慎悟
津久井佐和は、凛太と慎悟が通う大学の四年生だ。彼ら二人が所属する文芸サークルの名誉副部長でもある。高校時代にバスケ部だった彼らがなぜ文芸サークルに入ったかと言うと、慎悟がサークル勧誘で佐和に一目惚れしたからに他ならない。美人なのは言うまではないが、面倒見のいい性格から頼れる姐御として男女問わず人気が高い。しかし浮いた噂が一つもないことから「佐和さんが独り者」というのがサークル七不思議の一つとしてカウントされているほどであった。
「まあ、頑張れよ、としか言いようがないけどさ……夢破れたらそのあとどうすんだよ。サークル辞めるのか?」
「あー、凛太てめぇ。告白前からナニ不吉なこと言ってんだよ……まあ、勝率は限りなくゼロに近いけどさ」
「ゼロに近いのかよ。事前に宣言しに来たくらいだから、作戦くらい考えてんのかとか思うだろ」
「ま、一応さ。ということで凛太にお願いがあんのよ」
「何? まさかラブレター代わりに渡してとか」
「いやいやいや。そういうんじゃねぇんだよ。凛太さ、佐和さんと同じ講義取ってたろ?」
「なんか一緒のあったな……つーか、明日の二限だわ」
「その講義終わったあとさ、俺と待ち合わせてくんないか。んで、三人になった途端に、電話かかってきたとかで席外してもらうのってどうだ。あんまり重くしないで自然な流れでポロっと告白してみようかと思ってさ。それならあっさり断るにせよ、うっかりOKするにせよ、身構えられずに済むんじゃねーかなってさ」
「うっかり作戦か。悪くないな」
「ありがとー! 心の友よ!」
二人は熱くハグを交わした。
「んで、時に心の友よ」
「なんだい。心の友よ」
「お前、茉凛ちゃんのこと、どうすんの? ものすごアタックしかけてんじゃん。俺だったら速攻付き合うレベルだぞ」
「あー」
凛太は慎悟から離れてベッドに腰掛ける。
「俺、恋愛、向いてないのかもしんねぇんだ。なんか怖いっていうか」
「怖いって女が?」
「いや。好きになってしまったら、大切なものって認識しちゃったら、失っちゃうんじゃないかなって」
「あー、お前んとこ、ご両親が離婚してたって言ってたもんな。うほっ、これ、もしかして凛太ファミリー写真? 激レアじゃん」
慎悟は、テレビ前に置かれている小さなテーブルの上を指さしながら覗き込んだ。凛太がさっきまで見ていた焼け焦げ写真がそこにはあった。
「そう。ちっちゃい頃のね」
「凛太、お前さ、そういや小さい頃に隣のお姉ちゃんに遊んでもらったって言ってたことあったじゃん?」
「あれ、俺そんな話したっけ?」
「覚えてないのかよ。高三の夏合宿の時さ、初恋暴露大会でお前さんざんナイナイ言ってごまかしてたからさ、皆で取り囲んで話すまでくすぐるの刑にしたら、最後にとうとう白状したじゃねぇかよ」
凛太は胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。あの時はくすぐったいのから逃げたくて、パッと思いついた話を口にしたのだった。だが、いまこうして改めてそのことを耳にすると、自分がずっと抱えている理由のない不安が、急に現実みと重みを帯びてきたように感じられる。
「お前のお母さんの下半分って焼け焦げてないけどさ、バランス的にここにもう一人くらい居てもよくねぇ? 隣のお姉ちゃんじゃなくって、離婚した母親について行った実のお姉さんとかだったりして?」
凛太は飛びつくように写真に近づき、凝視した。
「確かに……言われてみれば……そのくらいのスペースはあるけど……」
「おい、凛太」
「え?」
凛太は慎悟の顔を見た。慎悟の顔が歪んでいる。そうじゃない……凛太は自分の頬を熱いものがこぼれ落ちるのを感じて、自分が泣いているのだということを自覚した。慎悟は気をきかせたのか不自然な用事を急に思い出して帰り、凛太はその晩、もう一度『水の部屋』へとこもった。
翌日。慎悟の計画通り、二限の終わりに新語と佐和とを置き去りにした凛太は、隣の空き教室へと移動していた。
慎悟の告白も気になりはしたが、それ以上にあの写真にまつわることが気になっていた。凛太の見つめるスマホの画面には、恭太郎の電話番号が表示されている。昨日聞きそびれた幼い日のことを、火事について、隣のお姉ちゃんについて、改めて聞こうかどうかを迷っていた。迷っているだけなのに、またわけもわからず目頭が熱くなった凛太は目を閉じて、指で目じりをぎゅっと持ち上げた。指先に感じた水気を、指の腹で押し広げて散らそうとする。こんなところで昨日みたいに涙をこぼしたり、それを人に見られたり、そんな恥ずかしいことは避けたかったから。
凛太は深く息を吸い込み、吐き出す。それからおもむろに目を開けた。
「うわっ」
凛太の顔を見上げている人が居た。佐和だった。
「泣いてたの? 私が慎悟くんに取られると思って?」
「さ、佐和さん、な、なんですかっ。いつからここに居たんですかっ」
「わりとさっきから。で、取られる云々のところは顔色一つ変えずにスルーするクールな凛太くん。そこはお茶目に返してくれないと、お姉さんは一人でバカみたいですよ?」
「す、すいません……でも慎悟の前ではそういうの勘弁してください。あいつ、ああ見えても本気で佐和さんの」
佐和の人差し指が凛太の唇に触れ、凛太はそこでしゃべるのをやめた。
「友達の気持ちは大事にするのに、私の気持ちは大事にしてくれないわけ?」
凛太は思わず後ずさった。無意識に、だった。凛太の気持ちの中に、佐和への憧れのような感情がないわけではない。しかし慎悟への気遣い以前に、その手の感情がわずかでも凛太の中に湧き上がると、いつものように、好きになったらいけない、大切だと思ったら消えてしまう、そんな得体の知れない喪失感にも似た感情がどっと溢れてきて、ささやかな想いなど簡単に呑み込み、どこかへ押し流してしまうのだ。それゆえに時として同性愛者の噂が立つほど女性との距離感を保っている凛太なのだが、佐和はサバサバしていて異性という意識を普段持たないで済んでいたこともあり、唯一といっていいほど距離感の遠くない女性ではあった。その佐和が、普段言わないようなことを言っている……凛太は戸惑っていた。
凛太のそんな警戒ぶりに気付いたのか、それとも冗談が不発に終わったことを受け入れて流したのか、佐和はいつもの感じに戻る。
「真面目に聞くけど、何かあったの?」
「すいません、違うんです。何もないんです……でも、わからないんです」
しばらく凛太を見つめていた佐和が、突然ハンカチを取り出し、凛太へと手渡した。凛太はそこで、再び涙を流している自分を見つける。
「……すいません」
「気にしないで。でも……凛太くん。もしかしたら……私、凛太くんの涙の理由、知っているかもしれない」
「どういうことですか?」
佐和は言葉を探すように何度か口を開きかけて、やめ、それから心を決めたように話しはじめた。
「私、この大学へは三年次から移って来たの知ってるでしょ? 前に居た大学で那珂川恭太郎教授に習っていたことがあったの」
「那珂……え、親父に?」
「やっぱりそうなのね。那珂川って苗字は珍しいし、サークルの子が凛太くんのお父さん、大学教授だって言ってたし……私ね、那珂川教授から聞いたことあるんだ。悲しい、痛ましい、昔の話を」