鈴亜
綾芽の視界の中の景色はガクンと大きく縦に揺らぎ、直後、彼女の視界は急激に空へと向けられた。後頭部や首の痛みと共に。
「突き落とすわけねぇだろ」
智季は片手で綾芽の背中を押しすと同時に、もう片方の手で綾芽の長い髪をつかんで後ろに引いていたのだ。
なんだ。ボスが麻衣架から智季に替わっただけで、いじめ自体は何も変わらないんだな……綾芽はそう悟った。麻衣架は言葉による責めが好きだったけど、智季は物理的な暴力が好きなんだな。綾芽は自身が妙に冷静でいられていることが、急に可笑しくなった。こんなときに笑うなんて……いや違う。この声、私の笑い声じゃ、ない……さっき聞こえた、子どもの笑い声のような。
「ねぇ、なんで死んだの? なんでまいプーが死ななきゃならなかったの? なんで拓斗先輩も一緒に落ちたの? 犯人はアンタしか考えられないだろっ?」
智季は綾芽の髪をつかんだまま、再び彼女の頭を手すりの外へと突き出した。
「笑ってんじゃねぇ!」
智季は綾芽の頭を前後に激しく振る。綾芽は、笑っているのは自分じゃないと答えたかったが、舌を噛みそうでぎゅっと結んだ口を開けられずにいた。
「それ、たかいたかい、して」
不意に聞こえたその言葉。綾芽は自分の耳を疑ったし、それは智季も同様だった。だが次の瞬間、智季の体はふわりと空中に浮かんだ。
「メアちゃん、よくできたわねー! すごいすごい。つぎはそれ、ぽい、して」
鈴亜の声だった。直後、智季の体は非常階段の手すりの外側へ、大きくはじかれる。綾芽からしたら、自分の後ろにいたはずの智季が突然、目の前に現れたように見えた。その現実離れした光景が、本当の現実なのだと気付けたのはその直後、綾芽の髪に智季の重さ全てがぶら下がったから。バランスを崩して一緒に落ちそうになった綾芽の体を、すかさず駆け寄った鈴亜が背後から抱き止める。うなだれた綾芽の頭から伸びる髪の毛の先に、智季はまだつかまっていた。
「メアちゃん、ぽいもおじょうずでしたねー! すごいすごい!」
「なんで」
智季はそれを言うのが精いっぱいだった。綾芽に、鈴亜に、もっと言いたいことはあったけれど、智季がそれ以上の言葉を言う前に、彼女の指先から綾芽の髪は逃げるように離れていった。
「理由は、あややんをいじめたからじゃないの?」
鈴亜が智季に向けた言葉に対して、水気を含んだ鈍い音だけが遠い地面から小さく答えた。その返事のような音を、鈴亜は気にするでもなく綾芽の体を抱き寄せ、廊下にしゃがみ込んだ。
麻衣架と智季が幼馴染だったように、鈴亜と綾芽も小学校の時からずっと仲良しだった。四人でつるむようになったのは中学一年の春、遠足旅行の班分けで四人が偶然一緒になってから。三年間同じクラスだったのもあり、四人で過ごすことが、それまで二人きりだった日常に取ってかわった。
綾芽の母はシングルマザーなので、小学生の頃は綾芽は鈴亜の家へ一緒に帰る日々だった。綾芽の母が仕事帰りに迎えに来るまでずっと二人だけで遊べていた。特に大好きだった遊びは、鈴亜が絵を描き、綾芽がそれに詩をつけるというもので、それらを集めてホチキスで綴じ「ふたりのくに」という本を創っていた。「ふたりのくに」は、あと一冊できれば五十巻になるというところまで続いている。鈴亜にとって二人のそんな時間はかけがえのない宝物だった。
拓斗がラブレターの差出人について、「長い髪の新入生」として上級生の間では既に噂になっていた綾芽からだと勘違いしたあげく、調子に乗って勢いで無理やり唇を奪ったことは、綾芽の嘘なんかではないと鈴亜にはわかっていた。しかし同時に、綾芽の無防備さというか、無垢な唇をあんな愚かな男なんぞに奪われたことが悔しくて口惜しくて、しばらくは麻衣架と共に綾芽を責めたりもした。だが鈴亜はすぐにそれではいけないと後悔した。綾芽が隣に居ないと自分は絵を描けなくなっているということに気付いたし、それよりもどうして後から知り合った麻衣架達が、綾芽をどうこうする主導権を握っているのか、不思議でならなかった。綾芽について、鈴亜はなぜ指示される側にいなければならないのか。
綾芽を取り戻そう、そう心に誓って、それからはずっと鈴亜は麻衣架達に従うフリを続けてきた。
「邪魔なやつら……ようやく二人とも排除できたのに……」
鈴亜は、智季の最期の言葉同様「なんで」と言葉を続けようとしている自分に気づき、苦笑した。鈴亜は、綾芽の不自然な角度に曲がった首を、もとに戻そうと両手で触れる。虚ろな瞳はもう鈴亜を見てはくれない。
「私が、あややんをいじめたから?」
鈴亜の瞳からぽろぽろと涙がこぼれては綾芽の頬を濡らしながら伝い落ちて行く。とめどない涙は、鈴亜が目を閉じても、二人の頬を濡らし続ける。鈴亜の、こみ上げてくる嗚咽を必死にこらえて震える唇が、綾芽の唇の上に優しく押し付けられた。ずっと望んでいたはずのその行為に、欠片も喜びを見いだせていないことに、そして何よりも綾芽が二度と戻ってこないことに、深い深い後悔と絶望とに呑まれた鈴亜は、怒りをこめて叫んだ。
「メアっ! あんた、なんてことすんのよっ!」
その途端、あたりに漂うように響いていた幼い子どもの笑い声が、泣き声へと変わった。