5 真相
事故か事件か。
そう問い掛けたのは、先輩刑事の松田だった。
「殺人事件?」
西村は眉を寄せた。
「じゃあ、誰かが船越真理を溺死させ、大鏡に頭をぶつけたのか」
「ちょっと違うが、大筋はそうだね」
海堂が振り向く。
「犯人は、どうやって溺死させたんだ?」
西村が首を捻った。
「被害者の衣類は、水に濡れていなかったぞ。検視結果で、血で窒息したのではないことも、わかっている」
「簡単なことさ、西村」
長い歩幅で移動し、海堂は彼女の前に立つ。
「お姉さん、真理さんは酒が弱かった。カシスオレンジ一杯で、ふらついてしまうほど」
「え……ええ」
由利が頷く。
「そんな真理さんの血中から、アルコール濃度が0.41パーセントも検出された。べろんべろんの見事な泥酔期だ」
「恋人の高橋さんに浮気されたって、ヤケ酒したんです。やめなって、私は注意したんですけれど……」
「介抱した?」
「それは、まあ。水を飲ませたり。でも! 姉が大丈夫って言うから、私は席を立ったんです! 本当です!」
うっすらと涙を浮かべて、由利が祈るように両手を胸の前で組む。
「ふーん。その言葉を信じよう」
海堂が西村を見た。特別に不審な点はない。西村は頷き返す。
「じゃ、行こうか」
横を通る際に、海堂が由利へウインクする。
「どこに、ですか?」
不思議そうな彼女に、海堂は言う。
「刑務所」
「ちょ! ちょっと待て!」
西村が声を上げた。海堂に詰め寄る。
「いろいろ、すっ飛ばすな! 由利さんが、お姉さんの真理さんを殺したのか!」
「うん」
あっさりと海堂は首肯する。顔色をなくした由利が、体を震わせた。
「わ、私が、姉を殺した……?」
「どうやって」
自分を睨む西村に、ふっと海堂の唇が歪む。
「乾性溺水さ」
びくり、と由利の肩が跳ねた。
「法医学ミステリを書いた、あなたなら知り得る。人間は、コップ一杯の水で溺死すると」
わなわなと、彼女は唇を震わせた。声は出ない。
「乾性溺水って、なんだ?」
「知らないのか、西村。それでも警察官か」
「これでも警察官だよ。変人のお前に言われたくない」
嫌味で返したのに、何故か海堂は機嫌良さそうだった。
「では、まっとうな人間の西村に教えよう。乾性溺水とは、水をはじめ液体の刺激によって、喉がけいれんし、声門が閉じたことによる、窒息だ。声門が閉じてしまえば、肺に空気が届かないからな」
海堂が、由利を見た。
「さっき言いましたよね? 『水を飲ませたり』したって。泥酔期の人間にスプーン一杯でも水を飲ませたら、乾性溺水に陥る可能性は高い」
「事故です! 私は、そんなつもりはありませんでした!」
つう、と由利の頬を涙が伝う。
「ふーん」
女性の涙でも、海堂は動じない。
「未必の故意か。真理さんが、乾性溺水で窒息する可能性に賭けたってわけだ」
「明確な証拠もないじゃないですか! 私が殺したって」
由利の言う通り、証拠も何もない。西村は思わず唇を噛む。
「この部屋は、掃除していないんだよね?」
唐突な海堂の言葉に、由利は押し黙った。
「物も動かしていない」
にこりと彼は笑う。美青年の駄目押しに、おずおずと由利は頷いた。
「鏡の位置がおかしいんだよね。上辺が僕の肩の位置にある。鏡を取り付けるには位置が低い――つまり、真理さんが鏡の前に立っても、頭が見切れてしまうんだ。
普通、鏡は一メートル離れた場所から見て、バストアップが映る位置に取り付ける。服飾デザイナーだった真理さんなら、知っていたはず」
微笑みを浮かべながら、海堂は彼女に顔を近づけた。
「大鏡の位置を、下へと動かしたね」
「……い、いいえ!」
由利が激しく首を横に振る。
「ふーん。ここで否定しても別にいいけど。大鏡から、きっとあなたの指紋が出るよ」
「海堂」
西村が口を挟む。
「手袋をしていたら、指紋は残らないんじゃないか?」
「それでも、枠の埃に触れた跡が残る。掃除をしていないなら、はっきりと」
ねえ? と海堂は小首を傾げた。
「酔って足元のおぼつかない真理さんが転べば、位置を低くした大鏡にぶつかるかもしれない。大けがを、もしくは死んでしまうかもしれない。これも、未必の故意だね」
気丈にも、由利が涙目で海堂を睨む。
「どうして、私が姉を殺さなければいけないんですか!」
「三年前に作家デビューしたんだよね」
文脈をぶった切った発言に、由利も西村も面食らう。
「今は次作を書いている――、って、刊行ペース遅くないかい? 一冊出して、そのあと続いてないじゃいか。デビュー作は、どれくらい売れたの?」
「……七千部です」
か細い声で、由利が答える。
「ふーん。まあ及第点だよね。でも、その後の二冊目が出せていないとすると、落第点だよね」
「私は作家なんです!」
由利が叫んだ。
「前作を越える作品を書かないと! 読者が待ってくれているんです!」
「へー。本当に才能ある人は年に二冊。中には四冊出版する作家もいるよ」
「そ、それは。エンタメ作家の話です! 私はミステリ作家なんです! 読者をあっと言わせる謎を生み出さないと、いけなくて――」
「それで三年経ったんだ。ふーん」
海堂が冷たい笑みを浮かべる。
「――才能、ないんじゃない?」
「なっ!」
由利の顔が真っ赤になった。
「――って、真理さんに言われたんだよね? だから、殺そうと思った」
「なんだって?」
西村が声を上げた。才能を否定され、殺意を抱く。わからないことではない。
「真理さんは『思ったことをすぐ口にする』タイプだったんでしょ? 国内外を飛び回る、才能のある服飾デザイナーだった彼女なら、言いそうだ」
海堂が指を二本、立てて見せる。
「水を飲ませたことと、鏡の位置を移動させたこと。どちらも未必の故意だけど、偶然も二つ揃えば必然になる」
歌うように、海堂が言う。
「最近はねー、状況証拠だけでも立件できるんだ。是非、法廷で体験してほしい」
「そ、そんな……」
一瞬にして、赤かった由利の顔が真っ青になった。ずるずると、その場に座り込む。
そんな彼女の顔を覗き込んで、海堂は笑う。
「稚拙だったけど、なかなかに面白かったよ」