内藤という小飼
九月の終わりに病院に定期検診に行った。
久しぶりに会った看護師さんに「アラッ!痩せましたねぇ~」と褒められ、検査に案内される。
血液検査と尿検査だ。
まず血液検査室に向かうと、以前は必ず「いつもどこに射してますか?」と血管を探しながら聞かれるのに、今回はサクッと採血された。
検尿カップを渡されてトイレに行っても、もう腹肉で邪魔される事もないので、こっそりトイレの個室でパンツとズボンを脱いでアクロバット採尿をする必要もなかった。楽々手がとどく。
ああ、痩せているって本当に快適だ。
今ならレントゲンの時にいちいちmyレントゲン用ロングTシャツを持ち込まなくても、備え付けでいけるだろう。
婦人科の先生も内科の先生も手放しで褒めてくれた。
あんまりにも周りが褒めてくれるので、最近は自分が天狗になってしまいそうでちょっと怖い。
瑠璃が痩せたとき、物凄い上から目線で物を言うようになった時も嫌な気分になったし、優子が会った後に「せっかく助言してあげたのに独身女が焦ってた」とSNSに書き込んでいたのを見たときは血の気が引く思いをした。
何かを得た後は、得る前の気持ちを忘れてしまうものなのかもしれない。
ちなみに私は焦ってない。枯れてるだけだ。
受診が終わって、栄養指導に行く。
栄養士のお姉さんは、すっかり痩せた私を見て感動して涙を流してくれた。
私も「良かったですね、頑張りましたね」と泣きながら言われて、うっかりもらい泣きをしてしまった。
あんなに脂肪蓄えてすみませんでした。御手数お掛けしました。
芽生えたお姉さんへの厚い感謝に、私は固い握手をしてお礼を言うと栄養指導を卒業した。
病院を後にした私は、軽い足取りで本屋に向かった。
お気に入りの店内のカフェに行くつもりだ。
でもその前に……。
私は店内を回遊魚のごとく周回すると、目についた本を片っ端から手に取ってはパラパラと捲っていく。
心ときめく本に出会いたい。
胸が引き絞られるような感動や、未知の知識を得る喜び、くすぐったいような笑い。
連日のように本屋ハシゴをしているので、目新しいものがそうそう有るわけはないとは知りながらも、新たなる出会いを求めて止まない。
すると鞄のスマホが軽快な音をたてた。
取り出して画面を見ると、またも職場からだ。
どうせ出てもろな事にならないとは分かっているだけに、画面を見たときのストレスゲージはぐっと上がった。
胸が引き絞られるようだ。ストレスで。
絶対に休日出勤の要請だ。
むしろそれ以外の理由が思い浮かばない。
覚悟を決めるのに少し時間が必要だった。
そうこうしているうちに電話の呼び出し音が途切れる。
私は店外にでてスマホを胸の前で固く握りしめると、深呼吸をして電話をかけた。
「もしもし、佐川ですけど、今誰か電話しました?」
「もう、佐川ちゃん遅いよ!
人が足りなくて出て貰おうと思ったのに!
電話がなったら直ぐに出なさいよ!
常識でしょう!?」
げ、冥王か。厄介な……
「トイレで頑張ってたんですよ。トイレで電話なんて恥ずかしくて出られないでしょ」
「はあ!?出られるわよ!
佐川ちゃん社員なんだから!
社員としての自覚が足りないんじゃないの!?」
社員になると大便(失礼)の音声を聞かれるのもやむ無しなのか……。知らなかった。
私は今度冥王から電話があったらまたうでに口を当てて音をたてる事にした。
「それで、他に出られる人はいないんですか?
私は本社から出すぎって言われているんで、あんまり出られないんですよ。
もちろん、どうしても居なかったら出ますけど」
まあ、居ないだろうなぁとは思いつつ、いちおう聞いてみると、今日の冥王 は余程虫の居所が悪いのか、電話の向こうで火を吹いた。
「居ないから電話してるんじゃない!
もうっ!
内藤君が風邪引いて休んだのよ。だから5時から最後の片付けまでのシフトで出なさいよ!」
「はあ、またですか」
内藤匠は17歳のアルバイトだ。
冥王のお気に入りの子なのだが、これがとにかく休む休む。
週に3日入ってたらその内の1日しか出てこない。
風邪を引いた、学校が夜遅くまで終わらない、妹が熱を出した、家族旅行から帰って来れない、親戚の家に行くことになった等々、よくもまあ次から次えとへと思い浮かぶなと思うほどだ。
そしてそれらを全て冥王が受理する。
一度ダメだと断ったら「アルバイトをそんなにこき使うなんて!私がそんな非道な事は許さない!」と罵られ、電話を奪われ、休みの許可を勝手に出したあげくに、人がいないなら二倍働けと言って自分はさっさと定時で帰っていった。
店はもちろん回らなかった。
アルバイトたちは私の日はいくらでも休めると判断し、バイトは気分で来るようになった。
気の良い子たちはできるかぎりフォローしてくれてはいるが、この状態が長引けば良い顔もできなくなるだろう。
私は店長に内藤を辞めさせるか、シフトに極力入れないでくれと頼んだ。
店長は了解してくれたが、しばらくすると内藤本人が冥王を引き連れて店長に「自分はもっと働きたいです」と直談判したと聞いた。
そして恐ろしいことに店長がその要求を飲んでしまった。
私が店長に詰め寄ると「やる気があるみたいだし」などと小声でゴニョゴニョと言った。
内藤のシフトは週5になったが、やはり週に1回出れば良い方であった。
私がうんざりして言うと、冥王は必死にフォローを入れてきた。
「男の子は体が弱い物なのよ!」
それは何歳のこどもの話だろう……
「とにかく!出てきなさいよ!」
そう言って一方的に電話を切られた。
私は再び重いため息を吐いた。
準備をして仕事に行くと、冥王が満足そうに笑っていた。
店に入ると長谷川が驚いた顔をしてこちらを見た。
「なに、佐川さん今日休みでしょ」
私はビックリして聞き返した。
「は?え!?
冥……田中さんから昼に電話があって、内藤君が休んだから出てこいって言われたんだけど。
他にひといないからって。聞いてないの!? 」
すると長谷川は顔をしかめた。
「いや、聞いてないな……
内藤、またかよ。佐川さんも、自分よく来たねぇ」
「人がいないって言われれば来ないわけにいかないでしょうよ」
私はうんざりしたように言った。
「まあ、佐川さんが断れるわけないか。相変わらず口が立たないもんねぇ」
「残念ながら、ウチの会社最弱だろうね」
そして冥王の押しの強さは全店2位くらいらしい。
まだ上がいるとは……、世の中は恐ろしい。
「まあいいわ。田中さんには俺が注意しとくわ。
休みの電話があったら、まず社員に話すようにって」
「ありがとう。たすかるわ」
私はぐったりしながら言った。
長谷川は他の人みたいに「本来ならパートアルバイトには自分できちんと注意をして言うことを聞かせるべきだ!そんなんだから舐められるんだ!」などとは言わなかった。
これまでは他店で普通に従業員を纏めていたのを知っているからだろう。
しかし長谷川が理解をしてくれても、私は私が嫌いになった。
冥王の声が頭の中に響いて消えなかった。
「佐川さんは本当、どんくさいし物覚えは悪いし仕事はできないし。
やる気が無いんじゃないの?
そんなんだから、ほら、だーれもアンタの言うことなんか聞かないのよ」
次の日、シフトに内藤が入っていない日である事に安心して仕事をしていたら、内藤が満面の笑みで店に顔を出した。
「いやー、今日学校が短縮だって早く終わったんで食べに来ましたー」
昨日休んだことなど無かった化のような顔で「あ、佐川さーん、お疲れさまでーす」と手をふってくる。まるで仲の良い友達のような仕草だった。
冥王は「もう、本当憎めないわぁ」と言った。
私は心臓を握られたような冷えた気持ちになった。
周りの音が遠く聞こえる。
あんなやつ、気にするな。
怒りで動揺する自分に言い聞かせ調理を続けようとする。
しかし、急激に視界が霞んでくる。
悲鳴が喉元までせり上がるのを唇を噛み締めて堪える。
文句を言いたい。
アイツが泣いて謝るまで文句を言いたい!
でも言うだけ無駄だ。
冥王から一ヶ月くらいの期間で酷い虐めにあうだけだ。
仕事にもならなくなる。
今まで何度もそうだった。
またそんな状況になるのが辛すぎて耐えられない。
私が、ふがいないばっかりに……、文句の一つも言えないなんて……!
だめだ、このまま行ったら、みんなの前で泣いてしまう……!
私は手近にあった布巾をひっつかむと、食品庫で検品をしている長谷川に「ごめん、気持ちが悪い……」と言い残して、休憩室に引っ込んだ。
涙を我慢することで呼吸が荒くなる。
顔に布巾を押し当てて呼吸を整えていると、直ぐにやって来た長谷川は私の様子を見てしばらく休憩室で寝ているようにと言って仕事を引き継いでくれた。
お抑えきれずに漏れた嗚咽を、長谷川が熱のせいだと思ってくれればいいと思った。
しばらくするとまる子が休憩しに入ってきた。
ずいぶん早い夜休憩だと思ったら、長谷川に私の様子を見て来るように言われたらしい。
私は長谷川の気遣いありがたくも申し訳ない気持ちになった。
「はい、水汲んできましたよ」
まる子がジョッキを差し出してくる。
普段は入れている氷が入っていないなぁ、と思ったら「お腹が痛いって聞いたので、氷抜きにしときました」と言われた。長谷川め、誰が下り腹か。
私が休憩室にこもっている間に、長谷川が内藤を見つけ、私が昨日体調が悪いのに内藤の代わりに休日出勤したんだと、責任感のなさから他人が被る迷惑について説教したらしい。
途中、冥王に洗脳されている内藤が「でも佐川さんは社員だから代わりに出るのは当たり前」当の発言をポロっと漏らし、火に油を注いだそうだ。
辞めろと怒鳴られていたとまる子に聞いた。
「まあまあ、人が居ないから仕方がないから、内藤君にも頑張って貰わないと」
その後、冥王に言われた店長がとりなしたために、長谷川の怒りはさらにアップたらしい。
「人が居ない居ないって、店長が就任してから何ヵ月経ってると思ってるんスか。いい加減揃えてくださいよ。
そもそも何だかんだと理由をつけては店の事をほっぽりなげて、殆ど店舗に顔を出さないけど、飲み屋で遊んでるの目撃されてますよ。
そんないい加減だから、店がこんなに傾くんスよ!」
と店長にまで説教を始め、口で言い負けた店長はさっさと退散したらしい。
同じく口で言い負けた私としては複雑な心境になったが、いまや店にいる人数を全員投入しても(ポジションや、個々の都合上全員は出せないし、出しても意味がないが)土日は回せないほど人が足りなくなっている。
今年度いっぱいでさらに高校三年生がごっそり抜けるのに、いったいどうするつもりなのだろうというこの状況で、まだ遊び歩いて店舗には週に1~2回しか顔を出さないのだから、フォローのしょうもない。する気もないが。
夜の休憩を終えたまる子がポジションに戻るのに合わせて仕事に戻った私に、冥王が善人のような顔をしながらエプロンを脱いで近づいてきた。
「佐川ちゃんの代わりに、残っといてあげたのよー。
あーあ、こんど何わたしのお願いきいてもらおうかなぁーっ!ふふっ。
じゃあね、おっ先ーっ」
私はゾッとした。
そんな私の隣でまる子が「冥王もたまに優しいですよねー」と呑気に言った。
しかし私には冥王の発言をとてもじゃないが冗談として聞き流すことができなかった。
厨房に戻ると長谷川が何事も無かったかのように迎えてくれた。
ありがたいのと共に、ここでの仕事に自分の限界を感じた。
だし巻き玉子を手早く巻きながら、私は本格的に転職することを決意したのだった。