MYLANDA〜ミランダ、あるいはマイランド〜 ①
プロローグ
「ねえ。どうして、わたしたちが、この場所に集まるのか、ふと忘れてしまうことがない?」
「忘れるっていうか、なんかぼんやりして・・・。大事な場所に行こうと思い立つ、でもいざその場所に来ると、なんとなくぼんやりして。」
「長い休暇みたいに、目的がぼんやりして。」
「でも、おかしなことに変な感じはしない。」
「この島のこのビーチには持ち主がいる。そのことはみんな知ってるし、みんな覚えている。」
「だが知ってることや覚えてることほど、あえて思い出そうとはしない。」
「そう、忘れるはずがないから、思い出さない。」
「思い出そうとしてみるのも、たまには良いかもしれない。」
「思い出せるのは幸せの証拠。ならやってみよう。この場所はわたしたちのものではないけど、わたしたち全員にとってとても大切な場所。みんなで、思い出すのも悪くない。それもこの場所でならいちばんの幸い。」
「始まりは、そう、あの満月の夜。この中の誰かが、この中の誰かを・・・殺してしまった夜。」
第1章 置き時計
遠い昔の事・・・というよりも、
まるで夢のように幽かな、
はっきり覚えているとは言えない程の話
ーーーウィリアム・シェイクスピア『テンペスト』
1 骨董商イアン・ティーコ(享年52歳)
この島の名前を記すことが出来ないことを予め断っておくべきかもしれない。これから始まる物語には歴史的な裏づけはないし、そういった目的で語られるものでもない。むしろ、この島の名前が隠されていること自体がこの物語を物語として成り立たせ、不動のものとし、それが「語られるもの」であることを強調するのである。だから、この島、この物語の舞台となる島の名前は、最後まで不詳のままである。いや不在のままだったと言った方が真実に近いのだろう。
この島を発見した人物の名もまた不詳である。ただ17世紀の資料を信じるとすれば、この島はもともと無人島で、所謂、大航海時代に西欧人によって発見された島だということである。
その後、まずは、ポルトガルの野心的な船乗りの一団が入植したが、この一団は撤退の憂き目を見ることになった。理由は簡単である。第一に金が採掘されず、第二に香辛料が採集できなかった。こういった資源の乏しい島での唯一の成功産業ともいえる砂糖のプランテーションも島の珊瑚質の土壌によってかなわなかったらしい。
その後18世紀に入ると、歴史はもう少し明確になる。イギリスとフランスの植民地合戦に巻き込まれたのだ。ただ、前述の通り、資源に乏しく、さらに交通や軍事上の要衝でもないこの珊瑚の島の価値は、チェス盤上のポーン程度であったから、単純な点の奪い合いの獲物でしかなかった。
結局、年表的事実としてあげられるのは、1783年にイギリス領になったということだけである。一時、富裕ともの好きを兼ね備えたイギリスの人々が別荘を立てたが、結局、すぐに人口は過疎化してしまった。イギリスは同時代にもっと魅力的で資源に優れ、使用人にこと欠かない植民地を大量に手に入れていたからである。
とはいえ、無人島に戻ってしまったわけではない。そこには、決して多くはないが活気のある人々により営まれている町があり、生活があり、そして嘆賞すべき美しく果てしないビーチがあった。
人口は多くが入植者であるイギリス系の人々、そして、商いの新天地を求めて入植して来た他の国の商人たちである。
そんな商魂逞しき男たちの中にイアン・ティーコがいた。彼は1888年、ポルトガルの船商人の家系に生まれ、第一次世界大戦が終わると、この島に渡って来た。彼が吹聴する話としては、この渡来はまさに商業的大成功で、渡島後、すぐに骨董品の買い付けと販売で一財をなしたという。しかしながら、こういった話には彼特有の誇張があることに注意しなければならない。
この島は長い間無人島だったので、民族文化的遺産は皆無と言って良い。そこで、彼が最初に目を付けたのは、かつて、この島に別荘を立てた裕福なイギリス人の置き土産とでも言うべき家具、什器の類いであった。そして、こういった物を売り払った後も、幸運にも新たな資源はあった。ある時、島をハリケーンが襲ったことがあったが、それ以来、この島の南西の岬にどこからともなく様々な物が流れ着くようになった。どこかの島が同じハリケーンで吹き飛ばされ、そこから流れてきたのか、それとも難破した船でもあったのだろうか。大昔の彼の祖先たちに海流が味方したように、この島周辺の海流もイアン・ティーコに味方をしてくれたようだ。ガラクタに等しい物がほとんどだったが、その中には、骨董品や銀食器などを始め、一定の価値のある財貨が見い出された。
彼は島の子供たちにこういったガラクタを拾わせ、薄謝を払って買い取っていたのである。彼の言う商業的成功とは、所詮、このような幸運と詐欺まがいの吝嗇経営の上に成り立っていたと言える。イギリス人の置き土産は、彼のために施された物ではないし、岬に流れ着く遺物は神が彼につかわせた品々ではないのだから、それを売る権利も子供たちから買い取る権利も彼にはない。
しかし、山師だらけのこの時代、そこに目を付けただけでも彼の才知だと褒める人は少数ながらいた。ローマ皇帝ウェスパシアヌスの業績を知ってからの彼の座右の銘は「ノン・オレト 金は臭わない」だった。
こう書くと、彼の人柄はあまり芳しくはないように思えるだろう。しかし、彼は実際好人物であった。度量の広さは商人独特で、自分のしている小悪を顧みないことを除けば、陽気でおおらかな人柄だった。
かつての故郷の親友が大恐慌のあおりを受け破産したおり、わざわざ渡航費を送り親友一家を島に迎えたこともあった。残念なことにその親友は死んでしまったが・・・。唯一の瑕瑾をあげつらうことでその人物の人格を否定するのは馬鹿げたことである。蜜蜂の針は時折人を刺すが、蜜蜂はそれよりも人に貢献している部分の方が多いのだ。これもイアン・ティーコの口癖である。
その夜は満月が輝いていたが、時折厚い雲が闇を誘うと、波のさざめきに混じって、どこからともなく花の香りが漂った。島特有の美しくかぐわしい夜のはずだったが、イアン・ティーコにとっては、それは災厄の夜だった。
イギリス、つまりこの島の宗主国ーーー島の人々はたいてい「本国」と呼んでいるーーーの特別外交官を名乗るエドワード・フィッシャーがある商談のため彼の店を訪れた。
商談がうまくまとまったせいかフィッシャー特別外交官は上機嫌で、イアン・ティーコを自身の別荘に招待すると言い出した、それも今すぐと。特に用事もなかったし、フィッシャー特別外交官の申し出にも関心があったので、そのまま別荘にお供をさせてもらうことにしたのだが、その途上、不意に頭部に激痛が走り気を失ったのだ。
2 エドワード・フィッシャー特別外交官(享年30歳)
エドワード・フィッシャーがこの島に落ち着いたのには理由がある。彼は豪商の家の出身で、実直で寛容な人間として知られていた。支配的な性格ではないためか優柔不断のきらいはあったが、それも長所に数えてよい程度のものだった。
しかし、唯一の問題があった。それは慎ましく言えば金銭に無頓着ということだが、彼の場合、後先を考えずに物を買い、金を借り、それを賭けるのである、それも豪商の両親がほぞを噛むほど多額の。
両親はこの解決を結婚に求めた。というよりある都合の良い結婚話がちょうど持ち上がったのだ。タウンゼンド子爵家の三女クレアとの結婚である。経済的身分の次にエドワード・フィッシャーの父親が欲しかったのは社会的地位だったし、タウンゼンド家にも思惑があった。両家による打算的な結婚ではあったが、エドワードとクレアは両家の成算を超えて愛し合い、期せずして恋愛結婚を遂げた。
結果、打算的な結婚への誹謗や中傷で本人たちが傷つくのを避けるため、という理由で、両家はエドワードに特別外交官ーーーこの「特別」の意味は、特に別に仕事はないという意味であるーーーの任を与え、小さな植民島への海路を用意した。大きなお金を使うことができない小さな島へ。最初に訪れた島には少し問題が起こり、結婚の三年後、この島に移り住んだのだ。
そんな彼、エドワード・フィッシャー特別外交官は、この日の夜、骨董商のイアン・ティーコを訪ねていた。
イアン・ティーコ商会。様々な骨董品から什器、アクセサリーから実用品が揃う。エドワード・フィッシャーの周りにも奇妙な動物の剥製やどんな音がするのか想像すらできない楽器、恐ろしげな仮面や、肌に刺青を施した男性の全身像。皿、絨毯、リュトン、香水瓶、望遠鏡、オーナメント、燭台、陶製人形、椅子、ランプ、天体儀、花台、古式銃、ステンドグラス、ロザリオ、鎧、絵画、タペストリー、降誕セット、ばね測り。余程の目利きでもない限り、その価値や真贋が分からないような、あまりに雑多であまりに多彩な品々が所狭しと陳列されている。
以前、店主に聞いたところ、地下蔵にはミイラもあるといい、骨董品店というより、驚異の部屋と言ったほうが、想像がしやすいかもしれない。いずれにせよ、エドワード・フィッシャー特別外交官にとって居心地の良い部屋でないことは、彼の落ち着きのない態度からも一目瞭然だった。
「つまり、フィッシャーさん、あなたは、昨日わたしから購入したその品を返したいとおっしゃるのですね?」
イアン・ティーコは両手の指を組み直しながら続けた。
「はい。」
「つまり、昨日の売買契約を反古にしたいと。」
「ええ。」
イアン・ティーコはいつも正体の知れない奇妙な民族装束を身に付けており、鼻梁の膨らんだ面長な顔から、低音でよく響く声を出す。エドワード・フィッシャーにとってやや威圧的に聞こえるのは、その微かななまりのせいだろうか。
「あの、反故というと言葉は悪いのですが・・・」
フィッシャーは頭をかいた。
「エドワード・フィッシャーさん。あなたの言うことはわかりますよ。ですけど、そういうことはできない決まりになっているんです。」
海辺に立つ骨董品店「イアン・ティーコ商会」は、夜になると波音に包まれる。この音は想像以上に大きい。この夜もうねり響く波の音が店内を蹂躙していたが、そこにいる二人の男の会話はそれぞれの思惑もあってか、いつもよろ声量が増し、波より大きな声であった。
「ですから、そこをなんとかなりませんか。」
フィッシャ-は籐製の丸椅子から身を落とさんばかりの勢いで頭を下げた。エドワード・フィッシャーは、本国人らしいと言えばそう言えそうな細面の顔であるが、美男と言うには頼り無い印象がある。鬚でも生やせば違うのだろうが。
「いいですか、フィッシャーさん。いくら買ったのが昨日でも、返品するから手形を返してくださいなんて、普通は通用しませんよ。」
「はあ。」
「はあ、じゃなくて、ご自分が使ったお金にもっと責任を持つべきでしょう。外交官なんだから。」
イアン・ティーコは宥めるようにそう言った。
「特別外交官です。」
エドワード・フィッシャ-は、そう訂正したが、その声は情けなく、特別が付く分、自分の立場が弱いのだということを、言外に語っていた。
「特別ならなおさらだ、そんな責任感覚で、勤まるほど楽な仕事なのか、特別外交官とやらは。」
そう、イアン・ティーコは思ったが、口から出したのは深い溜め息だけだった。しかし、この骨董商の心中の声が聞こえていたら、特別外交官はこう答えただろう。
「特別外交官というのは、ただの名前だけの閑職で、お飾りみたいな物だ。重責の伴う仕事ではない。」
もっともそう答えたところで、なんの意味もないのだが。フィッシャー家の数代前は、東インド会社に勤め、現地での賄賂や役金をイギリスに持ち帰って裕福になった、いわゆるインド成金の端くれで、金には困らなかったが社会的ステータスがなく、イギリスでは単なる成り上がり者と見られていた。
大学でも彼より貧乏ではあるが、家柄が良いというだけで、彼に差別的振る舞いをする同級生も多かった。無論、彼の家族も同様である。
タウンゼンド子爵家の三女クレアとの結婚は、無論、そういった背景が絡んだものであったし、特別外交官という肩書きはタウンゼンド子爵家の政治力により与えられたものだ。
長いバカンスと考えてくれて良い、と子爵は肩を押した。なお、外交活動は、必要ならば「特別」ではない外交官が行うが、この島には駐在していない。植民地の総督はどこか別の場所にいるのだろうが、エドワード・フィッシャーはその名を以前聞いただけで忘れてしまっていたし、当然、面識もない。
時折、エドワード・フィッシャーは本当にこの島がイギリスの植民地なのかを怪しむことがある。彼はこの島に住むイギリス人の代表くらいの立場であり、それは、本国のどんな小さな町の町長より責任のない位であった。実際のところ、島の人々にもそれほど重く扱われはいなかったのは、このイアン・ティーコとのやりとりを見ても明らかであった。
「イアン・ティーコさん。なんとかしていただけないでしょうか。責任と言われても、昨日の段階では知らなかったものですから・・・。」
フィッシャーの浪費癖はこの島でも収まりはしなかったが、僻地の小島では買えるものにも限りがある。昨日、ふとイアン・ティーコ商会を覗いた折に出会ったこの品を、店主の強い勧めもあって購入した。愛する妻へのプレゼントにしようと思ったのだ。それなりに大きな買い物だった。そして意気揚々と家に帰ると妻から告げられたのだ。子供ができた、と。
交渉は平行線を辿っていた。イアン・ティーコとしては、折角高額で売れた品物をむざむざ返品されるのは惜しい。しかしフィッシャーは子供が出来たから、それを買う金銭的余裕がなくなったと迫るのだ。
「ですが、身に覚えがないというわけではないでしょう。可能性があったのなら、こういった無闇な浪費は避けるべきだったのです。」
イアン・ティーコは、あえて特別外交官の顔から目を背けて、一度咳き込むと、同性としての忠告をした。
「はい。身に覚えはあります。ここのビーチに来てから妻もわたしも少し開放的になりまして、なんと言いましょうか、島の気分とでも言えば良いのか、寝室の壁も良い具合の色で・・・。」
「フィッシャーさん。わたしはそんなことを聞いているんじゃないんですよ。確かに子供ができるとなるとお金はいろいろかかるでしょう。」
「そうなんです。」
「しかし、昨日の買い物は、そんなに高額なものでしょうか?特別外交官の懐にとって。」
イアン・ティーコは「特別」というところを強調して言った。そうだ。裕福な本国人なのだ。財布の中だって、この島の気候のようにいつでも暖かいはずではないか。イアン・ティーコにとってイギリス人や金持ちは、決して愛着を感じられる生き物ではなかった。そのことがイアン・ティーコを頑なにし、この商談を難しいものにしていたことも事実だろう。
「いえ、わたしたち夫婦にはお金がないんです。他にもいろいろと・・・いえ、少なくとも、生まれてくる子供を無視して浪費するような金はないです。契約は解除できないんですか。昨日の今日ですし、ほら、まだ、開けてないんですよ。それにこの店の表書きには八日以内なら返品が効くと、そう書いてあるじゃないですか?」
そう、その部分である。そこを突かれることは、イアン・ティーコとしては、なるべく避けたかったのだ。仕方ない、最後の手段を使おう、阿漕な骨董商はそう考え、笑いながら語り出した。
「ははは、ご覧になりましたか・・・そう。まさに、このアンティーク・ショップは、フレンドリーでカインドリーなショップです。ですが、いいですか、今回の売買はもっと個人的なものとわたしは認識しているのです。」
「どういう意味ですか?」
「その特別な商品は、エドワード・フィッシャー特別外交官、あなただから、まさに特別に取り計らったものです。」
「は?」
「ですから、あなたと付き合いの長いわたしが、あなたをプロのコレクターと認めたから個人的に紹介し、わたしが、あなたに、個人的に売却したものです。」
一瞬、フィッシャーの眉が跳ね上がったように見えた。
「ですから、今回の売買にはこの店は関係ないんですよ。あなたは、イアン・ティーコ商会の顧客ではなく、わたしの上客ということなのです」
暫く、二人の間には、沈黙が流れたが、波の音は常に轟々と打ち続いていた。
「正直おっしゃってください。わたしを騙してらっしゃるのですか?」
フィッシャーは、ゆっくりと、一語一語を正確に発音した。
「逆に、こちらからお尋ねしていいですか。わたしはあなたにその商品を売りました。アンティークは価値の見定めが大事だ。つまる所、アンティークは鑑定士と顧客の信頼関係です。そして・・・」
ここで、呼吸を整えると、イアン・ティーコは続けた。
「その商品は高すぎますか?わたしがつけた値にあなたはご不満ですか?」
フィッシャーは沈黙を選んだ。然るべき言葉が口をついて出てこなかった。
「では、わたしはあなたを騙していませんよね。それとも、あなたは契約を解除できるから購入したっていうんですか?わたしが遠く故郷を離れこの島で行なっているのは、高価な骨董品をタダで八日間お貸しする慈善事業ではないのです。わたしは誇り高いポルトガル商人なのですから。」
誇り高いポルトガル商人が聞いたら、即座に噴飯するような台詞が滔々と溢れ出す。続けざまに彼の口から出るのは詭弁と虚妄の数々だったが、エドワード・フィッシャーは焦りのあまり反論できなかった。
「フィッシャーさん、それではこう考えてはどうでしょう?骨董商とは人様から不要になった骨董品を買い取り、それを磨き、時には修理し、さらなる価値を生み出して、他に必要としている方に少しだけ上乗せした金額で売る商いです。」
そして、ころころと本題を変えることで相手に考える隙を与えないのもイアン・ティーコの手口だった。
「本当はフィッシャーさんが、おっしゃりたいのは、こういうことなのではないでしょうか?想像するに、昨日の売買を勝手な都合で一方的に反故にするという、特別外交官にはおよそふさわしくない悪質な主張をなさりたいのではなく、お買い求めになったその商品がご不要になった、というご相談なのでは?わたしの言う意味がお分かりになりますか?」
エドワード・フィッシャーは、はっと顔を上げた。そう言われると自分の行いが随分身勝手なものに思えてきた。不要になったのならその品物を買い取るとイアン・ティーコは申し出ているのだ。骨董商として至極まっとうな見解ではないか。フィッシャーは丸椅子に座り直した。
「分かりました。では、多少、値が落ちても構いません。これを買い取っていただけないでしょうか。本当に昨日買ったまま開けてもいないのです。お願いします。」
これで、イアン・ティーコの思う壺であった。エドワード・フィッシャーは返品が可能という店の規定を強く主張するべきなのに、いまや、なんとかこの商品をイアン・ティーコに買い取ってもらおうという取引上の弱者の立場に自らを落としてしまった。
「もちろんです。そうおっしゃるなら、ぜひ、買い取らせていただきます。」
イアン・ティーコは蠅のように手を擦り合わせて言った。
「ちょっと状態を拝見してもよろしいですか?」
「状態?先ほども言いましたが、昨日、買ったまま開けていないのです。」
エドワード・フィッシャーはその点を強調した。
「フィッシャーさん、申し上げにくい話ですが、開けていないというのは確かめようがありません・・・。開けて、使って、戻して、閉めたかもしれないですし。」
「では、どうぞ、お好きなだけ確かめてください。」
少しの沈黙の後、イアン・ティーコは、
「では。」
と呟き、二人の間に置かれていた木箱を開け、中を覗いた。フィッシャーは自分が嘘をついていないことを知っていた。妻へのプレゼントだったのだ。妻に開封してもらう予定だった。ところが思わぬ吉事が舞い込んだため、その場で返品を決意したのだから。つまり購入した時のまま箱に入っているのだ。しかもその間およそ一日。購入した時に箱に入ったイアン・ティーコ商会のカビ臭い空気だって、下手をすればそのまま残っているはずだ。きっとそれなりの金額で買い取ってもらえるに違い無い。そんな思いがフィッシャーの汗からにじみ出ていた。
そして、蓋が開いた。イアン・ティーコは品定めをするように箱の中を覗き込み、
「なるほど。」
と何度も唸った。その時間が長いほど、エドワード・フィッシャーの血管は収縮した。イアン・ティーコは、使い古された黒い手帳を取り出し、一連の数字を書きとめた。
「分かりました。では、これで買い取りましょう。」
手帳に書き示された金額を見て、特別外交官はどういう表情をしていただろうか。彼はしばらく手帳を見つめると叫んだ。
「こんなに安くですか?三分の一以下じゃないですか!」
震え、痛み、寒気、痺れ、疼き、そんな全てが一気に襲ってきたようだった。
「しかし、見てください。ここに傷がついているのです。」
「え?」
「これは確かにお売りした時にはなかった。」
「そ、そんな・・・。」
「ほら、ここです。見えませんか?ここ、ほら。」
「開けてない!」
フィッシャーは自分でも信じられないような声を出した。まるで拗ねた子供のように口を尖らせて、そう叫んだのだった。しかし、もう無駄だと悟った。仮に未開封を証明できたとしても、運んでいる最中に箱の中でついた傷だと言われれば水掛け論だ。傷がつくような梱包をした骨董商を責めても、運び方が粗雑だったのでは、と言われれば袋小路だ。
まるで幼児の喧嘩のようだった。そして、二人ともそのことに気が付いたのだろうか。激しい緊張は一気に弛緩に向かい、ふいにフィッシャーはだらしなく笑い出した。ややおいて、イアン・ティーコも始めこそ控えめながら、その後は大袈裟に声をあげて笑いだした。エドワード・フィッシャーは必死に息を整えた。
「分かりました。妻へのプレゼントとして買ったんです。子供ができたと分かった時、そのままプレゼントとして渡せば良かったんです。無理なことを言って本当にすいません。今、また、これを見て思いました。やはり値段の価値はあります。うちの宝物にして、妻と生まれてくる子供にあげることにしますよ。」
フィッシャーはそう言いながら箱の中から一つの置き時計を取り出した。それは、妙に豪華な装飾の施された銀色の置き時計であった。これを購入しようとした時、骨董商に強く勧められたとはいえ、どうしてあれほど自分を引き付けるものがあったのか、フィッシャーには不思議でならなかった。彼は笑いながら置き時計のネジを執拗に巻き出した。
「あ、ええ、そうですね。そうなさってくださいよ。わたしも仕方なく大人げない態度を取りましたが、本当はあなたにこの置き時計を是非、保有していただきたかったからなんですよ。必ず、特別外交官という職業にふさわしいステータスになります。お生まれになる子供のひ孫の代まで、フィッシャー家の時を刻み続けることでしょう。」
イアン・ティーコの追従を聞いて、フィッシャーは少しだけ自分が勝ったような気がした。
「そうですね。そうでしょうね。」
そして、フィッシャーは続けた。
「あ、そうだ、イアンさん。いつかわたしの別荘に来たいといってましたよね。どうです、丁度、今夜の晩酌の相手が欲しかったところです。それに妻がイアンさんの玉突きの腕を一度でいいから見てみたいと言っているのでね。これからどうです?丁度良い時間だ。」
フィッシャーは、長針も短針もあっていないことを知りながら、わざわざ置き時計を持ち上げてみせた。
「それはありがたいのですが、その時計、時間、あってませんよ。」
「分かってます。イアンさん。ここだけの話、いくつか見ていただきたいものがあるんです、つまり骨董品が。見定めていただければありがたいのですが。」
「それは、いい。では、ご婦人の前だ着替えなくては。」
イアン・ティーコは快諾した。彼はとにかくこの外交官が時計の返品を諦めてくれたことが嬉しくてならなかった。しかも、しかもである、重要な顧客としてのエドワード・フィッシャーとの交友関係も今まで通りというわけだ。
フィッシャーが妙に饒舌になったことと、その笑顔に鈍い感情がたたえられていることを知る由も無く、イアン・ティーコは特別外交官に連れられ夜のビーチに出た。波のざわめきは骨董商への最後の警鐘だったのかもしれないが、誇り高きポルトガル商人は自然現象と会話を交わす術を持たなかった。
「その時計、別荘までお運びしましょうか?」
「いいえ、結構。これはもうフィッシャー家のものですから。」
イアン・ティーコの申し出を断ったエドワード・フィッシャーの口調は、まさに波すら凍らせるような冷たさを湛えていた。
「あ、そういえば、フィッシャーさん。実は不思議な苗木が手に入ったんですよ。カジュアリーナ・トリーという木で、樹齢百年・・・」
まず、何か硬いものが砕けるような嫌な音がして、上機嫌で話していた骨董商の声がふいに途切れた。それから、何か大きな塊が砂に落ちるような音がした。そして、ビーチは再び波のざわめきに包まれた。
雲が動き満月から降り注ぐ柔らかい明かりが辺りを照らすと、置き時計の入った箱を両手に立ち尽くす特別外交官の姿があった。やがて彼の手から落ちた箱から、まるで自由意志を持った生き物であるかのように、銀色の置き時計が滑り落ちて、少しだけ砂に埋もれた。そのすぐ横に哀れな骨董商の変わり果てた体が、不格好な姿勢で岬に向かうように倒れていた。
エドワード・フィッシャー特別外交官は自分の目線より下方の静まりかえった情景を声もなく眺めていた。
3 クレア・フィッシャー(享年29歳)
クレア・フィッシャーは、この島の外交官エドワード・フィッシャーの良き妻であった。代々、子爵を名乗るタウンゼンド家の三女として生まれ、自分の家のこと以外はほとんど知らないまま生きてきた。いや、自分の出自である由緒ある子爵家の没落ぶりさえ現実として認識していなかったのだから、彼女が知っていたことは、ほとんど自分の内面世界に限られていたのかもしれない。世間知らずな、という形容がなんの留保もなく当て嵌まるという点では、貴族の子女に珍しいことではないが、彼女の場合、その度が過ぎていた。
成長するに連れ、彼女の父母はクレアの性格、知性、健康などに不安を感じるようになっていた。異常という言葉は使いたがらなかったが、結婚という体裁だけ整えて、どこか遠くで療養させようと考えた。口さのない貴族たちの目や耳の届かないところへ。最初に訪れた島は彼女の気にいるところとなったが、すぐに情報通を気取る社交界が出来てしまったため、しかたなくその島を離れ、さらに小さく辺鄙なこの島に落ち着くことになったのだ。
しかし、その夜の出来事が彼女の性格を一変させてしまった。愛する夫が死体を引きずり別荘へと帰って来たのだ。
「クレア!クレア!落ち着いて聞いてくれ!」
クレア・フィッシャーの夫はそう切り出した。
イアン・ティーコ商会は浜辺にそった通りにある。そこは商店の末端であり、そこから岬に向かって建物はなく、延々と続くビーチとなる。「ショアレス・ビーチ」と呼ばれるこのビーチをイアン・ティーコ商会から岬の方へ二十分ほど歩くとコロニアル様式の建物がある。ここが特別外交官の別荘である。
本人たちは別荘と呼んでいるが、この島に彼らの家はここしかない。おそらくイギリスに本宅があるという意味なのだろう、と島の人は諒解していた。実は仕事で来ているわけではないという彼らの隠れた心理がそう呼ばせるのかもしれない。
この日、クレア・フィッシャーはこの別荘で夫の帰りを待っていたが、帰って来たのは夫ではなく、殺人者と遺体だった。悲鳴をあげることもできすに青ざめて卒倒する。いままでのクレアだったら確実にそうなっていただろう。フィッシャーもそう予測していた。しかしクレアは事情を聞くと声を殺して叫んだ、悲鳴ではなく明確に意味のある言葉を。
「別荘ではだめよ。ビーチで殺したのならビーチに戻すのよ。」
エドワード・フィッシャーは予想を二度裏切られ、二重に驚いた。しかし自分の驚きを峻別して語れるほど、落ち着いていられる状況でもなかった。
「どうして!」
そう叫び返すのがやっとだった。
「もし、この別荘の中で死体が見つかったら、犯人は明らかにあなたかわたしになるでしょ。」
「そうか。それならどうする?どうすればよい?」
「ビーチに戻して事故死にみせかけるのよ。」
「しかし、あ、頭の傷は?」
エドワード・フィッシャーはうまく言葉が発話できない自分にさらなる焦りを感じた。
「ビーチでは、よくココヤシの実が落ちてくるわ。イアン・ティーコは不運にも、落ちてきたココヤシの実が頭に当って死んだのよ。」
クレアは小柄な女性で、タウンゼンド家の三姉妹の中で、唯一ブルネットの髪を持っていた。容姿は上の二人のブロンドの姉に確実に勝っており、あまり掘りが深くな意図は言え、きれいに整理された目鼻は美しいというよりもチャーミングといえた。
クレアは嫌がる夫にイアン・ティーコの死体をかつがせ暗いビーチに出た。イアン・ティーコを降ろさせ、自分はココヤシの実を探した。首尾よくココヤシの実が見つかったので、夫に渡しつつ指示を出した。
エドワード・フィッシャーは彼が置き時計の箱で殴打した部分に改めてココヤシを振り降ろそうとした。しかし、よく見ると、彼の一撃は側頭部に命中していた。斜めに振りかぶって殴ったのだから。ココヤシの実が落下してくるとして、側頭部に当たることがあるだろうか?エドワード・フィッシャーは一瞬、躊躇した。その時、クレアは夫の間の抜けた声を聞いた。
「あ。」
確かに動いたのだ。イアン・ティーコが起き上がろうとしたのだ。夫妻は続いて絶叫した。冷静に考えれば、他の対処ができたかもしれない。しかし、エドワード・フィッシャーは持っていたココヤシの実で、この不運な骨董商の頭を数回に渡り殴打した。イアン・ティーコを乗せた死出の舟が、再び沖へと漕ぎ出したのか、骨董商が再び動かなくなると、クレアは大きな溜め息をついた。
「何回殴ったの?」
「分からない。かなり殴った。」
「どうしましょう?」
「どうって?」
「だって、おかしいじゃありませんか。ココヤシの実はそんなに何回も落ちてこないでしょう?どうしましょう・・・。」
エドワード・フィッシャーはあまりの腕のしびれに声が出なかった。逆にクレアは瞳を輝かせて言った。
「あなた!それならあそこへ行きましょう!」
「あそこ?」
「岩場よ。」
「岩場?」
「そうよ、岩場から転落死したことにすれば、傷だらけでも良いし。きっと波がさらってくれるから・・・」
何がクレアを突き動かしているのか。エドワード・フィッシャーはただその指示に従うしかなかった。二人は骨董商の死体を再び岬の方へ運び出した。岬の付け根の岩場に連れていき、そこから数メートル下の海へ突き落とすことにした。
しかしここでも信じられないことが起こった。この骨董商は、よほど死神に嫌われているらしい。ふと彼の目が開いたのだ。しかし、その時には彼の体は二人の手を離れ、半ば空中に乗り出していた。黒目がギョロっと動き、そのまま二人を凝視しながら虚空に吸い込まれて行った。まるで地獄の底へ落ちる穴のような切り立った崖を、クレアの意図に反して途中たった一度だけ岩に叩き付けられ、体を捩じれさせながら、暗い海中に消えた。
「おい。今、落ちて行きながら、こっちを見なかったか?」
フィッシャーは怯えたような瞳をクレアに向けた。
「錯覚ですよ。人殺しは、みんなそういうことを言うものです。」
クレアは大胆にもそう断言し、彼女の愛する夫の肩に手を置いた。
「錯覚・・・そ、そうか・・・。流されるかな?」
「大丈夫ですよ。悪魔の手招きがあるから。それに、流されなくても結果は事故死。ココヤシが落ちてきて死んだのも、岩場から落ちて死んだもの、溺れて死んだのも、みんな立派な事故死です。」
クレアの言葉は、エドワード・フィッシャーには悪趣味な冗談に聞こえた。そこまでして、我々はイアン・ティーコを葬らなければならなかったのか?それほどの悪事を彼は働いただろうか?しかし、一方で彼は、彼に対してなされた骨董商の詐欺まがいの欺きを許すことは出来ない、と断じていた。
クレアは自分の発言の意味を深く考えることなく岩場を離れた。後々になれば分かることだが、ここでイアン・ティーコの死を三度語ったクレアの冗談ーーーあるいは文法的な誤謬ーーーは、それなりの意味を持っていた。
「砂の跡は今夜中に波が消してくれるはず。」
「良かった。」
「他になにかわたしたちを示す証拠はない?」
「そうだ!あれが、あれを取ってこなくては。」
殺害現場ーーー最初のーーーのビーチまで戻るとフィッシャーは、その物を見つけ、ふらふらと砂の上に腰を落とした。
「何、それ?」
クレアは夫が見つめる先を見た。木製の箱とその横に・・・。
「素敵な置き時計じゃない?うちで使いましょう。」
クレアはタウンゼンド家の物知らずな三女に戻ったような爛漫な笑顔を見せた。エドワード・フィッシャーは、立ち上がり着衣の砂を払うと、その置き時計を拾い上げ、鈍い笑顔を浮かべて言った。
「君と、それから、この子へのプレゼントだよ。」
第2章 ビーチ
わたしは砂浜を海の境とし、
これを永遠の限界として、
越えることができないようにした。
波が荒れ狂っても、それを侵しえず、
とどろいても、それを越えることはできない。
ーーー『エレミヤ書』第5章22節
4 サモン・ラトゥーン(享年15歳)
翌朝、ビーチはいつものように晴れ渡り、背後の森から漂う清涼な空気と、海からやってくる潮風が、ヤシの木を揺らしながら溶け合っていた。砂浜は白と黄色に縁取られ、透明な海と透明な空はその境目が見えないほど穏やかにお互いの秘密を分け合っているようだった。
夜に開いた熱帯性の花々の香りは早暁までただよい、磯風と波にのって、上へ下へとたゆたっていた。時折、物憂げな鳥の鳴き声が聞こえたが、その姿を人には見せず、森の中で神秘の暮らしを続けているようだった。
そんなビーチにサモン・ラトゥーンは陶製の深いスープ皿を抱え、一人座っていた。スープ皿の中にはサモンが先日釣り上げた小さな海亀の子供が入っていたが、今はもう動かなくなっていた。
彼はこの島で生まれて以来、母方の祖父エイブラハム・ラトゥーンと二人で暮らしている。昨夜、その祖父に海亀を海に返してこいと言われた。海亀が徐々に弱ってきていたからだ。それは分かっていたが頭ごなしに言われたことでつい反抗してしまい言い合いになった。
頭を冷やそうと、いつものように一人夜のビーチに出かけた。彼はよくそこで星や月を眺め二つのことを考えていた。一つはこの島を出てみたいということ、そしてもう一つは祖父が決して語らぬ亡き母のこと。
しかし、昨夜はビーチに先客がいた。満月が雲に隠れ暗かったので、それが誰かは分からなかったが、あろうことか波音に隠れながらも彼の耳に入ってきたのは女性の激しい喘ぎ声だった。何者かがこのビーチで喘ぎ声が出るほど激しい何かをしているのだ。そう思うとサモンは好奇心より年相応の羞恥心が勝り、すごすごと家へ引き返さざるを得なかった。
悶々とした夜を過ごし、今朝は早めに目を覚ました彼は、祖父の言いつけ通り、小さな海亀の入ったスープ皿を持ち出した。そして、今、サモン・ラトゥーンは陶製の深いスープ皿を抱え、一人ビーチに座っていた。
悲しいということはないが残念ではある。祖父は認めていないが、この海亀は彼の釣果である。漁を冒険と勘違いしているこの少年にとっては、この海亀は宝箱につまった金貨であり、彼の自負心がその宝をむざむざ手放すことを拒んでいた。
波打ち際に中腰になり、深いスープ皿を波につける。だが、なかなか皿の中身を海に返そうとはしない。押し寄せる波が、時折、スープ皿の中に入り込み、その度に哀れな海亀がスープ皿の中に起こる小さな泡のハリケーンに翻弄され、くるくると回る。サモンはそんな海亀を焦点のあわない瞳でじっと見つめていた。
「なにしてるんだよ。」
頭上から響く聞き慣れた声でサモンははっと我にかえった。見上げると、そこには見慣れた少年の顔があった。
「それ、なんだよ?」
少年はサモンに尋ねた。サモンはさっと立ち上がって数歩下がると、スープ皿を片手でつかんで振りかぶった。勢いよくサモンの腕が振りおろされ、ラクロスのボールのように海亀は宙を舞った。一緒に飛び出した水がきらきら光ったかと思うと、遠い波間に飛沫が上がった。結局、そんなやり方でサモンは海亀を海に返したのだった。
「なに?」
「海亀の子供。」
「海亀の子供を投げたの?残酷。」
後から来た少年はそうつぶやいた。
「死ぬことを悔やむなら、釣り上げたことを悔やめ。」
「なにそれ?」
「ああ、昨日、じいさんに言われたんだよ。」
少年の冷たい眼差しを受けてサモンは言い訳をした。
「網に引っかかってたんだよ。それで家で飼ってたんだけど、段々元気が無くなちゃって。実はもう死にかけてたんだ。今朝からピクリとも動かなくて、多分もう死んでた・・・。」
サモンなりの後悔はあるらしいが、それを言葉で理解するには、まだ整理に時間が必要だろう。
「学校は?またサボり?」
サモンに聞かれて少年は肯定の意味で砂浜に腰をおろした。サモンが幾分汚れた普段着を着ているのに対し、少年は立派な服を着ている。それは誰でも知っているこの島唯一の公立学校の制服だ。
この島は当初から無人島だったので、現地人と呼ばれる人はいない。古くからの入植者の子孫と、本国の統治下に入ってからの移民がいるだけだ。そしてその二者には世代を超える内に法的にではないにしても不思議な壁が出来ていた。このような壁はもともと本国に存在したと言ってもいいだろう。初期の入植者は新天地を求めてやって来た。本国での生活に満足できない立場や、本国では重く扱われない、場合によっては迫害を受けるような信条、そして一攫千金を夢見るような経済状態の人々であった。それに比して、後からやって来る人々はあきらかに観光気分、物見遊山である。一定の社会的地位と資産をもっていた。有り体に言えば階層が違うのである。
サモン・ラトゥーンが同じ年のこの少年が通っている公立学校に通っていないのには、そんな事情があった。もっとも、祖父であるエイブラハム・ラトゥーンはこの孫を公立学校に入れようと躍起になっていた時期がある。しかし、サモンとしては、身に馴染まない学校での生活をむしろ歓迎していなかった。エイブラハム・ラトゥーンには反対されているが、漁師になろうと思っていたからだ。
しかし狭い島では階層の違う二人でも、友人になれるし、いつでも自由に遊べる。そういった点ではこの島は明るい。
サモンの友人のこの少年は、サモンより頭半分背が高い。やや痩身で品のある顔だちをしている。そして、いつでもひとなつっこい笑顔を浮かべている。だから大人たちにも好かれている子供だが、実際はサモン同様、悪童である。
彼の父親は本国のある町の町長である。アトリー家はいわゆるジェントリと言われる階級である。古くから富と権限を持ち、政財界によく通じている。そして、サモンとは違い、彼は自分の両親について、全てを理解している。
「俺の母親は、親父が若い頃、つきあった女で、俺が出来ちゃったもんだから、結婚はしたんだけど、俺は親父には嫌われててね。で、親父が町長になろうって時に、母にはいろいろ風当たりが強かったみたい。親父もちゃんと社会的に認められる奥さんが必要だったんだろうな。回りはそう言うわけだよ。でも、母には優しくしてたよ。俺さえいなければ適当な社会的地位のある女と結婚して、母とは愛人の関係でいられたんだから。あれ?違うかな?ま、いいや。ただ、母と別れるつもりはまったく無かったみたい。本当に溺愛してた。母が死んだ時さ、親父はすごい悲しんでね。一週間くらい何も食わなかったんだ。本当だよ。やせ細ってね。その後、俺にはものすごく優しくなったんだ。失った物の大切さをこの世で唯一分かち合える人間だからね。でも親父の政治家としての人生にはかえって良かったんだ。その後、良い縁談があって町長になれたんだから。俺、親父のことは信頼できるようになったんだ。けど、やっぱり、俺って前妻の子じゃん。親父の新しい奥さんとうまく折り合いがつかなくてね。いろいろ話し合った結果、俺、この島に来ることになったんだ。だから、俺、本名はツナ・アトリーなんだけど、今は、母方の姓、ウィルバーフォースを名乗ってるんだ。」
サモンと最初に親しく話した時、ツナ・ウィルバーフォース少年は、そう語って聞かせた。歳はほとんど変わらないが、サモンにはツナの語る出来事の数割も理解できなかった。
ツナはまた鳥類学者になりたいのだと語った。だからこの島を選んだのだという。幼い頃、読んだ博物学の図本にひかれ、どこか南の島の鳥を研究したいと思っていると。サモンはその時初めて聞いた鳥類学者という単語が今でもツナの輝く瞳とともに忘れられずにいる。
「あれ?」
ツナが声をあげた。
「見ろよ、サモン、亀だよ。あれさっきの亀。」
見ると、小さな海亀が海から這い上がってビーチを歩いていた。
「戻ってきたじゃん。良かったな、生きてて。また飼えるな。」
サモンは目を凝らしたが、同じ亀かどうかまでは確信が持てなかった。
「もう飼わないよ。」
「そうなの?飼わないの?じゃあ食えるかな?」
サモンが心底な嫌な顔をしたので、ツナは、
「冗談だよ。」
と笑った。お前の時も、とサモンは言いかけたがやめた。
「で、なんで?飼わないの?死んだから飼うのやめたんだろ?」
サモンは説明するのも面倒だったが、うやむやにしても引き下がらない友人の性格は熟知していた。
「亀が生き返ったからってまた持って帰ったら、じいさんにぶつくさ言われそうで、昨日もそれで揉めたんだよ。」
「また喧嘩したの?漁師にはなるな、海には出るな。亀は飼うなって。」
だいたい合っているので、サモンは訂正しなかった。それよりも思い出したことがあった。そうだ、昨日、エイブラハム・ラトゥーンと喧嘩して家を出た後のことだ。
「ツナ。」
「なんだ?」
「大人の男女って、外でもやるものなのか?」
サモンが鼻息を荒げてツナの肩をたたいた。
「やる?って何を?」
「やるっていったら、あれだよ。あれ。俺、昨日見ちゃったんだ。」
「何を?」
ツナが、怪訝そうな顔でサモンに顔を近づけた。
「昨日の夜さ、ここを通ったんだ。そしたら暗闇から聞こえてくるんだよ。女の人の声が!」
「幽霊かなんか?」
「違うんだ。女の声だよ。」
サモンはやたらと興奮して捲し立てるように言った。
「声って、何?」
「だから、ハァ、ハァって」
「うそ!まさか!」
やっと、事情をつかんだツナは腰を浮かせサモンの言葉を待つ。
「喘ぎ声・・・だよ。きっと、いや、絶対!」
「喘ぎ声?クレアさんかな?」
「クレアって、クレアさん?あの外交官のか!!」
二人は好奇の視線を投げかけあう。
「言われてみれば、この辺り、砂がすごい乱れてないか?なあ、サモン、二人はどんなことしてた?」
ツナは早口でそう質問した。サモンは首を横に振り、
「声だけ。」
と呟いた。
「さっき見たって言ったろ?」
「ごめん。とにかく、昨夜遅くこの砂浜で外交官が悪いことをしていた。」
「良いことだろ?」
「本国人って好きだよなぁ。こんなとこで、そんなことしてみろ。カニとかが妊娠するぜ。」
サモンがわざと大人びた表情を作りそう言うと、ツナは、
「環境破壊って言うんじゃないか。そういうの。」
と、同じくわざとらしく真面目な顔で応じた。二人はしばらく小声で話し合い、笑い声を上げていた。そして二人組の大人に声をかけられるまで、餌を待つ幼い鳥のように奇声を上げて騒いでいた。
ちなみに押し寄せる波だけが知っていることだが、サモンが聞いたのはクレア・フィッシャーの喘ぎ声ではなかった。
5 ケレス・ホーエル(享年35歳)
昨夜、このビーチは多くの人間を歓待したようだ。まず現れたのはイアン・ティーコとエドワード・フィッシャー。そこでは特別外交官による骨董商の撲殺殺人が演じられた。次に特別外交官とその妻が骨董商の死体と共にビーチに戻り、岩場からこの死体を海中に投機した。そして、次に現れたのは、サモン・ラトゥーンではなく、ケレス・ホーエルだった。
ホーエルはこの夜も大好きなお酒を飲んでいた。久しぶりに飲んだコーン・ウィスキーは、彼女に父親を思い出させた。厳格な軍人。情け容赦のない厳父。男の子を欲しがりわたしが生まれたことで母をいつも罵倒した。そのためか軍人嫌いになった自分に優しい母はいつも言っていた。
「もしも、軍人さんがいなかったら、わたしたちは誰に守ってもらえるの?そうでしょ?」
そして、訃報。ユトランド沖で父は消えた。別になんとも思わなかった。それから母とこの島に移り住み、看護兵だった母は、島で助産を中心に人々の面倒を見ていた。その母も彼女が24歳の時、短い闘病と長い想い出を残しこの世を去った。
少し飲み過ぎたかな、と彼女は自嘲した。心に思ってしまったいろいろなことを自問し、否定し、その否定をまた否定し・・・最後に少し悔悟した。夜風にあたって、不毛な活動をする脳細胞に清涼な夜の酸素を送り込もうとビーチに出てきた。かぐわしい花の香りがした。アルコールは決して彼女の歩みを狂わせない。砂の上でも同様だ。少なくとも彼女は後に知人にそう語った。そして、ここで怪事が発生したのだ。
満月が月に隠れた暗いビーチ、彼女は何かにつまづいた。お酒が入っていたせいもありその場に転倒してしまった。月灯りが戻ってきた時、その正体に気づいた。人間の腕が見えた。差し込む満月の中、青白く光っている。その先に体、顔。
「イアン・ティーコ!」
彼女の記憶回路がその人影の特徴を分析し、該当する人物名を脳内に反響させた。そう、骨董商のイアン・ティーコだ。死んでいる?慌てて手を掴む。なんという冷たさだろう。彼女は母親から学んだ医学の心得があったので、すぐに脈をとってみた。死んでいることは明らかだった。しかし怪事はここからが本番だった。
ホーエルが酒に酔った頭からアルコールを追い出そうかぶりを振ったその瞬間、その氷のような手が突如動き彼女の手首を掴んだ。その時、満月が再び月に隠れ、彼女は小さな悲鳴をあげてとっさに手を振り払う。暗闇の中で不気味な手枷から自由になった彼女だが、イアン・ティーコが生きているのならすぐに介抱の必要があると考えた。
名前を数度呼びかけたが返事はない。代わりに波音の中にかすかに砂を這うような音が聞こえる。月明かりが戻ってこない。息を殺して待つ。何度波が行き来しただろう。ホーエルには無限の時間に思えた。そして光あれ!しかし彼女の目に入ってきたのは、海が砂を暗いグラデーションで染め上げるいつも通りのビーチだけ。その場には誰もいなかった。
波の音すら聞こえなくなったように彼女は自分の異常な心拍音に包まれていた。波に流されたのか、それとも幻覚なのか?いや、手首には明らかに誰かに掴まれた凍てついた感触が残っていた。そして、たまたま近くを通りかかったサモンの耳には、彼女の口から気化したアルコールとともに吐き出される、ハァ、ハァという喘ぎ声だけが響いていた。
「飲んでたんでしょ?」
ほとんど眠れない夜を過ごし、翌朝、彼女は日頃から懇意にしているバリー・ヘリング医師にそのことを伝えると、そう切り返された。
「いえ、あれくらいでは酔いません。あれは確かに骨董商のイアン・ティーコだったんです。」
「思うんですがね。そこに数々の矛盾があるような気がするんですよ。」
「矛盾?」
「骨董商のイアン・ティーコが波打ち際で死んでいた。それが、君の手をつかみ、そして月の隠れた間に消えた。」
「やはり、悪魔の手招きに流されたんでしょうか。」
「いえいえ、そんなことより、一番の矛盾は死んでいた、という部分と、手をつかんだ、という部分ではないかと。」
「わたしも一応、母が医者でしたから少しは医学の心得があるんですよ。脈もとりましたし、あの凍り付くような皮膚・・・絶対死んでました!!」
「でも、死んでいたら動かないでしょう。とりわけ医学の世界ではね。」
ホーエルは押し黙った。いまや彼女の話の信憑性を毀損している飲酒癖を責められているような気がしたからだ。それにヘリング医師への好意もあったから。
「今の話を総合して、わたしが信用できるのは、ただ二点です。暗闇で見たものは信用できないということと、あなたがあまり良いお酒の飲み方をされていないということです。」
ヘリング医師は笑顔でそう冗談を言って歩き出した。
「さあ、行きますよ。」
「どこへ?」
「とりあえず、聞き込みをしてみましょう。あそこに男の子が二人います。まずは彼らに話を聞いてみましょう。」
ヘリング医師は、
「君たち。」
と声をかけながら、ツナとサモンの方へ向かっていった。その時二人は、砂浜での情事の話で盛り上がっていたのだが、大人が二人近寄ってきたので、一斉に沈黙した。ホーエルが声を掛ける。
「ツナにサモン。ツナはまた学校をサボってるの?」
「夏休みだよ。」
この島はいつでも夏だ。それでも夏休みはある。しかし、それが今ではないことくらい島での生活が長いホーエルが知らないわけはなかった。
島で小さな診療所を開設していたホーエルの母には、サモンなどこの島で育った子供たちなら皆世話になったことがある。ホーエルはその母が亡くなるまで診療所を手伝っていた。そうでなくても狭い島である。ほとんどの島民は知り合い同士だ。
バリー・ヘリング医師についてはツナもサモンも知っていた。ツナがこの島に来た翌年、ホーエルさんのお母さんが亡くなって、島に医者がいなくなったーーー正確にはホーエルの母は医者ではないのだがーーーそれで、数年はホーエル自身が医者の真似事のようなことをしていたが、4年くらいして本物の医者がこの島に遣わされてきたのだ。それがバリー・ヘリング医師だ。
しかし彼は診療所にはほとんどおらず、たいていの医療行為は相変わらずホーエルに任せていた。この状態をホーエルは喜んで、こう説明していた。
「バリー・ヘリング医師は学者でもあり、本業は伝染病の研究なの。わたしの母みたいな人を診る医者とは少し違って、色々な実験や調査をして病気で苦しんでいる人を助ける素晴らしい先生なのよ。」
「臨床医じゃないってことね。」
その時、ツナは子供扱いはごめんだとでもいうようにそう言ったが、相変わらず子供たちにとってはある種、謎の人物であることは確かだ。
その謎の人物はビーチに座る二人の少年に、欠点のないほど完璧な笑顔を向け、腰を落とし目線を合わせてきたが、ツナとサモンはホーエルに向けるのとはやや異なる警戒の眼差しで彼を観察していた。そのことに気づいたホーエルが前に立って話を始めた。
「ヘリングさん。こちらはツナ・アトリー。確か鳥の・・・」
「ツナ・ウィルバーフォースです。よろしく、ヘリングさん。」
ホーエルはツナの言い方に、余計なことを言わないで、という響きを感じ取った。ツナは学者に憧れがあった。だから目の前に本物の学者が現れた時、少し嫉妬したのだろうと彼女は思った。ホーエルは次にサモンに顔を向けた。
「こちらがサモン・ラトゥーン。」
「ラトゥーンというと確か・・・」
「あのエッブ・ラトゥーンのお孫さん。」
サモンの祖父である老漁師はいつの頃からか島民に引き潮・ラトゥーンと呼ばれていた。それがなぜかはサモンには分からなかったが、その呼び名は老漁師を揶揄する目的で言われるのではなく、島の長老として彼に敬意を払わないものはいなかった。
「エイブラハム・ラトゥーン漁師のお孫さんか。それなら潮の流れに詳しいかもしれませんね。」
ヘリング医師は座ったままの姿勢をサモンに向けて丁寧に尋ねた。
「サモンくん。悪魔の手招きというのをご存知ですか?」
ヘリング医師は子供が好きではないが、子供というものは大人のように扱うと期待通りの行動をとることは知っていた。
「知ってるよ。向こうの開けた海からこのビーチにやってきた海水は、底の方では結構速く動くんだ。海底の形の影響で岬の方にあっという間に流れていく。島の人はそれを悪魔の手招きって呼んでる。でも、そのおかげでこの辺りは砂が細かくて遠浅の良いビーチになるんだ。悪魔なんておかしな呼び方だよ。」
サモンはしっかりと答えた。
「なるほど、理路整然。サモンくん、ツナくん。二人ともありがとう。さて、行ってみましょうか。その岬に。」
二人ともにきちんと礼を言うヘリング医師の卒の無さは、ホーエルには好感が持てた。
「お付き合いくださるのですか?」
「学者なら実証をしてみましょう。」
その時、バリー・ヘリング医師はクレア・フィッシャーの姿に気がついた。全てを知っている人なら、古くから伝わる犯罪心理の鉄則ーーー犯人は必ず現場に戻ってくるーーーというのが真実なのだと思っただろう。しかし、ヘリング医師は知る由もなかった。彼が心から思慕する人が、昨晩このビーチで行なった凶行を。
6 バリー・ヘリング医師(享年44歳)
バリー・ヘリング医師がクレア・フィッシャーに初めて会ったのは、このビーチだった。その時、彼は彼女に恋慕した。その後、彼女の夫が主催するパーティで想いを強くした。
あれは、1939年。世界は少しずつ闇に向かってその歩を進めていくが、この島は世界から取り残され、安息だけが島に満ち溢れていた。しかし、バリー・ヘリング医師にとっては、この島への赴任は、安息という名の牢獄への収監だった。
本国で没頭していた研究を部下に奪われ、こんな島に転属させられたのだ。ていの良い追放だった、いや島流しと言うべきか。人体実験をしたと告発されたのは部下の仕掛けた巧妙な罠だった。罠を張られたことが悔しかったのではない、罠にかかってしまったことが、許しがたい恥辱だった。
船を降りた時、島の診療所から迎えのものが来ているはずだった。その診療所が彼の新しい職場であり、そこで医師の傍ら、熱帯性の伝染病の研究をする。そのような伝染病があればの話だが。
船夫たちの働きをしばらく目で追っていると、そこに小走りで女性がやってきた。
「バリー・ヘリングさんでいらっしゃいますね。ケレス・ホーエルと申します。母のやっていた診療所のものです。お待たせしてしまってすみません。お荷物は数日前に無事に届いています。この度は長い船旅でさぞお疲れでしょう。まずは、診療所にご案内し、その後必要でしたら島も案内させていただきます。」
「それは助かります。何しろ、右も左も分からない。」
ヘリング医師は、自分の声に不機嫌という伴奏が加わっていることに気がついたが、ホーエルという女性には幸い伝わっていないようだった。
「なんと言っても、狭い島ですから、すぐに慣れますよ。」
「あなたは長いんですか?」
「は?」
「この島にずっと?」
「いえ、確か19歳の時、母とこの島にやってきたんです。」
そう言われてもバリー・ヘリング医師には彼女の現在の年齢が分かるはずもない。そう思ったホーエルだが、自分の年齢をいきなり告げるのもためらわれたので、指折り計算をして答えた。
「えーと、この島にやって来て15年になりますか。母は診療所をやってはいたのですが、厳密には医者ではなく看護婦でして・・・。」
ホーエルはヘリング医師があまり詳しい説明を求めていないということを、その表情から悟り言葉を切ったが、ヘリング医師は素早く彼女の年齢を計算していた。
「海の匂いがしますね。」
ヘリング医師が口に出したのは、15+19という計算式の解ではなく、別のことだった。海を目の前にして随分間の抜けた発言だと自分では思ったが、ホーエルは素直に返事をした。
「周りを海に囲まれた島ですからね。とても平和な島ですよ。きっとすぐに気にいると思います。」
「イリジアム。」
ヘリング医師が呟いた。
「イリジアム?」
「楽園です、いや理想郷と言った方が正確か。」
「パラダイスのことですか?」
「それはキリスト教の方。イリジアムはギリシア神話で祝福された人々が死後に住む所ですよ。」
「死後。なるほど。では、まいりましょうか。生きてる人々の世界へ。」
ホーエルは笑った。
「こんなに海臭いとは思わなかった。」
海の匂いとは、言い換えれば死の匂いだ。植物性プランクトンの死骸がその匂いの発生源なのだ。それをわざわざ多量に肺の中に吸い込んで、それで気分など良いわけがない。吐き捨てるように言ったヘリング医師の呟きは、船の汽笛に消されホーエルの耳には届かなかった。
「この島はこの辺りの島々の中でも特に小さくて、他の島からもかなり離れてるんです。元々は無人島で、入植もかなり遅れてされはしたんですが、資源に乏しく、砂糖のプランテーションも波に乗らなかったというか、うまくいかなかったそうで、すぐに過疎化してしまいました。観光資源もなく、まあ物好きの本国人が移り住み、別荘を立てた程度。ただ、島の南側に美しいビーチがあって、昔、この島に滞在した小説家が名前をつけたんです。それが、ショアレス・ビーチ。ちょうど、今、目の前に見えてくるこのビーチのことです。」
ホーエルは練習を重ねた観光ガイドのような口調で説明をしていった。ヘリング医師は少しうんざりして聞いていたが、最後の「ショアレス・ビーチ」という言葉には感銘を受けた。ショアはそもそも海岸や岸を表わす言葉だが、海岸や岸がないという意味のショアレスは果てしないという意味を持つ形容詞だ。それを海岸であるビーチの名前につけるとは奇妙なようでなかなか修辞的だ。「果てしない海岸」とも、「海岸のない海岸」とも取れる。
なんという小説家か聞こうと思ったが、その不思議な名を持つ開けたビーチが目の前に現れた時、思わず息を飲んで、立ち止まってしまった。陽光を浴びて黄金色に輝く岬に向かって理想的な曲線が緩やかに続いていた。小説家は名付けただけだが、創造主はこれを作ったのだ。
この海の青さをなんと表現すれば良いのか。この砂の白さをなんと呼ぶのか。そして波打ち際に弾けるその中間色のなんと多彩なことか。光に光以外の名前はあるのだろうか。輝きに輝き以外の名称はあるのだろうか。この景色を景色としか言えないのだとしたら、人の文化はなんと怠慢なことか。こうして見ると「ショアレス・ビーチ」などという名が猿回しの回りくどい前説のように無意味に思えた。
「良いビーチでしょ?島の人たちの誇りなんです。わたしの母も愛してました。」
ヘリング医師が思わず立ち尽くしていると、ホーエルの優しげな声を遮るように嬌声と笑い声が聞こえてきた。遠くから楽しげに笑い合う男女がこちらに向かって歩いてきた。
「少し前に赴任してきた特別外交官のエドワード・フィッシャー氏とその奥様のクレアさん。ほら、あそこに別荘を建ててるでしょ。その下見でしょうかね。」
ホーエルが説明を重ねる中、ヘリング医師はさらに刮目した、そのクレアという女性の愛らしさに。洋上で読んだシェイクスピアに美しい女性の姿を日に一度見られるのなら獄屋に入っても構わないという登場人物がいた。「唯、獄屋の窓から日に一度、この娘を眺めることが許されさえしたら。この世のどこなりと隅々まで人は自由に使うがいい・・・狭い獄屋も、それが出来さえしたら、俺には十分だ。」
この美しい女性には、まさにその価値があるように思えた。この島という牢獄にヘリング医師が生きる価値を見出したのは、到着初日のこんな出来事があったからだ。後から思えば、この二つの感動はそれぞれを必要以上に補完しあっていたのかもしれないが。
その愛らしい女性は上機嫌にビーチを賞賛していた。
「いつ来ても素敵な海ね。入り江だからかしら、全然波がないのね。あそこの岩場の向こうは行ったことがないわ。ちょっと寄ってみましょうよ。」
「随分、ご機嫌だな。」
夫だというエドワード・フィッシャーも、周りから見ればかなりの上機嫌に見えた。
「でも、実を言うと少し気になっていることがあるの、わたし。入江にはイリエワニっていう獰猛なワニがいるってお聞きになったことない?それは、いないかしら?イリエに住んでるからイリエワニでしょ。わたし、どうしたら良いのかしら?」
「どうって?」
「イリエワニが出てきたらよ。どこに逃げれば良いのかしら。」
美しい女性は本気で心配をしている様子だった。
「大丈夫ですよ。この辺りには住んでいない。」
ヘリング医師は初めて歩く砂浜に少し足を取られながら、クレアに近づいて言った。
「ご心配にはおよびません。イリエワニの生息地はオーストラリアとアジアの間あたりです。この辺りには住んでいないし、いくらなんでも漂着してくることもないでしょう。」
クレアが少し後ずさったので、ヘリング医師も威圧感を与えないように身を引きながら名乗った。
「申し遅れました。バリー・ヘリングと申します。今日、この島に来たばかりの新参者ですが、医学を修めていますので、何かの折には。」
「特別外交官のエドワード・フィッシャーと申します。そのアクセント、イギリスの方ですね。我々もつい先月赴任してきたばかりで。」
「よろしくお願いします。」
「あなたもホーエルさんに案内をしてもらっているのですね?彼女は名ガイドでしょ?」
エドワード・フィッシャーはホーエルの方に向き直ると、拍手のようなジェスチャーを送った。
「やめてくださいよ。フィシャーさん、そんなことないですから。」
ホーエルが謙遜して言った。それからホーエルは改めてフィッシャー夫妻に挨拶をし、フィッシャー夫妻は今度別荘の落成パーティーを行うので是非参加して欲しいと二人に告げ、妻とともに岬の方へ散策の歩を進めていった。寝室の壁の色はモーブにしようという笑い声が遠ざかっていく。
バリー・ヘリング医師があの日、記憶に焼き付けた固有名詞は二つ。島の南に広がる美しいビーチの名前と、特別外交官と名乗った優男の麗しい奥方の名前だけだった。
「ヘリングさん。どうかなさいましたか?」
バリー・ヘリング医師はホーエルの声で現実に引き戻された。そうだった、先ほど聞いたイアン・ティーコの動く死体の件で、少年たちから悪魔の手招きの事を聞き、岬に行こうと思っていたのだ。そこに彼女が現れた。
「ヘリングさん。あそこにいるのクレアさんです。なんか様子がおかしくありませんか?」
確かにそう言われて観察してみるとクレア・フィッシャーの態度がいつもと違うことにヘリング医師は気が付いた。どうも何かを探すように、砂やら海やらを見ているかと思えば、人と目があってもこわばった笑みを浮かべすぐに目線をそらす。
「クレアさん。大丈夫ですか?」
止めるまもなく、ホーエルが声をかけてしまった。
「あ、ホーエルさん、こ、このビーチに何かご用ですか?」
「いえ、別に。用がなければきてはいけませんか?」
「いいえ、別に。いつでも好きな時にいらしていただいて結構ですのよ。あら、学者の先生もご一緒。」
クレアの顔色が少し変わった理由をホーエルは知っていた。バリー・ヘリング医師はクレア・フィッシャーに一方ならぬ想いを抱いているが、クレア・フィッシャーはバリー・ヘリング医師を嫌っていた。以前パーティーで伝染病を研究しているという話になった時、クレアの脳内では、彼自身のイメージが伝染病として記録されてしまったのだ。とんでもない職業差別だが、クレアにそもそも職業差別などという概念はないし、その後、伝染病の研究についてクレアに尋ねられた時、ホーエルは、それは伝染病にかかる可能性がある研究だ、と強調しておいたからだ。ここで「可能性がある」がクレアの中で「可能性が高い」と変換されることも織り込み済みでだ。
「何か、自分の庭に泥棒が入ってきたみたいな言い方をしますよね。」
ホーエルはあえてヘリング医師に笑いかけた。
「あちらに別荘をお建てになったんだ。この辺りを庭みたいに思っても当然です。」
分かっていたことだが、ヘリング医師がクレアの肩を持ったので、ホーエルは少し落胆を覚えた。
「クレアさん。」
その時、ツナが用もないのにクレアに話しかけた。昨夜の外交官夫妻の睦事を考えているのは明らかだった。その大人びてニヤついた顔にサモンは一瞬嫌悪を覚えた。
「やめとけよ。」
「何も言わないよ。お前顔真っ赤だぞ。」
もちろんサモンが聞いたのは、ホーエルの声ではあるが、想像は事実をいとも簡単に塗り替えるものだ。
さて、人間はある種の重力である。人のいる所には人が集まって来るものだ。このような狭い島ではなおさらといえよう。
昨晩、このビーチはイアン・ティーコ、フィッシャー夫妻、そしてケレス・ホーエルにサモン・ラトゥーンを招いた。今朝も多くの人を招いているようだ。
ここに現れた次の賓客はフーナ・ティーコだった。
「ヘリングさん!イアン・ティーコの娘さんです。」
ホーエルが慌ててヘリング医師に耳打ちした。イアン・ティーコにもっとも近い人物だ。哀れなことだ、昨晩帰らぬ父を探しに来たのだろうか。
「あ、フーナ。あのさ、おまえの父ちゃん、お店にいる?なんか、うちのじいさんが、貸したものがあるとかって。」
先に話しかけたのはサモンだった。よくある話ではあるが、ツナとサモンと同い年の少女は彼らの遊び相手でもある。それが単純な友情なのかどうかは年齢的には微妙なところだったが。
「お父さんは行方不明。」
フーナは怒ったようにそう答えた。クレアはこれを聞いてどう思っただろうか。ホーエルは?ヘリングは?しかしサモンは彼らとは違う感想を述べた。
「あ、そっか。ごめん。お前のほんとの父ちゃんはずっと行方不明だもんな。えーと、なんていうんだイアンさんの方は・・・。」
「何度も言わせないでよ!イアン・ティーコは養父よ。」
「そうそう。養父だった。」
「で、イアンに何か用事?」
「ああ、なんか、貸した物を返して欲しいんだって。」
「お店にはいないけど。もうすぐ、ここに来るでしょ。」
イアン・ティーコはきっと来ない。クレア・フィッシャーとケレス・ホーエルだけがそう思う資格があった。殺して海に転落させたのだ。死んで波にさらわれたのだ。しかし、亡霊とは現れるものである。
「ほーら、来た。」
朗らかな笑みを浮かべ、朝の海の香りをその体内にしっかりと吸い込みながら、陽気なカリプソのような足取りで、フーナに向かって両手を広げ歩いてきたのは、紛れもなくイアン・ティーコだった。そして、それは亡霊と呼ぶにはふさわしくないほど、生き生きとした活力に満ち溢れていおり、ある意味で無駄に横溢であった。
「やはり、あなたは飲み過ぎてましたね。ほら、お元気そうですよ。」
驚き凍りつくケレス・ホーエルにヘリング医師の呆れたような声は届かなかった。
そして、クレア・フィッシャーはというと、すぐさま家に戻り、夫のエドワード・フィッシャーに、この信じられない邂逅を震えながら告げた。エドワード・フィッシャーはすぐにイアン・ティーコをもう一度殺す計画を立て始める。もう後戻りはできないのだ。
そして、思えばここからこのビーチはどんどん思わぬ方向へ流されていった。それこそ、まさに、「悪魔の手招き」のように。
第3章 ハリケーン
轟々と唸りを挙げて燃え上がる火炎が
大海神を取り囲み、
さすがの荒波も慄え戦くばかり、本当です、
海神の振りかざすあの恐ろしげな鉾さえ
弱々しく揺れ動くかと見えました。
ーーーウィリアム・シェイクスピア『テンペスト』
7 老漁師エイブラハム・ラトゥーン(享年76歳)
嵐は誰が起こすのだろうか。北海ではエーギルが酒に酔って大騒ぎすると船は難破するという。中央アメリカではアーウィーソウトルが湖に激しい嵐を起こす。ペルシア王クセルクセスが大船団を組みアテナイを攻撃した時、ボレアスは大風を巻き起こして船を全て沈没させた。
中でも一番強力なのは、愚かにも神を侮り軽んじた人類を暴風雨により滅ぼしてしまったマヤ神話の創造神、フラカンだと言えかもしれない。そして、フラカンはハリケーンの語源になった。人類を滅ぼすほどの規模ではないが、この島にも時折、ハリケーンがやってくる。
エドワードとクレアの特別外交官夫妻に少し遅れて、バリー・ヘリング医師がこの島に赴任してきたその年か翌年くらいだったが、この島をハリケーンが襲ったことがあった。イギリスから赴任して間もない彼らにはこれが初めてのハリケーンの体験だった。
その日、エイブラハム・ラトゥーンの家を骨董商のイアン・ティーコが訪ねていた。イアン・ティーコとエイブラハム・ラトゥーンは四半世紀ほど年が離れていたが、元来船商人の出であった骨董商とかつて漁師だった老人とはなんとなく気があった。
「今日は、お願いがあって参ったのです。」
骨董商イアン・ティーコは、十重二十重に刺繍されたビーズの模様が人目を引く遠い国の民族衣装のようなものを羽織っていた。豪放な彼にしては珍しく控え目に話を始めたのは、この老漁師に敬意を払っているからでもあり、話の内容にも関係していた。
「困りました。なにから話せば良いのやら。」
「なにからでもどうぞ。」
イアン・ティーコは、エイブラハム・ラトゥーンに出されたコーヒーを一口すすって語り始めた。
「実は、この度、家に子供を迎えることになりまして。」
「子供?」
エイブラハム・ラトゥーンは首をひねった。イアン・ティーコが独身であることも知っていたし、特に島で付き合いのある女性の影も見たことがなかった。骨董商は老漁師の懸念めいた表情を見て少し笑った。
「そうではないのです。わたしの子供ではなく、養子です。」
「ああ、養子ですか?」
「はい。女の子です。フーナ・プレットと言います。」
「プレット?プレットと言うと、あの貿易商の・・・。」
エイブラハム・ラトゥーンは得心したように言葉を切った。今から数年前の船の事故の件はよく覚えている。エイブラハム・ラトゥーンも救助に向かった一人だったのだから。
「むごい出来事でしたな。」
「ええ。本当に。わたしが彼らをこの島に迎えたんです。結果あのようなことになってしまって・・・。」
「自分を責めてはいけない。あなたは彼らを助けようとしたんですから。」
「そうなんですが・・・。」
イアン・ティーコの目に光るものを認め、エイブラハム・ラトゥーンは深くため息をついた。人の生き死には人にはどうすることもできない。老漁師はかつて失った愛する娘のことを想い滲んだ涙を拭ってイアン・ティーコの言葉を待った。だが沈黙は思いのほか長く、骨董商の沈痛がいかに深いかを老漁師は知った。
「イアンさん。つまり、その子は唯一助かった娘さん、ということですな。」
エイブラハム・ラトゥーンは老漁師の助け船に、気持ちを切り替えることができた。
「ええ、フーナはその後、学寮に入って過ごしていたんですが、この度そこを出ることになったので、うちで引き取りたいと申し出まして。」
「ご立派なことです。」
「いえ、不甲斐ないというか本当に情けない。大親友のたった一人の忘れ形見を・・・。もっともっと早くそうしてやりたかったんですが、向こうの感情というものもありますし、結局、無為無策に時に解決を委ねてしまった。」
骨董商は残念そうな、だが、少しだけ誇らしげな笑みを浮かべた。
「それで、養子縁組の書類にどなたかの署名が必要なんです。それをお願いできないかと、今日はまかりこしたわけで。」
「お話しは分かりました。わしで良ければ喜んで。」
イアン・ティーコは手提げカバンから一通の書類を取り出すと、テーブルの上に差し出し、仔細の説明を始めた。エイブラハム・ラトゥーンは一通り聞き終わると、堂々とした字でその書類に署名をした。
「役場へは?」
「これから行くつもりです。」
「ほう、善は急げですか。」
「遅すぎたくらいですから。」
イアン・ティーコはやっと笑いを声に出した。
「それならなおさら急がれた方が良い。今日は少し鳥たちの様子がおかしい。」
「そう言えば、朝から海鳴りがしてますな。」
イアン・ティーコは書類を手提げカバンにしまい、立ち上がりながら答えた。
「お気付きでしたか。午後あたりから荒れるかもしれません。お気をつけて。サモン。イアンさんがお帰りになるぞ。挨拶だけでもせんか。」
老漁師が呼ぶと、奥から彼の孫にあたるサモン・ラトゥーンが現れた。
「不調法者で申し訳ない。」
「なにをおっしゃる。立派なお孫さんです。サモン君、君にもお願いがあるんだ。フーナは君と同年代のはず。是非友達になってもらいたい。」
「フーナ?」
サモンが首をかしげると、骨董商と老漁師は顔見合わせて笑った。
「後でわしから説明しておきます。」
「では。エイブラハム・ラトゥーン、本当にありがとうございました。」
イアン・ティーコは改まって恭しく一礼をすると、老漁師の家を後にした。
「フーナって。」
「サモン。フーナというのは・・・。」
「知ってるよ。ツナの同級の子だろ?」
サモンは少し苛立たしげにそう答えた。エイブラハム・ラトゥーンは目を丸くした。この年若い孫にも、もう自分のあずかり知らぬ交友関係があるのだな、と。何もかも知っているつもりでも、人は成長して、自分だけの世界を作っていくものだ。先ほど拭った涙が再び目尻を覆いそうになった。
「どうした?じいちゃん?」
「いや。なんでもない。会ったことがあるのか?そのフーナちゃんと。」
「少し・・・。」
サモンはなぜか嘘をついた。ツナにフーナを紹介されてからは割とよく三人で遊ぶことが多かった。海は広いが島は狭い。エイブラハム・ラトゥーンは孫の苛立たしげな態度が照れ隠しであることを見抜いていたが、なにも言わなかった。また喧嘩になるし、今日は喧嘩をしたい気分ではなかった。
「サモン、今日は家を出ない方が良い。ハリケーンが来るかもしれない。」
サモンは見事に口答えをして、家を出て行った。
8 ツナ・ウィルバーフォース(享年16歳)
漁師の予感は予測にほぼ近い。あの日はやはり大きなハリケーンが来た。雷光、轟音、荒波、暴風、大人たちは肝を冷やしたが、子供たちを歓喜させる面白い出来事もあった。なんと島に雪が降ったのだ。後から分かったことだが、雪の正体は舞い上げられた珊瑚のかけらだった。珊瑚礁でできた島をキーズというが、この島もそうだったのだろう。自慢のショアレス・ビーチも珊瑚海岸だ。もっとも降ってくるとなると、あられのようなもので当たると痛いので子供たちもすぐに辟易してしまったが。
ハリケーンが行ってしまった後、ある人物がこれに名前をつけた。彼はこの島に来て初めて、というか生涯で初めてのハリケーンに遭遇した恐ろしくも感動的な体験に、シェイクスピアの登場人物から「ミランダ」と名付けた。この名付けには彼の個人的な感傷もぞんぶんに含まれている。島に流れついたファーディナンドが一目で恋に落ちた女性の名だ。それ以降、このハリケーンは、島民の間では「ハリケーン・ミランダ」と呼ばれるようになった。
ハリケーン・ミランダ後、ツナ・ウィルバーフォースには日課ができた。友人のサモン・ラトゥーンと岬に行くことだ。何故か?岬にある秘密の場所に用があるからだ。
岩場と岩場の合間に小さなラグーンがある。ラグーンというよりちょっとした砂地だ。この場所を教えてくれたのはサモンで、彼と初めて出会ったのもこの場所だった。最初は海鳥の産卵地でもあるのかと思い来てみたが、何もなかった。ただ隠れ家としては最適で、たまに遊びに来てはいた。
そこにハリケーン・ミランダの後、様々な物品が流れ着くようになったのだ。こうして、ここは宝の地図のバツ印の場所になったというわけだ。
今日もいくつかの流れ着いたものを集め二人で物色をしていた。
「サモン、お前、こん中でどれか欲しいものある?」
ツナが砂場に並べた今日の戦利品が折からの日差しにキラキラと輝いている。この戦利品たちはこれから、もっとキラキラ輝くものに変身するのだ。サモンは黙々と物色を始めたが、いつも通りさほど欲しいものはなかった。元々、そういったものに興味のない性格だったし、そもそも子供が楽しめるようなものはそう多くなかった。
「ないな。いいよ、全部イアンさんとこ持ってけよ。」
「そっか、じゃ、あとで金になったら分けるよ。」
サモンには祖父エイブラハム・ラトゥーンという監視が付いている。またエイブラハム・ラトゥーンとイアン・ティーコは懇意の間柄だ。したがって宝物の換金はツナ・ウィルバーフォース一人の役目だった。
ツナは宝物から丁寧に砂を払いとると帆布のカバンに詰めこみはじめた。
二人でビーチを歩きながら色々な会話をした。いつものことだが、大抵は、サモンとその祖父との関係についてのことが多かった。簡単に言えば、こんなことで喧嘩をした、あんなことで言い合いになったというような話だ。
ツナと両親のことについては、最初に聞いたきりで、ツナがあまり話したがっていないことは、祖父に不調法者と言われたサモンにさえ分かっていた。だが本国イギリスとはどんなところだろう。汽車や飛行船、映画、ラジオ、ルンバ。サモンの知らないことをツナはたくさん知っていた。
ヘリング医師がハリケーンにミランダという名をつけたと聞いた時、ツナが思い出したのは『テンペスト』の登場人物より、母がよく聞いていたカルメン・ミランダのサンバだった。母と二人でレコードを聞いたのは、彼がこの島に来る数年前の忘れがたい思い出だ。
その時、嫌な声がした。それは紛れもなくサモンの祖父、エイブラハム・ラトゥーンの潮枯れしただみ声だ。
「サモン、ツナ、何してる?」
「あ、エッブさん、お久しぶりです。」
「なにか悪さをしてるんじゃないだろうな?」
歳と共に勘が働くようになるのだろうか。エイブラハム・ラトゥーンの指摘はだいたい合っていたから二人は背筋を伸ばした。
「じいちゃん。どこか行くの?」
そこでサモンがうまく話しを反らせた。
「イアンさんの店に行こうとしたんだが、ちょっと行き違いがあってな、家に帰るところだ。一緒に帰るか?」
エイブラハム・ラトゥーンは太陽を見上げてそう言った。と言われてもサモンには別に家に用はない。今は友人との大切な語らいの時間だ。サモンはすぐに反発の狼煙を上げようとしたが、ツナの目配せに気がついた。この老漁師にこれ以上詮索させる訳にはいかない。早く立ち去ってもらう必要がある。サモンは諒解した。
「分かったよ。行こう。」
「ツナも来るか?」
老漁師にしては気を利かせた方だったのだろう。
「お誘いありがとうございます。漁師さんのおうち、とても興味があります。でも、今日は用事があるので遠慮しておきます。またの機会にお邪魔させてください。」
ツナは最大限の礼儀を笑顔に讃えて辞退した。二人が去って行くと、ツナはふと思い当たることがあって、帆布のカバンに手を伸ばした。拾った時から気になっていた品物が一つあったので、それを取り出しポケットにしまうと、他の荷物をまとめ歩き出した。ツナの足取りはだんだんと軽くなり、イアン・ティーコ商会でこの荷物の代わりに手に入るものへの期待が膨らんだ。
9 フーナ・ティーコ(享年16歳)
イアン・ティーコ商会についたツナを待っていたのは主人ではなかった。主人は町に行って不在だった。代わりにそこにいたのは一人の少女だった。
「フーナ!」
ツナは驚き、思わず荷物を背中に隠そうとした。フーナも突然のツナの来訪に驚いたのか、お互い名前を呼び合ってしばらく黙った。二人とも少し照れた様子で言葉を探していたが、先に口を開いたのはフーナの方だった。
「何それ?」
フーナは驚きの中でも目ざとくツナの荷物を見ていた。
「なんでお前がここにいるんだよ?」
ツナは質問には答えずに逆に質問で返したが、フーナも答えなかった。
「そんなこと、どうでもいいでしょ。何それ?」
ツナも再度その質問には答えず、少し顔を赤らめポケットから白い髪飾りを出した。
「あのさ、これ。」
「え?くれるの?本当?」
「まあ、拾ったものだけど。こっちのと一緒に。」
結局ツナはいつも岬で漂流物を拾うこと、それを骨董商に売っていること、今日の戦利品の中にその髪飾りがあったことを白状した。疑い深そうなフーナの目はやがて受け取った髪飾りに移り、
「ふーん。」
とだけ恥ずかしそうに言うとすぐに髪飾りを頭に付けた。
「見せて。」
フーナはカバンの中を覗き込みながら言った。
「へぇ、いろんなものがあるのね。これを売るの?」
「そうだよ。骨董商にね。それでここに来たんだから。」
「骨董商って誰?」
この場でこの質問をされるとは思わなかったツナは一瞬戸惑った。
「ここの主人だよ。ごうつくばりって感じのおっさんいるだろ?イアン・ティーコって人。変な服着て、なんだか悪徳商法やってそうな感じの人。」
そして予想外のフーナの声に再度、戸惑った。
「わたしのお父さんになった人・・・。」
「お父さん?え?お前、両親いないじゃん?」
「だから、代わりの。」
「なに、イアン・ティーコの子供になるの?」
ツナがこの島にやってくる前の年、フーナの両親は事故で行方不明になったと聞いている。
「お父さんとお母さんの知り合いなんだって。」
「そうなんだ。えーと、良さそうな人だよね。」
「いいよ。気を使わなくて。」
「そっか、ごめん・・・。」
居心地の悪い、沈黙が流れる間、フーナは無意識に先ほどもらった髪飾りを手で触っていた。
「ねえ、ちょっとビーチに付き合わない?」
フーナが切り出した。ツナとしてもイアン・ティーコのいないイアン・ティーコ商会にはなんの用もないので、促されるままビーチに歩き出した。
「最近、鳥の勉強してるの?」
「してるよ。」
「一番最近、勉強した鳥は?」
「なんだよ。そんなこと聞きたいの?」
「鳥の話し好きだもん。」
ツナには分かっていなかった。フーナが好きなのは鳥の話ではない。鳥の話をする人物だ。
「今、勉強してるのは、キヌバネドリ。」
「キヌバネドリ?」
「そう、その仲間にさ、ウツクシキヌバネドリってのがいるんだけど、すっごくきれいな鳥なんだ。」
「へえ。」
「それに、コイツの面白いのは、変対趾足っていう足なんだ。」
「足?」
「なんと四本の足の指の一番目と二番目が前向きで、三番目と四番目は後ろ向きなの。かなり特殊だろ?」
ツナは鳥の話になると饒舌になる。自分の右手を器用におかしな形に曲げ、フーナに見せた。淀みのないツナの声はなんというか、熱っぽいのに品があるようで心地よい。
「この島にいるの?」
「いないはず。」
「いないんだ。残念。見てみたかったな。その鳥。」
「うん。」
「でも、鳥は飛べるから、もしかしたらこの島に飛んでくるかもね。」
フーナが遠い空を見る目が輝いた。飛んでくるだろうか。鳥が空を飛べるかどうかは、羽や骨格の構造の性だけではない。その鳥の境遇も大きい。罠にかかった鳥は?籠の中の鳥は?ツナは嫌な夢を思い出していた。
二人がビーチに着くと、見事な偶然とでも言おうか、エイブラハム・ラトゥーンとサモンがやってきた。フーナは少しがっかりしたが、ツナは少しホッとした。
「また、ツナか。」
それはこちらのセリフだとツナは思ったが、礼節を守り質問した。
「エッブさん。またお出かけですか?」
「いや、イアンさんのお店にいくところだ。」
「あれ?さっき行ったんじゃ?」
ツナは早く老漁師にいなくなって欲しいのに思わず質問を返してしまった自分を悔やんだ。
「それが、不思議なんだ。イアンさんとは11時に約束をしていて、さっき伺おうとしたんだが、外に出てみると太陽の位置がまだ早いことに気づいて、おかしいな、おかしいなと。木の影を見ても、これはまだ10時前だと思って引き返した。だが、帰ってみるとうちの時計は11時20分で。それでまた慌てて出てきたんだが、これはどういうことかな?」
「時計が壊れてるんだろ。」
サモンが冷たく言い放った。家でもこの件で多少揉めたことは明らかだった。
「漁師が太陽の位置より時計を信用するなんて、ありえないよ。」
孫の非難に珍しく老漁師は頭を下げた。エイブラハム・ラトゥーンは知らないことだが、犯人はサモンだった。数日前、彼が書き物机のある部屋の窓を開けた際、誤って時計を落としていた。サモンもなかなかの口先巧者だった。
「エッブさん、今はまだ10時前だと思いますよ。フーナ、今、お店にイアンさんいるの?」
ツナはつい先ほど自分がイアン・ティーコ商会に行ったことをおくびにも出さず、フーナに尋ねた。フーナは不思議に思ったが聞かれたことに素直に答えた。
「イアンは、今店にはいません。確かに11時には戻るって言ってました。」
「おや。すると、あなたがフーナさんかい?」
老漁師がいつくしみ深い眼差しでフーナを見た。フーナもそれを感じて一目でこの老漁師を信頼した。
「わしは、エッブ・ラトゥーン。あっちの岬に家があるんだ。こいつと二人で住んでるんだが、こいつはあまり家にいないんで、わしも暇でね。いつでも遊びに来て相手をしてくれないかな。美味しいコーヒーも用意するよ。」
「はい。ありがとうございます。喜んで伺います。」
「さて、10時前か。また家に戻るか。イアンさん、いや、お父様のところにはまた時間が来たら伺おう。」
老漁師がイアンをお父さんと呼び変えた時のフーナの心の疼きがツナにも伝わってきた。
「イアンさんは、フーナの父さんじゃない。父さんは別にいるんだ。」
ツナはそう言った。彼も父親との間に隔たりがある。現にこの歳ですでに離れ離れで暮らしている。フーナの父親はまだ行方不明だ。死んでない。ツナはそう自分に言い聞かせた。フーナはツナの抗弁に驚いていた。しかしエイブラハム・ラトゥーンに不快感を抱くこともなかった。
「気を悪くしたなら悪かった。許してほしい。けれど、新しい物が古い物を否定するとは限らんはず。骨董品屋なら特によく分かってるはずだ。とにかく、いつでも遊びに来てくれよ。」
「ぜひ。伺います。」
フーナは深く頭を下げた。
「サモン。お前は時計を直せるか?」
「無理だね。」
「待って下さい。ツナ、その中に時計あったでしょ?」
ツナは一瞬たじろいだが、確かに今日の戦利品の中に時計はあった。
「これ?」
と言うと荷物の中から一つの品物を取り出した。
「差し上げて。いいでしょ?ツナ。」
ツナはフーナの考えが読めたし、その時計には大した価値がなさそうだと思ったので、素直にそれを老漁師に手渡した。
「置き時計か。こりゃ、銀製じゃないのか?」
エイブラハム・ラトゥーンは時計をしげしげと眺め驚いて言った。
「ピューター製だと思いますよ。どうぞ。時刻もだいたいあっているようですし。」
ツナはそう言いながら、先ほどは確認しなかったが、その置き時計がおそらく正確な時刻を指しており、全ての針がしっかり動いていることに少し驚いた。波間を漂ってこの島までやってきたのだ。よほど丈夫に作られているのか、もしくはあまり精巧に作られていないかのどちらかだろう。
「いいのかい?そうか、それじゃあ、せっかくだからいただくよ。ありがとう。今度イアンさんに自慢して驚かせてやろう。」
エイブラハム・ラトゥーンがいなくなり、ビーチに三人が残った。
「サモン。お前、エッブさんの時計壊したんだろ?」
「え、なんで分かるの?」
サモンは驚いてツナを見つめた。
「逆に聞くけど、なんで壊れてるって思ったの?時計は動いてたんだろ?」
「うん。」
「だよな。エッブさんは、11時に間に合うように家を出て、途中でおかしいと思って引き返した。帰ってみると時計は11時20分。ちゃんと動いてる。」
「え?どういうこと?」
サモンが横を見るとフーナが必死に理解しようとしてツナの顔をじっと見ていた。
「この場合、普通は時計の針が狂ってるって思うんじゃないかな。お前ははなから壊れてるって決めつけてたみたいだけど。」
ツナはサモンの周りを回り始めた。
「針が狂ってるかもしれない時計を壊れてるって言えるのは、壊れてることを知っている人物だけだ。つまり壊した犯人はお前だ!」
ツナは得意げに鼻息を荒くし、サモンを指差しながら熱弁した。
「すごい!!シャーロック・ホームズみたい!」
「だろ?」
フーナは大喜びでそう言った。サモンは先ほどの漂着物の中に見かけた白い髪飾りが、今フーナの頭にあることに気がついた。そして二人が挙げた人物の名前も彼は知らなかった。
10 間奏曲
さて、ハリケーン・ミランダ直後に起こった、サモンによるエッブ爺さんの時計破壊事件のことは一旦忘れて、もっと大きな事件に話を戻そう。
エッブ爺さんの時計破壊事件から随分時が経って、置き時計を巡る殺人事件が起きた時期だ。
エドワード・フィッシャーは、骨董商イアン・ティーコから購入した銀色の置き時計の契約について彼と揉めた末、彼を殺害し、妻に遺体の遺棄を手伝わせた。だが、不思議なことに骨董商のイアン・ティーコは翌日、華麗なる復活を遂げたのだった。
後戻りのできなくなったフィッシャー夫妻は、愚かにも再びイアン・ティーコの殺害を計った。今度は完璧に葬り去る。フィッシャー家で一番度数の強いアルコールに、クレアがたまに使用していた睡眠薬を多量に混ぜて飲ませた挙句、波打ち際で数分に渡ってその顔を海中に沈めた。最初のうちゴボゴボと口から出ていた気泡も止まり、呼吸、脈、瞳孔と確かめられる全ての死の兆候を確認した。死体はその場に放置し、酒に酔って溺死したように偽装した。もちろん水着を着用させることも忘れなかった。
そしてこの現場にもう一人の人物がいた。ケレス・ホーエルだ。彼女は数日前の夜、死んだイアン・ティーコを目撃した。好意を抱いていたバリー・ヘリング医師にそのことを訴えたが、その人物は生きて現れた。自分が体験した事実をお酒が過ぎた上の白昼夢ーーー夜であったがーーーと片付けられ、彼女は不本意だった。
意固地になった彼女は、イアン・ティーコを時間の許す限り見張ろうと考えた。生き返ったなら、また死ぬかもしれない。彼女が酒の勢いで考えた馬鹿げた理屈が、この場合は正しかった。
暗闇の中で何が起こっていたのかは視認できなかったが、人影が去ったビーチにイアン・ティーコの遺体があった。じっくり検分した。死因は溺死。しかもアルコールの過剰摂取の疑いもある。酔って海に入った?違う。この島に長い人間なら夜に海に入ったりしない。犯人がそう見せかけているのだ。犯人らしい人物を見つけようと、周囲を探ったが見つからず、戻ってみると、なんと死体すらなかった。
同じことの繰り返し。前回の話とどう違うというのか。面白くないと言われた初稿をより奇妙に、より衝撃的に書き直して失敗した二流の作家。こんな馬鹿げた話を繰り返すなら、殺人犯か遺体のどちらかを確保してからにして欲しい。ヘリング医師はため息をついた。確かに殺人犯を確保するのは荷が重いかもしれないし、危険も伴う、だが、なぜ遺体を見失うのだろうか。また悪魔の手招きに流されたとでも言い出すのか。
しかし、ホーエルは前回よりかは理知的な行動に出ていた。イアン・ティーコ商会に赴いたのだ。そこではフーナが出迎え、父ーーー彼女は義理の父と言ったがーーーは酔って帰ってきてすでに就寝していると告げられた。流石に寝室にまで踏み込んで確認するわけにも行かず、また心のどこかで、バリー・ヘリング医師と情報を共有したい、厳密に言えば、秘密を共有したいという思惑もあって、その夜は引き返すことにした。
そして、バリー・ヘリング医師に再び苦笑いを浮かべさせた彼女だったが、最後に彼女はヘリング医師にとって、とうてい看過できない驚くべきことを言った。イアン・ティーコ殺害の犯人は、特別外交官のフィッシャー夫妻ではないか、と言ったのだ。
第4章 復活
ラザロは死んだのだ。
そして、わたしがそこにいあわせなかったことを
あなたがたのために喜ぶ。
それは、あなたがたが信じるようになるためである。
では、彼のところに行こう。
ーーー『ヨハネによる福音書』
11 骨董商イアン・ティーコ
イアン・ティーコ商会は何があっても主人を失うことなく営業を続けていた。とはいえ、客などそれほどないから、主人はたいてい暇を持てあましていた。養女のフーナとの間にはいまだに距離があり、主人の無聊を慰めてくれるような関係にはなかった。
この日も彼は、店の前のテラスに置かれた、かつて売り物だったテーブルセットに腰を落ちつけカードゲームを楽しんでいた。その相手はツナ・ウィルバーフォースとサモン・ラトゥーンだった。
今朝は気がつくとベッドがひんやりと濡れており、まさかこの歳で、と焦ったが、濡れた海水パンツで寝ていたせいだと気がついた。なぜそのような姿で寝ていたのかは皆目見当もつかなかったが、少し飲みすぎたのだろう。
「ツナ、最近、持ってこないじゃないか。」
イアンはトランプの手が思い通りではないのか、少し不愉快そうな声で言った。
「やっぱ、困る?」
「困るのはお前らじゃないのか?小遣い稼ぎにならないだろ?」
「別に。金が欲しくてやってたわけじゃないから。それより、骨董品がなきゃ骨董品屋できないだろ?」
ツナは大人相手にも動じない性格の持ち主だ。
「どうせ元々大して売れてないし在庫もある。第一お前らが集めて来るもんなんて骨董品じゃない。がらくただ。」
「そのがらくたを売ってもうけてるんだろ?」
「見る人間が見ればがらくたでないことは分かる。要はいかに磨きあげるかだ。」
ツナは阿漕な骨董商イアン・ティーコがもっとも得意とするのが、商売ではなく詭弁であることも知っていた。
「磨きあげる?仕立てあげる、だろ?」
「仕立て屋も兼ねているんだ。お前の手は?」
「ツー・ペア。」
「サモンは?」
「スリー・カード。」
骨董商兼仕立て屋、そしてソフィストを兼ねる壮年の男は二人の少年に小銭を渡した。
「ツナは金は好きか?」
少年は、
「別に。」
とだけ答えたが、イアン・ティーコは理解していた。彼は幼少期より大人の事情の中で育った少年で年の割に知恵が働いた。学校では発揮できないこの種の知恵がこの島では窮屈なのだろう。金に興味などない、漂着物を集めて持ってくるのは大人とやり取りをしたいからだ。鳥の研究とやらもどこまで本気か分からない。
「女はどうだ?」
この質問に少年は初めて子供らしい戸惑いを見せた。隣のサモンがその様子を見て取り繕った。
「こいつは鳥だけだよ。それよかなんでさっきから俺には聞かないの?」
イアン・ティーコは二人の見事な連携プレーにひとしきり笑った。
「そうだ。がらくたと言えば、サモン。例のエッブさんの置き時計のことだがね。申し訳ないんだが無くしてしまったようなのだよ。わたしは記憶力には自信があったんだが、どうも年かね。とにかくうちの倉庫に絶対にしまってあったんだ。だがないんだよ。どこを探しても。まったくすまないことをしたよ。」
サモンは先日、祖父からイアン・ティーコに貸している置き時計について、フーナに会ったら聞いて欲しいと頼まれていた。なぜフーナになのかその時は詮索しなかったが、余計なお世話を焼きたいのだろう。フーナはツナが好きなのに気がつかないなんて耄碌にもほどがある。
この間ビーチでフーナに会った後、すぐにイアン・ティーコも現れたので置き時計について尋ねてみた。フーナに、ではなく本人に。イアン・ティーコは少し時間をかけて思い出したが、その置き時計は借りているのではなく頂戴したものだと思っていたと言っていた。ただ探してお返しする、と約束してくれたが、それを失くしてしまったらしい。普段の嘘とは違いこのことは信用して良いようにサモンには思えた。
「別に構いませんよ。そもそもイアンさんがもらった物なんでしょ?」
「いや、そう思ってたんだが、エッブさんは貸してるだけだというし。ま、もう謝って許してもらったがね。」
「いいですよ。どうせじいさんのものなんて、海草のからまったがらくたでしょ。」
「いや、がらくたなんかじゃない。素敵な置き時計なんだよ。」
「イアンさん、さっき、がらくたと言えば、って言ったよね。」
ツナは人を食ったような顔で糾弾した。
「全くお前は本当にさかしいな。では聞くが、がらくたと骨董品の違いはなんだ?お前らにとっては、ベートーヴェンだってシェイクスピアだってがらくたみたいなものだろう?良さは古さではないし、古さは良さではないが、古そうなものにはそれなりの魅力があるもの・・・」
イアン・ティーコは性懲りも無く論点の定まらないお得意の弁舌を披露しようとしたが、ヘリング医師の呼びかけに遮られた。
「イアン・ティーコさん。」
「ヘリングさんに、ホーエルさん。なんですか?改まって。」
「少しお伺いしたいことがあるのですが、おつきあいいただけませんか。」
ヘリング医師の笑顔の奥に微妙な気配を感じたイアン・ティーコは、気づかわしそうな視線をツナに投げかけた。
「わたしの研究のことで少し手伝っていただきたい、というか知識をお借りできないかと思いまして。」
ヘリング医師は巧みな嘘をついた。イアン・ティーコはホーエルに目を向けたが、心なしか手が震えているようで、いつもの彼女とは雰囲気が違う。狐につままれるとはこういう表情か。
「あ、ああ、そういうことですか。しかしわたしにできることといったら、鑑定くらいだが・・・まあ、お役に立てるかは分かりませんが参りましょうか。」
いずれにせよ今日はカード運が悪い。このままでは子どもたちの良いカモにされてしまう。金にがめついと言われている骨董商は退散することを選んだ。
「ホレーシオは、僕たちが二度も見たこの恐ろしいものを、われわれの錯覚に過ぎないと言って、てんで信じようとしない。だから、今夜は僕たちと一緒に一分一秒もようく見張りして、また亡霊が出たら、僕らの眼が確かだったことを認めて、一つ亡霊に話しかけてもらおう。」
一瞬、イアン・ティーコにはツナが突然唱え始めた言葉の意味が理解できなかった。
「イアンさん、分かる?」
すぐにツナが挑戦的な眼差しを向けてきたので、自分を試そうとしていることに気づいた。ふん、先ほどのシェイクスピアの話か。イアン・ティーコは自信満々に答えた。
「『リア王』だ。」
「いいえ、『ハムレット』です。」
イアンの誤答を訂正したのはヘリング医師だった。ツナはヘリング医師に笑みを飛ばすと、ポケットから本を出してイアン・ティーコに投げて渡した。
「読むといいよ。古い物の良さが分かる。」
サモンは吹き出し、イアン・ティーコは舌打ちを隠さなかった。
「シェイクスピアの『ハムレット』第一幕第一場の台詞ですね。」
ヘリング医師は自慢げに言った後、ふと立ち止まって考えた。死んだはずの王の亡霊が二度も現れたと訴えるマーセラス。誰も信じないが、この後、胸壁の上で、ハムレット王子は死んだはずの父王の亡霊に手招きをされる。有名な場面だ。
「死んだはずの王の亡霊。」
ヘリング医師のつぶやく声はあまりにも小さ過ぎて、誰の耳にも届かなかった。
12 エドワード・フィッシャー特別外交官
悪夢が波のように押し寄せていた。この日、エドワード・フィッシャーは別荘にこもっていた。そろそろイアン・ティーコの訃報が飛び込んでくるはずだった。この別荘を葬儀会場として使わせよう。そうすれば仮にも自分たちが疑われることはないだろう。それでも手足がガクガクと震え、思うように動かない。
「ねえ、あなた。今日はなんのスープが良いですか?カニのスープをこしらえようと思うのだけど、それで良い?」
妻、クレア・フィッシャーの強靭な精神が羨ましい。
「カニが好きだね?」
「そうなの、わたし、あれ以来すっかりこの島のカニの虜になってしまって。」
あれ以来とはなんのことだろう。ああ、この島で初めてカニを食べた日から、という意味か。カニではない、今考えるのはあいつのことだ。もしかするとあいつはあのまま流されてしまったのか。それなら行方不明ということで、島民が捜索しているかもしれない。けれどそれなら何故わたしの耳に入らない?仮にも特別外交官なのに。
否、外交と関係のないことだからか。そもそも外交と関係のあることなど存在するのか。エドワード・フィッシャーは考えが纏まらない自分の脳を恨んだ。とにかく居ても立ってもいられない。行ってみよう。イアン・ティーコ商会へ。
「クレア。ちょっと出かけてくる。」
そう言い残すと特別外交官は骨董商の店へ向かった。その途上、一人の少年とすれ違った。島の悪ガキの一人で不潔な格好をしている所も外交官の癪に触った。彼が島民から厚く尊敬されているエイブラハム・ラトゥーンの孫ではなかったら挨拶などしてやるものか、と脳裏で毒づいた。
「サモンくん。御機嫌よう。おじい様はお元気かな?」
サモンはニヤリと笑い、次のように言い放つと駆け足で去っていった。
「フィッシャーさん。あの夜、俺見てましたからね。ビーチであんなことしちゃいけませんよ!」
フィッシャーは誰にも聞こえない悲鳴をあげた。頭の中が真っ白になって、ただ荒波に翻弄される小舟のように前へ進んだり後ずさったりを繰り返した。
「おや、フィッシャーさん。」
そこに声をかけてきた人物が一瞬救い主のように見えたが、その顔を認識した途端、フィッシャーは再び悲鳴をあげた。
「どうなさいました?フィッシャーさん。驚かすつもりはなかったのですが。そうだ、つい先ほど、かのシェイクスピアの『ハムレット』の希少な初版のような本が手に入ったんですが、お買い上げくださいませんか。特別外交官という職業にふさわしいステータスになります。お生まれになる子供のひ孫の代まで、フィッシャー家の本棚の・・・」
彼が最後まで言い終わるのを待つことなく、フィッシャーは大嵐の中、波間に飲み込まれる小舟のようにその場から姿を消した。
「あれ?どうしたんですかね?怒らせちゃいましたかね?」
連れの二人に困惑した顔を向けたのは骨董商イアン・ティーコだった。
フィッシャーは別荘に戻ると真っ青な顔でいくつかの驚きべき事態を妻クレアに伝えた。
まずあの夜のことをサモンに見られていたと。そして、イアン・ティーコが再び生き返ったということを。
クレア・フィッシャーは危難に強い女性だった。そのことをエドワード・フィッシャーは神に感謝するべきだった。クレアはフィッシャーからやり取りの一部始終を聞くと、しばらく沈思し切り出した。
「悪いようにばかり考えては駄目です。」
「けれど、もう悪いことしか起こらない!ああ、地獄の炎に焼かれるがいい!!」
「あなた。わたしがそういうのには理由があります。聞いていただけますか?」
フィッシャーは思わず無言で妻の前にひざまづいた。
「まず、サモン君の件ですが、おそらく彼は何も見てないと思います。」
「な、何故?」
「仮に、彼がわたしたちがビーチでしたことを見ていたとして、どうして今になってそのことを言い出すのでしょうか。人が人を殺しているところを目撃したなら、その場で誰か大人に言うでしょう。家に帰ればエッブさんがいるんです。」
「ゆすろうとしているんじゃないか?金欲しさに。」
「そういう雰囲気でしたか?」
「いや、言われてみれば・・・」
「彼も馬鹿ではありません。恐喝をしようというのなら、そんな大事なことを道端でいきなりあなたに言ったりしません。」
「我々を泳がせて・・・」
「そんな必要ありません。考えたくはないけれど、この犯行が他のなにかから露呈する可能性だってあるんです。ゆするならその前に金をせしめないと意味がない。時間をおく必要なんてないはずです。それに大事なことを言います。」
「なんだい?」
「イアン・ティーコが生きているということです。」
「は、そうか。サモンはイアン・ティーコ殺しで我々を脅すことは出来ない。」
「そうです。」
後日、クレア・フィッシャーはサモン・ラトゥーンにそれとなく聞いてみた。彼は恥じらいながら二人が情事に及んでいる姿を「耳で」見たと白状した。
「サモン君も、早く良い人を見つけて、おやんなさいな。」
クレアはそう言ってやった。
「いいですか、あなた。もし我々を脅すとしたら、それはイアン・ティーコの役目です。」
フィッシャーはこの言葉に愕然とした。一度ならず二度も我々に殺されているのだ。考えてみれば当然だった。
「しかし、前回彼が生き返って我々の前に現れた時、そして今回。彼の様子はどうでしたか。」
フィッシャーは思い出そうと努力した。しかし衝撃のあまり記憶は曖昧だった。ただ、あれだけ殺したのに、何食わぬ顔で我々の前に姿を現すのだ。
「わたしも深くは思い出せませんが、もしあなたが殺されかけて、九死に一生を得たとします。その殺人者があなたの前にいたらどうします?」
「わたしなら・・・逃げるな。」
真面目な顔をしていたクレアがぷっと吹き出した。
「あなたらしい。わたしなら飛びかかるかもしれません。でも実際は・・・。」
「確かに。なんというか、全く覚えていないような。なかったことになってるというような。」
「忘れているんだと思います。」
「そうか、激しいショックの後、人は一時的に記憶を失うと聞いたことがある。それなら、もう殺す必要はないということか?」
エドワード・フィッシャーは急に手足に血が巡り出すのを感じた。
「それは良い方向へ考えすぎです。記憶を取り戻すかもしれないから。」
ふたたびエドワード・フィッシャーの血液は、潮津波のように体内を逆流し始めた。
「なら、どうしたら良い?クレア、頼む。教えてくれ。」
「まず置き時計。これを買ったのがそもそもの始まりです。手形で買ったと言ってましたね。その手形を奪い取ります。置き時計の売買の記録を消すんです。」
フィッシャーは深くため息をついた。置き時計、なんでこんなものを買ってしまったのだろう。未来のことは予測できないとはいえ、手形という証拠も残してしまった。あの時回収するべきだったか。
「その置き時計も捨てた方が良いかな。」
「いいえ、わたしはこれを気に入ってます。純銀製なんでしょ、高価なものよ。」
「確かに、イアン・ティーコはそう言っていたが。」
「それにこの子へのプレゼントを捨てるなんてできません。ただ覚悟は必要です。場合によってはもう一度やる可能性もありますから。」
「やる?」
「再殺害です。」
クレア・フィッシャーの表情からは、その可能性が一番高いという自信のようなものが読み取れた。
「どうして君はそんなに強いんだ?」
フィッシャーはうろたえながら妻を見上げた。
「あなたとこのお腹の子のためなら、わたしはどんなことだってできます。」
その時、エドワード・フィッシャーは悟った。妻が変わったのは、最初に自分がイアンを殺してしまったことを打ち明けたあの晩ではなかったのだと。タウンゼンド家の内気で可憐な三女は、妻から母になった瞬間から、勇気という名の翅と判断力という名の触覚を持つ﨟たけた輝かしい蝶になったのだと。
13 クレア・フィッシャー
クレア・フィッシャーがその人と出会ったのは、その数日後のことだった。ショアレス・ビーチに見知らぬ人影がいた。衣服はびしょ濡れで、短く切り上げた髪からも海水が滴っていた。キュロットのようなズボンを履いていたので、最初は小柄な男性かと思ったが、島の人間ではないなと思い、慎重に近づいてみると女性だった。
「失礼ですけど、どなた?」
クレアが怪訝そうに話しかけると、同じ言語で返答があった。
「よかった!言葉が一緒だ。夢じゃないですよね!!わたし、アリス・マーシャルです。クルーザーがね、難破してしまって。もう駄目かと思った!!波にもまれて、後は覚えてないけど。あの・・・電話とかありませんか。あ、お腹も減った!なにぶん、初めてなんです、こういう目に遭うの。」
かなりの早口でまくし立てられ、一瞬クレアは警戒したが、ふと思い当たった。
「あなた、もしかして?」
「そうなんです。なんて言うんですか?漂着したんです。この島に。いや、そういうのって小説とか映画の世界のことだけだと思ってたら、あ、でも、大抵そういう時って無人島ですよね。良かった!人がいて。あの、島の人ですよね?」
「厳密にはこの島の人間ではないんですが、今はこの島に住んでます。」
クレアは漂着者アリス・マーシャルにとってなんの意味もなさない答え方をした。何故立て続けにおかしなことが起こるのか。あんなに平和だったこの島はどこへ行ってしまったのか。これからこのビーチに島の人々が集まる。それなのにそこに漂着者。邪魔というと言葉が悪いが、面倒なことになった。
「あれ?そのお召し物ってもしかして?」
アリス・マーシャルは今になって気がついたようだ、クレア・フィッシャーが喪服を着ていることに。こんなタイミングで漂着者なんて、葬儀に差し障りがないと良いのだけど、クレア・フィッシャーは思った。これから行われるエイブラハム・ラトゥーンの葬儀に。
月の女神セレネーは海の潮の満ち引きをも司っている。昔から人々は潮を運動が月と関係していることをよく知っていた。やがて科学がリンゴが落ちることと、潮汐は同じ原因で起こることを明らかにした。
同時にセレネーは人間の生気も司る女神だった。満ち潮の時は人間は生気に満ち溢れ、引き潮の時は力を奪われる。病気の時は引き潮により命が波とともに海に流れていってしまうと考えたからだ。
エイブラハム・ラトゥーンは、今年、76歳の高齢を迎える老漁師である。現在は島で最高齢の人間であり、過去には島で最高の漁師だった。
彼は漁師と海賊を足して二で割ったような印象を与える堂々たる体躯と剛毅な表情を持っていた。顎には美鬚とは言えないまでも、人格に相応しい立派な鬚を蓄えている。頭髪は幾らか薄くなり残る毛は白いが、中に数本かつての赤毛が見出せる。これで顔が赤らんでいれば酒豪の粗野な男に見えただろうが、彼の日に灼けてもなお白い肌は清潔な、そして誇り高い男という印象を与え、その印象は少なからず彼の人生を助けて来た。
エイブラハムという名前を彼は気に入っていたが、最近では自分の肉体の衰えに対し、自虐的にエッブ・ラトゥーンと名乗ることが多くなっている。エッブとは「引き潮」の意味だ。勿論、島の人間は皆この老漁師を知っているから、彼の本名がエッブなどではないことも知っている。そして、この諦念を感じていながら、そのことを逆に自分の個性に結合させる老人の感性に嫌悪感を感じる者はいなかった。
もう長い間海に出ていなかった老漁師が何故かこの日船に乗った。どんな危険にあったのか、どんな魔物と戦ったのか、戻ってきたその船には、こと切れた老漁師が乗っていた。彼の命は、彼の通り名の通り、海の果てに流されてしまい、その体だけが、主人に死なれた犬のように島に戻ってきた。
「申し訳ないのですが、これから葬儀があるんです。食べ物やお飲み物はお持ちしますんで、とりあえずお話は後で。」
クレアがそう言い終わらないうちに、小舟を担いだ集団がビーチに向かって歩いてきた
。小舟の中には、エイブラハム・ラトゥーンの亡骸がちょうどすっぽりと収まっており、島の花々や貝殻、きれいな石などで装飾されていた。彼にゆかりのある人々が丁寧に死体を清め、心をこめて飾ったのだろう。唯一の近親者である孫のサモンは小舟の後ろの方を申し訳ない程度に支えている。ツナやホーエル、そして泣きはらした目が痛々しいフーナをイアン・ティーコがかばうように連れていた。みな小さな声だが、島に伝わる古い歌を歌っていた。
おやすみ坊や。
かあさんは川へ洗濯に行っちゃった。
とうさんはカニを獲りに行っちゃった。
おねんねしないと
カニが坊やを食べに来るよ。
おねんねしないと
ネコが坊やを食べに来るよ。
子守唄のようだが、あまり葬儀にふさわしい歌詞ではないように思えた。
「古くからの慣習にしたがって、明朝の夜明けと同時に、この偉大な漁師の体を母なる海に還しましょう。」
一同が小舟の棺桶を砂浜に降ろすと、かたわらにイアン・ティーコが立ち、厳かに宣言をした。
クレアは夫のエドワード・フィッシャーの所に駆け寄ると、先ほどのアリス・マーシャルについて手短に説明をした。フィッシャーは老漁師とさほど懇意にはしていないが、この島の特別外交官として葬儀に積極的に参加していた。ただ理由はそれだけではなく、イアン・ティーコを見張るためでもある。
「それまで遺体を囲んで宴をしましょう。疲れた方はわたしの店を使ってくださって構いません。いつでも行ってお休みになってください。」
イアン・ティーコは二度殺されたことなどおくびにも出さず柔和な声で一同を労った。記憶を失っているのは明白だった。
「よろしければ、うちの別荘もお使いください。妻に冷たい飲み物でも用意させましょう。」
エドワード・フィッシャーは対抗してそう言ったが、このビーチからならイアン・ティーコ商会の方が圧倒的に近く地の利があった。
「うちの別荘は少し遠いわ。何か飲み物をお持ちします。それからイアンさんのお店にもお酒などを運んでおきますから。イアンさん、よろしいですよね?」
クレアはその場で見事な戦略を編み出した。これでイアン・ティーコ商会に侵入できる。イアン・ティーコも養女のフーナも皆ここに集まっている。イアン・ティーコ商会は無人だ。クレアは夫に目配せをした。
「あなたは、アリスさんをお願いします。それと・・・。」
言葉を切ったが真意は伝わった。イアン・ティーコを見張っていてという意味だ。
「手伝いますよ。クレアさん。行きましょう。」
ツナが声をあげた。泣いているフーナのそばでどう振る舞って良いか分からないのだろう。クレアは一人で行きたかったが、飲み物や酒を運ぶと言った手前、断るのも不自然だ。ビーチへの運搬をこの少年に任せ、自分はイアン・ティーコ商会に行けば良い。その時、クレアが露骨に嫌な顔をしたのは、バリー・ヘリング医師とケレス・ホーエルがやってきたからだ。
14 サモン・ラトゥーン
あまり悲しくないと思った。父母を知らず、この老漁師とこれまで生活してきた。亀を飼いたいと言っても頑なに拒否する老漁師、漁師になりたいと言っても頑迷に否定する老漁師、いつか島を出たいと言っても無言で頭をふる老漁師。今、遺体となって砂上に横たわっている。
老齢なのだ、いつかは死ぬと思っていた。まさか漁に出て死ぬとは思わなかった。海の様子がおかしいとは言っていた。悪い予感がするとも。だけど何故今更、船に乗ったのだろう。そして何故自分を連れて行ってくれなかったのだろう。そして海の上で何があったのだろう。
それに老漁師は自分の両親のことを何も語ってくれないままあの世へ逝ってしまった。サモン・ラトゥーンとエイブラハム・ラトゥーンの間の家系図を埋めるべき人々をサモンは知らずに育った。何度か両親のことを尋ねたことはあるが、お前の父親は自分で母親も自分だ、と到底納得できるものではない説明に終始した。ただ会話のはしばしから、サモンの母が自慢の一人娘であったこと、そして本国からやってくる軍人を毛嫌いしているということは分かっていた。
サモンが大人になれば老漁師が重い口を開く時が来るかも知れないと思っていたが、その未来はあの海の上ですでに失われてしまった。頭の中に渦巻く感情に正確な名前をつけられるほど彼は大人ではなかった。
「俺も手伝うよ。」
「いや、わたしが行こう。」
逃げ場を求めるようにツナに続こうとしたサモンを、ヘリング医師が呼び止め、彼はクレアたちと歩いて行った。
「サモン、君は側にいてあげなさい。あれが邪魔ならどくように言うよ。」
イアン・ティーコが彼の肩に手をおいた。あれとは、今遺体の上に突っ伏して泣いているフーナだ。あんなに泣いて、じいさんにも好かれていたからな。フーナがじいさんの孫で俺がイアンさんの養子だったら何か違っていたかな。サモンはとりとめのないことを考えながら、クレアたちの後ろ姿を見送るしかなかった。
「あんまり泣くと毒だよ。」
「ここに、ここにいさせて。そばにいさせてください。」
イアンとフーナのやり取りもはるか遠くの出来事に思える。その時、フーナの呼ぶ声で彼は自分の足が確かにこの砂浜に立っていることに気がついた。フーナはサモンの右手に自らの両手を重ね言った。
「サモン。ねえ、サモン。エッブさんは、どうして海になんか?」
「分からない。ずっと漁には出てないし、俺にも海には出るなって言ってたのに。」
「時計、見つかったの?」
フーナは少し落ち着いたのか、涙を拭いてそう問いかけてきた。
「え?」
サモンは一瞬なんのことか分からなかった。
「ほら、エッブさんが、イアンに貸したって時計。なんか、うちのイアンが絡んでるから、妙に心残りになっちゃって。」
「ああ、それ、イアンさんがなくしちまったらしいんだけど・・・。」
「どんな時計なの?」
「確か置き時計って言ってたかな。」
「それ!もしかして銀色?前にツナが岬で拾ったものじゃない?そう!ツナがエッブさんにあげたのよ。」
「え?」
「覚えてない?時計が壊れたとかなんとかで。サモンもいたじゃない。」
サモンは記憶の網を引き上げてみたが、鮮明には覚えていなかった。そこでフーナは思わぬ行動に出た。サモンにこう耳打ちするとその場から去って行ったのだ。
「わたし、お店の倉庫調べてくる。イアンのことだから無くしたなんていって隠し持ってるかもしれないじゃない。」
「待てよ。」
「必ず見つけだして、わたしが舟に入れてあげるから。」
養父とはいえ、そこまで父親のことを疑うかとサモンは思ったが、フーナの勘は半分は当たっていた。実際は隠し持っているどころではなかった。イアン・ティーコはエイブラハム・ラトゥーンから置き時計を、恐らく譲渡なのか貸与なのか曖昧な状況で入手し、これを恐らくピューター製なのか純銀製なのか曖昧な状態でエドワード・フィッシャー特別外交官に売りつけたのだ。なんのために?お金が必要だったからだ。
サモンが後日ツナに聞いてみると、ツナはその置き時計を記憶していた。岬で拾った漂着物の中にあった置き時計で、他の品物と一緒にイアン・ティーコに売ろうとした所、フーナに言われ、エッブさんにあげたのだと。そして、特別外交官の別荘に似たような時計があったとツナは語った。
その時、サモンも鮮明に思い出したことがあった。そうだツナがフーナに髪飾りをあげた日のことだ。それは、彼にとって苦い思い出だった。あの時の胸の痛みはなんだったのだろう。
今、この右手に残るフーナ・ティーコの手の暖かい感触。フーナがツナを好きなことは百も承知だ。自分のことは弟のようにしか思っていないことも。だが、ツナはフーナのその気持ちに、ちゃんと向き合っているのだろうか。自分はフーナとエイブラハム・ラトゥーンとの交流の中で、ツナよりフーナと会う機会が多くなった。それは優越感なのか、劣等感なのか。そして彼は一方で、ツナ・ウィルバーフォースを心からの友人として大切に思っていた。そのせめぎ合いは、いつも
サモンの心の中になにやら複雑で、そして面白くない感情を芽生えさせる。とても嫌だが、どうすることもできない。
いずれにせよ、フーナを見る時、さらにはツナとフーナが一緒にいるところを見る時、サモンの心に響く海鳴りの音は間違いなく彼を楽しい気分にはしていなかった。
15 ケレス・ホーエル
ケレス・ホーエルがエイブラハム・ラトゥーンの葬儀に行くというと、バリー・ヘリング医師はひとかたならぬ興味を示した。そこにはイアン・ティーコも来るだろうし、フィッシャー夫妻も参列するだろう。ホーエルとしてはどのような動機であろうとヘリング医師がいてくれるのはありがたかった。
二人がビーチに現れるとクレア・フィッシャーがツナ・ウィルバーフォース少年を伴って別荘へ行こうとしていた。クレアが露骨に嫌な顔をしたことにヘリング医師は気づいていないようだった。
「俺も手伝うよ。」
「いや、わたしが行こう。」
ヘリング医師は揚々と声をあげた。
「あなたは夫の方を見張っていてください。」
と考えうる限り小さい声でホーエルに告げた。
「ちょっと待ってください。何も、葬儀の場で・・・。」
涙をにじませた目でヘリング医師を見やったが、ヘリング医師はクレアらに合流し行ってしまった。
エイブラハム・ラトゥーンは母の大の友人だったし、その母亡き後もなにくれとなく世話を焼いてくれた恩人だ。母を亡くして、心から憔悴していたホーエルを家に招いて美味しいコーヒーをご馳走してくれたこともあった。彼女がコーヒーを飲む間、一言も話をせず、彼女が飲み終わった時は、こう言った。
「おかわりはいるかい?」
もうあのコーヒーは飲めないが、ホーエルは今もそのコーヒーの味を忘れていない。少ししたら、サモン君にお願いして、あの時のコーヒーカップを形見分けしてもらおう、そう考えると少し心に余裕ができてきた。
そこで、彼女はヘリング医師の指示を守り、エドワード・フィッシャーの様子を伺うことにした。その時、いつもの島の人々の中に一人、見知らぬ女性がいることに気がついた。目が合ってしまうと彼女はホーエルの方に社交的な足取りで歩いてきた。
「初めまして、わたしはアリス・マーシャルと言います。先ほど、この島に流れ着いたところなのですが、タイミングが悪かったようで・・・。」
アリスと名乗った小柄な女性はそう言うと、目を閉じて続けた。
「どなたか分かりませんが、慎んでご冥福をお祈りします。」
「ありがとうございます。」
ホーエルはとりあえず丁寧に頭を下げてから言った。
「あの、先ほど、流れ着いたとおっしゃいました?」
「ええ、クルーザーが難破してしまって、気がつけばこのビーチに。」
ホーエルはしばらく考え込んだが、どう考えてもこういう事態こそ、自分が見張っているエドワード・フィッシャー特別外交官の範疇に属することだと思った。だが今は彼に話しかけたくない。
「あそこの男性がエドワード・フィッシャー氏でこの島の特別外交官です。彼に聞けば、帰国の手はずなど・・・」
「あ、帰国は望みません。わたしを送還する立場の人とは距離をおきます。」
アリス・マーシャルの奇妙な宣誓にホーエルは言葉を飲んでしまった。
「帰国はいいんです。なにか仕事になるような島はないかと思ってふらふらしてたものですから。」
「仕事?」
「ええ、商人なものですから。もっと具体的に言うと、例えばこのご葬儀ですが土葬になさるんですよね?」
「いえ、海に流すんです。」
「なるほど。」
アリスは幾分芝居がかった返答をした。ホーエルは第一にエイブラハム・ラトゥーンの死をちゃんと追悼したかった。最後のお別れなのだ。次にヘリング医師に頼まれたエドワード・フィッシャーの動向を注視する必要もあった。したがってこの女性との会話にはあまり神経を傾けていなかった。
「漁師さんなんで。」
「水葬ですね。いえ実は葬儀のやり方もわたしの専門なんですよ。いや数ある専門の中の一つでして。葬儀の方法についてはひとかどの知識がありますので、ぜひご相談くださいね。」
「わたしに言われても・・・。」
「遺族の方じゃないんですか?ご遺族の方は?」
ホーエルはこの女性の言っていることがよく分からなかったが、遺族が誰か聞かれたためサモンを示してしまい、すぐに強く念を押した。
「でも、今はそっとしておいてあげてくださいね。」
「そうですね。」
アリスは示された人物が少年だったため、そこで言いさした。やがて泣いていたフーナがどこかに姿を消し、しばらくしてツナが戻ってきた。ホーエルはこの少年たちと年も近く、仲も良かったので彼らの寂寥を思うと胸が痛んだ。
特にサモンの出産の経緯は、唯一の悔いだったと死んだ母はよく言っていた。出産自体は上手くいったが、産褥熱に侵されてしまったのだ。もちろんホーエルの母親のせいではないし、エッブさんにもお礼をされたくらいだ。だが彼女は助からなかった。
そして彼女のことはサモンには内緒にしておいて欲しいと言われている。自分がおりを見て、きちんと話すからと。しかしもうそれも叶わない。葬儀が終わって少し時が経ったら自分からサモンに伝えよう。マイシャさん、彼の母親のことを。
「すごい別荘でしたよ。はい、どうぞ。」
ヘリング医師に話しかけられるまで、どれくらいの時間考えごとをしてただろうか。ホーエルは、ヘリング医師に渡されたのものに目をやり、それがウイスキーのボトルだったことに苦笑するしかなかった。
短い間でも人はこうやって癒されていくのだとすれば、それは幸福なことなのではないかと考えた。しかし、ほぼ同時にクレア・フィッシャーも戻ってきており、なにやら、夫に向かってかぶりを振っているのを見て、また心が暗くなった。
「クレアさんをずっと見張っていたんですか?」
「ええ、ずっと。」
すぐにホーエルはウイスキーの蓋を開けることになる。
「飲みすぎないようにしてくださいね。あなたが飲みすぎるとろくなことがない。」
バリー・ヘリング医師が穏やかな声でホーエルを諌めている時、ツナが近づいてきた。
「ホーエルさん。」
ホーエルは思わずそのボトルを背後に隠した。
「隠さなくて良いよ。ホーエルさんが酒飲みなの知ってるから。」
ヘリング医師が珍しく本気で笑ったようだったが、葬儀の場である。すぐに咳払いをして神妙な顔つきに戻った。
「ホーエルさん。今、サモンに相談されたんだけど、エッブじいさん、海に流さなきゃダメなのかなって。」
「え?」
「ほら、漁師とはいえ、もうずっと海には出てないし、サモンにも海に出るなって喧嘩になるくらいいつも言ってたらしいんだよ。今回も海で・・・だろ。それでサモンが、これ以上エッブさんを海に出したくないって言うんだ。」
もっともな理由だった。ただこの島では海のものは海へ、森のものは森へという伝統がある。とはいえ、唯一の肉親が海に出したくないと訴えているのを無視できるだろうか。
「この海、俺の時は助けてくれたのに。」
ツナが遠い目を海に向け笑った。もう笑えるようになったのか、とホーエルは思った。ツナが昔、夜の海に入ったことを知っている人間は少なかった。夜の海に死んだように浮かんでいたツナを助けたエッブさん、そして介抱した自分。もうこの世に残ったのは自分だけだ。ホーエルが返答に詰まったので、苦い沈黙が流れた。
「ホーエルさん。俺、サモンに約束しちゃったよ。エッブさんを海に流さないって。」
「・・・あの、あなた葬儀に詳しいんですよね?」
仕方なくホーエルはアリス・マーシャルの方に目を向けた。一部始終を聞いていたのだろう、アリス・マーシャルは少し進み出て話し始めた。
「そうですね。海に流さないのでしたら、通常は土葬ということになると思いますが、こういった環境の場所でしたら、土葬より火葬をお勧めします。肉体が残らないことを気にされる方がほとんどですが、あ、故人の信仰はどちら・・・ああ!」
しかし、その言葉は彼女自身の絶叫によって中断された。一同がアリスに目を向けた。見覚えのない女性に一瞬戸惑ったものもいたが、アリスのあまりの表情に彼女が指差す方に目を向けた。
息を飲むものもいた、身動きが取れなくなるものも、声を上げるものもいた。動いている。死体が動いている。エイブラハム・ラトゥーンが動いている。手足だけではない、口も何かの言葉を発している。一同が慄き見守る中、やがてその声が認識できるほど大きくなっていった。
「マイシャ・・・マイシャ・・・だから、反対したんだ。」
そこで老漁師の体はゆっくりと起き上がった。後ずさりするもの、立ちすくむもの、腰を抜かすものを尻目に、エブラハム・ラトゥーンはその場に厳かに立ち上がった。
「だが、任せておけ。あいつは、このわしが育てる。」
そう言うと老漁師は体の砂を払い辺りには目もくれず歩み去って行った。
MYLANDA〜ミランダ、あるいはマイランド〜 ②へ続く