのは誰であろう―――野々宮侯爵令妹にして怜子の婚約者、珠緒に相違なかった。


その傍らには彼女の腰元たる志津が、慎んで控えている。


つかつかと二人の元に歩み寄るや、珠緒は及び腰の美夜をためらい無く()めつける。

磨き上げられた石榴石(ガーネット)の如く、その瞳には混じり気の無い怒りが激しく底光りしていた。


「本当に、どこまでも忌々しい女」


自身への憎悪を包み隠そうともせぬ珠緒の恨み言に、美夜は呪詛を掛けられた様に臆せざるをえなかった。

だが、その怯えは珠緒の内なる敵意をさらに掻き立てたらしく、玉の肌が逆上の為に紅絹(もみ)の如く染められた。


「初めて見た時から虫唾の走る娘だと思っていましたわ……!いけしゃあしゃあと怜様にすり寄ろうとする身の程知らずな月影だと。あまつさえ、姑息なやり方であたくしから怜様を略奪しようとするなんて。どこまであたくしを愚弄すれば気が済むんですの!」


周囲からの好奇の目もお構いなしに、珠緒は美夜への恨みの一つ一つを並べ立てる。

たしなみ深い大和撫子として振舞っていた婚約者の変わり様に、怜子も言葉を奪われる。


しかし、恋慕に狂った清姫の如く、珠緒に我を忘れさせるばかりの悋気(りんき)を誰が(しず)められようか。


「あのね、珠緒さん」


ばつが悪そうに視線を彷徨わせていた怜子は思い切って口を開こうとしたものの、珠緒の鋭い声にそれも遮られた。


「怜様も、見下げ果てましたわ!こんな卑しい月影に惑わされた挙げ句、置き手紙一つ残してあたくしをお捨てになりますの?」


怜子に向けられる珠緒の眼差しには、美夜へぶつけられるそれとはまた異なる怒りが込められていた。

だが、その瞳や声音は次第に涙を帯び、ともすると切なげにわななくのであった。


「あたくし、怜様の日輪としての輝きに見合う月影になろうと(つと)めて参りましたわ。初めてお見掛けした時から、ずっと。怜様だけが、あたくしを幸福にして下さる対の日輪様だと信じておりましたのに……」


そして、救いを求める如く怜子のブラウスの袖に取り付いた。


「お願いですから、行かないで下さいまし。怜様」


涙を溜めた宝玉の目で怜子を見上げ、一途に彼女へ哀願する珠緒の姿―――

それは美夜の胸をも痛めさせるのに十分なひた向きさであった。


珠緒の怜子に対する気持ちは打算的なものではなく、彼女自身どこまでも純粋に怜子を想い続けてきたのだろう。


怜子にとって、精巧な人形の様に細やかな手を振り払う事は容易(たやす)いに違いない。

それができないのは自身に寄せられる珠緒の慕情が(まこと)であると、怜子も痛いほど分かっているからだ。


二人から顔を背ければ、脇に立つ志津と目が合った。


志津はあくまで使用人として立場を(わきま)え、説得するべく口を挟んだり()いて美夜達を引き留める真似はしなかった。

けれど、その静かな目が美夜に向かって問うている気がする。


本当によろしいのですか、と。


手の甲で泣き濡れた目元を子供の様に拭い、珠緒は再び美夜に向き直る。


「お前ごときが、怜様と結ばれる資格があるとでも思っていますの?傲慢も(はなは)だしいわ。怜様の元から()く失せなさいよ!」


何をも持たない自分の様な月影は、光輝燦爛(こうきさんらん)たる日輪の怜子には釣り合わない。

彼女の隣を歩くのを夢見る事さえ、あまりに過ぎた思い上がり。


そうした諫言(かんげん)は、数え切れないくらい聞かされていた筈だ。

何より美夜自身が、事あるごとに自らを(いまし)めてきた。


以前の美夜であれば珠緒が語勢を強めるやすぐに下を向き、どれだけ罵声を浴びせられても、黙って服従するばかりだったろう。

自分ではない他の光によって照らされ、(かげ)る月の如く。


けれども―――美夜は顔を(うつむ)ける事もせず、真正面から珠緒に(いど)みかかった。


「絶対にできません。あなたと同じく、わたしも怜子さまを誰よりもお慕いしております」


美夜の口から発せられた言葉の毅然たる響きに、珠緒のみならず、怜子や志津も息を呑んだ。


「他の事なら、やめろと言われれば喜んで従いましょう。ですが、怜子さまをお慕いする事だけは何があろうとやめられはしません。自分の意志を曲げるならば―――わたしは死なねばならないでしょう」


美夜の真に迫った言挙(ことあ)げに、怜子は何か思いを巡らせている様子だった。


ややあって、珠緒さんと穏やかにも思慮深い口調で彼女に語りかける。


「先程、私こそがあなたを幸福にできる唯一の日輪であると(おっしゃ)ったわね。でもね、珠緒さん。他者を生け贄に幸福を得る事、()してやそれに気づかずにいる事は、何よりの不幸ではないかしら。私にはそう思えてならないの。美夜が犠牲になるのならば、尚更だわ」


怜子の慈悲に満ち満ちた目の色に、美夜は心を打たれないではいられなかった。

しかし、自身の輝かしい結婚の暗部について知る由も無い珠緒は、困惑で柳眉(りゅうび)を八の字にするばかりだ。


「でもっ……!怜様がいらっしゃらなければ、あたくしどう幸福になればよろしいのか分かりませんわ」


「珠緒さん自身の意志と力で幸福になれる時が、きっと来てよ。私には、それが少しでも早い事を願うしかできないけれど」


「あたくし自身の、意志と力で―――?」


珠緒の玉眼がはたと見開かれ、怜子に追い(すが)らんと彼女の袖を掴んでいた手が、ゆっくりと下ろされていく。


その時、発車を告げるベルはけたたましく鳴り響いた。


もう、行かねばならない―――美夜は茫然自失と立ち尽くす珠緒と、その横の志津へと深く頭を下げる。

怜子もクロッシェ帽を下ろしてそれに(なら)い、断髪が誠実な表情を(いろど)る如く揺れた。


二人は今度こそ、迷いの無い足取りで汽車へと乗り込んだ。

駅員の手で車両の扉は一つ一つ閉じられていく。


やがて汽笛の音高い叫びと共に、機関車はその身を(きし)ませつつ走り出す。

その夜を共に生きる、日輪と月影を乗せて。




速度を少しずつ増して汽車が去りゆくのを、珠緒は身じろぎもせずに見届けた。

汽車は煙を吐きつつ、やがて花火と共に夏の夜の中に消えていった。


「……御姫様」


志津の手が慰めの柔らかさを持って、珠緒の肩に触れる。

けれど、珠緒は汽車の過ぎ去った夜の空白をただ眺めるばかりであった。


「止められなかったのよ」


この命に掛けても、珠緒はあの二人を行かせる訳にはいかなかった。


怜子のなよらかな足首にすがりついてでも、対の日輪たる彼女を自身の元に繋ぎ止めておかなければならなかった。

今ここで怜様を行かせてしまえば、決してあたくしの元へ戻ってきては下さらないと、月影の本能が告げていた。


なのに―――珠緒は、瑞雲(ずいうん)の如きあのシフォンのブラウスの袖を手放してしまったのだ。

その理由を、珠緒が自分自身に問いたかった。


何より()せないのは、あの美夜の変わり様だ。


怜子を慕う事をやめるくらいならば、死を選ぶ―――そう決然と言い放った月影の娘の名伏しがたい迫力。

それまで叢雲(むらくも)の奥に隠れていた月が、にわかにその(まばゆ)い真の姿を見せた様であった。


珠緒が気圧(けお)されずにはいられなかった、あの迫力が強さで無いのならば何だと言うのか。

美夜を一目見て、珠緒は彼女を儚げな容姿に(たが)わぬ、(もろ)く弱い心の持ち主だとばかり思い込んでいた。


一体、あの娘にあれほどまでの強さを与えたのは何なのだろう―――


そんな疑問に珠緒が堂々巡りをしている最中(さなか)、凄まじい勢いでプラットフォームに躍り込んだ人影があった。

まるで燃え盛る炎を巻き上げた旋風(つむじかぜ)の如く、その猛烈さは空を切り裂かんばかりである。


何事かと志津と共にそちらを見やれば―――激しく息せき切って肩を上下させている軍服姿の女性は、他ならぬ姉の焔ではないか。

焔は汽車が走り去った方を憎々しげに睨みつけ、ぎりりと歯を食い縛る。


「クソッ!」


帝國軍人たるもの、その風采にも(きず)があってはならないと常日頃から手入れを欠かさぬ軍帽を脱ぎ捨て、腹立ちのままに地面へと叩きつけた。

初めて目にする姉の異様な行動に、珠緒は鼻白まないではいられなかった。


けれども、その背後に歩を進め、おずおずと声を掛ける。


「あの……姉上」


膝に手を突き、切れ切れになった呼吸を整えようとしていた焔は、ゆっくりとこちらを振り返る。


だが、血を分けた妹の存在を認め得ても、その(かんばせ)に珠緒の好きな親しみ深い笑みが現われる事は無い。

それどころか、眉根を寄せた(いびつ)な表情からは珠緒に対する厭忌(えんき)の情が見る見るうちに溢れ出る。


焔は珠緒の緋縮緬(ひぢりめん)の首輪を荒らかに掴むや、その首ごとねじ切らんばかりに引き上げた。


「この、大馬鹿娘がっ!」


大馬鹿娘―――侯爵家の末の姫君として乳母日傘(おんばひがさ)に育てられた珠緒は、そんな乱暴な(そし)りを面と向かって浴びせられるどころか、十八年生きてきて耳にした事さえ無かった。

かてて加えて、激昂するまま珠緒を罵倒したのは、誰よりも彼女を可愛がってくれた姉その人ではないか。


首を締め上げられる苦痛で、息が出来なくなりそうになる。


「……っ、は……」


珠緒の意識が遠のきかけた所で、ようやく姉は()ぎ払う如く首輪から手を離した。


予期せぬ出来事に遭遇すると、人間とはかえって唖然としてしまうらしい。

この方は、本当にあたくしの姉上なのかしら―――珠緒は咳き込みつつ(ほう)けた如く、仁王立ちする女を畏怖(いふ)の思いで仰ぎ見る。


珠緒の混迷(こんめい)もお構いなしに、焔は怒髪天を衝く勢いで尚も続ける。


「何故、どんな手を使ってでも奴らを止めなかった?本当にお前は見目ばかり良くて、頭の空っぽな所まで母上にそっくりだな。その綺麗な顔が付いているのは、母上の様に日輪を(たら)し込む為だろうが!」


(やいば)の切っ先の様に、姉の残酷な毒言(どくげん)が珠緒の心臓に突き刺さる。

珠緒だけならまだしも、身罷(みまか)られた母上の事まで侮辱するなんて。


「全く、こんな馬鹿な妹の為に散々骨を折ってやったのが全部水の泡だ。誰のお陰で清小路家に嫁げる事になったと思っている。お前の様な愚妹(ぐまい)と引き換えに、ようやく美夜を手に入れる事ができたというのに」


「……引き換えですって?あたくしと、あの月影の娘を?」


珠緒は耳を疑い、思わずそう問うた。


自身の意図せぬ失言に、姉はまずいと口を(つぐ)む。

けれども、もう何もかもどうでも良いとばかり、すぐに開き直った嘲笑をあらわにする。


「ああ、そうだ。お前を娘の妻にする事を条件に、伯爵は美夜を私に引き渡した。ようやく私の手駒として、お前を有益に使える日が来たというのに。蓋を開けてみれば、自分の妹がこんな役立たずだったとはな」


お優しかった姉上が、魔に魅入られた如く(にわか)に変わってしまわれたと―――珠緒はそう思い込んでいた。

けれども、この非道な暴虐さこそ姉の本性であったのだ。


二年前に父が突然黄泉の国へと旅立たれた時、庇護者である彼を(うしな)った珠緒は途方に暮れていた。

そんな時にも、焔は野々宮家の新たな当主たる日輪として、姉としての強さで珠緒をいたわった。


父上に代わり、私が責任を持って珠緒を日の本で一番幸福な花嫁として送り出してやる。

だから、何一つ案ずる事は無いと。


姉の気丈夫なその言葉は、心細さの中にいた珠緒をどんなに勇気づけてくれただろう。

だが、彼女の目にはただ一人の妹でさえも、自身の為の道具として他に映ってはいなかったのだ。


怜子が言っていた、他者を犠牲に幸福を得るとは―――正にこの事だったのだ。

あの美夜が人柱となる事により、愛する人の元に嫁ぐという珠緒の宿願は成就(じょうじゅ)されようとしていた。


当の珠緒はそんな事も露知らず、ただただ怜子と結ばれる幸福で(えつ)に入っていたのだ。


先程から、美夜に対する憎しみは珠緒の中で少しずつ影を潜め、今では彼女に同情さえ禁じ得なかった。

犠牲という言葉の無慈悲な響きが、今となって重々しい爪痕を残す。


何故、姉はその様な事をしたのか―――問いたい事は山ほどあったが、それをも上回る感情が珠緒の中から湧き上がる。


姉に対する初めての怒りが、彼女への尊敬や憧れを(またた)く間に塗り替えていった。

そこに如何なる理由があろうとも、姉は自分が怜子を想う気持ちに目を付け、(よこしま)に利用したのだ。

珠緒には怜子ただ一人に捧げた初恋を踏みにじられ、(おとし)められたも同然であった。


「ずっと、あたくしを騙していらっしゃいましたのね。姉上、貴女は何という事を……!今まで一度でも、誰かを愛した事はございませんの?」


(やかま)しい。無能の分際で騒ぎ立ておって。器量よしのお前を連れて歩くのが好きだったが、役にも立たないのならばこの顔も不要だな。使い物にならなくしてやろうか」


姉は片手で珠緒の顔を鷲づかみにするや、柔肌を(えぐ)る様に尖った爪の先端を食い込ませる。


「痛っ……!」


(はがね)のかぎ爪で顔面を引き剥がされるかとも思われる、激しい痛みが珠緒を襲う。

苦しさからその手を取り払おうとしたが、姉の鍛え抜かれた腕は珠緒のやわな抵抗にはびくともしない。


あたくしの顔が―――珠緒にとってこの玉の(かんばせ)は、単なる自尊の道具以上の大切な意味を持つものであった。

この顔こそ、思い出も朧気(おぼろげ)なまま幼くして母にあの世へ旅立たれた珠緒には彼女を偲ぶ何よりの形見なのだ。


それが壊されようという時にも手向かい一つできない自分が情けなく、涙が込み上げてくる。


すると、姉の手は(にわか)に珠緒の顔を離れ、荒れ狂う炎が静まった如く視界が開けた。

眼前に広がる信じがたい光景に、珠緒は思わず目をしばたかせる。


それまで一言だに口を挟まず、隅から姉妹の様子を静観していた志津が、焔の手首をしっかと掴んで頭上に掲げていた。


「御館様と云えど、御姫様への狼藉(ろうぜき)を見過ごす訳には参りません」


主君である焔には常に従順で、否やの言葉も(つい)ぞ口にしなかったあの志津が―――初めて目に見える形で反旗を翻したのだ。


「……何時(いつ)から私に指図できるほど偉くなった?志津」


姉が低い声でそう呟くまでには、(わず)かな間があった。


彼女の双眸(そうぼう)に燃えたぎる炎が、寸刻は確かに薄れた。

それのみを以てしても、姉が珠緒以上の吃驚(きっきょう)の念に駆られているのは明らかであった。


「罰せられるのでしたら、どうぞ(わたし)を」


志津はそう言って、自身の背に珠緒を(まも)る如く焔の前へと進み出る。


動揺を表に出すまいと、焔は凄まじい気迫のある眼差しで志津を睨み据えた。

だが、ともすると目を()かれそうになる日輪の威光ある眼力にも、志津の三白眼は揺らぐ事も伏せられる事も無く、一心に焔を見返すのである。


「貴様のそんな醜い(つら)、どうなろうと同じだ」


長い対峙(たいじ)の後で焔は吐き捨てる如くそう言い、回れ右と何処かへ立ち去った。

それまで危急そのものであった場の空気が一気に和らぎ、珠緒は気抜けして肩を下ろした。


志津はくるりと踵を返し、珠緒の顔を(あらた)める。


「幸い血も出ておりませんから、跡も残りますまい」


「ありがとう、お志津。姉上から庇ってくれて」


「御姫様の為でしたら妾の顔なぞ、どうという事は御座いません」


「駄目よ、そんなの!お志津は決して醜女(しこめ)などでは無いわ。人の美醜にうるさい、このあたくしが言うのよ」


怜子や焔の様に多くの人が認める麗人でこそないものの、志津の顔には彼女しか持ち得ぬ美しさがあると珠緒は固く信じていた。

貧乏臭いと姉が冷評する平らな額、奥まった三白眼やのっぺりとした鼻も、志津自身の慎ましさを表わす様にすっきりとしており、余計な感じがせず気持ちが良い。


志津は滅多に見せぬだけ、なおの事閑雅(かんが)にして床しい風情を感じさせる微笑を目元に小さく浮かべ、そっと珠緒の頭を撫でる。


「そうやって妾一人の為に一生懸命になってくださるのが、お可愛らしい」


だが、ややもすればその面差しには仄暗い影が落とされる。


「お許し下さいなどと過ぎた事を言えた妾では御座いません。ですが、御館様をすぐにお止めできなかった事、誠に不甲斐なく感じております。情けのう御座います。……御館様のああした御気性は、幼少のみぎりから存じ上げておりましたのに」


その志津の言葉で、珠緒の中にあった長年の謎が氷解した。


昔から事あるごとに、志津は顔や手足に傷を作っている事が多かった。

珠緒がそれについて尋ねれば、「お勝手口でつまずいてしまいまして」、「うっかり柱に頭を打ち付けたのです」と此方(こちら)を心配させない答えが返ってくる。


あの数え切れない傷の一つ一つが、全て姉の手で負わされたものだったのだ。


そう合点が行けば、姉の狼藉さえ自身の(とが)である如く、身を縮めて詫び入る志津が一層いたわしく感じられた。

彼女の内には珠緒の想像もつかないほど、悲壮な禁忌(きんき)さえ秘められているのではないか―――そう推察せずにはいられないほど。


「何を言うの!お志津は何も悪く無いわ。あたくしこそ、お志津が姉上から何をされているかも気付いてあげられなくて、どれほど鈍感だった事か―――姉上があんな方だったなんて、思いもしなかった」


珠緒の前では非の打ち所の無い姉を演じておきながら、裏では志津を(しいた)げ続けていた焔の二面性に身震いしそうになる。


「病後の保養の為に功子様を別邸へ住まわせていたというのも、姉上の嘘だったのでしょう。先程、海神ホテルで功子様と彌生様にお会いしたの。お二人とも元気そのもので、とても(わずら)っていらした様には見えなかったわ」


珠緒がためらいがちに言うと、志津は決まり悪げにうつ向いた。

志津の心(やま)しい表情は、姉からの命令であれど珠緒を偽った事に対する良心の呵責そのものであった。


「別邸にいたのは功子様達ではなく、美夜だったのね」


「……はい。妾が美夜様をお世話申し上げる様、御館様から仰せつかっておりました。御館様は、美夜様こそ御自身の対の月影である(ゆえ)、丁重に(ぐう)せよと」


「姉上が美夜に懸想(けそう)していたというの?昔、父上が母上を見初(みそ)められた様に」


自身の対の月影と出逢った日輪が、魂までも奪われた如くその月影を愛惜(あいせき)するという話は古くから残されている。

それが自身の姉の身に起ころうとは、珠緒にとって意外を超えた驚異であった。


だが、志津はゆっくりと首を横に振る。


「御館様が美夜様を御自分のものになさろうとしたのは、そうした純な恋情からでは御座いますまい。あの方が心から美夜様を鍾愛(しょうあい)されているとはとても見えぬのです。下にも置かぬもてなし振りでこそあったものの―――妾には、何か別の目的が御館様の中にあるのではないかと思えてなりません」


志津の奥底を見透す様な発言は、乳姉妹として長年焔と過ごしてきた所縁(ゆかり)が為せる業であろうか。


「その、目的と云うのは?」


「妾の様な尋常種なぞには、日輪たる御館様の御心の全てを汲み取る事はできぬと存じます。御館様の思し召しが如何なるものであろうと、妾はあの方の御下命を拝し、従うのみですが―――御姫様が傷つけられようとすれば、そんな事も忘失してしまいました」


珠緒は熱く高鳴る胸の導くまま、じっと志津を仰ぐ。

百依百順と姉に従うばかりであった志津が禁を破り、身を(てい)して珠緒を救ってくれた情景を、感慨深く噛みしめる。


「あたくしにとって、掛け替えのない存在よ。お志津は」


花火大会の夜も大詰めを迎え、空の華は今を限りと一際燦爛(さんらん)と咲く。


「まあ、綺麗だこと!」


「本当に」


思いのままに感嘆すれば、それに答えてくれるひとが隣にいる嬉しさ。


珠緒と共に夜空を見上げる志津であったが、はっとして身を屈め、彼女に耳打ちする。


「お耳、覆って差し上げなくてよろしいですか」


「お志津ったら。あたくし、もう子供じゃなくてよ。花火の音なんて怖くは無いわ」


左様で御座いますねと志津は目を細め、珠緒もくすくすと笑う。


恋い慕っていた婚約者と優しかった姉、二つの太陽を一夜にして失ったにもかかわらず、珠緒は何故だか自分が不仕合わせであるとは感じなかった。

こうして志津が傍にいてくれれば、それで良いと思える。


彼女の肩に頭を預けつつ、珠緒は散りゆく夜空の華の色一つ一つを目に焼き付けた。




二等車の車内は人影もまばらで、活気のある三等車に比べれば(しず)やかな雰囲気が漂う。

怜子に(うなが)されるがまま、美夜は彼女の隣、ベルベットの様に柔らかな赤い布が張られた隅の座席へおずおずと腰を下ろす。


美夜達のいる客車内には他に乗客の姿とて無く、久方振りの二人きりはどこか落ち着かない。

それは怜子も同じらしく、汽車の外を流れる風景にじっと見入る彼女の物思わしげな表情が、夜闇(やあん)に染まった窓硝子に映る。


やがて彼女は此方(こちら)を振り返り、形の良い唇をほころばせたのも束の間、美夜の手足の擦り傷に目を丸くした。


「まあ、こんな怪我を何処でして?」


痛かったでしょう、と怜子は母が子にする如く、(いつく)しみの手つきで美夜の皮が剥けた掌を撫でさする。

その情けに満ちた声音や愛撫が、美夜にとっては何よりの怪我の妙薬であった。


「駅に向かう途中、下駄の鼻緒が切れて転んでしまったんです。でも、走るのに夢中になってそれほど痛みませんでしたから、ご心配なさらず」


「いけないわ。破傷風にでもなったらどうするの」


大袈裟な、と怜子を笑う事はできない。


幼い頃から少女時代に至るまで虚弱体質に苦しめられた彼女は、病気や怪我に対してかなり神経質な部分があった。


(こと)に美夜に関する事ともなれば、怜子は少々過保護とも思われる潔癖さを見せた。

小さな咳一つにも結核ではないかとおろおろし、美夜を医者に連れて行こうとするのも日常茶飯事であった。


ありし日、美夜は食事中に箸からこぼれ落ちた米粒を、とっさに拾って口へ運ぼうとしてしまった事がある。

すぐ怜子に止められたのは言うまでも無く、独國(ドイツ)の高名な医師の著書を持ち出した彼女から一時間に渡って細菌の有害性を説かれたのには美夜も面食らってしまった。


怜子は網棚に置いていたトランクを下ろし、中から消毒液と脱脂綿、ピンセットを取り出す。

その用意周到さに、美夜は改めて敬服の念を抱いた。


怜子はなるべく美夜に痛い思いをさせぬよう短い時間で、けれども塗り残しが無いよう細心の注意を払って傷口を(きよ)めていく。


主人である怜子が誠心誠意、美夜の怪我を癒やそうとしてくれているのが、こそばゆくも有り(がた)い。

けれど、怜子のそうした恵み深い陽射しの様な温情を浴びせられるほど、かえって傷は哀痛(あいつう)に脈打つ。


新しい物を買ってあげるから、当座はこれで我慢して頂戴と怜子は半巾(ハンカチ)を使って美夜の切れた鼻緒を直してくれた。

その下駄を手ずから履かせてくれる怜子を横目に、美夜は覚悟を決めて夜の静寂(しじま)を破る。


「怜子さまに、謝らなければならない事があります」


(まゆずみ)の跡も匂いやかな怜子の眉が、美夜の言葉で(いぶか)しげにひそめられる。


「美夜に何の非があって?」


そんなものある筈が無いでしょう、と半ば(なじ)る様な語調が訴える。


「わたしは、こうして怜子さまに情けをかけて頂ける様な人間ではありません。いつだって、怜子さまはわたしを慈しんでくださったのに―――怜子さまがわたしを見放して仕舞われるのではないかと、疑ってしまいました」


その疑念は晴天に(あだ)なす黒雲の様に、美夜の心を絶えず曇らせた。


けれど、愛日の慈光(じこう)はそんな妖雲にも(かげ)る事無く、今も清明と美夜に降り注ぐ。

その(けが)れの無い光に自身の浅ましさを照らされた如く、美夜は身の置き所も無かった。


「怜子さまがわたしの事なぞお忘れになり、珠緒様に御心をお寄せになってしまったら如何(どう)しようと、気が気ではありませんでした。あの方以上に見目麗しい月影を、わたしは知りませんもの」


怜子に対する思慕の情が(つの)ると共に、今まで知らずにいた感情が美夜の中に頭をもたげた。

それが怜子の傍にいる事を誰からも許され、伴侶となるべき未来を与えられている珠緒に対する悋気(りんき)だと悟るのに、時間は掛からなかった。


自分という月の裏側に黒闇闇(こくあんあん)と広がっている暗がりを見せつけられ、美夜は醜い妬心とそれを生んだ我が身を(いと)わずにはいられなかった。


「こんな事を申し上げてはならないと分かっておりますけれど……珠緒様なぞ居なくなってしまえば良いと思った事も、一度や二度ではありません。本当に、本当に、お恥ずかしい―――」


後ろ暗く(いや)しい妄念を、一番知られたくはない女性(ひと)の前にさらけ出してしまっている。


こんな浅ましい自分を、怜子さまは何と(おぼ)し召すのだろうか。

そう思えば彼女の方を向く事もできず、美夜はのぼせんばかりに火照った顔を傷ついた掌の内に隠すばかりであった。


ややあって、怜子は御簾(みす)を上げる如くゆるやかに美夜の小さな双手を取り去った。


晴れ上がった眼界の中で、淑女は(きよ)らかに微笑む。

愛日の慈悲に満ちた眼差しの陽光は、変わらず美夜へと注がれるのであった。


「嫉妬くらい、人間ならば誰でもするわ。美夜が気に病む事なぞ無くてよ」


こう美夜を(なだ)めつつ、怜子は涼しい目元を切なげに伏せる。


「そんな思いをさせてしまったのならば、それは全て私のせい。父の決めた婚約を投げ打つ事もできなかった。華族として誰に対しても完璧に振る舞わなければという心掛けが、いつの間にか性質(たち)の悪い八方美人になってしまったの」


悲愴な面持ちで窓の外を眺める怜子は、まるで知らない誰かの様で―――美夜は物言うのも忘れて、青白く沈んだその横顔に見入った。


「それだけでなく、仕組まれた謀略(ほうりゃく)をすぐには見抜けず、美夜を長い間苦しませてしまった。私こそ、美夜に顔向けする資格のある人間かしら」


美夜が自身を気遣わしげに見上げているのを感じ取ると、怜子はまだどこか憂愁の色を残しつつ、木漏れ日の様にほの明るい笑みを浮かべる。


「ところで、さっき珠緒さんに言っていた事って……」


羞恥を帯びたその口ぶりから、怜子の伝えようとしている内容はすぐさま察せられた。

あなたと同じく、わたしも怜子さまを誰よりもお慕いしております―――駅のホームで大見得を切る如く言い放った自分の大胆さが、今となっても信じられない。


また顔を覆いたくなるのを抑え、美夜は敢然(かんぜん)(おもて)を上げる。


「嘘偽りの無い、わたしの本心です。初めて助けて頂いた冬の夜から、美夜は怜子さまをお慕い申し上げています。愛日の様にお優しく、気高くわたしを照らしてくださる怜子さまを―――その気持ちは今も、千夜(ちよ)を経ても変わりはいたしません。これからは、怜子さまという太陽ただ一つを信じて参ります」


小夜の帳は繭の様に、(まじろ)ぎもせずに見つめ合う二人をひそやかに包み込んでいた。


怜子の柔らかな手が、愛おしむ如く美夜の頬に添えられたかと思うと―――彼女の唇が、一筋に美夜のそれへと重ねられる。

触れた刹那はひんやりと冷たくも、徐々に怜子の血潮の熱が伝わってくる。


厚く垂れ込めた雲間から不意に現われた光明を見る如く、美夜は生まれて初めての接吻(くちづけ)にきょとんとするばかりであった。


やがて名残惜しげに顔を離すや、怜子は生き生きと色づいた唇からその心中を(こぼ)す。


「あなたの言葉が薄れゆく月明かりの如く、儚く消えませんように―――私も美夜一人を愛しているわ。あなたというただ一つの淡月の為に、私という太陽はあるのだと契ってよ」


その唇と誓いが色褪せぬうちにと、今度は美夜が自身の唇を彼女に捧げた。

怜子も進んでそれに(こた)え、隔てられていた時を埋めようとする如く、恋人達は一途に唇を交わし合う。


二人の約束を、魂を、そして運命を一つにしようと―――


美夜が月影として常夜(とこよ)の世界に産み落とされたのは、きっとこの為だったに違いない。

怜子という唯一無二の日輪と巡り逢って、美夜の生はようやく意義を見つけたのだ。


これまで(さいな)まれ続けた幾多の悲境も、乗り越えるだけの価値を持つものであった。

接吻の合間の浅い呼吸も、(せわ)しなく刻まれる鼓動も、美夜の命を繋いでくれる営みとして一つ一つが尊く思える。


睦み合う二人の姿は互いが互いを輝かせんと身を焼き、光を生もうとする日輪と月影そのものであった。

天の月もこの時ばかりは面はゆく感じ入ったのか、扇を広げる如く雲に我が身を閉ざした。

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