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夏野のセレナーデ

ああ、と喘ぐように息をついて、美夜は()えた身を床の間のつやつやしい紫檀(したん)の柱にもたせ掛けた。


行き場の無い倦怠感(けんたいかん)が、朝から体を(むしば)み続けている。

昼食を済ませて自室に下がり、少し休息を挟めばだるさも引いてくれるだろうかと一縷(いちる)の望みを託したものの―――こうして宵の口を迎える頃になっても、倦怠感は治まるどころかさらに重く美夜の体の中で膨れ上がる。


それでも、どうにか立ち上がろうとした時。


どくりと跳ね上がった心音を契機に、全身を否応(いやおう)無しに包む熱。

甘い痺れを帯びた焦熱(しょうねつ)に襲われ、もはや身を起こしている事さえ出来ず、倒れ込む様に畳の上に伏せた。


これまでの症状は全て恐るべき事態の(きざ)しだったのだと、荒い呼吸を繰り返しながら、美夜はぼんやりと考える。

月影として生を受けた以上、決して逃れる事は出来ない本能の定め―――()()を迎えて、物狂おしいばかりの発情に美夜の体はすっかり(うず)き切っている。


今の今まで失念していた自分を(なじ)ってやりたいけれど、とてもでは無いが体の事まで気を使える余裕は無かった。


生きている実感というのも碌々(ろくろく)確かめられずにいたが、心は生きずとも体は生き続けているのだ。

この別邸に(かどわ)かされてから一月(ひとつき)近く経とうとしており、最後に月蝕を迎えたのはその直前だから、周期もぴたりと合う。


月蝕の周期というのも人によってばらつきがあり、不規則な発情に苦しめられる月影もいるらしい。

だが、美夜のそれは申し合わせたように正確で、時期が近づくと秋元医院から処方された抑制剤を事前に飲んでいたから、発情の辛さというのも(ほとん)ど味わわずに済んでいた。


しかし、月影の我が身を待ち受ける宿命を察知していたところで、この災難を振り払う手立ては無い。


後悔先に立たずとはよく言ったものだが、それよりも(きた)るべき破滅の予感に、美夜の魂はおののいた。

今この場に焔が姿を現せば最後、自分は筆舌に尽くし難い終焉(しゅうえん)を迎えるのである。


端麗な薔薇の花、(ある)いは極上の麝香(じゃこう)、はたまた如何なる芳香にも例えられぬ―――

だが、一度鼻腔をくすぐれば、どうしようもない衝動に支配されるのだと日輪達が口を揃える程、発情の際に月影が放つ誘惑香(フェロモン)は強烈に彼らを取り込む。


(つがい)の関係を結ぶ事によって、月影の誘惑香は相手の日輪のみに作用し、その日輪もまた他の月影の発情に影響を受ける事は無いとされている。


だが、美夜も焔も未だ伴侶(はんりょ)を持たぬ身である。

そんな自分達が本能の(おもむ)くままに突き進めばどうなるかは、火を見るより明らかであった。


欲情を呼び起こされた日輪女性の秘部の肉核は茎状に変化し、殿御(とのご)の陽根と同じはたらきを為して、その部分で月影と交わって子を(はら)ませるのだとか。

(たかぶ)った(くさび)で誰にも触れさせていない部分を穿(うが)たれて、姑息なやり方で純潔を散らされようと―――月影の性は、それさえも至高な(よろこ)びに変えてしまうのだろう。


焔の手練(てだれ)の性技に背をのけぞらせ、胸の中で呟く事さえ(はばか)られる淫語を口走りながら、嬌声を上げてよがり狂う自分を思い浮かべて、美夜は胃の中の物を全て吐き出しても足りぬ(おぞ)ましさに身悶えした。


雄を欲せずにはいられぬ淫蕩(いんとう)な性―――口さがない人々の中には月影をそう呼ぶ者もいるという。

彼らの言葉通りになってしまうのは忸怩(じくじ)たる思いだが、他でも無い美夜の月影としての本能が、心とは裏腹に日輪を渇望して止まなかった。


何者かの(ひそ)やかな気配と共に、廊下に面した障子が開かれるのを、美夜は怯えた神経で感じ取った。

まさか焔が、と身構えたが、障子の陰からその細面(ほそおもて)のみ覗かせる様に(つつし)んで正座しているのは志津であった。


「只今、御館様がお戻りになりましたので……」


そう粛然と告げ終わらぬうちに、弱り果てた美夜の姿に志津が息を飲む音が伝わってきた。


「どうなさいましたか―――」


小走りに美夜の元へ歩を進めようと、野々宮家の家紋が縫い取られた畳の縁は徹底して踏もうとしない。


「来ないで、ください……」


叢雲(むらくも)の掛かった月明かりに(さら)け出された、美夜の(みだ)りがわしい有様―――情痴に濡れた瞳、(なまめ)かしい表情、しどけなく乱れた襟元から見ゆる牡丹色に染められた素肌。

尋常種の彼女の目にも、月蝕を迎えた美夜が劣情の嵐に襲われている事は(さと)く付いただろう。


「これは、これは……」


全てを瞬時に理解した(しるし)として、呟きが機械的に志津の口から吐き出される。

いっそ、惨めに這いつくばった美夜を嘲笑ってくれた方がどんなに楽だろうか。


けれども、こんな状況においても志津は能面の様な無表情のまま、心中の見透かせない三白眼で美夜を見下ろしていた。


「必要とあらば、()ぐにでも御館様を呼んで参りますが」


物分かりの良過ぎる使用人というのも、時に脅威になり得る。


彼女の主人にしてみれば、この危難は美夜を我が物にするという本懐(ほんかい)を遂げられる、これ以上無い機会なのだ。

焔の忠実なる(しもべ)の志津が、それをみすみす逃す筈があろうか。


「やめてください。そんな事、絶対……」


前後不覚に陥りそうな熱の合間から、美夜は(あお)ぐ様にそう(こいねが)ったものの―――言葉の末は悩ましげな吐息に覆われて、儚く溶けた。


僭越(せんえつ)ではありますが、帯を(ゆる)めさせていただきましょう。そのお体では苦しゅうてならぬと存じますので」


(かばね)のそれの様に、骨張った青白い手が美夜の帯へとにじり寄ってくる。


「嫌、嫌です、やめて」


無駄と分かっていようと、足掻(あが)かずにはいられない美夜の様子も目に入らぬ如く―――志津は絞りの帯揚げに冷たい指先を掛ける。


「やめて!」


非力な体でそんな真似が出来たのが後になっても不思議な程、あらん限りの力を出し尽くして、美夜は両腕で思い切り女中を跳ね除けた。

そして、反動で後ずさると、がたりと手に何かが当たった―――花見のお重に似た形の、三段重ねの化粧道具の箱である。


一番下の引き出しを荒々しく手に掛けると、勢いで中の紅皿や白粉(おしろい)の刷毛が転がる。

胸惑うばかりの甘い香りが、宵の座敷に満ち満ちた美夜の誘惑香と混ざって濃艶に立ち上った。


その空気を振り払う様に手を伸ばした剃刀かみそりの柄を死んでも離すものかと握り締め、真正面から志津へ突き付ける。


「呼べるものなら、呼んで御覧なさい―――刺し(たが)えてでも、わたしの体には指一本触れさせるものですか……!」


(あらが)えぬ月影の(さが)が美夜の中で濁流の如く渦巻いて、途方の無い色欲に翻弄され切っていた事はたしかだった。


だが、一人の人間たる美夜の信念が、尊厳を(けが)されまいと叫んでいた事もまた真実なのだ。


百幸美夜として生まれ持った唯一無二の魂を、血濡れた因果の手なぞに(ほろ)ぼされてなるものか。


美夜はいつでも立ち上がれるよう片膝立ちに剃刀を構えて、(まばた)き一つしない志津との間に一定の間合いを保った。

一触即発の布陣にも似たそれを突として打ち破ったのは、外からの誤魔化しようも無い畏日(いじつ)の気配―――恐れている相手の到来を、月影の本能はすぐと感じ取った。


月蝕を迎えると、他者、特に日輪の接近に対して第六感が極めて鋭敏(えいびん)に動くのが分かる。


足音がする距離まで焔が差し迫ると、志津も早々に(きびす)を返してもと来た廊下に立ち返りざま、後ろ手にぴしゃりと障子を閉めていった。

部屋の入り口を塞ぐ形で、威儀(いぎ)を正して志津が廊下に三つ指をつくと同時に、軍帽も脱がない焔の影法師が薄紙を透かして畳の上に現れた。


美夜はその影から逃れる如く身をそらし、床の間の死角にしゃがんで隠れた。


「そこを退()かないか、志津」


そう命ずる焔の声にびくんと肩が上下し、戦いに(のぞ)む如く心臓が早鐘を打つ。


障子に隔てられている事で、美夜の誘惑香はどうにか座敷の中に留められていたが、それが破られるのも一刻を争う事態である。


けれど、もう後には退けない。

来るなら来い、と刃を握り締めた手に力を加える。


さあ、どうぞお入りくださいませと従順な返答とともに、志津は女中らしい気を利かせて焔に道を譲るのだろう―――だが、志津の影は体から根が生えた如く、身じろぎもしない。


「退け、と言ったのが聞こえなかったか。主人である私の邪魔立てをするつもりか?」


痺れを切らしたらしく、焔の声が次第に刺々しさを帯びていく。

元々寡黙で余計な口をきく事の無い志津だが、それを考慮しても不自然な長さの沈黙であった。


「美夜様は」


堅き岩根のひびから(こぼ)れた雪解け水の一滴の如く、志津の唇を伝う言葉―――それは折々細くなるものの、途切れる事の無い流れとなる。


「お体のお具合が、優れない御様子で。お熱も(たこ)う御座いまして、()せていらっしゃます」


(まこと)か。ふむ……(ちまた)で流行している夏風邪かも知れない。だが、妙だな。あいつは一歩も外に出ていないというのに」


「それはとんと分かりませぬが……御館様に(わずら)う姿をお目に掛けては申し訳無いからと、(わたし)めにお人払いを頼まれました」


手にした剃刀が指先から滑り落ちそうになった―――あの傀儡(かいらい)そのものの志津が、主君を(あざむ)いたのだ。


焔は不承不承(ふしょうぶしょう)と云った調子で腕組みをしていたが、それ以上追求する事も無かった。


(あい)分かった。貴様が責任を持って看病するのだぞ、志津。私の対の月影の身に何かあれば、貴様もただでは済まさぬからな」


「かしこまりました」


焔の影が消え、()せ返りそうな畏日の存在感が薄れると、ようやく胸一杯に息を吸う事が出来た。

臨界点に達していた緊張が弛緩(しかん)する事によって、安堵(あんど)で体の力が抜けていく。


目の前がふらりと揺らいだかと思うと、美夜は剃刀も投げ出して、朦朧(もうろう)と意識を手放していた。



目を覚ました時には、辺り一面にふうわりと夜の紗幕(しゃまく)が降りており、美夜は髪を()いて布団の中に横たえられていた。

水を絞って額に載せられた手拭いが、わずかながら熱を吸っていく。


襷掛(たすきが)けをして脇に控え、そっと美夜の顔を見澄ます志津の姿が、幽闇(ゆうあん)に染まった天井に仄白く浮いている。

寝ている間に彼女は美夜の体を()き清めてくれたらしく、着替えもさせられ、洗い立ての浴衣(ゆかた)の感触がさっぱりと肌に心地よい。


「志津、さん……」


「お気づきになりましたか。そのままで構いませんよ」


志津の言葉には、彼女が美夜に向かってぱたぱたと扇ぐ団扇(うちわ)のそよ風の如く、丁寧な中にも安心する柔らかな響きがあった。

そして、団扇を置いたかと思うと、白磁の吸い飲みを取り上げ、慣れた手付きでその先端を美夜の口元に()てがう。


「さあ、お口を開けてくださいませ」


美夜も強情を張らず、志津に頭を支えられるがまま、幼子(おさなご)の様な素直さでそれを口に含む。


少しずつ口内に流れ込んでくるひんやりとした液体は水かと思いきや、飲み下すと薄荷水(はっかすい)の様な、清涼感のある甘みが混じったほろ苦さが鼻から抜けていく。

けれど、不快な風味ではなく、美夜はこくこくと喉を鳴らして飲み干した。


その冷たさが血管を伝って、全身に行き渡ったかの様に―――身も燃ゆるかと思われた熱も段々と引いて、あれほど苦しめられた切ない月影の情欲も狭霧(さぎり)の晴れる如く消えていく。

ようよう身も心も休まった(こころよ)さに、ほうと深呼吸をしてから、美夜は淡く志津に微笑み掛けた。


「何かの、お薬ですか―――随分体が楽に」


「水出しの薬茶(くすりちゃ)です。……この別邸での()しもの場合に備えて、御姫様(おひいさま)の為に用意していたものが残っていて、良う御座いました。御姫様は少々、月蝕の重たい方でいらっしゃいますが、これをお飲みになると症状も(やわら)いでおいででしたから」


形こそ違えど、美夜が普段服用している抑制剤と似たものらしい。

それを志津が自分に与えてくれようとは―――信じられないながらも、一言では言い尽くせぬ志津への感謝に、涙ぐましくなるくらいのあたたかさが胸の中に広がっていく。


人の道に苦難は尽きない。

しかし、初めて怜子と出会った時の様に、ふとした所で思いも掛けぬ優しい手が差し伸べられたりするから、生きていく事を(いと)う気にはなれない。


安らいだ気だるさと共に、再び眠気がとろとろと、ゆりかごを揺らす手の様に優しく美夜を微睡(まどろ)ませる。

悠々(ゆうゆう)とした眠りの訪れも、いつ以来だろうか。


「志津さん、わたし何だか眠たくて……」


そんな事は百も承知と、志津が(うなず)く。


「月蝕というのは体力を消耗(しょうもう)するものです。今晩は妾がこうしてずっと夜伽(よとぎ)を致しますから、御心配無くお眠り遊ばせ」


目を閉じて、妾が数える通りゆっくりと息をなさってくださいと(ささや)く志津の声も、美夜は夢うつつで耳を傾けていた。


「ひとおつ、ふたあつ、みいっつ、よおっつ、いつうつ、むうっつ、ななあつ、やあっつ、ここのおつ……」


(とお)、とは聞こえなかった。




さやさやと夜風に触れ合う草の音は、(うつつ)のものか、それとも夢の中でするのか。

美夜は惑ったが、眼前に一面に広がる青田の風景が、過ぎ去りし日の記憶であると告げていた。


十五まで閉じ込められていた生家のある山間の集落を、何故自分が今さら夢に見ているのかは分からない。

けれど、夜空の月明かりの下に出られるのは、父に(しいた)げられ続けた日々の中でも、数少ない幸せな思い出だ。


家の財産を食い潰すばかりでまともに仕事もしていなかった父は、日が落ちると浮かれ(がらす)の如く、毎夜飽かずに山の(ふもと)にある街の盛り場へと()り出すのである。


美夜が一人歩きの出来る七つか八つくらいの年頃になると、そんな時には兄姉の誰彼がやって来て、内密に美夜のいる蔵の鍵を開けて外へ出してくれるようになった。

親しいとは言い難い兄妹の仲であったが―――元よりそう悪い人達では無かったらしく、自由を奪われた妹に同情する気持ちは彼らの胸にも存在していたのだろう。


「良いかい。夜が明けて、朝日が昇るまでには必ず戻ってくるんだよ」


暁の太陽がそびえる(みね)を照らし出し、夜が白々(しらじら)と山の彼方に消える頃になると、遊び(ほう)けた父は(とこ)()く為に家へと帰ってくる。

父の帰宅の際に美夜がいない事が分かっては一大事と、妹の手を引いて裏口から送り出す時、兄姉達は欠かさず念を押した。


集落の中でも美夜は生まれていない事になっていたから、他の村人の目に触れるのを避けていた事もあるだろう。

幼い美夜はそんな言いつけにも二つ返事で頷いて、遥かに広がる夜の世界に胸(おど)らせて飛び出していくのだった。


生まれて初めて足を踏み入れた外界は、狭い座敷牢の中しか知らなかった美夜の瞳にどんなに生き生きと鮮やかに映っただろう―――桃源郷を()の当たりにした人間の興奮を、美夜はしかと実感した。


野原の草花は美夜をさし招く様に夜風に(なび)き、小川は満天の星影を真珠の一粒一粒の如くその水面(みなも)に浮かべて、手を伸ばせば(つま)み上げられそうだった。

夜気の天鵞絨(びろうど)にも似た柔らさと、(まぶ)された香気の(かぐわ)しさが、埃っぽい蔵の中の空気で(かす)んだ美夜の身を(すす)いでくれた。


草木も眠る丑三つ時、人気の無い草原で幼子が駆け回ったり、花を摘んだりして遊ぶ光景というのはなかなか面妖だったに違いない。

だが、好奇心の(おもむ)くまま、自分の足で行きたい場所に行けるという自由を初めて手に入れて、美夜の世界は限りはあれど確かに広がったのだ。


過ぎ去った日々の彼方を追憶(ついおく)すれば、それは夏の夜の出来事であった。


夏は夜。月の頃はさらなり―――夏の良さが感じられるのは夜であり、月の出ている時は言うまでもなく素晴らしいと王朝の頃の女流作家が讃美(さんび)した季節は、美夜の記憶の中に確かに息づいている。

こう(うた)われた通り、夏野に夜風の吹き渡る月の夜が舞台であったからこそ()し得た出逢いなのだ、と美夜には思えてならない。


緑碧玉(りょくへきぎょく)の蛍の明かりも夢まぼろしの如く飛び()う村外れの沢のほとりで、美夜は竹蜻蛉(たけとんぼ)を飛ばすのに興じていた。

両手に(はさ)んだ軸を勢いを付けて回転させ、手を離すと命あるもののように月を(かす)めて舞い上がる。


「やったあ、飛んだ飛んだ!」


昼間、蔵の片隅に積み上げられた瓦落多(がらくた)の中に竹蜻蛉を見つけたが、飛ばしてみてもすぐに低い天井にぶつかって(はじ)かれてしまったから、広々とした夜空の下で飛ばせるのを心待ちにしていた。

そうして幾度も飽きずに同じ事を繰り返すうちに―――ゆくりもない一つの音が、不意に美夜の手を止めさせた。


美夜は行かれずに蔵の中からその喧騒(けんそう)(うかが)うばかりの、村祭りで鳴らされる太鼓や篠笛(しのぶえ)とも全く(おもむ)きを異にしているが、確かに楽器の音色である。

(にれ)の葉末に結ばれる夜露の如く、どこまでもしっとりと、あわれ深く耳に()み入る調べは誰が鳴らしているのだろう。


それはピアノの音であった。


美夜はピアノというハイカラな楽器を目にした事も、名さえ、音色同様耳にした事は無かったが―――ただ、妙なる響きに()せられた。

未知の物事に対して気を引かれるのは子供の常だが、それにしても見えない何かに導かれる様にして、美夜はその音の元を辿(たど)るのだった。


音色は夜風に途切れる事も無く、白樺の林の間をたよたよと、梢の一つ一つに触れる様なしなやかさで、美夜の髪をも撫でていった。


手遊(てすさ)びにその鍵盤に触れるというより、一つの形を()した楽曲であった。

訓練された指が縦横無尽に跳ね回る派手さは無かったものの、残響は嫋々(じょうじょう)として、奥床しい―――だが、突けば割れる泡沫(うたかた)の様なひ弱な演奏ではなく、その(しと)やかさの中に凛とした独立性がある。


しじまが天幕を張った夜にこそ、奏でられるのはふさわしい音楽であった。


手弱女(たおやめ)に似た白樺が立ち並ぶ林の突き当りに、一軒の西洋館がしんと建っていた。

その擬音がぴたりと合う程、落ち着いて、小さいながらも上品にまとまった家である。

切妻屋根を載せた、白い木枠の出窓のある長方形の建物は、村に一軒だけあった尋常小学校―――美夜は(つい)ぞ通えなかったけれど、何度か見に行ってみたそれに似ている。


屋根の張り出した玄関の横手の硝子戸は(なか)ば開かれて、深緑のカーテンゆらぐテラスの奥から音色は()れてくる。

探り当てるまま、そっとその中を垣間見ると―――まだ知らざりし、御伽噺(おとぎばなし)の世界が美夜の前に開かれた。


広くは無いものの、仰々しくもあらず、きちんとした装飾が(ほどこ)された板敷きの洋間である。

花の様な(シェード)を被せた小ぶりのシャンデリアは、橙黄色(とうこうしょく)の光を、闇に慣らされ切った美夜の目にも優しく浴びせた。


床の草花模様の絨毯、猫脚のテーブルや革張りの椅子、異国の港町を描いた風景画など、美夜の視線はあちらこちらを彷徨(うろつ)いてせわしなかった。

だが、部屋の最奥(さいおう)に据えられたグランドピアノ、そしてそこに腰掛けた()き手の姿を捉えて―――生涯忘れられぬ驚きに美夜の胸は轟いた。


美夜よりは幾つか年上に見える、うら若い乙女である。

首元で断たれた黒髪は、動きに応じてゆらゆらと、野葡萄(のぶどう)の瑞々しい色や、暮合の空の深まった色など―――様々な青みがかった色彩の舞踏を成し得た。

ちらと御髪(みぐし)の間から仄見える顔も、楚々(そそ)として麗しく―――繊細な睫毛(まつげ)に縁取られた涼しき目は、手元の鍵盤(けんばん)へと伏せられていた。


華奢な撫で肩の体を包む白衣(びゃくえ)も、今思えばネグリジェの(たぐ)いだったろう。

けれど、兄姉や自身の粗末なつづれ衣しか知らなかった美夜の目には、世にも(あや)なる天女の羽衣と映った。


レースの折り返された袖口から覗く両の手は、夢の中の囁きの如く幽玄(ゆうげん)な調べを奏でるのにお(あつら)え向きの細さであった。

清らかに美しい奏者に心酔しんすいするがまま、美夜はうっとりと溜息をついた。


世に又と無く美しき調べ、そしてそれを奏で(たも)うに相応しき君―――


恍惚(こうこつ)に浸っていた美夜は上の空に足を踏み出し、草鞋(わらじ)の爪先がテーブルの足にぶつかった何とも不格好な音で我に返った。

ピアノの演奏がはたと断ち切られ、時の止まったかとも思われる静寂が刹那を支配する。

乙女の瞳は、鍵盤から窓辺へと向けられ―――招かれざる小さき客人(まろうど)の存在に、大きく見開かれた。


美夜は大驚失色の有様を隠せず、うっかり草間から顔を出して猟師に見つかった野兎の(てい)で、逃げ出そうと咄嗟に身を(ひるがえ)した。


「待って!」


必死に美夜の(せな)へと投げ掛けられる叫び―――切に訴える様なそれが足を止めさせる。

彼女が早足に美夜の元へとやって来ると、美夜はびくついて身動きもまともにできなかった。


罵られたり、叩かれたりするのではないか―――常日頃から父の虐待に(さら)され切っていた美夜は、見知らぬ人を前にしてもそんな恐れに(さいな)まれて、ともすると泣き出しそうにわなわなと震えた。


「ごめんなさい、あの……」


だが、澄んだ目はどこまでも優しい眼差しを宿し、(いつく)しみの陽光の如く美夜へと注がれていた。

その唇から真白き皓歯(こうし)(てい)して、()きひとは美夜に微笑みかける。


御機嫌(ごきげん)よう―――いい夜ねえ」


いい夜―――本当にそうだった。


彼女と逢い()めた夜は、美夜の人生の中でも指折りの良夜の一つとなったのだ。


「この別荘にお客様が来てくださるなんて、初めてだわ。ね、折角だからゆっくりしていって頂戴」


そう言って彼女は美夜に目線を合わせる様にしゃがみ込み、快活に手を取った。

(くま)無き月明かりを浴びて白さを帯びた頬にも、生き生きと血の気がさしてくる。


「さあ、お座りなさいな」


勧められたのは、ピアノの手前に据えられた、座面と背もたれに若葉色の布がふっくらと張られ、それと共布(ともぎれ)のクッションが載せられたソファー。


今思い返すと可笑(おか)しいが、当時の美夜は柔らかなソファーどころか、畳の上に座った事さえ無く、蔵の冷たく固い床板しか知らなかったものだから―――放る様に草鞋を脱ぎ捨ててしまうと、おずおずとその上に正座した。


美夜の頓狂(とんきょう)な真似にも彼女はのどやかに目を細めたのみで、その振る舞いだけでも温和な人柄を示すのに十分だった。


「あらまあ。良いのよ、緊張しなくても」


両脇の下に手を差し込まれたかと思うと、軽々と抱き上げられて―――頬に触れる断髪の一筋から清爽な匂いが香った。

美夜を座らせざま、彼女も自分の膝を美夜のそれと突き合わせる様に隣へ腰を降ろした。


初めて座るソファーはあまりに弾力があり、どうかすると転がりそうだった。


「あなたはここの村の子でしょう。お年はいくつ?」


美夜が両手の指を開いてしおしおと示すと、彼女の笑みが深くなる。


「そう、(とお)。可愛らしいのね。私は十六なの。年は少し離れているけれど、お友達になってくださらないかしら。この辺りには誰も見知った方がいなくて、毎日退屈なのだもの」


お友達―――


兄姉から教えられて意味を知っていても、その言葉には聞き慣れない響きがあった。


生まれてこの方肉親以外との接触を絶たれていた美夜にとっては、実体はあれど朧気(おぼろげ)にしか存在を感じられないもの―――真昼の太陽や青空と同義であった。


だが、耳障(みみざわ)りな感じはしない。

それどころか、こんなに素晴らしい人との間にその(よしみ)を結べようとは。


けれども、ほんとうに自分が目の前のきれいな人と、お友達になぞなれるのだろうか―――

幼い美夜は、今まで経験した事の無い(まど)いに直面して、くらくらと目が回りそうだった。


美夜が悶々と座り込んでいると―――隣の彼女の口から咳が飛び出したのを引き金に、血でも吐き出しかねない苦しい息遣いが、隙間風の如くぜいぜいと由々しい不協和音を立てた。


ネグリジェの袖で口元を抑えたかと思うと、その整った眉間に憂う如き(しわ)が寄った。


「大丈夫?」


美夜があたふたと彼女の顔を覗き込むと、弱々しい笑みがもろい花の様に首をもたげた。


「心配しなくても良くてよ……私、どうも気管支が弱くていけないの。この村の空気は喘息を和らげるのに適しているとお医者様が仰るから、夏の間、ここに療養に来ているの」


きかんし、ぜんそく、りょうよう―――美夜にとってはどれもぴんと来ない単語の数々だった。


けれど、目の前の人がその美しい身を()んでいると思えば、不憫(ふびん)な思いがそぞろに湧いてくる。

それ程までに、気持ちがすっかりと彼女に惹き寄せられていた。


「ずうっと、このお家に一人きりなの?」


蔵の中に居なければならないわたしみたいに―――という問いをそっと言外に含めて、美夜は躊躇(ためら)いつつ尋ねた。

病の他にこのひとを苦しませる何かがあるとすれば、美夜も悲しくなってしまう気がする。


「いいえ。女中さんが一人、付いてきてくれているの。今、奥の部屋で眠っていらしてね。本当なら私も寝ないといけないのだけれど、お薬のせいかしら、どうにも目が()えてしまって。そのピアノを弾いていたのよ」


そう彼女が指さした先にあるグランドピアノ―――星を浮かべた夜空にも似た輝きを持つ漆黒のピアノは、その高貴さをいやが上にも一楽器の立場に留めおかない。


「あっ、わたし、この音を()いて来たの―――」


美夜はソファーをひらりと降りると、興味津々にピアノに歩み寄り、蓋が開かれたままの鍵盤や、幾つも分かれたペダルをしげしげと眺めた。

この楽器で、あの床しくも清らかな音色を夜空に綾なしたかと―――知ればなおなお慕わしい。


「まあ……あの曲を聴いていたのね」


彼女はピアノの上から数枚の紙片を取り上げると、美夜の前へと示した。


それこそは、正にその曲の息吹(いぶき)を綴りし楽譜であった。

いろはの文字も読めなかった美夜には、おたまじゃくしの様な音符の羅列(られつ)も何を意味するのかちんぷんかんぷんだったけれど―――御まじないを込めた護符と同じくらい尊いものと思えた。


「エリザベート・リヒターの『セレナーデ』よ」


エリザベート・リヒター……その人は海を遥かに越えた欧州の楽壇に生きた、アルファの女流作曲家であった。

若かりし頃、或るオメガの貴族令嬢のピアノ教師を務めていたが、その教え子と愛し合う様になり、駆け落ちの末に彼女と結ばれたという。


それらはずっと後になってから知った事だが―――誰かを深く愛する情緒豊かな人が生んだが(ゆえ)に、その曲も(おもむ)きに富むかと思われる。

けれども美夜にとっては、美しくも優しき人が奏でていたが為に、どこまでも思い出深く(しの)ばれる。


「せれなあで―――」


ようやく、溢れる思いを表す言葉を探り当てた如く、讃嘆(さんたん)に胸ときめかせて美夜はその名を繰り返した。


「小夜曲とも云うの。大らかな夜を旋律の内に宿して、一節を奏でるだけで月光の恵み深さを、星影の眩さを讃美せずにはいられない音楽なのよ。いつかは明ける夜の哀惜(あいせき)がありながらも、幾つもの物語を秘めていて、それが浮かび上がる様な浪漫に満ちているの……ね、お気に召して?」


美夜のほっぺたに自身の頬を寄せる様にしながら、一語一語に心の丈の情熱を込めた囁き―――それは名高い歌曲にも比すべきメロディーであった。


「わたし、このセレナーデとっても好き」


子供の素直な口ぶりで、美夜は自身の思いを包み隠さずに満面の笑みで言い表した。


「私も、この曲が一等好きよ」


美夜を見つめるそのひとの切れ長の双の目が、この上無く優しく細められる。


誰かと幸せな一時を共有して笑い合う、美夜にとっては初めての経験だった―――それが生涯の名曲(マスターピース)たる小夜曲、そしてセレナーデの君との出会いだったのだ。




彼女について、美夜は名前一つも知らぬまま別れなければならなかったから―――セレナーデの君、そう呼ぶのが何よりも似合わしい御名(みな)だろう。


「これからも、良かったら遊びにいらっしゃいな」


というセレナーデの君からの言葉で、それから美夜は夜ごとに彼女の居る別荘へと通う事となった。

そして、それまでも楽しみにしていた夜の訪れを、殊更に待ちわびる子となった。


月光の(うすぎぬ)の下に儚くも明るい真白の(はなびら)を開く月見草の如く、天に月が掛かるのがありがたく感じられて。

誰かが自分の事を待ってくれているのが、美夜には何より嬉しかった。


初めて出会った日は偶然の事で、セレナーデの君はゆるやかなネグリジェを召していたが、次の宵からは何かしらきちんとした衣装に身を固めていた。

夜風に裾はためくワンピースや、下に結んだ緋の半幅帯をちらと覗かせた、群青の袴。

着道楽の性質(たち)があったらしい、セレナーデの君のそんな装いの数々を目にするのも好きだった。


「あの綺麗な白いおべべ、もう着ないの?」


涼しげな柳を描いた淡い水色の(たもと)に甘える様にすがって、美夜はそれとなく訊いてみた事がある。


すると、化粧(けわい)の跡も有らぬセレナーデの君の無垢な頬に、さっと紅が()かれた。


「まあ……あれね、お寝間着なのよ。淑女(レディ)が人前でそんな格好するの、はしたないわ」


子供の美夜は、淑女の恥じらいというのにも明るくなく、きょとんと小首を傾げるばかりだったけれど―――そんな心映(こころば)えの一つにも、何とはなしに慕わしさを感じるまでとなっていた。


美夜が訪ねていくと、セレナーデの君はリゲルの如き聡明な瞳をぱっと輝かせて迎えてくれた。

そして、目隠し鬼をして遊んだり、故郷である帝都、東暁(とうきょう)の話をしてくれるのである。


山の高さ程もあるビルディングが立ち並び、夜がその(とばり)を降ろしても煌々(こうこう)と明るく、その不夜城の中でそれぞれの人生を生きる人々が集まる都市―――

悠遠の彼方、まだ見ぬ場所の物語は、美夜にとって常世(とこよ)の国の奇譚(きたん)の如き神秘の念を抱かせた。


「どのくらい歩けば、東暁には行かれるの?」


何も知らない子供の幼い口調で尋ねれば、セレナーデの君は姉さまらしくふふと笑う。


「歩きだと遠くて遠くて、とても辿り着かれはしなくてよ。陸蒸気(おかじょうき)を幾つも乗り継いで……」


陸蒸気というのは、(りゅう)の様に大きく長い、黒鉄(くろがね)の体を持つ乗り物であるそうだ。

煙をもくもくと吐き出し、凄まじい轟音の唸りを上げて大地を駈けるのだとか―――


「わたしも、東暁に行ってみたいな……いつか」


叶わぬ望みであると知りつつも、何にも染まらぬまっさらな憧れの翼を、深山(みやま)の向こうへと飛ばさずにはいられなかった。




夜の静けさの内に繰り広げられた(たわむ)れの中でも、美夜の一番のお気に入りは、その名の通りセレナーデの君との(えにし)を結ぶきっかけとなった小夜曲の演奏だった。


あの曲を弾いてとセレナーデの君にせがめば、白蝋(はくろう)の指先は麗しく鍵盤の上で舞い、その音色は素晴らしい(あま)足夜(たりよ)を更に尊いものと美夜に感じさせた。


毎夜毎夜、あんまり美夜が小夜曲をねだるので、ある時セレナーデの君は苦笑交じりにその理由(わけ)を問うた。

美夜はもじもじと、手を揉みしだきつつ答えた。


「だって、こんなに素敵なセレナーデを聞いたら、夜を()べる月読命(つくよみのみこと)も夜明けを来させようとはお思いにならないでしょう。そうすれば、わたし達お別れしなくても良いのだもの」


願わくば夜を(とど)められたし、と美夜は暁闇(ぎょうあん)(とばり)の綱を握る月読へ、一途な祈りを何度捧げただろうか。

朝の日の(もと)に生きるのを許されず、夕べに月の(おもて)のみ仰げる境涯に生い立った身であるから。


セレナーデの君は美夜の言葉に沁々(しみじみ)と胸を打たれた如く、その睫毛(まつげ)を震わせて―――抑えかねた思いのままに、美夜をブラウスのしなやかな御胸(みむね)へと抱き寄せるのだった。


「なんていじらしい子なのかしら、あなたは」


楽しければ楽しい程、時というものは瀬を早む滝川の如く、あっという間に過ぎ去ってしまう。

美夜はセレナーデの君と夜の一時を共にする様になって、時間というものの呆気なさを知った。


|明けやすい夏の短夜(みじかよ)であれば、その忍び逢いのむなしさたるや、ただ夏の夜の夢の如しであった。

朝まだき、み空の紺藍が薄れていく有明になれば、後ろ髪を引かれる思いで暇乞(いとまご)いをせねばならなんだ。


宵の風情をわずかに残し置く夜露にその裳裾(もすそ)を濡らして、咲き(いで)ぬ朝顔の蔦絡む門まで、セレナーデの君は美夜を見送ってくれた。

垂れ絹の如く立ち込める朝靄(あさもや)の中に、美夜に向かって手を振るその御姿(みすがた)薄れていく様が、何とも(かそけ)く―――


幾度もセレナーデの君を見返るうちに、いつしか美夜の瞳にもほろほろと夜露が(あふ)れてしまう。


夏という季節は、抜けるような青空と遥か高く切り立つ入道雲の眩しさとを、人に思い出させるだろう。

けれども、夜より他生きる世界を知らなかった美夜には、夏の象徴(シンボル)とは広大無辺の夜空と、それを(あまね)く照らせる月であるのだ。




とある夜、いつもの如く美夜がセレナーデの君を(おとな)った時のこと。


「少し、御免(ごめん)してよ」


そう前置きするなり、セレナーデの君の指先が美夜のほっぺたを、むにゅとつまみ上げた。

(つね)られる様な痛みは無かったものの―――一体何をされているのかと目を(しばたた)かせつつ、美夜は彼女の()すがままに任せた。


その後もセレナーデの君は、美夜のおさげをくいくいと軽く引いてみたり、そっと肩に触れたりを一頻(ひとしき)り繰り返す。

まるで一筋の光も射さぬ闇の中、(めし)いた目によらず手探りで何かの形を(とら)えようとする人の様だった。


「もう、良くてよ」


(しば)し経って、セレナーデの君は何やら納得した表情で手を離すのだった。


「何をしていたの?」


音無しの構えを解かれた美夜はほっと息をついて、(ようや)く尋ねる事ができた。


「いいえ、大した事では無いのよ。でも、あの、笑っては嫌よ。私てっきり、あなたが月見草の精ではないかと思って……この体は本物かしらと」


十六にもなりながらこんな戯言(ざれごと)を―――とセレナーデの君は頬に手を添えて恥じらっていたが、大真面目を極めていた先程の彼女を、どうして美夜が笑えようか。


「だって、月の出る宵でなければ姿を見せてくれないのだもの」


夜だけと言わず、日の出ている昼間にも足を運んでくれまいか、別荘の門はいつでも開けておくからと美夜はセレナーデの君から再三に渡って()われていた。


しかし、それも土台無理な話であった。

勿論、美夜だってそれが叶えば、どんなに良かろうと思わない訳では無かったけれど。


日暮れた後にしか姿を見せぬ美夜を、セレナーデの君が人ならざる(あやかし)の類と思い込んだとて無理からぬ事であろう。


「私、あなたはこの村のお百姓さんの子で、昼間はお父さんやお母さんの仕事を手伝うのに忙しいのかと思ったのだけれど……日に焼けてもいないし、この手だって肉刺(まめ)胼胝(たこ)も無くて、力仕事をしているようには見受けられないわ」


ひ弱な両手を取られつつ、美夜はセレナーデの君の観察眼の鋭さに恐れ入るばかりだった。


美夜がもう少し年を重ねていたり、人と話すのにも慣れて嘘をつく事を知っていれば、自分の憂身(うきみ)を偽る術もあっただろう。

けれど、こんな時にどう場を(しの)いだら良いものか、美夜は全く無知そのものだったから―――半ば白状する心地で、重い口を開く他は無かった。


「わたし、お日様の出ている間はお外に出たらいけないの。おとっつぁんがいるから……でも、夜になれば兄さんや姉さんが出してくれるの」


一つの閃光(せんこう)が、セレナーデの君の目を走った。


「お父さんがいるから?……何故?」


その目は、正面から美夜に合わされる。

人を射る様な(はげ)しさはなくとも、鋭く研ぎ澄まされた理知の宿る目である。


まじろぎ一つもせずにその目で見つめられれば、黙りこくっている訳にもいかず―――けれど、何と答えれば良いやら。


「だって、だって、いけないんだもの。おとっつぁんがお家にいる間は、どうしても……」


美夜は蚊の鳴く様な声で言い訳がましくそう()べたきり、後は沈黙で濁さざるを得なかった。


セレナーデの君も、もう重ねてしつこく問いはせず―――静かに瞑想する如く(まぶた)を閉じて、何かしら考えを巡らせる様子でいた。

温和な中にも、一本しかと(しろがね)の糸を張った様な怜悧(れいり)さを見せるひとであった。





セレナーデの君の賢明な性質は、ふとした時にその片鱗(へんりん)を見せるのだった。


そんな逸話の中に、小さくも美夜の中に強く印象づけられた、一つの夜咄(よばなし)がある。


「さあ、良いものをあげましょうね」


目隠し鬼で疲れた美夜をソファに座らせ、こう言ってセレナーデの君が戸棚から取り出したのは、見ているだけでも心(おど)る華やかな装飾が施された、蓋付きの錻力(ブリキ)の缶だった。


一体何が納められているのかと美夜が固唾(かたず)を飲んで見守る内に、セレナーデの君の手によって蓋は開かれた。

缶の中には、まるで七彩(ななあや)の珠玉の如く、セロファンの衣裳を着せられたキャンディが敷き詰められており、どれもこれもシャンデリアの()にきらきら耀(かがよ)うていた。

甘味なぞ口にする事も、ましてや目にする事も滅多に無かった美夜は、物珍しい西洋菓子の数々にすっかり面食らってしまった。


「どれでも好きな味をお選びなさいな。美味しいのよ」


セレナーデの君は美夜へと缶を差し出しつつ、自分でも透明な包み紙の、水晶の珠の様な薄荷(はっか)味を指先につまみ上げる。


苺の紅玉(ルビー)にブルーベリーの蒼玉(サファイア)、青林檎の翠玉(エメラルド)葡萄(ぶどう)紫水晶(アメジスト)――

一つ一つの味についてセレナーデの君から説明されようと、美夜はぎゅっと握り締めた拳を膝の上で揃えたまま、人に化けた言葉を知らない子狸の如く黙していた。


「どうかして―――」


怪訝な面持ちでセレナーデの君に顔を覗き込まれ、美夜は辛うじて静寂(しじま)を破りえた。


「わたし、選べない」


自分の好みで飴玉を選ぶくらい何を出来ない訳があろうか、白痴(はくち)でもあるまいし―――幼い美夜の諦めそのものの言葉は、こう言ってのけられるに違いない。


(まこと)の自由を生まれた時から持ち得ていた人ならば、そうだろう。

食べ物に限らず自分の意思で何かを選ぶなぞ、美夜はその時まで全くした事が無かった。


美夜にとっての食事とは、兄や姉達が蔵に運んでくるお膳に載せられたものを、受動的に口へと運ぶだけに過ぎなかった。

今まで与えられる事の無かった選択肢を、目の前に幾筋も幾筋も示されて―――何を選べば良いのか、そもそも自分が何かを選ぶ事が許されるのかも分からない。


やり切れなさのあまり、美夜は懊悩(おうのう)の呻きを上げそうだった。


両の手は強く握り締められたまま、そのまま固まりそうになっていた。

そんな美夜の手に、小夜曲を奏でんとピアノの鍵盤にそっと触るるが如く、柔くも添えられたのはセレナーデの君の双手である。


抑えつける荒々しさも無しに、君の手はどんなに美夜の震えを鎮めてくれただろうか―――続いて、その手つき同様に物静かにして、凛と澄んだ囁きが清風の如く起こった。


「あなたが自分の意思で選んだ事を、正解か間違いかなんて決めつける権利は誰にもありはしなくてよ―――勿論(もちろん)、私にだって。ね、あなたはあなたの思う(まま)、どんな事も決めて構わないのよ」


美夜にとっては、天からの福音(ふくいん)を聞く心地がした。


ほんとうに、ほんとうに……こんな自分でも何かを選んでいいのだろうか?


ありとあらゆる自由を禁じられて育った美夜は、小さな事を為そうとするにも後ろめたさを覚えて、隣に座るセレナーデの君を不安げに仰いだ。

セレナーデの君は(しと)やかな気品をもって()まいつつ、目には怜悧な光を宿して(うなず)く。


それでは―――と真っ直ぐ缶の中に伸ばされた美夜の手に、ゆらぎは無かった。


「あら、オレンジ味を選んだのね」


温暖な南の国で太陽を一杯に浴びて育つという、オレンジの果汁が練り込まれたキャンディは包み紙を剥がされ、おそるおそる美夜の口へと運ばれた。


舌の上で転がせば、オレンジのキャンディは日だまりのうららかさを美夜に感じさせながら溶けていく。

宝石に(なぞら)えるにしても、太陽の光を結晶させたとも言われる命ある日長石(ヘリオライト)の玉に例えられただろう。


生まれて初めて自分で選んだキャンディの美味にして甘露であった事―――何かを口にして、おいしいと感じたのはあれが初めてである。

それから幾年(いくとせ)、折々怜子から頂くおすべりの西洋菓子の中にその包みを見つけると、口に含んだその甘さと共に、じんと胸に沁みる懐かしい思いを味わわずにはいられなかった。


ささやかな飴玉の一粒さえも、美夜にとっては思い出の忘れ形見(スーブニール)である。




身を刺す寒さの中に()いて、ほのかにも温かな陽射しを浴び、萌えいづる薄紅色の桜の(つぼみ)の如く。


美夜の小さな胸の中に芽生えた想いは、何という名を付けられるべきか。

友愛であろうか、(ある)いは―――初恋、とも呼ばれるのではあるまいか。


セレナーデの君に寄せた気持ちが何であったのか、幼い美夜にはあまりに(おぼろ)であった。

今となっても、(つまび)らかに断言する事は出来ないだろう。


いずれにせよ、生まれて初めて誰かに感じる(した)わしの情は、孤独の生を送っていた美夜をどんなに(なご)ませてくれたか知れない。

そんなセレナーデの君を、如何(いか)にして幾年月(いくとしつき)の流れの中に(ほうむ)り去りえた美夜であろうか。


けれども、その麗しさ、賢さのみに忘られぬ(いと)し君であるかと問われれば、()にあらずと声高に叫ぶだろう。


どんなに幸多かりし夜とて、明けない夜は無い。


しかし、()のひとのみ奏でる事のできる、セレナーデの一節は―――想いの胸に宿されるが如く、美夜の生涯を決定づけた夜を永遠にその内に秘めるのだ。

その夜は、一月影の少女に真の命が与えられ、百幸美夜という人間が生まれた運命の夜であった。




夜の沈んだ後には必ず朝日が天に昇るという(ことわり)と同じく、別れこそ人の世の定めであると悟るのに、美夜はあまりに世界を知らない子供であった。


初めて彼女と出逢った日の如く、月の安らかにも晴れ晴れと夏野を照らすその夜も、美夜はセレナーデの君に小夜曲を弾いてくれるよう無邪気に()うた。

セレナーデの君も(こころよ)く引き受け、その綺麗な指を鍵盤に滑らせながら、澄んだハミングを小夜曲の旋律に被せるのであった。


だが、その唄も儚いばかりに細くなっては、途切れがちになる。


(しま)いには幾度も指を弾き外して、その度に美しい眉を曇らせるのであった。

不穏な(うれ)いが、その胸には伸し掛かっていたのだ。

 

ピアノの(かたわ)らに立って彼女の演奏に見入る美夜も、心細くなってしまった。


やがて、その愁いを持て余した様に鍵盤から手を下ろすと、つと躊躇(ためら)いの色を目に見せて、セレナーデの君は問わず語りを始めた。


「……私ね、もう東暁へ帰らなければならないの。学校が始まるものだから」


口をついた清音の、何ともやるせない響き―――半ば消え入るばかりに絞り出された言葉は、どんなに美夜を失望させただろうか。


「東暁へ―――」


夏の短い北国の村には、凍えるばかりの猛烈な吹雪の先がけともなる、冷涼な秋風が立ち始めていた。


日常を巡る季節の中で、美夜は冬が一番好きになれなかった。

悲しみを氷結させた様な白雪が降り積もった後は、蔵の中に閉ざされるばかりであったから。

そんな季節がやって来る事を、どこかで見て見ぬ振りをしていた気もする。


表情を取り(つくろ)う事を知らなかった幼い美夜は、悲嘆そのものの顔をしていたに違いない。

セレナーデの君はそんな美夜を慰める様に、年上のゆとりで努めて気丈に微笑んでみせる。


「私、あなたの事は本当に大切なお友達だと思っていてよ。あなたもそうではなくて?互いに忘れず想い合っていれば、いつかきっと、また()えるわ」


「ほんとうに、また逢えるの?」


生まれて始めて味わう、それも慕わしいひととの別離は身を切られるばかりに辛く―――美夜は彼女に泣き(すが)らんばかりであった。


「ええ、本当よ」


セレナーデの君がそう言うならば、と美夜は涙を呑んで、こくりと頷いた。


「だからね、お名前を教えて欲しいの。決して、あなたの事を忘れないように」


美夜とセレナーデの君とは、それまで互いに名前を呼び合ったりする事は無かった。

二人きりの夜には、目配せだけで呼応は十分に出来たから。


名を尋ねられる―――そんなごくごく当たり前の現象に、美夜の表情は瞬く間に固まっていった。


「ね、何と云うの、あなたのお名前は?お松ちゃん、お竹ちゃん、お梅ちゃん、お鶴ちゃん、お亀ちゃん?」


セレナーデの君は椅子に腰掛けたまま美夜の肩に手を掛けて、(むつ)まやかな語らいをする様に問う。

美夜の表情は依然として強張(こわば)ったまま、どの名にもかぶりを振って否、否と答えるのであった。


「後生よ、教えて頂戴」


()れて唇を尖らせつつ、戯れて興じるが如く問いを重ねるセレナーデの君へと、どんな言葉で我が身の数奇を明らかにしようか―――けれども、美夜には事実を有り体に述べるより他無かった。


「分からないの。誰も、わたしの名前を呼ばないのだもの」


その刹那、セレナーデの君の(おもて)()ぎった、絶望にも似た表情を何と言い表そうか。


けれども、無い名はどうしたって名乗れない。

この世に生まれ落ちてからというもの、家族さえも名を呼んでくれる事は一度として無く、父はぶっきら棒に「此奴(こいつ)」、兄や姉は申し訳なげに「お前」と娘や妹を呼び慣わした。


兄や姉達は、きちんとした名を持っていたのに―――父は名付けを含め、子供達には全くの無関心で、彼らの名前はどれも亡くなった母が付けてくれたそうだ。

美夜を含めて十人近くの子を生んだ母は、生後間もなく死んでしまった赤ん坊にも名を与え、手厚く(ほうむ)る事を忘れなかったという。


自分のお産でその短い生涯を終えた彼も、せめて名付けの披露をするお七夜まで生きていてくれたなら。

生まれてからの十年間を名無しで過ごさなければいけなかった美夜は、そんな叶わぬ夢を描かないではいられなかった。


どんな(みじ)めな境遇に生まれ落ちた持たざる人間とて、自分自身を表す名だけは最低限持っている筈だ。

魂の(うつわ)たる名前を与えられて、初めて人は人としての自我を持って生きていかれるのだと―――


名を持たない人間なんて、()()最早(もはや)人ではない。

そんな当たり前のものさえ、父は自分に与えるつもりは無かったに違いない。


売る子に名前なぞいらない、という事もあったのだろう。


「お父さんもお母さんも、あなたに名前を付けてはくれなかったの」


見も知らぬ激情が、セレナーデの君の双眸(そうぼう)には満ち満ちていた。

(いきどお)り以外の何物でもなかった。


明鏡止水(めいきょうしすい)そのものの心の寧静(ねいせい)を保つセレナーデの君が、その様な(はげ)しい感情を(あら)わにしようとは。

美夜は呆気(あっけ)に取られつつ、慌てて弁明した。


「仕方無いの。だって、わたしが月影だから」


月影だから。


遣る瀬無いばかりに悲しい響きを持つ、その言葉―――

美夜を取り巻くありとあらゆる因果(いんが)をまやかし、心の痛みを偽る常套句(じょうとうく)であった。


そうした言葉の幾つもを、同じく月影の兄や姉から聞かされ続けて美夜は大きくなった。


自由を奪われて、蔵の中一人ぼっちで過ごさなければいけないのも、仕方無い。

兄や姉達と共に父から虐げられるのも、仕方無い。

人として生きられないのも、自分が月影であるのだから、仕方無い。


「仕方の無いものですか!」


そんな風にセレナーデの君が語調を強め、大声を上げるのも初めてだった。


美夜のいたいけに細い首筋を覆う、粗末な革製の月影の象徴へと、その目はまともに向けられた。

平生は凪いだ水面(みなも)静穏(せいおん)を映す瞳は、ない交ぜになった義憤や哀情によって幾つもの波紋を生じていた。


「仕方の無いものですか……」


セレナーデの君の異議が再び繰り返される―――嘆く様に、そして訴える様に。


名も与えられず、日の出ている間の一切の自由を許されない月影の少女―――断片的な情報からでも、賢い彼女ならば美夜の育った環境がどんなものであったか、容易に想像しえただろう。


セレナーデの君はふっと立ち上がったかと思うと、清々しい群青の袴の裳裾(もすそ)を床に伸べて(ひざまず)いた。

ひしと抱き締められると、彼女の中に渦巻く熱情が(かいな)を伝って、我が身をも震わす気がした。


生まれてから幾度となく味わわされた苦しみも、悲しみも、全ては自分に原因があるのだと、美夜は半ば犯した罪咎(つみとが)を悔いる様に自らを責めていた。

こうして、月影に生まれてしまったばかりに―――けれど、それは本当に正しかったのだろうか。


出窓から流れ入る月明かりは気高いばかりに皓々(こうこう)と、雲に覆われようとその光を絶やす事は無かった。


「きっと幾夜(いくよ)もの、孤独な夜を過ごしてきたのでしょう。悲しい事も沢山あったでしょう」


美夜は返事に()えて、山際を染める白に近い淡藤色から天高い紺青まで、夜明けの空の如き濃淡を見せる、セレナーデの君の着物の袖をぎゅっと掴んだ。


セレナーデの君は、うつむいて前屈みになった美夜の背中を撫でていたが、やがてその身を離して毅然と宣言した。


「だったら、私があなたに名前を付けるわ」


彼女はきょとんとした美夜の目を覗き込んで、誓いを立てる如く(おごそ)かにも真摯に―――その言葉は夏野を吹き渡るセレナーデの様に、美夜の胸の中に響いた。


「あなたのこれからの夜が、幾百の幸せに満ち(あふ)れた美しいものであるように―――百幸(ももゆき)美夜(みよ)、と」


どんな形容詞を(もっ)てしても、その時に美夜の中を(ほとばし)った感情の全てを言い尽くす事はできなかっただろう。


百幸美夜という名こそは、美夜の生涯を通じて一等尊い贈り物であった。

それをセレナーデの君から(じか)に手渡され、一往深情(いちおうしんじょう)の感動が美夜を揺さぶった。

心の奥底で、何かが芽吹いた音がした―――美夜は、確かにそれを聞いた。


如何なる贅を極めた捧げ物をして、この奇跡に代えられただろう。

美夜が自分の名を何よりも誇りにし、心からの愛着を感じていた事は、言わずもがなであった。


「それが、わたしの名前なの?本当に、わたしにも名前ができたの?」


この天にも昇る心地を胸に秘めたまま、黙っている事なぞ出来ず、美夜はすぐさま伏せた顔を上げて早口に問い返した。


「ええ、そうよ。百幸というのが姓で、美夜というのがあなた自身を表す名前。……まあ、どうしたの」


セレナーデの君が、おろおろと慌てふためくのも無理は無かった。


熱い雫を、幾つも幾つも目に()かして―――溢れた(したた)りをはらはら散らしながら、美夜は天を仰いで泣き崩れんばかりに嗚咽(おえつ)を上げていた。


どこか痛いのかと尋ねられても首を振るばかり、いかんとしたものかと困り果てたセレナーデの君に、美夜はひっくとしゃくり上げながら(かろ)うじて伝えた。


「わたし、嬉しいの。嬉しいの、すごく……」


悲しみの涙は数え切れない程流してきたが、嬉しさのあまり泣くのは生まれて初めてだった。


あまり大きな声で泣き過ぎると五月蝿(うるさ)いと父が怒鳴り込んでくるから、美夜はいつも声を殺して、一人きりで涙を流していた。

そんな掟も全て忘れて、ただ心の震えるままに声を上げて泣ける事さえ嬉しかった。


名無しの月影に過ぎなかった自分が名を与えられ、一人の人間になれたという事実が、闇の中に現れた明かりの様に美夜の心を照らした。


嗚呼、と胸詰まるばかりの感嘆の溜息がセレナーデの君の口を()いて出る。

そして、愛しくてならぬとばかり美夜を抱く腕にさらに力を込めると、房々(ふさふさ)とした前髪を指先で掻き分けて―――美夜の上気した額に、接吻(くちづけ)をひとつ授けた。

天女の羽衣で撫でられたか、はたまた慈悲の雨の雫を降らされたか―――それほどまでに、肌触りのやさしい唇であった。


何という得がたい祝福の(あかし)であろうか。

兄や姉にさえ貰った事の無い(いつく)しみの愛撫を、セレナーデの君から数多(あまた)与えられたよろこびを、美夜は今となっても忘れる事は出来ない。


生まれてきて良かったと、初めて魂の底から思えた瞬間だった。


否―――あの夜こそは、美夜に本当の生が与えられた(よみ)すべき夜であったのだ。


それから、セレナーデの君は窓辺のライティングデスクの上で、百幸美夜という名前の(つづ)り方を教えてくれた。

セレナーデの君がお手本として紙に書いてくれたものを、名付け親である彼女に手伝ってもらいながら、どうにか写せた。


今まで触れた事も無い鉛筆をぎこちない手付きで握って書くのだから、随分不格好な字だったと思うけれど―――生まれて初めて記した自分の名を見て、飛び上がりたい様な気持ちになったのを覚えている。


手製の命名書を持って雀の子の様に小躍りする美夜を、セレナーデの君は目を細めて微笑ましそうに眺めていた。

だが、ふと浮かび上がった疑問に、美夜はぱたりと足を止めて彼女を振り返った。


「わたしの名前は美夜になったけれど、おねえちゃんの名前は何と云うの?」


セレナーデの君は虚を突かれた様子だったが、未だ自分の名を美夜に明かしていない手抜かりに、恥じ入って頬を染めた。


「まあ、私ったらうっかりして……そうね、私の名前も教えなくてはならないわね。私の名は子で終わる、ごくありふれたものなの。父が付けてくれたそうなのだけれど―――」


どんな名であろうと、美夜は慕わしいひとの命そのものである御名(みな)が知りたくてならなかったから、教えてとせがんだ。

セレナーデの君はしゃがみ込んだまま美夜を手招きし、とことこと素直に近づいた美夜の手を、自身の両手でそっと引き寄せる。


「私の名はね……」


彼女が自身の名乗りに要した時間は、実際にはほんの寸秒だっただろう。

けれども、固唾(かたず)を飲んでその瞬間を待ち焦がれる美夜にとっては、太陽と月が生まれてから互いに惹かれ合うまでの、久遠(くおん)の時が流れるとさえ思われた。


「やっぱり、此処(ここ)にいやがったか」


真清水に垂らされた墨の如く、男のしゃがれた声が夜の(きよ)い静けさを乱した。


美夜の額に祝福を与えたセレナーデの君の唇がはたと閉じられ、視線は美夜のそれと共に、表に面した硝子戸の元に立つ闖入者(ちんにゅうしゃ)の姿を捉えた。


裾が乱れてむさ苦しい毛脛(けずね)の覗く、不精な着流し姿。

酒浸りの不摂生を差し引いても、胡乱(うろん)に濁り切った目。

片腕を乱雑に(ふところ)へと差し入れて、もう片方の手で煙たなびく煙管(キセル)(もてあそ)んでいる。


「―――おとっつぁん」


現れる筈の無い父親の姿に、美夜の顔は(またた)く間に血の気が引いてしまった。

その宵も父はいつもの如く、山裾にある街の盛り場へと出掛けていたのに。


「餓鬼の分際で、俺の目を掻い(くぐ)って抜け出すたあ良い度胸じゃねえか、なあ?今夜はたまたま博打(ばくち)で負けが(かさ)んで帰ってみれば、蔵の中に手前(てめえ)は居ないときてやがる。他の餓鬼共をとっちめてやったら、村外れにある東暁からの金持ちの別荘に行ってると言うじゃねえか」


父の辺りを(はばか)らぬ高圧的な口上(こうじょう)にも、美夜は身も世も無く震えるあまり、何も言えなかった。


以前兄や姉達に、夜の間どこに行っているかを尋ねられて、嘘をつく必要も無いから正直に話してしまった事がある。

もっとも、父に恫喝(どうかつ)されつつ問い詰められれば、彼らだって答えない訳にもいかなかっただろう。


「全く手子摺(てこず)らせやがって。帰ったら存分に仕置きを加えて、二度とこんな真似が出来ねえようにしてやるからな」


引っ()らえようと伸ばされた父の腕から、セレナーデの君は美夜を(たもと)の陰に庇い、正々堂々と言い放った。


「あなたの様な方の元に、この子を帰す事は出来ません」


セレナーデの君の凛乎たる態度にも、父は(はな)から人を食った薄笑いで相対した。


「東暁から来ている御令嬢ってのは、あんたの事か。其奴(そいつ)は俺の子だ。自分の餓鬼をどうしようが、あんたには関係ねえだろう」


「何が父親ですか……!この子の自由を奪って、あまつさえ名も付けないなんて。父が実の娘にする仕打ちとは思えません」


口調こそ丁寧であったものの、父を糾弾(きゅうだん)するセレナーデの君の声音は、押し殺した怒りに冷たく戦慄(わなな)いていた。

それでも美夜には指一本触れさせまいと、自身の背後に(かくま)って父から守る事は(ゆるが)せにせぬ(したた)かさである。


「嬢ちゃん、あんた―――日輪だろう。俺ぁ自分の同類は、においで分かるんだよ」


せせら笑い混じりの父の言葉が単なる《《はったり》》でない事は、セレナーデの君の心臓を掴まれた様な表情からも明らかであった。


「その様子だと、図星らしいな」


父の下卑た笑みがますます深くなる。


セレナーデの君が、日輪であるとは―――

この世で日輪と云えば、暴君である父の存在しか知らなかった美夜にとっては、(いつく)しみ深い彼女が父と同じ第二の性を持つなぞ、(にわか)に信ずる事は出来なかった。


「あんたも日輪ならば分かるだろう。月影の連中なんてのは、所詮(しょせん)は俺達の為に作られた存在だってのが。日輪がいなけりゃ、生きていく事さえ出来ねえんだ。月影の娘をどう扱おうと、それは日輪である俺の勝手じゃねえか」


父が野放図にそう言い散らす間、セレナーデの君は無言で足元を見つめていたが―――やがて(おもて)を上げると、静粛な内にも威厳を含んで自らの信条を述べる。


「月影だって、独立した命を持つ対等な人間である筈です。例え親であろうと、その自由を(けが)して良い訳がありません」 


気高く輝きし真の太陽を、美夜は仰ぐ心地がした。


あの時のセレナーデの君の英姿颯爽(えいしさっそう)とした振る舞いこそは、日輪と呼ばれるにふさわしきものではなかったか。

月影の美夜のみならず、日輪の父までもが、片時は少女の気迫に押されて閉口したらしかった。


「……ほう、小娘が一丁前に言うじゃねえか」


むしゃくしゃと舌打ちしつつ、父はずいと足を進めると、びくりと身を縮めた美夜の手首を(あら)らかに掴んだ。


「とにかく、此奴(こいつ)は俺の物だからな」


細腕を豪然(ごうぜん)たる力で締め上げられると、()じ切られそうな痛みが肩をも貫く。


「ほら、とっとと来ねえか!」


片腕を引き千切られるのではないか―――苦痛に歯を食いしばっている美夜の胸の内に、いつかのキャンディを選んだ日、セレナーデの君から告げられた福音(ふくいん)が呼び起こされた。


あなたはあなたの思う(まま)、どんな事も決めて構わないのよ―――


美夜は美夜の思う儘、どんな事も決めて構わない。

その真理が、美夜の中に薄雲の様に湧き上がる思いを確かな実体あるものにした。


「嫌っ!わたし、絶対に帰らない!」


声の限りそう叫んで、美夜は渾身(こんしん)の力で体を(よじ)った。

美夜が父に対して拒否の意を示したのは、それが初めてだった。


目の前で兄や姉達が殴られようとも、隅で震えていただけの美夜の予想だにしない抵抗に、父は不意を食らった様子であった。

しかし、すぐに息巻いて額に青筋を(みなぎ)らせると、けたたましくがなり立てる。


「この餓鬼、親父に逆らおうってのか!」


父の逆上振りは、美夜の手首にさらなる圧力が加えられた事にも如実(にょじつ)に表れていた。


「痛っ……」


本当に、腕を持っていかれるのではないかと思った。


その表現は大袈裟にしても、肩を脱臼する事は免れないのではないか―――けれど、美夜は床にかじり付くのも(いと)わぬつもりで、抵抗する事をやめなかった。

自由を奪われて生きなければならない事に比べれば、腕の一本くらい惜しいものではない。


此奴(こいつ)め!」


とうとう業を煮やした父は、手にしたキセルを振り上げて、思い切り美夜を打とうとした。


美夜が咄嗟(とっさ)に顔を背けるよりも先に、セレナーデの君が素早く飛び出し、はっしとキセルを顔の前で受け止めた。


先端は、彼女の鼻から一寸(3cm)と離れてはいなかった。


そして―――火皿から立ち上り、まともに顔へと降り掛かる紫煙を、彼女自身予期せぬ拍子に深く吸い込んでしまった。

鼻や口から入り込んだ煙は、喉を(いぶ)し、虚弱な気管支の一つ一つを余さず()いて―――喘息を(わずら)うセレナーデの君にとっては、その命をも脅かす毒煙であったろう。


「っは……!」


胸を刃で刺し貫かれた如く、セレナーデの君の目は異常なまでに見開かれた。


キセルの羅宇(らう)をしかと掴んでいた両手は波打つ胸を押さえ、ばたりと床に崩折(くずお)れる。

(かんばせ)は生気を感じさせぬ白さで、肌寒い夜気にも関わらず浮かべた玉の汗が、耐えがたい発作の苦痛を物語っていた。


ひゅうひゅうと喉から弱々しい音をさせながらの、喘ぐ様に苦しげな呼吸さえ、今にも絶えそうで―――


「おねえちゃん!」


すかさず駆け寄ろうとした美夜の腕を、父は逃がすものかと掴んだ。


「面倒な事になりやがった―――早くずらかるぞ」


セレナーデの君が死んでしまったら、と最悪の事態に対する途方も無い恐怖に支配された美夜とは対照的に、父はさも厄介げに呟くのみだった。

そして、苦しむセレナーデの君を無残に見捨てて逃げ失せようと、美夜を担ぎ上げた。 


「おねえちゃん!おねえちゃん!」


いくら足掻(あが)けど、父に抱えられたまま降りる事もできず、美夜は狂った様にセレナーデの君を呼ばわるばかりだった。


美夜の叫びに、セレナーデの君はわずかに残った力を振り絞って、床に伏せていた顔を上げた。

息も絶え絶えと、その唇からまろび出た言葉は。


「美夜―――」


それが、彼女が美夜の名を呼んだ最初で最後だった。


伸ばされた手は虚しく(くう)を掴むと、力無く床へと投げ出された。




その後の事は、記憶が渾沌(こんとん)としていて、今となってもよく思い出せない。


家へと連れ戻されると、美夜が抜け出す手助けをした兄姉も同罪として、共に血を吐く様な折檻(せっかん)を父によって加えられた。

父は蔵の鍵を兄姉から取り上げ、美夜が二度と外へは行けないよう(はか)らった。


手にしたと思えた自由も、所詮は仮初(かりそ)めであったのだろうか―――それから十五の年を迎えるまで、再び蔵の中が美夜の世界の全てとなった。

けれど、幽囚(ゆうしゅう)の身と成り果てても、美夜はもう以前の様にそれを甘んじて受け入れる事はなかった。


籠鳥(ろうちょう)が遥か天空の雲を()う如く、美夜は外の世界へと思いを()せて、どこまでも自由を渇望した。

生命そのものである百幸美夜という名を、思い出の夜を宿すセレナーデを口ずさみつつ、忘れぬようにと星の数ほども壁に指先で刻んだ。


ゆめ忘れるなと自らに課したのは、その名のみならず―――真の命と共に、それを美夜に与えてくれた唯一無二の君もであった。

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