Chap.6
しばらくして、足音が近づいてきたかと思うと、廊下側のドアがコツコツと叩かれた。
「僕だよ」
息を切らせたロバートの声がして、由はドアのところへ飛んでいった。
「あった⁈」
「あったよ」
「まあ、よかった!」
エレインが両手を打ち合わせた。ロバートは、手にした何かくしゃくしゃした布のようなものをエレインの前に置いて、くすくす笑いながら椅子にどさりと腰を下ろした。
「いやはや、よくできた隠し場所だ。あれじゃ誰にも盗られっこない。床を舐めるようにして探してようやく見つけたんだ」
「ありがとうロバート。ああ、よかったわ、なくなったりしていなくて…」
エレインはそっとその布のかたまりを取り上げ、まあと声を上げて涙ぐんだ。
「これ、あの子のよそゆきのハンカチよ。どこにいったかと思ってたら…」
くしゃくしゃのハンカチの中から直径五センチメートルくらいの美しい玉が現れた。ランプの光の下なので色はオレンジがかって見えたが、確かに緑色だ。そして表面にはぎっしりと、文字なのか模様なのかわからないものが刻み込まれている。
「なんかすごい…」
結花がつぶやく。由も頷いた。全く同感だった。なんなのだかさっぱりわからないけれど、なんだかすごいものが目の前にあることだけはわかる。圧倒されるような感覚。おごそかな気持ちになる。
「これって、どういうものなの?つまり、ジャンの家の家宝だってのはわかってるけど、これ自体はなんなの?」
結花の質問にロバートが答える。
「僕たちはアリッサが話してくれたことしか知らないんだけど、彼女の家に代々伝わる話によると、この石はガシュル大帝国時代のもの、つまりええと、今から約二千年ほど昔に栄えたある帝国の時代のもので、大魔術師ラッハラの手になるものだそうだ。最上質の翡翠の玉で、一面にラッハラの術による文字が彫ってあり、五つの望みを叶える力がある——その望みがどんなことであろうとね」
「どんなことでも⁈」
「すごい!」
結花と由は目を丸くしたが、ロバートは笑って首を振った。
「大昔のものだからね。たとえ本当にラッハラの手になるものだとしても、もうその五つの望みはとっくに叶えられてしまって、今ではただの翡翠の玉だろう。『五つの望みを叶える力があった』と言うべきだろうな」
「あら、でもアリッサが言ってたわよ。この石にはまだ望みを叶える力が残っているから、だからつまらない望みでその力を使ってしまわないように、この石はいつもしまっておかなくてはいけないって代々言われているって」
そう言ったエレインも、しかしあまり信じてはいない様子だった。
「…ま、それにしても本当によかったわ、なくなっていなくて。それで、フランス行きのことだけれど。雅代と結花と由も一緒に行ってくれるそうよ」
ロバートはほっとしたように顔をほころばせた。
「それは助かるな。向こうの世界に行くのは学生の時以来だし、ちょっと心細いなと思ってたんだ。ああ、それから、さっき考えついたんだけど…」
エレインを見る。
「…ダンにもう一度コンタクトを試みるべきじゃないかな」
エレインが小さく息を呑んでから、こくこくと頷いた。
「そうね、そうしましょう。すっかり忘れてたわ」
「ダンって?」
結花がエレインを見る。結花でも知らないことがあるらしいと由はちょっとほっとする。自分だけ何も知らないのは、なんだか置いてきぼりにされているようで面白くない。
「ジョアンナの弟でアリッサの兄。ジャンの伯父さんってわけね」
「へえー」
姉弟で声が揃った。
「そんな人いたんだ」
「ジャンは、伯父さんがいるなんてひとっことも言ってなかったよ」
「若い時に家を出ちゃったの。魔法大学はわざわざオルセーンを選んで、以来休暇にも戻ってこなかったそうよ。ごく稀に連絡はきてたらしいけどね」
オルセーンは海のずっと向こうのマレナロという国の首都だ。さしもの高速船でも、この国からは丸一日くらいかかる。
「魔法薬草学界ではちょっと知られた人なのよ。変わった研究をしている人でね。最近は主にマレナロの砂漠の希少な薬草の研究をしているの。昨年の事故の後、私の取引先の人のそのまた取引先の人の知り合い…、ああ、なんだかわからなくなっちゃったわ、とにかく、人づてに連絡先がなんとかわかったんだけど、しばらく砂漠の地下に行っているとかで連絡が取れなくて、そのまま忘れてたんだけど。後で連絡してみるわ。なんといっても、ダンの家族に伝わる家宝のことなんだし、それにあの家のこともどうしたらいいのかわからないから」
フエンテス家——アリッサの実家——の家屋はアルバー村のはずれにあるちょっとしたお屋敷だ。アリッサ達の母親が亡くなり、その数年後に父親が再婚して遠くの町に引っ越した。屋敷はアリッサが受け継ぐことになっていたのだが、少々不便な場所でもあるし、まあ子育てがひと段落したら引っ越しを考えよう…などと言っているうちに高速船の事故が起きたのだという。
「じゃ、今はここはジャンのものなの?」
ちょっと遠出をして二人で屋敷を見に行った日——もちろん遠出のメインの理由は、村外れの大きな森に実験に使うキノコを採取しに行くことだったのだけれど——、由は立派な黒い門を見上げて言った。
「うん、でも僕はまだ成人じゃないし、ロバートとエレインが後見人だから、正式には僕のものってわけじゃないんじゃないかな」
まるで興味がないというようにジャンが言った。
「それに成人したってこんなとこに住みたくないよ。僕はさ、大学の寮か、大学のうんと近くの家に住んで、いつでも実験ができるようにしたいんだもの。誰か他の人が住めばいいよ」
「それで、できるだけ早く発ちたいと思ってるんだけど…」
ロバートの言葉に、由はハッと我に返った。
少しの間、本当に過去の中に戻ったような感じがした。
あの夏の日の、今にも太った雨粒が落ちてきそうに低く垂れ込めた灰色の雲や、じんわりとまとわりつく生温かい空気。黒い門の向こうに見えている生き生きとした濃い緑の木々。ジャンの声。軽くすくめてみせた肩。
「私と由はいつでも行かれる。もう夏休みだし。明日でも大丈夫」
「私は来週少し仕事が入ってるの。だから早いうちというなら今週のほうがいいわ」
ロバートが頷く。
「フランスとの時差が七時間あるから、それを考えると『扉』を午後三時とか四時とかに通るといいんじゃないかと思うんだ。そうするとフランスは朝の八時とか九時だから。となると、朝六時の汽車に乗って、ウェリスから高速船、ルソからバス、でカッサに午後三時半に着くのがちょうどいい。帰りは…まあ向こうで何があるかにもよるけど、少なくとも日帰りは無理だから、どこかで一泊してから帰ってくることになるけど、大丈夫かな」
ロバートが結花と由を見る。二人は顔を見合わせてから、雅代を見た。雅代がふむ、と宙を見上げる。
「そうねえ……今映画の試写会に行ってることになってるから、そこで会った旧友に誘われて、キャンプに参加することになった、っていうのはどうかしらね。スマホやパソコン一切なしの生活が脳波その他にどんな影響を及ぼすか調べる実験の被験者として、とか」
結花がニヤリとする。
「やるぅ」
由はくすくす笑った。お母さんの反応が目に見えるようだ。
「ええー、いいなあ。私もそういうの行きたいなあ。でも実験っていうのは嫌だからやっぱり行きたくない。血液検査とかもするんでしょ?ぶるる」
明朝五時——駅までは車で十分だけれど、念のため早め——にリース家に集合ということに話は決まり、五人は暗闇に沈む小さな部屋を出た。
ドアを開け放すと、途端に爽やかな風が通り、由はうーんと気持ちよく伸びをした。もちろん密閉されていたわけではなかったけれど、あんなふうに暗い小さな部屋に長いこといると、なんだか酸素が少し足りていなかったような気分になる。
「…ソフィは?」
エレインと並んで階段を降りながら、ずっと気になっていたことを由はようやく口に出した。
「学校のサマーキャンプに行ってるわ。帰るのは今夜七時頃かしらね」
エレインは優しく目を細めた。
「今いなくてよかった。いきなり会ったら心臓発作ものだったわよ、きっと。私からちゃんと話しておくわ。由が帰ってきたわよって」
家に帰ってから、由はなんだか妙な精神状態で午後を過ごした。
「今日はゆっくりしなさい。できるだけ…昔のことは色々考えないようにして」
マンションで別れる時に雅代が言った。
「私はこれからもう一回向こうに戻るわ。だからしばらく連絡つかないと思うけど、恵美ちゃんに訊かれたら適当に言っておいて。結花ちゃん、由ちゃんをお願いね」
「了解」
頷く結花の隣で、別にお願いなんてされなくたって大丈夫だよ、と口を開きかけた由の目を、雅代がじっと見つめた。心配そうな目をしていた。
「ちょっと後悔してるわ。こんなことで記憶の解放をしてしまって…」
由は憤慨した。
「『こんなこと』じゃないよ。大事なことだよ。だって、ジャンから手紙が来たんだよ?」
「……」
雅代は一つため息をつくと、
「とにかく、できるだけ他のことを考えるようにしてね。勉強するといいわ。旅行中はできないんだから。ああ、それとも、」
悪戯っぽい笑いを浮かべ、
「かわいいガールフレンドに電話をかけてあげてもいいかもね。今日これから一緒にお出かけしたら?」
「しないよ、そんなことっ」
冗談じゃない。
結花が笑った。
「じゃ、一緒に勉強でもしよ。私も休みの課題さっさと終わらせたいし」
その言葉通り、二人は午後中結花の部屋で一緒に勉強した。ローテーブルに向かい合って座る。結花はさっささっさと数学の問題を解きながら、時折ちらりと目を上げて、
「由」
その度に由はハッとして過去から現在に引き戻された。
「…なんていうかさ、」
一休みしてキッチンでアイスを食べながら、すぐ隣の居間で珍しくアイロンと格闘中の恵美に聞こえないように、由は声を潜めた。
「過去の記憶が…向こうでの過去の記憶が、ものすごいヴィヴィッドなんだよね」
大好きなハーゲンダッツのストロベリーアイスクリームをゆっくりとすくう。スプーンでアイスクリームを少しずつすくうのが由は好きだ。薄く、柔らかく、カールしながら削りとられていくアイスクリーム。
「無理に封じ込めてたからなのかもしれないけど、感じ方が他の記憶と違う。なんだか…そこに、その時点の自分に、本当に戻ったみたいになるんだ。本当にそこにいるみたいになる」
「ふうん…」
スプーンを口に入れたまま、結花が考え深げに唸る。
「それで、どう感じる?」
「どうって?」
「辛い感じ?」
「…いや、そんなことない。本当に過去に戻ったみたいになること自体については、何も感じてない…と思う。辛いとか、嬉しいとか、楽しいとか、そういうのはなんにも。ただ、なんていうか…その、過去と現在の行き来が、ちょっと疲れる感じ。あんまりはっきりしてるから。それこそ本当にタイムトラベルしてるみたいな」
「そう…。過去に戻らないようにはコントロールできない?」
由はため息をついた。
「問題解いてる時はいいけど、ちょっと気が緩むと、やっぱり考えちゃうんだ、ジャンのこと。なんであんな手紙書いてきたんだろうとか、フランスで何してるんだろうとか、あれから今までずっとフランスにいたのか?とか…。そうすると、昔の色んな場面が思い浮かんできて、そこに自分が戻ったみたいになる」
「…でも、その…いい思い出ばっかり浮かぶ?」
結花の訊きたいことはわかった。
「事故のことは、不思議と思い浮かばないんだ。最初に車の中で戻ってきた時以来。なんていうか…ストッパーがかかってるみたいな」
「そっか。それならよかった」
結花がほっとしたように言った。
「…結花はさ、ジャンが生きてるって思うでしょ?」
さりげない顔をして、アイスクリームをすくいながら思い切って訊いてみる。結花はちょっと首を傾げるようにして、ゆっくりと答えた。
「ん…、正直言って、前はね、ちょっと難しいんじゃないかなって思ってたんだ。確かに遺体はない。でも、消えた、っていうことは、由が言ってたみたいにどこかに瞬間移動してしまったか、それか消滅した、っていうことでしょ。ものを消す魔法っていうのはあるわけだから…まあ既存の魔法では消せるのは『物』であって『生き物』ではないわけだけど、でももしかしたら、二人で作った薬品がそれを可能にしたのかもしれない。消滅したなら、それは死んでしまったのと一緒でしょ。それに、もしどこかに瞬間移動したのだとたら、どうにかして帰って来ればいいのに、ジャンは帰ってこなかった。ってことは、帰ってこられない場所、例えば宇宙空間とか、別の世界とかに移動してしまった、或いは移動のせいで身体になんらかの…変化が起こって帰れなくなってしまった、または移動した先で何か事故があって帰れなくなってしまった…。いずれにしても、数ヶ月経っても帰ってこなかった時点で、生きてるってことはもうないんじゃないのかなって思ってたの」
何度も何度もこのことについて考えたことがある口ぶりだった。考え深げな目をして続ける。
「でも、あんな手紙がきた。そりゃジャンが書いたんじゃない可能性も結構高いと思うよ。手書きじゃないし。エレインはジョアンナだけが怪しいみたいなこと言ってたけど、でもあの石ってもし魔法の力が残っていないとしたって、すごい値打ちものみたいじゃない?お金が欲しい人なんていくらでもいるだろうし、あの石のことを知ってる親戚の人たちの中に、今お金に困ってる人がいたとして、ふとあの石のことを思い出して『そうだ、あの石が手に入れば…』って思ったとしたって不思議じゃないと思う」
ちょっと息をついて、由をじっと見る。
「ジャン自身が、本人の自由意志で書いたにしては、あの手紙は変だと思うの。だって字数制限があるわけじゃないんだよ?なのに、自分は元気だとか、事故の後こんなことがあってこんなことが起こってだから今フランスにいるとか、そんな説明は一切なしで、ただ『あの石を送ってください』なんて」
由は呆然として頷いた。過去と現在を行きつ戻りつし続けでごたごたとしていた頭の中が、すうーっと整理されてくる。濛々と塵が舞い上がっていて何も見えなかったのが、さっと雨が通っていって塵が落ち着き、急に視界がクリアになったような感覚。
結花が続ける。
「例えば瞬間移動した先で、マフィアみたいな人たちに囚われているとかならわかる気がする。お金を要求されていて、それで困った挙句に、あの石のことを思い出して、そのことを彼らに話したら、あの手紙を書く許可を与えられて、それでその人たちの監視下のもとであんな手紙を書いたとか…」
結花の言葉に由は息を呑んだ。
「それだよきっと!」
結花が苦笑する。
「決めつけちゃだめだよ。これだってなんだか変だもの。例えば、どうして手書きじゃないのか。それに、どうして今頃になって?事故から一年以上も経ってるんだよ?」
「それは…それは、もしかして、…そうだ!もしかしてあの薬のせいで、ジャンはずっと異空間みたいなところを彷徨っていて、つい最近フランスに出てきたのかもしれない。それでマフィアみたいなのに捕まった…」
ハッとする。
「そういえば…あの手紙、なんでエレインのところに届いたの?」
「なんでって?」
「だって、フランスから出したんでしょ?なのになんで向こうの世界に着くの?」
「『扉』のあるところには郵便局みたいのがあるんだもの。向こうからこっちに移住してる人たちも結構いるからね。電話のオペレーターがいるのと一緒。だからこっちから向こうに手紙を送りたい時は、封筒を二重にして、外側の封筒にその郵便局の住所を書くわけ」
「でも…なんでジャンがその郵便局の住所を知ってたんだろう」
「それも変だなって思ってることの一つ」
「……」
そこへ恵美がやって来た。
「ああー疲れた。アイロンってほんと苦手。あっ、いいなーアイスクリーム!私も食べたい。まだ残ってる?」
「うん、えーっとね、…グリーンティとバニラと、ラムレーズンが残ってる」
「じゃあグリーンティくださーい」
「はいはい」
「ラムレーズンっておいしいのかしらね。アイスにレーズン入ってるなんて、なんだか変な感じ」
「買ってきたのお母さんでしょ」
二人のやりとりを聞きながら、由は懸命に考えていた。
もしジャンがマフィアか何かに囚われているんだとしたら。…それか、そうだ!もしかしたら向こうの世界の犯罪組織みたいなのが、こっちの世界のあちこちに隠れ家を持ってるってことだってあるんじゃないか?それで、ジャンに正体とか隠れ家を知られてしまったから、ジャンを返すわけにはいかなくて、それでジャンは彼らの一味に加わらざるを得なくなったとか…。そうだ、それなら『扉』のある市の近くの住所だっていうのも辻褄が合うじゃないか。…いや、でももしそんな悪の組織だとしたら、自分達の隠れ家の住所をあんなふうに書いたりするわけないか…。
その後は勉強に集中するのがもっと難しくなった。ジャンの置かれた状況の仮説をあれこれ考え、合間合間に過去に引き戻される。勉強はそっちのけで、ぼうっと宙を見てはため息ばかりついている由を眺め、諦め顔で結花が言った。
「…やっぱり加納さんに電話してさ、デートの相談でもしたら。その方が気が紛れていいと思うよ」
「やだよ!」
慌ててシャープペンシルを握り直した由を見て結花が真顔で言う。
「…そんなに嫌なんだ」
「やだ」
「だったら、ちゃんと別れたら?なんだかかわいそう」
「…別れる方がかわいそうなんじゃないの?」
「場合によるだろうけど。でも、由がやってるのはさ、騙してるみたいなもんじゃない。そんなのやっぱりよくないと思うよ」
騙してる、か…。嫌な言葉。
でも確かにそうだ。僕はよくないことをしてるんだろう。好きでもないのに付き合っているなんて。
由はため息をついて頬杖をついた。
「…今更だけどさ、あのことがなかったら…記憶を封印したりしなかったら、コクハクされた時にも『付き合えない、ごめん』って言えたと思うんだよね。向こうでの二年半の経験って、僕の中でやっぱりかなり大きかったと思うんだ。あれがあったとなかったとじゃ、全然違う自分になってたと思う。あの二年半を覚えてない状態であんなふうにコクハクされちゃったのは…痛かったよ。まあ言い訳にしかならないけど」
「ああ…なるほどね」
結花も頬杖をつき、目から鱗の表情をする。
「そうか。こっちの世界での記憶がなくなったわけじゃないから、二年半丸々ではないけど、その半分かもっとの成長分がなくなっちゃってたみたいな感じなのか…。なるほど。どうりでね」
「…まあ別にさ、向こうの世界で恋愛したりとかしてたわけじゃないから、そういうののノウハウ云々の知識自体はあんまり変わらなかっただろうけど、でも、なんていうか…、記憶があったら、もう少しオトナな自分でいられたと思うし、少なくとも…自分は誰が好きなのかとか、それくらいのことはちゃんとはっきり意識できてただろうと思うし、だからいくら泣かれたって、好きじゃない相手と付き合うなんてしなかったと思うんだ」
莉乃の顔が浮かんで、またため息が出る。
「ほんとに今更だけど」
こっちの世界ではまだ誰にも話したことはなかったけれど、ジャンには莉乃への仄かな気持ちを話してみたことがあった。
「そうか、じゃあソフィは失恋だなあ」
ジャンが少し気の毒そうな微笑を浮かべて言った。
事故の少し前だった。納屋の片隅で二人で調合していた今度の実験に使う粉末類を、例の川岸の小屋に隠しに行った帰り道。夕焼けが始まる少し前の午後の光の中を、温かくて柔らかい風を顔に感じつつ、川岸の丸い小石たちをかちゃかちゃ踏みながら歩いた。
由はちょっと笑って肩をすくめた。
「失恋なんて…。ソフィのは恋愛感情っていうんじゃないと思うよ。兄みたいに慕ってくれてるって感じじゃない?まだ小学生だしさ」
ジャンが眉を上げてみせる。
「兄みたいなのなら僕がいるだろ。でも僕に対する態度と由に対する態度は明らかに違う。あれは惚れてるね」
「…まあ確かに色々世話焼いてくれるね」
「だろ?切ないねえ。人生初の失恋か。で?いつその子に気持ちを伝えるの?」
「そこなんだよ」
ため息をつく。
「例えばさ、他の国なんかだとプロムとかダンスパーティとかがあったりして、それに一緒に行こうって誘うことで気持ちを伝えられたりするんだ」
「ああ、知ってる。こっちでもそうだよ」
「日本はそういうのがないからさ…やりにくいんだよね。ある日突然、『好きです、付き合ってください』なんて言わなきゃいけないなんて、なんか不自然だろ。それにパーティに一緒に行こうって誘って、『ごめんなさい、他の人と行くから』って断られるんだったら、まだダメージも少ないだろうけど、『好きです、付き合ってください』って言って『ごめんなさい』って言われるなんて、完全否定じゃん。どんな気がするか…」
「ふーむ、なるほどねえ。つまり、こう、カジュアルに相手の気持ちを知ることができるきっかけがあるといいわけだ…」
ジャンは少しの間眉を寄せて考えていたが、やがて前髪をくしゃくしゃとかき上げて、
「ああー面倒だ。いっそいきなりキスでもしちゃうってのは?」
思わず想像してしまって由は赤面した。
「無理だよっ」
「だってそもそも両想いっぽいんだろ…あれ、何赤くなってんの」
「なってない!」
「ははあ、想像したな」
「してないよ!」
「てっ。乱暴者っ」
「そっちこそっ」
「そっか。好きな子がいたんだ」
結花の声に身体がびくっとして、唐突に意識が現実に戻った。
ぶつけ合った肩や肘の感触。乱れる足元と小石を踏む音。小川の水音。顔に当たる少し金色がかった夕方の光。
くらくらする頭を押さえながら、たった今感じたばかりのそれらの感覚の余韻の中で答える。
「…うん、まあね。crazy for youっていうほどじゃなかったけど、でも好きだったと思う」
「なんで過去形?」
バレンタインデーのことを話す。
「うわー…」
結花が両の頬を覆ってため息をついた。
「それから前みたいには話せなくなった。当然だろうけど」
「そうだったの…それは辛い…」
しんみりしている結花を見る。
「何かアドバイスある?」
「うーん…」
結花は難しい顔をした。いつもみたいににべもなく「さっさと別れちゃいなよ」とは言わなかった。
「…ちょっと考えさせて」
生真面目な目で言われて、心がふわりと温かくなる。
「さんきゅ」
ふと思った。
ジャンなら、なんてアドバイスをくれるだろう。
意識がまた一瞬あの金色の夕方の光の中に戻って、眩暈がした。