紅茶専門店
十月に入り、私は真っ先に退職届けを出した。
十月末までの勤務を終えたら、後は有給消化に入って、十一月末日で退社する予定だ。
長谷川には、人が足りないから一月までいてはどうかと打診されたが、私としてはハナから年内が我慢の限界だったので、いくら長谷川の頼みでも残るという選択肢は私にはない。
ちなみに長谷川はというと、繁忙期の一月までは年末年始や土日は出て後は有給消化の方向で話を進めているらしい。
さすが責任感の長谷川。私にはとうてい真似できない。
「辞めてから、働くまでパソコンの他に何するの」
人手不足の中残される長谷川が、少しブーたれながら聞いてきた。
私は待ってましたと胸を張って答える。
「まず、年末年始という物を味わってみたいね!
もう十年近く堪能してないからね!
あとは、旅行にも行きたいな!
もう少し暖かくなったら沖縄とか行ってみたいんだよねぇー!普段は台風でも来て飛行機飛ばなくなったら仕事に穴が開くからって我慢してたけど、無職ならイケる!できれば海外にもいってみたいし、あと、春には京都に花見とか行ってみたいね!いっつも花見の時期は忙しくて休み無いからね!それから……」
「分かった分かった、顔が近い近い」
「おや、失敬」
長谷川は呆れたように手を降って降参した。
いつのまにか熱が入って身をのり出していた私は、体を起こす。
とにかくやりたいことは一杯あるのだ。
何人たりとも私の邪魔はさせない……!!
体重はここしばらく65キロで行ったり来たりしていた。
私は体重計から降りると、結んだまま寝てしまっていた髪をほどいて頭をぽりぽりとかく。
うーん、さすがにここまで来るとそう簡単には減らなくなるなぁ。
でも焦りは特にわいてはこない。
なにせ、健康的な数値になったのだ。最近の私の危機感はすっかり薄れていた。
そもそも五十キロ設定って目標高すぎたかもしれないなぁ、と。
何だか六十キロくらいでいい気がしてきた……。
イヤイヤ、でも六十キロってだいたいLLくらいだ。
LLっていったら、確かに服の選択幅は8Lの頃に比べれば広がるだろうが、標準サイズには少し大きいような気がする。
やっぱりせっかく痩せるなら「華奢だね」って言われてみたい。
華奢……。それはなんて魅惑的な言葉なんだろう。
いまだかつて言われたことの無い言葉だ。
それに……そうだ、元々の私の目標は47キロだった。
何故かというと、高校生の頃クラスの女子たちが話しているのを聞いてしまったのだ。
「いやー、私けっこう重いからぁー」
「えー、でも五十キロは無いでしょー?」
「ナイナイ!それはさすがに無いよー!」
「だよねー!」
と。
当時すでに八十キロをマークしていた私はあまりの衝撃に耳を疑ったものだ。
五十キロって重いの!?
えっ、だって五十キロだよ!?
その後漫画のキャラクター設定で私と同じ位の伸長のキャラがだいたい四七キロであったことから、以前は目標を四七としていたのだ。
まあ、どう考えてもそんなにストイックにはなれないと思ったので、二十歳ごろに設定を五十キロに変更したのだが。
やはり、五十まではいきたいなぁ。
最初の目標だもんね。ぜひ達成して勝利の美酒に酔いしれたいってもんだ。
何はともあれ、今のところ順調に来たのだ。
焦りは禁物だ。
このまましばらく様子を見て、また減らないようなら少し考えるとしよう。
私は手帳に今日の体重を記録した。
今日はカフェのお兄さん、影井君と約束していた紅茶屋さんへいく日だ。
いつものカフェで待ち合わせて、駐車場に私の車を置かせてもらい、影井君の運転でお出掛けすることにした。
私は運転が嫌いだ。
右折なんていまだにビクビクする。
なので影井君が自分が運転すると言ってくれた時は、大喜びで話にのった。
思えば誰かと出掛けるときって、何故かだいたいが私の運転だったから、乗っけて貰えるのは新鮮だ。
影井君の車は黒の大型のボックスカーだった。
車が好きなんだそうだ。
私に好きな車を聞いてきたので「小回りが利く車」と答えた。
影井君は「何それー」と楽しそうに笑った。
私は車種名とかあんまり分かんないんだよねー……
何度聞いても覚えられないし。
それでも「可愛いな」と思う車は有るにはあるので、話を続けるためにその話をした。
「あ、でも顔の可愛い車と、丸い車を半分に切ったみたいな車を見たときは、可愛いなあって思ったよ?」
「えー、半円?何ていう車だろう?
あっ、ああいうの?」
「ううん。もっと目がクリッてしてる感じ」
「目ってなに……」
影井君が私の言った車当てを始めたりして、意外なことに話が盛り上がった。
知らなくても会話はできるもんだなぁ。
でも次に会うときには、好きな車の名前を調べてみようかな。
影井君とのドライブは私の心配をよそに、楽しく過ごすことが出来た。
ちょっと遠めの場所にある、田舎のこの辺では珍しい紅茶専門店につくと、11時を少し過ぎておりお客さんは他に一組しか入っていなかった。
私たちが窓辺の席に陣取ると、店主にしては珍しいくらい若い女の人がメニューを持ってきてくれた。
「どれがいいかなぁ?」
影井君が手作り感満載のメニューを見ながら聞いてくる。
「今頃のおすすめはなんですか?」
私はサクッと店長さんに話を振る。
「今ちょうど秋摘みのダージリンで香りの良いのが入っていますよ」
「じゃあ、それにしよっかな」
影井君はダージリンとサンドイッチを注文する。
「私はウバと……、あとクリームチーズとゴマのスコーンを一つずつで」
ここのスコーンは店長さんが毎日気分で焼いているので、来る度に違う味のスコーンがあるのが楽しいんだよね~。
店長さんが手作り感の溢れるメニュー表を持って下がっていったあと、影井君は注文した紅茶について質問してきた。
「佐川さんの頼んだ紅茶はどういう紅茶なの?」
「うーん、影井君のカフェでも話したけど、私は紅茶はよく飲むってだけで、味の違いとかまではあんまり分からないんだよね~」
私は味は大雑把に旨い不味いで判断しているだけで、ウバとディンブラの違いのような事は分からない。
強いて言えば……
「ダージリンは独特の香りを『シャンパンフレーバー』なんて言って、一般的にはとても人気のある紅茶なんだけど、私は実はあんまり得意じゃなくて。だから秋摘みのウバにしたの」
「えっ、そうなんだ。俺飲めるかなぁ」
「たぶん大丈夫だと思うよ~っ。
むしろダージリン苦手っていう人に今のところ出会った事無いくらいだもん!」
影井君がちょっと心配そうにするので、慌ててフォローする。
むしろ瑠璃にはダージリンが苦手でアッサムが好きなんて、残念な舌だと言われるくらいだ。
アッサム美味しいのに。上手に淹れられた時のあの特有の甘味がたまらないわー。
しばらくするとふんわりと良い香りをまとわせながら注文品が運ばれてきた。
影井君はダージリンをポットからティーストレーナーを使ってカップに注ぐと、一口飲んで驚きの声をあげた。
「うわ、美味しい」
「ほんと?よかった~」
思わずといった風に笑み溢れる影井君に私もほっと息を吐く。
最近は誰かにおすすめのお店を紹介して、素直に喜ばれたことがあまり無かったから、安心して気が抜けた。ミッション成功だ。
「それにポットにお茶っ葉が入ったまんまなんだね」影井君が意外そうに言う。
「そうだねぇ、最近は一定時間抽出したら茶葉は取ってあるお店がおおいよね。それはそれで安定した美味しさがあって良いんだけど、茶葉をそのまま淹れておくと、時間がたつにつれて変化する味や香りを楽しめるから、また別の美味しさがあって私は好きだな」
「なるほどねぇ~」
紅茶の香りを楽しみつつ、私は熱々のスコーンに手を伸ばす。
真ん中にヒビが入っているところから、バカっと半分に割り、断面にたっぷりと無花果のジャムを乗っける。
ぱくんと頬張ると、武骨な外見とは裏腹にホロホロと口の中で崩れていった。
そして更に、そこにミルクをたっぷり入れたウバを流し込む。
はうーん、たまらなぁい!美味しい幸せーっ!
「パソコンの資格の方はどう?順調?」
私が久しぶりのスコーンを五感を研ぎ澄まして堪能していると、影井君が椅子にゆったりと持たれながら聞いてきた。
「う~ん、実はあんまり進んでないけど……
まあでも、今月で仕事辞めるから、来月からはそっちに専念できる予定」
私が何の気なしにそう言うと、影井君は驚いて椅子から身を起こした。
「えっ、仕事辞めるの?!」
「うん。……あ」
そうか。
仕事を辞めるって事は、中抜けなんて無くなるってことで……
「そうなると来月からはたぶん、ほとんど影井君のお店に行けなくなっちゃうな……」
ぽそりと口から出た声は、自分でもビックリするくらい寂しげな声になった。
「佐川さん……」
「あっ、でもまたたまにお邪魔するから!
なんて言っても居心地良いし、あそこ」
しんみりしかけたので、慌てて明るくフォローする。
何だかんだで私、影井君のいるカフェに入り浸ってたからなぁ。愛着も湧くってもんだ。
「佐川さん、あのさ」
「うん?」
影井君はちょっとテーブルに身を乗り出すと、目を少し伏せた。
ん?どうしたどうした?
まさか財布を忘れたとかか?私が奢るって言ってるのに~。
あ、もしかしてトイレかな?
突き当たりを右です。
「俺と付き合わない?」
……………………。
………………………………??
はい?!