双葉
凛太が耳を澄まし、笑い声の聞こえる方向を聞き定めようとすると、音は泡のように弾けて消えた。茉凛はと言えば、そんな音が聞こえている様子もなく、凛太のことを見つめている。
「なぁ、宮下……こんな時間だぞ? ご家族だって心配してるだろ?」
「してないもん」
「そんなことないって。とりあえず近所まで送ってってやるから帰れよ」
凛太の声が少し大きくなった。するとそれに反応するように、隣の部屋の玄関扉を中から蹴る音が響く。凛太は仕方なく茉凛を部屋に上げる事にした。
すると涙目だった茉凛は嬉々として上がり込み、六畳で一番の存在感を放つ凛太のベッドの上にちょこんと座る。凛太はすぐにでも横になりたい気持ちをぐっと堪えつつ、茉凛に話しかけた。
「なぁ、何があったんだ?」
「……うち、両親、離婚するんだって。私が嫌だって言っても、もう決めたことだからって一点張りで……」
「だから家出ってわけなのか?」
「そんな感じです」
「だからといって男の一人暮らしのところを選ぶって選択肢はアウトだろ」
「私……男の一人暮らしのとこに来たわけじゃないです。ずっとずっと憧れていて、大好きな凛太先輩のところに来たんです」
凛太がどんなにやんわりと避けても、茉凛はいつも真っ直ぐに凛太の方へ向かってきた。これが試合だとしたら、嫌な相手だ……嫌、なのか? 凛太は自分に問いかける。なみねえちゃんのことも、母のことも、その真実を知った。手に入れたら失ってしまうかもしれないという不安は、かつてよりは感じていない。だけど……だとしても、今は疲れている。だって、さっきまで自分は母の葬儀に立ち会っていたのだ。
「お前なぁ……俺の都合とか、考えてないだろ。俺が帰らなかったらどうするつもりだったんだ? 一晩中あそこに座り込んでるつもりだったのか?」
「凛太先輩、私のこと心配してくれるんだ? 嬉しいな」
「あのなぁ」
凛太の声が自然と大きくなる。と、どこかでゴンと壁を蹴る音が聞こえた。
「……あのなぁ」
声をひそめてもう一度言い直す。茉凛の様子をチラ見すると、凛太をじっと見つめているのだが、ただでさえ長くないスカートを若干たくしあげているようにも見える。そんなことをするなんて……凛太の脳裏に、父を誘惑する佐和のイメージがパッと浮かんだ。両親の離婚が本当につらいのなら、こういう挑発するような行動はきっとしない……凛太はそう考えた。凛太はため息と共に茉凛に背を向けた。宮下と仲が良かったのは、志賀谷結か。慎悟に聞いたら志賀谷の連絡先わかるかな……ああ、こういう時、車持ってたら楽なのにな……送って行くにしてもタクシーっていくらかかるんだ?
凛太がスマホを取り出した時だった。茉凛が立ち上がり、凛太のシャツの背中をきゅっと引っ張った。
「凛太先輩……私の気持ち、きっとわかってますよね? 私の何がダメなんですか? そうやっていつも逃げられてばかりだと、あきらめだって永遠につかないです」
それは真っ当な言い分だった。凛太が茉凛を、というより人と深い関わり合いになることを避けていた理由は、今日、判明している。大好きだった姉を失い、その喪失に自ら関わったと想いこんでいる母を守るために、姉のことを忘れようとし、しかもその母も入院を選び去って行った……ただ、判明したところで、今まで心に負の感情がこびりついて重なり固まったような心のカサブタが、すぐに剥がれて癒えるかと言うと、決してそんなことはない。それに伝えていなかったとはいえ、やはり葬儀の当日、その後でそんな気持ちには……。
「……タイミングかな……悪すぎるよ」
凛太は、自分の口からこぼれ落ちたその言葉に驚いた。熟考の上に出てきた言葉ではない。もっと言葉を選ぶべきだった。しかし運悪く、疲れと勢いとに押し出されてしまったのだ。言ったと同時に後悔の念が押し寄せてくる。
「じゃあ、いつなら良かったんですかっ」
茉凛の顔を見なくとも、声だけで凛太にはわかった。茉凛が、怒っていて、泣いていることが。凛太はすぐに言葉を継ごうとした。昨日、母が亡くなったこと、今日が葬式だったこと。いつか、自分の心がもう少しだけ癒えたなら、その時は、茉凛の気持ちを大切に受け止められるかもしれない。本当に、今はそういう話をできない、と、そう答えるつもりだった。
「ね、凛太先輩……凛太先輩、振り向いてよ!」
茉凛の悲痛な、絞り出すような声が、凛太の耳に届いたその刹那。
茉凛の目には、信じられない、信じたくないものが映った。時の流れが限りなく停止に向かって収束してゆく。真凛はとっさに瞼を閉じようとした。目を背けたかった。しかし、それすらも間に合わないほど、絶望的な一瞬が、スローモーションで瞳の奥にまで流し込まれる。そして真凛の耳には、震えるほど苦しい音だけが耳に残り続けた。
真凛は意図していなかった目の前の現実を、受け入れたくなくて首を振った。そんなことをしたところで、取り返しがつかないことなどわかっていた。どうしてそんな名前にしたんだっけ……褒めなきゃいけないんだっけ……そうじゃないと……それでもいいや。茉凛は諦めた。周囲に響いていた笑い声が途絶え、急に泣き声へと変わる。小さな子どもの、嗚咽交じりの泣き声。茉凛は泣きながら凛太の名を呼んだ。
「どうしたの?」
佐和は旅行用の小さなスーツケースからタオルに巻かれた円筒形のものを取り出しながら、リビングに向かって声をかけた。円筒形のものは、どす黒い液体で満たされたガラス瓶。そこに貼られているボロボロのラベルは茶色く変色し、数字が書かれているのがかろうじて判別できる程度。
「どこかの子が、また戻ってきたみたい」
ぺたぺたと足音を立ててリビングから寝室へと入ってきた少女は、佐和の隣まで来るとしゃがみ込んだ。彼女は裸足だったが、高校の制服を着ている。
「長く続かない子が多いよね」
不満そうにそうつぶやいた少女は、佐和に背後からぎゅっとしがみつくと満ち足りた表情で目を閉じた。
「双葉は甘えん坊さんね」
双葉と呼ばれた少女は、いったん目を開いたあと、くふふと笑い、更に深くしがみついた。
「私、あの家、エレベーターがあったから好きだったなぁ」
「じゃあ、奈美が生まれたら、またそういう所に引っ越そうかな」
双葉はそーっと佐和の乳房へと手を伸ばし、指先で何度かつついた。
「また、飲んでもいい?」
「十ヶ月以上先になるよ?」
「待つのは……慣れているから」
「奈美の時は待てなかったくせに」
「だって……」
双葉は佐和の前へと回り込むと、胸元に顔を埋めるようにしがみつき直す。佐和は、作業の手を止め、双葉の頭を優しく撫でた。
「そうよね……寂しかったんだもんね。いくらでも甘えていいからね」
リビングからもう一人、今度は少年が顔を出した。
「戻ってきた子から話、聞いたよ。凛太くん、死んだって」
佐和は一瞬、目を見開いたが、すぐに穏やかな顔に戻る。
「奈美、タイミング悪かったね。お腹に宿る前だったら、ちゃんと守れたのにね」
まだ膨らんでもいないお腹を優しく撫でる佐和の声には哀愁が入り混じる。双葉は起き上がり、佐和の頭をよしよしする。
「ねぇ、凛太くんの一部、持ってきたげる。私たちの弟にしようよ!」
パッと顔を明るくする双葉に対し、佐和は相変わらずの微笑みで、両手で双葉の頭をすっと引き寄せ、キスをした。
「どうだろうねぇ。もうかなり大きいから……溝口さんならなんとかできたかもだけど、私はほら……」
双葉は再び佐和に寄りかかり、目を閉じる。その指先は佐和のお腹にハートマークを何度も描いている。
「でもさ、凛太くんのこと、生みたくない? 奈美もきっと喜ぶよ。あれ、でも、お父さんが弟になるの? あー、わけわかんない」
「そうねぇ。それも面白いかもね」
佐和は嬉しそうに、口元を歪ませた。