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佐和

「でも、いいんですか。俺なんかが先輩の部屋に招待してもらっちゃって」

「それって襲う気があるってこと?」

「い、いやっ、そういうわけじゃないですけど……」

 凛太が気にしていたのは、こうやって二人で居る所を慎悟か、もしくは同じサークルの誰かに観られてしまわないかということだった。二人はよりによって相合傘をしているのだ。大学を出て、最寄り駅から数駅乗った比較的大きな町。その町へ一歩踏み出した途端、強い雨が降ってきた。傘は佐和が持っていた一本きり。そこいらのカラオケかファミレスあたりにでも入るのかと考えていた凛太は、佐和の隣、肩が触れ合うほどのスペースに収まることに、一瞬のことだろうからとさほど躊躇はしなかった。佐和から受け取った傘を彼女側に傾けた凛太の肩は潔く濡れ始めた。しかし彼女の足は、繁華街ではなく、駅近くの大きなマンションが立ち並ぶエリアへと向かいだしたのだ。凛太の「こっちはお店、少なそうですよね」という牽制に対し、返ってきた答えは「そうなの。でも女一人でも住みやすい所よ」というシンプルなものだった。

「だって君の部屋はダメなんでしょ?」

 佐和が話をする条件として指定したのは「周囲に話が聞かれない場所」だった。佐和が候補として真っ先に挙げたのは凛太の部屋なのだが、そこはさすがに慎悟との遭遇確率が高すぎて危険であると凛太は判断した。かといってまさか逆に佐和の部屋に行くことになるとは、その時点では凛太は考えてもいなかった。同じサークルの先輩後輩とはいえ、佐和は誰にでもフレンドリーとはいえ、凛太にとっては「一人暮らしの女性宅にお邪魔する」ほどに距離が近い存在ではない。精一杯、申し訳なさをアピールすること数回……だが、佐和の進む方向に変化はない。「迷惑じゃないですか?」と何度か言ってみたものの「大丈夫」と笑顔を見せる佐和。その笑顔がトリガーになって、凛太は慎悟に以前言われた言葉を思い出した。

『甘いぞ凛太。猫と煙が、自分から距離を取ろうとする人の方へ行くように、その年齢で、そのイケメン細マッチョで、女子から距離を取ろうとする態度は、クールとかジェントルとかかえってウェルカムっつー看板を掲げるようなものなんだって』

 この先輩は自分に対して好意を持っているのだろうか、うっかりそんなことを考えてしまった凛太は、あの不安とも喪失感とも似たいつもの感情に呑まれそうになった。この「誰かを大切に想う」ことへの漠然とした不安は、もはや強迫観念に近く、凛太の心は、逃げ出したい不安と、父に関する貴重な情報への欲求との狭間で逡巡していた。

「着いた。ここよ」

 着いてしまったか……考えも感情もまとまらないままの凛太は、建物へと視線を移し……そのまま見上げてしまう。一番大きなマンションだった。それも高級感が漂う、比較的新しい造りの。佐和は立ち止まることなくマンションへと入って行く。自動ドアが開くと、その奥はエントランスロビーとなっていて、ソファーが置かれている。これは本当にマンションなのか、と凛太が呆気に取られている間に、佐和はロビー奥の自動ドアへと向かってゆくが、ここは自動では開かない。すると慣れた手つきでドア横のインターホン付近に鍵をかざし、ようやくドアが開く。その向こうにはエレベーターが三基も見える。

「早くしないと閉まっちゃうよ?」

 閉まっちゃう、と聞いた凛太は反射的にエレベーター前まで走り込んでしまった。迷いに対する回答を出す前に、先へと進んでしまった凛太の中に、じわじわと緊張が広がりはじめる。それは、女性の部屋へ通されるという緊張のみならず、生活レベルが明らかに自分より上の階層に属する者からの招待に対し、何かしら粗相をしてしまうのではないかという、庶民的小市民的な類の緊張も含まれていた。

 佐和は凛太の迷いになど構うことなくエレベーターへ颯爽と乗り込む。凛太は佐和のあとに黙ってついて行く以外の選択肢を見つけることが出来ず、とうとう彼女の部屋の前にまで来てしまった。

 マンションは内廊下なので外が見えないのに、重い雨を落とし続けている黒々とした雨雲の暗さが建物内にまで紛れ込んでいると感じられるほどに薄暗い。佐和が鍵を開けた後、ドアノブを握ったまま小さく深呼吸していることに凛太は気付いた。

「叔父一家がね。海外出張の間、使っていいって言ってくれて……そうじゃなきゃ、こんなところで一人暮らしとかできないわよ。悪いことして稼いでるとかじゃないから、安心して」

 凛太は恥じた。自分は何を思い上がっていたのだろうか。向こうからしたら、サークルでよく知っているとはいえ、自分より体格のいい若い男を二人きりの密室へ上げようというのだ。自分が悩んでいるのに気づいてくれて、彼女が公の場では話したくないような情報をくれようとしているのに、何を自分だけ被害者ぶっているのだろうか。今だって、自分の緊張をほぐそうと気づかいを見せてくれている。自分は、先輩の信頼に応えなきゃいけない……凛太はサークルで、いつも慎悟といつもはしゃいでいる時の自分を、一生懸命思い出そうとした。

「ですよねー。怖いスジ系の人が出てきて、俺の女になんたらとか言い出したらどうしようとかずっと考えてましたっ」

「もー!」

 佐和の表情がいつもの柔和な笑顔に戻る。

「傘、ドアの横にでも立て掛けておいて。さ、どうぞ」

 凛太は努めて明るく振る舞いつつ傘を置くと、扉の中へと足を踏み入れる。

「ドア、鍵も閉めちゃってね」

「はいっ」

 凛太は扉を閉める前に、ふと扉の外をいったん確認し、それからこんなシーンを最近見たような、と思った。誰かのあとについて入った部屋の扉を閉めかけて、その前に外を確認して……その時と同様、今も小さな子どもの笑い声みたいものが聞こえたのだが、ここは単身者というより家族向けをターゲットとにしたマンションだろうから自然なこと……と、それ以上は気にしないことにした。

 凛太が扉を閉め、鍵をかける音が小さく響いたあと、廊下が急に明るくなった。というより他の階と同じ明るさに戻ったと言うべきか。

 しかしその明るさの中でも、ドア横に立てかけられた傘だけは、雨の水滴以外にも、ぼんやりとした薄暗さをまとっていた。やがて、傘の先端のあたりにじわじわと溜まる水たまりから、幾筋もの水の軌跡が辺りに延びはじめた。傾斜や溝に沿って水が流れたというよりは、誰かが無邪気にお絵かきでもしているかのようにも見える。しばらくすると、誰も居ない廊下に、幼い子どもの笑い声が響く。その声に呼応するかのように廊下の明かりは明滅する。声はすぐにかき消えたものの明かりは、首を絞められているかのように次第に細く弱くなっていった。


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