奈美
「凛太くん、大丈夫?」
凛太が目覚めた時、彼は壁際のソファに寝ていた。さっきまで座っていた椅子からは2メートルくらい離れた場所。
「あれ? ……俺……」
「ちょっと具合悪かったみたいで、テーブルに突っ伏してたのよ。運ぶのけっこう大変でした」
「す、すみませんっ」
凛太は慌てて飛び起きたが、まだ頭の芯に何かが絡みついているような感覚がしていた。頭を動かすと、軽い目眩が遅れてやってくる。
「救急車、呼ぼうか?」
「いえっ……そこまでじゃ……」
これ以上迷惑をかけたらいけない、凛太はそう考えた。ポケットのスマホを取り出して時間を見ると、ここへ来てからもう二時間は経っている。佐和は部屋着に着替えたのか意識を失う前よりも若干、肌の露出が増えていて、凛太を心配そうに前かがみに覗き込むその姿勢には、さすがに直視してはいけないと感じるほど。
凛太の中に一瞬、自分は何でこんな所に居るんだろう、という思いが湧いた。その思考から何テンポか遅れて、思い出す。
「あ、あの……先輩っ。親父の話……」
立ち上がろうとした凛太の肩を、佐和は優しく手のひらで制した。そしてソファの隣へと座り、話し始める。
「恭太郎センセがね、ある日帰ってくると、当時住んでいたアパートの前に奥様……香苗さんが立ち尽くしていたんですって。しかも、目の前のアパートからは火があがっていて、消防車が消火活動までしていて。子どもたちは消防士の方が運び出してくれたそうでね、息子さんはお風呂場に避難していて助かったんだけど、娘さんの方は煙をたくさん吸い込み過ぎたのか、亡くなられたって」
火事……お風呂場……お姉ちゃん……凛太の中にいくつものキーワードが集まって、ナニカのカタチを成そうとしていた。そのカタチは、もぞもぞと動きながらゆっくりとまとまってゆく……これは、人だ。人のカタチ……しかも子どもの……顔は真っ黒で何も見えない。色が黒いとかではなく、顔にあたる場所にぽっかりと虚無の空間が存在するかのよう。しかしその影のような人間は、凛太へと手を伸ばす。
「うわぁっ」
凛太は声を出すことで少しだけ落ち着いたのか、自分に延ばされていた手が影の手ではなく、心配そうに自分を見つめる佐和の手であったことを確認した。
「すみません。大声出しちゃって」
「びっくりした……けど、大丈夫。凛太くんにとっては、辛い過去だもんね……忘れてたみたいだったのに、ごめんね」
忘れてた。その単語が凛太には無性に引っ掛かった。お姉ちゃんが死んで、自分だけ助かって……それなのに、忘れてただって……そんなこと。忘れるわけがない。忘れちゃいけないことだよね。凛太は自分に向かって何度も問いかける。しかも、実のお姉ちゃんを隣のお姉ちゃんって。
『凛太』
凛太は耳を澄ました。自分の名前を呼ぶ声が聞こえた、ような気がしたから。それは母の声。長らく耳にしていない母の。
『凛太。悲しまないで。隣のお姉ちゃんは、引っ越しちゃっただけ。大丈夫。大丈夫だから、忘れなさい。怖い怖いものはぜーんぶ、忘れちゃおうね』
その声を、言葉を、何百回、何千回、あるいはそれ以上、どれだけ聞かされたのだろう。凛太が「隣のお姉ちゃん」だと想いこんだのも、忘れてしまったのも、母が凛太にそう言い聞かせたからかもしれない……呪詛のように凛太の心の壁に貼りついたそれは、なんどもなんども繰り返されて厚みを増し、凛太の心の真ん中で大きな岩のように肥大化していた。凛太の中にいくつかの感情が育たずにすぐ枯れてしまっていたのも、この呪いのカサブタは凛太の心の容量を狭くしていたせいとしか思えない。ここ数日のいくつもの出来事のおかげで、このカサブタにヒビが入り、中から膿のような母の記憶が、突如として噴き出してきたのだ。
『怖い怖いものはぜーんぶ、忘れちゃおうね』
凛太の表情からほんの少しでも笑顔が隠れると、あの呪文を繰り返す母を、幼き日の凛太はそれでも守ろうと思った。母の言葉を受け入れることで、母が救われると考えたから、そうした。いつの間にか、そんなことさえも本当に忘れてしまっていた。凛太が無理にでも忘れようとしていた存在が……隣のお姉ちゃんだと思い込まされていた存在が……自分の姉だったなんて……あまりにも時を経過ぎていて、姉が居たという実感はまるでない。でも、久しぶりに取り戻すことが出来た、一緒に遊んでくれた想い出は、いつの間にかゆとりのなくなっていた凛太の心に、ほんのり新鮮な風を送ってくれた。
『なみねえちゃん』
凛太は心の中でその名を呼んでみた。本当に本当に久しぶりに、大好きだった人の名前を。
その想いに反応するかのように、何かが聞こえた。笑い声だった。幼い子どもの……凛太は、それが、なみねえちゃんの声だろうかと再び耳を澄ました。その途端、首筋に、腕に、背中に、全身に、悪寒のようなものが駆け巡り、凛太は思わず肩をすくめてしまった。
凛太は現実に目を向けた。佐和がさっきより近くに居て、凛太の顔を覗き込んでいる。心配そうな表情。でも、その目に、凛太は言いようのない不安を強く感じた。あの日の母の、今思えば狂気のような優しさを宿した目に、今の佐和の目が、よく似ているような気がしてならない。
「佐和さん、いろいろとありがとうございます。バイトがあったの思い出しました。急いで行かないと……本当にありがとうございました」
バイトなんてなかった。とにかく早くここを出よう、そんな気持ちに突き動かされるようにして、凛太は佐和の部屋を飛び出した。廊下は来た時よりも明るくなっていたが、それでもエレベーターは三基とも一階にあって、それを待つ時間ですら立ち止まるのが嫌で、階段を探して駆け下りる。
マンションから外へ飛び出した時、雨はもう小降りになっていた。あれだけ強情に空を覆っていた雨雲には、凛太の心のカサブタ同様いくつもの亀裂が入り、その向こうにある夕暮れがもはや隠しきれていない。これくらいなら駅まで走って行ける……数メートル走りはじめた凛太の足を、止めたものがあった。スマホが鳴っているのだ。
「もしもし……親父? え? 何? なにが……母さんが? 亡くなった?」