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凛太

 水の流れる音が響いていた。

 シャワーヘッドの小さな穴から零れ落ちる幾雫もの水たちは、重力に身を任せるうちに水流から水滴へと姿を変える。例えホースのようにもっと太い穴から噴き出したとしても、水たちは空中を舞ううちに、つないでいた手を放し、無数の塊に細かく分かれてゆく。そんな実験映像を見たことがある凛太は、それでパーカッションのような連打音になるんだな、とひとり水の音を楽しんでいた。

 シャワーの滝の真下、浴槽の中にしゃがみ込んだ凛太の背中には、細身ながらも鍛えられた背筋に挟まれて、背骨がくっきりと浮かび上がっている。それだけ背を曲げているのは、頭を出来るだけ床に近づけ、シャワーヘッドから頭までの距離を長くしたいと思っているから。その方が音がよく響くと、凛太は考えていた。

 凛太は目を閉じ、両手で両耳を塞ぎ、延々と続く水の滴りをその頭蓋で受け止めていた。どことなく傘に落ちる雨の音にも似ている音は、耳を塞いでいるからだろうか、少し遠くに聞こえるようにも感じる。心地よい衝撃も音と同時に届かなかったら、近くではなく遠くの音じゃないかと錯覚するくらいに、耳を塞ぐだけで世界との隔絶感があった。

 ひとしきり音を浴びながら、凛太は何度も深く深呼吸をした。彼が『水の部屋』と呼んでいるこの行為をいつもより早く切り上げたのは、しつこいくらいに繰り返される呼び鈴の音が、水の音が奏でるリズムを汚く邪魔したから。

 凛太はシャワーを止め、ユニットバスからは出ないままドアノブにかかっているタオルを手に取り、体を拭き始める。呼び鈴はまだ鳴り続けている。

「しーんごっ。うるせーって」

 凛太が声を張ると、あれだけうるさかった呼び鈴はピタリと止んだ。凛太は焦ることなく、便座の閉じた蓋の上に置いてあったトランクスを履き、さらにタンクトップとショートパンツも身に着けた。彼が好きなアメリカのプロバスケチームのユニフォーム柄だ。

 凛太は最後に足の裏を拭き、トイレ兼バスルームから一歩踏み出した。短い廊下を挟んだ向かい側には、申し訳程度のキッチンが備え付けられている。凛太はキッチン脇の冷蔵庫からジャスミン茶のペットボトルを取り出すと、ゆっくりと喉を潤す。

「まーだー? 凛太もしかしてでっかい方?」

 その声……くどいくらいに玄関チャイムを押していたと思われる犯人は、思った通り慎悟(しんご)だった。しかし直後、クスクスと笑い声が聞こえ、凛太はハッとした。女子が居るのか、と。

 冷蔵庫の横にあるアコーディオンカーテンの向こうは六畳一間押し入れ付き。その押し入れから粘着式のカーペットクリーナーを取り出すと、手早く床をコロコロと掃除する。そしてゴミ箱の中も確認してから、ようやく玄関へと向かった。玄関扉の覗き窓は真っ暗で何も見えない。クスクス笑いも相変わらず漏れ聞こえているから、おそらく慎悟が指で塞いでいるのだろう。

「慎悟テメー、約束の時間よりまだ早いだろーが。俺、さっきバイトから帰ってきたばっかだぞ?」

 凛太は扉の鍵に指をかけたが、まだ開けない。慎悟と仲が良さそうな女子って誰だろう。サークルの女子の顔をいくつか思い浮かべる。だがサークルでの慎悟は、しつこいくらいに佐和(さわ)先輩の大ファンを公言してはばからないせいか、残りの女子全員から微妙に距離を置かれている。

「冷てーこと言うなよ。今日は懐かしいお客さんを連れて来たんだからさっ」

 懐かしい……ということは高校の方か。凛太は去年まで通っていた高校の事を思い出そうとする。高校時代の慎悟は、自分と違うクラスだ。だとすると接点はバスケ部……女子バスケ部の誰か?

「りーんた先輩っ。開けてってばー」

 誰かのモノマネをしているつもりなのか、慎悟の声は楽し気に弾んでいる。でもこの喋り方……記憶にある。凛太は嫌な予感がした。もしかしたら面倒くさい展開になるかもしれない。

「なあ慎悟、居留守使っていいか?」

 凛太は小声で、扉の向こうへそう言ってみた。

「ひどーい! 凛太先輩ひどーい!」

 慎悟よりも早く反応したその声。凛太には聞き覚えがあった。大学のサークルで慎悟が佐和先輩、佐和先輩と猛プッシュしているように、高校時代に凛太先輩、凛太先輩としつこく絡んできた後輩が居た。宮下(みやした)茉凛……今の声は間違いなく宮下だ。

 宮下は可愛い。性格も良い子だし、バスケも上手だ。それに何よりNBAで最も好きな選手が偶然にも一緒だったし……これは宮下が言い出した事だが、お互いの名前に同じ漢字が入っている……だから運命の相手だと。凛太は好意を持たれることが嬉しくないわけではなかった。ただ凛太自身は恋愛なんてできないと、そんな想いがなぜか小さい頃からずっとあったから、彼女に対して距離を保つように心がけてきた。

 恋愛というよりも人間関係そのものに、凛太はいつも不安を抱えていた。幼い頃、とても好きだった人と急に引き離された、そんな想いがずっと彼の中に居座っていたから。はっきりとした記憶はない。両親の離婚が原因なのかもしれない。原因ははっきりしていなくとも、恋愛をずっと避けてきた理由になり得るほど深い傷が、凛太の中にはずっと残っていことは事実として確かに在った。こんな自分なんかのために、青春時代の貴重な時間を消費しないで欲しい。だから彼女につながりうる高校時代の知り合いにはこのアパートの住所をずっと知らせないで来たのに……同じ大学に通っている慎悟以外には。

 扉の向こうでは、三人が口々に開けてくれとやかましい。宮下茉凛と仲の良い志賀谷(しがや)結も一緒か。志賀谷はバスケ関連では慎悟の次に賑やかな女子だ。凛太はため息をついた。

 カチャリ。

 あれ、今……。凛太は自分の中にポツンと広がった違和感を捕まえて広げようとした。しかしその違和感に凛太が心で触れるよりも早く、ドアノブは無常にも回されてしまった。

「開けんの遅ぇよ」

 扉を開いた慎悟は足先を、ドアと玄関との隙間に素早く挟み込む。そして彼の後ろには、茉凛と結が満面の笑みを浮かべて立っている。凛太は真っ先に慎悟の手元を見たが、鍵を使ったり持っていたりという感じでもない。第一、慎悟は勝手に合鍵を作るようなヤツではない。ため息をついたはずみで自分が回してしまったのか。

「凛太? 入っても平気だよな? エロ本片したか?」

「エロ本なんてうちにはねーよ」

「ね、凛太先輩、ありがとー!」

「もー! 凛太先輩ったら、いじわるしないでよー!」

「あー、ハイハイ。仕方ねえな……ったく」

 凛太は廊下へと戻り、彼らを招きいれる。慎悟、茉凛、結と続き、結が扉を閉めようとする。

「あれ? 三人だけ?」

「え、ですよ? 慎悟先輩の他に誰か来る予定だったんですか?」

 真顔で尋ねる結に、凛太は優しく首を振った。

「いや、勘違い。ささ、六畳まで入っちゃって」

 凛太には、慎悟や彼女たち以外にも、笑い声が聞こえたような気がしていた。だがすぐにそれは勘違いかもしれないと、凛太は思った。記憶の中に残っているその笑い声は、高校生というよりはもっともっと若い、それこそ幼い子どもの笑い声のように聞こえたから。

「ここで騒がないでくれよ? 近所からクレーム来ちゃうからさ」

 凛太は玄関の外を今一度確認してから、扉をしっかりと閉めた。もしかしたら近所に小さな子の居る家族とかが住んでいるのかも。今はそう考えることにした。


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