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笑子

 凛太が実家からそう遠くないその病院へ到着した頃には、雨はもうすっかり上がり、電車に乗る前より広がっている雲の切れ間からは月すらも見えていた。

 正面入り口は閉ざされ、代わりに時間外入口への道を伝える立て看板が置かれている。病院は閑静な住宅街にあり、この建物にたくさんの人が今も居るということが疑わしく思えてしまうくらい静謐に満ちている。そのせいか、母が既に死んでいるという事実と相まって、飾り気のない大きな病棟が、凛太には巨大な棺のようにも感じられた。

 本当にここに母が居るのだろうか。凛太は高校時代の通学時、遠目ではあったが幾度となくこの建物は目にしていた。精神病院というものは、凛太にとってはまだピンと来ていない場所だった。離婚していたとしても、どうして父が教えてくれなかったのか……世間体だろうか。だとしても、会いに行くかどうかは父が決めるのではなく、自分で決めたかった。

 時間外入口の受付で母の名前と自分の名前とを書いた凛太は、その名前が並んでいることを不思議に感じてしまう自分に対して愕然とする。

「面会時間は20時までです。あと少ししかありませんから」

 守衛のぶっきらぼうさが、今の凛太には腹立たしかった。ずっと来たくとも事情があって来られなかった、それなのに……病院の受付業務を行う者の態度としては相応しくない……いままで何も知らせてくれなかった父への不満を、その守衛へとぶつけそうになった凛太は、声に出す前にそれに気づいて唇を噛み、なんとかこらえた。

「霊安室は、どこですか」

 教えられた道順を辿る凛太の耳には、自分が歩く音ばかりが届く。外来はもう終わっているのだが、そうでなかったとしても、霊安室へつながる道は隔離されている印象を覚えずにはいられない。ずっと離れていた母。小さい頃、守ろうと思った母。そして姉の存在。凛太の中めいっぱいに、父に対する不信感が広がっていく。今度こそ父を問い詰めて、全部話してもらおう……そう意気込んで霊安室の手前まで来た凛太だったのだが、ドアを開けようとしたまさにその時、父への怒りを一瞬忘れた。

 凛太には聞こえたのだ。あの、幼い子どもの笑い声が。慌てて振り返るが、子どもの姿など当然のように見えない。方向も距離感もつかめないが、確かに聞こえる……凛太の視線が中空を泳いでいると、霊安室の扉が中から開いた。

「……来たのか」

 それは凛太の父、恭太郎だった。凛太は無言のまま、まっすぐに母の遺体のもとへと向かう。心の中で母にかける言葉を探る。

『母さん……久しぶり……ごめんね』

 想いが募り過ぎて、それ以上の言葉が出てこない。凛太は、肩に回された恭太郎の手を思わず払いのける。父へ言いたいことはいろいろあったが、母へかける言葉がうまく出てこなかったように、ヒートアップした気持ちばかりが空回りして、うまく言葉が出てこない。何か言ってやる……何か。凛太が言葉を探しているうちに、葬儀社が来てしまった。

「母さんを、自宅へ運ぼう。聞きたいことにはあとでちゃんと答えるから」

 葬儀社の車へ遺体と同乗できるのは一人だけ。恭太郎は凛太にその役目を譲ろうとしたが、凛太は恭太郎を車へ、追い払うように乗せた。発車を見送ったその足で、凛太は母の入院していた部屋があるフロアへと向かう。

「あの……母のこと、何か聞かせてもらえませんか?」

 しかし看護師達は忙しいのか、人数も少ないし、どことなくよそよそしい。凛太が諦めて帰ろうとしたその時、視界の端に何か揺れるものが見えた。老婆が一人、手招きしているのだ。凛太は周囲を見回し、老婆が呼んでいるのは自分なのだと判断した。凛太が老婆の近くに来るや否や、老婆はひそめた声でしゃべり始めた。

「あんた、今日死んだ女の親族かい?」

 凛太は黙ったまま頷くと、老婆は眉間にシワを寄せた。

「急に大変だったんだよ。笑い声がね、聞こえるって騒ぎだしたんだ。罰があたったー、なみちゃんごめんねー、ってしきりに繰り返し始めて……そんな声、あたしには聞こえなかったけどさ。ここの入院患者の中ではまともに会話できる方だったのに残念だよ。ところであんた煙草持ってないか?」

「河本さん!」

 体格の良い看護師が早足で近づいて来るや否や、凛太の顔をじっと覗き込んだ。彼女の表情には嫌悪感がありありと浮かんでいる。

「あなた、面会時間はもう終わっています。早く帰ってください」

 腑に落ちないものはあったが、凛太は大人しく病院を後にした。

 電車に揺られている間、今日聞いた情報をどうにか組み立てようとしたが、どうにもまとまらない。気が付けばもう、実家へと着いていた。

「すまんな。一人だけ電車で帰らせてしまって」

「いいよ」

 恭太郎は居間に香苗の遺体を寝かせ、その手前に座り込んでいた。父の背中ごしに線香から立ち上る煙が見えたが、凛太は煙を見ても以前ほどの拒否反応を感じていないことに気付く。亡き母へと供えた線香だからなのか、それとも忘れていたことや知らなかったことが明らかになるにつれ漠然とした不安が薄まりでもしているのだろうか。

「今夜は仮通夜で、お線香の火を絶やさないようにするんだ。私は一晩中起きているから、聞きたいことは何でも聞くといい。ちゃんと答えるよ……」

 凛太の中にはいくつもの質問が瞬時に浮かぶ。母の病気、離婚のこと、そして姉のことや、火事のこと、サークルの先輩がかつてその教え子だったということも。

「じゃあ……」

 凛太は線香の煙の揺らぐ様を目で追った。以前は料理から出る煙ですら嫌悪感を感じたのだが、今はなぜか向き合えそうな気がしている。だから……。

「俺が小さい頃、火事に遭った? もしあったなら、その時……誰か亡くなった?」

 あえて名前を伏せて聞いてみることにした。恭太郎がどこまで本当のことを話すのか、見極めたいという思いもあったから。

「遭った」

 恭太郎は凛太へ背を向けたままそう答えた。凛太がどこまで思い出しているのかは分からないが、自分から火事のことを言い出した時には、真実を告げようと恭太郎は決めていた。どこから話すべきか、あの女のことを……その時、恭太郎の脳裏にくっきりと浮かんだ笑顔があった。

 あれは火事の、ほんの一ヶ月前。たまたま家に居て、香苗と幼い凛太と三人で、少し遅めのブランチを食べようとしていた時のこと。シリアルを口に運ぼうとするのを呼び鈴に邪魔され、新聞なら全紙取っているのにと、玄関の扉を開けたそこに、彼女は立っていた。

 「津久井笑子(えみこ)です」

 女は満面の笑みでそんなことを言った。恭太郎は自分の目を疑った。しかも彼女の手の先には……。


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