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天満月の憂愁

どんな時も、美しくある様に。

それこそが自分に課せられた務めであると、野々宮珠緒は信じる。


自室を出る時、ドレッサーでの確認は怠らなかった筈なのに―――恋しい御方のいらっしゃる部屋のドアの前に立てば、やはり自らの姿が気に掛かる。

廊下に他の宿泊客の影が無い事を確かめて、珠緒は壁に掛けられた長方形の鏡に自分の姿を写してみる。


変わらぬ麗しさは、いつ見ても飽きる事が無い。

亡き母譲りの玉の(かんばせ)

夜の闇を伸べたかの様に、長く緑なす黒髪。

曲線の優美な肢体は、胸元に共布の大ぶりなフリルをあしらったルージュレッドのワンピースをも華麗に着こなしてしまう。


この孤月ヶ浜へ避暑にやってくる令嬢達の中に、果たして自分以上に容貌の優れた娘がいようか―――(あで)やかな笑みを浮かべれば、その美しさはいや増して輝く。

自信を取り戻した珠緒は、目の前の扉を音高くノックする。


「怜様、あたくしですわ。いらっしゃいますの?」


扉の内から返事は無く、珠緒はこの海神ホテルにやって来てから何度目か分からない失望のため息をついた。


「入りますわよ」


その形ばかりの断りとて、彼女の耳に届く事は無いだろうけど。


広々とした室内にはきちんとベッドメイキングが施された寝台、その真向かいに楕円の鏡を備え付けたドレッサーと、蓋で開閉するライティングビューローが置かれている。

高級ホテルらしく、どれも良質な調度品ばかりである。


その奥には、水平線の彼方をも遙かに見渡す事のできるバルコニーの扉が開かれている。

いつもの通り、婚約者の姿は月光淡きそのバルコニーにあった。

なよらかな足を組んで籐椅子へと気だるげに身をもたせ掛け、珠緒の訪れにも気づかぬ様子でぼんやりと夜空を見上げている。


珠緒はわざとらしさを感じさせぬ程度に靴音を鳴らし、その背後に歩み寄った。


「怜様。あたくし、ノックはしたのですけれど」


「まあ、珠緒さん。気が付かずに申し訳ないわね」


そうは言いつつも、怜子は切れ長の目一つも珠緒の方に向けようとはしなかった。

彼女の瞳は深い色の波を織り込んだ孤月ヶ浜の海原よりも高く、薄雲に覆われし天の月の一点へと注がれている。


焦燥を抑え、珠緒は(きら)びやかに微笑む。

淡月の(おぼろ)な光なぞ、笑みの眩さで掻き消す様に。


「今晩、下のロビーでピアノのリサイタルが催されるそうなんですの。怜様も御一緒に参りましょう。怜様のお好きな西洋の作曲家の曲も演奏されるかもしれませんわよ。ええと、何と云ったかしら。エリ、エリ……」


怜子に関する事ならば、どんなに小さなものでも覚えておかなければ気が済まない珠緒であったが―――怜子の母たる伯爵夫人から教わったその作曲家の名が、どうしても思い出せない。

普段から何かと異国の言葉飛び交うハイカラな清小路家ゆえ、他にも聞かされた横文字の単語が頭の中でごちゃ混ぜになってしまう。


「エリザベート・リヒター」


出来の悪い生徒へそっと助け船を出してやる女教師の様に、怜子は流暢な発音でその名を口にした。


「そうそう。そのリヒターですわ」


態度では平静を装いつつ、珠緒は冷や汗の浮く手でワンピースの裾をぎゅっと握りしめる。

爪の一つでも噛み砕いてやりたい気持ちだった。

怜様の前で、何たる失態―――けれど、当の怜子は珠緒の身悶えせんばかりの悩乱なぞ、知る(よし)も無いのだろう。


「お誘い頂いてありがたいのだけれど、何だか気乗りがしないの。御免なさいね」


そう詫びる怜子の(たお)やかな指先には、淡紅色のリボンの一筋。

指に絡めて(もてあそ)ぶ、子供の手遊びの様なその仕草が、淑女には不自然であった。


同じ孤月ヶ浜の別邸で飼われている猫の御萩丸が、そのリボンを首輪に結んでホテルのレストランに現われた。


このホテルに泊まって初めて知ったのだが、朝夕レストランにやって来ては宿泊客に食べ物をねだる御萩丸の姿は一種の名物になっていた。

汚らしい野良猫とは違って毛艶も良く、尻尾の短い日本らしい猫とあって、西洋人の客から特に人気を博していた。

ホテル側も御萩丸を追い出そうとはせず、却って珍しい話の種になると喜んで、好きに出入りさせていたのだ。


その日、怜子と共に昼食のテーブルを囲んでいると、慣れ親しんだ珠緒の姿を見つけて御萩丸は一直線にやって来た。

別邸で夏を過ごしていた子供時代の思い出が蘇ると共に、その首輪の愛らしいリボンが、珠緒を尚更微笑ましい気持ちにさせてしまった。


「まあ、どこぞのお嬢さんの悪戯かしら」


けれども、そのリボンを目にして食事の手を止めた怜子の様子に、珠緒は言葉を奪われた。

切れ長の目の中をひた走るのは、一言では言い尽くせぬ驚き―――そして、忘れた約束を思い出しでもしたかの様な、傍目には切なくも感じさせる懐かしさであった。


怜子は御萩丸の首輪から震える手でそのリボンを解き、それ以来片時も手放そうとはしない。

彼女の謎めいた行動の意図が、珠緒にはどうしても掴めなかった。

リボンの両端に縫い取られているのは、可憐な純白のマーガレット。


その花言葉は―――


「秘密の恋、と云うのですわね」


怜子の手が一瞬動きを止めたのを、珠緒は見逃さなかった。


「……マーガレットの花言葉を、よく御存知ね」


「華族學院の月影部に通っていた頃、花言葉に詳しい同級生がおりましたの。でも怜様、秘密の恋というのは罪悪も同じであると思いませんこと」


何を言い出すのかと目を剥く怜子に、珠緒は尚も畳み掛ける。


「忍ぶ恋こそ美しい、なんて人もおりますけれど、あたくしにはそうした恋は全て独りよがりなものに感じられてなりませんの。だってそうでしょう。その恋を自分一人だけのものとして、(よろこ)びを貪ろうとするのは利己主義以外の何物でもありませんわ」


「恋とは、往々にして利己的なものでは無いかしら」


怜子は乾いた笑いを浮かべつつ、目線は(あま)の原の方へと向けられたままである。

苛立ちのあまり、珠緒は知らず知らずのうちに語勢を強め、半ば訴えかける様に怜子の顔を覗き込んでいた。


「ねえ怜様。あたくし、この世で怜様ただ一人を愛しておりますのよ。ですから、どんな秘密もあたくしにはお作りにならないと誓ってくださいまし」


それに対する(いら)えも無く、怜子はただ月を見上げるばかり―――


ワンピースから露わになった手足が、夜の潮風に薄ら寒かった。




結婚前の旅行として怜子とは別々に分けられたホテルの自室を、珠緒はこれほど有り難いと思った事は無い。


枕に埋めた顔を上げてちらとドレッサーの方を見やれば、泣き腫らした目の娘がひっくとしゃくり上げる。

珠緒はその泣き面をきっと睨みつけ、手にした枕を思い切り投げつけてやった。

そして、わっと声を上げて再びベッドの上に泣き伏した。


こんな筈では無かったのに。


「喜べ、珠緒。清小路家の嫁になるのはお前だ」


怜子の父たる伯爵と直々に話を付けてきた―――そう姉から告げられた時、珠緒は長年の本懐がようやく叶えられる安堵と歓喜を(おぼ)えた。

欠ける事を知らぬ天満月(あまみつつき)の如く、全てが(つつが)なく成し遂げられようとしている。


やはり、あたくしは怜様と結ばれるのに誰よりもそぐわしい月影であったのだわ。


話がまとまるや否や、行儀見習いの為と清小路家での暮らしが決まった時も、珠緒は自分のこれからは約束されたものと信じて疑わなかった。

怜子と共に(つむ)ぐ幸福は宝玉を連ねた首飾りの様に、一つ一つが調和の取れた円環を成して珠緒をさらに輝かせるだろうと―――

なのに、珠緒はその宝珠の一粒さえ未だに手に出来ていない。


怜子は珠緒が彼女に寄せている欠片ほども、その心を此方(こちら)に向けてはいないのだ。

あからさまに此方を冷遇する事は無く、淑女として柔和に珠緒に接するのだが―――その優しさは、敬遠にも似たものであった。

会話の受け答え一つとっても、硝子で隔てたかの様な余所余所しさを言葉の端々や表情の片隅に覗かせる。


他人の目から見れば怜子の振る舞いには何の落ち度も無かったろうが、珠緒は恋慕する女性(ひと)の態度には神経質なまでに敏感な娘だった。


怜子は自分を、共に人生を歩む伴侶として見ていないのかもしれない―――そんな苦悩を、怜子の両親である伯爵夫妻にはとても打ち明けられやしなかった。

一人娘である怜子の妻となる珠緒を、二人は(ねんご)ろにもてなした。


特に、伯爵夫人がこの結婚を喜ばしく思っているのは言わずもがなであった。


「どうぞ、わたくしの事をお義母様と呼んで頂戴。わたくし達夫妻にとっても、珠緒さんは可愛い娘になるのですもの」


彼女の見立てで、珠緒はこれまで袖を通した事も無い洋服を幾枚も仕立てて貰う事となった。

自室に戻るなり、脱いで畳んでしまったルージュレッドのワンピースもその一つである。


和服を着慣れた珠緒にとって、手足が剥き出しになる洋服はどこか頼りなく感じられてならない。

志津が結んでくれた帯の感触を、どうしても懐かしく思ってしまう。


簡単には緩まぬ様に、けれども珠緒に窮屈さを感じさせない結び具合を心得ていた彼女の手つきも―――


けれど、尊子伯爵の機能的なスーツや初音夫人の華美なドレス、怜子のモガらしいワンピースなど、清小路家の人々は誰も彼も西洋風の装いだった。

嫁として婚家の家風を尊ぶのは珠緒にとって当然の義務である。


「最初はお慣れにならないかもしれないけれど、あまり心配ならさなくて良いのよ。わたくしだって、この家へ嫁いで毎日ドレスを着る様になったのですから」


扇子で口元を隠し、伯爵夫人はそう微笑してみせたが、珠緒にとっては洋服と同様、清小路家での暮らしも肌には馴染まぬものであった。


朝夕の食事の度に、珠緒は身の置き所も無い疎外感をも味わわなければならなかった。

食事の時間になると、清小路家の人々は椅子のずらりと並んだダイニングへと集まるのだが、そこには常に寒々しい雰囲気が漂う。


親子や夫妻の間に和やかな会話が交わされる事もなく、柱時計の振り子の音ばかりが無機質に過ぎゆく時を刻んだ。

清小路家にやって来て初めて知った事だが、娘の怜子が生まれた頃から伯爵夫妻の関係は冷え切ったままだという。


無作法な娘と思われぬようにと、不慣れな手つきでナイフとフォークを操る緊張も相まって、珠緒には料理を味わう余裕も無かった。


そんな時、怜子がふとした瞬間に父を見る視線には、珠緒をぞくりとさせる程の敵意が含まれている。

一体、父娘(おやこ)の間に何があったのかと気を揉んでいたある日、珠緒はとあるメイド達の噂話を小耳に挟んだ。


「……やっぱりねえ、怜子様も腹に据えかねていらっしゃるのよ。大切になさっていた美夜を、伯爵様が奉公に出してしまわれたから」


「野々宮侯爵のご令妹との結婚に当たって、美夜との間柄を危ぶまれたのでしょう。怜子様だって、そう簡単にあの子を忘れられやしないでしょうに」


美夜という名が、珠緒の心を黒く(むしば)んでいった。

自身の身分もわきまえずに怜子に近づこうとする、小癪(こしゃく)な月影の娘。

屋敷の中から忽然(こつぜん)とその姿が消えていたのは不思議だったが、(いず)れにせよ当然の報いだと思っていた。


お前なぞが、怜様のお側に寄ろうとするなんて許される訳が無いのですわ。


なのに、失せ去る時にさえ浅ましく(わざわい)の種を残していくなんて。

父娘の不和や怜子のつれない態度も、全てあの娘のせいなのだ―――何処(いずこ)にいるとも知れぬ娘への、ぶつけようの無い恨みで珠緒の胸は張り裂けそうであった。


思えば、あの娘に出会ってから珠緒の運命は狂わされた様な気がする。

しかし、誰が何と言おうと怜子の妻となる事を許されているのはこの世でただ一人、野々宮珠緒だけなのだ。


鏡の前でこの美貌に何の変わりも無い事を確かめる様に、日に幾度もそう自分に言い聞かせるものの―――怜子の眼差しが珠緒の胸をかき乱す。


魂を奪われたかの様に、夜ごと一心に天の月を仰ぐ怜子の瞳には、珠緒さえも映り込む余地は無いかと思われた。

泣き濡れた目を窓の外に向ければ、淡月は相も変わらずもの柔らかな月光を薄雲の(はざま)から振りまいている。

どんなお気持ちで、怜様はこの月を見上げておられるのかしら―――


その時、ある事に思い至って珠緒の玉眼(ぎょくがん)は大きく見張られた。


こんな月が出ていた、あの夜も。




珠緒が怜子を見初(みそ)めたのは今から六年前、十二の秋である。

その年の夏、月影として初めての月蝕を迎えて間も無い頃だった。


純日本的な伝統を好み、四季折々の自然を味わえる庭園を持つ野々宮家では、季節ごとに様々な(もよお)しを行って上流階級の人々を招く事が多かった。

春の花見の会、夏の蛍見の会、冬の雪見の会―――秋の十五夜の月見の会も、その一つであった。


十五夜を迎えた宵、篝火が焚かれた庭のあちこちに緋の毛氈(もうせん)が敷かれ、客達はそこで各々(おのおの)社交に興じる。


「今宵の月は、雲のせいであまり明瞭ではありませんな」


「折角の十五夜なのに、残念ですこと」


白絹の糸で模様を縫い取った漆黒の唐衣(からころも)の如く、夜空には一面にほのかな雲がたなびいていた。

月は和紙を透かして微かな明かりを(にじ)ませる灯籠(とうろう)の様に、その奥から見え隠れするばかりであった。

こんな月もどこか趣深いものではないか、と風流を感じられる人もそう多くは無かったらしい。


客達の興味は月よりも、世間話や新調した着物の品評へと移りゆくのだった。

珠緒も、この日の為に(あつら)えた真紅の彼岸花の刺繍が施された振り袖を着せられ、父に伴われるがまま客人達に歓待の挨拶をした。


亡くなられた侯爵夫人に似て、大変にお美しい姫君でいらっしゃる―――そうした客達からの賞賛の言葉も、母が身罷(みまか)って以来憂いがちであった父には(こと)(ほか)慰めとなったらしい。


「御苦労だったな、珠緒。やはりお前は、私の自慢の娘だ」


そう父に頭を撫でられれば、珠緒は一層鼻が高かった。

父のみならず、姉も普段から何かにつけては珠緒の器量を褒め(たた)えた。

お前は母上の美貌を受け継いだだけあって、野々宮家の珠玉たる眉目の良さだ、と。


父や姉から蝶よ花よと可愛がられるより、大好きな彼らの心に自分の生まれ持った顔が(かな)っている事が珠緒には嬉しかった。


一通り挨拶を終え、父からも月見団子を食べて一息つく様にという言葉を貰い、その夜の珠緒の役目は終わりとなった。

珠緒は金襴(きんらん)の草履の足が(おもむ)くまま、広い庭園をあちこちとそぞろ歩いては夜空に目をやるものの―――月はその輪郭を(おぼろ)にぼかして、秋風に儚く揺蕩(たゆた)うのみ。


(かげ)りはせずとも、そんな月を見上げる人とてそう多くは無かった。


派手やかで賑々(にぎにぎ)しい集まりをこよなく好まれていた母上が、今夜の張り合いの無い宴の有様を御覧になればどんなに嘆かれるだろう。

そんな思いを胸に、珠緒が今ひと度招宴(しょうえん)の席を眺め回した時である。


庭の片隅の古い松の根方に一人(たたず)む女性がいた。


宴の人だかりをつと離れて立つその姿に、珠緒の目は訳も無くおのずと引き寄せられるのであった。

すらりと丈高い身を老松(おいまつ)の幹になよらかに持たせて月を見上げる様は、さながら芝居の一場面である。

幼い頃、母に連れられた桟敷(さじき)の席で美しい姫や花魁の数々に(まみ)えた珠緒であったが、その中の誰をして松下のおもかげに(まさ)りしめただろうか。


その人こそは、当時(よわい)十八の怜子であった。


高等学校へと通う袴の他には滅多に和服をお召しにはならないという噂の怜子だったが、月見の会という催しに合わせてか、その夜は和風の装いであった。

品の良い瓜実顔には落ち着いた紺瑠璃の着物がよく似合う。


(あわせ)の絹地にも、夜風にさゆらぐ断髪にも月明かりがさらさらと浴びせられ、その御姿(みすがた)により優しき風情を添えずにはおかない。

月の一点に捧げられるその眼差しは、涼やかにして何という心憂い表情を浮かべていた事だろう。

失った何かを(いた)むにも、消せない過ちを悔やむにも似て、珠緒をも感傷の念に浸らせる切なさである。


一人松の下、月を見上げては物思いに沈む怜子の姿―――その美しくも孤独を誇る偉容(いよう)に、嗚呼、と珠緒は憧憬(しょうけい)の声を上げていた。

そして、回れ右と(きびす)を返して一目散に駆け出した。


「お志津、お志津!」


客達に月見団子を振る舞っていた志津は、突然やって来た珠緒の息せき切る様に何事かと目を丸くした。


「一体、どうなさったのですか」


珠緒はなり振り構わずに彼女の手を引っ張り、小走りに先程の場所へと連れて行った。


「あの断髪で、お目の涼しくてお綺麗な方はどこの何方(どなた)なの?お志津、知っていやしない?」


珠緒が松の木の下のひとを指さすと、志津は一呼吸置いた後、淀みなく答えてくれた。


「あちらに御座(おわ)しますのは、清小路伯爵の御息女、怜子様であらせられます。御姫様の姉上様とは、同級生の間柄でいらっしゃいますよ」


「まあ。怜子様、怜子様……素敵なお名前でいらっしゃるのねえ」


恋の歌を()む様に、珠緒はうっとりとその名を唱えた。


「……本当に、ご立派におなり遊ばされた」


ささやかにして沁々(しみじみ)と感じ入る様な志津の呟きに、珠緒は背後の彼女を振り返る。


「怜子様とお知り合いなの、お志津?」


(わたし)の様な平民の尋常種が華族の日輪様とお近づきになるなぞ、恐れ多い事で御座います。ですが―――日輪様の中でも怜子様はそう仰がれるにふさわしき(たっと)いお人柄であると、志津は神掛けて申し上げられます」


まるで神聖な御来光を拝むかの様に、怜子を見やる志津の面持ちには崇敬(すうけい)の光がありありと射していた。


一体、あの方の何がお志津の心を捉えて離さないのか。

あの時の彼女と同じ十八の今となっても分からない不思議を、十二の珠緒が解き明かせる筈も無かった。

けれども、珠緒にとって志津が言う事ならば間違いは無いのだ。


珠緒はまた新たな怜子に対する慕情が湧くと共に、ふとある考えが頭をもたげて、志津の袖を引いた。


「ねえ、お志津」


身を(かが)めたお志津の耳に、頬を染めつつ小さく囁く。


きっとあの方が、あたくしの対の日輪ではないのかしら―――




思い出の中の怜子の眼差し―――淡月の儚い光に浮かび上がったその目が、珠緒にはっきりと告げた。

自室のバルコニーで六年前と同じ月を仰いでいた彼女の目もまた、あの夜の面影を宿していたと。


誰一人立ち入る事を許されぬ聖なる御堂に似て、荘厳にして排他的な孤独を持つ瞳。

最初から、怜子の心の奥に分け入る事なぞ不可能であったのかと、珠緒は途方に暮れて泣きたくなった。


けれども、あの時の直感が(あやま)りであった訳が無い。

珠緒は怜子と結ばれる運命にあり、どの月影よりも幸福になって(しか)るべきなのに―――


(月影は、この世にただ一人いる対の日輪と出逢う事が何よりの幸せなのではありませんの、母上?)


その色香の()せやらぬ若さで花と散った月影の母に、珠緒は初めてそんな問いをぶつけてみたくなった。

九つの時に死に別れた母の思い出は断片的であるものの、そのどれもが極彩色の鮮やかさを誇る。


珠緒にとって、美しい人とはまず第一に母の事を指した。

常に絢爛たる衣裳を(まと)い、ふっくらと豊かな頬に笑みを湛えた姿は、この世のものとは思えぬ匂いやかさ。


父も出会った当初の母を評して曰く、天女が地上に舞い降りた様であったと。

二人の子があると聞けば驚かぬ人は無かったほど、乙女の様に若く美しい女性であった。


元々は華族の中でも高い位を持たない男爵家の令嬢であり、その暮らしぶりも富裕でないどころか、貧しくさえあったという。

しかし、十五の歳に野々宮家の菊見の会へと招かれ、日輪の父にその美しさを見初められた事が巧まずして彼女の人生を一変させた。


すぐさま侯爵家への輿入れが決まり、侯爵夫人としての豪奢(ごうしゃ)な暮らしを我が物とする事になった。

祝言の翌年には十六で跡取りたる姉の焔を産み落とした功績もあり、その地位はまさしく盤石(ばんじゃく)のものであった。

月影の理想とも呼べる半生を送ってきたからこそ、母は幼い珠緒の顔を覗き込んでは、事あるごとにこう言い含めるのであった。


「珠緒は母様に似て、本当に綺麗な顔をしていること。大きくなったら、きっとお前に似つかわしい素敵な対の日輪が現われますよ。月影に生まれたからには、強く美しい日輪様に選ばれるのが何よりの(ほま)れですもの」


珠緒という名も、掌中(しょうちゅう)の珠の如く日輪から愛されるようにとの母からの願いが込められたものであった。


「はい、母上」


母の言葉を疑った事なぞ、一度として無かった。

美しい月影の自分は、それに見合う日輪と結ばれる事がただ一つの正しい幸福であると信じ抜いてきた。

信じていたものの存在が根底から揺さぶられる瞬間とは、こんなに心細いものであるなんて。


「お志津」


恐ろしさのあまり全身を走った悪寒に突き動かされ、珠緒は思わずその懐かしい名を呼んでいた。

今すぐその腕で珠緒を包み込んで、この震えを止めて欲しい。


しかし、それは叶わぬ願いであるのだから―――珠緒はか細い両腕で、自身の体を抱き締めるしか無かった。

そもそも、何があろうと志津だけには、現在の珠緒が置かれた窮状を知られる訳にはいかないのだ。


志津は使用人として珠緒の世話をするだけでなく、もう一人の姉にも等しい存在として寄り添ってくれた。

そんな志津が今の珠緒を見れば、どんなに心を痛める事か。


日々彼女に書き送る手紙にも悪い事は何一つ書かず、あたかも怜子と睦まじく過ごしている様に見せかけていた。


(お志津の為にも、あたくしは幸せにならなければいけないのに)


まだ志津が女学校に通っていた折、珠緒の父が幾つかの縁談を年頃の彼女へ(すす)めた事がある。

親子共々、長年に渡って野々宮家へと仕えた労に対する褒美の様なものだったろう。


侯爵の紹介だけあり、いずれも由緒ある家の身元正しい尋常種の男性ばかりであった。

尋常種の女である志津にとって、どれ一つ取ってもこの上無い良縁であると他の女中達は彼女を羨んでいた。

その中の一人、とある地方の老舗旅館の跡取りとは料亭での見合いまで話が進んだ。


見合いの日、藤紫色の振り袖で盛装した彼女を見送ったは良いものの―――彼女が戻ってくるであろう夕刻が近づくと、珠緒は庭の牡丹の木の陰に身を隠してしまった。


物心ついた頃から傍にいてくれた志津が、珠緒の知らない誰かの元へ嫁に行ってしまう。

そう思うと言い知れぬ寂しさが(つの)り、帰ってきた彼女にどんな顔をして会えば良いのか分からなかった。


夕月も昇る頃、地面にしゃがんでべそをかいていた珠緒の背後に、草履の静かな足音が近づいた。


「この様な場所にいらしたのですか、御姫様」


不意にその顔を見せられ、張り詰めていたものが一気に弾けた。

声を上げて泣きじゃくる珠緒の涙を、志津はかがみ込んで拭いつつその訳を尋ねた。


「だって、お志津がいなくなってしまうのが悲しいのだもの」


嗚咽で声を詰まらせながらの珠緒の訴えに、志津はふっと笑ってみせ、見合いは断ってきてしまったと説明した。


「御姫様が幸いでいらしてくださるのが、志津にとっては何よりの幸いで御座いますから。御姫様が対の日輪様と出会って幸せにしていただくのを見届けるまでは、何があろうともお側を離れる事は致しません」


そう言ってくれた志津の言葉に、どうして背ける珠緒であろうか。

だからこそ、どんな事にも耐え忍ばねばならないと自身を(いさ)めても―――こうして一人の宵ともなれば、温もりの恋しさに焦がれそうになる。


(……お志津に逢いたい)


美々しく輝ける天満月の内にも、いたわしき憂いの陰翳(いんえい)がある事を誰が知るだろう。

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