360万のシャワールーム
あー、もーこれ誰もがやりたがるよねえ。かーんまくんがやりたいっていってたけど、今日は私です。どもーせみころ-んさんですーととととととってててて。
シャワールーム。
ころーんさんは「ずいぶん前につぶれたNOVAって英会話の学校の人もこんな趣味あったね」って。
懐かしい名前ですね。
猿橋さんって人だよね。そうそう。
一時期はF1にまで出資していた伝説の学校ですよね。
社長室にはね、浴室にね、2人用サウナまであったんですよ。
あ。ころーんさん、ちょっと嫌な顔しましたね。サウナってとこで。すみません。
あの人は、2人用サウナに浴室まで作って、6000万円かけてつくってて、ミニバーに酒まで用意していたとか。隠し部屋もあったんですよねえ。
これに比べると、360万円のシャワー室で、実にみみっちくなりましたねーってとこ。
しかしですね。
これは「市長室」です。
怒りますよねえ。税金だからねえ。
誰が使うんだよってとこですよ。
シャワーならネットカフェにいくらでもあるでしょう。
なんでつくってしまうのかってとこですよね。
ばれないと、思ってしまうんですよ。
うっかり。
市長の方が1974年生まれで、千葉県から、青山学院大学ですから、まぁ庶民ではありません。
ふつーの方じゃありませんよね。
でも、360万のシャワーというと、私のようなレヴェルの知能にとっては「あれ?これ、日本で言えば国公立レヴェル?」と思ってしまいました。
普通、私学なら3600万円のなんとか!!!とかありますよね。
ここらへん、ころーんさんは納得がいくようです。
で。
青山学院大学ご卒業の方が、こそこそこそこそと360万のシャワールームという点に、日本の悲しい現実を見たような気がいたしました。
ここ10年で、日本人の贅沢って、もう、中国人の贅沢を下回っちゃったでしょ。
これがねえ。なんとも、、なんとも切ないですよねえ。
おそらく、一部の中国の富裕層は「たかが360万円をちびっと使っただけでばかばかしい」とかまず考えたでしょうね。
あっちは桁が全く違いますからね。
どうにも、日本人の贅沢の水準が下がってしまって、みすぼらしいってやつです。
かつて共産圏の独裁者が行っていた贅沢も、ビリヤード、クルーザー、家畜放牧と、ヨーロッパの中流階級以下の水準でしかなかったことで呆れられましたが、これに近いものを感じます。
今の市長選挙では、彼のような人物しか、選挙に出てこれなくなってしまっているのです。
無投票当選も田舎では常識になってしまっています。
どうしてこうなるのかというと、日本人がつながりをさほど求めない消極的な民族性にあると思います。
1945年に敗戦を迎えたとき、多くの日本人がなぜ負けたのかわかってなかったのです。
もちろんアメリカ合衆国の物量はみんな知ってましたが、原爆投下で負かされるということまでは知らなかった。
なぜでしょうか。
それは「情報と繋がる」感性を持ち合わせていなかったのです。
ないので、どうしていいかわからないんですよね。
原子爆弾を投下されて負けたのに、それでも人々は理系数学の勉強をしようとしなかったというのも、ころーんさんと一緒に住み始めてからよくわかりました。
住む前は、わからなかったんですって。
「そんなの知らなかったら覚えろよ!」と、すらあっーしゅさんと二人そろって吠えるにきまってます。『吠えるピアノ男子二人組』とまで言われました。
でもですね。
情報と繋がってどうの、という最初の近代文明の一歩の踏み出し方がわからないので、わからないまま成人してしまうんですよね。
こういう国家では音楽だろうが美術だろうが演劇だろうが、全部西洋の後衛で、何も生まれようがないですよ。
そういう何にも生まれようがない価値観が、1970年代の日本にはまだ残っていました。
そのころに市長は誕生している計算になります。
情報とつながる人間が誰もいない。にもかかわらず、自らはちょっとした小金持ちの家に生まれ、青山学院大学や早稲田大学にまで通えてしまう。
そりゃ庶民の金銭感覚なんて最初から知ろうとも思いませんし、知ったからなんだというのだ、という感性で育つしかないでしょう。
そのまま、リーマンショックなので、日本はまっかっかの大赤字です。
大赤字なので、こそこそ贅沢という、ガラパゴス的な趣味を覚えてしまったのが、話題に上がった市長さんです。
なんだかかわいそうです。
なんだこのびんぼくさい市長!ってやつですよ。
氷河期世代の悲劇なのかもしれません。
前、中学生に8000円を渡した容疑で売春で逮捕された東京三菱UFJの社員もこんな感じですよね。
団塊世代と思考様式はなにも変わっていないが、金銭の額だけ違う。
額面が違うのが、なんだかなあって感じですよ。
鬼滅世代に、このしょぼい贅沢は覚えてほしくないですよね。こういうしょぼい贅沢は、ネット時代は極めて損だということを教える必要が出てくるのでしょうか。




