Chap.1
「由、クッカの油をとって」
「ほい」
「おっと!投げるなよ、危ないなあ」
「ごめんごめん。次はエラルッソの花粉だよね。あれっ、花粉は?」
「大丈夫、ここにあるよ」
銀色の満月に照らされた川岸の小さな丸太小屋の暖炉に、小さな白い火が燃えている。その上には骨董品と呼びたくなるような、使い古された、見るからに頑丈そうな壺型の小さな黒い鍋が、鰐のような三本足を踏ん張って立っており、中のものがぶくぶく、ぱちぱちいいながら、なんとも奇妙きてれつな匂いを小屋の中に漂わせていた。これが料理なら、なんとしても味見はごめんこうむりたいところだが、さにあらず、この小屋でひそやかに行われているのは、魔法の実験だった。
鍋のそばには二人の少年が座り込んでおり、まだ幼さの残る若い顔が許す限りの真剣な表情で、一人は鍋をかき回し、一人はそれを見守っていた。
黒いレードルで鍋をかき回しているのは、ジャンという名の、濃い金色の髪に灰緑色の瞳をした陽気な顔立ちの十四歳の少年で、白い額に落ちかかる前髪を時折うるさそうにかき上げていた。もう一人の、由と呼ばれた少年は、黒髪に茶目っ気たっぷりの大きな黒い瞳をして、やはり十四歳。目鼻立ちの整ったきれいな子で、片膝を立てて、親友の手元をじっと見守っていた。
「結構時間がかかるね。もうそろそろ色が変わってもいいんじゃない?」
「いや、まだだろう。あと五分くらいかな」
涼しく気持ちのいい五月の夜だった。
さらさらこぽこぽと心地よい音をたてながら流れる川の向こう岸を少し上がったところに住むロッシュ・ペリー老人は、寝室の窓から外を眺め、小さな丸太小屋の窓からちらちらと藤色の炎が見えるのに気がついて、くつくつ笑った。
「ほほう、またあの若い魔法使い達が来てござるな。さてさて、今度は何を作っているのやら」
「またですか。今度はあまりひどい匂いがしないといいけれど」
ペリー夫人は一週間ほど前の夜を思い出して、鼻にしわを寄せた。
「今夜は大丈夫のようだ。それに風は向こうに向かって吹いとるよ」
「それならいいですけどね」
夫人はほっとため息をついた。
「あの子達、このところほとんど毎週のように来てるじゃないですか。やっぱりエレインに言って止めてもらった方がいいのじゃないかしら」
「おや、おまえ、あの子達を気に入っとっただろう?」
「そりゃ礼儀正しいかわいい子たちですよ。でもねえ、こう頻繁にあの子達の言う『実験』とやらをやられたんではね。事故でも起こしゃしないかとはらはらしますわ」
ペリー老人は夫人の心配を笑い飛ばした。
「心配いらんよ。本に書いてある通りにやっている限り、事故なんぞそうそう起こらないものだ」
「本に書いてある通りにやってるって、どうしてわかります?」
夫人は髪をとかしていた手を止めて、夫に向かってヘアブラシを振ってみせた。
「たまにいるじゃありませんか。軽率に新しい薬だの、新しい方法だのを発明しようとして事故を起こす、考えなしの若い魔法使いが。つい先月だって、ドゥマで…」
ペリー老人はやれやれとため息をついた。彼に言わせれば、彼の妻は度を越した心配性なのだ。
「あれは大学生だろう。この子達はまだ十五歳かそこらだ。薬の発明だのなんだのって難しいことができる年じゃない。それに…」
夫人は夫をさえぎってまくしたてた。
「そんなのわかりませんよ。小さくったって、その辺の大学生なんかよりずっと優れた能力を持っている子はたくさんいるんですからね。血筋から言えば…」
夫人は夫をちらりと見やった。血筋によって人を判断するのは、ペリー老人のお得意なのだ。
「血筋から言えば、ジャンはジョアンナの甥だし、由は雅代の甥ですよ。二人とも非常に才能ある魔法使い、それもルキの称号を持つ魔法使いを伯母として生まれ育ってるんですからね。そんな二人が、膝突き合わせて新しい薬でも発明してないと、どうして言えます?十分あり得ることだと、私は思いますね」
「それ、血筋だよ。わしが今言おうとしてたんじゃないか」
ペリー老人は、妻にお株を奪われてなるものかと急いで口を開いた。
「いいかね、ジョアンナも雅代も、優等生だった。二人とも魔法大学を最優等で卒業したルキだし、ジョアンナのほうは村の学校時代だって模範生で過ごしとる。二人のうちのどちらかでも、くだらない、突飛な発明なんぞを試みて事故を起こしたなどと聞いたことがあるかね?ないだろう、ええ?才能ばかりでは模範生にはなれん。魔法大学で最優等も取れん。二人とも、しっかりした判断力のある立派なルキだ。したがって、その甥であるあの子達だって、危険なこととそうでないことくらい、きちんとわきまえてるにきまっとる。血筋というのはな、受け継がれるものなんだ」
お得意のせりふで締めくくり、どうだとばかりにふんぞり返った夫の満足気な顔を見て、夫人は吹き出した。
「わかりましたよ、ロッシュ。あの子達が優秀な伯母さん達から、才能だけじゃなく、きちんとした判断力も受け継いでいるよう、祈ることにしましょう」
しかし、妻を言い負かしていい気分の夫が鼻歌まじりに部屋を出て行った後、夫人は窓辺に立って、白っぽい明かりのちらちら瞬く丸太小屋を不安そうに眺めながら、カーテンに向かってつぶやいた。
「血筋ねえ…。そう、ジョアンナは確かに模範生でしたよ。私の従姉妹のフローラが学校であの娘を教えてたんだもの。どんなに頭が良くて素晴らしい生徒だか、よく聞かされたものだった。でも、あの家族がフラミルからアルバーに引っ越してきたのは、確かあの娘が高等学校の二年か三年くらいのとき…そう、うちのショーンが入学した年だったからね…。その前にあの娘がフラミルでどんなことをしてたか、わかりゃしないじゃありませんか。雅代だって、若い頃あちらの世界でどんなだったのか、誰も知らないんだし。やれやれ。ほんとに、事故なんか起こさないでくれるといいんだけど」
川の向こう側で自分達の血筋が取り沙汰されているとはつゆ知らず、ジャンと由は、暖炉のそばの壁に寄りかかって座り、足を伸ばしたところだった。近くの窓から、時折ひんやりとした風が吹き込んできて、汗にぬれた額を心地よく冷やした。
「うまくいったんじゃない?」
「うん、そう思うね」
二人は満足そうにうなずきあった。
「ああ、待ちきれないな」
由はそばに置いた砂時計を眺めた。金色に光る砂が、音もなくなめらかに滑り落ちていく。
今回の実験は、ここ二ヶ月の二人の研究の集大成となるべきもので、小さな失敗を重ねつつあれこれ改良したものの結果だった。由は興奮と緊張で背筋がぞくぞくした。いつも実験の結果を待つときはぞくぞくするものだけれど、今回はまた特別だった。
ジャンのほうは比較的落ち着いた様子で、くたびれた革のリュックサックを開けると、サンドウィッチの包みを取り出し、由に放ってよこした。
「あ、しまったな。ピクルスを持ってくるのを忘れちゃったみたいだ」
自分のリュックサックの中をがさがさ探しながら由は言って、舌打ちした。サンドウィッチを食べながら小さなきゅうりのピクルスをかじるのが大好きなのだ。すると、ジャンがにこりとしてリュックサックから小さな瓶を取り出した。
「心配ご無用」
瓶の中には、おいしそうな小さなきゅうりのピクルスがたくさん詰まっていた。
二人は楽しく夜食をとった。ジャンは度々暖炉の火加減を調節しに席を立った。
「やっぱり、ちゃんとした実験室の火じゃないからなあ。煮詰めるときに火加減が一定に保てないのが難点だ。あーあ、早くドゥマの実験室で思う存分実験できるようになりたいよ。堂々とね」
何度目かに火を調節した後で、ジャンはため息をついた。
大人達に隠れて、厳しく禁じられている発明や実験をやるのもそれなりの楽しさがあるが、心底実験を愛しているジャンは、やはりきちんとした設備の整ったところで、何不自由なく実験をしたいのだった。
「ドゥマ魔法大学か…。僕も行きたいけどなあ」
由が頬杖をついてため息をついた。ジャンが眉を上げる。
「『けどなあ』って、なんだよ。由がいなくちゃ話にならないよ」
「もちろん、行くつもりだよ。でも、その前に大騒ぎになるだろうなあと思ってさ」
「ああ、そうか…」
ジャンはうなずいた。由の両親はこちらの世界のことを何も知らないのだ。
「雅代に説得してもらったら?」
由は苦笑して首を振った。
「そんなことしたら、よけい大騒ぎになるよ。父さん達は、雅代伯母さんが魔法使いだってことも知らないんだから」
由の伯母の大澤雅代は、由の母高野 恵美の八つ違いの姉で、普段は本人の言うところの「細々と暮らしていける程度に仕事のある絵描き」兼美大の講師を生業としている。
日本で美大を卒業した後、仕事も兼ねて数年間外国を渡り歩いていた雅代は、英国で、ジャンの父ユアンの姉であり母アリッサの親友でもあったエレインと出会ったことがきっかけで、自分が魔法を持っていることを知り、この魔法使い達とそうでない人達がごく普通に一緒に暮らしている世界にしばらく滞在して、ドゥマの魔法大学に学んだ。その後大人しく日本に帰ってきて両親をほっとさせたのだが、「結婚したくないの?」という母親のしつこい問いにはいつも「したくないわ」とだけ答え、高野家の近くの小さな部屋で一人暮らしを楽しんでいるようだ。
雅代と恵美は大変仲がよく、恵美の夫和洋が雅代の美大時代の後輩であったこともあり、別の家に暮らしているとはいえ、雅代はまぎれもなく家族の一員だった。由も、二歳年上の姉の結花も、小さい頃から、この背の高い少し風変わりな伯母をこよなく愛して育ってきた。
ある秋の日の午後を境に、三人の関係はただの仲の良い伯母・姪・甥からもっとずっと親密なものへと変わった。
その細かい霧雨の降る日、雅代を訪れていた結花と由が、雅代がこの世界に来るための入り口として使っている魔法の絵の中に誤って転がり込み、エレインの夫ロバートの書斎にかけてあるもう一つの絵から転がり出てしまったのである。結花が中学一年生、由が小学五年生の時のことだった。
雅代は仰天したが、そのハプニングのおかげで結花と由も魔法を持っていることがわかり、以来約二年半、三人はこの素晴らしい秘密によって固く結ばれたチームとなって、恵美や和洋のあずかり知らぬ多くの楽しい時間を共に過ごしてきたのだった。
「雅代伯母さんみたいに、しばらく外国に住むってことにでもなれば、話は簡単なんだけどなあ。とすると、留学ってことになるだろうけど、それじゃ勉強が大変だもんなあ。向こうとこっちと、二つの大学に同時に通うんじゃ」
ジャンは首を振った。
「二股なんて絶対無理だよ。ドゥマは結構きついって聞いてる。カッサほどじゃないにしても…」
「カッサ?」
「ルビナスの首都カッサにある魔法大学だよ。この世界の魔法大学の最高峰」
由は何度か見たことのあるこの世界の地図を思い浮かべた。
「ルビナス…北の方の国だよね」
「そう。魔法使い人口が一番多い国。他の国には魔法大学しかないけど、ルビナスには魔法高等学校もあるんだ。ロバートはカッサ魔法高等学校に行ったんだよ。大学はドゥマだけどね。それに…」
ジャンはちょっとためらってから
「僕の…伯母さんがカッサ魔法大学を卒業したんだって。今もカッサに住んでるらしいよ」
と付け加えた。
「伯母さん?」
由はちょっと驚いた。
「エレインの他に伯母さんなんていたの?知らなかったよ」
ジャンは肩をすくめた。
「僕だって会ったこともないんだ。母さんの姉さんなんだけどね」
「じゃ、僕にとっての雅代伯母さんみたいなもんだね」
由の無邪気な言葉に、ジャンは首を振った。
「全然。母さんとその伯母さん——ジョアンナっていうんだけど——は、昔から仲が悪かったんだって。ジョアンナ伯母さんはカッサ魔法大学に入学して、それ以来一度もここへ帰ってきたことがないんだってさ」
「一度も?だってジャンのお母さん達の…その…」
由はその言葉を口にするのをためらった。
「そう、母さん達の葬式の時も、帰ってこなかったらしいよ。僕は小さかったから何も覚えてないけどね」
「…そうか」
由はなんと言えばいいのかわからなかった。
雅代伯母さんから、ジャンは幼い頃船の事故で両親とまだ赤ちゃんだった弟を失った、と聞いてはいたけれど、そのことをジャン本人と話したことはなかったのだ。
ジャンは神妙な顔をして沈黙した由を見て、気持ちを引き立てるように言った。
「まあとにかく、そんなわけだから、僕もそのジョアンナ伯母さんのことはよく知らないんだ。エレインは彼女のことをあまり話したがらないし、僕だってそう興味もないしね。でも、これはロバートから聞いたんだけど、伯母さんはカッサを最優等で卒業したんだって。卒業制作はなんだったんだろうなあ」
ジャンは目をきらきら輝かせて、宙を見つめた。
「伯母さん自身には大して興味はないけど、伯母さんの魔法には興味があるな。もし会う機会があったら、カッサで最優等をとった卒業制作の話を聞いてみたいよ」
「最優等の卒業制作か…」
由も頬杖をついたままうっとりとなった。
金色の光に満たされた由の空想の中では、共同で素晴らしい卒業制作を成し遂げたジャンと由が、長いガウンを着、ルキの称号と共に授けられる金のダイアデムを頭にかぶり、嵐のような拍手喝采の中、壇上で最優等の表彰を受けていた。
「そうだ。そういえば、雅代伯母さんの卒業制作ってなんだったんだろう。伯母さんもドゥマで最優等をとったって聞いたけど」
ふと思いついて由が言うと、ジャンは目を丸くした。
「なんだよ由、知らないの?例の絵だよ」
由はぽかんと口を開けた。
「絵って…あの絵?」
「そうさ」
「あの、僕達が、ここと向こうの行き来にいつも使ってる…」
「そう」
由は耳を疑った。あんな強い魔法を持つものを、いつもふざけあっているあの雅代伯母さんが作成したなんて…。
「…驚いたな」
「そのようだね」
唖然としている由を見て、ジャンはおかしそうに笑った。
「偉大なる伯母上を少しは見直したってとこかな?」
「少しどころか…」
二つの世界をつなぐあの一対の絵が卒業制作とは!最優等をとる卒業制作とは、あれほどのレベルのもののことを言うのか…。由は舌を巻いた。ジャンと二人でいくつかの薬品作りに成功して得意になっていたが、道はまだまだ遠そうだ。
「そういえばさ、」
また火を調節して戻ってきたジャンが、目を輝かせて言った。
「一昨日の午後、面白いものを見つけたんだ」
腰を下ろすと、ジャンは由のほうへ身を乗り出して心持ち声を低めた。
「例によって、エレインの留守中に戸棚をかき回してたんだよ」
ジャンは目で鍋のほうを示した。
二人は、実験に必要な材料はできるだけ自分達で集めるようにしているのだが、そう簡単には手に入らないものもある。そういう時に、魔法薬剤師であるエレインの大きな戸棚から、必要なものを、見つからないように「ちょっと拝借」してくるのだ。
最初は罪悪感でびくびくしていた由にも、今ではすっかり馴染みとなったその途方もなく大きな戸棚は、家の北にある樅林に面した二階の部屋にあり、開けるといつもぷんと乾いた薬草の香りがした。
「マクィンの樹脂を使うのは今回が初めてだっただろ?だからなかなか見つからなくて、あちこち探してたら、一番上の棚のうんと奥の方で、僕の名前の書いてある小さな箱を見つけたんだ。しっかり封がしてあって、エレインの字で『ジャンの十六歳の誕生日に』って書いてあった。中には…」
「なるほど、開けちゃったわけね」
由が眉を上げて言うと、ジャンはにやりとした。
「もちろん。中には簡単なメモと、全体に彫刻のほどこしてあるこれくらいの」
と、親指と人差し指で輪を作って見せて、
「緑色の綺麗な石の玉が入ってた。たぶん翡翠に違いないだろうと思う。メモにはそれが僕の母さんの家族に数世紀にわたって代々伝わるもので、これからは僕が受け継いで大切にしていくように、っていうようなことが書いてあった。彫刻はどうやら文字みたいで、数世紀っていうだけあって、さすがに少し磨り減ってるところもあったけど、読めないほどじゃない…つまり、それがどの古代語かわかったらだけどね。ちょっと待ってて、今見せるよ」
「見せるって…」
由は目をむいた。
「持ってきちゃったの?」
「そうさ。昨日ここに持ってきて、例のところに隠したんだ」
ジャンは暖炉と反対側の部屋の隅を顎で示した。そこには、二人が床板を剥がして作った、秘密の小さな貯蔵場所がある。実験に使う様々な器具やいくつかの基本的な材料がぎゅうぎゅうに詰め込まれている場所だ。
あんなところに、そんな、一族に何世紀にもわたって伝わるなんていう大事なものを…。
さすがに呆れて声も出ない由に屈託なく笑ってみせて、ジャンは立ち上がってうーんと伸びをした。
「大丈夫だよ。エレインが見てもバレないように、同じくらいの重さの石を箱に入れて、元のように封をして棚に戻しておいたから」
「いや、そういう問題じゃなくて…」
「ただ…メモに書いてあったことで、ちょっと気になったことがあってさ」
貯蔵場所に向かいながらジャンが言った。
「メモには、その石は一族の女性に受け継がれてきた、って書いてあった。それなら、それを受け継ぐのは僕じゃなくて…」
その時、銀の砂時計がチリリン、と澄んだ音を立て、二人はハッとして、興奮した顔を見合わせた。
時間だ!
翡翠の玉は一瞬のうちに忘れ去られてしまった。
ジャンは暖炉へ飛んでいき、由はリュックサックに飛びついて、小さな黒い箱を二つと、茶色の箱を二つ取り出した。それぞれの蓋を開ける。黒い箱の中には透明な液体の入った水晶の小瓶が一つずつ、茶色の箱の中にはコバルトブルーの液体の入った水晶の小瓶が一つずつ入っている。透明な液体は魔法の薬の効き目を消す『取り消し薬』、そしてコバルトブルーの液体は万が一の時のための『解毒薬』だ。両方とも、必要だと思った瞬間に即座に飲めるよう、目の前の、手が一番届きやすい位置に置いておかなくてはならない。
由が神経質に『取り消し薬』と『解毒剤』の位置を調整していると、明るい琥珀色に輝く液体を入れた小さな二つのグラスを持ってきたジャンが笑った。
「ほんっと心配性なんだからなあ、由は。今まで必要だった試しがないのに」
「万が一ってことがあるだろ。後悔先に立たず」
「はいはい」
自分の分のグラスを受け取った由は、グラスを目の高さに持ち上げて、窓から入ってくる満月の白い光に透かしてみた。
「…予想と色がちょっと違ったかな」
「そうだね。もう少し緑がかった色になるかなと思ってたんだけど」
「匂いは…」
グラスの上を手で煽ってみる。薬草と酸の混ざったような強い匂いに由は顔をしかめた。
「…まあ予想通りと言ってもいいか。それにしてもすごい匂い」
「ギルサが入ってるからしょうがないよ。さ、始めよう」
いつもの通り向かい合って胡坐をかき、背筋を伸ばす。
暖炉の白い炎は消されて、白い月明かりだけが小屋の中をしんと照らしている。
それぞれの左前に、二ヶ月間の研究の集大成である薬。右前に『取り消し薬』と『解毒薬』。
二人は無言で頷き合うと、ゆっくりとした動作で『取り消し薬』、次いで『解毒薬』の瓶の蓋を取り、それぞれの瓶の横に静かに置いた。
次にそれぞれの左手を伸ばし、月の光の中琥珀色に煌めく液体の入ったグラスを取り上げる。
期待と緊張に輝く灰緑色の目と黒い目を見合わせると、二人はまた小さく頷き合い、左手でグラスを目の高さに掲げた。
「乾杯!」
ジャンはぐっと格好良くグラスをあおったが、由はグラスに唇をつける直前に思い切り薬の匂いを吸い込んでしまい、息も止まらんばかりのものすごいくしゃみと咳の発作に襲われた。
目も開けられず、鼻水まで垂らしてむせ返っている由の耳に、ジャンの大笑いが聞こえた。
「すっげえ!カバの喘息みたいだな。大丈夫?」
まったく人ごとだと思って…!
息も絶え絶えにむせ返りながら、ジャンを睨みつけようと薄目を開けかけた時、太陽の百倍もあろうかと思われる強烈な光が由の瞼を貫いた。