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Chap.10

 高速船は、その名の通り高速で動くので、甲板で海風を感じながら旅を楽しむ、なんていうことはできない。全員キャビンの中に入らなくてはならないし、窓も開けられないと聞いて、由はがっかりした。

「新幹線みたいなもんだよね。仕方ないよ」

 と、結花が肩をすくめる。

 出港までまだ少し時間があるので、一行は桟橋でぶらぶらすることにした。由が白い手すりに寄りかかって、緩やかにしかし絶えずうねっている青い海の動きを眺めていると、ダンが隣に来た。

「それは?」

 にこりと訊かれて、由はちょっと笑ってまだ手に持っていた写真を差し出した。

「これを頼りに、あなたを探そうとしてたんです」

「ははは。それは難しかっただろうなあ」

 ダンはおかしそうに笑うと、目を細めてじっと写真を見つめた。

「…懐かしいな。これは確か、ジョーがカッサに発つ朝だった…」

 静かにため息をついたその顔を見て、由はどきりとした。

 後悔の表情というのがどういうものか、初めてわかったような気がした。

 由の沈黙に促されるように、ダンの形のいい唇から言葉がこぼれた。

「…ジョーはね、頭が良くて真面目ないい子だった。いつも正しいことをしようと努力する、真っ直ぐな子だったよ。だから、母やアリッサとうまくいかなかったんだ」

 ダンはじっと写真を見つめたまま首を振り、半ば独り言のように続けた。 

「あの二人は、なんていうのか…自己中心なタイプだった。悪人っていうわけじゃないよ。ただ…自分に甘いっていうのか…。自分たちの都合のいいように嘘をついたり、騙したり、意地の悪いことを言ったり、約束を破ったり…時には人のものを取ったりね。そして肩をすくめて言うんだ『だってしょうがないわ』『いいじゃないのそれくらい』ってね。ジョーはそれを批判した。それで中学生頃から、母との喧嘩が絶えなくなった。でもあの頃は、僕も子供だったから、そういうことにあまり気づかなくてね。だから、一体なんだって喧嘩するんだろうって、正直うんざりしてた。ジョーが、つまらないことでいちいち母に突っかかっていってるようにしか見えなかったんだ」

 自嘲するような微笑みを浮かべて、由を見る。

「子供っていうのは…親を批判的に見ることがなかなかできないだろう?親っていうのは世話をしてくれる人だからね。生き物の本能として、世話をしてくれる人のことを嫌いにはなりたくないんだ」

 由は頷いた。なるほどその通りだ。雛鳥が餌をくれる親鳥を嫌ってそっぽを向いたら生き残れない。

「僕もそうだった。だから喧嘩が絶えないのはジョーのせいだ、母じゃなくてジョーが悪いんだって思ってた。ジョーのことも、まあ好きは好きだったから、面と向かってそんなことは言わなかったけど。…でもある日、僕が高等部の二年生だった時、また母とジョーが大喧嘩してね。収穫祭のイブだった。僕とアリッサは喧嘩を近くで聞かないですむようにポーチに避難してた。しばらくして、本を読んでた僕に、アリッサが言った。『ジョーがいなければ、うちは平和でいい家庭だったのにね。いなくなってくれればいいのに』って。僕は本を読みながら軽い気持ちで『まったくだよ』と相槌を打った。言った途端、なんだか胸騒ぎがして顔を上げたら、戸口に立っていたジョーと目が合った。あっと思った時には、ジョーは静かに背を向けて家の中に入っていってしまった」

 由は固唾を飲んで聴き入っていた。

 その場面が見えたような気がした。

 ふっと背を向けて薄暗い家の中に消えていったジョアンナと、本を膝に、低い安楽椅子に座ったまま呆然とそれを見送るダン。 

 ダンは大きなため息をついて、遠く海を眺めた。

「ジョーに…謝ろうかなとも思ったんだけど、うまくきっかけが掴めなくて…、まあいいか、と思って結局何も言わなかった。ジョーがドゥマじゃなくてカッサに行くと聞いた時も、もしかしてあの夜の僕とアリッサのせいかもしれないと思ったけど、何も言わなかった。カッサは魔法大学の最高峰だし、成績優秀なジョーが行きたいと思うのはごく当然のことだと、自分を納得させた。でも、ジョーが休暇にも戻ってこなくて…そして母とアリッサがジョーの悪口を言って、ジョーを相続から除け者にする相談なんかしてるのを聞いたら、たまらなくなった。ようやく、僕にも母とアリッサのことが見えてきたんだ。ジョーがいなくなってからは、家の会話は人の悪口だの低俗な噂話だのばかりになってしまった。ああ、ジョーは前からこういうことに気がついてたんだなと思ったよ」

 また大きなため息をつくと、夢から覚めたような顔をして、喋りすぎて申し訳ない、というようにちょっと首をすくめて微笑んで由を見た。

「ま、とにかくそんなこんなで、僕はもう家がすっかり嫌になってね。オルセーンに逃げ出して、以来家に帰っていないし、家族にも会わないできてしまった。だからこんな写真しか残ってないってわけ」

「…どうしてカッサに行かなかったんですか」

 由は思わず訊いてしまった。すっかりダンの話に引き込まれて聴き入っていたので、ジョアンナへの同情の気持ちで一杯だった。

「カッサ魔法大学に入って…いや、そうじゃなくったって、休暇にでもジョアンナさんに会いにいって、謝ればよかったのに。僕ならそうします」

 きつい口調で言ってしまって、ハッとする。

「…すみません」

「いや、嬉しいよ。そんなふうに真摯に話を聴いてくれて」

 ダンはにこりとして、少し離れたところにある小さな売店でロバートと雅代と熱心に何かを見ている結花をちらりと見た。

「お姉さんと仲がいい?」

「はい」

 由は言ってから、それでは足りない気がして、

「とっても」

 と付け加えた。

「そう、それはいいね。羨ましいな」

 ダンは微笑むと、水平線に目をやった。

「カッサに入ろうと思わなかったのは…まあ自分にはあまり向かないかなと思ったのもあったけど——あそこは実験だのプロジェクトだのをうんとやらされるからね——、でも一番の理由はもちろんジョーに会う勇気がなかったからだ。君が言う通り、カッサの学生にならなくったって、休みにでも会いに行こうと思えば行けたのにね。僕があんなことを言ったのを聞いて、ジョーがどんな気がしただろうと思うと…。それに、きっと僕のことも母たちと同じ類の人間だと思って軽蔑してるんだろうなと…」

 そこへ、澄んだ鐘の音が鳴り響いた。

「乗船の合図だよ。行こう」

 ダンが言って寄りかかっていた手すりから身を起こした。

 桟橋には、一行の他に数人の人が残っているだけだった。一同急いでブリッジを渡る。

「おやつ買ってきた」

 結花がニコニコして、売店で買ってきたらしいひと抱えもある大きな紙袋を揺すってみせた。揚げたてのドーナツのような甘く香ばしい香りがした。

 由は思わず結花の笑顔をじっと見つめてしまった。

「なに、どしたの?」

「ん…なんでもない」

 ずっとずっと、仲良しでいたいなと心から思った。 

 

 高速船の個室はごく小さいもので、天井と壁と床は真っ白。小さな机と椅子とローテーブルも真っ白。椅子に置かれたクッションとソファ、そして窓から見える海がブルーという簡素な部屋だった。ローテーブルを囲むように置かれたソファは、三人掛けくらいの大きなのが一つと、ゆったりした一人掛けが二つ。雅代と結花と由が大きなソファに座り、ロバートとダンがそれぞれ一人掛けのソファに腰を下ろした。窓が開けられないのは残念だけれど、部屋の中は気持ちのいい温度と湿度で、大きな窓から海がよく見える。

 壁のどこかにある(はずだが見えない)スピーカーから、加速をする間は()()()()()席に着いているようにとアナウンスが流れている。

「できるだけ、なんだ」

「そう、やっぱり加速の時はちょっと揺れることがあるからね。でも絶対に座っていなければ危険というほどではないから」

 シートベルトとかそういうものはない。その辺も新幹線と似ている。

 わくわくして待っていると、やがて微かな振動が感じられた。窓の外には海とほとんど雲のない空が見えるだけなので、そこからはどれくらいの速度で動いているかはあまりわからないけれど、少しだけ身体が横に引っ張られるような感覚がある。雅代のいうところによると、わかりやすい単位に直すと時速大体四百キロくらいの速さらしい。

「全然揺れないね」

 これじゃ船酔いになんてなりっこない。由は、ずっと前に家族で沖縄に行って、悪天候の中小さな船に乗ったことを思い出した。キャビンの中で揺られていたら気分が悪くなったけれど、濡れるのを承知で外に出てみたら大丈夫になった。

「水の上を走るわけだからね。水面のほんの少し上に浮いているわけだから」

「そうなの⁈」

 由が目を丸くすると、ダンが説明してくれた。

「海水の中にあるなんとかいう物質の反応を利用して浮いてるんだ。あれは…なんて言ったっけ」

「さあ、僕は魔法化学はからっきしで…」

「確か…エクシロンとか、ウィクシロンとか、そんな名前じゃなかったかしら」

「ルプシロン?」

「それは風邪薬に使う植物の名前よ。エレインがいつも使ってる」

「ヒックシロンだったかな」

「あ、それそれ。それを水面に集めて、船底にヒックシロンに反発する物質を塗る、とかいうんじゃなかった?」

「確かヒックシロンを塗るんだよ。ヒックシロンの集合体はヒックシロンの集合体に強く反発する、とかなんとか習った気が」

「ああ…なんとなく覚えがあるような気がするなあ」

 ルキたちが話しているのを聞きながら、由は結花がローテーブルの上に置いたお菓子の袋に手を伸ばした。金平糖のような形をした一口サイズの揚げ菓子。

「いただきまーす」

「クロッシュっていうんだって。中に入ってるのはチョコレート、クリームチーズ、カスタードクリーム、キャラメル、ストロベリークリーム、マロンクリーム、えーとあともう一つはなんだっけな…」

 口の中にとろりとした感触が広がって、由は思わず声を上げた。

「おいしい!なにこれ。桃?」

「あ、それそれ!ピーチクリーム」

「…すっごいおいしい」

 初めての味だ。甘くて爽やかで、桃の香りがすっと鼻から抜ける。確かに揚げ菓子ではあるようだけれど、全然油っぽくなくて、ドーナツよりはむしろシフォンケーキに近い感じだ。ふわふわで、軽くて、食道を通って胃に着く前に消えてしまうんじゃないかと思わせる。

「どれどれ」

 大人たちも手を伸ばす。

「へえ、おいしいね!」

 ダンが目を丸くした。

「あら、初めて?」

「うん、この辺にはあまり来たことがないもんで」

「そうだ、お茶を頼もう。コーヒーの方がいい?」


 しばらくしてお茶が来て——汽車の中でのように、銀色の無人カートが持ってきた——、ロバートが、さて、と言った。

「おいしいものを食べて眠くなってしまわないうちに、これからのことを話しておこう」

 みんなクロッシュをつまんでいた手を止めて、表情を改める。

「由には今朝話したけれど、例のものはここに持ってきてある。エレインには話してないんだ。興奮すると身体に障るからね」

 雅代と結花が頷き、由は驚いてロバートを見た。身体に障る?

「エレイン、病気なの?」

 ロバートが微笑んだ。

「妊娠中なんだよ」

「気づかなかったの?」

 結花が呆れたように言う。

「いや…まあそういえば、」

 なんだか太ったなあと思ったけど、と言いかけて慌てて言葉を飲み込み、

「おめでとうございます」

 畏まって頭を下げる。

「ありがとう」

 ダンが笑顔でティーカップを掲げて、

「新しい命に。乾杯ソラス!」

 一瞬ジャンの灰緑色の目がはっきりと見えて頭の中がぐらりとしたけれど、由はみんなと一緒にティーカップを掲げて言った。

乾杯ソラス!」

「ありがとう」

 ロバートが嬉しそうに微笑んだ。

「男の子なのよね」

 結花が言う。

「そう。結花と由のように、仲のいい姉弟になってくれるといいなと思ってるよ」

 由はフエンテス姉弟妹きょうだいの話を思い出してダンの気持ちが気にかかったけれど、

「それはひとえに、姉の努力と忍耐にかかっている」

 結花がおどけて言ってみんなが笑ったので、ほっとした。

「…それで、例のものを持ってきた理由なんだけど」

 ロバートが言って、ダンを見た。ダンは頷いて、由たちに向かって改まった口調で言った。

「あれは、ジョーが受け継ぐべきものです。元々アリッサではなくジョーにいくはずだった。あの屋敷もね。ジョーが正当な継承者です。だから今日カッサ魔法大学に行って、ジョーにあれを渡そうと思って、ロバートに無理を言って持ってきてもらったというわけなんだ」

「無理なんかじゃないよ」

 ロバートが首を振る。

「僕は君の考えに心から賛成だ。君たちのお母さんがどういう考えでジョアンナではなくアリッサにあれを残したのかは知らないけれど、お母さんもアリッサも亡くなっている今、継承者はジャンではなくジョアンナであるべきだと思う」

 ダンと由の目が合った。ダンが微笑む。

「さっき由には話したんだけど、ジョーは母に不当に扱われていたんだ。母は…モラルのレベルの低い人間だった。ジョーはまっすぐで頭のいい子だったから、母の様々な間違いを指摘したし、母に反発した。母はそれが気に食わなくて、自分と似た性質のアリッサばかりをかわいがり、ジョーに意地悪をした。例のものも屋敷も、長女であるジョーが受け継ぐことに決まっていたのに、ジョーがカッサに行っている間に、ジョーに何の相談もせずにアリッサを継承者にしてしまった」

「…アリッサが、『ママにおねだりして、私がもらっちゃったの』って言ってたって聞きました」

 結花が少し遠慮がちに言うと、ダンはため息をついた。

「そうか…。じゃあ、言い出したのは母じゃなくてアリッサだったのかな…」

 膝の上で組み合わせた、日に焼けた両手に視線を落とす。

「ただ…、僕は、アリッサのことはあまり悪く言う気になれないんだ。アリッサは末っ子で、魔法を持ってなかったこともあって母に甘やかされていたし…、それで母の影響を受けてしまったんだろう。アリッサも、ジョーと同じように、母の犠牲者だと思ってる。アリッサだって子供だったんだ。母からジョーの悪口を聞いたりしなければ、ジョーと仲の良い姉妹になっていたかもしれない。親が子供に、その子の兄弟姉妹の批判や悪口を言ったりするもんじゃないよ。そう思わないかい」

 由と結花だけでなく、雅代とロバートも、お話を聴いている小さな子供のように熱心にうんうんと頷いた。ダンはちょっと恥ずかしそうに笑って、

「ご賛同ありがとう。随分個人的な話をしてしまって申し訳ない。で、本題に戻るけど」

 と言ってみんなを見た。

「今日、ジョアンナに例のものを渡したいんだけど、いいだろうか」

「私達に訊く必要ないわ。あなたのお家の家宝だもの」

 雅代が言って、みんなそうだその通りと頷く。でも由はその途中でハッと気がついて頷くのをやめた。

「ちょっと待ってください。もしジャンが石…いや、その、例のものを必要だったらどうするんですか。ジャンの命と引き換えだなんていうことだったら」

 ダンが驚いた顔をした。

「ジャンの命と引き換え?」

 ロバートが由を見る。

「ダンにはまだ全部は話していないんだよ」

 そして事故の詳細と、ジャンが生きている可能性がまるっきりゼロではないことを話した。その後を由が引き取り、ジャンが置かれているかもしれない状況についての仮説をあれこれ述べた。

「…だから、まず、そのジャンがいるかもしれない住所に例のものを持っていかせて欲しいんです。お願いします」

「それはもちろん構わないけど…」

 ダンは考え深げに言って、ロバートと雅代を見る。

「例のものは、『扉』を通れるんだろうか」

 ロバートと雅代が、同時に「ああ…」と目を見開いて、それぞれの背もたれにもたれ込んだ。顔を見合わせる。

「…どうだろう」

「考えなかったわね」

「なになに?」

 と結花。

「魔法の力のある物は、私たちの世界への『扉』を通れないのよ」

「でもだって、今はただの翡翠の玉なんでしょ?」

「推測よ。はっきりわかってるわけじゃないわ。それに、願いを叶えるだけじゃなくて、他の力だってあるかもしれない」

「他の力?」

「例えば、そうね、何によっても破壊されないような守りの魔法とか、いつまでもその姿を保つ——つまり変色したり変質したりしないような保存の魔法とか」

「…あり得る話だね」

 ロバートが顎に手をやって頷く。 

「確かめる方法ないの?」

 乾電池だったら豆電球でわかるけど…と小学校の授業を思い出しながら由が言うと、大人たちは困惑顔で視線を交わした。

「…『扉』を通ってみるしかないんじゃないかしら」

「そうだね。でも、あれって、自己申請するんじゃなかったかな。『魔法のあるものを持っています』って。少なくとも昔はそうだったような気がする」

「申請しないで『扉』を通ろうとすると、通れない?」

「…さあ」

 由の頭の中に、テレビで見た空港のセキュリティチェックが浮かんだ。

「そこで魔法の力のあるものを持ってるってわかったら、どうなるの?没収されたり、捨てなきゃいけなくなったりするとか?」

「まさか。でも多分置いていかなきゃいけないってことにはなるでしょうね。『扉』の係の人に預けていくとか」

「……」

 それじゃ困る。ジャンに渡すことができないじゃないか。

 眉を寄せて黙りこくった由にロバートが優しく言った。

「今心配しても仕方がない。とにかく計画通り、手紙の住所まで行ってみよう。例のものが『扉』を通れなかったら、そのことを…ジャンに、或いは手紙を書いた人に話せばいい」

「we'll cross the bridge when we come to it.」

 結花が言って、

「その通り」

 雅代が微笑んで頷いた。

「…了解」

 由は渋々頷いた。確かに、そうするしかない。


 みんなでクロッシュをつまんでお茶を飲みながら、主にダンの研究の話を聴いているうちに、快適な船は高速で海の上をぐんぐん進んでいった。途中で一度アナウンスが流れ、カッサからの高速船とすれ違うため、減速と加速をするので、()()()()席におつきください、と言った。

 由は構わず立っていって、広い窓の端から外を眺めた。座っていても見えるけれど、できるだけ近くで見てみたかったのだ。ダンもやって来て由の隣に立った。

「こっち側から見えるでしょうか」

「車ならすれ違うのはこっち側だけど、船はどうかな…、あ、あれだね」

 青い青い海の向こうのほうに、小さな白いものがきらりと光った。と思う間もなく、どんどん大きくなってくる。近づいてくる。すごいスピードだ。あらためて鳥肌の立つような思いでいると、すうっと身体が横に引っ張られるような感覚があった。減速している。

 視界の中で、向こうの船がどんどん大きくなってくる。この船と同じデザインだ。真っ白な中に複数の細いブルーのストライプ。港でこの船を見た時にも思ったのだけれど、まるで出来立てのおもちゃの船のようにピカピカでツヤツヤだ。傷だの汚れだの錆だのとは無縁のもののように見える。

 車と同じように左側通行であるらしく、この窓からすれ違うところが見えるようだ。確かに減速はしているけれど、それでもかなりのスピードだ。あっという間にすれ違ってしまうのだろう。

 悪天候の中、こんなスピードで接触したのか…。やっぱり場所はこの辺りだったんだろうか…。

「アリッサも可哀想に…」

 由の思いが聞こえたかのように、ダンがそっと呟いた。

「僕がオルセーンに入って以来会わなかったから、最後に会ったのはアリッサが高等学校の一年生だった時だよ。手紙のやりとりは、フェリが生まれた後が最後だったかな」

 生むぎ生ごめ生たまご、と早口で言うくらいの間に、二隻の白い高速船はスッとすれ違った。まるで影同士がすれ違うように、ふわりとその逢瀬は終わった。向こうの窓からも誰かがこっちを見ているだろうか、なんて思う間もなかった。

「…人生も、こんなふうだよ」

 ダンが言って小さく笑った。

「あっという間に過ぎていく」

 船が加速するのを感じながら、由はわざと顔をしかめてみせた。

「大人の人って、みんな同じこと言うんですね。うちの親もしょっちゅうだし、ロバートと雅代伯母さんもさっき汽車の中で言ってました。人生はあっという間、って」

 ダンは柔らかく目を細めた。

「本当のことだからだよ。驚くほどね。だからやりたいことがあったら躊躇せずにやらなきゃだめだ。ためらっているうちにも、人生は過ぎていくからね」

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