お名前を教えてください。
ここにたどり着くまでに一度も聞いてこなかったことを、さも重要なことであるかのように真剣なまなざしで語られても、もっと他に大切なことはいくらでもあるような気がする。
……例えば、目の前の書類の山とか。
否、そもそも冷静に考えて、ここまで人のことを拉致してきた人に友好的に自分の名前を教える奴はなかなかいないと思う。個人情報はできるだけ与えないに限るのではないか。
「えーと、俺ここで名前名乗らないとだめですか、絶対ですか?」
我ながらなかなか何を言っているのかわからないが、とりあえずこの人に自己紹介をできるだけしたくない。しないほうがいいような気がする。そもそもそんなに自己主張は激しくない。
「えっ」
否そんな明らかに傷つきましたみたいな顔しないでください、俺が悪いことしているみたいじゃんか……。違うんだよ、ここに来たのだってあなたに連れてこられたからであって、自分から進んでここに来たわけではないし、何なら俺は職員室を探している真っ最中だから、通常ルートに戻してくれてもいいんだ、逢坂先輩。
「……後輩君」
「はい」
「後輩君は、そんなに俺と仲良くしたくないの……」
反応女子か!!!!!
俺よりも二回りくらい大きな身体をもってそんな見目麗しいお顔立ちなのにどうしたその反応は!!!!!
あんたなら万人に好かれること間違いないでしょう!!!!!
なんでそんなに悲しそうな顔をするんですか本当に!!!!!
さながら雨に濡れた捨て猫のような感じなんだけど、隙をみせたら一瞬で喉元狙われそうな気がする。俺まだ死にたくないです母さん……。
「後輩君、このままだと、碧仁が泣いてしまうからもしよかったら名乗ってくれないか……。今のぼくたちには、あいつをどうにかする元気は残ってない」
そうでしょうね!!!!!
そうでしょうとも!!!!!!!
っていうか泣いちゃうんですか逢坂先輩。巷の女子たちが黙ってないと思うんですけど、残念ここは男子校なのであった。じゃあもう泣かせておけばいいのにという気持ちもないわけではないのだが、見目麗しい人が泣いているのはやっぱり良心が痛むような気がする。まだ泣いてないけど。ちょっと泣いてるところが見てみたいような気もするんだけど。
「逢坂先輩」
声をかけるとやっぱり不服そうに顔を上げる。本当に泣き出しそうな顔をしている。人間の目ってこんなにも涙を湛えられるんだな、とか検討違いなことを考える。
「俺の名前は、相楽彩月です」
とたん、美しい顔がきょとんとした表情になる。俺は小さくため息をついた。
だから、
「仲良くしましょう、碧仁先輩」
これだけは言わせてほしい。
断じてほだされたわけではない。
じゃないと悔しくてやってられない。