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羽月

 ことの発端はそれよりもまだ更に遡る。恭太郎がまだ助教授だった頃だ。凛太は生まれていないどころか、恭太郎は結婚すらしていなかった。

 恭太郎のもとへその情報が入ったのは、大学の前期試験の採点を行っている初夏の眩しい午後のことだった。東北のとある小さな町で、戦後の一時期、犬神憑きが流行したというものだ。

 犬神憑きとは、狐憑きのように動物霊が取り憑くのではなく、犬を非道な方法で殺して作り上げた犬神という霊的な存在を使役する、呪詛に近い術に関わる人々のこと。しかしその分布は西日本に多いことや、犬神筋という犬神が憑きやすい家筋によって伝承されている場合が多いことなどから、東北で、さらには短期間のみの流行というその情報に、恭太郎は即座に違和感を覚えた。

 西から流れてきた移住者がもめ事を起こしたのか、それとももっと別のナニカが潜んでいるのか。調べて見なければ分からないが、とにかく興味を持った恭太郎は、調査のため間を置かずして現地へと飛んだ。タイミング的に夏休みだったため、彼のゼミ生である学生二名も参加することになる。これが全ての始まりだった。

 現地に着いた恭太郎は、まず第一の仮説に従い、犬神という単語を知り得るような西日本の人間がその時期に入って来ていないか調べようとした。すると一人の医者が目についた。「東京から来た」と語っていた彼は、裏で堕胎を引き受けていたというのだ。東北からすれば東京は西だが、犬神憑きの地域とはかぶらない。ただ、その時期に現地へ移住してきたのがその男ただ一人だったのと、彼が住んでいた家……当時すでに廃屋と化していたその場所を調査してもよいと言われたことから、まずはそこを調べることにした。

 許可が下りてから一日かけ、一通り調べたが、特に何かが分かったわけでもない。恭太郎の経験上、ナニカが出てこないことの方が圧倒的に多い。今回の調査はまた空振りに終わったかと、恭太郎が落胆しかけていた夕暮れに事件は起きた。廃屋から火が出たのだ。しかも火元は、恭太郎がその存在に気づきもしなかった廃屋の地下室だという。

 学生の片方に呼ばれた彼が現場に到着した時には、消防隊により既に鎮火されていて、地下室より遺体が運び出されているとこだった。その遺体は、持ち物から、もう一人の学生だと判明する。警察が調べたところによると、遺体は地下室の天井からぶら下がる電気コードで首を吊っており、自殺と断定された。火事の被害が周辺住居に広がらなかったのは不幸中の幸いだと近隣住民の声が聞こえてきたが、恭太郎にとっては、自分が連れて来た学生の死という、いまだかつてない事件である。彼は打ちひしがれた。

 自殺した学生の家族へ連絡すると、翌日には現地まで来ると言う。恭太郎自身は早くその場所を立ち去りたかったが、仕方なく留まることになる。居心地の悪さといったらなかった。何かに逃避したかったのかもしれない。生き延びた方の学生も神経が参ってしまい……お互いの心を慰め合うように、体を重ねてしまった。

 

 

「軽率だった。その時もう……母さん……香苗と……すでに婚約していたのに」

 恭太郎はすまなさそうに線香を供える。

「いいのかよ。母さんの前でそんな告白しちゃって」

「それはもうバレている。母さんがおかしくなってしまったのは全部、私のせいなんだ」

 恭太郎は香苗の顔を切なそうに見つめる。凛太が生まれた日も、今日と同じように病院に駆け付けた。今日と同じようにもうすでに日は落ちていて、香苗は疲れたのか今みたいに眠っていた。香苗が起きるのを待ち、二人で凛太の様子を見に行き、恭太郎の「お疲れさま」とかけた言葉に答えるように、香苗は恭太郎の手を握りしめてくれた。その手の温もりまでもを思い出す。死という実感は、時間をかけて少しずつ心に沁み込んでくる。恭太郎は不意に涙の熱さを感じた。あの時つないだ手の温もりがまだ自分の中に残っていて、それが涙と一緒に出ていってしまうんじゃないかと不安になった恭太郎は、右手でぎゅっと目頭を押さえ、涙を止めようとする。それでも指の隙間から、熱は流れ落ち続けた。

 その熱を失いつつある恭太郎の心の隙間へ、記憶の中のあの女が再び忍び込もうとしているようで、恭太郎は深いため息をつく。

 

 

「恭太郎センセ、結婚して」

 恭太郎が目覚めた時、左腕の痺れの原因でもある津久井佐和は腕枕をされたままそう言った。佐和は恭太郎に絡みつくようにしがみつき、押し付けられている彼女の嫋やかな柔らかさが、恭太郎の男である部分を強く刺激する。

 昨日の夜は正直、参っていた。自分が連れて来た学生が自殺。調査を許可された建物で火事を出す。そして自殺した学生の親御さんからは責められ、しかも翌日は現地に飛ぶから言い訳はそこで詳しくしてもらう、と。何もかもから逃げたかった。そんな夜だった、佐和が恭太郎の泊まる部屋を訪れたのは。

「私、独りでは怖くて寝られない。羽月(はづき)ちゃんに見られているみたいで」

 津久井佐和と花伊(はない)羽月は、同学年ということもあり、普段から何かと競っていた。学内でも指折りの美女二人。それがこんなマイナーな研究をしているゼミに入ってくれるなんて。彼女ら目当てで男子学生も増えるかもしれないと、当初は素直に喜んだ。しかし彼女らが来てから、男子が増えるどころか、もともと居た女子学生も徐々に減っていく。当時の恭太郎はその事をそれほど気にかけてはいなかったのだが。

 数少ない男子のゼミ生がパソコン通信で仕入れてきた「東北の犬神憑き」の情報を恭太郎に提供したとき、恭太郎はフィールドワークを兼ねた合宿を打ち出したのだが、結果的に参加者は佐和と羽月の二人のみだった。それでもまだ、実家に帰省する学生も多いだろうと特に気にはしなかった。

 女子学生二人と自分とは別々の部屋を手配していた。しかし花伊羽月が突如として自殺したことで、佐和も相当参っていたようで、夜遅く、恭太郎の部屋に助けを求めてきたのだ。

 昨日まで友人と寝泊まりしていた部屋に、友人の遺した荷物があり、友人が自殺した当日の夜にそこで一人で眠ることができなくても仕方ない……恭太郎はそう判断して部屋へと招き入れてしまった。よくよく考えれば、部屋を取り換えるなど、同じ部屋で眠らない選択肢を取れなくもなかった。その夜起こり得る、してはいけない過ちだとてある程度は予想できたはずだった。だから、全ては自身の責任なのだと恭太郎は考えていた。

 もちろん始めは部屋の隅と隅、別々の場所に寝ていたのだが、寝付けないからと恭太郎にしがみついてきた佐和が重ねてきた唇に抗しきれず、つい全身で応えてしまった。

 出来心でしかない。過ちの関係を、恭太郎はずるずると続けるつもりはなかった。香苗の親は自分のフィールドワークを理解し、資金援助をしてくれる。香苗はいわば大口スポンサーである恩人の娘。一時の快楽に溺れて、自分の研究の未来を閉ざすわけにはいかない。それに、香苗に対する愛情も確かにあった。研究について共に語ることはできなかったが、一緒に映画を観た後の感想はことごとく一致した。だから佐和に対しては、きっぱりと断ることにしたのだ。

「申し訳ない。私は……実は婚約者がいる。昨日の夜は完全に参ってしまっていて、どうかしていたんだ。私にできる償いは何でもさせてもらう……ただし、結婚以外で」

 佐和は意外にもあっさりと引き下がった。羽月の親御さんへの謝罪も、佐和がいろいろフォローしてくれたおかげで恐れていたよりは随分と穏やかに幕引きできた。それどころか公にしてほしくないと向こう側から言いだし、大学でも世間でも一切ニュースにはならずに済んだ。恭太郎の経験上、最悪のフィールドワークは、考え得る限り最良のリカバリをもって乗り切ることが出来たのだ。それだけ尽力してくれた佐和が、夏休み明けにゼミを辞めたことも、その時の恭太郎はむしろ好都合だとしか考えなかった。

 恭太郎は安心しきっていた。

 香苗と結婚して凛太が生まれ、オカルトブームの後押しもありゼミは再び盛り上がりを見せる。順風満帆だった。あの日、三人が暮らすアパートの隣室に、津久井笑子と名乗る女が引っ越してくるまでは。恭太郎には一目見てわかった。笑子と名乗るその女が佐和であることが。

 そして彼女が手をつないでいる女の子を見て、戦慄する。凛太よりも二歳年上の女の子は奈美といった。年齢的にはあの過ちの夜の子どもである可能性は低くない。いや、でも、彼女は津久井笑子と名乗っていて、津久井佐和ではない。きっと他人の空似だ。恭太郎は必死に、そう解釈しようとした。

 

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ親父」

 凛太は堪えきれずに口を挟んだ。津久井佐和という女、そして、なみねえちゃん。あまりにも不可解だ。しかし佐和が凛太に告げた「娘」とか「恭太郎センセ」とかいう表現だけは辻褄が合う……だけどそうだとしても、いくらなんでもサークルの先輩である津久井佐和はそんな年齢には見えない。あり得ない……。

 恭太郎と凛太は、互いの言葉を待ちながら、しばし見つめ合った。


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