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麻衣架

 麻衣架(まいか)は自分の呼吸音の大きさに驚いた。いつの間にか息を殺していた。見慣れているはずの廊下で、手が痛むくらいに両の拳をぎゅっと握りしめていたことにも気付く。黄昏が近い放課後。校庭に面した西棟三階には一年生の教室が並んでいるだけから、基本的にはこの時間に生徒の姿は見かけない。麻衣架は窓の向こう、中庭越しに見える東棟を見つめた。あちら側なら部室もあるし、こんなにうら寂しくはないのだろうけれど……彼女が今いる昇降口からたった四つ先にある自分の教室を、やけに遠く感じているのは、視界の隅にじわりと溶け始めた薄闇のせいばかりではない。彼女は先ほどから妙な音が付きまとっているのを感じていた。

 キュ。

 ゆっくりと踏み出した一歩、彼女の履く上履きのゴムの縁が床をこする音。体育の時間以外に耳に残ることはほとんどない。だが彼女が気にしているのはこの音ではない。慎重にもう一歩踏み出してみる。

 キュ。

 さっきから時折、この音のあとに別の音が続いていたのだ。高校の放課後に聞こえる音としては不自然さを感じる、幼い子どもの笑い声にすごくよく似た音。声じゃないかと言われれば声のようにも聞こえる何とも言い切れないナニカ。それとも、麻衣架が三階まで昇って来る間、彼女から離れ過ぎない距離をずっとついて来ているその得体のしれない音を、声だと認めたくないだけかもしれない。

 キュ。

 三階に上がって三歩目。数えていたわけじゃないけれど、階段を何歩か上がるたびに聞こえていたから……次あたりで聞こえるだろうか。

「気のせい、だよね?」

 彼女は一人ではあったが、あえて声に出してみた。そしておそるおそるもう一歩。

 キュ。

「上履きの音、ウケる」

 何か聞こえたとしても聞きたくない、そのくらいのボリュームで、かぶせ気味に出した声。しかし、彼女の声のあとに、音が続いた……今度は足音。さっきまでのぼんやりとした音ではなく、はっきりとした人の足音に聞こえる。誰かが忘れ物を取りに来たのだろうか。ホッとしていいのだろうか。それとも……。

 彼女はもう一度廊下を見渡した。隠れられるとしたら教室しかないだろうが、どの教室も扉は閉まっている。足音はまだ一つ下の二階あたりだろうか。扉の開け閉めで隠れたことはバレバレだろうが、少しでも時間を稼げれば……時間を稼ぐ? なにから?

「何やってんの私。そんなことあるわけないじゃない」

 麻衣架の声は、先ほどまでに比べて小さいものだったが、強さがこもっていた。怪しい音に惑わされて、大事なことを忘れかけていた。彼女がこんな時間にここへ来た理由を。

「全部、綾芽(あやめ)が悪いんじゃん」

 あの足音はきっと綾芽。教室へ自分を呼び出した張本人。麻衣架はそう決めつけて、足早に歩き始めた。待ち合わせ場所として指定されている教室へと……その矢先。

「しつこいって!」

 麻衣架は突然立ち止まって声をあげた。しかしその声は、彼女自身が出そうと思っていた声よりもずっと弱々しく、幼い子どもの笑い声のようなあの音をかき消せていない。麻衣架は自分の足から力が急に抜けるのを感じ、慌てて廊下の窓枠をつかんだが、両膝は廊下へと落ち、立ち上がれない。その場所で立ち止まりたいわけではないのに、むしろすぐにでも離れたいのに、どうしても力が入らない。

「どうしたの?」

 麻衣架の背後から人の声が聞こえた。男の人の声。麻衣架はその声を知っている。この高校へ入学して間もない頃、購買で大人気というメロンパンのラスト一個を同時につかみ、笑顔で譲ってくれた優しい先輩。背泳ぎで国体入賞経験まである拓斗(たくと)先輩は、その日以来、彼女の高校生活のど真ん中だった……あの事件が起きるまでは。

「……拓斗先輩?」

「あれ、キミって」

 拓斗は不思議そうな顔をしながら近づいてきた。そして麻衣架へ手を差し伸べる。麻衣架は制服の裾で慌てて手を拭いてから、拓斗の手にそっと触れた。自分の体温と先輩の体温とが触れ合っている。それだけで今日の全てが報われるくらいの幸せを感じた麻衣架だったが、その恍惚の表情は長くはもたなかった。

「やっぱり。綾芽ちゃんとよく一緒に居る子だよね」

 拓斗がそんなことを言ったから。裏切り者の綾芽は「ちゃん」付けで自分は「よく一緒に居る子」、その差が許せなかった。

「あ、もしかして、キミも綾芽ちゃんに呼ばれたの?」

 誰も居ない廊下に、屈託のない拓斗の声が響く。今ここに同時に存在する幸せと不幸、綾芽に対する怒り、そしていまだ拭い去れない謎の音への不安。複雑な感情と緊張のせいで表情がうまく作れなくなった麻衣架は、こくんと肯き、そのまま顔を伏せ続けた。

「じゃあ、一緒に行こうか」

 拓斗は、麻衣架の手を振りほどこうともせず歩き出す。手を引かれるままについて行く麻衣架は、拓斗の横顔をちらりと見上げた。不自然な素振りは見えない。聞こえてないのだろうか。再び彼女の耳にまとわりつきはじめたこの笑い声は、自分にしか聞こえていない音だと考えるしかないのだろうか。麻衣架は、拓斗の手にしがみつくように、指に力を入れた。


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