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星の宿命

限りのある夜と同じく、人の見る夢もいつかは儚く失せる泡沫(うたかた)のものであるのだろう。

しかし、薄闇の中で目を覚まし、(うつつ)の世界に引き戻されようとも、美夜が百幸美夜という人間であるのは変わらぬ事実であった。


あの夜は過ぎ去り、(なが)の別れによって、セレナーデの君と逢う事は二度とないだろうけれど―――美夜が自身の名を持って生き続ける限り、それが()りし夜の証明となるのだ。

こう思えば、()え無く散った夢を惜しむ事も無かった。


寝返りを打つと、枕元では志津がきちんと正座したまま、うつらうつらと船を()いでいた。

何かと如才無く細やかなこの人らしく、美夜が目を覚ましたのをいち早く察知すると、はっと仮寝を切り上げる。


「申し訳御座いません。今宵は夜を徹して、美夜様の(とぎ)を務めさせていただく所存だったのですが」


うたた寝一つにも、志津はそれが重大な不手際であるかの様に詫び入るのだった。


「いいえ。志津さん、朝からずっとお仕事をされているのだから、お疲れでしょう。それに、わたしも具合の方は随分良くなりましたから」


ほらこの通りと布団の上で体を起こしてみせると、その拍子に腹の虫がきゅうと鳴いて、美夜は小恥ずかしく肩を(すく)めた。

正午に昼食を済ませてから何も口にしていなかったので、今になって空っぽになった胃が、食べ物を欲してさざめいている。


「こんなものしか御用意できなかったのですが、(よろ)しければ」


そう志津が差し出した漆器の皿には、形の良い白米の握り飯が並んでいた。


「わあ、美味しそうなおむすび!良いんです。わたし、真っ白いご飯が一番好きなものですから」


お世辞では無く、伯爵家で初めてその味を知ってからというもの、つやつやと輝く白米は美夜の大好物になってしまった。

遠慮せずに、たんとお上がりなさいな―――貧しい生家では到底口に出来なかった白飯を、そう言ってお腹いっぱいになるまで美夜に食べさせてくれた怜子の優しさ(ゆえ)かもしれないが。


志津お手製のおむすびは、食べやすい様にと一つ一つ小さめに握られていた。

塩のみの素朴な味だが、よく咀嚼(そしゃく)して飲み込むと、その滋養がじんわりと疲れた体の隅々まで届くのを感じる。


志津は肩の力を抜いて安堵(あんど)した様に、自分の握った塩むすびを味わう美夜を眺めていた。

しかし、その目が千里眼の異能を宿した如く、やにわに夜半の仄暗(ほのぐら)さの中で一閃(いっせん)した。


「……お眠りになる間、怜子様の夢を見ていらしたのでは、ありませんか」


焔の領分たるこの屋敷では、怜子という名は他の何をも差し置いた()み言葉である。

他ならぬ志津の口からその名が飛び出した事に、おむすびを口へと運ぼうとする美夜の手がはたと止まった。


それが意味する美夜の驚きを、志津は目早く見抜いたのだろう。


「失礼致しました。差し出がましい事を申しまして」


(かしこ)まって平伏せんばかりの志津を、美夜は慌てて制した。


「良いんです。でも、どうしてそう思われるんですか?」


「……眠っていらっしゃる間の美夜様は、見ている此方(こちら)まで安らぐ、幸福そうなお顔をなさっていたものですから」


ああ、と美夜はようやく合点がいって息をついた。


眠っている間の自分の顔なぞは、どうしたって()の当たりには出来ないが―――寡黙な志津がわざわざ吐露(とろ)したくらいなのだから、美夜はよっぽど、生きながらにして極楽の蓮の(うてな)にでも載せられた顔をしていたのだろう。


惜しむまいと自分に言い聞かせつつも、(しば)しは明ける夜を嘆く様に、幸福な名残(なごり)を思い置いた夢であったから。

そんな美夜の夢に通う相手があの伯爵令嬢であると、志津が思いなすのも無理はなかった。


けれども―――美夜はふいと頭の中で、幼き日の余韻(おぼろ)らかなセレナーデの君の面影と、夜ごと月明かりに照らし見る怜子の鮮やかなそれとを見比べてみた。


何の気なしにそんな事をしたのが、後になって不思議な程だった。


十六のうら若き少女と二十四の臈長(ろうた)けた婦女子という相違はあれど、二つの面影のどちらにも、涼しい眼差しや柔らかな微笑(えみ)など、(ゆかり)薄い他人と切り捨てる事の出来ない似よりがあった。

だが、二人がその魂を全く同じゅうする人間であるなんて、そんな御伽噺(おとぎばなし)の様な事が有り得るものか。


きっと賢くお優しい方というのはどの人も、その性質が意図せずして表情に出るものなのだろう。


セレナーデの君と怜子、どちらの(かんばせ)にも漂う清らかにやさしき情緒も、内に宿る聡明と慈悲との表れだと、美夜は自分の中で結論づけた。

そしてゆっくりと、志津に向かって首を振った。


「夢に見ていた方は、怜子さまではありません。……ですが、父にも捨てられて身寄りの無いわたしを引き取り、(いつく)しんでくださった怜子さまと同じくらい、御恩のある大切な方なんです」


だからこそ、セレナーデの君がどうなってしまったのか、今でも気が気では無い。

あの後、無事でいてくれただろうか。


一番近い肉親である父が彼女の命を(おびや)かし、挙げ句の果てに見捨てて逃げた事に対する怒りが、この()に及んで湧き上がってくる。

それをどうする事も出来なかった自分への、()る瀬ない無力感も。


どうか、神様があの方の命だけはお守りくださいましたように―――


美夜は幼い頃の如く、無心に胸の内で祈った。


「でしたら、美夜様にとっては掛け替えの無いお方なのでしょう。きっと」


苦悩に満ちた面持(おもも)ちを悟られまいと、美夜は寝間着の袖で顔を隠しつつ、頷いた。

いつの間にか、志津は美夜に負けず劣らずの煩悶(はんもん)の色をその目に浮かべていた。


「……本当の事を申しますと、最後まで葛藤しておりました。月蝕を起こしたあなたのいらっしゃるお部屋に、御館様を引き入れてしまおうかと」


口ごもりつつ打ち明ける語気に、懺悔(ざんげ)の告白に似た根深い罪の意識が染み付いていた。


「御館様が切りつけられはしまいかとも思いました。ですが、発情している月影は力も弱まる上に、御館様は丸腰といえど現役の軍人でいらっしゃいますから。あなたが剃刀を手挟(たばさ)んでおられようと、御館様との力の差は目に見えておりました」


志津はここで言葉を切って、言い(よど)む様に視線を隅へと()らした。


「……それに、子でも身籠(みごも)ってしまえば、御館様から逃れる事も出来ますまい」


想像するのも呪わしい、自分の身に起こり得た悪夢の様な行く末に、美夜は耳を(ふさ)ぎたくなった。

だが、志津の意を決した告白に、どうして耳を貸さずにいられようか。


「どうぞ、(わたし)(さげす)んでくださいませ。人の道に外れている行いを平気で()す、羅刹(らせつ)へと身を堕とそうと構わぬつもりだったのですから」


「でも、最後は侯爵様に嘘をつかれてでも、わたしの事を守ってくださったでしょう。そんな志津さんを蔑む理由が、どこにありますか」


美夜の為といえど、絶対的な主君に対して偽りを述べる事に、忠義そのものの志津がどれほどの後ろ暗さを感じていただろうか。

彼女の中で起こっていたであろう、公心と私心の血まみれの軋轢(あつれき)を思えば、それに深く感謝こそすれど恨む筈が無かった。


「妙な事をとお思いになるかもしれません。ですが、何故あの様な真似をしたのか自分でもよくは説明できないのです。以前妾が御館様に欠けた茶碗をお出ししてしまった時、美夜様に庇っていただいた恩義に報いようとしたのかもしれませんが」


「まあ、あの時の事を―――わたし、侯爵様の行動は随分度を越していると思ったんです。顔に茶碗を投げつけるだなんて、いくら何でもやり過ぎです。……でも、それ以外の動機としては、かなり自分本位なんですよ」


もじもじと恥じらう美夜に対し、どういう意味かと志津が目を見開く。


「いつもわたしを守ってくださった怜子さまの様に、わたしも誰かの助けとなりたくて」


どんな境遇にあろうとも、自分は怜子を想う事をやめられないのだろう。

先程、刃物を持ち出してまで決死の抵抗をしたのだって、美夜自身の為でもあったが、誰よりも恋うている怜子への(みさお)を守りたいという強い気持ちからだった。


(わたし)も、怜子様は世の日輪様の中でも、なかんずくご立派な方だと存じております。……一度、助けていただいた事も御座いますから」


「怜子さまが志津さんを、ですか?」


「まだ怜子様が華族學院の初等科に通われていた頃で御座いました。随分昔の出来事ですし、妾如きが怜子様のような方にお見知り置き頂ける筈もありませんけれど」


微笑とも呼べぬもの悲しい目元の(ほころ)びが、志津の諦めを痛ましいばかりに物語っていた。


伯爵家を訪れた日、珠緒は伴っていた女中を、憧れの怜子へ得意げに紹介した。


「幼い頃からあたくしの面倒をずっと見てくれている、お志津ですの。是非怜様にもお引き合わせしたくて」


例え女中相手であろうとも、怜子は初対面の誰彼にも絶やさぬ人当たりの良い笑みを志津に向け、物腰柔らかくこう言ってみせた。


「志津さんと()うのね。()()()()()、清小路怜子と申します」


それが知らん顔のお芝居ではあるまいかという疑いの欠片も持たせぬ、どこまでも青天白日な振る舞いであった。

本当に御存知無かったのだ、あの方は。


子供の頃、たった一度助けた相手を忘れたからとて、どうして怜子を責められよう。


けれども、無言で深々と(こうべ)を垂れていたあの時の志津の心中に思いを巡らせば、美夜は自分でもどこかやり切れなさを感じずにはいられなかった。


御姫様(おひいさま)が怜子様に嫁げるように、御館様が伯爵家に話を通して(はか)らって下さった、と。帰宅途中、それを御姫様と共に御館様から聞かされた妾の喜びは例えようもありませんでした。御姫様同様、妾も何も思わず只その幸福を噛みしめていたので御座います」


下手に芝居じみた作り声よりも、志津の平坦な口調は、その端々から(にじ)む未だ抑えきれぬ嬉しさを引き立たせた。


「今更何を言う、とお思いになるやもしれません。ですが、御館様の(おぼ)し召しについて、あなたと初めてお目にかかった時の妾は、とんと聞き及んでおりませんでした」


侯爵邸に戻って間も無く、志津は焔から呼び出されたという。

お呼びを掛けられたのは志津のみならず、数名の男性の使用人達もであった。


そして焔は、伯爵の頼みで文具屋に寄った美夜を待ち伏せて(さら)い、この別邸に連れて来る事を男達に命じ、志津には美夜の世話をするようにと言いつけた。


「嫌なら無理強いはせぬ、と御館様は(おっしゃ)いました。けれども、拒否すれば自分どころか、家族の身までも路頭に迷わせる事になるのは明らかでした」


美夜を連れ去った男達にも、守るべき親や兄弟、妻や子がいたのだ。

家族の為ならば、主君の命のまま悪事に手を染める他は無い―――そんな道を選ばざるを得なかった彼らが、ただただ哀れだった。


「妾には元より守る家族もおりませんが、御館様の仰る事ならば、断る理由は御座いませんでしたから」


「御家族は、いらっしゃらないんですか?」


荒野を吹き渡る風の様な志津の物言いの寒々しさに、美夜はそう尋ねるのも束の間は(はばか)られた。


(わたし)の家は代々野々宮家にお仕えしておりました(ゆえ)、両親共々奉公させていただいておりました。母が亡くなったのは、妾が女学校に通っていた折で御座います。御館様や御姫様の母君でいらっしゃる、侯爵夫人のお供で出向いた芝居からの帰り際、後ろから他の自動車に追突され……」


二人並んで自動車の後部座席に座っていた事もあり、夫人や志津の母の外傷は重篤(じゅうとく)なものであったという。

病院へと運ばれる間や手術台に臨もうとする時も、志津の母は虫の息の間、うわごとの様に繰り返していたそうだ。


「息を引き取る間際まで、夫である父の名も娘の妾の名も呼ばず―――自分の命なぞどうなろうと構わぬから、どうか御方様をお助けくださいと」


しかし、志津の母の捨て身の祈念や医師達の尽力も空しく、程なくして美貌の侯爵夫人は花盛りの内にその命を散らした。


「お母様を亡くされて、志津さんもさぞお心を痛めておいでだったでしょう」


同情を禁じ得なかった美夜の言葉に、志津はその(くら)い瞳にわずかな戸惑いを見せた。


「まだ十五の小娘であった妾に、そんな気持ちが全く起こらなかったと申せば嘘になります。ですが、悲しみに浸るよりも、妾にはやらなければならない仕事が御座いましたから」


身内でひっそりと済まされた志津の母のそれに対し、生前は社交界の華とも呼ばれた侯爵夫人の葬儀は、豪奢(ごうしゃ)を極めた盛大なものであった。


その手伝いに志津も駆り出されたというのだが、それでは涙する(いとま)も無かっただろうに。


「それに、妾は自分の事なぞより、幼くして御母上を亡くされた御姫様がお(いたわ)しくてなりませんでした」


母の死を聞かされても存外平気な顔をしていた姉の焔とは相反して、まだ九つの(いとけな)い子供であった珠緒にとっては、大好きな母を失う悲しみは胸に余るものだった。


夜ごと亡くなった母を恋うて泣きじゃくる珠緒を落ち着かせる為と、志津は同じ布団の中で添い臥した。

また、事故の元となった車を怖がって乗るのを嫌がるので、華族學院の中等科を卒業するまで、毎朝志津が徒歩で送っていったという。


自身も傷心を抱えながら、それでも陰になり日向となり姫君を支え続けた志津の献身に、美夜は涙ぐましいばかりに心打たれる思いであった。


「では、お父様は」


うなだれて、障子を透かす月光の(かげ)となっている事を加味しても、志津の顔には憂鬱という言葉では言い尽くせぬ闇が死相の様に漂っていた。


「……父も、二年前にこの世を去りました」


長い沈黙の後に絞り出されたそれだけの返答は、どこまでも惨憺(さんたん)たる響きを帯びている。

()いてはならぬ事を訊いてしまったと、直感的に分かった。


「ごめんなさい、不躾な事を伺って。話されたくなければ、なさらなくても良いのですから―――」


(さえぎ)る如く、(たなごころ)を志津へと向けた美夜の手を、彼女は抱え込む様に掴んだ。


「お話しさせてください、どうか」


志津の悲壮なばかりの決意が、有明の星の様に目の中で(ひらめ)いた。


「自分から切り出しておきながら、こんな事を申し上げるのも何ですが―――これからお話しする事を知っているのは、この世で妾と御館様のみで御座います。その他には御姫様さえ、御存知ありません。どうか、何方(どなた)にも口外なされぬよう願います」


志津の気迫に飲まれて、美夜は引き込まれる様に頷いた。


「妾の父よりも、まずは勝之助様―――先代の侯爵閣下について申し上げねばなりますまい」


そう前置きして、志津は自身の父と先代侯爵、因縁によって結び合わされた二人の物語を紐解いていく。




三十一という若さであった妻の文緒を事故により亡くして以来、勝之助は何事にも意欲を失い、塞ぎ込む日々が続いていた。

表向きには帝國軍人として、野々宮家当主の日輪としての威厳を装っていたが、それも形ばかりのものであった。


自分と同じく雄健な軍人に育てる為と、跡取り娘の焔には荒事に近い稽古を課していたが、恋妻である文緒や、末娘の珠緒には大変に寛大な御仁であったから。

(こと)に、人形の様に美しかった彼女を一目惚れも同然に見初めて、是非にと(めと)った分、勝之助はひたすらに妻を盲愛した。


子育てを(おろそ)かにしがちであった事や、上流夫人としても行き過ぎた贅沢振りにさえ、溺愛する文緒を(とが)めた事は一度として無かったのだ。

片割れたる月影を亡くして、それだけに彼にとっての世がすっかりと望み薄いものとなってしまったのも察せられた。


床に臥せる事も増えた勝之助であったが、ある朝、いつまで経っても彼が起き出でぬので、一人の女中が様子を見に()られたのだが―――勝之助は、布団の中で既に息絶えていた。

まるで眠っているかの様な、微かに笑みさえ浮かべた穏やかそのものの死に顔であった。


誰も彼も、勝之助の死が睡眠中に突如として起こった、不慮のものであったと信じた。


志津の父は筆頭の家令として、葬儀などの諸々を、労を惜しまずに取り仕切った。


こうして、侯爵の座と共に野々宮家の全ては、当時(よわい)二十二であった焔の手へと受け継がれる事となった。

父侯爵の死についても、焔は「あの老いぼれが、とうとうくたばったか」と鼻で笑ってみせたのみであった。


「勝之助様の葬儀が済んで、間もなくのある日で御座いました。父が自室で首を吊って、自害したのは」


頭を背後から殴られた様な衝撃に、美夜は(はか)らずも息を止めた。


志津の父は、自らその命を絶ったという。


何故(なにゆえ)に、彼は死を選ばなければならなかったのか―――


「子供の頃から何事にも動じぬ様にと教えられておりましたが……天井の(はり)から吊り下がった父の亡骸(なきがら)には、(わたし)も腰を抜かさずにはおられませんでした」


ぼんやりと虚空を見上げる志津は、その時の(むご)たらしい光景を今も()の当たりにしているかの様だった。


「父は、娘の妾宛てに書き置きを(のこ)しておりました。勝之助様の死は、偶然のものでは無かったのです」


勝之助は家令の中でも特に重用(ちょうよう)していた志津の父を、亡くなる直前に呼んでこう言ったという。


文緒のおらぬ今となっては、これ以上生きながらえていても仕方は無い。

自分も露と消え失せて、黄泉(よみ)の国にいる文緒の元へ行ってしまいたい、と。


そこで志津の父が、(やまい)と見せかけて死ねる毒を、特殊な伝手(つて)から用意した。


最初はいくら主君の頼みといえど、その命を奪う手を貸す事に、志津の父も悩み抜いたという。

けれども、幾度も死にたいと請われては、下命を受け入れるしか無かった。


志津の父一人の手で、全ての支度は水面下で整えられていった。


「ですが、勝之助様が父に望まれたのは、それだけでは御座いませんでした。一人で三途の川を渡るのはあまりに心細いから、死出(しで)の旅の供をしてくれまいか、と。……嘆願されればその通りにする他無い父であると、勝之助様も御存知でしたでしょうに」


やる方無き思いと共に、消えない遺恨(いこん)までもが、切なげにわななく最後の一言に象徴されていた。


「妾には、どうか自分の代わりに野々宮家のこれからを頼むとだけ書いてありました。風岡家の紋が抜かれた羽織と袴の姿で、父はどこまでも家臣としての忠義に(じゅん)じて()きました。遺書の内容は御館様のみにお伝えしましたから、何も知らない人の目には、父が勝之助様の後を追っただけと映りましたでしょう。誰もが、父の事を忠義者の(かがみ)と褒めそやしました。夫婦共々、主君の為に命も投げ出す事も(いと)わぬとは、それでこそ尋常種であると。―――でも、妾はそうと思えなかった」


小刻みに震える志津の指先が、ぎりりと畳の(おもて)を掴んだ。

彼女の抑えがたい激情は、(えぐ)られた様に深い爪痕となって刻み込まれる。


「母は事故で命を落としたのですから、まだ諦められました。ですが、どうして父までが死なねばならなかったのでしょう。どんな父であろうとも、妾にはただ一人の父で御座いましたのに……!」


居たたまれなさから身動きも(ろく)に出来ずにいた美夜だったが、爪が剥がれそうなまでに畳へと食い込む志津の指先へ、今度は性急に自身の手を重ねた。


「もう、良いんです。もう……」


その上にはらはらと落ちていく涙を、美夜は自分でも止める事が出来なかった。

こんなに悲しい最期(さいご)が、他にあるだろうか。


「申し訳御座いません。お泣かせするつもりは無かったのですよ……ですが、そうやって泣いて下さる方がいるだけで、父も浮かばれましょう」


自らの着物の袖で美夜の涙を(ぬぐ)いつつ、志津はいたわる様に、先ほどとは打って変わった安穏(あんのん)とした声音でそう言ってみせる。


これでは、どちらが慰められているのか分からない。


「どんなに悲憤慷慨(ひふんこうがい)したとて、父が生き返る事は御座いません。それに、きっと父も自らの宿命を当然のものとして受け止めたと思うのです。だから、(わたし)も父や母と同じく、尋常種として忠義を(まっと)うする様に宿命づけられた星の下生まれたと―――そう思わなければなりますまい」


生まれ持った性別で人生を()じ曲げられてしまう理不尽さを、美夜は嫌というほど知っている。


志津だって、その不条理を嘆いたり(いきどお)った事も、一度や二度ではきかないだろうに。

それでも尚、不条理を不条理として迎え入れる志津の高潔さは、どこまでも美しく、どこまでも痛ましかった。


「だから、ずっと野々宮家にお仕えしているのですか。侯爵様からあんな目に()わされて、傀儡(かいらい)の様に扱われても」


「……美夜様は、手足に結ばれた糸を絶つ好機は幾度と与えられていたのにも関わらず、未だに操られ続ける傀儡を、愚かだとお思いになりますか」


糸を絶つ好機とは、と美夜は小首を傾げる。


「こんな妾に勿体ない事に、他所の尋常種の殿方との縁談で、野々宮家を離れる機会は何度も御座いました。ですが、全てお断りしてこんな歳になってしまいました」


尋常種の女性にとって、二十四はとうに嫁いでいる年齢だが、探せばまだまだ嫁入り先はある筈だ。

優れた家事の腕前を持ち、気遣いも細やかな志津ならば、きっと良い奥さんになれると美夜は思うのに。


だが、志津の言葉からして、これからもそんな気は全く無いのだろう。


(わたし)の人生の中で、珠緒様が生まれてきてくださった事こそ一番の僥倖(ぎょうこう)で御座いました。それ以来、あの方は妾の生きる()()()なのです。どんなに(みじ)めな思いをしようとも、御姫様がいてくださるだけで耐えられた。御姫様が幸せになるのを見届けるまでは、何処(どこ)へも()かぬと決めたのです」


何という、純にして強き愛であろうか。

これ程までの自己犠牲を()いらずとも引き起こす(みなもと)が、単なる忠義のみである筈が無い―――


「思いません、愚かだなんて!志津さんは、ただただ珠緒さんの幸せを願っていらっしゃるんでしょう。志津さんの様な方がいて、それだけで珠緒様は十分に幸せだと思います」


それに、と美夜はまだまだ足りずに熱弁を奮う。


「お仕事だって真面目にされていて、とても立派だと思います。わたし、志津さんのそうした所は自分も見習いたいんです。うっかりして、よくミスをしてしまうものですから。この間、怜子さまにいつもお作りするスコーンのお砂糖とお塩を入れ間違えてしまって。その前なんて、寝坊して急いで着替えたら、エプロンが前後ろ逆になっているのにも気が付かず……」


隠しておきたい失敗を次々と(あば)いていくのは全く不面目だが、ここまで来たら自棄(やけ)だ。


ふと志津を見やると、彼女は黙って眉間に皺を寄せ、背を丸めていた。

けれど、よく見るとその背中は痙攣(けいれん)を起こした様にぶるぶると上下している。


「あなたという方は……」


破顔一笑、ぷっと吹き出したかと思うと、我慢できぬと言わんばかりに声を上げて笑い興じる。


いついかなる時であろうと能面の様な真顔を崩さない志津が、こんな風に笑う所を見られようとは、夢にも思わなんだ。

志津の予想外の哄笑(こうしょう)に呆気に取られた美夜だが、次第に自身の口角も上がっていくのを感じた。


(ようや)くお笑いになりましたね、志津さん」


「見苦しい姿をお見せして、お恥ずかしい限りで……一体いつ振りでしょう、こうして笑うのは」


不甲斐(ふがい)無さげに縮こまる志津であったが、その顔には生まれたばかりの星の様な微笑が、(つつ)ましく照っていた。

それから目を伏せ、本当は妾一人の胸に秘めておくつもりだったのですが、と志津はその心の内をしめやかに(こぼ)す。


「……妾は、怜子様こそ、御姫様を幸せにしてくださる対の日輪様であると信じ続けておりました。それは今でも変わり御座いません。けれど―――あなたの身に何かあれば、怜子様は必ずや深く悲しまれるでしょう。そう思えば、先程のあなたを御館様から遠ざけずにはいられませんでした」




志津と申し合わせた上、それから数日は()せているという建前で、焔がいる間は部屋に()もって過ごす事となった。

山である最初の二、三日を過ぎると発情の熱も下がり、それほど(つら)くはなくなったが、抑制剤代わりの薬茶は欠かさず飲み続けた。


その間に、小さいながらも喜ばしい出来事が一つあった。


てっきり捨てられたかとも思っていた、伯爵家を出た時に身につけていた着物やリボンが美夜の手元に戻ってきたのである。

志津が自室の押し入れから、風呂敷に包んだそれらの品々を出してきてくれた。


「御館様からは、美夜様が手を触れられぬ場所へ仕舞っておく様に命じられていたのですが―――」


それでも、元は美夜の持ち物だからと。


怜子が買ってくれた中でも特に気に入っている、東雲(しののめ)色の着物や淡紅色のリボンへと頬ずりせんばかりに嬉しかった。


「これ、着てはいけませんか」


美夜が遠慮がちに申し出ると、お部屋にいらっしゃる間でしたら、と志津は帯を結ぶのを手伝い、髪をおさげに編んでくれた。

鏡の中の自分を見ると、普段の慣れ親しんだ着物と髪型の筈なのに、晴れ着を着せられた様に気持ちが華やいだ。


けれど、焔の前に出るとなれば、その(よそお)いは許されない。


焔が非番の日、彼女の待つ朝食の席へ顔を出すという朝。

美夜は志津の手で、焔好みの(こしら)えに身を固められた。


目を閉じて唇に紅を差される間、美夜は自身でも焔との対面に向けて、心構えという名の化粧を(ほどこ)した。




「おお、もう具合は良くなったか」


しずしずと食事の間に入ってきた美夜の姿を捉えるなり、軍服の上着を脱いだ軽装で胡座(あぐら)をかき、新聞を読んでいた焔は喜色満面に顔を上げた。


「はい、お陰様で。侯爵様にはご心配をお掛けしまして……」


彼女と向かい合わせに据えられた食膳の前に腰を下ろしつつ、美夜は気まずさを焔に悟られまいと澄まして言った。


「よい、よい。お前が健やかでいてくれるならば」


焔は膝立ちに身を乗り出しがてら、美夜の肩を抱いてぐいとその身を引き寄せた。


「だが、美夜が臥せっている間の退屈ときたら、全く筆舌に尽くしがたかった。お前の面影を(しの)びながらの、独り寝の(わび)しさを思ってもみてくれ。お前はやはり、私の対の月影だ」


離して欲しいとも言えず、気後(きおく)れして固まる美夜の膝に、何か温かく柔らかなものがふわりと触れる。

見れば、焔の愛猫である御萩丸(おはぎまる)が短い尻尾を振り振り、黄色い目を細めてにゃあごと鳴いた。


「お前も美夜の姿が見られず寂しかったろうにな、御萩丸」


ぽってり太った体を焔が抱き上げると、御守りの袋を下げた首輪の周りに、もにゅと肉が寄った。

その口元や髭の辺りには、何やら薄黄色の粉末が御萩にまぶされた黄な粉の如く、黒い毛の上で目立つ。


「何でしょう、これは」


「パンくずだな。御萩丸、お前またホテルのレストランに行っていたのか」


焔はちょうど湯気の立つ飯櫃(めしびつ)を運んできた志津を睨みつけ、唇を尖らせて詰問(きつもん)した。


「おい、きちんと御萩丸に食べさせてやっているのか」


勿論(もちろん)で御座います、御館様」


焔に対してはどこまでも従順な女中の顔を崩さず、志津は落ち着き払って答えた。

美夜も、御萩丸が普段から志津に貰ったご飯をもりもり食べているのは知っている。


「御萩丸の奴、この近辺にある『海神(わだつみ)』というホテルのレストランに通っては、宿泊客のテーブルを回って食べ物をねだっているらしい。困った食いしん坊だな、お前は」


飼い主の呆れを知ってか知らいでか、御萩丸はそっぽを向いて毛づくろいをしている。


御萩の様に丸々とした体からは想像もつかない身軽さで、御萩丸が塀を飛び越えてどこかに行くのはよく見かけた。

けれど、まさかホテルのレストランに行っていたなんて。

山盛り食べても飽き足らず、さらに食べていたのだから、太るのも無理は無かろう。


ああ、そうだと焔は何やら思いついた様子。


「病み上がりの気分転換に、日が落ちたら海神ホテルの前にある浜に行ってみないか。潮風を吸えば、多少心地も良くなるだろう。お前と歩む夜の浜辺も、なかなか乙なものだろうな」


「本当ですか」


外へ出られる―――この別邸に連れてこられてから、初めて。


無論、隣には焔がいるだろうが、美夜は声に(にじ)む喜びを隠し切れなかった。

日はまだ高く、開け放された障子の向こうの夏空は青々と晴れ渡っている。


早く、夜になればいいのに。


美夜はこう願って、そわそわと空を見上げた。

幾つになっても、やっぱり夜が来るのは待ち遠しい。




ヒグラシの()茜雲(あかねぐも)と共に、夕暮れの気配もひっそり鳴りを沈める宵となった。


ほの(ぬく)い夏の夜に涼しき翡翠色の()の着物に、夕顔の花を(かたど)った髪飾りという盛装で、美夜は実に一月越しとなる外出を果たした。

座席の左右を焔と志津に挟まれては身動きの取りようも無かったけれど、自動車がするりと門を抜け出た時は、禁則を破った様に胸が高鳴った。


浜辺の手前で自動車を降ろされると、磯の生命力に富んだ香りが濃く鼻をつく。

山育ちの上、帝都の外に出た事も無かった美夜は、生まれて初めて見る海に胸が躍るのを抑えられなかった。


それと同時に、どうにか隙をついて逃げ出せまいかと思考を巡らす。

けれども、すぐ側に焔がいては、走り出しても追いつかれてしまうのが関の山だろう。


眼前のはるばるとした海原(うなばら)は、深縹(こきはなだ)の波も穏やかに、潮騒(しおさい)の唄も静かであった。

雲一つ無い天の月が、純白のレースを(つら)ねた様な小波(さざなみ)を浮かび上がらせ、水平線の彼方(かなた)から此方(こなた)を繋ぐ光の道筋を作る。


孤月ヶ浜と言えば音に聞こえた避暑地なのだし、すぐ近くにはホテルもあるのだから、誰か散歩に出ている人もありはしないかと美夜は辺りを見回した。

けれど、美夜達の他には人影とて無く、寄せては返す波の余韻(よいん)と、真砂(まさご)を踏む音が孤独を表わす様に交錯(こうさく)するばかりだった。


焔の話していた海神ホテルも、そのモダンな外観を夜の中に際立(きわだ)たせている。

(きら)びやかな洋燈も不夜城の如く、人々の笑いさざめく声や、蓄音機のものらしい陽気な音楽が途切れ途切れに漂ってくるのも、どこか取り残された様に(むな)しい。


「何だか、うら(さび)しいところ」


美夜は白砂の上にくっきりと紅緒の映えた、履き慣れない夏草履の足下に目を落とし、誰に聞かせるともなく呟いた。


「ああ、そうだろう。この孤月ヶ浜にはな、一つの言い伝えがあるのだ。手毬唄にもなっていてな。私も子供の頃、よく歌ったものだ」


焔はそう言って誇らかに胸を張り、(せき)として声無き夜の浦を舞台に、ある悲恋の物語を朗々と(そら)んじる。




戦乱の時代の昔、孤月ヶ浜の土地には一つの小さな国があったという。


その国の月影の姫君は、海辺に咲ける浜木綿(はまゆう)の花の如く、純な美しさを持つ見目麗しき娘であった。

彼女には、互いに深く二世を契った相手がいた。


隣国の武勇に優れし日輪の姫君こそは、命尽きてもなお添い遂げんとの約束を結んだ間柄であった。

その睦まじさはまさしく一対の太陽と月の如く、対の日月と称されるに相応しきものであったという。


けれども、動乱の世の常として、戦禍(せんか)の波はそうした小さな恋をも無情に巻き込んでいった。

ある時、隣国と遠方の国との間に戦が起こり、日輪の姫君は大将として兵を(ひき)いて出陣した。


どうか御無事で、お戻りになられますよう―――しかし、月影の姫君の祈りも届かず、許婿(いいなずけ)は戦いの中にその若い命を落とした。

愛する女性の死を(いた)み、月影の姫君は彼女と共にそぞろ歩いた浜辺を、夜ごと狂った様に彷徨(さまよ)うた。


ある夜、ふと海の彼方を見やれば―――逆巻く五百重波(いおえなみ)の中に立てるは、忘れ得ぬ御君(おんきみ)

月影の姫君は恋しき人の幻影を追い、黒髪や裳裾を浜木綿の花の散る如く波に乱して海に分け入り、二度とその姿を見せなかった。


それ以来この土地は、(ひと)りぼっちの月影の浜―――孤月ヶ浜、と呼ばれるようになったそうな。




「二人のそぞろ歩いた浜というのが、この場所なのだ。対の日月の結びつきの強さが(うかが)われる、何とも浪漫的な話だと思わんか」


焔のうっとりと頬を染めながらの問い掛けに、美夜は返事をしなかった。

幾多の人の命や幸福を消し去る、争いの愚かしさや浅ましさを嘆かわしいばかりに伝える話を、さも美談の様に語る焔の気が知れない。


答えようも無く蒼茫(そうぼう)たる海に目を逸らすと、こんな話を聞かされた後ではその情景がどこまでも物悲しい。

自身の切ない身の上までもが、そぞろに思い出された。


それが幸福であればあった程、(みぎわ)を打っては返らぬ波の様な日々を惜しまずにはいられない事を美夜は知っている。

一歩間違えば、自分もこの海に消えた姫君と同じ末路を辿るかもしれないのだ。


愛する人の幻を追って―――


センチメンタルに(ふけ)る美夜の鼻孔を、潮のにおいに混じって一つの清香が通り抜けた。


まるで、朝露を宿した瑠璃色の花の様に―――(しと)やかにも清らかなパフュームの芳香が、美夜の中の記憶を瞬時に呼び覚ました。


忘れるものか、この匂いを。

この清香を漂わせていた女性を。


美夜は衝動的に袂を(ひるがえ)し、匂いの元を振り返った。


サファイアブルーの薄いワンピースと断髪を潮風に(なび)かせつつ、孤月の影も薄き砂地にふらりと出で立つ御姿(みすがた)

波のあなたを(うつ)ろに眺める横顔は、少々面窶(おもやつ)れがしたのではあるまいか。


幻ではないのか、と美夜は自らに重ね重ね問うた。

戦乱の時代、この海に散った姫君の様に、美夜自身の作り出した幻影を目の前にしているのでは―――


けれども、その人の名を全身全霊込めて、声にせずにはいられなかった。


「怜子さま!」


禁じられし名は晩鐘(ばんしょう)の音色の如く(わた)の原をさざめかせ、夜の浦に響き渡った。


君が夜に幸多かれとの願いが込められた、百幸美夜という名。

その名を与えてくれたセレナーデの君と出会った、夏の短夜。

怜子に助けられ、奇蹟の様な邂逅(かいこう)を果たした、冬の寒夜。


志津の言葉にあった、星の導く宿命というものが本当にあるのならば―――美夜は、夜に生きていく定めに生まれたのではないだろうか。


そう思わずにはいられぬくらい、今この夜に怜子と再会できた事も、何かの巡り合わせである気がした。


自身の名を呼ぶ声に、怜子の(ほう)けた目が此方(こちら)へ向けられる。

その目は瞬く間に見開かれ、はち切れんばかりの驚きで満たされた。


「―――美夜」


何と言い表そう、その声を。

ありとあらゆる感情をそのたった一言に込めて、半ば(むせ)ぶばかりに怜子は美夜の名を口にした。


嗚呼、やはり幻の筈が無い。


「怜子さま……!」


美夜は居ても立っても居られず、着物の裾を片手に()まみ上げて彼女の元に走り寄ろうとした。

しかし、背後から首輪を鷲づかみにされ、うっと背を()け反らせて苦しみの呻きを()らす。


「私の許可無しに動くな」


焔は美夜の首輪をさらに手繰(たぐ)り寄せ、残忍に言い渡した。

そして、志津に背を撫でられながら涙目で咳き込む美夜を尻目に、軽快な足取りで怜子の前に躍り出る。


「これはこれは、清小路伯爵令嬢であらせられる。こんな場所で貴様と相(まみ)えようとは、思ってもみなかった」


おどけた調子で両腕を広げる焔とは対照的に、怜子は()てつくばかりに冷ややかな目で彼女を見返す。


「―――何故あなたが美夜を連れて、この様な場所にいるのかしら。野々宮侯爵」


その声は、あくまで焔に対して鷹揚(おうよう)に問いただそうとする冷徹さを保っていた。

けれど、彼女の中に渦巻く怒りが並大抵で無い事は、そのハイヒールのつま先で執念深く踏みしだかれた砂の跡に表れている。


伯爵家にいた頃、怜子に叱られたり小言を頂く事は何度もあったけれど、こんな風におどろおどろしいまでの怨気(えんき)を美夜に見せた事は、一度として無かった。


怜子さま、と呼び掛ける事さえ躊躇(ためら)われた。

彼女の愛日たる本来の慈悲深さを知り尽くしているだけに、その変貌振りに背筋まで凍りそうになる。


「私の台詞だ、それは」


焔も軽薄にせせら笑いつつ、怜子に対する敵意を惜しげも無く前面に押し出していく。


上流階級の建前や品格なぞでは覆い切れない、日輪としての本能を凄まじく(みなぎ)らせ、愛日と畏日は一歩も退かずに互いを威嚇(いかく)し合う。

傍で見守る志津も落ち着いてはいられないだろうが、月影の性を持つだけに、美夜には二人の威光がより重苦しく迫ってくる。


いつかの夜会以上に剣呑(けんのん)とした対立の物々しさが、()いだ海をも波立たせる気がしてならなかった。


「珠緒から、貴様と何処か婚前旅行に出掛けるとは聞かされていたが……まさか、この孤月ヶ浜とはな。大方、そこの海神ホテルに逗留しているのだろう」


焔はこの奇妙な偶然を(うと)ましがるでもなく、どこか面白がってさえいた。


怜子と珠緒の、婚前旅行。

今そんな事を考えるべきではないと分かっているが、怜子と結婚を前提とした交際を許されている侯爵令妹を羨ましく、妬ましくさえ思わずにはいられない。


都合の悪い事を持ち出された如く、怜子は肩身が狭そうに美夜から視線を逸らした。


「……父は、美夜を奉公に出したと言っていたけれど、この子が私に何も言わずに居なくなる筈が無いわ。あなたが(かどわ)かしたのでしょう」


「拐かすとは、貴様は相変わらず人聞きの悪い事を言うな。美夜の身の始末は、私と清小路伯爵との間に交わされた、契約によって成り立っているというに」


「―――契約?」


出し抜けに登場したその言葉は、怜子にとっては闇討ちに等しき(わざ)であったに違いない。


一瞬の隙を見逃さぬとばかり、焔はさらに畳み掛ける。

軍服の懐から取り出した四つ折りの半紙を怜子に手渡し、読め、と顎で示した。


怜子のまごついた指先が、その紙を開いていく。

美夜が時間を掛けても読み解く事の出来なかった契約書に素早く目を走らせ、元々血の気の(かんば)しく無い怜子の瓜実顔(うりざねがお)は、銷魂(しょうこん)の灰色に染め上げられる。


「その署名は、間違い無く伯爵殿のものだろう。破り捨てたければそうしても構わんぞ。内容は写真に収めてあるのだし、もう一枚の原本は貴様の父の手元にあるのだから」


けれど、怜子はそうしなかった。


契約書を手にした腕を弱々しく垂れ下げ、もう片方の手で受け入れがたい現実から目を背ける様に顔を押し隠すばかりだった。

自分の父が、侯爵令妹と娘の結婚と引き換えに、一人の少女を侯爵に売り渡したのだと―――


「これでも、まだ私を拐かし犯呼ばわりするか。言っておくが、警察に訴えたとて無駄だからな。軍との繋がりから、私には警察関係の相識(そうしき)も大勢ある。それに、貴様の父の名誉にも関わるだろうしな」


四面楚歌の窮状を振り(かざ)していたぶる様に、焔は怜子に詰め寄る。

嗜虐心(しぎゃくしん)の表われと呼ぶには、彼女の勝ち誇った笑みはあまりに非道な(おもむ)きを備えている。


勝負ありとばかり、焔は(つつし)んで控える志津を振り返った。


「志津、貴様は美夜を連れて先に戻っていろ」


(かしこ)まりました、御館様。さあ、美夜様」


また怜子と離れなければならない事に、美夜は恋々(れんれん)として幾度も足を止めずにはいられなかった。


けれども、「今日の所は一先(ひとま)ず」と志津に袖を引かれれば、未練を打ち捨てて歩き出すしか無い。


自動車が走り出すなり(せき)を切った様に涙を零す美夜の背を、志津は先程に引けを取らぬ優しい手つきで撫でさする。


志津は美夜が悲しみに暮れていると思っているのだろうが、美夜はただただ嬉しさに胸震わせていた。

もう、一生()えぬとばかり諦めていた生身の怜子に、面と向かって逢えたのだ。


それだけで、これまでの艱難辛苦(かんなんしんく)も報いられた思いだった。




美夜が伯爵家から姿を消した明くる日から、怜子はずっと彼女を探し続けていた。


父が美夜を奉公に出すならば、伯爵家と関わりのある家ではないかと思い、手始めに縁故のある華族の邸宅に片端から(おもむ)き尋ねた。

だが、結果は全くの不発。


華族の家で無ければと、実業家の屋敷や下町の裕福な商家など、少しでも可能性のありそうな所を帝都中(しらみ)潰しに当たった。

けれども、月の(おぼろ)となって消えた如く、美夜の姿は何処にも見いだす事はできなかった。


その上、夏の猛暑の中を歩き回った事が(さわ)ったらしく、とうとう体調を崩す始末。


子供の頃体の弱かった自分を純粋に気に掛ける母や婚約者とは違い、父は怜子の真意を見抜いていたのだろう。

自分と珠緒の親睦を深める婚前旅行と避暑を兼ね、しばらく孤月ヶ浜の海辺に滞在してはどうかと提案した。

父が話したのは表向きの理由であると、怜子には分かり切っていた。


「あの娘の事は、もう忘れろ。死んだとでも思え」


自分を帝都から引き離し、無駄な足掻きをさせまいとしたのだろう。

例え流罪(るざい)に処されようとも、怜子は美夜を探し求める事をやめるつもりは無かった。


それが、心の水鏡(みかがみ)に映る月の姿を追う様なものであっても。

足を滑らせたが最後、底も見えぬ深淵に溺れるのみであろうと―――それでも、手を伸ばさずにはいられない。

自身の中に湛えられた(ふち)も日ごとに深さを増してゆき、一度落ちれば這い上がる事も叶わぬ水獄へと化しつつある事に、怜子も薄々気づいていた。


屋敷を去った美夜と入れ替わる様に、野々宮侯爵令妹の珠緒が父の決めた婚約者としてやって来た。

しかし、どんな美しく身分のある月影とて、あの淡月の少女に代えられはしない。


他のものなら、何を奪われようと構わない。

美夜だけは、是が非でも失いたくはない。


心無き叢雲(むらくも)に遮られようと、それに負けじと少しでも光を生もうとする淡月の様な健気さを見せる美夜が恋しい。

それは確かなのに―――同時に、消える事を知らぬ八雲の覆いを掛けて、誰にも彼女の姿を仰がせたくは無いと焦がれる自分もいる。


お願いだから、その可憐な笑顔を私以外に見せないで。


常軌を逸しているのかもしれない―――今になって浮かんでくる心の奥底に沈めていた筈の気持ちを、怜子自身そう認めずにはいられなかった。




帝都が駄目ならば、日本中を探し求めるまで。


その点では、国内外から多くの避暑客がやって来る孤月ヶ浜の地は、足掛かりとして適していると思っていたのだ。

孤月ヶ浜に滞在する裕福な人々の屋敷に、美夜が奉公しているかもしれない。


だからこそ、浮かれる珠緒に付き合って何食わぬ顔で旅を共にする気になったのに――― 

探しあぐねていた淡月は、すぐ傍にいた。


「お前の怜子という名はな。怜悧(れいり)の怜の字から取って、私が付けたのだ」


怜子が幼い頃、娘の名前の由来を父はそう語った。


何が怜悧だ、と自分自身を嘲ってやりたくなる。

水面下に張り巡らされていた(くわだ)てを見抜く事も出来ぬとは、愚鈍もいいところだ。


「そんなにおっかない顔をするな。普段のお高く留まった(つら)より、その方がずっといい女に見える事は否めないが」


揶揄(からか)う様に焔からそう言われ、怜子は自分が次第に余裕を失いつつある事を意識させられた。

体全体は気味の悪いくらい冷え切っているのに、喉の奥ばかりが燃えたぎる火を飲まされた様に熱い。


淑女は何時(いつ)いかなる時も、地団駄を踏んだり声を荒らげたりして、見苦しく激高はしないもの―――

そう自分に言い聞かせようとも、体の底から湧き上がる得体の知れない思いを制御し切れない。

冷静さを失ってはならないと理解していても、直視するのも忌まわしい、後ろ暗い感情の濁流に飲み込まれそうになる。


こんなに醜い人間だったかしら、私は。


「仮にも、私と貴様とは義理の姉妹になる仲ではないか。私を義姉上(あねうえ)、と呼んでくれても構わんのだぞ」


「誰が、あなたなぞを……!」


「珠緒と結婚すれば、貴様にとって私は義理の姉になるだろうが。―――なあ、珠緒はもう抱いたのか」


明け透けに問われて、頬がかあっと羞恥に()ける。


「なっ……そんな事をする訳が無いでしょう。結婚もしていないのに」


辺りに人の耳が無いのは分かり切っていても、声を低くせずにはいられない。


「ほう、それは見上げたものだな。いかにも品行方正な貴様らしい」


焔が軽口を叩き、悪戯っぽい口笛を一つ。


「窮屈な尋常種や月影の女とは違って、折角日輪に生まれたのだからもっと(たの)しめば良いものを。日輪であれば何もかも手に入ると、貴様も知っていよう。その資格があるのだ、我々には」


「美夜もその一つだというの。恥を知るべきよ、あなたも父も」


絞り出した声は、自分でも情けないばかりに(かす)れていた。

厳格でどこか近寄りがたい父ではあった。


しかし、それは彼女自身の清廉潔白さの裏返しであると怜子は密かに信じていたのだ。

その父が人柱も同然の卑劣な方法で、美夜を怜子の元から奪い去ったなんて。


「私が美夜の事を慰み物にしようとしていると―――そう(いぶか)しがっているのだろう、貴様は。だが、幾らでも手に入る遊びの月影如きの為に、この私が箱入りの妹を貴様の嫁にやると思うか」


「では、何故」


怪火の照り返しを受けた如く、焔の双眸に(くし)びな光が灯される。


黒闇の中に揺らめく鬼火を目の前にした様に―――怜子は自分でも訳の分からぬ程、その双眸から視線を逸らせなかった。

深緋(こきひ)の唇の両端が、にっと持ち上がる。


「誰が教えてやるものか。御自慢の頭で考えたらどうだ?しかし、大切なものを奪われる事によって(えぐ)り出される貴様の本性を拝めるというだけで、珠緒と引き換えにする価値は十分あるだろうな」


焔は音も無く間合いを詰め、呆然と立ち尽くす怜子を挑発的な上目遣いで見やる。


「威張り散らすしか能の無かった私の父に比べて、娘の身を案じておられる良き父君だ、尊子殿は。貴様の過ぎた堅物を危惧していたのだろう―――だが、貴様はその淑女の仮面の下に何か隠してはいないか、清小路怜子」


人を(あや)めた罪を言い当てられたとて、心臓が止まるに等しきこの衝撃を味わう事はできまい。


「何を、言って……」


逃げる様に後ずされば、そこは波の寄せ来る(みぎわ)で、怜子ははっと足を止めた。


「貴様は子供の頃からどこまでも清く、どこまでも正しかった。そんな貴様が、私は大嫌いだったがな。あんまり人間が出来過ぎていて、かえって人間味を感じられないくらいだ。けれども、善良のみの人間がいる筈が無い。どんな人間もその大小に関わらず、何かしらの(くら)がりを抱えているものだ。そして、完璧に輝く日輪然とした貴様の中にこそ、それは暗鬱(あんうつ)と広がっているのではないか」


「どんな闇がりを隠しているというの、私が」


そう問いつつも、自身の中に潜む冥闇(めいあん)の正体は怜子が一番良く知っている。


禁秘(きんぴ)とも呼ばれる、その闇がり。


「貴様と神のみぞ知るというやつだろうな、それは。だが―――私にだけは、教えてくれても良かろう?」


断髪の下の(あら)わになったうなじに両腕を回され、ほろりと落ちる夏椿の様に吐息が口をつく。

なす術も無く篭絡(ろうらく)される生娘の様に、こうして焔に絡みつかれたままどこまでも引きずり込まれそうな―――


「……怜様」


怜子は背後から呼びかける声に我に帰り、焔の腕を振りほどいてそちらを(かえり)みた。


「珠緒さん」


長い紅の袂と濡れ(がらす)の髪とを月明かりに引き立たせた麗人こそは、怜子の婚約者にして焔の妹である。


「なかなか戻られないものですから、あたくし心配して出てきてしまいましたのよ」


鈴を張った様な目をもの思わしげに細める珠緒に、母へとすがる幼子の如く見上げられては、さすがの怜子も憐憫の情を催さずにはいられなかった。


「御免なさいね、遅くなって」


彼女とホテルのレストランで夕食を共にする約束の前に、怜子は少し潮風に当たって、ここ最近のへたばった気分を(いや)そうとしていたのだ。

何気ない散策が予想外の事態により長引いたので、珠緒も待ちわびたのだろう。


「そちらの方は―――まあ、姉上ではありませんか!どうして怜様とご一緒に?」


「私も別邸から散歩に出たら、偶然落ち合ってな。つい世間話に花が咲いてしまった。お前の大切な怜子殿を独り占めしてしまった事、許しておくれ」


誰に対しても横柄な焔だが、ただ一人の可愛い妹に対しては思いやりのある姉として、そんな情に満ちた言葉を掛けるのだった。


「姉上と怜様は同級生の間柄ですもの、それは仕方の無い事ですわ。でも―――お二人の他に、どなたかいらっしゃったのではありません?」


そう珠緒が指さしたのは、砂の上に残された二種類の草履の跡。

一つは志津のもの、もう一つは幾度か立ち止まって揺蕩(たゆた)った事がその跡に表れている美夜のものである。


珠緒の指摘にも、焔はしれっと何食わぬ顔で答える。


「ああ、永盛(ながもり)と志津も来ていたのだが、二人とも私に気を遣って先に別邸へと戻ったのだ」


「別邸にいらしている御学友の方って、功子(いさこ)様の事でしたの。それなら姉上もそう言ってくださればよろしいのに。水くさいですわ」


永盛功子は、野々宮家と同じ武家華族であり軍人の家柄でもある、永盛男爵家の末娘だった。


親しい焔と共に中等科を卒業して士官学校に進学するまで、華族學院の日輪部で学んでいた彼女とは怜子も面識があった。

その関わりから美夜を探す際に、屋敷を訪れてみた事がある。


しかし、応対に出た女中の話では、彼女はここ数か月任務で遠い北の方へ行っており、休暇に東暁へ戻ってもいないそうだ。

病後の保養として孤月ヶ浜の別邸に身を寄せている、士官学校の学友との旧交を温める為、姉もそちらに寝起きしているとは珠緒から聞かされていた。


こんな出鱈目を(あば)けなかった自分が恥ずかしいけれど、姉の話に対してつゆほどの疑いも見せないあたり、珠緒の彼女への信頼は(あつ)いのだろう。


「ねえ姉上、今度怜様と二人で別邸の方に遊びに行ってもよろしいでしょう?功子様にご挨拶がしとうございますし。それに、お志津の顔も見たいもの」


「お前の家でもあるのだから来る事自体は一向に構わんが、しばらくは遠慮願いたい。永盛はまだ体が不完全な状態だし、志津にもそんな暇は無いものでな」


「……はい」


「そんなに残念がるな、珠緒。お前にはお優しい怜子殿がいるではないか」


姉の慰めに、妹は失望で曇っていた玉の(かんばせ)を桃色に染めて、はにかむ様に頷いた。

その手の上で転がされているとも知らず、支えとする姉へと一途に信頼を寄せているこの宝玉の娘が、怜子は哀れでならなかった。


「では、いずれまた何処かで逢おう。これから夫婦(めおと)になる者同士、睦まじく過ごせよ」


軍靴の足跡で美夜のそれを掻き消す様に上書きし、颯爽と立ち去る焔を追いかける事もできない。


怜子はただ、夜の海に映る月影を眺めるしか無かった。

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