サローヤンに挨拶を
この世にとって、無駄とは省くべきものならば、僕をさっさと省くべきなのだ。つまはじきにしても、生きている限り醜くむごたらしく這いつくばって、僕はきっと生きようとする。そしてまた数多の人々が汗水たらして生み出した余裕の中で惰眠を貪ろうとするのだろう。
なぁ、殺してはくれまいか。ビニールの袋をくちばしで破きながら、ゴミを漁る烏を追い払うのではなく、ほんのちょっとの勇気と、目をつぶる暴力で、殺してしまうべきなのだ。
誰かが言う、それはあなたが死ぬ勇気を持っていないからだと。そいつは続ける、生きたくても生きれない人間がいるのだと。
僕は思う、死ぬことすらできない僕に何をしろというのかと。生きたくないのに生きている人間が、その可哀想な不運の代わりになれるのかと。いや、むしろ代われるなら代わりたいのだ、なんせこちらは、死にたくても死ねない人間と言えるのだから。
どうしてこうも、しょうもない人生だったのか。彼は思う。約二十年間、彼は無気力だった。勉学に励む事もなく、しかしそれでもある程度の学を修めた。周りの人間は駄目でも優秀でもない彼に、一切の関心を向けることはなかった。当然、運動に打ち込む事もなく、スポーツはしていたが、目立った成績もなければ、いずれ時が経った日には、それすら辞めていた。誰にも気にされることはなかった。
ふっと彼は思った。自分は存在すらできていないのではないかと、他人の目や脳に、自分という存在はどこにもいないのではないかと。そう思うと、彼を産んだ両親の態度でさえ、一歩引いて見え始めてしまうのだ。
次に彼は、自分を夜な夜な襲う不安に対し、心の病ではないかと考えた。病ならば克服ができる、もしかしたらこの病のせいで自分の存在はこの社会にとって希薄になり、消えかかっているのではないか。そうだ、これは社会一般の言う、鬱だとかそういう類いのものに違いない、と。
彼は本をめくりキーボードを叩き人に話を聞いた。しかしどこにも自分の心にあるモヤモヤへの答えや解決方法はなく、いっそそれに真剣に取り組もうとする彼の姿は、いたずらに勤勉さと映されるばかりであった。彼は再び胸をしめつける掴みようのない感覚を味わった。病ではないのなら、一体これは何なのだろうか。
その苦しさは、死ぬほどでもなければ、生きる活力を絶妙に奪うものであった。僕は気付かされた、僕はこの痛みと随分昔からいたのだと、今に始まった事ではなかったのだと。脳裏には様々な記憶が駆け巡った、何事にも無気力で、偶然それが手の平に落ちてきたとしても、握ることなく、風に吹かれ飛ばされていくのをただただ見つめる人生を。
哀しみが突如として、彼を襲った。胸を締め付けていた痛みは引いていた。そうだったのかと。
以前、自分は他人の世界に自分がいないのだと、考え至った。しかしそれは、ほんのちょっぴり間違っていたらしい。
自分の世界にすら、自分がいないのだと、彼は悟った。
途端に生きろ生きろと何の根拠も保障もなく叫び散らす社会の声が、聞こえなくなったように彼は感じた。彼は薄ぼんやりとしている、自分の手を眺めた。どうやら、耳もうっすらとしているらしい、この手でさえも、手が消えていくのか、それとも眼球が空気に溶け出しているのか、もはやわからない。
苦しみだけが残った。
僕は苦しみだ、僕という瓶に詰まっているのは、ただの苦しみや辛さだったんだ。
喜びなどどこにもなく、あれこれと他人や社会に一方的に流し込まれたこの真紅の液体は、苛むだけ苛んで僕を殺しはしない、苦しみだ。
苦しみは、部屋を飛び出した。誰にもぶつかることなくするりと抜け出し、大勢の人が歩く道を駆けた。誰も彼を見ていないのか、はたまた見えているのか、もう考える事すらなかった。風のように、濁った苦渋の霧が人と人の間を駆け抜けていく、それだけである。
彼はすでに人ではなかった。空気とまじりあった彼の眼球には、たくさんの綺麗なものが見えるようになっていた。生きるって素晴らしい、生きよう、沢山の綺麗なものが彼の周りを飛び交う。果ては鞘当てのように彼にぶつかり、何事もなく通り過ぎていく。
そうだ、そりゃそうだ。彼は苦しみに触れたことすら気付かず何処かへ進んでいく綺麗なものへ目をやった。アイツらは何も見ていないんだ、自分が綺麗ならきっと世界も綺麗だ。彼は走る脚を止め、そこに立ち止まった。
自分の手は、もうどこにもなかった。脚を動かしている気分はあったが、それもどこにもない。
アイツらは何も見えていないのなら、僕は何を見ているのだ。この世界では、アイツらのほうが正しい正しいと絶賛され、誰も口には出さないが正解のように扱われる。
僕の見ているものはなんなんだ。
そこは、いつもであれば人も多い、道の真ん中であった。
生きるように設計された身体に、死ぬように設計された魂が入れられ、それが数えきれないほど蠢いているじゃないか。だとすれば、この世界はどちらの味方なのだ。
投げかけるのは言葉だけ、手を差し伸べてもいつかは離す。それがこの世であったはずなのに、今そんなものはどこにも見えてはいない。
僕は間違いを見ているのか。僕は間違いの中で生きているのか。
僕は間違いのはずではないのか。
上辺の言葉だけの嘘っぱちが、僕を生かそうとした。胸にナイフを突き刺して、それを治療しまた突き刺す。僕がこの世界で受けてきたのはそういう行為だ。決して血は流れない、アイツらがそれを良しとしないから。赤色は目立つんだ、赤色は綺麗じゃないから、だから見えない方がいい。
苦しみは薄れているようだった。
彼は泣けはしなかったが、涙が零れ落ちたような気がした。
口はすでに切り開かれどこにもないが、彼は叫びたかった。彼がまだ人であった頃、彼の口や脳は多くの人間を傷つける言葉をこの世に産み落とした。確かに彼の精神は、争いやすかったし、自分の非を認めてもなお意地悪く傷つけ合おうとした。
だが社会は彼を殺してくれはしない。戒めなどに意味はなく、この世界の言う檻は、隙間が広すぎて善意の骨組みが欠如していた彼にとっては牢獄ですらなかった。
彼は苦しみですらなくなっていた。瓶の底は抜けていて、全てが流れ落ちている。空っぽになったガラスの破片は、何を見るでもなく、蠢く数多の生と死を眺める。
自分は動いているのか、何処へ向かっているのか、なにもわからない。ただただ、無であることを維持しようとしているらしい。傷つけた自分を、自分が傷つけた。今まで社会が刃物を抜き差しして身勝手に治してくれていたおかげで、僕はこの傷の治し方を知らない。
どばどばと、その穴から何かが流れ落ちている。綺麗ではないが、目を引くそれは、きっと大勢の人にも見てもらえるだろう。
なんで、今まで僕は見えなかったのに、僕の中身の方にはそんなに目をやるのだ。
やはり僕などどうでもいいのか。赤色は目立つもんな、そうだ、次に生まれることがあるのなら、赤い色になろう。なんでもいい、生きてさえいなければ、生きていることさえ考えられなければ。
彼は、動かなくなった。
眠ることが安らぎになってしまうような人生を、君らは送らないでほしい。
ただ座って何かを眺めるような人生を、君らは送らないでほしい。
陽の光を浴びることに意味はないよ。
辛い事に耐えられないのなら、逃げても良いのだろう。