郷愁
5年前に書いた短編を供養(´・ω・`)
「この音、消してくれませんか」
ヘッドホンから出力される音に、かすかな雑音が混じる。最初は聞こえるか聞こえないかくらいのものだったそれが、いまは波の音だとはっきりわかるほどになっていた。
「この音、消してくれませんか」
彼は繰り返した。絹のような空色の髪の毛の気弱そうな少年だったが、いまはその顔に確固とした意思をたたえていた。
「……ああ、わかったよ」
また最初からか。締観した顔の同僚たちはあからさまに僕の視線から顔を逸らし、少年は顔を伏せて無言になった。
僕は周囲を見渡していった。
「少し休ませようか」
窓を押し開けて新鮮な風に当たる。籠った室内の空気はどうしても人を憂鬱にする。僕はポケットからガムを取り出し、隣でぼんやりと景色を眺めている少年にひとつ分け与えた。
「……僕、波の音が嫌いなんです。懐かしく感じるのだけれど、同時になにか嫌な気分になる」
ふいに少年が口を開いた。窓から吹き込んでくる風に空色の髪がなびき、日差しが反射してきらきらと輝く。
「なにか思い出せた」
少年は首を振って、再び窓の外に目を移した。ここに来るまで緑色にきらめく木々なんて見たことはなかっただろうが、少年はたいしておもしろくもなさそうに目をしばたいた。努めて明るい顔をした僕の努力は空回りをして、四月の風に吹き飛ばされて消えた。
春の日差しが暖かかった。
……結局のところ、どうしようもなく、無駄なことだったのだ。
薄暗い廊下の突き当たりで、僕は少年がたたずんでいるのを見つけた。
「帰りたいのかい」
僕が控えめに声をかけると、背を向けたまま少年の髪が上下した。慰めたいのだけれど僕は結局なにもいうことができなかった。僕のなかで思いつく言葉はおしなべて、僕のなかで嘘になったから。
ふいに少年が振り返って、僕を見つめた。
「眠っていると、声が聞こえるんです。小さすぎて聞き取れないのだけれど、寂しい、帰ろう、っていってる気がした。貴彦さん、僕の故郷って、どこなんです」
少年の口調は取り立てて責めるものではなかった。しかし僕を見つめる真摯なまなざしは、僕に罪悪感を抱かせるのに十分だった。
「どうしようもなく、無駄なことだから……」
「どうして」
なにが、とは訊かないのか。僕は壁の上の方にある、小さな窓から差し込む陽光を見つめ、そこを横切る埃の数を数えていた。
「君の故郷は、はるかかなた。ここではない、もっと別の世界。きっともう、君が一生かかっても、たどり着くことはできないだろうね」
僕は顔をそむけて吐き出した。故郷とは、たとえどんなに嫌悪していても、同時に常に、心惹かれるものだ。ときとして郷愁は、抗いようのない寂寥をともなって僕らのこころに押し寄せてくる。僕の最後に目にした故郷もはるか遠く、記憶のきらめく海と地平線の間でゆらゆらと遊びまわっていた。
「結局人が死ななくても、かつて人のかたちをしていたものが死ぬのって、同じなんだ」
少年が身を固くした。
「人でなければいいの」
少年の言葉に射すくめられて、僕の思考は凍結した。
「…………いや」
嘘だった。
僕は少年に背を向けて、もと来た廊下を歩き出した。
少年は僕を追うことはしなかった。声をかけられることもなかったので、僕はこれでよかったのだと思うことにした。
*
誰もいない廊下に私の足音だけが響く。リノリウムの床に上履きの底がこすれて音を立てる。その床や天井、窓枠から壁に至るまですべてが色をなくして白く漂白されていた。
辺りは耳鳴りがするほどの静寂に包み込まれている。私の足音は校舎内をあぶくのように反響し、その変に籠った音に、私自身なぜだか水の中にいるような錯覚に襲われる。休校中の廊下はあまりにも無音で、世界に取り残された私は小さな声で歌を歌いながら歩く。
少しだけ、心細いと感じる。白くて静かな廊下で、窓から射し込む光だけが煌々と明るかった。
唐突に誰かの足音が聞こえて、私は我に返った。振り返ると、白い廊下にひとりの男子生徒が立っていた。頭のてっぺんから爪先まで石膏像のように白くて、しかし髪の毛が陽光を反射して、やけにまぶしかった。造形物にさえ見える彼は、鞄にくくりつけた風船を揺らしつつ、ヘッドホンを耳にあてたまま口を開いた。
「美しい色だね」
私は彼の言葉に、自分のいでたちを見下ろした。白い世界で、私だけはまだ色をなくしていなかった。私は黒い制服を着ていたし、私の肌は彼よりもまだ人間じみた肌色をしていた。
「美しい色だけど、もうこの世界では価値をもたない。ここでは色は知覚できないし、なによりそれを共有できる『人間』が、いまやぼくとあなたしかいないのだから」
私は流し台の蛇口から垂れる水滴にフォーカスした。水滴は私の姿を映して驚いたようにきらめき、そして排水口へと流れていった。
「……人間の認識は、どこまでも霊質に依存するものなんだ」
再び彼は歩き出して私の脇を通り過ぎ、私を静寂の中にひとり残して去った。しかし私の手にはいつの間にか、彼の鞄にくくりつけられていたはずの風船のひもが握られていた。
私は風の吹きすさぶ屋上にいた。なびく私の漆黒の髪は、彼のいうとおりもうこの世界では価値がなかった。眼下を見渡すと、ただ白い街並みだけがそこにはあったし、私の好きだった人びとも街もみな、元のままではなくなっていることだろう。漂白された世界は嫌にまぶしくて、なぜだか私だけがひどく汚れているように思えた。私はしばらくミニチュアのような白い街を眺めて、そのときはじめて当たり前すぎて気がつかなかった、空がとても青く澄みわたっていることを知覚した。
私は風船のひもを強く握り締めて、目を閉じた。まぶたの裏に、白い街の残像がくっきりと浮かぶ。私の知らない街なんて、必要なかった。
*
その日、私は色を捨てた。私の鮮やかな藍の風船はどこまでも広がる青い空にぶつかって弾け、私の色はこの世界から消えた。
*
ふと風が吹いたような気がして、私は目を覚ました。じんと首が痛んで、自分が机に頬杖をついて居眠りをしていたことを思い出す。時計は九時丁度を指し、閉め切られた教室で籠った空気が行き場をなくして私の周りでゆらゆらと漂っていた。
「……五月病かな」
吐息が静寂に包まれた教室に包まれて消えた。することもなく、私は光のない蛍光灯をぼんやりと見つめた。
「いいところですね、ここは。日射しが丁度よくて、昼寝にはうってつけの席だ」
思いがけない返答をもらって後ろの席に目をやると、空色の髪の毛にヘッドホンをつけた少年が、長い前髪をかきあげながらこちらへ笑いかけてきた。
「水を飲んできたらどうですか。眠気も覚めるのでは」
私は彼のいうままに、窓を押し開けて教室に外気を入れた。ほどよく冷たくて新鮮な空気が顔に当たり、深呼吸をすると体の隅々まで酸素が行きわたるような気がした。眠気を覚ますのならこれで十分だとは思ったが、私はいわれた通りに立ち上がって風通しのよくなった教室を横切り、廊下に出た。流し台は素通りして、ロビーの自動販売機へ向かう。
誰もいない廊下に私の足音だけが響く。リノリウムの床に上履きの底がこすれて音を立てる。その床や天井、窓枠も壁も、休校になるよりも前となにも変わっておらず、それがかえって誰もいないことによる違和感を際立たせていた。
部室棟と南棟のはざまでエレベータを待つ間、私の携帯端末は着信を示す振動を絶えず送り続けていた。私はポケットに手を入れて画面を見ずに電源を切った。彼女とはもう話さないと決めていたし、私の出した結論に、水を差されたくなかったから。
やがてエレベータが到着し、小気味よい音とともに扉が開いた。私は小声で音楽祭の課題曲を口ずさみながら足を踏み出す。
オレンジジュースをふたつ携えて教室に戻ると、少年はヘッドホンを耳に当てたまま机に伏せて寝息を立てていた。私は彼の隣の席に腰を下ろし、オレンジジュースのプルタブを起こして口をつけた。ひんやりとした甘い液体を舌の上で転がしながら、私は彼の髪に触れて指で梳いてみる。髪は缶と同じくらいひやりとしていて、私の手のなかで流れるように滑り落ちる。空色の色合いと相まって、まるで冷水に触れているようだ。
再び好奇心がわいて、私は彼の耳からヘッドホンをはずし、自分の耳に当ててみた。音楽らしいものはなにも聞こえなかったけれど、ただ、遠くでゆっくりと、規則的に繰り返す砂の流れるような音が聞こえた。不快ではなく、耳を澄ませていると、心がしずまっていくような音色。私はそれにしばらくのあいだ聞き入って、それが波の音だと気がついたのは、寝入っている彼の髪が窓からの風でさざ波のように揺れているのを見たからだった。
彼が少しだけ身じろぎをして薄くまぶたを開いたので、私はヘッドホンを彼の耳にそっと戻した。
「聞こえたの」
彼は机の上から上半身を起こして、静かな声で私に問いかけた。頬に張りついた髪を頭を振って払いのけ、ヘッドホンを自分の耳にかける。白いカーテンと、少年の髪の毛が一緒になって、風に揺らいだ。
「海……」
「そう」
私はオレンジジュースの缶を差し出した。缶には水滴がたくさん張りついていて、濡れた私の手はますます冷たくなった。
「これ、あげるわ」
*
教室はオレンジジュースと同じくらい橙色になって、黒板に書かれた日直の文字は、白のチョークで書かれたのか、橙のチョークで書かれたのかわからなくなっていた。
夕日の差している机ももうずいぶんと温かくなくて、私の座っている椅子だけがわずかに熱を持っている。
時計は最終下校時刻を指し示していたが、それを知らせる放送が流れることもなく、時計だけが私たちにそのことを教えてくれていた。
「ずっとこのまま、高校生でいたいと思ってたんだ」
彼が伏せていた目をこちらに向けた。
「それで私がみんなに訊いたら、みんなもそう思っていた」
「だからみんなで、それが最後にならないように、休校になるようなことをしたってわけなの」
「ずっと高校生でいられたのだけれど、最後に残ったのは結局、私だけだった」
私は黒板に爪を立ててひっかいてみた。きしきしと音を立てて爪が削れ、黒板にはうっすらと白い跡が残った。
私の郷愁は五月の風が吹き飛ばして通り過ぎ、白いカーテンが開け放たれた窓のそばで揺れていた。
春の日差しは心なしか寒々としていた。
*
私は風船のひもを握り締めていた手を開いた。身軽になった風船はにわかに舞い上がり、風が空っぽの指の間をすり抜けててのひらを乾かしていった。私の鮮やかな藍の風船はどこまでも広がる青い空にぶつかって弾け、私の色はこの世界から消えた。それと同時に、あるいは直後に、白くて清らかな世界に深い藍色の染みがぽつりと現れた。すぐにそれは空ににじんで混ざり合い、次いで現れた橙のにじみと重なった。それからぽつぽつと現れた色が風景を彩色しはじめると、無音だった世界は急速に日常の喧騒を取り戻していった。やがて最後のにじみが消えて、地平のはるか遠くまで明細に風景が見分けられるようになったころ、空色だった空は、混ざりすぎた色によって灰色にぼやけていた。
「あなたはどうするんですか、……色を失くして」
いつのまにそばにいたのか、風船を持っていた男子生徒の声が聞こえた。彼にいわれて初めて気がついた。私の体は張り終えたキャンバスのように白かった。対して彼は黒い学生服をまとい、空色の髪を風がやわらかく揺らしていた。
「……私はもう高校生でいることに飽きた。今や私にとってあなただけが心残りだけれど、あなたはあなたで自分の力であなたの故郷に戻れるのでしょう……」
彼がうなずくと、髪がさわさわとなびき、私はそれを見て、きれいだな、と思った。
風が吹いて、私は空に連れ去られた。私の体は幾筋もの光の束となって大気の渦に溶け込んでいった。私の姿が消える間際、彼はなにかひとこと放ったが、私の耳はすでになくなっていたので、私にその言葉は届くことなく消えた。
*
ふと風が吹いたような気がして、僕は目を覚ました。じんと首が痛んで、自分が机に頬杖をついて居眠りをしていたことを思い出す。時計は九時五分前を指し、閉め切られた教室で籠った空気が行き場をなくして僕の周りでゆらゆらと漂っていた。
「暑……」
僕はヘッドホンを外して首にかけた。耳あたりのよいヘッドホンのクッションと温かい四月の日差しがいまはとても鬱陶しくて、僕は左目にかかった前髪をかき上げつつ悪態をついた。唯一涼しげなのが、ヘッドホンから漏れ続ける波の音のような砂嵐だった。
「みづき、ホームルームとっくに終わってんだけど」
声のしたほうを振り返ると、後方の席に座った友人が、中途半端に長い髪の毛を三つ編みにしたりして遊んでいた。きりこというその友人は、頭を左右に振って編み込みをほどき、鞄を肩にかけつつ立ち上がって、なぜか転びそうになった。
「一限、どこだっけ」
「西棟第二講義室。こずえとはるが待ってるらしいからはやく行かないと」
「先行ってていいよ。すぐ行くから」
僕がいうと、きりこは携帯端末を閉じ、教壇を飛び越えて走っていった。
授業まではまだ五分ある。僕は授業に必要なものを自分の鞄のなかから探り出し、別の小さな鞄のなかに入れて立ち上がった。それからふと思いあたることがあって、ポケットのなかからひとつだけあったガムを取り出して口に放り込むと、きりこを追って教室を後にする。