――神子
「今、なんと言いましたか?」
罵声してやりたかったのに、自分から洩れ出た声は驚くほど細いものであった。恐らく、この結末をいつからか私は予想していたのだ。
「……貴女を元の世界へと帰すだけの力を持つ者が、この戦争で亡くなった。覚えておいでか。白い髪に赤い瞳をした少年を――」
その先は聞こえない。頭が真っ白になるというのは正にこういう事なのだろうと他人事のように受け止めていた。
ただ一つわかるのは、私は元の世界へと帰れないということだろうか。
「そこで、貴女には……こちらが紹介する、ある者と結婚して欲しいのだ」
「私に拒否権は」
「残念ながらない。だが貴女に悪いことをしてしまった自覚がある。婚約という形をとり結婚までは期間を設けよう。その間に彼の事をもっと知ってほしい――入れ」
王は手を振って合図をする。
入って来た青年に私は息をのんだ。この王宮で唯一笑みを浮かべてくれて、手を差し伸べてくれた恩人ともいえる青年であったからだ。てっきり執事とばかり思っていたのだが。自己紹介によるとこの国の宰相であるという。
推測だが、『悪いことをした自覚がある』という点から彼を宛がったのだろうと思うが、嬉しくもなんともない。結婚しなければならないという現実がのしかかり、他人事のように受け止めていた現実がより一層真実味を帯びてきた。
帰してよ、と言いかけた口を閉ざす。どうにか涙が零れそうになった顔に力をいれて王を睨むと、彼は苦い顔をしながら私から目を逸らした。
この国の宰相さまは、自分も強引に結婚を勧められたというのに、怒った素振りさえ見せなかった。結婚までの婚約期間には手を出さず、清い関係を続け、晴れの日は庭を共に散歩し、雨の日には良い茶葉を持ち昼食を共にした。そうして時は流れ、婚姻の日を迎えた。
平和の神子としてこの世界に呼ばれた私と、この国の上流階級に住む彼との結婚式は盛大なものになるらしい。宰相が王の友人ということもあり、ならば静かな場所にしてくれという小さな願いも叶えられることはなかった。
「……っ、酷い。帰して、…帰り、たい」
白いドレスを身に纏い、やっと独りきりになれた部屋の中で、私はついに耐え切れなくなった涙を零した。化粧が崩れると思ったが、どうせ綺麗に直される。ならば泣いたっていいではないかと自暴自棄になっていたのだ。
帰りたいと願わない日はなかった。これは夢だからと思い、必死に目をさまそうとしていた日々はぼんやりとしている。
帰りたいと呟く私に、宰相は悲しげに目を伏せるだけ。独りにして、顔なんて見たくない!と叫んだ日には私を宰相は抱きしめてあやす日々が続いた。
彼の腕の中、何度目を瞑ったのだろう。いつまでたっても、帰してやろうといってくれる人間は現れてくれなかった。
思い出すだけでも悲しくなり、私は癇癪を起した子供のように、綺麗に纏めてあった髪を指でかき混ぜ、装飾品をとり、鏡に向かって投げようとした。
――その時だ。
「お嬢様、失礼いたします」
一人の侍女が部屋の中へと入ってくる。頭にメイドキャップを乗せた、同じ髪の色の少女であった。洗練されたメイドとしての動きは、とても同じ歳くらいだとは思えないもので、印象に残っている。
一度だけ出身地を聞いてみたことがある。この世界には黒髪という人間は少ない。彼女は「東の小さな国で」とだけ言った。無口であるという印象もそのとき受けた。
侍女の手によりワゴンが押され、紅茶のカップが小さく音をたてる。涙を拭くことも忘れ、私は侍女を座ったまま見上げる。
特に髪や泣き顔を指摘されることはなく、静かに紅茶は用意された。甘い匂いが鼻孔をくすぐるものだから、気づけばそれに手を伸ばしていたのだ。指先がじわりと温まり、同時に目の前の視界がぼやけてくる。
「お嬢様、旦那様になられるあの御方は、とても素晴らしい方です」
淡々と、感情なんて籠っていないような声。それでも私は侍女がこういう話をすることに驚いていた。だから黙って頷いた。
侍女に旦那様と呼ばれていたあの人は、確かにいい人であった。婚約するために宛がわれたというのに、態度が変わることなく、穏やかな目で私を見ていた。恋人とするにも旦那にするにもいい人であることは以前からわかっていた。
だけど、今の今まで恋愛対象として見ることはできないでいる。自分はここに居るべき人間ではないのだから、いつか元の世界へと帰るのだからと、そう奥底で残っていた心が叫んでいた。
「……お嬢様、とある少女のお話を致しましょうか」
侍女はお代わりの紅茶を私のカップに注いだ後、菓子の入った小さな皿をテーブルに並べながら、口を開いた。
違和感を感じたのはその時。通常なら事務的な返事しかしたことのない彼女が『物語』を聞かせてくれると言う。
でも、もしかすれば励ましてくれようとしているのではないかと思ったからこそ私は彼女の『少女の話』を聞くことにした。
それを後悔するとも知らずに――。
◆ ◇ ◆
「貴女も座って。紅茶も自分の分はついで……」
「ありがとうございます。――さあ、はじめましょう。これはある少女のお話です。何も持たない一人の少女がいました。家も、家族も、……いえ、この世界に居る理由ですら彼女には与えられていない。そんな少女です」
抑揚のない声が、耳に気持ちいい。紡がれる『物語』に私は必死に耳を傾けていた。自分の身にいつの間にか重ねていたのかもしれない。無理矢理召喚され、王国の危機を救う者としての役割を果たし、それでも帰ることが叶わなかった「可哀想な」自分と。
何もなく放りだされた少女は、この世界で身分も言葉も――何も持っていなかったため、すぐに奴隷という身分に身を堕としました。首や足を鎖で繋がれ、痛めつけられる毎日に少女は涙を流します。いつしか涙を流すことを忘れ、傷だらけの身体を泥水で洗い流すことが少女の日常となりました。
そんな彼女にもようやく光が差し込む時がやってきました。
自分と背格好と顔の似た少女が、泥に塗れる少女を見つけ出したのです。
奴隷の少女を見つけた少女は下級貴族の娘でした。少女は自分に瓜二つの少女を買い取り、一緒の館で暮らし始めました。
服や食事を与えられ、世界を教えてもらい、文字や言葉を覚え、奴隷の少女はようやく人間だと認められるようになりました。
二人の少女の違いは髪の色と目の色だけ。奴隷の少女が髪を魔法で染めれば入れ替わったとしても、もう誰にもわかりません。
「少女は、ようやく心が癒されていくのを感じました。それもこれも全ては買い取ってくれた主である少女のおかげ」
「よかった。独りきりって寂しいものね」
ほっとして物語の途中にも係わらず、私は間に感想を挟んでしまった。これはあまりよろしくない。つまりはマナー違反であると以前母に怒られた記憶がある。
しかし咎める様子もなく侍女はこちらを一瞥し、同意するように頷いてくれた。
「ええ、その通りですお嬢様」
「遮ってごめんなさい。続けて…」
少女は幸せを実感できるようになりました。そんなある時です。少女はいつもと同じように主である彼女と入れ替わりました。少し気になるといえば、少し前に館周辺で見かけるようになった男が彼女と一緒に居たことと、見かけないバッグを持っていたことでしょうか。
夕方になったら帰る、という言葉を信じた少女は時間になっても帰って来ない主をいつまでも待ち続けました。
少女の世話を頼まれた女が館を訪ねた時に、床に倒れる少女を見つけたのです。少女はそのまま熱に魘され三日間寝込みました。
その後、独りきりになり大きな屋敷に残された少女はやっと気づきました。主と呼ばれた少女が見ていたのは彼女の愛する人、ただ一人だったと。幸いというべきか、親にも半ば見捨てられていた令嬢が入れ替わったことに誰一人気付かず、やがて奴隷の少女は立派な貴族令嬢となり、侍女としてお城に上がることができました。 おわり
私は呆然とその最後を聞いた。
幸せになったはずの少女は裏切りに再び絶望し、悲しみに打ちひしがれていた。幸せから一転して、不幸へのどん底。
残された少女はどんな思いで貴族令嬢として生きることを選択したのだろうか。
「……その女の子は、幸せになった?」
「どうでしょうか。少女の心は少女だけのものですから」
語られる物語の中では少女の幸福を知る事はできない。絶望を乗り越え、彼女は幸せに暮らせたかだろうか。はっきりとしない結末が私の心を重くした。
侍女は紅茶に手をつけないまま、視線を手元へと落としている。静かな部屋のなか微妙な空気が二人の間に流れた。
「貴女は、何故その話をしたの?」
私は長い沈黙をやぶり侍女に問い掛けた。不思議でならなかったのだ。彼女は何を言いたいのだろう。
私の問いには答えではなく、質問によって返された。
「失礼ですが、お嬢様は飢えを経験したことがありますか?理不尽な暴力や寒さに震え死を身近に感じたことは?」
「ない、と思う」
「元の世界では幸せに暮らしていらっしゃったのですね。――では裏切りにあい、もう歩けないという程の絶望を味わったことは?」
「……無い」
突然質問攻めにしてくる彼女に責められている気がして、段々と私は居たたまれなくなる。この世界に落ちる前も後も、十分な衣食住を与えられ危険も何もなかった。自由はあまりなかったけれど、親身になってくれる王や宰相がいたし、不安になるのは元の世界へと帰れるかというただ一点だった。
今更に守ってもらっていたのだと気付く。だけど、この世界に呼ばれさえしなければ、守ってもらう事もなかったのだとその気持ちがせめぎ合い、どうしても感謝することができない。
むしろそのくらい当たり前ではないかと思ったくらいだ。
眉を顰めているだろう私の手を侍女は自身の両手で握ってくれた。その暖かさに、私は顔を上げる。そこには優しさを纏った笑みを浮かべた、人間らしい顔をした侍女の姿があった。
「外の世界は物語の『少女』のように辛く悲しいことがあります。それを覚悟の上、自由を求めるならば私は貴女様が二番目に望んでいた『静かな場所』を用意いたしましょう」
「わ、わたしは…」
何も言えるわけもなかった。全てを包み込むような笑みを前に、私は必死に答えを探して、最後には首を横に振った。
物語の少女の苦痛や悲しみを想像しただけでも身体が震える。私が望んだ「静かな場所」とは、誰かに保護されつつ安全でぬくぬくと暮らせて行ける場所。
だけど、こう話を聞いてみて理解した。
彼女の「静かな場所」は、私が自立して全てを負う必要がある場所だ。だから頷けなかった。
「……了承致しました。今の言葉は侍女たる私の戯言だとお忘れください。では髪結いを呼んでまいります」
気付けば侍女の声は遠く、彼女は扉の前に立ち優雅に頭を下げた。先程までの温かな表情も声も、もうどこにもない。優れたメイドの筆頭である少女がいるだけだ。
しかし扉の向こうに消えて行く少女が何を思ったのか一度止まり、そして「お世話になりました」と言いながら艶やかに笑んだ。遠くから見てもわかるくらい、それはもう嬉しそうに。その笑みは私の胸を突きさし同時に、ソレが彼女の本当の顔だと女の勘が告げていた。
私が心の中で吹き荒れる感情に動揺している間に、その表情のまま彼女は『最後の言葉』を残し去っていった。
鍵が閉まる音で我に返り駆け寄っても、もう遅い。
「お願い、待って!……どういうことなの!!」
叫び声と拳を打ち付ける音に仕える侍女が駆けつけるその時まで、私は扉の前に縋り付きながら涙を流した。
「……わたしだけじゃ、なかったの?」
その問いに答えてくれる少女はもういない。