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曇天の光明

孤月ヶ浜の夜も更けゆく頃―――寝間着に身を包んだ美夜の姿は、月光流れる丸窓の下にあった。


その目は、手にした一葉の写真へと無心に注がれている。

いつかの初夏の日に怜子と二人で写した、美夜にとっては何にも代えがたいものである。


生き地獄の様な日々の中で心が折れそうになる度、幾度と無く取り出して眺めたそれは、どんなに美夜の慰めとなってくれただろう。

慕わしい人の姿が月明かりの中に浮かび上がれば、涙ぐまずにはいられないのは孤独な美夜の常であったが―――今、その瞳に悲しみの夜露が結ばれる事は無かった。


(泣くばかりで、何もしてこなかったわ。わたし)


一度は逃げ出そうとしたものの、志津に見つかって失敗に終わって以来、そんな気を起こす事も無くなっていた。


怜子が恋しいと写真を眺めては、自分を襲った不運を嘆くばかりで。

この底無しの地獄から這い上がろうともせず、生きながら死にゆく事を当然としていた。

泥に足を取られるがまま足掻きもしない様に、その因果を受け入れてしまいそうだった。


これでは、月影である事を理由に我が身の薄倖(はっこう)に甘んじていた、子供の頃と同じではないか。


いつか怜子に文字を教わっている時、その難しさのあまり泣き出してしまって、彼女からも言われたものだ。


「泣くのは悪い事ではないけれど、何もしないでただ泣くのではないの。どんな事も、最後までやってみようと自分で思わなければ」


ここでの生活の中、そんな言葉さえ忘れてしまいそうだった。

その様なお咎めを含めて、消えゆく星影の如く色褪せつつあった怜子の記憶が、彼女との再会を契機に息を吹き返した。


今までの自分をご覧になったら、あの方は何と仰るだろうか。

けれど、どんなお叱りを受けようとも構わない。


美夜は何を言われようと、ただただ怜子に逢いたい一心であった。


逢いたい、と心の内で思いを叫べば、その恋慕は焦がれるばかりに身を焼き、胸を締め付ける。


今日、あの浜辺で怜子と巡り会えた事は、きっと星の生まれる奇跡にも比すべき、幾つもの偶然が重なりあった事によるものだろう。

ならば、今度はその奇跡を美夜自身の手で起こさなければならない。

そうでもしなければ、一生怜子と(まみ)える事は出来ないだろうから。


もう一度、愛日の輝きを美夜の夜に見なければ、真実の太陽を仰ぐ事は永遠に叶わないと内なる声が囁く。


何があっても、どんな事をしてでも―――あの方へお目に掛かろう。


晴れやかな月明かりに、淡月の娘の決意の表情が静かに、けれども煌々と照らし出された。




怜子との再会を果たす為には、まず手始めに彼女と連絡を取らなければならない、と(あく)る朝美夜は思い立った。


しかし、どうしたものだろうか。


手紙なぞ表立って出せる筈も無いし、美夜の密通を危ぶんだ焔によって、電話室も鍵を掛けられていた。

それでも、何か良い方法は無いものか―――文机に頬杖をついて考え込んでいた美夜は、膝の上に()し掛かる重みで思案を中断せざるを得なかった。


「まあ、御萩丸。お前なの」


触れようと手を伸ばせば、黒猫の方からその頭をぐりぐりと擦り付けてくる。

その微笑ましさに、酷使された頭の疲労もほんの少しだけ(やわ)らぐ。


「今日はまだ、ホテルには行っていないのね」


黒々とした被毛の生えそろう御萩丸の背中を撫でてやりながら何気なく呟いた自身の言葉に、はっと手が止まる。

この御萩丸は毎日の様に、海神ホテル―――怜子が逗留している―――のレストランに通っては、客達のテーブルを回って食べ物を貰っているというではないか。


おまけに、飼い主である焔の趣味で、いつも首輪から緋縮緬(ひぢりめん)の御守りの袋を下げている。

その中に手紙か何かを仕込んでおけば、食事をしに来た怜子に届ける事が出来るのではないだろうか。


稲妻の様に脳裏を貫いた一つのアイデアは、探偵小説の内容ではあるまいかと自分でも思ってしまうくらい、突拍子の無いものだった。


けれども、試してみる価値はあるだろう。

どんな事でも、やってみない限りは不可能だと決めつけられやしないだろうから。


美夜の今いる部屋は元々珠緒が使っていた場所らしく、文机の引き出しの中から短い鉛筆や、使い切れなかった一筆箋(いっぴつせん)の残りが出てきたりした。


小さな御守りの袋に忍ばせるのだから、そう何枚も書き連ねる事もできず、何とかして一枚の便箋に収めなければならない。


どんなメッセージを込めたものかと、美夜はまたもや頭を悩ませた。

迷った挙げ句に、美夜はようやくこれだけの短い文を(したた)めた。




怜子さまへ 


わたしは、かうして無事に生きております。

今ひとたび、お目にかかりたうござひます。


美夜




折り畳んだ便箋を御守りの袋に入れ、元通り紐を縛り直した。


美夜からだと一目で分かる印として、御萩丸の首輪にリボンを結わえておく事にした。

志津の恩情によって美夜の手元に返ってきた、怜子に買ってもらった一対のリボンの片割れである。

これなら、中の手紙も怜子に見つけてもらえるのではないかと考えての事だった。


柔らかな風合いの夕空の様な淡紅色のリボンに、清楚に咲く刺繍のマーガレット―――その真白き花は、美夜に過ぎし日の怜子とのやり取りを追懐させた。


「マーガレットの花言葉はね。信頼というのよ」


博識な彼女らしく、怜子はそう言って美夜のおさげにリボンを結んでくれた。


「それから、もう一つはね……」


残ったもう片方のおさげに同じ事をしつつも、怜子は何やら口籠もる様子を見せた。


「もう一つは、何ですか?」


「さあ、何だったかしら。覚えていた筈なのに、忘れてしまったわ。駄目ねえ、私ったら」


怜子はそう苦笑いしたきり、もう一つのマーガレットの花言葉には触れずじまいだった。

あの時、彼女の頬がリボンと同じ淡紅(あわべに)を帯びていた様な気もするけれど。


そんな怜子ならば、きっと美夜からの声なき訴えにも心づいてくれるに違いない―――


花の宿した言葉の通りに、美夜は彼女への信頼を込めてリボンを結んだ。


それからいつもの様に、御萩丸がひょいと塀を跳び越えて外に行くのを見届けてしまうと、ただただ待ち遠しいばかりだった。

後は成り行きに任せる他無いと分かっていても、もどかしさでじっとしていられない。


不安の一つ一つが妙な生々しさを伴った空想となって、美夜の脳裏を行き来する。


今日に限って、御萩丸がホテルのレストランではなく、海岸にでも遊びに行ってしまうかもしれない。

木の枝や塀に引っかけてリボンが(ほど)けてしまうかもしれない。

万事うまくいったとしても、焔や志津が美夜よりも先に、戻ってきた御萩丸の首輪に結ばれたリボンを見つけてしまうかもしれない。


美夜は焦燥に駆られて腰が定まらず、日暮れになるまで当て()も無く室内をうろうろと歩き回った。


夕さり方の斜陽を透かす障子をかりかりと引っ掻く細い音が、神経の研ぎ澄まされた美夜の耳には鋭く聞こえた。

即座に障子の元へ走れば、半分も開けぬうちに御萩丸がその身を素早く滑り込ませた。

茜色の夕映えにその毛並みを黒光りさせ、一仕事終えたとでも言いたげにどっかと畳の上に香箱を作る。


御萩丸が無事に戻ってきてくれた―――それだけで、美夜はほっと人心地がつけた。


しかし、その安堵はすぐさま悪寒にも似た失望に取って代わられる。


簡単には解けぬ様にと確かに結びつけてあった筈のリボンは、胡蝶の飛び去ったが如く、影も形も無い。

耳元で太鼓を鳴らされている様な、不規則な動悸がうるさい。


どこかで落としてきたのだろうか、それとも子供が悪戯で解いてしまったのか。


考え得る限りの状況を並べてみる中、最も恐れているそれが活動写真の一場面の様に、頭の中で展開される。

怜子が、美夜からのたよりに気づいていながら―――侯爵令妹との結婚に差し支える事を案じて、その文ごと美夜を自身の中から葬り去ろうとしたのでは。


冷酷無情な目をした怜子が便箋を幾つにも引き裂く光景を、嫌でも思い浮かべてしまう。

振り返ってみれば、愛日の光の様な怜子の慈悲を初めて浴びせられた日から、そのぬくもりが奪われる事を美夜は何より恐れていた気がする。


セレナーデの君を除けば、父や兄姉(きょうだい)にも与えられなかった慈愛の温かさ―――


独りぼっちの寒さに震えていた美夜は、それを唯一授けてくれる怜子を心の太陽の様に慕った。

だが、それは裏を返せば、怜子からの愛を失う事に対する恐れだったのではないか。


乱れる呼吸の苦しさにへたり込んだ美夜の膝へと、御萩丸は片足を乗せて喉を鳴らす。

顎を撫でてやろうと手を伸ばし、わななく指先に当たった御守りの袋は、明らかに朝より膨れていた。


性急に開いた袋の中には、美夜の入れておいた便箋の代わりに、丁寧に折り畳まれた紙が納められている。

レストランの紙ナプキンに万年筆で走り書きしたらしく、所々(かす)れてはいるけれど―――美夜にとっては、何よりも見覚えのある懐かしい字だった。




美夜へ


あなたからの手紙を受けとつた私がどんなに驚き、そして我が身のふがいなさをどんなに心苦しく感じたか、想像もつきますまひ。

美夜を助けたくとも、表立つて動き回る事のできぬ私の弱さを許してくださいな。

それでも、あなたは必ず私が救い出してみせますから、だうか信じて待つていて頂戴。


野々宮の猫さんがしていた首輪のリボンは、私がお預かりしておきませう。


怜子




目頭に熱いものが湧き、それを危うく怜子からの手紙の上へ落としそうになるのをこらえた。


あの方は美夜の無言の祈りを見つけてくださった、読んでくださった―――

そして、自分を必ず救い出すと言ってくださった。


美夜は感極まるあまり、まだインクの匂いも消えやらぬ御文をひしと胸に抱いた。

けれど、背後の襖が開かれる音に、慌ててその紙を懐中へと隠す。


「失礼します、美夜様。御館様がお戻りになりましたので、御夕食に致しましょう」


「は、はい。すぐ参りますから、志津さんはお先に行っていてください」


冷や汗の浮いた美夜の額へ、志津が目を()るのが分かった。


「御気分でも、優れないのですか」


志津は女中としてではなく、あくまで一個人として美夜の体調を気遣う(うれ)い顔だった。


「いいえ。何だか体が火照ってしまって。暑さのせいかしら」


何でも無い風を装いつつ、美夜は志津に対してどことなく気が咎めてならなかった。

しかし、例え相手が志津であろうとも、怜子との計画については決して打ち明けられやしないだろう。


全てはこの手紙の如く自分一人の胸に秘めておこうと、美夜はそう思い定めた。




祝言(しゅうげん)を挙げる」


挙げないか、とは間違っても聞こえなかった。


夕餉(ゆうげ)の席、日課である晩酌を口にしつつ、焔は何の前触れも無く美夜にそう告げた。

さも当然の如く発せられた言葉や、それを異質とも思わぬ態度から、彼女が狼狽する美夜の心情を()もうとする気なぞ無いのは明らかであった。


美夜達の横で茶碗に米をよそっていた志津の、杓文字(しゃもじ)を持つ手が一瞬宙で動きを止めた。


「―――祝言」


想像を凌駕(りょうが)する驚きに襲われた美夜は、鸚鵡(おうむ)返しにそう呟く事しか出来ない。

その二文字が表す意味を、読み落とした詩の一節の様に頭の中で丁寧になぞってみる。


焔は他でも無い自分と、婚礼の式を挙げようというのだろう。

美夜にそれをはね()ける権利が無いのは、どこまでも鮮やかな事実であった。


「これでようやく、お前を私の(つがい)にする事ができる。私の家では、先祖代々の位牌が(まつ)られた仏壇の前で祝言を挙げ、その時に番の儀を執り行うしきたりでな。一族が見守る中、日輪の婿は嫁たる月影のうなじを噛み、自身の番にするのだ」


血生臭い呪術の儀式の話でも聞かされる様に、美夜は身を(すく)めて息を殺した。

長い時を経て伝わった他人の家の慣習を、否定しようなどというつもりは毛頭無かったけれど―――その典礼に捧げられるであろう我が身は、(にえ)と何ら変わらぬ気がした。


嫌だと声を上げたいのに、言葉を封じるまじないを掛けられた如く、(いな)む事ができない。


「対の月影であるお前を初めて見た時から、永遠に私一人のものにしたくて(たま)らなかった。その願いが遂に叶うのだから、いつ死んでも悔いは無いな」


焔は夢見心地に(さかずき)(かざ)しつつ、魂を閉じ込められた様に張り詰めた美夜の瞳を、炎陽の如き双眸で捉えた。

色の薄さゆえか、陽光の眩しさには人一倍敏感な美夜の瞳だが、焔のその眼差しには目を焼き尽くされるかと思った。


「嫌か、お前は。私の妻―――番になるのは」


嫌では無いとお思いですか。


そう啖呵(たんか)を切ってやれたら、どんなに良いだろう。


「わた、し……」


「お前が胸の中に誰の面影を巣食わせていようが、一向に構わん。そんなものが私の妨げとなる筈が無い。……未練の亡霊なぞ、私がこの手で消し去ってやろうではないか」


自らの士気を高める如く、焔は杯になみなみと満たされた酒を、一息に(あお)った。


昨夜の怜子との一悶着が、まだ美夜が誰のものでも無い現状を焔に思い出させたのかもしれない。

ならば、奪われる前に奪ってやれと―――焔の身から燃え立つ執着の炎は、それを炙り出すに十分な勢いであった。


式の日取りは夏が終わり、暑さも(やわ)らぐ彼岸過ぎにしよう、と焔はどこまでも独善的に取り決めた。

初めから終わりまで、美夜には一言だに物申す(いとま)は無かった。


(本当に、随分急な話)


野々宮侯爵家の様な伝統を重んじる名家ともなれば、結納などの支度にそれなりの日数を要するのは目に見えている。

花嫁衣装だって良い物を作らせようと思えば、今日明日という訳にはいかないだろう。


嫁入りの話が持ち上がってから、二年近くの大掛かりな準備を経てようやく嫁いだという旧家の月影の話を聞いた事もある。


けれど、家同士の結びつきを高める事を目的とした多くの結婚とは違い、美夜はその実家と縁を切ったも同然だから、結納一つ取っても不可能だった。

何より、焔は一日延ばされても我慢はならぬという気短さで全てを進めたがった。


「祝言を挙げるにあたって、()いておきたいのだが―――お前、ここへ来てから一度も月蝕を迎えていないのか」


居心地の悪さから口に運んだ穴子の天ぷらが、たちまち灰と化した様に感じられた。


美夜と志津の共通した秘密である先の発情の一件に気づいていながら、焔はあえてそう尋ねたのではないか。

疑心暗鬼で手にしている箸を取り落としそうになったが、焔は美夜を試すでもなく、単純に疑問を抱いているだけらしかった。


「今月はまだ、なんです。何だか、遅れているみたいで」


しどろもどろな美夜の物言いを、性に(まつ)わる事を問われたゆえの恥じらいであると焔は解釈したのだろう。


「私はな、下衆(げす)な好奇心からこんな事を訊いているのではないぞ。それが本当ならば由々しき事態であるから、医者を呼んで()させようと思ってな」


「お医者様を、ですか?」


「私の宿願は対の月影であるお前を番にし、無欠の日輪となる事だ。その体に差し障りなぞあっては一大事ではないか」


果たして、焔は自分の事を愛しているのだろうか。


彼女からは口癖の如く「私の対の月影」と呼ばれているものの、「愛している」や「好いている」といった求愛の言葉を掛けられた事は一度も無い。

そうした形の愛情を、焔から貰いたいとは思わなんだが。


恋愛に関する話が大好きな友達の花は、誰かに恋をすると相手の事を何でも知りたくなるのだと話していた。


けれども、焔は美夜の趣味嗜好はおろか、素性や身寄りが無い理由についても尋ねようとはしない。

むやみやたらに過去を掘り返すまいとの気遣いというより、そもそも彼女にとっては興味の対象外であるのだろう。


彼女が手に入れたいのは一人の人間である美夜ではなく、番となれる体を持つ月影としての美夜なのではないか。

何故、そこまで完全な日輪になる事に(こだわ)るのか―――その問いを言葉にして焔にぶつけるまでは、とても出来ないけれど。


だが、一つだけ確かな事がある。


かつて父からされた様に、もう決して美夜の意思を無視したやり方で、月影の自我を曇らされたくは無い。

その前に必ず逃げ出さなければと、美夜は改めて覚悟を決めた。




医者に診てもらうに当たって、美夜にはどうしても不安な事があった。


月蝕の遅れを理由に、焔は医者を呼び寄せるが―――人体の専門家には、美夜が定期的に発情を迎えていた事なぞすぐに分かってしまうのではないか。

それが焔に伝わり、彼女を(あざむ)いていた事が明るみになったら、と美夜は気が気で無かった。


志津の()いた打ち水もすぐに乾いて跡を留めぬ、夏のたけなわを迎えた日。

美夜は朝から自分の部屋で、(しお)れた月見草の如く怯えてその時を待った。


「お医者様がお着きになりました」


そう志津が襖を開け、美夜は隣で胡座(あぐら)を掻いている焔と反射的に顔を上げた。


「通せ」


志津の丁重な案内を受け、現れた一組の男女―――その見知った姿に、美夜はあっと声を上げそうになった。


「お初にお目に掛かります、野々宮侯爵閣下。帝都で医院を開業しております、秋元(あきもと)秀治郎(しゅうじろう)と申します」


無精髭を剃って髪も整え、きちんとした夏の背広に身を固めた秋元は、誰がどう見ても洗練された日輪の紳士である。


「その医院で同じく医者しとります、妻の嘉世子(かよこ)いいます。どうぞよしなに」


嘉世子はこの暑さにもしぼまぬ花の様に、いつもの生き生きとした気立ての良い笑みを絶やさない。


医師として美夜に発情抑制剤を処方する他にも、普段から何かと親身になってくれる秋元夫妻ではないか。

何故、彼らがここに―――物問いたげに二人を見上げた美夜へ、ここは任しときと嘉世子がさりげなく目配せをする。


焔は立ち上がって腕を組み、この日輪と月影の夫婦をじろじろと観察していたが、慎ましやかな白革製の嘉世子の首輪へ、あからさまに(さげす)んだ視線を投げ掛けた。


「月影なぞに、本当に医者が務まるのか」


焔の口から吐き出されたその暴言で、蒸し暑い部屋の空気が一気に凍り付いていく音がした。


自分達よりも能力が劣っていると、尋常種や月影を下に見る日輪は大勢いる。

けれども、ここまで毒々しい言い方をするなんて。


何という酷い(はずかし)め―――医師という生業(なりわい)に対し、嘉世子がどんなに誇りと誠意を持って取り組んでいるか知っている美夜は、(はらわた)が煮えくり返る思いだった。


嘉世子と苦楽を共にして人生を歩んできた、夫である秀治郎の腹立ちは尚の事だろう。

抑えきれぬ怒りに表情を歪め、今にも苦言を呈しかねない夫を制する如く、嘉世子は謙虚にして確かな足取りで前に進み出た。


そして、そのおおらかさを崩さずに、端麗な顔に女盛りの優美な微笑みを浮かべる。


「ご安心くださいませ、侯爵様。うちは正真正銘、医師免許を持った医者ですさかい」


怒りに我を忘れる事や卑下で顔を(うつむ)ける事もせず、毅然と焔に対する嘉世子の姿は、神々しくも感じる気高さであった。


「妹様のお話やと、侯爵様の御学友のお見舞いにいらした婚約者の方が体調を崩されたと伺っておりますが」


「妹には左様(さよう)に伝えておいたのだがな。学友ではなく、私の許嫁(いいなずけ)だ」


焔はそう言い、身を縮めて座る美夜を顎で示す。


「月蝕が遅れているという。それに、少々痩せたようだ。私の番となる月影の身に、本来こんな事があってはならんだろう」


「成る程。婚約者様の体の不調は、閣下にも案じられてならんでしょうな」


秋元は同意する素振りを見せながら、その表情はまだどこか引きつっている。


「せやったら、まずお体を見せて頂きましょう。恐れ入りますが、侯爵様はお席を外してくださいますやろか。婚約の間柄とはいえ、侯爵様のようなご立派な日輪様に肌を見られては、お若い月影の(いと)はんは恥ずかしゅうてなりませんやろ」


「そういう訳ならば仕方あるまい。母屋の方へ戻るから、診察が済んだら呼んでくれ」


隅で控えていた志津を伴い、侯爵は渋々部屋を後にした。

二人の足音が遠ざかると、秋元は焔の去った襖を憎々しげに睨みつける。


「あの小娘、一体何様のつもりだ!嘉世子を(やぶ)医者呼ばわりしやがって」


「ええのよ、秀治郎さん。うち、あないに言われるのは慣れとるよって」


妻を侮辱された腹立ちの収まらない夫を(なだ)め、嘉世子は彼と共に美夜の向かいへ腰を下ろす。


何か言わなければと思うのに、胸が詰まって何も出てこない。

溢れる思いを言葉にしようとしても、形を成さずにばらばらになりそうで。


(だんま)りな美夜の様子に、夫婦はいたわりの宿る目を見交わした。

そして、嘉世子は(たお)やかな両腕を美夜に向かって広げる。


「美夜ちゃん」


深傷(ふかで)の跡をそっと撫でさする様な声音で名を呼ばれた時、思わず体が動いていた。

自身の腕の中に飛び込み、小さな子供の様に胸へとすがる美夜を抱き留め、嘉世子は優しく囁く。


「これまで、一人でよう耐えたねえ」


母の顔も知らない美夜は、その温もりの何たるかも分からずに育った。

けれど、もしその母が生きていれば、こんな風に自分を(いつく)しんでくれただろうか―――


嘉世子の抱擁は、美夜をしてそう思わしめるのに十分な優しさが込められていた。


鼻孔に触れる、消毒液と青葉の香が混じり合った匂いは、嘉世子の汚れ一つ無い白衣代わりの水屋着から立ち上るのだろう。

青々と茂る木立に囲まれた診療所では、いつもこの匂いが漂っていた。


木陰(こかげ)に憩うた時の様に、その爽やかさが美夜に(しば)し夏の暑さを忘れさせた。

美夜は包みこまれる様な肌の感触を惜しみつつ、やがて嘉世子から身を離した。


「どうして、秀治郎さんと嘉世子さんがここに?」


「怜子さんに頼まれたんや。美夜ちゃんの様子を見てきて欲しいって」


「あの侯爵が自分の妹御に、病気の学友の見舞いにやってきた婚約者が体調を崩したから、月影について詳しい医者がホテルにいないか尋ねたそうでな」


病後の保養として寄寓(きぐう)している学友の為であると、焔が帝都の本邸からこの別邸へ生活の拠点を移した表向きの理由については志津に聞かされて知っていた。

美夜の発情が遅れていると思い込んでいる焔は、学友の月影の婚約者という(てい)で内密に医師を呼ぼうとしたのだろう。


けれど、差し出がましい事はしたくないからと、怜子は自分が紹介した事を姉には伏せておくよう頼んだ上で、知己(ちき)の医師として秋元夫妻の事を珠緒に教えたという。

夫妻の一人娘である秀子(しゅうこ)は子守に預け、こうして二人は帝都から密偵の様に孤月ヶ浜の別邸へと(もぐ)り込んだ次第であった。


「随分心配しとったんよ、怜子さん。学友の婚約者なんて言うても、美夜ちゃんの事に違いあらへんから、あんたが病気でもしたんと違うかって」


でも、うちらかて美夜ちゃんの事ずっと心配やってん、と嘉世子の朗らかな美貌に物案じの影が差す。


「怜子さんの御父上がいきなり美夜ちゃんを他所へ奉公に出してしもうたって聞かされて、ほんまに驚いたんやで。それがまさか、こないな場所に閉じ込められとったなんて」


「事情は怜子さんから聞かされたよ。まったくあの侯爵も、清小路伯爵もまともとは思えん。美夜と引き換えに侯爵の妹を怜子さんの嫁にしようだなんて、何を考えてやがる」


秋元は、いかにも義侠心に駆られた様にそう(えん)じた。


「御父上の決められた相手なら、怜子さんかて嫌でも文句は言われへんやろうしなあ」


この社会では、一家の(おさ)たる父の決定に抗う事は容易ではない。


個人の感情よりも家長の判断こそが正しいとされ、日輪であるならば、最早その旨意(しい)は絶対的なものとなる。

高貴な者の義務ノーブレス・オブリージュとして、国民の模範となるべき華族の清小路家では、尚更その規律を遵守(じゅんしゅ)せねばならないだろう。


あの怜子が覆すには至らぬほど社会の掟というのは堅牢(けんろう)であるのかと、美夜は遣る瀬なく(うつむ)いた。

けれども―――焔は別として、その掟の(もと)に美夜と怜子の仲を裂いた尊子の事を、恨んだりする気にはどうしてもなれない。


美夜は彼女に騙され、陥れられたのに―――雨月の夜の同じ傘の内で、妻である伯爵夫人について語った時の尊子の眼差しが、美夜の記憶から離れないのだ。


まるで慈愛そのものであるかとも思われた、あの優しい目。

怜子と同じ眼差しを持つ彼女が、真に冷酷無比な人間であるのだろうか。

自分でも子供じみた考え方だと感じずにはいられないが、美夜にはそう思えてならなかった。


「うちらも美夜ちゃんの無事が気になって仕方あらへんし、あんたがいつも使(つこ)うてる発情抑制剤もあげな思て、持ってきてん」


そう嘉世子が大きな革製の鞄から取り出したのは、普段から見慣れた秋元医院の薬袋。

中には一服ずつ丁寧にくるまれた粉薬の包みが収められている。


「月蝕が遅れていると言ったな。美夜の周期ならば、今月はとっくに来ても良い筈だが」


「それね、嘘なの。薬も無い中で月蝕が来て、危うく侯爵様と鉢合わせそうになってしまって。でも、わたしに危険が及ばないようにって、あの女中さんがうまく誤魔化して守ってくれたの」


ああ、と夫婦は感嘆の息を漏らした。


「それを聞いて、ほんまに安心したわ。美夜ちゃんが何かされるなんて考えただけで、さぶいぼ出てまうもん」


「今度からは必ずこの薬を飲んでくれよ。でも、次の月蝕が来るまでには必ずここから出してやれるよう、俺や嘉世子も力を尽くすつもりだ」


嘉世子は美夜の両手を取り、何時(いつ)に無い真剣さで目を覗いて言い含める。


「心細いかもしれへんけど、どんな時も怜子さんの事を信じたってな。怜子さんほど、美夜ちゃんを大切に想うとる人もおらんさかい。曇天から差し込む光を仰ぐ様に怜子さんを、そして何より自分自身を信じなあかんよ」


美夜は胸の中に熱い渦が湧き上がり、目を潤ませるのを感じたが、それを抑えて何度も頷いた。

怜子と再び逢うまで、泣くまいと決めたのだから。


それからもう一つ、と今度は秋元が付け加えた。


「どんな事があっても、変な気を起こして命を粗末にする真似だけはしないで欲しい。俺達二人は、お前の事を実の妹も同然に感じていると分かってくれ」


一言一句に彼自身の誠が込められた夫の言葉に、合歓(ねむ)の花の様な嘉世子の睫毛がしんみりと伏せられる。


「もう、十年は昔やろねえ。うちが美夜ちゃんくらいの歳頃、父親の取引相手の元に嫁がされそうになってん。うちのお母ちゃん、父親の(めかけ)やったんやけど、月影のうちしか子供がおらんかったの。日輪の跡取りを欲しがってた父親には見向きもされず、お酒に溺れた挙げ句に()うなってしもたわ」


富豪の令嬢として何の苦労も無い生活を送っていたかに見えた嘉世子にも、この様につらい生い立ちがあったのかと―――初めて明かされる彼女の過去に、美夜は息を詰めて聞き入った。

いきさつを知っているであろう秋元も口を(つぐ)み、風鈴が澄んだ音を響かせる静けさである。


「そのせいで日輪が大嫌いになって、あいつらに搾取(さくしゅ)される月影の人生なんて(ろく)なもんやあらへん思うたわ。そんなん御免やから、結婚式の直前に懐剣(かいけん)で喉を突いて、死のうとしてん」


ここで言葉を切って、嘉世子は隣に寄り添う夫を敬慕の眼差しで見上げる。


「担ぎ込まれた病院で、居合わせた医者としてうちの命を助けてくれたのが秀治郎さん。この人に、馬鹿な事をするなって仰山叱られてん。うちも、助けて欲しいなんて頼んでへんって反発してな。うちの日輪嫌いも影響しとったんやろね。でも、ぶっきら棒に見えとっても、秀治郎さんはどこまでも本気でうちの命に向き()うてくれたんよ」


「照れるな、そう言われると」


面映(おもは)ゆげに頭を掻く夫の肩を、嘉世子は親しみに満ちた手つきで叩いた。


「あの時助けてくれたのが秀治郎さんやなかったら、今のうちはあらへんわ。うちもこない立派なお医者様になって、うちみたいな月影を救いたい思うたら、死のうとしたのが阿呆らしなってな。せやから、美夜ちゃんも忘れんといてね。あんたに何かあれば、怜子さんが悲しむのは勿論やけど―――生きてしか成し遂げられへん事も、きっとある筈やから」


そう締めくくり、嘉世子は晴れやかに笑ってみせる。

苦難を乗り越えた者しか手にする事はできない、崇高にして強い輝きを感じさせる笑みであった。




「診察の結果、お体に(やまい)の兆候は見つかりませんでした。典型的な暑さ負けでしょうな」


母屋から戻った焔と膝を突き合わせ、秋元は医師らしくてきぱきと説明を進めていく。


「それによる自律神経の乱れが、お痩せになった事や発情の遅れにも関わっているんやと思います」


痩せたのは、ここでの生活で食欲をすっかり削がれたからなのだが―――けれど、後は医者として自分達に任せておくようにと夫妻から言われた通り、美夜は焔の横で縮こまっていた。

焔は二人の説明に、腕組みしながらふうんと相槌を打つ。


「ですが、たかが暑さ負けと侮ってはいけませんよ。小さな体調の変化が、後になって健康を害する事もあるのですから。如何(いかが)でしょう、侯爵閣下。婚約者様の御身を我々に預からせてはいただけませんか」


「何故、美夜を貴様ら夫婦に渡さなければならない」


話が見えぬとばかり、焔は眉を(しか)める。

彼女が癇癪を起こしはしまいかと憂える美夜に対し、秋元は焔の不機嫌を物ともせず、医師の体裁を保って理性的に続ける。


「暑さ負けの症状を軽減させるのに、栄養剤の注射を打つのが効果的なのですが―――生憎、今日は道具を持ってきておりません。そこで、婚約者様には帝都にある我々の医院にお越しいただき、治療を受けて貰おうかと。数日ばかり入院なされば、衰えた体力の回復も見込めると思いますので」


「うちらも元々、今日は診察だけのつもりで来ましてん。身の回りのお世話は同じ月影のうちがいたしますさかい、侯爵様の御心配には及びませんわ」


この為に、怜子は秋元夫妻を送り込んだのだ―――囚われの身である美夜を救い出す為に。

彼女の心づもりを解して、美夜の目がはたと開かれた。


「断る」


その隻語(せきご)で、焔は全てを一刀両断に切り捨てた。


「美夜をそこらの月影と一緒にするな。(ほまれ)高き野々宮侯爵家、その当主の番たる身なのだぞ―――私の目の届かない場所で美夜に何か起こったとして、貴様ら二人はその責めを負う覚悟があるのか」


汽車の乗車賃は一等でも二等でも此方(こちら)が持つから、美夜が良くなるまで其方(そちら)が通えば良かろう、というのが焔の言い分であった。


誰の目にも明らかなへりくつであったとしても、彼女の口から発せられれば揺るぎの無い正論となるのだ。

それに物申す事も許されないのが、美夜には悔しかった。


「せやったら、仕方ありませんね。うちらかて無理強いはでけへんさかい」


「嘉世子……!」


潔く引き下がろうとする妻の態度に、秋元はもどかしく声を上げた。

けれど、いくら()いたとて話の通じる相手ではないと嘉世子は感じ取ったのだろう。


「華族様の仰る事に、うちら平民が手向かうのも筋違いやと思いますけど―――医者として一つだけ言わせてくれますやろか。美夜さんの症状には暑さの他に精神的なものも関わっていると、うちには思えてなりません」


「……何が言いたい」


「婚約者様の身を案じられるお気持ちはよう分かります。けれど、外の光を浴びな月かて曇ってしまいますわ。娘時代からの生活の変化もあるやろうし、なるべく体に負担が掛からへんようにさせたって下さい」


嘉世子は医者である以前に、人としての(みち)に則って焔に抗おうとしていた。


「例えば、気分転換の為にどこかへ連れ出してさしあげるとか。花火大会なんてどないですやろ。毎年この時期に孤月ヶ浜の海辺で打ち上げられる花火は、とても美しいって聞きますわ」


「花火か。それなら、見晴らしの良い場所を知っている。滅多に人の来ない穴場でな。子供の頃よくそこに見に行ったが、美夜を連れて行くのも良いかもしれない」


美夜と二人きりで見上げるであろう夜空の華の色彩を、焔の瞳は今から映しているかのようだった。


秋元夫妻は横目で互いを見合い、頷く。

二人の意図は美夜にも飲み込めた。


花火大会の夜に向けて、また新たな計画が動き出そうとしている。

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