香苗
佐和の言った通り、室内の様子は女性の一人暮らしという様相ではなかった。リビングの中央に陣取る立派なテーブルには椅子が五脚も置いてあり、佐和はその一脚を凛太に勧める。
「ありがとうございます」
「凛太くん。君は後輩で私は先輩だけど、ここでは私がホストであなたがゲスト。変に気を使わなくていいからね」
凛太は小さく「はい」と答えて、椅子に腰かけた。そこへ佐和はタオルを手渡す。
「肩、濡れちゃったでしょ。傘、ちょっと小さかったよね」
凛太はそのタオルを申し訳なさそうに濡れそぼったシャツの袖にあてた。タオルは仄かに甘い香りを放ち、それがまた凛太に緊張を促した。
その間に佐和はカウンターキッチンの奥にある冷蔵庫からラベルを剥がした2リットルのペットボトルと、グラス二つとを取り出した。
「ビール飲むとき用にね、グラスもいくつか冷やしてるのよ。あ、これはお茶ね。自分で煮出しているの。漢方ちょっと混ぜてるから少し苦みがあるかもだけど、体にはいいのよ」
「わ、いいですね。グラス冷やすのは、俺も二十歳になったら真似てみます」
他愛のない雑談をいくつかしたあと佐和は唐突に話し始めた。
「那珂川教授が何の研究をしているか、凛太くんはどこまで知ってる?」
「えっと、民俗学ってくらい。とにかく昔から家にあんまり居なかったから、聞く機会もなくて」
「そう……教授はね、日常における怪異を主なテーマとしているの。柳田國男先生の『遠野物語』くらいは知っているよね?」
「はい。妖怪とか……ですよね?」
「あー。そんなもんかー」
シワを寄せた眉間を手でポンと叩く佐和。そのテンションがいつもとは明らかに違うと凛太は感じていた。サークル部室に居るときの佐和は、いつも一歩下がった場所から皆を見守っているというか、慎悟曰くクールビューティ。それに対し今の佐和は、自然と声が大きくなり、表情も豊かだし、手振りまでつきはじめている。あれ、これってどこかで……凛太はかつてサークルで、バスケの話をしたときのことを思い出した。凛太を見ていた先輩の一人が「君は本当にバスケが好きなんだね」と言い出したから理由を尋ねたところ、凛太が今見ているような様子を指摘されたのだった。
凛太は口元をほんのりゆるませながら、静かに相槌を打つ。
「でね、民俗学の基本はフィールドワークなわけ。あちこちで怪しい噂を聞きつけては現地に行って情報を収集する。円了先生の研究は妖怪そのものの分類だったけれど、那珂川教授は怪異話を地域の文化や風土や習慣と紐づけて、怪異を生み出す土壌自体の分類と体系化をなさっているのね。すると逆引きで、こういう土地柄だとこういう怪異が生まれやすいんじゃないかって、その地域のお年寄りに尋ねると、誰にも話した事ないけれど確かにこんな話を昔聞いたことがあって、新しい怪異話を発掘できることもあるのよ」
凛太には「えんりょう先生」というのが誰なのか全く分からなかったが、佐和の勢いを殺さぬよう静かに頷き続ける。
「そんなある日、東北のそんなに大きくない町でね、座敷童子の話を収集していたらね、とんでもない事件を見つけてしまったの」
とんでもない事件……凛太にはそんなものを父から聞いた記憶はない。思わず呑み込んだつばの音が、耳の奥に妙に響いた。
「アメリカやロシアが超能力の研究をしているってのは聞いたことある?」
「あー、たまにテレビで見る事あります」
「第二次世界大戦末期の日本もね、していたの。オカルト研究。その頃の日本はもう本当にバカみたいになりふり構わない状態でね、空を飛んでいる爆撃機に対して竹槍だとか、風船に爆弾つけて飛ばしてアメリカ本土を直接攻撃しようとか現実性の伴わない計画が山のようにあったのよ。那珂川教授が発見したのもね、そういったトンデモ研究の一つで……座敷童子を戦争に使おうっていう研究に携わっていた人が遺した資料だったの」
凛太の中で、戦争と座敷童子という二つの単語がすぐには結びつかず、思考が消化不良を起こしかけた。それを察したのか、佐和は話を継ぐ。
「座敷童子が憑いている家は栄えるっていうじゃない。その研究は、終戦間近でもう後がない日本自体に座敷童子を憑けて守らせようというものでね……その過程で多くの幼い命が犠牲になったそうなの」
凛太の耳の奥で、ここ数日よく耳にする小さな子どもの笑い声がフラッシュバックするかのようにこだまする。何がどうなったらそんなことに、と、佐和を見つめると、彼女は伏目がちに話を続けた。
「終戦間近の頃は東京はじめ日本中が空襲を受けていて、子どもが死ぬことなんてどこにでも転がっていることだったし、それを何かに使用しようとする人が居ても、気が付くゆとりがないような状況だったらしくてね。子どもの遺体ばかりを集めてオカルト的な研究をしていた人たちが居たそうなの。もちろん、そんな非人道的な研究は戦後にちゃんと裁かれて……いるはずだったんだけど、私たちが発見した資料の持ち主は終戦のどさくさに紛れて逃げ延びて、その町で医者をしながら、こっそり堕胎を請け負って、その摘み取った幼い命を使って研究を続けていたらしいの」
それは確かに大変な事件だ。凛太は話を聞いているだけで鳥肌が立つのを感じていた。そんなおぞましい事件のことなど父は確かに、凛太に語ったことなどなかった……でも、それが自分の涙とどう関係があるのだろうか。
「それはあまりにも衝撃的な内容過ぎて、調査に同行していたゼミ生……私の友達がね、自殺しちゃったの。それでその資料は公にしない方が良いかもしれないってことになって」
友達が自殺……凛太は慎悟の顔を思い浮かべた。戦争中に多くの人が亡くなったという話に比べれば人数は1でしかないけれど、自分の親しい人の死はインパクトが大きすぎる。
「教授と私はその資料を隠してから、自殺した子のご両親に連絡して、そしてその方たちが到着するまでの間、私があまりにも落ち込んでいたから、語ってくれたのよ。教授ご自身のご家族の話を……えーと、奥様が、えーと」
「母ですか?」
「そう。名前ど忘れしちゃった」
「香苗です。香る苗って書いて香苗です」
「そうそう。香苗さん、その香苗さんが、娘さんを失くしてからおかしくなっちゃったって」
娘さん? 凛太は反射的にあの焼け焦げた写真を思い出す。慎悟がそこに写っていたかもしれないと言いだした隣のお姉ちゃん? でも娘ってことは……本当の?
「凛太くん、顔色真っ青だけど大丈夫? ちょっとお薬探してくるね」
その時の凛太には、佐和の気遣いも全く届いていなかった。
「……お姉ちゃん……」
リビングに一人残された凛太の口から自然に言葉が漏れた直後、その髪がふわりと揺れたのだが、凛太はそれに気づくこともなかった。