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1 赤い海


「うっわ」

 現場に着くなり、西村壮太(にしむらそうた)は目を覆いたくなった。


 港区白銀二丁目にある、高級マンションの一室。カーテン越しの朝陽が、室内を照らしている。


「これ、ちょっと異常じゃないっすか?」

「ちょっとどころじゃない」


 先に現着していた先輩刑事、松田真一(まつだしんいち)が鼻をこすった。金臭さと埃っぽさが充満している。


「事件か事故か。西村、お前どう思う」

「どうって」


 まず目に入るのは、一面の血。


 ペンキ缶をフローリングにぶちまけたようだ。時間が経っているため、血は赤黒く変色している。


 血の海の中に、きらきらと朝陽を反射するものが混ざっていた。正面の壁に掛かっている、大きな鏡が割れていた。


 頭から突っ込んだのか、大小の破片が彼女の周囲に散らばっている。


 彼女。

 鏡の下でうつ伏せに倒れ、こと切れていた。彼女の長い黒髪が、扇状に血の海の上へ広がっている。


「死因は……出血死ですかね?」

「たぶんな」


 松田が顎をしゃくった。老年の検視官が遺体の傍にしゃがみ込んでいる。


船越真理(ふなこしまり)。二十八歳。服飾デザイナーで、国内海外を飛び回っていたそうだ」

「第一発見者は?」

「妹で、このマンションに一緒に暮らしている船越由利(ゆり)

「お気の毒さまです」


 西村は心の底から思った。朝イチでフレッシュな遺体を発見するなんて。加えて、現役刑事でも目を背けたくなる血の海。


 検視官が立ち上がった。二人に近づく。


「どうですか?」

 西村が訊ねれば、老年の検視官が口を開いた。


「鏡へ勢いよく突っ込み、首の頸動脈を切ったようじゃ」


 松田が遺体の首元を確認する。

 立ち上る、独特の香り。


「アルコール臭がするな」

 西村も遺体の傍に屈み込む。血に負けない、強い酒の匂い。


「……酔っぱらって、ふらついた拍子に、頭から鏡にぶつかった?」

 西村が呟く。


「それだけなら、事故だな」

 松田が眉を寄せた。

 微かな違和感に、西村が先輩刑事である松田を見つめる。


「それだけなら? 他に、何か」

「勘だよ。刑事のな」


 老年の検視官を見た。老爺がゆっくりと頷く。

 松田が腰を上げ、宣言した。


「遺体を司法解剖に回す」






 ダイニングで、第一発見者の船越由利と会った。


 鑑識や警察関係者がバタバタと出入りしている。彼らの物音をBGMに、話を聞く。が、ショックが抜けきっていない由利は、西村たちの質問にも上の空だった。


「姉は……世界中を飛び回っていて。家を空けることが多いので、私が代わりに掃除や空気の入れ替えをしています……」

「真理さんの部屋も、あなたが掃除するのですか?」

 西村の言葉に、由利は首を横に振る。


「いえ……。姉の部屋には入りません。物を動かされるのが嫌いみたいで……」

「最近、お姉さんに変わった様子は?」

 松田の質問に、由利は俯いた。


「何か、あったんですね」

 西村の言葉に、彼女がゆっくりと頷く。


「……付き合っていた男性がいるんですけれど、浮気されたって、言ってて」

 ぎらり、と松田の目が光った。


「その人の名前は? 会ったことはあるのか」

「……高橋健一(たかはしけんいち)という人です。雑誌のカメラマンをしていて……私も、何度かお会いしたことが、あります。……社交的な姉と、お似合いだったのに」


 由利の目から涙がこぼれた。


「あの鏡だって。旅行先のヴェネチアで、姉さんが高橋さんにねだって買ってもらったものです……」

「そうか」


 松田がアイコンタクトを送る。西村は手帳に高橋の名前と職業、船越真理との関係性を素早くメモした。


「ときに、お姉さんは酒を飲むのか?」

 松田の言葉に、由利は涙をぬぐって、首を横に振った。


「いいえ。お酒に弱い体質なんです。カシスオレンジ一杯で、足がふらつくほど」

「それなのに、昨日は飲酒を?」

 西村の疑問に、由利はため息をつく。


「……はい。高橋さんに浮気されたって、ヤケ酒を」


 遠目にシンクを見れば、溜まった食器と一緒に、二つのグラスと日本酒の空き瓶がある。


「由利さんも飲んだのですか?」

「え、ええ。ただ、締め切りがあるので、途中で自分の部屋に戻りました」

「締め切り?」

 西村と松田の声が重なった。


森里(もりさと)チサト、ってご存じありませんか? 私のペンネームなんです」

 心なしか、由利の声に誇らしげな響きが宿る。


「三年前の英談社の新人賞でデビューしました。『大空の病棟』は私の受賞作です。今、続編を書いていて。読者を待たせるわけにはいかないから、昨日も自室で原稿を書いていました」


 残念ながら、西村は彼女のペンネームも作品名も知らなかった。

 松田も同様で、困惑したように頭を手で掻く。


「お姉さんの死亡推定時刻は、昨日の夜。物音とか、気づかなかったのか?」

「執筆に集中するために、ノイズキャンセリング機能のイヤフォンで、音楽を聴いていましたから」


 松田と西村は顔を見合わせた。






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