好春
「那珂川ちゃん。ちょっといいかい?」
コンビニのバックルームで制服を脱いでハンガーにかけている那珂川凛太を呼び止めたのは、古株バイトの久遠好春だった。
「……はい」
凛太は答えながら、自分の声にためらいが混ざってしまったことにすぐに気付いた。しまったな……古株バイトに対して不機嫌な受け答えをするとか、今後のバイト生活に悪い影響を及ぼさなければいいけれど……と反省をしてはみたが、出てしまった言葉はもう戻せない。普段の凛太ならそつなく明るい返事が出来たのだろうが、今の彼はとても疲れていた。昨日、彼の部屋を訪れた後輩達の方は、高校生だからという理由で早々に帰らせることに成功したのだが、慎悟は一人居残り、大事な話があるとか言い出して……結果的にトータル二時間も眠れていない。だからと言って、苦手だと思っている人に対してあからさまに不快感が混ざった声で答えてしまうとか……凛太は心の中でため息をつく。
『好春さん』とバイト仲間に呼ばれている彼は、年齢不詳だが教え方は丁寧だし悪い人ではない。それでも凛太が好春を苦手としていたのには理由があった。好春は煙草臭いのだ。凛太は煙草の、特に煙が苦手だった。バイトのシフトが好春と一緒だった日は、『水の部屋』にいつもより長めにこもるほど。
「あのさ、このくらいの女の子って、心当たりある?」
しかし好春は凛太のそんな反応を気にするでもなく、自分のみぞおちくらいの高さで手のひらをヒラヒラさせている。身長が1メートルとちょっとくらいの女の子、そんな知り合いは居たかなと、凛太は記憶の中を一生懸命探してみるが、すぐには思いつかない。
「……いえ、特に思い出せるような子はいません。その女の子が、どうかしたんですか?」
凛太は努めて真面目に、苦手意識が表面に決して出ないよう気を付けながら答えた。
「うーん。そっか。心当たりないか……じゃぁ……ま、いっか」
「ま、いっかって何ですか。気になるじゃないですか」
「ごめんごめん。話を続けてもいいんだけど、人によっては不快にさせちゃうだけで終わっちゃうかもだし」
不快という言葉がタイミングよく凛太に刺さった。たった今、自分が相手に、無意識とは言え、不快感を抜かない態度を見せてしまったばかり。普段の凛太なら好春との会話を自ら引き伸ばそうとはしないのだが、今回は食い気味に答えてしまった。
「大丈夫です。続けてください」
「チース」
凛太が答えたのとほぼ同時だった。金髪ショートでサングラスの女性がバックルームへ入ってきた。黒い革ジャンに黒ジーンズ、黒地のTシャツには赤で大きく髑髏がプリントされている。この女性はバイト仲間の新城昌。
「あれ、昌ちゃん。この時間からって珍しいね」
「デスデス。新しいスティック買いたくてね。シフト増やしてもらったんよ。あ、好春さんチース。那珂川君もチース。で、何話してたの? 男二人でヤラシイ話? それとも私の生着替え見たいの? 高いよ?」
新城はサングラスをちょっとだけずらし、上目遣いにニヤリと笑みを浮かべる。
「ごっつい革ジャン脱いで制服着るだけっしょ。出して煙草一本ってとこかな。ただまあ残念ながら俺ちゃん、シフト終わりなんで。ここらで退散っすわ」
好春はそそくさと出て行ってしまう。
「あっそ。つまんない。お元気でー」
手を振る昌に会釈した凛太は、好春のあとについてコンビニの外へと出た。好春は曇り空を見つめている。
「降りそうですね。天気予報見てこなかったですけど」
凛太の今朝は、バイトに遅刻しそうな中で慎悟を叩き起こして部屋の外に追い出すのに時間を取られ、天気など気にするゆとりなど皆無であった。
「あー、うん。こう、さ、雲の感じがさ、ハラワタみたいじゃね?」
「はら……わた? って、大腸とか小腸とかのアレですか」
「そそ。ホルモン。ああいう空の時ってさ、無駄に叫びたくなんだよね……ってことで俺ちゃん、これから一人カラオケでハジケて来るわ」
「あの、好春さん……さっきの」
凛太は好春を呼び止めた。途中でうやむやになってしまった話に、自分の中で何かが引っ掛かっているように感じる。引っ掛かっているものがが何なのかはわからないけれど、漠然とだがつかみかけている、それを今、手放してはいけないような気がしたから。
「さっきの……あー。えーと……那珂川君さ、煙草嫌いっしょ。でもそれって煙草の臭いっていうよりも煙の方が苦手なんじゃない? 小さい頃にさ、火事とかに遭ってない?」
火事。その言葉を聞いた時、凛太はわけもわからず鳥肌が立った。彼の記憶に体験としての火事は存在していない。しかし臭いよりも煙という事実は、今まで誰かに話をしても「それおんなじだから」というくくりで片付けられ、理解してもらえたことはなかった。そして実際、凛太は煙そのものが苦手で、キャンプファイヤーも焼き肉屋も蚊取り線香ですら、その煙を見ているだけでうっすらと不安を覚えるのだ。凛太自身でも理由をわからずにいるその衝動を、彼はどうやって見抜いたのだろうか。
「火事はないですけれど、好春さん、煙のこと、なんでわかるんですか?」
「あー。俺ちゃん、なんか他の人に見えないものが時々見えたりするタチなんだよね」
「霊感ってやつですか? え、ちょっと待ってください。それじゃあさっき言ってた女の子って……」
「ビンゴ。おそらく那珂川君に憑いている、みたいな?」
女の子が憑いている。そんなホラー映画とかマンガみたいな台詞が自分に向けられて発せられているという事実に、凛太はにわかには向き合えないでいた。