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一番星の逢瀬

明けぬれば暮るるものとは知りながら

なほうらめしき朝ぼらけかな


(日が暮れて夜になれば、また逢えるものとは分かっているけれど、それでもあなたと別れなければならない夜明けは恨めしいものだ)


藤原道信朝臣





夕暮れのしめやかな風に髪をふわりと持ち上げられ、美夜(みよ)ははっと顔を上げる。


廊下に開かれたバルコニーの外に目をやると、そこには一番星が(きら)めいている。

その星は美夜にとって、伯爵家のメイドとしての長い一日の終わりを告げる合図のようなものだった。


春宵(しゅんしょう)の朧月―――それも、すみれ色と菜の花色が混じり合った夕空に、仄かに溶け入る様である。


「わあ、綺麗」


美夜はバルコニーの手すりに頬杖を突き、西の空に浮かぶ明星にしばし見入っていた。


「何を見ているの?」


突然聞こえた声に驚いて振り向くと、そこには美夜の主である清小路(きよのこうじ)伯爵令嬢・怜子(れいこ)その人が静かに立っている。


五尺五寸(165cm)を超える手足ののびのびとした肢体を包むのは、純白にコバルトブルーのリボンの色彩が爽やかな、仏國フランスの最新モードのワンピース。

ワンピースと揃いのクロッシェ帽の下からは、惜しげも無く断髪にされた、冷たい輝きを(まと)瑠璃(ラピスラズリ)のように深く青みがかった黒髪が覗く。


まさにモダンガール―――モガに相応しい凛々しき姿だ。

時代の最先端を生きるモガでありながらも、その姿は若き淑女(レディ)と呼ぶに似つかわしき気品と風格を備えている。


「れ、怜子さま!気がつかず、申し訳ございません」


息せきってそう言い、あせあせとスカートの裾をつまんでお辞儀をする美夜を見て、怜子は深い理知を湛えた切れ長の双の目をほんの少しほころばせる。


そして


「ただいま、美夜」


と落ち着いて威厳のある、しかし柔らかな声音で美夜の名を呼ぶ。

美夜には、そのたった一言すらも嬉しくてならず、思わず笑みが溢れてしまう。


「お帰りなさいませ、怜子さま」


夕星(ゆうずつ)の光が照らす、伯爵家の一角のバルコニーで。

主人とメイドは、この上なく幸福な笑みを交わし合うのだった。



この世界には、男女の他に三種類の性別がある。


大多数は尋常種(じんじょうしゅ)という、これといって変わった特徴を持たないごく普通の人々だ。

大半は尋常種の男女同士で結婚し、その子供もほとんどが両親と同じ性別を持つ。


そんな尋常種よりもずっと数が少なく、重宝されている残り二つの性。


その一つが日輪(にちりん)である。

西洋から入ってきたアルファという名称と共に、彼らの貴重さを(たた)えたこの呼び名は今でも広く使われている。


知能や統率力に優れ、古来より各地の王族や貴族の大部分を占めてきた、選ばれし特別な人間達である。

かつての我が国でも、幕府を率いる将軍や、一国を治める大名達は皆日輪だった。

 

時が流れ、年号が彗応(けいおう)から冥治(めいじ)大宵(たいしょう)に変わった今でも。

日輪達は大企業の重役や軍の高官、政府の重鎮、そして前時代の名門の武家や公家の系統を引く華族に数多(あまた)おり、大日本帝國の政治や経済を支配し続けている。


そのため、この国は日輪の手によって動かされていた。


この社会で上の地位に登りたいのならば、日輪として生まれる他に方法は無い。

生まれ落ちた瞬間から、その生涯は栄光と名声の太陽に照らされ、何があっても決して(かげ)る事はないのだから。


裏を返せば、性差を埋めようとどれほど努力を重ねたとて、日輪と対等な立場には立てないのである。


清小路伯爵家は元公家であり、それも西の暁都(きょうと)のさる公卿の系統を引く、まことに高貴な家柄だった。

怜子は日輪として生まれ、華族の中でも名門として名高い、清小路家の栄誉ある家門を継ぐべくして育てられた人だ。


そんなすごい人にお仕えしているという事が、初めてこの屋敷の門をくぐってから三年経った今でも信じられない。


現在の華族制度では、日輪である事は爵位を継ぐ為の絶対条件である。

華族の世界で男女の性別よりも重要視されるのは、肉体頭脳共に優れたその血を引いていること。


華族の制度が作られるよりも前から、家督は日輪の親から日輪の子へと受け継がれるのが古き時代よりの慣わしである。


その為男女の性別は二の次で、女性でも日輪ならば爵位を継ぐ事が可能なのだ。

それほどまでに、上流社会では日輪という事は重要な意味を持つのである。



「どうでしたか、パーティーは」


美夜の隣に並び、端正な横顔のラインを見せて夜空を仰ぐ怜子にそう尋ねると、 怜子は品の良い眉を曇らせ、


「すっかり草臥(くたび)びれてしまったわ」と溜息をついた。


今年の春に怜子が帝國大学を卒業すると、怜子の父である現伯爵は、娘を毎日の様に上流階級の人々が集まる社交界へと連れ出していた。

娘の顔を上流の面々に覚えてもらいながら、次期伯爵としての立ち居振る舞いを教育するのが目的である。


今日も怜子は父に伴われて、格式の高いホテルで行われたどこぞの華族様のパーティーに出席してきたのである。


「パーティーが済んでも、おもう(父)さまは他のお客様への御挨拶でお忙しいご様子だったもの。御断り申し上げて私だけ先に帰ってきてしまったの」


輝かしい未来を生まれながらにして約束された幸福な人間だと、怜子を見た人は思うかもしれない。

次期伯爵の冠は常に彼女の手の中にあり、叶わない望みなど何もないのだと。


しかし、怜子自身はそのような華族や上流階級の付き合いをあまり好んでいなかった。

それは、怜子の物静かな人柄が理由の一つかもしれないが。


ある日、夜遅くまでにパーティーから帰った怜子の着替えを手伝ったとき


「華族様だなんて呼ばれていても、所詮は上辺の探り合いばかりしているような人達ですもの」


と言い切ってみせたので、美夜はすっかり驚かされてしまった。


だが、怜子はそんな自分の考えを美夜の他には伯爵である父や、その夫人である母はもちろん、決して他人に話すような事はしない。

表に出れば、怜子は完璧で一分の隙も無い伯爵令嬢として振舞ってみせるのである。


「ご苦労様です。お疲れになりましたでしょう」


「ええ。でも、特権を持って生まれてきた以上、それを持ち得るに相応しい行いを心掛けないとね。ただ与えられた権力を誇示して、横柄に振る舞うだけでは意味が無いもの。私ももっと頑張らないと」


生まれ持った恩恵を享受するだけでなく、それに足る人物でありたいと願って行動する怜子の気構えは華族として十分に立派で、誰にでもできる事ではないと思う。

そんな自分の主人を、美夜はひそかに尊敬しているのだ。


「美夜ったら、随分夢中で星を眺めていたのね。私が後ろから近づいても気が付かないくらいに」


「お戻りに気がつかず、失礼いたしました」


申し訳なさで美夜がしょんぼりとしていると、


怜子は「気にすることはなくてよ」と美夜のおさげ髪の頭を、姉が妹にするように優しく撫でてくれる。


十八の自分より六歳も年上の、大人の女性である怜子にそんな事をされると少し照れくさいが、それでも何だか嬉しい。


怜子は美夜に寄り添うようにバルコニーに立ち、一緒に夜空を見上げた。


「一番星が出ているわね」


真珠のように透き通った耳に降り掛かる髪を、洗練された仕草でかき上げながら夜空を仰ぐ怜子の姿。

それは物語の一場面のように美しく、美夜は目を離す事が出来なかった。


だが、じろじろと見ている事が分かっては失礼と、再び一番星を見上げる。


「わたし、夜の訪れが待ち遠しくてならないんです。夜になれば、怜子さまとこうしてお会いできるんですもの」


怜子と過ごせる宵の一時を、美夜は何よりも心待ちにしていたので。


口に出してみてあまりにあけすけな言い方だったかと赤面したが、怜子は別段呆れる様子もない。


「私も夜を楽しみにしていてよ。美夜が私のことを待っていてくれるのだから」


そうして怜子の絹レースの手袋に包まれた、華奢で指が長い白魚の様な手が自分の頬に触れた途端、何故だか美夜は胸が高鳴ってしまう。


(それにしても、何だか距離が近いような……)


怜子の手が自分の頬に触れているだけでなく、美夜の顔を覗き込む彼女の顔が、呼吸をする事すら躊躇ためらわわれるほど間近にある。

怜子に触れられる事が嫌という訳ではないのだが、これでは何だか落ち着かない。


どうしたものかと美夜が思案を巡らせていたその時、


ぐう―――


と、怜子のそのほっそりとしたウエストからは考えられないような、極めて健康的な音が響いた。


「……嫌だわ、私ったら」


淑女としての体面もあるのか、怜子は情けなげに首を振った。


「怜子さま、お腹空いていらっしゃいます?」


「ええ。パーティーで軽食が出されたのだけれど、おもうさまと一緒に他のお客様に挨拶するのに忙しなくて、いただく暇がなかったものだから」


「それなら。昼間、怜子さまがお出かけになっている間にスコーンを焼いておいたんです。怜子さまのお好きなダージリンティーも淹れますから、お茶にしませんか」


アフタヌーンティーには大分遅いですが、と美夜が言い終わらないうちに、怜子の顔が輝いた。


輝いたと言っても、目に見て分かるほどはっきりと満面の笑みを浮かべたりしたという訳ではない。

それでも、白水晶のように聡明に澄んだ目が、興味津々げに大きく見開かれたのは確かだ。


「いただくわ」


「良かった!それじゃあ、台所でお茶を淹れてからお部屋にお持ちしますね」


そう言って美夜がスカートの裾を翻し、廊下に出ようとした時だった。

廊下の奥から、コツコツと物々しい靴音を響かせて誰かがやって来るのが見えた。


そこに現れたのは―――


貴婦人らしく気品を持って結い上げられた髪に、(たお)やかに裳裾を引く西洋のドレス。

折れそうにか細い首元を飾るのは、大小様々な宝石で光り輝く装飾を施されたチョーカー。


その人こそ現伯爵の妻であり、怜子の生みの母である清小路伯爵夫人だった。


「おたあ(母)さま」


「奥方様……」


咄嗟に膝を折って深々とお辞儀をした美夜を、伯爵夫人は軽蔑しきった眼差しで見やった。


「怜子さん。またこの月影(つきかげ)なぞと一緒にいたのですか」


薄氷を(まと)ったヴァイオリンの弦を掻き鳴らすかのように、美しくも冷徹な夫人の声。


月影―――


投げ掛けられたこの言葉に美夜は萎縮し、(うつむ)く事しか出来なかった。

そんな美夜のか細い肩に、怜子の手がしっかりと載せられる。


「おたあさま。月影などという呼び方はおやめください。この子には百幸(ももゆき)美夜(みよ)という名がきちんとあります」 



一方に光があれば、もう一方に必ず影が生じる。

月影とはそのような存在であった。


圧倒的な力で社会を動かしていく日輪と対を為す存在として生を受けたのが、オメガ―――"月影"である。

人口全体の割合としては日輪とほぼ同じくらいだが、その役割は彼らとは大きく異なる。


月影は男女共に妊娠・出産が可能であり、日輪を産む事のできる数少ない存在である。

その為月影の果たすべき役割は、日輪の子を産み、社会の中枢を担う優秀な存在として育て上げる事というのが、常識を超えて最早普遍的な真理として捉えられていた。


月影は日輪との間であれば、男女のみならず、同性間でも婚姻や子を為す事が可能だ。

現清小路伯爵は日輪の女性であり、同じく女性で月影の夫人は彼女との間に怜子を産んだ。

夫人の首元のチョーカーは月影の証である。


そして―――夫人とは異なり、華美な装飾も何も無い質素な物だが、それとよく似た黒革の首輪が美夜の首にも()められている。


何故神は、日輪、尋常種、月影という第二の性を作り(たも)うたのだろうか。

考えても仕方の無い事であろうと、それに若い頭を悩ませてしまうのは青春の常かもしれないけれど―――


子作りの道具として生きる他、月影の人生に意義はあらじと言わんばかりの今の社会に、美夜は窒息しそうな息苦しさを感じずにはいられなかった。


「あなたは近い将来この清小路伯爵家を継ぐ身なのですよ、怜子さん。こんな、どこの馬の骨とも分からない月影の娘なぞに(たぶら)かされてどうなさるの?」


こんなという部分を、夫人はことさら忌々しげに強調した。


分かっている、そんな事は。

自分は所詮、怜子のような華族の人々とは違う、しがない平民の身分だ。

分からなければいけない。


「お前もよ。自分の身分を(わきま)えなさい。お前はこの子の妻でも何でもない、ただの使用人なのですから。この子にはいずれ、しかるべき家から申し分の無い月影の妻を迎えさせますからね」


夫人はそう言って厳しい一瞥を美夜に投げ掛けた。

すると、怜子が美夜の前に立ち塞がるかのように、夫人と美夜の間に割って入った。


「美夜をこれ以上侮辱するのはおやめ下さい。美夜は、私の大切なメイドです」


怜子の言葉の何と頼もしいことか。

この方が自分の主人で本当に良かったと、心からそう思えた。


だが、愛娘がメイドを庇うのを見た伯爵夫人の驚きと焦りは並大抵のものでは無い。


「またそのようなことを……!お父様がお聞きになれば何と仰るか!」


「失礼させていただきます、おたあさま。いらっしゃい、美夜」


怜子はあくまで母への敬意を払うのを忘れずにきっぱりそう言い放ったかと思うと、美夜を連れて夫人にくるりと背を向けてしまった。

その毅然とした態度は、やはり日輪としての行いに相応しかった。




「本当に、おたあさまにも困ってしまうわ」


怜子はため息混じりにそう言ったが、美夜の作ったドライクランベリー入りのスコーンを上品な仕草で口に運ぶと、途端に目を輝かせた。


清小路伯爵邸は冥治時代に建てられた、英國(イギリス)の古き良き様式を取り入れた壮麗な白亜の洋館である。

怜子の祖父にあたる先代の当主は若い頃に英國への留学を果たし、その影響からか日本へ戻ってからも大変なハイカラ好みとして有名だった。

邸内には畳の間というのが一つも無く、そこかしこに先代がわざわざ西洋から持ち帰らせた、英國調や仏國調のクラシカルな家具がずらりと並ぶ。


清小路邸を訪れた某侯爵はその様子を見て、

「まるで英國かどこかの貴族の屋敷をそっくりそのまま持ってきたようだ」


と評したらしい。 


美夜も初めてこの屋敷の門をくぐった時は、何もかもが新鮮で目を奪われてしまった。


怜子の居室は伯爵邸の一角、色鮮やかな花々が咲き乱れる、自然美豊かなイングリッシュガーデンを見渡す場所にある。

勤勉な怜子らしく、壁際の書棚には分厚い本がずらりと並び、窓際にはどっしりしたマホガニーの机が据えられ、令嬢の部屋というよりは書斎とでも呼んだ方が相応しいような気がした。


「おたあさまが失礼な事を言って、申し訳ないわね。美夜には何も非は無いというのに」


「いいえ、奥方様は間違った事は何も仰っておりませんもの。わたしは所詮は使用人の身分ですから。それに、こうして生きていく事が出来るのも、何もかも怜子さまのお陰です」


美夜が、白磁に青の染付け模様と金の縁どりが美しいティーカップに紅茶を注ぎながらそう言うと、スコーンをまた一口運ぼうとしていた怜子の純銀のフォークがぴたりと止まった。

それから、母が子に向ける如き慈しむような眼差しを美夜に向ける。


「あなたは良い子ね」


「本当の事ですから。怜子さまがわたしを引き取ってくださらなければ、今頃どうなっていたか……」


怜子はしばし無言だったが、鮮やかな夕焼け色のダージリンティーを一口嚥下(えんげ)すると、その顔に追憶の色が浮かぶ。


「美夜、覚えている?あなたがこの屋敷に来た時の事。私は今でもはっきりと思い出せるわ」


美夜もあの夜の記憶は、目を閉じれば一番星が(きら)めく様に鮮明に蘇る。

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