茉凛
「私は彼女の口から、直に聞いたのだ。その奈美ちゃんという女の子が、凛太……お前の、腹違いの姉であると……それだけじゃない。彼女は奈美ちゃんに、弟か妹が欲しいと、そう言ってきた」
「親父っ」
「いやいやいや。結婚以外は、と、確かにあの時は言った。しかしそればっかりは無理な話だ。私には大切な妻と息子が居る。奈美ちゃんを育てる資金援助は当然の責任としてするつもりだった。それはけじめだからだ。それ以上のことは……過ちを繰り返すようなことはあってはならない」
恭太郎はいつしか凛太に向かい合っている。凛太は線香を足すと、話の続きをうながすことにした。
「俺が小さい頃よく遊んでもらっていた『隣のお姉ちゃん』は、そのなみねえちゃんであってるよね?」
「そうだ」
「じゃあ、火事は?」
「あれは……」
恭太郎は渋い顔でため息をつく。嫌悪ではなく苦痛の表情。
「彼女……津久井佐和が、弟か妹が欲しいと言ったのを、母さんが聞いていた。どういうことか問い詰められ、たった一度の過ちのことを私は全て話したんだ。母さんは、許すことはできないけれど、受け入れる努力はすると言ってくれた。凛太は奈美ちゃんととても仲が良かったけれど、私たち家族と彼女らは一緒に居るべきではないと判断した私は、密かに引っ越しを計画した……その矢先、津久井佐和に呼び出されたんだ。私はまとまった金を用意して、彼女との話し合いに臨んだよ。私はもうこれっきりにしてくれと懇願したが、彼女はかつてのように簡単には引き下がってはくれなくて、少しもめてしまった。だけどね、どうあっても私の決意が変わらないとわかってもらえたのか、最終的に彼女は金を受け取り、約束してくれた。私たちから離れてくれる、と」
恭太郎の話は解決に向かっているように聞こえたが、その表情は裏腹にどんどんと重くなってゆく。
「私と彼女は別々にアパートへと戻ることにした。やましいことはなかったがそうしたんだ。すると、アパートの近くまで来た時、大きく黒い煙が見えた。まさかとは思ったが私は走った。あんなに走ることなんて、どれだけぶりだったか……とにかく走って走って、アパートまで着いた時、もう既に消火活動が始まっていた。アパートの前で、母さんが立ち尽くしているのが見えた。手にはあの焼け焦げた写真を一枚だけ持って。私が凛太のことを尋ねると、母さんはぼんやりとした表情で、私と一緒に居ると思っていた、と答えたんだ。私は慌ててアパートに入ろうとしたが消防隊に止められて……子どもが中に居るんですと押し問答しているうちに、消防隊員が二人、それぞれ子どもを抱きかかえてアパートから出てきたんだ」
凛太は自分の記憶を一生懸命呼び覚まそうとする。火事のことは覚えていないし、思い出せない。でもきっと煙に恐怖を覚えるようになったのはその時からに違いない。
「凛太は、津久井佐和の家のバスルームで、出しっぱなしのシャワーを浴びて震えていたそうだ。事件直後、奈美姉ちゃんがここにいなさいって言ったと証言していたから、奈美ちゃんが助けてくれたのだろう……」
そうだ……確か……凛太は、断片的にだがいくつかのシーンを思い出し始めていた。煙があたりに立ち込めてきて、なみねえちゃんが手を引いてくれた……玄関の扉はもう燃えだしていて、自分は風呂場へと連れていかれた……なみねえちゃんはシャワーを勢いよく出して……この水のなかにかくれていたらだいじょうぶだからって……おねえちゃんはたすけをよんでくるからって……ふるえながらまっていたとき、オレンジいろのふくをきたひとが、てをのばしてきた。そのてに、ひっしにしがみついたら、パッとかかえられて……。
「奈美ちゃんは、煙を吸い過ぎて助からなかったんだ」
凛太は涙を抑えることができなかった。なみねえちゃんは自分を助けてくれた。それなのに、なみねえちゃん自身は……。
「火事の原因は、二階のいくつかのコンセントがショートしたらしい、と聞いている。配線の手抜き工事じゃないかと警察は言っていた。しかし母さんはその直前に、写真に火をつけ、慌てて消して……そんなことをしてしまったらしく、それが火事の原因になってしまったと思い込んでいた。奈美ちゃんへの罪悪感をずっと抱えていて、そこから引っ越しても、臥せったきり、塞ぎ込んだきりだった」
凛太はふと、母のあの言葉を思い出した。
『怖い怖いものはぜーんぶ、忘れちゃおうね』
あれはもしかしたら、母から凛太へではなく、自分自身へ向けて言っていた言葉だったのかもしれない。
「母さんは病んでしまった心がそのまま回復しなくてね。火事のことでずっと自分を責め続けて、精神科にも自ら望んで入院してしまったんだ」
「そんな母さんと離婚したのは、どうして?」
すると恭太郎は驚いた表情で絶句した。それから深く息を吐きだし、きっぱりと言った。
「離婚だなんてとんでもない。悪いのは全て私なんだ。ただ、母さんが法事とか公の場に出るのを嫌がったから、そういう噂が立ったのかもしれない。具合が悪いだけだとちゃんと伝えたんだがね……」
「俺、中学くらいの頃に親戚の人たちが離婚の話をしていたから、てっきり」
父は母と離婚していない。その事実は凛太にとっては救いであった。
「じゃあ……」
凛太は勢いで佐和のことを喋りそうになり、すんでのところで言葉を呑み込んだ。佐和の話と父の話はおおむね噛み合っている。年齢的な不自然さ以外は。世の中には『美魔女』という単語もある。佐和が年齢を重ねても完璧に美しいだけで、本人だとしたら……このタイミングで、大学のサークルに彼女が居ることを伝えるのは、混乱を、あるいはもっと悪いモノを、招き入れてしまうだけかもしれない。恭太郎が凛太に言うべきことを黙っていた経緯もある。とりあえず今は言わずに様子を見よう……凛太はそう考えた。
「なんだね?」
「えっと……その……親父の不倫相手の人、なみねえちゃんが亡くなってから、どうしたの?」
「わからない。彼女はその日を境に見ていないんだ。なみちゃんの葬儀にも呼んでもらえなかった」
「もしも……だよ。その女の人が今、親父の前に現れたら、どうする?」
「おいおい、怖いこと言うなよ……どうもしない。私の妻は生涯、香苗ただ一人だから」
「ごちそうさん」
そこからの話は、当たり障りのない思い出話に終始した。話をすることで楽になった部分と、そして謎が深まった部分がある。凛太は、佐和のことについては持て余したまま、恭太郎には話せずに朝を迎えることとなった。
翌日の葬式はごくごく親しい親族だけで済まし、凛太は手短なメールを慎悟へ送っただけに留めた。目まぐるしく起きた様々なことに加えて貫徹。凛太は憔悴しきっていた。早く帰って泥のように眠りたい。凛太は自分のアパートへと急いだ。
最寄り駅から自宅へと延びる道は、この時間、ちょうど見上げる高さに月が見える。昨晩見た月よりも少し膨らんでいる今日の月はやけに赤い。きっと自分の目も、充血して赤いに違いない。空の月と同じ太さに瞼を閉じてみて、今、自分の目があの月と同じように見えているならば、それはたまらなく可笑しい……凛太は気付いたら笑っていた。こんなくだらないことで笑うなんて、と、冷静に己を見つめる自分も居る。だがどこかでは、笑いでもしないと自分を保てないと感じていた。
笑いを噛み殺しながら郵便受けを確認して、そして自分の部屋へと近づいた時、凛太は扉の前に何かがうずくまっているのを発見した。それ、は、凛太の声に気付くと、ひょいと頭をあげてこちらを見つめる。
「りーんた先輩っ。なーに笑ってるんですかー?」
茉凛だった。彼女はすっと立ち上がり、凛太の方へ近づいて来た。近づくとその言葉とは裏腹に、潤んだ瞳に涙を浮かべているのがわかる。凛太ももう笑うのをやめている。なのに、どこか……それも近くから、幼い子どもの笑い声のようなものが聞こえて、途切れない。